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親鸞 (歎異抄)高野山・空海 (性霊集)

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「智慧の完成」を実践したいと願ったときに。

摩訶般若波羅密多心経 (唐の三蔵法師玄装訳す)
    
(イヤホンの使用が望ましい)
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「高野山」 (専学院生によるお経)
], [サンスクリット語 YouTube
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「禅」(正法眼蔵) (修証義・ お経) (般若心経)
般若心経!と なりきって、大声を出して観よ、宇宙一杯の般若心経である。


四国霊場第七十五番礼所 善通寺 写経 (↑)

 Ta  dya thaa  ga  te  ga  te  paa  ra  ga  te
即説呪曰掲諦掲諦波羅掲諦 (タド ヤター ガテー ガテー パーラガテー)
 paa  ra   sam  ga  te   bo  dhi  sva  haa
波羅僧掲諦菩提僧莎訶 (パーラサンガテー ボデー スヴァーハー)

往け、往け、さとりの彼の岸へ 吾れ他ともに至り得て 「禅聖典」
生きとし生けるものは、幸福 であれ、安穏 であれ、安楽 であれ  「ブッダのことば 145」


秘密の呪文(真言) ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボデー スヴァーハー には不思議な力がある。(梵語)



摩訶般若波羅蜜多心経まかー はんにゃはらみーたー しんぎょう

観自在菩薩。かんじざいぼーさつ 行深般若ぎょうじんはんにゃ 羅蜜多時。はーらーみーたじ 照見五*蘊皆空。しょうけんごーうんかいくう 度一切苦厄。どーいっさいくーやく
When the Avalokitesvara (Independent vision), Bodhisattva was practising profound wisdom. he had an illuminating vision of the emptiness of all five aggregates. which saves from all woes and troubles.
(心性の自在を観察し得る人は、深広無辺の妙智に透徹するが故に、この身も心もなべて皆実相の姿なりと悟り、目前の虚相にのみ執われないから、一切の苦厄も障りとならなくなってしまう。)

舎利子。しゃーりーしー 色不異空。しきふーいーくう 空不*異色。くうふーいーしき 色即是空。しきそくぜーくう 空即是色。くーそくぜーしき 受想行識。じゅーそうぎょうしき 亦復如*是。やくぶーにょーぜー
Sariputra! Forme does not differ from emptiness. and emptiness does not differ from form. Form itself is emptiness. and emptiness itself is form. Sensation, notion, action and cognition. are also like this.
(真実求道の人々よ、この世にありては、物も心も悉く、実相の姿に過ぎないのだ。故に千差万別の世界も、そのまま真空妙有の相に外ならず、一切のはからいを超える処に、真実の悟りがあるのである。)

舎利子。しゃーりーしー 是諸法空相。ぜーしょーほうくうそう 不生不滅。ふーしょうふーめつ 不垢不浄。*ふーくーふーじょう 不増不減。ふーぞうふーげん
Oh Sariputra! These matters are market by emptiness. neither being born nor perishing. being neither soiled nor pure. neither increasing nor decreasing.
(道を求むる人々よ、一切のものは何一つとしてそのまま、永遠の生命、久遠の実在ならざるものは無いのだから、生まれたり滅びたり、垢れたり浄まったり、減ったり増えたりする如き分別は、元来少しも無いのである。)

是故空中無色。ぜーこーくうちゅうむーしき 無受想行識。むーじゅーそうぎょうしき 無眼*耳鼻舌身意。むーげんにーびーぜっしんにー 無色聲香味觸法むーしきしょうこうみーそくほう 無眼界。むーげんかい 乃至*無意識界。ないしーむーいーしきかい
For these reasons, there is in emptiness. no form nor is there sensation, notion, action or cognition. no eye, ear, nose, tongue, body, mind. no form, sound, smell, taste, touch, object. "There is no eye", &c., till we come to "there is no mind".
(故にこの悟りの上には、物も心も行いも、森羅万象尽く、有るが如くに見えて真実にあるのではない。)

無無明亦むーむーみょうやく 無無明尽。むーむーみょうじん 乃至無老死。*ないしーむーろーし 亦無老死尽。やくむーろーしーじん 無苦集滅道。むーくーしゅうめつどう 無智亦無得。むーちーやくむーとく
There is no Knowledge, no ignorance, no destruction of knowlege, no destruction of ignorance. till we come to "there is no decay and daeth, no destruction of decay and death". No woe, or its formation, or its suppression or the way there to no gnosis or possessed.
(どうして迷いの歎きに苦しみ、悟りの歓びに執われることがあろう。そのまま天地の真源に立ち、光明三昧の生き通しなのである。)

以無*所得故。いーむーしょーとくこ 菩提薩垂。ぼーだいさったー 依般若波羅蜜多故。えーはんにゃーはーらーみーたーこー 心無*罫礙。しんむーけーげー 無罫礙故。むーけーげーこー 無有恐怖。むうくふ 遠離一切。おんりーいっさい 顛倒夢*想。てんどーむーそう 究竟涅槃。くーぎょうねーはん
Since there is nothing to be possessed. the bodhisattva mahasattva, by depending no the perfect wisdom. (the bodhisattva mahasattva) has thought free of entrapment or obstacle. Since he has no entrapments or obstacles. having thus nothing to fear. he separactes himself from all perverse imaginings and dreamlike notions. achieving complete and final perfect tranquility.)
(かくの如く尊き妙智は、万象の真源に徹し、一切の分別と執着とを解脱しているが故に、かかる道理を体得した人々は、自ずから無位の真人となって物や心を自由に使いこなし、行住坐臥、心に礙りなく、従って目前の是非、本末を過ることがなく、心は常に大磐石である。)

三世諸佛。さんぜーしょーぶつ 依般若波羅蜜多故。*えーはんにゃーはーらーみーたーこー 得阿耨多羅三藐三菩提。とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい
The Buddhas of the three ages, by relying on perfect wisdom. have had the supreme enlightenment.
(諸仏菩薩も祖師先哲も、この真空妙有の妙智を体得せられているが故に、世にたぐいなき真実の悟りを得られたと云うことが出来る。)

故知般若波羅蜜*多。こーち はんにゃーはーらーみーたー 是大神咒ぜーだいじんしゅ 是大明咒。ぜーだいみょうしゅ 是無上咒是無等等*咒。ぜーむーじょうしゅぜーむーとうどうしゅ 能除一切苦真実不虚。のうじょいっさいくーしんじつぷーこ
Therefore, Know this greatly luminous magical charm. this unexcelled charm, this charm that is the equal of the unequalled. that can remove all woes that is real. not vain.
(されば、一切の分別と執着とをすて、天地の真源に徹する妙智こそは、不可思議の力をもち、万象を包む光明であり、世に優れたる神秘をもち、たぐいなき霊力を働かすものと云うべきである。かくて世のあらゆる苦厄を浄化し安穏ならしむること必j定である。)

故説般若波羅蜜*多咒。こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅ 即説咒曰。*そくせつしゅーわっ 羯諦羯諦。ぎゃーてーぎゃーて 波羅羯諦。はーらーぎゃーてー 波羅僧羯諦。はらそうぎゃーて 菩提薩婆訶。*ぼーじーそわか
般若心経はんにゃーしんぎょう
I will therefore pronounce the charm of perfect wisdom. It runs like this. Gone, gone, gone, beyond, gone altogether beyond, Oh! What an awkening, All Hail! (Gate gate paragate parasamgate bodhisvaha)
(この故に尊い妙智の功力を人々に体得せしむるため、これを呪文として次の如くに説かれている。  往け、往け、さとりの彼の岸へ、吾れ他ともに到り得てさとりの道を永遠に成就なん。)
訳-「禅聖典」より



