温故知新[TOP]、、 プレバト俳句姉妹編【松尾芭蕉(原本肉筆)朗読】
芭蕉俳句全集、、 (English)、、 松尾芭蕉事典
奥の細道(松尾芭蕉) 朗読・原文・現代語訳
    奥の細道 序章 第二部 奥州路 第三部 出羽路 第四部 北陸路    
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奥の細道図上巻 、奥の細道図下巻 、松尾芭蕉 Matsuo Bashō (1644-1694)
◎Matsuo Basho's"Narrow Road to the Deep North" Tr. by Nobuyuki Yuasa(奥の細道 英語)
1.序章 ◎旅立ち 千住 室の八島(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/01okunihosomiti.mp3 原文 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、  草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。
現代語訳 月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。 船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。 西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。 私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと【白河の関】を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという【そぞろ神】に憑かれたように心がさわぎ、【道祖神】の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人【杉風(さんぷう)】の別宅に移り、 草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家 (意味)戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう。 と発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。
2.千住
/mp3/haiku/okunohosomiti/02.mp3 原文 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から、冨士の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゅと伝所にて船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送るなるべし。
現代語訳 三月二十七日、夜明け方の空はおぼろに霞み、有明の月はもう光が薄くなっており、富士の峰が遠く幽かにうかがえる。 上野・谷中のほうを見ると木々の梢がしげっており、これら花の名所を再び見れるのはいつのことかと心細くなるのだった。 親しい人々は宵のうちから集まって、舟に乗って送ってくれる。千住というところで舟をあがると、これから三千里もの道のりがあるのだろうと胸がいっぱいになる。 この世は幻のようにはかないものだ、未練はないと考えていたが、いざ別れが近づくとさすがに泪があふれてくる。 行春や鳥啼魚の目は泪 (意味)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。 これをこの旅で詠む第一句とした。見送りの人々は別れを惜しんでなかなか足が進まない。ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に立ち並んでいる。後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりなんだろう。
3.草加 /mp3/haiku/okunohosomiti/03.mp3 原文 ことし元禄二とせにや、奥羽長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸(ようよう)早加と云宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次(ろし)の煩(わずらい)となるこそわりなけれ。
現代語訳 今年は元禄二年であったろうか、奥羽への長旅をふと気まぐれに思い立った。 この年で遠い異郷の空の下を旅するなど、さぞかし大変な目にあってさらに白髪が増えるに決まっているのだ。 しかし話にだけ聞いて実際目で見たことはない地域を、ぜひ見てみたい、そして出来るなら再びもどってきたい。 そんなあてもない願いを抱きながら、その日草加という宿にたどり着いた。 何より苦しかったのは痩せて骨ばってきた肩に、荷物がずしりと重く感じられることだ。 できるだけ荷物は持たず、手ぶらに近い格好で出発したつもりだったが、夜の防寒具としては紙子が一着必要だし、浴衣・雨具・墨・筆などもいる。 その上どうしても断れない餞別の品々をさすがに捨ててしまうわけにはいかない。こういうわけで、道すがら荷物がかさばるのは仕方のないことなのだ。
4.室の八島 /mp3/haiku/okunohosomiti/04.mp3 原文 室の八島に詣す。同行曾良が曰く、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰(いったい)也。無戸室(うつむろ)に入りて焼給ふちかひのみ中に、火々出身のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。
現代語訳 室の八島と呼ばれる神社に参詣する。旅の同行者、曾良が言うには、「ここに祭られている神は木の花さくや姫の神といって、富士の浅間神社で祭られているのと同じご神体です。 木の花さくや姫が身の潔白を証しするために入り口を塞いだ産室にこもり、炎が燃え上がる中で火々出身のみことをご出産されました。それによりこの場所を室の八島といいます。 また、室の八島を歌に詠むときは必ず「煙」を詠み込むきまりですが、それもこのいわれによるのです。 また、この土地では「このしろ」という魚を食べることを禁じているが、それも木の花さくや姫の神に関係したことだそうで、そういった神社の由来はよく世の中に知られている。
5.仏五左衛門 ◎仏五座江門・日光 黒髪山 黒羽 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/05.mp3 原文 卅日、日光山の麓に泊まる。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。
現代語訳 三月三十日、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直が信条ですから、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言うのだ。 いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに心をとめて観察していた。 すると、打算やこざかしさは全くなく、ただひたすら正直一途な者なのだ。 論語にある「剛毅朴訥は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。 生まれつきもっている(気稟)、清らかな性質(清質)なんだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。
6.日光 /mp3/haiku/okunohosomiti/06.mp3 原文 卯月遡日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝す。往昔(そのかみ)、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵 の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。 あらたふと青葉若葉の日の光 黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ) 曾良は河合氏にして惣五良と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁(あかつき)髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。 廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。 暫時(しばらく)は滝にこもるや夏の初
現代語訳 四月一日、日光の御山に参詣する。昔この御山を「二荒山(にこうざん)」と書いたが、空海大師が開基した時、「日光」と改められたのだ。 大師は千年先の未来までも見通すことできたのだろうか、今この日光東照宮に祭られている徳川家康公の威光が広く天下に輝き、国のすみずみまであふれんばかりの豊かな恩恵が行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに住むことができる。 なお、私ごときがこれ以上日光について書くのは畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。 あらたふと青葉若葉の日の光 ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ。 古歌に多く「黒髪山」として詠まれている日光連峰のひとつ、男体山(なんたいざん)をのぞむ。霞がかかって、雪がいまだに白く残っている。 剃捨てて黒髪山に衣更 曾良 深川を出発した時に髪をおろして坊主になった、今また日光の黒髪山に通りかかる時、ちょうど衣替えの時節だ。 曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。 今回、有名な松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜び、また旅の苦労を労わりあおうと、出発の日の早朝、髪をおろして僧侶の着る墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」と変えた。 こういういきさつで、この黒髪山の句は詠まれたのだ。「衣更」の二字には曾良のこの旅にかける覚悟がこめられていて、力強く聞こえることよ。 二十丁ちょっと山を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。 岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。 暫時は滝に籠るや夏の初 滝の裏の岩屋に入ったこの状況を夏行(げぎょう)の修行と見立ててしばらくはこもっていようよ。
7.那須 ◎那須(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/07.mp3 原文 那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小娘にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名成べし 曽良 頓(やがて)て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
現代語訳 那須の黒羽という所に知人がいるので、これから那須野を超えてまっすぐの道を行くことにする。 はるか彼方に村が見えるのでそれを目指して行くと、雨が降ってきて日も暮れてしまう。 百姓屋で一晩泊めてもらい、翌朝また広い那須野の原野の中を進んでいく。 そこに、野に飼ってある馬があった。そばで草を刈っていた男に道をたずねると、片田舎のなんでもない男だが、さすがに情けの心を知らないわけではなかった。 「さあ、どうしたもんでしょうか。しかしこの那須野の原野は縦横に走っていて、初めて旅する人が道に迷うことも心配ですから、この馬をお貸しします。馬の停まったところで送り返してください」 こうして馬を借りて進んでいくと、後ろから子供が二人馬のあとを慕うように走ってついてくる。 そのうち一人は女の子で、「かさね」という名前であった。あまり聞かない優しい名前だということで、曾良が一句詠んだ。 かさねとは八重撫子の名成べし 曽良 (意味)可愛らしい女の子を撫子によく例えるが、その名も「かさね」とは撫子の中でも特に八重撫子を指しているようだ。 それからすぐ人里に出たので、お礼のお金を馬の鞍つぼ(鞍の中央の人が乗るくぼんだ部分)に結び付けて、馬を返した。
8.黒羽 /mp3/haiku/okunohosomiti/08.mp3 原文 黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国の氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊にしきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。 修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。 夏山に足駄を拝む首途哉
現代語訳 黒羽藩の留守居役の家老である、浄坊寺何がしという者の館を訪問する。主人にとっては急な客人でとまどったろうが、思いのほかの歓迎をしてくれて、昼となく夜となく語り合った。 その弟である桃翠という者が朝夕にきまって訪ねてきて、自分の館にも親族の住まいにも招待してくれた。 こうして何日か過ごしていたが、ある日郊外に散歩に出かけた。昔、犬追物に使われた場所を見て、那須の篠原を掻き分けるように通りすぎ、九尾の狐として知られる玉藻の前の塚を訪ねた。 それから八幡宮に参詣した。かの那須与一が扇の的を射る時「(いろいろな神々の中でも特に)わが国那須の氏神である正八幡さまに(お願いします)」と誓ったのはこの神社だときいて、神のありがたさもいっそう身に染みて感じられるのだった。 日が暮れると、再び桃翠宅に戻る。 近所に修験光明寺という寺があった。そこに招かれて、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)をまつってある行者堂を拝んだ。 夏山に足駄を拝む首途哉 役小角(えんのおづぬ)のお堂を拝む。この夏山を越せばもう奥州だ。小角が高下駄をはいて山道を下ったというその健脚にあやかりたいと願いつつ、次なる門出の気持ちを固めるのだ。