観自在菩薩(観世音菩薩)が深淵なる「般若波羅蜜多(知恵の完成)」の修業をしていた時、
人間は五つの要素が集まって作られているが、それらの五つの要素はすべて「空(実体がない)」であるということを、はっきり認識して、観自在菩薩(観世音菩薩=観音)はすべての苦から脱却し、また人々をすべての苦から救って下さった。

舎利子よ、よく聞きなさい。形あるもの(身体を含むすべての物質的現象)は「空」と別のものではない。「空」であることと形あるものとは別のものではない。形あるものは「空」である。「空」が形あるものを作っている。受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(認識)で作られている心の働きというものも、 また、形あるものと同様に、実体ではないのである。

舎利子よ、よく聞きなさい。すべてのものは「空」という性質を逸れることはできない。生じることもなく、なくなることもなく、汚いということもなければ、きれいということもなく、増えるということもなければ、減るということもないのである。このゆえにこの「空」の世界においては形あるものというものもなければ、感覚・知覚・表象・意思・認識作用からなる心もなく、眼も耳も鼻も舌も身(感触)も意(考えの生じるところ)などもなく、色や形や音や香りや味や感触や法(意識の対象)などもなく、眼と見えるものとで作りあげられている世界もなければ、思う主体と思われる客体とで作りあげられている世界もなく、無明もなければ、無明がなくなるということもなく、また、老死と老死がなくなるということもない。

仏陀が教えてくれた苦に関する四つの真理(苦があること。苦には原因があること。苦は滅ぼすことができること。苦を滅ぼすには方法があること)もなく、悟りを得るための知恵というものもないし、また悟るということもない。得るべきことなど何もないからである。
菩薩は般若の知恵によって、心をとらわれるということがない。心にとらわれがないから恐怖というものがない。
すべての本末転倒した妄想から離れることができ、絶対的な安らぎの境地に至るのである。過去、現在、未来の三世の諸仏もみんな、般若の知恵によったが故に完璧な悟りを得られたのである。
だから、次のことを知るべきである。般若波羅蜜多は大いなる真言であり、明かりとなる真言であり、この上ない真言であり比べるもののない真言で ある。全ての苦を除くことを可能にしてくれる真実であって、虚偽ではないものである。

それでは般若波羅蜜多の真言を説こう。即ち、その真言とは次の通りである
「行った、行った、彼岸に行った、悟りよ、めでたし
Gone,gone,gone beyond,gone altogether beyonnd, Oh! What an awaening, All Hail!
(Gate gate paragate parasamgate bodhisvaha.)」

参考資料
声に出して読む般若心経 サンスクリット語・チベット語・日本語での読経CD付 (山名哲史(著))
あなただけの般若心経
般若心経脳ドリル 写経と読誦―学研
チベット僧侶によるチベット般若心経【お経】
般若心経 お経 日常のお勤め【お経】
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『般若心経』サンスクリット文(邦訳)の紹介

法隆寺に伝わった「般若心経」写本。これはサンスクリット語で書かれた古代インド写本で地上に保存されたものとしては世界最古のものである、八世紀後半。このように古いものはインド本国にも存在しない。

小本テキスト



参考資料
般若心経・金剛般若経 (ワイド版岩波文庫) (単行本) 中村 元 (翻訳), 紀野 一義 (翻訳)
般若心経 サンスクリット 動画検索



                 Namas  Sarvajn(〜)a(−)ya                  
                       ナマス サルヴァジュニャーヤ
                        帰命    一切叡智 

A(−)rya(−)valokites(’)varo    bodhisattvo  gam(.)bhi(−)ra(−)ya(−)m(.) prajn(〜)a(−)pa(−)ramita(−)ya(−)m(.)
アールヤー・ヴァローキテーシュヴァロー ボディーサットヴォ  ガンビーラーヤーム   プラジュニャー パーラミターヤーム 
 高貴なる   観自在             菩(提)薩(タ)     深妙なる     般若(本地太極の叡智) 波羅蜜多(完璧なる)

carya(−)m(.)  carama(−)n(.)o  vyavalokiyati      sma 
チャルヤーム    チャラマーノー   ヴヤヴァローカヤティ スマ  
(ヨーガ)行 を  行じている時、    看破する        した(過去形の助辞) 

pan(〜)ca skandha(−)s,  ta(−)m(.)s(’)  ca   svabha(−)va-s(’)u(−)nya(−)n  pas(’)yati  sma.
パンチャ  スカンダース  タームシュ    チャ  スヴァバーヴァ・シュニャーン     パシャヤティ スマ
五つの   集まり      それらは     正に        自性・ゼロ  (と)      見極める   た(過去形)

iha  S(’)a(−)riputra ru(−)pam(.)  s(’)u(−)nyata(−) , s(’)u(−)nyataiva  ru(−)pam.
イハ シャーリプトゥラ ルーパム     シュニャーター     シュニャータ イヴァ ルーパム   
ここでは、舎利子よ   色は         空なり          空は    実に  色なり      

ru(−)pa(−)n  na  pr(.)thak  s(’)u(−)nyata(−),  s(’)u(−)nyata(−)ya  na , pr(.)thag  ru(−)pam.
ルーパン     ナ プリタク     シュニャーター     シュニャーターヤ     ナ  プリタク   ルーパム
色         不  異なる     空             空             不   異なる   色 

yad   ru(−)pam(.)  sa  s(’)u(−)nyata(−),  ya   s(’)u(−)nyata(−)  tad   ru(−)pam.
ヤド   ルーパム    サー シュニャーター    ヤー シュニャーター     タド  ルーパム
〜である時  色    それは 空         である時  空          それ即ち  色    

evam   eva    vedana(−) - sam(.)jn(〜)a(−) - sam(.)ska(−)ra - vijn(〜)a(−)na(−)ni.
エヴァム エヴァ  ヴェーダナー サンジュニャー      サンスカーラ      ヴィジュニャーナーニ
同様に  全く    受        想               行          識   

iha   S(’)a(−)riputra  sarva-dharma(−)h(.)  s(’)u(−)nyata(−)-laks(.)an(.)a(−)
イハ  シャーリプトゥラ   サルヴァ・ダルマーハ    シュニャーター ・ ラクシャナー
ここでは 舎利子よ      諸法は                    空 相

anutpanna(−)    aniruddha(−)  amala(−)vimala(−)  nona(−)  na paripu(−)rn(.)a(−)h(.).
アヌットゥ・パンナー  ア・ニルッダー ア・マラ+ア・ヴィマラー  ノナー   ナ パリプールナーハ
不     生起    不 滅      不・汚穢+不清浄     不・損耗  不・増大  
tasma(−)c    Chariputra    s(’)u(−)nyata(−)ya(−)m(.)  na  ru(−)pam(.)  na  vedana(−)   na  sam(.)jn(〜)a(−)
タスマーチ  チャーリプトゥラ  シュニャーター ヤーム       ナ ルーパム     ナ ヴェーダナー  ナ サンジュニャー
それゆえ   舎利子よ        空     においては      無 色         無 受         無 想 

na sam(.)ska(−)ra(−)  na vijn(〜)a(−)nam(.).  
ナ サンスカーラー     ナ ヴィジュニャーナム   
無 行             無 識 

na caks(.)uh(.) - s(’)rotra - ghra(−)n(.)a - jihva(−) - ka(−)ya - mana(−)m(.)si,
ナ チャクシュフ  シュロートゥラ  グ(フ)ラーナ   ジーヴァ   カーヤー  マナームシ 
無   眼        耳        鼻          舌      身      意 

na ru(−)pa - s(’)abda − gandha - rasa - spras(.)t(.)avya - dharma(−)h(.),  na caks(.)ur-dha(−)tur
ナ ルーパ   シャブダ    ガンダ   ラサ    スプラシタヴヤ   ダクマーハ      ナ チャクシュル ダートゥル 
無  色      声        香     味     触          法           無  眼      界    

ya(−)van  na  mano-vijn(〜)a(−)na - dha(−)tuh(.).
ヤーヴァン  ナ マノー ヴィジュニャーナ ダトゥーフ 
 乃至(から) 無  意  識          界    

na vidya(−)  na(−)vidya(−)  na vdya(−)ks(.)ayo  na(−)vidya(−)ks(.)ayo
ナ ヴィドヤー ナーヴィドヤー   ナ ヴィドヤークシャヨー ナーヴィドヤークシャヨー
無 聡明     無知(暗愚)    不  聡明  尽きる    無知     尽きる(消滅)  

ya(−)van  na  jara(−)maran(.)am(.)  na jara(−)maran(.)aks(.)ayo  na duh(.)kha-samudaya-nirodha-ma(−)rga(−),
ヤーヴァン  ナ ジャラーマラナム     ナ ジャラーマラナクシャヨー   ナ ドゥフカ  サムダヤ ニローダ マールガ
乃至     無  老   死         不 老死      尽きる     無  苦     集    滅      道 

na jn(〜)a(−)nam(.)   na pra(−)ptih(.).
ナ ジュニャーナム     ナ プラープティフ 
無  智            無  獲得
tasma(−)d  apra(−)ptitva(−)d  bodhisattva(−)na(−)m(.)  prajn(〜)a(−)pa(−)ramita(−)m
タスマード  アプラープティトヴァード ボディーサットヴァーナーム プラジュニャーパーラミターム
それゆえ、  不獲得     なので(を以て) 菩薩     たる者  究極叡智   完璧なる 
a(−)s(.)ritya   viharaty a-citta(−)varan(.)ah(.).
アシュリトゥヤ    ヴィハラティー ア・チッターヴァラナハ 
依拠する(ことで)  住む      無・心・覆うもの

citta(−)varan(.)a-na(−)stitva(−)d   atrasto  viparya(−)sa(−)tikra(−)nto  nis(.)t(.)hanirva(−)n(.)ah(.).
チッターヴァラナ ナースティヴァード    アトラストー ヴィパルヤーサーティ・クラントー ニシタ・ニルヴァーナハ
心・覆うもの     何もない なので    不・恐怖   転倒した謬見  踏み越えて   遂に位する   涅槃に 
tryadhvavyavasthita(−)h(.)  sarva-buddha(−)h(.)  prajn(〜)a(−)pa(−)ramita(−)m 
トゥリヤドヴァ・ヴヤヴァ・スティターハ サルヴァ・ブッダーハ  プラジュニャーパーラミターム
  三世   何処にでも・居る     諸々の  仏陀は    究極叡智   完全なる
a(−)s(’)ritya(−)nuttara(−)m(.)  samyaksambodhim(.)  abhisambuddha(−)h(.).
アーシュリトゥヤーヌッタラーム       サムヤクサムボーディム アビラムブッダーハ
依拠して      無上の         正しく   全き覚醒境   円かに 現前させている

tasma(−)j  jn(〜)a(−)tavyam(.)  prajn(〜)a(−)pa(−)ramita(−)-maha(−)mantro maha(−)vidya(−)mantro
タスマージ  ジュニャータヴヤム   プラジュニャーパーラミター     マハー  マントロ マハー ヴィドヤーマントロ
それぬえ, (人は)知るべきである     完全究極叡智          偉大な  真言   偉大な  明智の真言 

'nuttaramantro 'samasama-mantrah(.),  sarvaduh(.)khapras(’)amanah(.).
(ア)ヌッタラマントロ (ア)サマサマ・マントラ  サルヴァ・ドゥフカ・プラシャマナハ 
無上の    真言  無 等しく並ぶ  真言   一切の  苦を  鎮める(ことができる)

satyam  amithyatva(−)t  prajn(〜)a(−)pa(−)ramita(−)ya(−)m
サティヤム アミト(フ)ヤトゥヴァート プラジュニャーパーラミターヤーム
真実の   虚偽にあらざるがゆえに   完全究極叡智に関して

ukto mantrah(.),    tad   yatha(−):
ウクトー マントラハ  タド  ヤター 
説かれた 真言   それは このようなもの

gate   gate    pa(−)ragate   pa(−)ra-sam(.)gate   bodhi     sva(−)ha(−)
ガテー ガテー  パーラガテー  パーラサンガテー     ボディ     スヴァーハー 
求法  弘法   貫徹  ぐ法   貫徹  全 ぐ法 (時)  本覚(神覚)  あれかし   
          (完遂)       (完遂)

iti Prajn(〜)a(−)pa(−)ramita(−) - hr(.)dayam(.)  sama(−)ptam.
イティ プラジュニャーパーラミター フリダヤム  サマープタム
ここに    完全究極叡智       心       終える 


参考資料
ローマナイズド・サンスクリット語版(梵語版)の般若心経」に馴染む(般若宗空王寺、碧海龍雨長老の仏教解釈)



全知者である覚った人に礼してたてまつる。
求道者にして聖なる観音(聖アヴァローキテーシュヴァラ)は、深遠な智恵の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見きわめたのであった。
シャリープトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(ありうるの)ある。 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。 (このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのである。 これと同じように、感覚も、表象も、意思も、認識も、全て実体がないのである。
シャリープトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。 生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャリープトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、認識もない。眼もなく、(耳もなく)、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の識別の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
それゆえに、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、おおいなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)
ここに、智慧の完成の心が終わった。
「般若心経」岩波書店(中村元訳), 携帯まんどぅーかネット

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『 般若心経 』サンスクリット (梵語)小本テキスト
巷間二六六文字に凝縮された・・・と般若心経はもてはやされ、解釈に関する本は溢れています。でも、二六六文字の解釈よりも本当は発音、発声に深い意味があるように思えてなりません。そんなわけで、梵字の般若心経と、その発音と対応する漢訳の般若心経を載せてみます。