9.雲巌寺 ◎雲巌寺(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/09.mp3 原文 当国雲岸寺のおくに、仏頂和尚山居跡有。 竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝむで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上せきしょうの小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。 木啄も庵はやぶらず夏木立 と、とりあえぬ一句を柱に残侍し。
現代語訳 下野国の臨済宗雲巌寺の奥の山に、私の禅の師である仏頂和尚が山ごもりしていた跡がある。 「縦横五尺に満たない草の庵だが、雨が降らなかったらこの庵さえ必要ないのに。住まいなどに縛られないで生きたいと思ってるのに残念なことだ」と、松明の炭で岩に書き付けたと、いつか話してくださった。 その跡を見ようと、雲巌寺に杖をついて向かうと、ここの人々はお互いに誘い合って案内についてきてくれた。若い人が多く、道中楽しく騒いで、気付いたら麓に到着していた。 この山はだいぶ奥が深いようだ。谷ぞいの道がはるかに続き、松や杉が黒く茂って、苔からは水がしたたりおちていた。 さて、仏頂和尚山ごもりの跡はどんなものだろうと裏山に上ると、石の上に小さな庵が、岩屋にもたれかかるように建っていた。 話にきく妙禅師の死関や法雲法師の石室を見るような思いだった。 木啄も庵はやぶらず夏木立 (夏木立の中に静かな庵が建っている。さすがの啄木鳥も、この静けさを破りたくないと考えてか、この庵だけはつつかないようだ) と、即興の一句を柱に書き残すのだった。
10.殺生石・遊行柳 ◎殺生石・遊行柳 白河の関(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/10.mp3 原文 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、 野を横に馬牽むけよほとゝぎす 殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰にあり。石の毒気(どくき)いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。 又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此所の群守戸部某(こほうなにがし)の、「此柳みせばや」など、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。 田一枚植て立ち去る柳かな
現代語訳 黒羽を出発して、殺生石に向かう。伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという、その石が殺生石だ。 黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、馬で送ってもらうこととなった。 すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、 野を横に馬牽むけよほとゝぎす (広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか) 殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど重なりあって死んでいた。 また、西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた。 その柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていた。ここの領主、戸部某という者が、「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが、今日まさにその柳の陰に立ち寄ったのだ。 田一枚植て立ち去る柳かな 西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。(私は?)田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めて立ち去るのだった
11.白河の関 /mp3/haiku/okunohosomiti/11.mp3 原文 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風【馬+「操」の右】の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
現代語訳 最初は旅といっても実感がわかない日々が続いたが、白河の関にかかる頃になってようやく旅の途上にあるという実感が湧いてきた。 平兼盛は「いかで都へ」と、この関を越えた感動をなんとか都に伝えたいものだ、という意味の歌を残しているが、なるほどもっともだと思う。 特にこの白河の関は東国三関の一つで、西行法師など、昔から風流を愛する人々の心をとらえてきた。 能因法師の「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。 また源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと青葉の梢のむこうに紅葉の見事さまで想像されて、いっそう風雅に思えるのだった。 真っ白い卯の花に、ところどころ茨の白い花が咲き混じっており、雪よりも白い感じがするのだ。 陸奥守竹田大夫国行が白河の関を越えるのに能因法師の歌に敬意を払って冠と衣装を着替えて超えたという話を藤原清輔が書き残しているほどだ。 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良 (かつてこの白河の関を通る時、陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)は能因法師の歌に敬意を表して 衣装を着替えたという。私たちはそこまではできないがせめて卯の花を頭上にかざして、敬意をあらわそう)
12.須賀川 ◎須賀川 あさか山 しのぶの里 佐藤庄司が旧跡 笠島 武隈の松(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/12.mp3 原文 とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかゞしう思ひめぐらさず。 風流の初やおくの田植うた 無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山みやまもかくやと閒しづかに覚られて、ものに書付侍る。其詞そのことば、 栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基ぎょうぎ菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。 世の人の見付ぬ花や軒の栗 現代語訳 このようにして白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った。左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている。後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていた。 かげ沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面には何も写らなかった。 須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。 「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」 風流の初やおくの田植うた (白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった) 何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。 この宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。 「栗」という字は「西」の「木」と書くくらいだから西方浄土に関係したものだと、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったということだ。 世の人の見付ぬ花や軒の栗 (栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわしているようで、おもむき深い)
13.あさか山 /mp3/haiku/okunohosomiti/13.mp3 原文 等窮が宅を出て五里計(ばかり)、檜皮(ひはだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
現代語訳 等窮の家を出て五里ほど進み、檜肌の宿を離れたところにあさか山(安積山)が道のすぐそばにある。 このあたりは「陸奥の安積の沼の花かつみ」と古今集の歌にあるように沼が多い。昔藤中将実方がこの地に左遷された時、五月に飾る菖蒲がなかったため、かわりにこのり歌をふまえて「かつみ」を刈って飾ったというが、今はちょうどその時期なので、「どの草をかつみ草というんだ」と人々に聞いてまわったが、誰も知る人はない。 沼のほとりまで行って「かつみ、かつみ」と探し歩いているうちに日が山際にかかって夕暮れ時になってまった。 二本松より右に曲がり、謡曲「安達原」で知られる鬼婆がいたという黒塚の岩屋を見て、福島で一泊した。
14.しのぶの里 /mp3/haiku/okunohosomiti/14.mp3 原文 あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に石半(なかば)土に埋(うづもれ)てあり。里の童部わらべの来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。 早苗とる手元や昔しのぶ摺
現代語訳 夜が明けると、忍ぶもじ摺りの石を訪ねて、忍ぶの里へ行った。遠い山陰の小里に、もじ摺りの石は半分地面に埋まっていた。 そこへ通りかかった里の童が教えてくれた。もじ摺り石は昔はこの山の上にあったそうだ。行き来する旅人が青麦の葉を踏み荒らしてこの石に近づき、伝承にある摺り染を試そうとするので、これはいけないと谷に突き落としたので石の面が下になっているのです、ということだ。 そういうこともあるだろうなと思った。 早苗とる手元や昔しのぶ摺 (「しのぶ摺」として知られる染物の技術は今はすたれてしまったが、早苗を摘み取る早乙女たちの手つきに、わずかにその昔の面影が偲ばれるようだ。「しのぶ」は「忍ぶ」と「偲ぶ」を掛ける。)
15.佐藤庄司が旧跡 /mp3/haiku/okunohosomiti/15.mp3 原文 月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計(いちりはんばかり)に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ねゝ行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家いっけの石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀(まずあはれ)也。女なれどもかひゞしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞えば、爰(ここ)に義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物(じふもつ)とす。 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり) 五月朔日(ついたち)の事也。
現代語訳 月の輪の渡しを舟で越えて、瀬の上という宿場町に出る。源平合戦で義経の下で活躍した佐藤継信・忠信兄弟の父、元治の旧跡は、左の山のそば一里半ほどのところにあった。 飯塚の里、鯖野というところと聞いて、人に尋ね尋ねいくと、丸山というところでようやく尋ねあてることができた。 「これが佐藤庄司の館跡です。山の麓に正門の跡があります」など、人に教えられるそばから涙が流れる。 また、かたわらの古寺医王寺に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた。 その中でも佐藤兄弟の嫁(楓と初音)の墓の文字が最も哀れを誘う。女の身でありながらけなげに佐藤兄弟につくし、評判を世間に残したものよと、涙に袂を濡らすのだった。 中国の伝承にある、見たものは必ず涙を流したという「堕涙の石碑」を目の前にしたような心持だ。 寺に入って茶を一杯頼んだところ、ここには義経の太刀・弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されており寺の宝物となっていた。 笈も太刀も五月にかざれ紙幟 (弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ。初案「弁慶が笈をもかざれ紙幟」)
16.飯塚 /mp3/haiku/okunohosomiti/16.mp3 原文 其夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に莚(むしろ)を敷て、あやしき貧家也。灯(ともしび)もなければ、ゐろりの火かげに寐所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計(きえいるばかり)になん。短夜の空もやうゝ明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波(なごり)、心すゝまず。馬かりて桑折(こおり)の駅に出る(いづ)。遙なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊(いささか)とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす
現代語訳 その夜は飯塚に泊まった。温泉があったので湯にはいって宿に泊まったが、土坐に莚を敷いて客を寝かせるような、信用できない感じのみすぼらしい宿だった。ともしびもたいてくれないので、囲炉裏の火がチラチラする傍に寝所を整えて休んだ。 夜中、雷が鳴り雨がしきりに降って、寝床の上から漏ってきて、その上蚤や蚊に体中を刺されて、眠れない。持病まで起こって、身も心も消え入りそうになった。 短い夏の夜もようやく明けてきたので、また旅立つことにする。まだ昨夜のいやな感じが残ってて、旅に気持ちが向かなかった。馬を借りて桑折の宿場に着いた。 まだまだ道のりは長いのにこんな病など起きて先が思いやられるが、はるか異郷の旅に向かうにあたり、わが身はすでに捨てたつもりだ。人生ははかないものだし、旅の途上で死んでもそれは天命だ。 そんなふうに自分を励まし、気力をちょっと取り直し、足取りも軽く伊達の大木戸を越すのだった。
17.笠島 /mp3/haiku/okunohosomiti/17.mp3 原文 鐙摺、白石の城を過、笠島の郡(こおり)に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遙右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社、かた見の薄、今にあり」と教ゆ。此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、 笠島はいづこさ月のぬかり道 岩沼に宿る。
現代語訳 鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。 藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。 このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。 笠島はいづこさ月のぬかり道 (実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんな五月雨ふりしきるぬかり道の中では、方向もはっきりしないのだ) その夜は岩沼に泊まった。
18.武隈 /mp3/haiku/okunohosomiti/18.mp3 原文 武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)、むつのかみにて下りし人、此木を伐(きり)て名取川の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。 「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白と云ふものゝ餞別したりければ、 桜より松は二木を三月超し
現代語訳 武隈の松を前にして、目が覚めるような心持になった。根は土際で二つにわかれて、昔の姿が失われていないことがわかる。 まず思い出すのは能因法師のことだ。昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか。能因法師がいらした時はもう武隈の松はなかった。 そこで能因法師は「松は此たび跡もなし」と詠んで武隈の松を惜しんだのだった。 その時代その時代、伐ったり植継いだりしたと聞いていたが、現在はまた「千歳の」というにふさわしく形が整っていて、素晴らしい松の眺めであることよ。 門人の挙白が出発前に餞別の句をくれた。 武隈の松見せ申せ遅桜M (遅桜よ、芭蕉翁がきたら武隈の松を見せてあげてください) 今それに答えるような形で、一句詠んだ。 桜より松は二木を三月超シ (桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ)
19.宮城野 ◎仙台 7末の松山 多賀城 塩竃神社(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/19.mp3 原文 名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰(ここ)に画工加衛門と云ものあり。聊(いささか)心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。 あやめ草足に結ん草鞋の緒
現代語訳 名取川を渡って仙台に入る。ちょうど、家々であやめを軒にふく五月の節句である。宿を求めて、四五日逗留した。 仙台には画工加衛門という者がいた。わりと風流を解する者だときいていたから、会って親しく話してみた。 この加衛門という男は、名前だけ知れていて場所がわからない名所を調べる仙台藩の事業に長年携わっていた。案内役には最適なので、一日案内してもらう。 宮城野の萩が繁り合って、秋の景色はさぞ見事だろうと想像させる。玉田・よこ野という地を過ぎて、つつじが岡に来るとちょうどあせび咲く頃であった。 日の光も注がない松の林に入っていく。ここは「木の下」と呼ばれる場所だという。昔もこのように露が深かったから、「みさぶらいみかさ」の歌にあるように「主人に笠をかぶるよう申し上げてください」と土地の人が詠んだろう。 薬師堂・天神のやしろなどを拝んで、その日は暮れた。 それから加衛門は松島・塩竃の所々を絵に描いて、持たせてくれる。また紺色の染緒のついた草鞋二足を餞別してくれる。 なるほど、とことん風流な人と聞いていたが、その通りだ。こういうことに人物の本質があらわれることよ。 あやめ草足に結ん草鞋の緒 (加右衛門のくれた紺色の草鞋を、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて、邪気ばらいのつもりで履き、出発するのだ。実際にあやめ草を草鞋にくくりつけた、ということでなく、紺色の緒をあやめに見立てようという、イメージ上のもの)
20.壷の碑 /mp3/haiku/okunohosomiti/20.mp3 原文 かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有。今も年々十符の菅菰を整て国守に献ずと云り。 壷 碑 市川村多賀城に有。 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計カ。苔を穿て文字幽也。四維国界(しゆいこくかい)之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人(あぜちちんじゅふのしょうぐんおおののあそんあずまびと)之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣アサカリ修造尚。十二月遡日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。
現代語訳 加衛門にもらった絵地図にしたがって進んでいくと、奥の細道(塩釜街道)の山際に十符の菅菰の材料となる菅が生えていた。今も毎年十符の菅菰を作って藩主に献上しているということだった。 壷の碑は市川村多賀城にあった。 壷の碑は高さ六尺、横三尺ぐらいだろうか。文字は苔をえぐるように幽かに刻んで見える。四方の国境からの距離が記してある。 「この砦【多賀城】は、神亀元年(724年)、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人が築いた。天平宝字六年(762年)参議職で東海東山節度使の恵美朝臣アサカリが修造した」と書かれている。 聖武天皇の時代のことだ。 昔から詠み置かれた歌枕が多く語り伝えられているが、山は崩れ川は流れ、道は新しくなり、石は地面に土に埋もれて隠れ(「しのぶの里」)、木は老いて若木になり(「武隈の松」)、時代が移り変わってその跡をハッキリ留めていないことばかりであった。 だがここに到って疑いなく千年来の姿を留めている歌枕の地をようやく見れたのだ。目の前に古人の心を見ているのだ。 こういうことこそ旅の利点であり、生きていればこそ味わえる喜びだ。旅の疲れも忘れて、涙も落ちるばかりであった。
21.末の松山 /mp3/haiku/okunohosomiti/21.mp3 原文 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山(まっしょうざん)といふ。松のあひゝ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜(ゆうづくよ)幽に、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴わかつ声ゝに、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜盲法師(めくらほうし)の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
現代語訳 それから野田の玉川・沖の石など歌枕の地を訪ねた。末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。 松の合間合間はみな墓のの並ぶところで、空にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝「比翼連理」という言葉があるが、そんな睦まじく誓いあった仲でさえ最後はこのようになるのかと、悲しさがこみ上げてきた。 塩釜の浦に行くと夕暮れ時を告げる入相の鐘が聞こえるので耳を傾ける。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに見えており、籬(まがき)が島も湾内のほど近いところに見える。 漁師の小舟が沖からこぞって戻ってきて、魚をわける声がする。それをきいていると古人が「つなでかなしも」と詠んだ哀切の情も胸に迫り、しみじみ感慨深い。 その夜、目の不自由な法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃というものを語った。平家琵琶とも幸若舞とも違う。本土から遠く離れたひなびた感じだ。それを高い調子で語るから、枕近く感じられてちょっとうるさかったが、さすがに片田舎に古い文化を守り伝えるものだから興味深く、感心して聴き入った。
22.塩釜 /mp3/haiku/okunohosomiti/22.mp3 原文 早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎奇(寄)進」と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命(名)今に至りて、したはずといふ事なし。誠(まことに)「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。日既に午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。
現代語訳 早朝、塩釜(塩竃)神社に参詣する。伊達政宗公が再建した寺で、堂々とした柱が立ち並び、垂木(屋根を支える木材)がきらびやかに光り、石段がはるか高いところまで続き。朝日が差して朱にそめた玉垣(かきね)を輝かしている。 このような奥州の、はるか辺境の地まで神の恵みが行き渡り、あがめられている。これこそ我国の風習だと、たいへん尊く思った。 神殿の前に古い宝燈があった。金属製の扉の表面に、「文治三年和泉三郎寄進」と刻んである。父秀衡の遺言に従い最後まで義経を守って戦った奥州の藤原忠衡(ふじわらただひら)である。 義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、何がどうということではないが、とにかく有難く思った。 俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。 「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる」というが、本当にその通りだ。 もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。
23.松島 ◎松島 雄島 瑞巌寺 石巻 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/23.mp3 原文 仰(そもそも)ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮(うしお)をたゝふ。島々の数を尽して、欹(そばた)つものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹たはめて、屈曲をおのづからためたるがごとし。其の景色ヨウ然として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。 雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、座禅石など有。将(はた)、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵閑(しづか)に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たえ)なる心地はせらるれ。 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風(さんぷう)・濁子(じょくし)が発句あり。 十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなられける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
現代語訳 まあ古くから言われていて今さら言うことでもないのだが、松島は日本一景色のよい所だ。中国で絶景として名高い洞庭・西湖と比べても見劣りがしないだろう。 湾内に東南の方角から海が流れ込んでいて、その周囲は三里、中国の浙江を思わせる景色をつくり、潮が満ちている。 湾内は沢山の島々があり、そそり立った島は天を指差すようで、臥すものは波にはらばうように見える。あるものは二重に重なり、またあるものは三重にたたみかかり、左にわかれ右につらなっている。 小島を背負っているように見える島もあり、前に抱いているようなのもあり、まるで親が子や孫を抱いて可愛がってるようにも見える。 松の緑はびっしりと濃く、枝葉は汐風に吹きたはめられて、その屈曲は自然のものでありながら、人が見栄えいいように意図的に曲げたように見える。 蘇東坡の詩の中で、西湖の景色を絶世の美人、西施が美しく化粧した様子に例えているが、この松島も深い憂いをたたえ、まさに美人が化粧したさまを思わせる。 神代の昔、山の神「大山祇(おおやまずみ)」が作り出したものだろうか。自然の手による芸術品であるこの景色は、誰か筆をふるい言葉をつくしても、うまく語れるものではない。 雄島の磯は陸から地続きで、海に突き出している島である。瑞巌寺中興の祖、雲居禅師の別室の跡や、座禅石などがある。 また、世の喧騒をわずらわしく思い庵を建てて隠遁生活をしている人の姿も松の木陰に何人か見える。 落穂や松笠を集めて炊いて食料にしているようなみすぼらしい草の庵の静かな暮らしぶりで、どういう来歴の人かはわからないが、やはり心惹かれるものがあり立ち寄りなりなどしているうちに、月が海に映って、昼とはまたぜんぜん違う景色となった。 浜辺に帰って宿を借りる。窓を開くと二階作りになっていて、風と雲の中にじかに旅寝しているような、表現しがたいほど澄み切った気持ちにさせられた。 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良 (ここ松島ではほととぎすはそのままの姿ではつりあわない。鶴の衣をまとって、優雅に見せてくれ) 曾良は句を詠んだが私は感激のあまり句が出てこない。眠ろうとしてもワクワクして寝られない。 深川の庵を出る時、素堂が松島の詩を、原安適が松が浦島を詠んだ和歌を餞別してくれた。それらを袋から取り出し、今夜一晩を楽しむよすがとする。 また、杉風・濁子の発句もあった。 十一日、瑞巌寺に参詣する。この寺は創始者の慈覚大師から数えて三十二代目にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して入唐(正しくは入宋)して、帰朝の後開山した。 その後、雲居禅師が立派な徳によって多くの人々を仏の道に導いた、これによって七堂すべて改築され、金色の壁はおごそかな光を放ち、極楽浄土が地上にあらわれたかと思える立派な伽藍が完成した。 かの名僧見仏聖の寺はどこだろうと慕わしく思われた。