    Na  Mah  Sa  rva  junya  ya  (ナマス サルヴァジュニャーヤ
 (帰命一切智者)
 A  ryaa  va  lo  ki  te  shva  ra  bo  dhi  sa  ttvo  (アールヤー・ヴァローキテーシュヴァロー ボディーサットヴォ
 観自在菩薩
 gam bhi  ra yaam  pra junya  paa  ra  mi  ta yaam  (ガンビーラーヤーム プラジュニャー パーラミターヤーム
 行深般若波羅蜜多
 cha ryaam cha  ra  maa  no  (チャルヤーム  チャラマーノー
 時
 vya  va  lo  ka  ya  ti  sma  (ヴヤヴァローカヤティ スマ
照見
 Pa ncha ska ndhaah taam shcha sva bhaa va  (パンチャ スカンダース タームシュ チャ スヴァバーヴァ
五蘊皆空
 syu nyaa  n  pa  sya  ti  (シュニャーン パシャヤティ
度一切苦厄
  I   ka  shaa  ri  pu  tra  (イハ シャーリプトゥラ
舎利子
 ruu  pam shu  nya taa  (ルーパム  シュニャーター
(色即空)
 shu nya  tai  va  ruu  pam  (シュニャータ イヴァ ルーパム
(空即是色)
 ruu  paa nna  pr  tha  k  shu  nya  ta  (ルーパン ナ プリタク シュニャーター
色不異空
 shu  nya  taa  yaa  na  pr tha  gruu pam  (シュニャーターヤ ナ プリタク ルーパム
空不異色
 ya  druu pam  saa  shu  nya  taa  yaa  (ヤド ルーパム サー シュニャーター ヤー
色即是空
 shu  nya  taa  ta  dru pam  (シュニャーター タド ルーパム
空即
  E  va  mee  va  (エヴァム エヴァ
是色
 ve  da  naa  sam junya  (ヴェーダナー サンジュニャー
受想
 sam skaa  ra  vi junyaa naa  ni  (サンスカーラ ヴィジュニャーナーニ
行識亦復如
  I  ka  syaa  ri  pu  tra  (イハ シャーリプトゥラ
是舎利子
 sya  rva  dha rmah shu  nya  taa  la  ksha naa  (サルヴァ・ダルマーハ シュニャーター ・ ラクシャナー
是諸法空相
  a  nu  tpa nnaa  a  ni  ru  ddhaa  (アヌットゥ・パンナー ア・ニルッダー
不生不滅
  a  ma  laa  na  vi   ma  la  noo  (ア・マラ ナ・ヴィマラー  ノナー
不垢不浄
 na  pa  puu rnaah  (ナ パリプールナーハ
不増不減
 Ta smaa chaa  ri  pu  tra  (タスマーチ  チャーリプトゥラ
是故(舎利子)
 shuu nyaa taa yaam  (シュニャーター ヤーム 
空中無色
 na  ruu  pam  na  ve  da  naa  (ナ ルーパム ナ ヴェーダナー
無色 無受
 na sam junyaa na  sam skaa  ra  (ナ サンジュニャー ナ サンスカーラー 
無想 無行
 na  vi  junyaa na  ni  (ナ ヴィジュニャーナム  
無識
 Na cha kshuh shuro tra ghuraa na  ji hvaa  (ナ チャクシュフ  シュロートゥラ  グ(フ)ラーナ   ジーヴァ 
無眼耳鼻舌
 kaa ya  ma naam  si  (カーヤー  マナームシ 
身意
 Na  ruu  pa  sya bda  ga  ndha  ra  sa  (ナ ルーパ シャブダ ガンダ ラサ
無色声香味
 spra shta vya dha rmaah  (スプラシタヴヤ ダクマーハ
触法
 Na cha kshur dhaa tur  (ナ チャクシュル ダートゥル
無眼界
 yaa  va nna   ma  noo   vi  junyaa  na  dha  tuh  (ヤーヴァン ナ マノー ヴィジュニャーナ ダトゥーフ 
乃至無意識界
 Na  vi  dyaa naa  vi  dyaa na  vi  dyaa ksha yoo  (ナ ヴィドヤー ナーヴィドヤー ナ ヴィドヤークシャヨー
無無明亦無無明尽
 naa vi  dyaa ksha yoo  (ナーヴィドヤークシャヨー
無知尽
 yaa va  nna  ja  raa  ma  ra  nam  (ヤーヴァン ナ ジャラーマラナム 
乃至無老死
 na  ja  raa  ma  ra  naa ksha yoo  (ナ ジャラーマラナクシャヨー 
亦無老死尽
 na  duh kha  sa  mu  da  ya  ni  ro  dhaa maa  rgaa  (ナ ドゥフカ  サムダヤ ニローダ マールガ
無苦集滅道
 na unyaa nam  na  praa pti  r  (ナ ジュニャーナム ナ プラープティフ
無智亦無得
 apraa pti tvee  na  Boo dhi  sa  ttva sya  (アプラープティトヴァード ボディーサットヴァーナーム 
以無所得故菩提薩
 pra junyaa paa  ra  mi  taam  a  syuri tya  (プラジュニャーパーラミターム アシュリトゥヤ
般若波羅蜜多故
 vi  ha  ra  ty  a  chi ttaa  va  ra  nah  (ヴィハラティー ア・チッターヴァラナハ 
心無
 Chi ttaa  va  ra  na  naa sti  tvaa  da  tra stoo  (チッターヴァラナ ナースティヴァード アトラストー
礙故無有恐怖
 vi  pa  ryaa saa  ti  kraa ntoo  (ヴィパルヤーサーティ・クラントー
遠離一切顛倒
 ni shttha  ni  rvaa nah  (ニシタ・ニルヴァーナハ
夢想究竟涅槃
Trya dhva vya va  sthi taah  sa  rva  bu ddhah  (トゥリヤドヴァ・ヴヤヴァ・スティターハ サルヴァ・ブッダーハ 
三世諸仏依
 pra junya paa  ra mi  taam  aa syuri tyaa  (プラジュニャーパーラミターム アーシュリトゥヤー
般若波羅蜜多故得
 nu  tta raam   sa  mya ksam  (ヌッタラーム サムヤクサム
阿耨多羅三藐
 boo dhi  m  abhi sam  bu ddhaah  (ボーディム アビラムブッダーハ
三菩提
 Ta smaa j junyaa ta  vyu pra junya paa  ra  mi taa  (タスマージ ジュニャータヴヤム プラジュニャーパーラミター
故知般若波羅蜜多是
 ma haa  ma ntro ma haa  vi  dyaa ma  ntro  (マハー マントロ マハー ヴィドヤーマントロ
大神呪是大明呪是
 nu  tta ra  ma ntro  sa  ma  sa  ma  ma ntrah  (ヌッタラマントロ サマサマ・マントラ
無上呪是無等等呪
 sa rva du h  kha  pra  sa  ma nah  (サルヴァ・ドゥフカ・プラシャマナハ 
能除一切苦
 sa  tya  m  ami thya tvaa  t  (サティヤム アミト(フ)ヤトゥヴァート
真実不虚故
 pra junyaa paa  ra  mi  ta  yaam U  kto  ma ntrah  (プラジュニャーパーラミターヤーム ウクトー マントラハ
説般若波羅蜜多呪
 Ta  dya thaa  ga  te  ga  te  paa  ra  ga  te  (タド ヤター  ガテー ガテー パーラガテー 
即説呪曰掲諦掲諦波羅掲諦
 paa  ra   sam  ga  te   bo  dhi  sva  haa  (パーラサンガテー ボディ スヴァーハー
波羅僧掲諦菩提僧莎訶
 I   ti   pra junyaa paa  ra  mi  taa  (イティ プラジュニャーパーラミター
般若心経
 hri  da yam  sa  maa ptam  (フリダヤム  サマープタム
心 終

参考資料
サンスクリット 般若心経 (梵字)
サンスクリット語、中国語、韓国語の「般若心経」(聴く)

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『般若心経』の種類

『般若心経』も例外ではなく、最初に作られてから、原典そのものが数百年間にわたって改変、増広を受け、その上翻訳も一度きりではなく何度もなされてきました。そのため、『般若心経』といっても何種類もの『般若心経』が現存しています。まず、形式の上で分けると大本(広本)、小本(略本)という二種類があり、さらに原語のサンスクリット語以外に、漢訳されたもの、チベット語訳されたものなどが伝わっています。以下に示してみましょう。

サンスクリット写本
  • 小本
    1. 法隆寺の貝葉心経 八世紀初め、あるいは八世紀後半に書写したもの
    2. 浄厳の写本 一六九四年に法隆寺本を写したもの
    3. 阿叉羅帖本 一八五九年頃に法隆寺本を模写したもの
    4. 慈雲の刊本 一七六二年頃に法隆寺本を復元・訂正したもの
    5. 1〜4以外の写本約五種
    6. 澄仁本 最澄が八〇五年に、また円仁が八四七年にそれぞれ持ち帰ったものを校訂して一本としたもの 一三五二年頃に筆写したものが現存  この系統に属する写本が約九種現存
    7. 敦煌本 敦煌出土で、サンスクリットを漢字で音写したもの 『大正新脩大蔵経第八巻』、八五一〜八五二頁に所収
    8. 玄奘本 日本に伝承されてきた7と同系の写本
    9. 御室本 一七六二年出版
    • 大本
      1. 日本伝来のもの 慧運が八三八(八四二)〜八四七年の入唐の際に持ち帰ったもの
      2. 中国伝来のもの 1とほぼ同じもの
      3. ネパール伝来のもの 一八三六年に写したもので、 河口慧海が持ち帰ったもの
      4. チベット語訳 ほとんどが大本に相当し、二系統ある
      5. モンゴル語訳 大本に相当
    漢訳
    • 小本
      1. 鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明呪経』一巻 四〇二〜四一三年翻訳 『大正蔵第八巻』No.250、八四七頁下段。
      2. 玄奘訳『般若波羅蜜多心経』一巻 六四九年翻訳 『大正蔵第八巻』No.251、八四八頁下段。
      3. 現在読誦されている『摩訶般若波羅蜜多心経』の元
    • 大本
      1. 法月重訳『普遍智蔵般若波羅蜜多心経』一巻 七三八年翻訳 『大正蔵第八巻』No.252、八四九頁上〜中段。
      2. 般若・利言等訳『般若波羅蜜多心経』一巻 七九〇年翻訳 『大正蔵第八巻』No.253、八四九中〜八五〇頁上段。
      3. 智慧輪訳『般若波羅蜜多心経』一巻 九世紀中頃翻訳 『大正蔵第八巻』No.254、八五〇頁上〜中段。
      4. 法成訳『般若波羅蜜多心経』一巻 八三六〜八四三年頃翻訳 『大正蔵第八巻』No.255、八五〇中〜八五一頁上段。
      5. 不空音訳『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』一巻 8世紀音訳 『大正蔵第八巻』No.256、八五一上〜八五二頁上段。
      6. 施護訳『聖仏母般若波羅蜜多心経』一巻 九八〇◯九八六年頃翻訳 『大正蔵第八巻』No.257、八五二頁中〜下段。
    このように、『般若心経』はサンスクリット語の原典の写本が数多く現存し、また三種類の言語に翻訳されています。その中でも、漢訳は五世紀の初めから十世紀の終わりまで、五百年以上にわたってなされてきました。このことは、中国においていかに『般若心経』が重要なお経であったかを示していると思います。

    ところで、漢訳について見てみると、小本の二本は内容の上で問題にするほどの違いはありません。

    また、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』の一七四頁から一七五頁には、上述のサンスクリット写本・小本1法隆寺の貝葉心経と8玄奘本とを元に構成したサンスクリット語のテキストが掲載されており、その翻訳が玄奘訳の読み下しと並べて載せられていますが、内容の上では差がありません。

    さらに、不空の音訳を除く大本の五本も内容の上では違いはありません。

    ところで、大本には小本の前に、序分と呼ばれる前文があり、後に、流通分と呼ばれる結びの一文が付け加えられています。すなわち、大本は「お釈迦様が多くの弟子や菩薩とともに王舎城の霊鷲山上におられ、瞑想に入っておられ、そのときに」という、いわば場面設定の部分に続いて小本とほとんど一致する本文があり、その後に「お釈迦様が瞑想から出て、観自在菩薩を称讃すると、その場に集まっていたすべての者たちがお釈迦様のことばに歓喜した」という一文で締めくくられるという形になっています。

    このように、『般若心経』の中心課題について、大本は小本に何ら付け加えるようなものはないのです。

    詳細は、後ほど触れることになると思いますが、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』の一八一頁から一八四頁に、サンスクリットの大本『般若心経』の全文の翻訳が載っていますし、金岡秀友校注『般若心経』には一九六頁から一九七頁に漢訳の大本『般若心経』の序文と流通分の日本語訳が掲載されていますので、興味のある方はご参照ください。


参考資料
『般若心経』の種類


大本テキスト





W本として法隆寺本と並べて出版されている。(参考に紹介する)

※できる限り仏教専門用語訳を排して訳してみた。宗教・哲学的な意味はまったく考えていない。
一切を知った方に敬礼します
このように私は聞いた。
あるとき世尊は、ラージャグリハ(王舎城)のグリドラクータ山(霊鷲山)で、比丘(乞食行者)たちの大きな集団と、そして菩薩(求道者)たちの大きな集団とともに遊行していた。
まさにそのとき世尊は「深い悟り」という名の深い瞑想に入った。そしてその時に、摩訶薩(高潔の士)である聖なる観世音菩薩が深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行を実行しながら「5つの区分があり、そしてそれらを空虚である」と見極めた。 すると長老のシャーリプトラは、仏の力によって、聖なる観世音菩薩にこう言った。 「誰でも、有徳の男子で、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行をしたいと思う人は、どのように教えられるべきか」 このように言われた摩訶薩である聖なる観世音菩薩は、長老であるシャーリプトラにこう言った。 「シャーリプトラよ、誰でも、有徳の男子あるいは有徳の女子であって、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行をしたいと思う者は、このように見極めるべきである。
5つの区分があり、そしてそれらを空虚であるとみなした。形は空の状態であり、空の状態であるものこそ形である。空の状態をもつものは形と異ならず、形は空の状態をもつものと異ならない。形であるものが空の状態をもつものであり、空の状態をもつものが形である。知覚や知識や浄化の行や識別も、このように空の状態である」
「シャーリプトラよ、このように、すべての徳性は、空の状態という特徴を持っており、生じないし、消滅しないし、汚物はないし、純粋でもないし、より少なくもならないし、満たされることもない。 シャーリプトラよ、それゆえにその時、空の状態においては、形はないし、知覚もないし、知識もないし、浄化の行もないし、識別もない。目もなく耳もなく鼻もなく舌もなく身体もなく心もなく、形もなく音もなくにおいもなく味もなく触れられるべきものなくも徳性もない。目の要素もないし、はては心の要素もなく徳性の要素もなく心や知識の要素もない。知識もないし、知識がないこともないし、はては老いて死ぬこともなく、老いて死ぬことの滅亡もない。不幸も結合も破壊も道もなく、知識もなく、取得もなく、取得しないこともない。 それゆえ、得られないということのために、菩薩たちの智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)に頼って、心がおおわれることなく楽しく行く。心に覆いがないことによって怖れず、転倒を超越して涅槃に専念している。 三時(過去、現在、未来)に留まっている仏たちはみな、智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)に頼って、正しい悟りを完全に悟った。 それゆえ人は知るべきだ。智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)の偉大なる呪文は偉大な知識の呪文であり、最も優れた呪文であり、同等のものがない呪文であり、あらゆる苦しみをいやす呪文である。偽りがないから真実であり、智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)を意味して説かれた呪文である。 その呪文とは
「シャーリプトラよ、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において、菩薩はこのように学ぶべきなのである」 観世音菩薩の説明によって、まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がり、聖なる観世音菩薩に「よくやった」という賛辞を与えた。 「よくやった! よくやった! 有徳の男よ! これはこのとおりだ、有徳の男よ! 人は、まさにそのように、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行をすべきである。あなたが指示したとおりに、如来たちや阿羅漢たちは是認している」 世尊は喜びの心でこう言った。 長老であるシャーリプトラと、聖なる観世音菩薩と、その一切の会衆と、天・人・アシュラ・ガンダルヴァを伴う世界とが、世尊の言葉を喜んだ ……と私は聞いた。 智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)の心の経が完成された。
「般若心経」岩波書店(中村元訳), 携帯まんどぅーかネット

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『般若心経』サンスクリット(原文)大本テキスト
できる限り仏教専門用語訳を排して訳し、宗教・哲学的な意味はまったく考えていない。