24.石の巻 /mp3/haiku/okunohosomiti/24.mp3 原文 十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうじょう)の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百(すはく)の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
現代語訳 十二日、いよいよ平泉を目指して進んでいく。あねはの松・緒だえの橋など歌枕の地があると聞いていたので、人通りもとぼしい獣道を、不案内な中進んでいくが、とうとう道を間違って石巻という港に出てしまった。 大伴家持が「こがね花咲」と詠んで聖武天皇に献上した金花山が海上に見える。数百の廻船(人や荷物を運ぶ商業船)が入り江に集まり、人家がひしめくように建っており、炊事する竈の煙がさかんに立ち上っている。 思いかけずこういう所に来たものだなあと、宿を借りようとしたが、まったく借りられない。ようやく貧しげな小家に泊めてもらい、翌朝またハッキリしない道を迷いつつ進んだ。 袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱原など歌枕の地が近くにあるらしいが所在がわからず、よそ目に見るだけで、どこまでも続く川の堤を進んでいく。 どこまで長いか不安になるような長沼という沼沿いに進み、戸伊摩というところで一泊して、平泉に到着した。その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。
25.平泉 ◎平泉 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/25.mp3 原文 三代の栄耀(えよう)一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡(ひでひら)が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡(やすひら)等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曾良 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽て、既(すでに)頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)と成べきを、四面新(あらた)に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時(しばらく)千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。 五月雨の降のこしてや光堂
現代語訳 藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代の栄光も、邯鄲一炊の夢の故事のようにはかなく消え、南大門の跡はここからすぐ一里の距離にある。 秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという【金鶏山】だけが、形を残している。 まず義経の館のあった高台、【高舘】に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。 衣川は秀衡の三男和泉三郎の居城跡をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。 嫡男泰衡の居城跡は、衣が関を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。 それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。 国は滅びて跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。 夏草や 兵どもが 夢の跡 (意味)奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。 卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良 (意味)白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される) かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂には藤原三代頭首の像、光堂にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。 奥州藤原氏の所有していた宝物の数々は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。 今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。 五月雨の 降りのこしてや 光堂 (意味)全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ。
26.尿前の関 ◎尿前の関 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/26.mp3 原文 南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既(すでに)暮ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。 蚤虱馬の尿する枕もと あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我ゝが先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分ゝ、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、「此みち必不用(ぶよう)の事有。恙(つつが)なうをくりまいらせて仕合したり」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とヾろくのみ也。
現代語訳 南部地方へ続く遠い南部街道を目の前にして、岩手の宿に泊まった。小黒崎・みづの小島という歌枕の地を過ぎて、鳴子温泉から尿前の関にかかって、出羽の国に越えようとしたのだ。 この街道はめったに旅人など通らない道なので、関守に不審がられて色々きかれ、やっとのことで関を越すことができた。 鳴子から羽前に出る中山越えの山道をのぼったところ、もう日が暮れてしまったので、国境を警護する人の家をみつけて、一夜の宿をお願いした。 三日間嵐となり、することもない山中に足止めされてしまった。 蚤虱馬の尿する枕もと (意味)こうやって貧しい旅の宿で寝ていると蚤や虱に苦しめられる。その上宿で馬を飼っているので馬が尿をする音が響く。その響きにさえ、ひなびた情緒を感じるのだ。 宿の主人の言うことには、これから出羽の国にかけては険しい山道を越えねばならず、道もはっきりしないので案内人を頼んで超えたがよかろうということだった。 ではそうしようと人を頼んだところ、屈強な若者が反り返った脇差を横たえて、樫の杖を持って私たちを先導してくれた。 今日こそ必ず危ない目にあうに違いないとびくびくしながらついて行った。 主人の言ったとおり、高い山は静まり返っており、一羽の鳥の声も聞こえない。うっそうと繁る木々の下は、まるで夜道のように暗い。 杜甫の詩に「雲の端から土がこぼれるようだ」とあるが、まさにそんな感じで、篠の中を踏み分けつつ進んでいき、渓流を越え岩につまづいて、肌には冷たい汗を流し、やっとのことで最上の庄についた。 例の案内してくれた男は「この道を通れば必ず不測の事態が起こるのですが今日は何事もなく送ることができ幸運でした」と言ってくれ、喜びあって別れた。 そんな物騒な道と前もってきかされていたわけではなかったが、それにしても胸がつまるような心持だった。
27.尾花沢 ◎尾花沢 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/27.mp3 原文 尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。 涼しさを我宿にしてねまる也 這出よかひやが下のひきの声 まゆはきを俤にして紅粉の花 蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良
現代語訳 尾花沢にて以前江戸で知り合った清風という人を訪ねた。この人は大富豪なのだが金持ちにありがちな品性のいやしさなどまるでない。 江戸にも時々出てきているので、さすがに旅人の気持ちもわかっているようだ。何日か逗留させてくれ、長旅の疲れを労ってくれ、いろいろともてなしてくれた。 涼しさを我宿にしてねまる也 (意味)この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるようにくつろげるのだ。 這出よかひやが下のひきの声 (意味)飼屋の下でひきがえるの声がしている。どうかひきがえるよ、出てきて手持ち無沙汰な私の相手をしておくれ。 まゆはきを俤にして紅粉の花 (意味)尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させるあでやかさを感じる。 蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良 (意味)養蚕する人たちのもんぺ姿は、神代の昔もこうだったろうと思わせる素朴なものだ。
28.立石寺 ◎山寺 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/28.mp3 原文 山形領(やまがたのりょう)に立石寺(りゅうしゃくじ)と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊(ことに)清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依(より)て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧(しょうはくとしふり)、土石老て苔滑(こけなめらか)に、岩上(がんしょう)の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行のみおぼゆ。 閑さや岩にしみ入る蝉の声
現代語訳 山形藩の領内に、立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、特別景色がよく静かな場所だ、一度は見ておくべきだ。人々がこうすすめるので、尾花沢から引き返した。その間、七里ばかりである。 まだ日暮れまでは時間がある。ふもとの宿坊に泊まる手はずを整えて、山上の堂にのぼる。多くの岩が重なりあって山となったような形で、松や柏など常緑の古木がしげり、土や岩は滑らかに苔むしている。 岩の上に建つどの寺院も扉を閉じて、物音がまったく聞こえない。崖から崖へ、岩から岩へ渡り歩き、仏閣に参拝する。 景色は美しく、ひっそり静まりかえっている。心がどこまでも澄み渡った。 閑さや岩にしみ入る蝉の声 (意味)ああ何という静けさだ。その中で岩に染み通っていくような蝉の声が、いよいよ静けさを強めている。
29.最上川 ◎大石田・最上川 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/29.mp3 原文 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰(ここ)に至れり。 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云(いう)おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ゝ(ひまひま)に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 五月雨をあつめて早し最上川
現代語訳 最上川の川下りをしようと思い、大石田という場所で天気がよくなるのを待った。 かつてこの地に談林派の俳諧が伝わり、俳諧の種がまかれ、それが花開いた昔のことを、土地の人は懐かしんでいる。 葦笛を吹くようなひなびた心を俳諧の席を開いて慰めてくれる。 「この地では俳諧の道を我流でさぐっているのですが、新しい流行の俳諧でいくか、古い伝統的なものでいくか、指導者がいないので決めかねています」と土地の人がいうので、やむを得ず歌仙を一巻残してきた。 今回の風流の旅は、とうとうこんなことまでする結果になった。 最上川の源流は陸奥であり、上流は山形である。碁点・はやぶさなどという、恐ろしい難所がある。歌枕の地、板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に流れ込んでいる。左右に山が覆いかぶさって、茂みの中に舟を下していく。 これに稲を積んだものが、古歌にある「稲船」なのだろうか。 有名な白糸の滝は青葉の間間に流れ落ちており、義経の家臣、常陸坊海尊をまつった仙人堂が岸のきわに建っている。 水量が豊かで、何度も舟がひっくり返りそうな危ない場面があった。 五月雨をあつめて早し最上川 (意味)降り注ぐ五月雨はやがて最上川へ流れこみ、その水量と勢いを増し、舟をすごい速さで押し流すのだ。
30.羽黒 ◎羽黒山 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/30.mp3 原文 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁(えつ)す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。 四日、本坊にをゐて俳諧興行。 有難(ありがた)や雪をかほらす南谷 五日、権現に詣。当山開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)は、いづれの代(よ)の人と云事を知らず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記(ふどき)に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡(ぶこうとうえい)に属して、天台止観(てんだいしかん) の月明らかに、円頓融通(えんどんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴(たっとび)且(かつ)恐る。繁栄長(とこしなえ)にして、めで度(たき)御山と謂つべし。