  • 一切を知った方に敬礼します


  • このように私は聞いた。


  • あるとき世尊は、ラージャグリハ(王舎城)のグリドラクータ山(霊鷲山)に遊行していた。


  • 比丘(乞食行者)たちの大きな集団と、そして菩薩(求道者)たちの大きな集団とともに。


  • まさにそのとき世尊は「深い悟り」という名の深い瞑想に入った。


  • そしてその時に、摩訶薩(高潔の士)である聖なる観世音菩薩が


  • 深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行を


  • 実行しながらこのように見極めた。


  • 5つの区分があり、そしてそれらを空虚であると見極めた。


  • すると長老のシャーリプトラは、仏の力によって、聖なる観世音菩薩にこれを言った。


  • 誰でも、有徳の男子で、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において〜者は、


  • 修行をしたいと思う人は、どのように教えられるべきか。

  • このように言われた摩訶薩である聖なる観世音菩薩は、長老であるシャーリプトラにこれを言った。


  • シャーリプトラよ、誰でも、有徳の男子あるいは有徳の女子であって〜


  • 深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行をしたいと思う者は、このように見極めるべきである。


  • 5つの区分があり、そしてそれらを空虚であるとみなした。


  • 形は空の状態であり、空の状態であるものこそ形である。


  • 空の状態をもつものは形と異ならず、形は空の状態をもつものと異ならない。


  • 形であるものが空の状態をもつものであり、空の状態をもつものが形である。


  • 知覚や知識や浄化の行や識別も、このように空の状態である。



  • シャーリプトラよ、このように、すべての徳性は、空の状態という特徴を持っており、


  • 生じないし、消滅しないし、汚物はないし、純粋でもないし、より少なくもならないし、満たされることもない。


  • シャーリプトラよ、それゆえにその時、空の状態においては、形はない(し〜、)


  • 知覚もないし、知識もないし、浄化の行もないし、識別もない。


  • 目もなく耳もなく鼻もなく舌もなく身体もなく心もなく、


  • 形もなく音もなくにおいもなく味もなく触れられるべきものなくも徳性もない。


  • 目の要素もないし、はては心の要素もなく徳性の要素もなく心や知識の要素もない。


  • 知識もないし、知識がないこともないし、はては老いて死ぬこともなく、老いて死ぬことの滅亡もない。


  • 不幸も結合も破壊も道もなく、知識もなく、取得もなく、取得しないこともない。


  • それゆえ、得られないということのために、菩薩たちの智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)に頼って、


  • 心がおおわれることなく楽しく行く。


  • 心に覆いがないことによって怖れず、転倒を超越して涅槃に専念している。


  • 三時(過去、現在、未来)に留まっている仏たちはみな、智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)


  • 〜に頼って、正しい悟りを完全に悟った。


  • それゆえ人は知るべきだ。智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)の偉大なる呪文は〜


  • 偉大な知識の呪文であり、最も優れた呪文であり、同等のものがない呪文であり、あらゆる苦しみをいやす呪文である


  • 偽りがないから真実であり、智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)を意味して説かれた呪文である。


  • すなわち次のように。


  • 彼岸への完全な到達において悟りがある。幸あれ



  • シャーリプトラよ、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において、菩薩はこのように学ぶべきなのである。


  • このこと(観世音の説明)のために、まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がり、聖なる観世音〜


  • 菩薩への「よくやった」という賛辞を与えた。


  • よくやった! よくやった! 有徳の男よ! これはこのとおりだ、有徳の男よ!


  • 人は、まさにそのように、深い智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)において修行をすべきである。


  • あなたが指示したとおりに、如来たちや阿羅漢たちは是認している。


  • 世尊は喜びの心でこう言った。
  •  

    長老であるシャーリプトラと、聖なる観世音菩薩と、


  • その一切の会衆と、天・人・アシュラ・ガンダルヴァを伴う世界とが、


  • 世尊の言葉を喜んだ、と〜


  • 智慧の彼岸の到達(般若波羅蜜多)の心の経が完成された。


参考資料
般若心経・大本 - サンスクリット語(梵語) まんどぅーかの サンスクリット・ページ



ブッダ真理のことば・感興のことば(朗読)   (コマーシャルは×(スキップ)をクリックして次へ進める)
ブッダ真理のことば 01章:dhammapada(buddha) 1
ブッダ真理のことば 02章:dhammapada(buddha) 2
ブッダ真理のことば 03章:dhammapada(buddha) 3
ブッダ真理のことば 04章:dhammapada(buddha) 4
ブッダ真理のことば 05章:dhammapada(buddha) 5
ブッダ真理のことば 06章:dhammapada(buddha) 6
ブッダ真理のことば 07章:dhammapada(buddha) 7
ブッダ真理のことば 08章:dhammapada(buddha) 8
ブッダ真理のことば 09章:dhammapada(buddha) 9
ブッダ真理のことば 10章:dhammapada(buddha) 10
ブッダ真理のことば 11章:dhammapada(buddha) 11
ブッダ真理のことば 12章:dhammapada(buddha) 12
ブッダ真理のことば 13章:dhammapada(buddha) 13
ブッダ真理のことば 14章:dhammapada(buddha) 14
ブッダ真理のことば 15章:dhammapada(buddha) 15
ブッダ真理のことば 16章:dhammapada(buddha) 16
ブッダ真理のことば 17章:dhammapada(buddha) 17
ブッダ真理のことば 18章:dhammapada(buddha) 18
ブッダ真理のことば 19章:dhammapada(buddha) 19
ブッダ真理のことば 20章:dhammapada(buddha) 20
ブッダ真理のことば 21章:dhammapada(buddha) 21
ブッダ真理のことば 22章:dhammapada(buddha) 22
ブッダ真理のことば 23章:dhammapada(buddha) 23
ブッダ真理のことば 24章:dhammapada(buddha) 24
ブッダ真理のことば 25章:dhammapada(buddha) 25
ブッダ真理のことば 26章-1:dhammapada(buddha) 26-1
ブッダ真理のことば 26章-2:dhammapada(buddha) 26-2

ブッダ感興のことば 01章:udanavarga(buddha) 1
ブッダ感興のことば 02章:udanavarga(buddha) 2
ブッダ感興のことば 03章:udanavarga(buddha) 3
ブッダ感興のことば 04章:udanavarga(buddha) 4
ブッダ感興のことば 05章:udanavarga(buddha) 5
ブッダ感興のことば 06章:udanavarga(buddha) 6
ブッダ感興のことば 07章:udanavarga(buddha) 7
ブッダ感興のことば 08章:udanavarga(buddha) 8
ブッダ感興のことば 09章:udanavarga(buddha) 9
ブッダ感興のことば 10章:udanavarga(buddha) 10
ブッダ感興のことば 11章:udanavarga(buddha) 11
ブッダ感興のことば 12章:udanavarga(buddha) 12
ブッダ感興のことば 13章:udanavarga(buddha) 13
ブッダ真理のことば 14章:dhammapada(buddha) 14
ブッダ感興のことば 15章:udanavarga(buddha) 15
ブッダ感興のことば 16章:udanavarga(buddha) 16
ブッダ感興のことば 17章:udanavarga(buddha) 17
ブッダ感興のことば 18章:udanavarga(buddha) 18
ブッダ感興のことば 19章:udanavarga(buddha) 19
ブッダ感興のことば 20章:udanavarga(buddha) 20
ブッダ感興のことば 21章:udanavarga(buddha) 21
ブッダ感興のことば 22章:udanavarga(buddha) 22
ブッダ感興のことば 23章:udanavarga(buddha) 23
ブッダ感興のことば 24章:udanavarga(buddha) 24
ブッダ感興のことば 25章:udanavarga(buddha) 25
ブッダ感興のことば 26章:udanavarga(buddha) 26
ブッダ感興のことば 27章(1):udanavarga(buddha) 27(1)
ブッダ感興のことば 27章(2):udanavarga(buddha) 27(2)
ブッダ感興のことば 28章:udanavarga(buddha) 28
ブッダ感興のことば 29章(1):udanavarga(buddha) 29(1)
ブッダ感興のことば 29章(2):udanavarga(buddha) 29(2)
ブッダ感興のことば 30章(1):udanavarga(buddha) 30(1)
ブッダ感興のことば 30章(2):udanavarga(buddha) 30(2)
ブッダ感興のことば 31章(1):udanavarga(buddha) 31(1)
ブッダ感興のことば 31章(2):udanavarga(buddha) 31(2)
ブッダ感興のことば 32章(1):udanavarga(buddha) 32(1)
ブッダ感興のことば 32章(2):udanavarga(buddha) 32(2)
ブッダ感興のことば 33章(1):udanavarga(buddha) 33(1)
ブッダ感興のことば 33章(2):udanavarga(buddha) 33(2)
ブッダ感興のことば 33章(3):udanavarga(buddha) 33(3)
ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読
ブッダの感興の言葉 通読その1 第1章〜第11章 1時間24分
ブッダの感興の言葉 通読その2 第12章〜第22章 1時間18分
ブッダの感興の言葉 通読その3 第23章〜第33章 2時間36分