現代語訳 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉というものを訪ねて、その手引きで山を統括する責任者の代理人(別当代)である、会覚阿闍梨に拝謁した。 阿闍梨は南谷の別院に泊めてくださり、色々と心をつくしてもてなしてくださった。 四日、本坊若王寺で俳諧をもよおし、こんな発句を詠んだ。 有難や雪をかほらす南谷 (意味)残雪の峰々から冷ややかな風が私のいる南谷まで吹いてくる。それはこの神聖な羽黒山の雰囲気にぴったりで、ありがたいことだ。 五日、羽黒権現に参詣する。この寺を開いた能除大師という方は、いつの時代の人か、わからない。 「延喜式」に「羽州里山の神社」という記述がある。書き写す人が「黒」の字を間違って「里山」としたのだろうか。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」といったのだろうか。 「出羽」という言い方については、「鳥の羽毛をこの国の特産物として朝廷に献上した」と風土記に書いてあるとかいう話である。 月山、湯殿を合わせて、「出羽三山」とする。 この寺は江戸の東叡山寛永寺に所属し、天台宗の主な教えである「止観」は月のように明らかに実行されている。 「円頓融通」の教理を灯火をかかげるようにかかげ、僧坊(僧が生活する小さな建物)が棟を並べて建っている。 僧たちは互いに励ましあって修行している。霊山霊地のご利益を、人々は尊び、かつ畏れている。 繁栄は永久につづくだろう。尊い御山と言うべきだと思う。
◎月山 (YouTube) 原文 八日、月山にのぼる。木綿(ゆう)しめ身に引かけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包、強力(ごうりき)と云ものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道(じつげつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻(いた)れば、日没て月顕(あらは)る。笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
現代語訳 八日、月山に登る。木綿しめを体に引っかけ、宝冠に頭をつつみ、強力という者に導かれて、雲や霧がたちこめる山気の中に氷や雪を踏みながら八里の道のりを登っていく。 太陽や月の軌道の途中にある、とてつもなく高い位置にある雲の関に入っていくのではないかという思いだった。 息は絶え、体は凍えて、ようやく頂上にたどり着くと、太陽が沈んで月があらわれる。笹や篠の上に寝転んで、横たわって夜が明けるのを待った。 太陽が昇り雲が消えたので、湯殿山に向けて山を下っていく。
原文 谷の傍(かたわら)に鍛冶小屋と云有(いうあり)。此国の鍛冶、霊水を撰(えらび)て、爰(ここ)に潔斎(けっさい)して剣(つるぎ)を打、終(ついに)「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼(かの)竜泉(りょうせん)に剣を淬(にらぐ)とかや。干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花(ばいか)爰(ここ)にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰(ここ)に思ひ出て、猶(なお)まさりて覚ゆ。惣て、此(この)山中の微細(みさい)、行者の法式として他言する事を禁ず。仍(よっ)て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼の句々短冊に書。 涼しさやほの三か月の羽黒山 雲の峰いくつ崩れて月の山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 湯殿山銭ふむ道の泪かな
現代語訳 谷のかたわらに、鍛冶小屋と呼ばれる場所があった。ここ出羽の国では刀鍛冶は霊験あらたかな水を選んで、身を清めて剣を打ち(作り)、仕上げに「月山」という銘を刻んで世の中からもてはやされてきた。 中国でも「竜泉」という泉で鍛えた剣がもてはやされたというが、同じようなことなのだ。 月山の刀鍛冶たちも古代中国の有名な刀鍛冶、干将・莫耶夫婦のことを慕って、そのような工法をするのだろう。 一つの道に秀でた者は、そのこだわりぶりも並大抵のことではないのだ。 岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺(90センチ)ほどの桜のつぼみが、半分ほど開いていた。 降り積もる雪の下に埋もれながら、春の訪れを忘れず遅まきながら花を咲かす…花の性質は実にいじらしいものだと感心した。 中国の詩にある「炎天の梅花」が、目の前でに香りたっているように思えた。 「もろともにあはれと思へ山桜」という行尊僧正の歌の情をも思い出した。むしろこちらの花のほうが僧正の歌より趣が深いとさえ感じる。 いったいに、この山中で起こった細かいことは修行する者の掟として口外することを禁じられている。だからこれ以上は書かない。 宿坊に戻ると阿闍梨に句を求められたので巡礼した三山それぞれの句を短冊に書いた。 涼しさやほの三か月の羽黒山 (意味)ああ涼しいな。羽黒山の山の端にほのかな三日月がかかっている。 雲の峰幾つ崩て月の山 (意味)空に峰のようにそびえる入道雲が、いくつ崩れてこの月山となったのだろう。天のものが崩れて地上に降りたとか思えない、雄大な月山のたたずまいだ。 語られぬ湯殿にぬらす袂かな (意味)ここ湯殿山で修行する人は山でのことを一切口外してはいけないというならわしがあるが、そういう荘厳な湯殿山に登って、ありがたさに涙を流したことよ。 湯殿山銭ふむ道の泪かな (意味)湯殿山には、地上に落ちたものを拾ってはならないというならわしなので、たくさん落ちている賽銭を踏みながら参詣し、そのありがたさに涙を流すのだった。 修験道で知られる出羽三山(羽黒・月山・湯殿)です。芭蕉はそれぞれ丁寧に描写していきます。各山に対応した句も見事です。 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし(行尊) ↑百人一首の行尊僧正の歌が関係してきます。
31.酒田 ◎鶴岡・酒田(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/31.mp3 原文 羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。 あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ 暑き日を海にいれたり最上川
現代語訳 羽黒をたって、鶴が岡の城下で長山氏重行という武士の家に迎えられて、俳諧を開催し、一巻歌仙を作った。 図司左吉もここまで送ってくれる。川舟の乗って酒田の港へ下る。その日は淵庵不玉という医者のもとに泊めてもらう。 あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ (意味)ここあつみ山から吹浦(海)を見下ろす。「あつみ山」と名前からして暑さを思わせる山から涼しい風を思わせる吹浦を見下ろすのは、しゃれた夕涼みだ。 暑き日を海にいれたり最上川 (意味)最上川の沖合いを見ると、まさに真っ赤な太陽が沈もうとしている。そのさまは、一日の暑さをすべて海に流し込んでいるようだ。
32.象潟 ◎象潟 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/32.mp3 原文 江山水陸(こうざんすいりく)の風光(ふうこう)数を尽して、今象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責(せむ)。酒田の湊より東北の方、山を越、礒(いそ)を伝ひ、いさごをふみて其際(そのさい)十里、日影やゝかたぶく比(ころ)、汐風(しおかぜ)真砂(まさご)を吹上、雨朦朧(もうろう)として鳥海(ちょうかい)の山かくる。闇中(あんちゅう)に莫作(もさく)して「雨も又奇(き)也(なり)」とせば、雨後の晴色(せいしき)又頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝をいれて、雨の晴(はるる)を待。其朝(そのあした)天能(よく)霽(はれ)て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先(まず)能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(こうしょう)に御陵(みささぎ)あり。神功皇宮(じんぐうこうぐう)の御墓と云。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云。此処(このところ)に行幸(ぎょうこう)ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲(まけ)ば、風景一眼の中(うち)に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江(え)にあり。西はむやゝの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙(はるか)に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢(ちせい)魂をなやますに似たり。 象潟や雨に西施がねぶの花 汐越や鶴はぎぬれて海涼し 祭礼 象潟や料理なにくふ神祭り 曾良 蜑(あま)の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳 岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る 波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良
現代語訳 海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。 象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。 太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。 暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。 次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。 まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。 それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。 水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。 この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。 南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。 北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。 寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。 象潟や雨に西施がねぶの花 (意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる。蘇東坡(蘇拭)の詩「飲湖上初晴後雨(湖上に飲む、初め晴れ後雨ふる)」を踏まえる。「西湖をもって西子に比せんと欲すれば 淡粧濃沫総て相宜し」 「飲湖上初晴後雨」蘇東坡 汐越や鶴はぎぬれて海涼し (意味)汐越の浅瀬に鶴が舞い降りた。その脛が海の水に濡れて、いかにも涼しげだ。衣が短くすねが長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、まさに鶴はぎだなぁと感心した。 ちょうど熊野権現のお祭りに出くわした。 象潟や料理なに食ふ神祭り 曾良 (意味)熊野権現のお祭りにでくわす。海辺の象潟であるのに、熊野信仰によって魚を食べるのを禁じられ、何を食べるのだろうか。(あるいは「人々はお祭りのご馳走に、何を食べるのだろうか」) 蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳 (意味)漁師たちの家では、戸板を敷き並べて縁台のかわりにして、夕涼みを楽しんでいる。風流なことだ。 岩の上にみさごが巣を作っているのを見て、 波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良 (意味)岩場の、いかにも波が飛びかかってきそうな危うい位置にみさごの巣がある。古歌に「末の松山波こさじとは」とあるが、強い絆で結ばれたみさごの夫婦なんだろう。
33.越後路 ◎越後路 /mp3/haiku/okunohosomiti/33.mp3 原文 酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。 文月や六日も常の夜には似ず 荒海や佐渡によこたふ天河
現代語訳 酒田の人々との交流を楽しんでいるうちに、すっかり日数が経ってしまった。ようやく腰を上げてこれから進む北陸道の雲を眺めやる。 まだまだ先は長い。その遙かな道のりを思うと心配で気が重い。加賀国の都、金沢までは百三十里ときいた。 奥羽三関の一つ、鼠の関を越え、越後の地に入ってまた進んでいく。そして越中の国市振の関に到着する。 その間、九日かかった。暑いのと雨が降るので神経が参ってしまい、持病に苦しめられた。それで特別書くようなこともなかった。 文月や六日も常の夜には似ず 七夕というものは、その前日の六日の夜でさえなんとなくワクワクして特別な夜に感じるよ。 荒海や佐渡によこたふ天河 新潟の荒く波立った海の向こうに佐渡島が見える。その上に天の川がかかっている雄大な景色だ。北原白秋の童謡「砂山」には、この句の雰囲気が漂う。
34.市振 ◎市振・越中路 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/34.mp3 原文 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云(いう)北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐(いね)たるに、一間隔て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。年老たるおのこの声も交(まじり)て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成(なり)し。伊勢参宮するとて、此関(このせき)までおのこの送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因(ごういん)、いかにつたなしと、物云(ものいう)をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛(ゆくえ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍ん。衣の上の御情(おんなさけ)に大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給へ」と、泪(なみだ)を落す。不便(ふびん)の事には侍れども、「我ゝは所々にてとゞまる方(かた)おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙(つつが)なかるべし」と、云捨て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし。 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月 曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
現代語訳 今日は親不知・子不知・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を超えて体が疲れたので、枕を引き寄せて寝ていたところ、ふすま一枚へだてて道に面した側の部屋から、若い女の声が聞こえてくる。二人いるようだ。 それに年老いた男の声もする。聞くともなしに聞いていると、この二人の女は越後の国新潟という所の遊女なのだ。 いわゆる「抜け参り」だろう。伊勢参りのため主人に無断で抜け出してきて、この関まで男が送ってきたのだ。明日女の故郷へ返す手紙を書いてこの男に託し、ちょっとした伝言などをしているようだった。 白波の寄せる渚に身を投げ出し、住まいもはっきりしない漁師の娘のように波に翻弄され、遊里に身を沈めて遊女というあさましい身に落ちぶれ、客と真実のない夜毎の契りをして、日々罪を重ねる…前世でどんな悪いことをした報いだろう。いかにも不運だ。 そんなことを話しているのを聞く聞く寝入った。次の朝出発しようとすると、その二人の遊女が私たちに話しかけてきた。 「行き先がわからない旅は心細いものです。あまりにも確かなところがなく、悲しいのです。お坊様として私たちに情けをかけてください。仏の恵みを注いでください。仏道に入る機縁を結ばせてください」 そう言って涙を流すのだ。不憫ではあるが、聞き入れるわけにもいかない。 「私たちはほうぼうで立ち寄ったり長期滞在したりするのです(とても一緒に旅はできません)。ただ人が進む方向についていきなさい。そうすれば無事、伊勢に到着できるでしょう。きっと神はお守りくださいます」 そう言い捨てて宿を出たが、やはり不憫でしばらく気にかかったことよ。 一家に遊女もねたり萩と月 (意味)みすぼらしい僧形の自分と同じ宿に、はなやかな遊女が偶然居合わせた。その宿にわびしく咲く萩を、こうこうと月が照らしている。なんだか自分が萩で遊女が月に思えてくる。 このあらましを曾良に語ると、曾良は書きとめた。
35.那古の浦 /mp3/haiku/okunohosomiti/35.mp3 原文 くろべ四十八(しじゅうはち)が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠(たこ)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是(これ)より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。 わせの香(か)や分入(わけいる)右は有磯海(ありそうみ)
現代語訳 黒部四十八が瀬というのだろうか、数え切れないほどの川を渡って、那古という浦に出た。 「担籠の藤浪」と詠まれる歌枕の地が近いので、春ではないが初秋の雰囲気もまたいいだろう、訪ねようということで人に道を聞く。 「ここから五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入ったところです。漁師の苫屋もあまり無いところだから、「葦のかりねの一夜ゆえ」と古歌にあるような、一夜の宿さえ泊めてくれる人はないでしょう」と脅かされて、加賀の国に入る。 わせの香や分入右は有磯海 (意味)北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入っていくと、右側には歌枕として知られる【有磯海】が広がっている。
36.金沢 ◎金沢 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/36.mp3 原文 卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中(なか)の五日也。爰(ここ)に大坂(おおざか)よりかよふ商人何処(かしょ)と云者(いうもの)有。それが旅宿(りょしゅく)をともにす。一笑と云ものは、此道(このみち)にすける名のほのゞ聞えて、世に知人(しるひと)も侍(はべり)しに、去年(こぞ)の冬、早世したりとて、其兄(そのあに)追善(ついぜん)を催すに、 塚も動け我泣声は秋の風 ある草庵(そうあん)にいざなはれて 秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜(うり)茄子(なすび) 途中ギン(とちゅうぎん) あかゝと日は難面(つれなき)もあきの風
現代文訳 卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢に着いたのは七月二十五日であった。金沢には大阪から行き来している何処という商人がいて、同宿することとなった。 一笑というものは俳諧にうちこんでいる評判がちらほら聞こえてきて、世間では知る人もあったのだが、去年の冬、早世したということで、その兄が追善の句会を開いた。 塚も動け我泣声は秋の風 (意味)一笑よ、君の塚(墓)を目の前にしているが、生前の君を思って大声で泣いている。あたりを吹き抜ける秋風のように激しくわびしい涙なのだ。塚よ、私の呼びかけに答えてくれ! ある草庵に案内された時に、 秋涼し手毎にむけや瓜茄子 (意味)瓜や茄子という秋野菜でもてなしをうけた。いかにも秋の涼しさがあふれる。みなさん、それぞれ瓜や茄子をむこうじゃないですか。その手先にも秋の涼しさを感じてください。 道すがら吟じたもの あかあかと日は難面もあきの風 (意味)もう秋だというのに太陽の光はそんなこと関係ないふうにあかあかと照らしている。しかし風はもう秋の涼しさを帯びている。
37.小松 /mp3/haiku/okunohosomiti/37.mp3 原文 小松と云所(いうところ)にて しほらしき名や小松吹(ふく)萩すゝき 此所(このところ)、太田(ただ)の神社に詣(もうづ)。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらざぶらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打(うっ)たり。真盛討死の後、木曾義仲願状(がんじょう)にそへて、此社(このやしろ)にこめられ侍(はべる)よし、樋口の次郎が使せし事共(ことども)、まのあたり縁起にみえたり。 むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
現代語訳 しほらしき名や小松吹萩すゝき (意味)】「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている。 ここ金沢の地で、太田の神社に参詣した。ここには斉藤別当実盛の兜と錦の直垂の切れ端があるのだ。 その昔、実盛がまだ源氏に属していた時、義朝公から賜ったものだとか。 なるほど、普通の平侍のものとは違っている。目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫り、そこに小金を散りばめ、竜頭には鍬形が打ってある。 実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社にこめた次第や、樋口次郎兼光がその使いをしたことなど、当時のことがまるで目の前に浮かぶように、神社の縁起に書かれている。 むざんやな甲の下のきりぎりす (意味)痛ましいことだ。勇ましく散った実盛の名残はもうここには無く、かぶとの下にはただ コオロギが鳴いている。
38.那谷 ◎那谷・山中 /mp3/haiku/okunohosomiti/38.mp3 原文 山中の温泉(いでゆ)に行ほど、白根(しらね)が嶽(だけ)跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(かざん)の法皇、三十三所(さんじゅうさんじょ)の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂(しょうどう)、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。 石山の石より白し秋の風
現代語訳 山中温泉に行く道すがら、白根が岳を背にして歩んでいく。左の山際に観音堂がある。花山法皇が西国三十三か所の巡礼をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像を安置されて、「那谷」と名付けられたということだ。 三十三か所の最初の札所である那智と最期の札所である谷汲から、それぞれ一時ずつ取ったということだ。 珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている。萱ぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、景色のよい場所である。 石山の石より白し秋の風 (意味)那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く清浄に感じるのが吹き抜ける秋の風だ。境内にはおごそかな空気がたちこめている。
39.山中 /mp3/haiku/okunohosomiti/39.mp3 原文 温泉に浴す。其功有明に次と云。 山中や菊はたおらぬ湯の匂 あるじとする物は、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(しょうどう)也(なり)。かれが父俳諧を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ)、若輩のむかし、爰(ここ)に来りし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳(ていとく)の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村(このいっそん)判詞(はんじ)の料(りょう)を請ずと云(いう)。今更むかし語とはなりぬ。 曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云(いう)所にゆかりあれば、先立て行に、 行ゝて(ゆきゆきて)たふれ伏とも萩の原 曾良 と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、 今日よりや書付消さん笠の露
現代語訳 山中温泉に入る。その効用は、有馬温泉に次ぐという。 山中や菊はたおらぬ湯の匂 (意味)菊の露を飲んで七百歳まで生きたという菊児童の伝説があるが、ここ山中では菊の力によらずとも、この湯の香りを吸っていると十分に長寿のききめがありそうだ。 主人にあたるものは久米之助といって、いまだ少年である。その父は俳諧をたしなむ人だ。 京都の安原貞室がまだ若い頃、ここに来た時俳諧の席で恥をかいたことがある。貞室はその経験をばねにして、京都に帰って松永貞徳に入門し、ついには世に知られる立派な俳諧師となった。 名声が上がった後も、貞室は(自分を奮起させてくれたこの地に感謝して)俳諧の添削料を受けなかったという。こんな話ももう昔のこととなってしまった。 曾良は腹をわずらって、伊勢の長島というところに親戚がいるので、そこを頼って一足先に出発した。 行行てたふれ伏とも萩の原 曾良 (意味)このまま行けるところまで行って、最期は萩の原で倒れ、旅の途上で死のう。それくらいの、旅にかける志である。 行く者の悲しみ、残る者の無念さ、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである。私も句を詠んだ。 今日よりや書付消さん笠の露 (意味)ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。
40.全昌寺・汐越の松 ◎大聖寺 汐越の松 天竜寺 永平寺 福井 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/40.mp3 原文 大聖持(だいしょうじ)の城外、全昌寺(ぜんしょうじ)といふ寺にとまる。猶(なお)加賀の地也(なり)。曾良も前の夜(よ)、此(この)寺に泊て、 終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山 と残す。一夜の隔(へだて)千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮(しゅりょう)に臥ば、明ぼのゝ空近う読経(どきょう)声すむまゝに、鐘板(しょうばん)鳴て食堂(じきどう)に入。けふは越前の国へと、心早卒(そうそつ)にして堂下(どうか)に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来る。折節(おりふし)庭中(ていちゅう)の柳散れば、 庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳 とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。 越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さおさ)して、汐越(しおこし)の松を尋ぬ。 終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松 西行 此(この)一首にて、数景(すけい)尽たり。もし一弁を加(くわう)るものは、無用の指を立(たつ)るがごとし。