中村元「ブッダ最後の旅」
仏教の本質 哲学者「中村元」.flv
中村元「ブッダ最後の旅」1
中村元「ブッダ最後の旅」2
中村元「ブッダ最後の旅」3
中村元「ブッダ最後の旅」4
中村元「ブッダ最後の旅」5
中村元「ブッダ最後の旅」短縮版

ブッダの生涯 (BBC)
ブッダの生涯 (BBC) 1/5
ブッダの生涯 (BBC) 2/5
ブッダの生涯 (BBC) 3/5
ブッダの生涯 (BBC) 4/5
ブッダの生涯 (BBC) 5/5

【ブッダのことば】永遠の真理
 スッタニパータ 縦糸の集成(中村 元訳)
数多い仏教書のうちで最も古い聖典。後世の仏典に見られる煩瑣な教理は少しもなく、人間として正しく生きる道が対話の中で具体的に語られている。
【第1 蛇の章】 【第2 小なる章】 【第3 大いなる章】 【第4 八つの詩句の章】 【第5彼岸にいたる道の章】
仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した聖典。 シナ、日本の仏教にはほとんど知られていなかったが、学問的には極めて重要。

【 第一 蛇の章 】

◆<1、蛇>
◆   [朗読]
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

15 この世に還り来る縁となる<煩悩から生ずるもの>をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


<2,ダニヤ>◆     [朗読]
18 牛飼いダニヤがいった、
「わたしはもう飯を炊き、乳を搾ってしまった。マヒー河の岸のほとりに、わたしは(妻子と)ともに住んでいます。わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

19 師は答えた、
> 「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿りをなす。わが小舎(すなわち自身)はあばかれ、(欲情の)火は消えた。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

20 牛飼いダニヤがいった、
「蚊も虻もいないし、牛どもは沼地に茂った草を食んで歩み、雨が降ってきても、かれらは堪え忍ぶであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

21 師は答えた、
「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

22 牛飼いダニヤがいった、
「わが牧婦(=妻)は従順であり、貪ることがない。久しくともに住んできたが、わが意に適っている。かの女にいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

23 師は答えた、
「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

24 牛飼いダニヤがいった、
「私は自活しみずから養うものである。わが子らはみなともに住んで健やかである。かれらにいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

25 師は答えた、
「わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

26 牛飼いダニヤがいった、
「未だ馴らされていない牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕んだ牝牛もいるし、交尾を欲する牝牛もいる。牝牛どもの主である牡牛もいる。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

27 師は答えた、
「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

28 牛飼いダニヤがいった、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ち込まれていて揺るがない。ムンジャ草でつくった新しい縄はよくなわれている。仔牛もこれを断つことができないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

29 師は答えた、
「牡牛のように結縛を断ち、くさい臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたしくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

30 忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のことを語った。

31 「われらは尊き師にお目にかかりました、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれわれの師となってください。大いなる聖者よ。

32 妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッタ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅しましょう。」

33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜ぶ、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」

34 師は答えた、
子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」


<3、犀(さい)の角>◆     [朗読]
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。

44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

47 われわれは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分より勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

49 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

51 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

53 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔<ブッダ>のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

55 相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

56 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

57 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽って怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

58 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。

59 世の中の遊戯や娯楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

60 妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

61 「これは執著である。ここは楽しみは少し、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

62 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

63 俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。

65 諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

66 こころの五つの覆いを断ち切って、すべてに付随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、なにものかにかたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

67 以前に経験した楽しみと苦しみを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。

69 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。

70 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

71 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。

72 歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

75 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。


<4、田を耕すバーラドブァージャ>◆     [朗読]
 わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。
 そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでそのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは食物を配給していた。
 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、
「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と
> (師は答えた)、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。
 (バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは詩を以て師に呼びかけた。

76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話してください。」

77 (師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。

78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。

79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。

80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
 そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。──「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですかから。」

81 詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。

82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。
「では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?」
「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)とかれの弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少いところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。

さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。
 そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは恐れおののいて、身の毛がよだち、師(ブッダ)のもとに近づいた。そうして師の両足に頭を伏せて、礼拝してから、師にいった、
──「すばらしいことです、ゴータマさま。すばらしいことです、ゴータマさま。譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。また真理と修行僧のつどいに帰依します。わたしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)をうけましょう。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師(ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このバラモン・バーラドヴァーシャさんは独りで他の人々から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえたた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」
とさとった。そうしてバーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。


<5、チュンダ>◆     [朗読]
83 鍛冶工のチュンダがいった、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、わたしはおたずねします。──世間にはどれだけの修行者がいますか? どうぞお説きください。」

84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」

85 鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか? また<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。また<道を汚す者>をわたくしに説き明かしてください。」

86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。

87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ

88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。

89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。

90 (彼らの特長を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」


<6、破  滅>◆     [朗読]
 わたしが聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、<孤独なる人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいた。近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。

91 「われらは、<破滅する人>のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれわれはここに来たのですが、──。」

92 (師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」

93 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第一の破滅です。先生! 第二のものを説いてください。破滅への門はなんですか?」

94 「悪い人々を愛し、善き人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破壊への門である。」

95 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第二の破滅です。先生! 第三のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

96 睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、──これは破滅への門である。」

97 「よく分かりました。おっしゃるとおりです。これが第三の破滅です。先生! 第四のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

98 「みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、──これは破滅への門である。」

99 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第四の破滅です。先生! 第五のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

100 「バラモンまたは<道の人>または他の<もの乞う人>を、嘘をついてだますならば、これは破滅の門である。」

101 「よくわかりました。おっしゃるとうりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

102 「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいみのを食べるならば、これは破滅への門である。」

103 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第六の破滅です。先生! 第七のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

104 「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも已が親戚を軽蔑する人がいる、──これは破滅への門である。」

105 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第七の破滅です。先生! 第八のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

106 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、──これは破滅への門である。」

107 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第八の破滅です。先生! 第九のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

108 「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、──これは破滅への門である。」

109 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第九の破滅です。先生! 第十のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

110 「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女について嫉妬から夜も眠れない、──これは破滅への門である。」

111 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十の破滅です。先生! 第十一のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

112 「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である。」

113 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十一の破滅です。先生! 第十二のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

114 「クシャトリヤ(王族)の家に生まれた人が、財力が少いのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である。