現代語訳 加賀の城下町【大聖寺】の城外、全昌寺という寺に泊まる。いまだ加賀の国である。 曾良も前の晩この寺に泊まり、一句残していた。 終宵秋風聞やうらの山 (意味)裏山を吹く淋しい秋風の音を一晩中きいて、眠れない夜であったよ。一人旅の寂しさが骨身にしみる。 今まで一緒に旅してきたのが一晩でも離れるのは、千里を隔てるように淋しく心細い。私も秋風を聞きながら僧の宿舎に泊めてもらった。 夜明け近くなると、読経の声が澄み渡り、合図の鐘板をついて食事の時間を知らせるので食堂(じきどう)に入った。 今日は越前の国に越えるつもりである。あわただしい気持ちで食堂から出ると、若い僧たちが紙や硯をかかえて寺の石段のところまで見送ってくれる。 ちょうど庭に柳の葉が散っていたので、 庭掃て出ばや寺に散柳 (意味)寺の境内に柳の葉が散り敷いている。寺に泊めてもらったお礼に、ほうきで掃いてから出発しようよ。 草鞋ばきのままあわただしく句を作った。推敲する余裕もなく書きっぱなしだ。 加賀と越前の境、吉崎の入江で船に乗って、汐越の松を訪ねた。 終宵嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松 西行 (意味)夜通し打ち寄せる波が松の木にかぶさって、松の梢に波の雫がしたたっている。それに月光がキラキラして、まるで月の雫のようだ。 この一首の中に、すべての景色は詠みこまれている。もし一言付け加えるものがあれば、五本ある指にいらないもう一本を付け加えるようなものだ。
41.天竜寺・永平寺 /mp3/haiku/okunohosomiti/41.mp3 原文 丸岡天竜寺(まるおかてんりゅうじ)の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。又、金沢の北枝(ほくし)といふもの、かりそめに見送りて此処(このところ)までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつヾけて、折節(おりふし)あはれなる作意など聞ゆ。今既(すでに)別(わかれ)に望みて、 物書て扇引さく余波哉 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機(ほうき)千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。
現代語訳 丸岡の天竜寺の長老は古い知人だから訪ねた。また、金沢の北枝というものがちょっとだけ見送るといいつつ、とうとうここまで慕いついてきてくれた。 その場その場の美しい景色を見逃さず句を作り、時々は句の意図を解説してくれた。その北枝ともここでお別れだ。 物書て扇引さく余波哉 (意味)金沢の北枝としばらく同行してきたが、いよいよお別れだ。道すがら句を書きとめてきた扇を引き裂くように、また夏から秋になって扇をしまうように、それは心痛む別れなのだ。 五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。
42.等栽 /mp3/haiku/okunohosomiti/42.mp3 原文 福井は三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆうげ)したゝめて出(いづ)るに、たそかれの路(みち)たどゝし。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いう)古き隠士(いんし)有(あり)。いづれの年にか、江戸に来りて予(よ)を尋(たずぬ)。 遙(はるか)十(と)とせ余り也。いかに老さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと人に尋(たずね)侍(はべ)れば、いまだ存命して、そこゝと教ゆ。市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいえ)に、夕貌(ゆうがお)・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木ヾ(ははきぎ)に戸ぼそをかくす。さては、此(この)うちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此(この)あたり何がしと云(いう)ものゝ 方に行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋給(たずねたま)へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋(たずね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立(だつ)。等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、路の枝折(しおり)とうかれ立。
現代語訳 福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出たところ、夕暮れの道なので思うように進めなかった。 この地には等裁という旧知の俳人がいる。いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。 もう十年ほど昔のことだ。どれだけ年取ってるだろうか、もしかしたら亡くなっているかもしれぬと人に尋ねると、いまだ存命で、けっこう元気だと教えてくれた。 町中のちょっと引っ込んだ所にみすぼらしい小家があり、夕顔・へちまがはえかかって、鶏頭・ははきぎで扉が隠れている。 「さてはこの家だな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女が出てきて、「どこからいらっしゃった仏道修行のお坊様ですか。主人はこのあたり某というものの所に行っています。もし用があればそちらをお訪ねください」と言う。 等裁の妻に違いない。昔物語の中にこんな風情ある場面があったなあと思いつつ、すぐにそちらを訪ねていくと等裁に会えた。 等裁の家に二晩泊まって、名月で知られる敦賀の港へ旅たった。等裁が見送りに来てくれた。裾をおどけた感じにまくり上げて、楽しそうに道案内に立ってくれた。
43.敦賀 ◎敦賀 色が浜(YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/43.mp3 原文 漸(ようよう)白根(しらね)が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾(ゆのお)峠を越れば、燧(ひうち)が城、かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。 その夜、月殊(ことに)晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしぢ)の習ひ、猶(なお)明夜(みょうや)の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟(ごびょう)也。社頭神さびて、松の木(こ)の間に月のもり入たる、おまへの白砂(はくさ)霜を敷るがごとし。往昔(そのかみ)、遊行(ゆぎょう)二世(にせ)の上人(しょうにん)、大願発起(たいがんほっき)の事ありて、みづから草を刈(かり)、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいねい)をかはかせて、参詣往来の煩(わずらい)なし。古例(これい)今にたえず、神前に真砂(まさご)を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持(すなもち)と申侍る」と、亭主のかたりける。 月清し遊行のもてる砂の上 十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降。 名月や北国日和(ほっこくびより)定(さだめ)なき
現代語訳 とうとう白根が嶽が見えなくなり、かわって比那が嶽が姿をあらわした。 あさむづの橋を渡ると玉江の蘆は穂を実らせている。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、木曽義仲ゆかりの燧が城があり、帰る山に雁の初音を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。 その夜の月は特に見事だった。「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見れるでしょうか」というと、「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人に酒を勧められ、気比神社に夜参した。 仲哀天皇をおまつりしてある。境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の梢の間に月の光が漏れている。神前の白砂は霜を敷き詰めたようだ。 昔、遊行二世の上人が、大きな願いを思い立たれ、自ら草を刈り、土石を運んできて、湿地にそれを流し、人が歩けるように整備された。だから現在、参詣に行き来するのに全く困らない。 この先例が今でもすたれず、代々の上人が神前に砂をお運びになり、不自由なく参詣できるようにしているのだ。 「これを遊行の砂持ちと言っております」と亭主は語った。 月清し遊行のもてる砂の上 (意味)その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂。その白砂の上に清らかな月が輝いている。砂の表面に月が反射してきれいだ。清らかな眺めだ。 十五日、亭主の言葉どおり、雨が降った。 名月や北国日和定なき (意味)今夜は中秋の名月を期待していたのに、あいにく雨になってしまった。本当に北国の天気は変わりやすいものなのだな。
44.種の浜 /mp3/haiku/okunohosomiti/44.mp3 原文 十六日、空霽(はれ)たれば、ますほ(ますお)の小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走す。海上(かいしょう)七里あり。天屋何某(てんやなにがし)と云もの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風(おいかぜ)時のまに吹着(ふきつき)ぬ。 浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法花寺(ほっけでら)あり。爰(ここ)に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。 寂しさや須磨にかちたる浜の秋 波の間や小貝にまじる萩の塵 其日(そのひ)のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残す。
現代語訳 十六日、空が晴れたので西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと海上を七里舟を走らせ、色の浜を目指した。 天屋なにがしという者が弁当箱や酒の入った竹筒を心細かに用意してくれ、下人を多く案内のために舟に乗せてくれた。 追い風だったので普通より早く色の浜に到着した。 浜にはわずかに漁師の小家があるだけだ。侘しげな法華寺があり、そこで茶を飲み、酒を温めなどした。 この浜の夕暮れの寂しさは格別心に迫るものだった。 寂しさや須磨にかちたる浜の秋 (意味)光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、ここ種の浜は須磨よりはるかに淋しいことよ。 波の間や小貝にまじる萩の塵 (意味)波打ち際の波の間をよく見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散っている。
45.大垣 ◎大垣 (YouTube) /mp3/haiku/okunohosomiti/45.mp3 原文 露通(ろつう)も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入集る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外(そのほか)したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且(かつ)悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
現代語訳 路通もこの港まで迎えに出てきて、美濃の国へ同行してくれた。馬に乗って大垣の庄に入ると、曾良も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばしてきて、如行の家に集合した。 前川子・荊口父子、その他の親しい人々が日夜訪問して、まるで死んで蘇った人に会うように、喜んだりいたわってくれたりした。 旅の疲れもまだ取れないままに、九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝むため、また舟に乗って旅立つのだった。 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (意味)離れがたい蛤のふたと身が別れていくように、お別れの時が来た。私は二見浦へ旅立っていく。もう秋も過ぎ去ろうとしている
46.跋 /mp3/haiku/okunohosomiti/46okunohosomiti.mp3 原文 からびたるも艶なるも、たくみましきも、はかなげなるも、おくの細みちみもて行に、おぼえずたちて手たたき、伏して村肝を刻む。一般(ひとたび)は蓑をきるきるかゝる旅せまほしと思立、一たびは座してまのあたり奇景をあまんず。かくて百般の情に、鮫人が玉を翰(ふで)にしめしたり。旅なる哉、器なるかな。只なげかしきは、かうやうの人のいとかよはげにて、眉の霜のをきそふぞ。 元禄七年初夏 素竜書
現代語訳 枯れて侘しい情緒も、力強いのも、か弱い感じも、「奥の細道」を読んでいくと思わず立ち上がって感激に手を叩いたり、また坐ったまま感動に胸が熱くなったりする。 私も一度は蓑をきてこのような旅をしたいものだと思い立ちったり、またある時は座ったままその景色を想像して満足したりする。 こういった様々な感動を、まるで人魚の涙が結晶して玉となったように、文章の力によって形にしたのだ。 「奥の細道」の旅の、なんと素晴らしいことか。また芭蕉の才能のなんと優れていることか。 ただ嘆かわしいことに、このように才能ある芭蕉が健康にはめぐまれず、かよわげなことで、眉毛にはだんだん白いものが増えていっている。 元禄七年初夏 素竜しるす