115 世の中にはこのような破滅のあることを考察して賢者・すぐれた人は真理を見て、幸せな世界を体験する。」


<7、賤しい人>◆     [朗読]
 わたしが聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき師は朝のうちに内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、托鉢のためにサーヴァッティーに入った。
 そのとき火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャの住居には、聖火がともされ、供物がそなえられていた。さて師はサーヴァッティー市の中を托鉢して、かれの住居に近づいた。火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師が遠くから来るのを見たる
 そこで、師にいった、「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの<道の人>よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。
 そう言われたので、師は、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャに言った、「バラモンよ。あなたはいったい賤しい人しはなにかを知っているのですか? また賤しい人たらしめる条件を知っているのですか?」
 「ゴータマさん(ブッタ)。わたしは人を賤しい人とする条件をも知っていないのです。どうか、わたしが賤しい人を賤しい人とさせる条件を知り得るように、ゴータマさんはわたくしにその定めを説いてください。」
「バラモンよ、ではお聞きなさい。よく注意なさい。わたくしは説きましょう。」
 「どうぞ、お説きください」、と火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師に答えた。
師は説いていった、

116 「怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、──かれを賤しい人であると知れ。

117 一度生まれたものを(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、──かれを賤しい人であると知れ。

118 村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、──かれを賤しい人であると知れ。

119 村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、──かれを賤しい人であると知れ。

120 実際に負債ががあるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、──かれを賤しい人であると知れ。

121 実に僅かの物を欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人。──かれを賤しい人であると知れ。

122 証人として尋ねられたとき、自分のために、他人のため、また財のために、偽りを語る人、──かれを賤しい人であると知れ。

123 或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、──かれを賤しい人であると知れ。

124 己れは財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、──かれを賤しい人であると知れ。

125 母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、またはことばで罵る人、──かれを賤しい人であると知れ。

126 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、──かれを賤しい人であると知れ。

127 悪事を行なっておきながら、『誰もわたしのしたことを知らないように』と望み、隠し事をする人、──かれを賤しい人であると知れ。

128 他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、──かれを賤しい人であると知れ。

129 バラモンまたは<道の人>、または他の<もの乞う人>を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。

130 食事のときが来たのに、バラモンまたは<道の人>をことばて罵り食を与えない人、──かれを賤しい人であると知れ。

131 この世に迷妄に覆われ、わずかの物が欲しくて、事実でないことを語る人──かれを賤しい人と知れ。

132 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、──かれを賤しい人であると知れ。

133 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、──かれを賤しい人であると知れ。

134 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。

135 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、──かれこそ実に最下の賤しい人である。
わたしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に<賤しい人>と呼ばれる。

136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

137 わたしは次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られた令名の高い人であった。

138 かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。

139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。

140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。

141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い) 生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。

142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
このように説かれたときに、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは、師にいった、
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者をおこすように、覆われたものを開くように方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。ですから、わたしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以降命の続く限り帰依します。」


<8、慈しみ>◆     [朗読]
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。

144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。

150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。


<9、雪山に住む者>◆     [朗読]
153 七岳という神霊(夜叉)がいった、「今日は十五日のウポーサタである。みごとな夜が近づいた。さあ、われわれは世にもすぐれた名高い師ゴータマ(ブッダ)にお目にかかろう。」

154 雪山に住む者という神霊(夜叉)がいった、「このように立派な人のこころは一切の生きとし生けるものに対してよく安立しているのだろうか。望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制されているのであろうか?」

155 七岳という神霊は答えた、「このように立派なかれ(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制されている。」

156 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?」

157 七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることができない。」

158 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」

159 七岳という神霊は答えた、「かれは嘘をつかない。粗暴なことばを発しない。また中傷の悪口を言わない。 くだらぬおしゃべりを言わない。」

160 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか? その心は濁っていないだろうか? 迷妄を越えているであろうか? 諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」

161 七岳という神霊は答えた、「かれは欲望の享楽に耽らない。その心は濁っていない。迷妄を越えている。目ざめた人として諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている。」

162 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」

163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」

163a (雪山に住む者という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。明知と行いとを完全に具えているかれを汝が讃嘆するのは、当然である。」

163b 「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。明知と行いとを完全に具えているかれに、そなたが随喜するのは、当然である。」

164 (七岳という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。さあ、われらは明知と行いとを完全に具えているゴータマに見えよう。」

165 (雪山に住む者という神霊がいった)、「かの聖者は羚羊のような脛があり、痩せ細って、聡明であり、小食で、貪ることなく、森の中で静かに瞑想している、来たれ、われらはゴータマ(ブッダ)に見えよう。

166 諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行くかれに近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」

167 (その二つの神霊がいった)、「説き示す人、説き明かす人、あらゆることがらの究極をきわめ、怨みと恐れを越えた目ざめた人、ゴータマに、われらは問おう。」

168 雪山に住む者という神霊がいった、「何があるとき世界は生起するのですか? 何に対して親しみ愛するのですか? 世間の人々は何ものに執著しており、世間の人々は何ものに悩まされているのですか?」

169 師は答えた、「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」

170 「それによって世間が悩まされる執著とは何であるか? お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてください。どうしたら苦しみから解き放たれるのでしょうか。」

171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

172 世間の出離であるこの道が汝らに如実に説き示された。このことを、われは汝らに説き示す、──このようにするならば、苦しみから解き放たれるのである。」

173 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」

174 「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

175 愛欲の想いを離れ、一切の結び目(束縛)を越え、歓楽による生存を滅しつくした人──、かれは深海のうちに沈むことがない。」

176 (雪山に住む者という神霊がいった)、「深い智慧があり、微妙な意義を見、何ものをも有せず、欲の生存に執著せず、あらゆることがらについて解脱し、天の路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

177 世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

178 今日われわれは美しい[太陽]を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え、煩悩の汚れのなくなった<覚った人>にわれらは見えたからである。

179 これらの千の神霊どもは、神通力あり、誉れたかきものどもであるが、かれらはすべてあなたに帰依します。あなたはわれらの無上の師であります。

180 われらは、村から村へ、山から山へめぐり歩もう、──覚った人をも、真理のすぐれた所以をも礼拝しつつ。」


<10、アーラブァカという神霊>◆     [朗読]
 わたしか聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。そのときアーラヴァカ神霊は師のいるところに近づいて、
師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。
(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって、師は入った。
ふたたびアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出て行った。
(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。三たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。よろしい、友よ」といって師は出てきた。
(また神霊はいった)、「道の人よ。入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。
四たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。
(師は答えた)、「では、わたしはもう出て行きません、汝のなすべきことをなさい」と。
 (神霊がいった)、「道の人よ、わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答できないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけよう。」
(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わか両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見出さない。友よ。
 汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け」と。そこでアーラヴァカ神霊は、師に次の詩をもって呼びかけた。──

181 「この世で人間の最高の富は何であるか? いかなる善行が安楽をもたらすのか? 実に味の中での美味は何であるか? どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」

182 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中で美味である。知慧によって生きるのが最高の生活であるという」

183 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? いかにして苦しみを越えるのであろうか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」

184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

185 「ひとはいかにして智慧を得るのであろうか? いかにして財を獲るのであるか? いかにして名声を得るのであるか? いかにして交友を結ぶのであるか? どうすれば、この世からかの世に赴 いたときに憂いがないのであろうか?」

186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

187 適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ。

188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。

189 もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」

190 [神霊いわく、──]「いまやわたしは、どうして道の人、バラモンどもに広く問う要がありましょうか。わたしは今日<来世のためになること>を覚り得たのですから。

191 ああ、目ざめた方がア−ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。

192 わたしは、村から村へ、町から町へめぐり歩こう、──覚った人を、また真理のすぐれた所以を、礼拝しつつ。」

参考資料
ネット新聞【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
岩波文庫【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
岩波文庫【ブッダのことば】真理のことば・感興のことば<中村 元訳>

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般若心経脳ドリル 写経と読誦―元気脳練習帳 学研 (編集) 川島 隆太

参考資料: 薬師寺「大唐西域壁画」(絵葉書スキャン)
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By 江守孝三(Emori Kozo)


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