引用文献

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『奥の細道』について 松尾芭蕉について 俳諧について 『野ざらし紀行』 『笈の小文』 『更級紀行』

江守孝三(Emori Kozo)

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Matsuo Basho's "Narrow Road to the Deep North"
   Tr. by Nobuyuki Yuasa



「奥の細道図屏風」与謝蕪村 (1716-1783)
Matsuo Basho's "Narrow Road to the Deep North" with illustrations (J., haiga) by Yosa Buson
(Important Cultural Property). Edo period, dated 1779.
http://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&language=en&data_id=980&list_id=3701
http://www.emuseum.jp/detail/100981?d_lang=en&s_lang=en&word=&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=273&num=4&mode=detail&century=



Station 1 - Prologue

Days and months are the travellers of eternity. So are the years that pass by. Those who steer a boat across the sea, or drive a horse over the earth till they succumb to the weight of years, spend every minute of their lives travelling. There are a great number of the ancients, too, who died on the road. I myself have been tempted for a long time by the cloud-moving wind- filled with a strong desire to wander.

It was only toward the end of last autumn that I returned from rambling along the coast. I barely had time to sweep the cobwebs from my broken house on the River Sumida before the New Year, but no sooner had the spring mist begun to rise over the field than I wanted to be on the road again to cross the barrier-gate of Shirakawa in due time. The gods seem to have possessed my soul and turned it inside out, and the roadside images seemed to invite me from every corner, so that it was impossible for me to stay idle at home.

Even while I was getting ready, mending my torn trousers, tying a new strap to my hat, and applying moxa to my legs to strengthen them, I was already dreaming of the full moon rising over the islands of Matsushima. Finally, I sold my house, moving to the cottage of Sampu, for a temporary stay. Upon the threshold of my old home, however, I wrote a linked verse of eight pieces and hung it on a wooden pillar.

The starting piece was:

Behind this door
Now buried in deep grass
A different generation will celebrate
The Festival of Dolls.

 

Station 2 - Departure

It was early on the morning of March the twenty-seventh that I took to the road. There was darkness lingering in the sky, and the moon was still visible, though gradually thinning away. The faint shadow of Mount Fuji and the cherry blossoms of Ueno and Yanaka were bidding me a last farewell. My friends had got together the night before, and they all came with me on the boat to keep me company for the first few miles. When we got off the boat at Senju, however, the thought of three thousand miles before me suddenly filled my heart, and neither the houses of the town nor the faces of my friends could be seen by my tearful eyes except as a vision.

The passing spring
Birds mourn,
Fishes weep
With tearful eyes.

With this poem to commemorate my departure, I walked forth on my journey, but lingering thoughts made my steps heavy. My friends stood in a line and waved good-bye as long as they could see my back.

 

Station 3 - Soka

I walked all through that day, ever wishing to return after seeing the strange sights of the far north, but not really believing in the possibility, for I knew that departing like this on a long journey in the second year of Genroku I should only accumulate more frosty hairs on my head as I approached the colder regions. When I reached the village of Soka in the evening, my bony shoulders were sore because of the load I had carried, which consisted of a paper coat to keep me warm at night, a light cotton gown to wear after the bath, scanty protection against the rain, writing equipment, and gifts from certain friends of mine. I wanted to travel light, of course, but there were always certain things I could not throw away either for practical or sentimental reasons.

 

Station 4 - Muronoyashima

I went to see the shrine of Muronoyashima. According to Sora, my companion, this shrine is dedicated to the goddess called the Lady of the Flower-Bearing Trees, who has another shrine at the foot of Mt.Fuji. This goddess is said to have locked herself up in a burning cell to prove the divine nature of her newly-conceived son when her husband doubted it. As a result, her son was named the Lord Born Out of the Fire, and her shrine, Muro-no-yashima, which means a burning cell. It was the custom of this place for poets to sing of the rising smoke, and for ordinary people not to eat konoshiro, a speckled fish, which has a vile smell when burnt

 

Station 5 - Nikko

I lodged in an inn at the foot of Mount Nikko on the night of March the thirtieth. The host of my inn introduced himself as Honest Gozaemon, and told me to sleep in perfect peace on his grass pillow, for his sole ambition was to be worthy of his name. I watched him rather carefully but found him almost stubbornly honest, utterly devoid of worldly cleverness. It was as if the merciful Buddha himself had taken the shape of a man to help me in my wandering pilgrimage. Indeed, such saintly honesty and purity as his must not be scorned, for it verges closely on the perfection preached by Confucius.

On the first day of April l3, I climbed Mt. Nikko to do homage to the holiest of the shrines upon it. This mountain used to be called Niko. When the high priest Kukai built a temple upon it, however, he changed the name to Nikko, which means the bright beams of the sun. Kukai must have had the power to see a thousand years into the future, for the mountain is now the seat of the most sacred of all shrines, and its benevolent power prevails throughout the land, embracing the entire people, like the bright beams of the sun. To say more about the shrine would be to violate its holiness.

It is with awe
That I beheld
Fresh leaves, green leaves,
Bright in the sun.

Mount Kurokami was visible through the mist in the distance. It was brilliantly white with snow in spite of its name, which means black hair.

Rid of my hair,
I came to Mount Kurokami
On the day we put on
Clean summer clothes.

--written by Sora

My companion's real name is Kawai Sogoro, Sora being his pen name. He used to live in my neighborhood and help me with such chores as bringing water and firewood. He wanted to enjoy the views of Matsushima and Kisagata with me, and also to share with me the hardships of the wandering journey. So he took to the road after taking the tonsure on the very morning of our departure, putting on the black robe of an itinerant priest, and even changing his name to Sogo, which means Religiously Enlightened. His poem, therefore, is not intended as a mere description of Mount Kurokami. The last determination to persist in his purpose.

After climbing two hundred yards or so from the shrine, I came to a waterfall, which came pouring out of a hollow in the ridge and tumbled down into a dark green pool below in a huge leap of several hundred feet. The rocks of the waterfall were so carved out that we could see it from behind, though hidden ourselves in a craggy cave. Hence its nickname, See-from-behind.

Silent a while in a cave,
I watched a waterfall
For the first of
The summer observances

 

Station 6 - Nasu

A friend was living in the town of Kurobane in the province of Nasu. There was a wide expanse of grass-moor, and the town was on the other side of it. I decided to follow a shortcut which ran straight for miles and miles across the moor. I noticed a small village in the distance, but before I reached it, rain began to fall and darkness closed in. I put up at a solitary farmer's house for the night, and started again early next morning. As I was plodding though the grass, I noticed a horse grazing by the roadside and a farmer cutting grass with a sickle. I asked him to do me the favor of lending me his horse. The farmer hesitated for a while, but finally with a touch of sympathy in his face, he said to me, 'There are hundreds of cross-roads in the grass-moor. A stranger like you can easily go astray. This horse knows the way. You can send him back when he won't go any further.' So I mounted the horse and started off, when two small children came running after me. One of them was a girl named kasane, which means manifold. I thought her name was somewhat strange but exceptionally beautiful.

If your name, Kasane,
Means manifold,
How befitting it is also
For a double-flowered pink.

By and by I came to a small village. I therefore sent back the horse, with a small amount of money tied to the saddle.

 

Station 7 - Kurobane

I arrived safely at the town of Kurobane, and visited my friend, Joboji, who was then looking after the mansion of his lord in his absence. He was overjoyed to see me so unexpectedly, and we talked for days and nights together. His brother, Tosui, seized every opportunity to talk with me, accompanied me to his home and introduced me to his relatives and friends. One day we took a walk to the suburbs. We saw the ruins of an ancient dog shooting ground, and pushed further out into the grass-moor to see the tomb of Lady Tamamo and the famous Hachiman Shrine, upon whose god the brave archer, Yoichi, is said to have called for aid when he was challenged to shoot a single fan suspended over a boat drifting offshore. We came home after dark.

I was invited out to the Komyoji Temple, to visit the hall in which was enshrined the founder of the Shugen sect. He is said to have travelled all over the country in wooden clogs, preaching his doctrines.

Amid mountains mountains of high summer,
I bowed respectfully before
The tall clogs of a statue,
Asking a blessing on my journey.

 

Station 8 - Unganji

There was a Zen temple called Unganji in this province. The priest Buccho used to live in isolation in the mountains behind the temple. He once told me that he had written the following poem on the rock of his hermitage with the charcoal he had made from pine.

This grassy hermitage,
Hardly any more
Than five feet square,
I would gladly quit
But for the rain.

A group of young people accompanied me to the temple. they talked so cheerfully along the way that I reached it before I knew it. The temple was situated on the side of a mountain completely covered with dark cedars and pines. A narrow road trailed up the valley, between banks of dripping moss, leading us to the gate of the temple across a bridge. The air was still cold, though it was April.

I went behind the temple to see the remains of the priest Buccho's hermitage. It was a tiny hut propped against the base of a huge rock. I felt as if I was in the presence of the Priest Genmyo's cell or the Priest Houn's retreat. I hung on a wooden pillar of the cottage the following poem which I wrote impromptu.

Even the woodpeckers
Have left it untouched,
This tiny cottage
In a summer grove.

 

Station 9 - Sesshoseki

Taking leave of my friend in Kurobane, I started for the Murder Stone, so called because it kills birds and insects that approached it. I was riding on a horse my friend had lent me, when the farmer who led the horse asked me to compose a poem for him. His request came to me as a pleasant surprise.

Turn the head of your horse
Sideways across the field,
To let me hear
The cry of the cuckoo.

The Murder Stone was in the dark corner of a mountain near a hot spring, and was completely wrapped in the poisonous gas rising from it. There was such a pile of dead bees, butterflies, and other insects, that the real color of the ground was hardly discernable.

I went to see the willow tree which Saigyo celebrated in his poem when he wrote, "Spreading its shade over a crystal stream." I found it near the village of Ashino on the bank of a rice-field. I had been wondering in my mind where this tree was situated, for the ruler of this province had repeatedly talked to me about it, but this day, for the first time in my life, I had an opportunity to rest my worn-out legs under its shade.

When the girls had planted
A square of paddy-field,
I stepped out of
The shade of a willow tree.

 

Station 10 - Shirakawa

After many days of solitary wandering, I came at last to the barrier-gate of Shirakawa, which marks the entrance to the northern regions. Here, for the first time, my mind was able to gain a certain balance and composure, no longer victim to pestering anxiety, so it was with a mild sense of detachment that I thought about the ancient traveller who had passed through this gate with a burning desire to write home. This gate was counted among the three largest checking stations, and many poets had passed through it, each leaving a poem of his own making. I myself walked between trees laden with thick foliage with the distant sound of autumn wind in my ears and a vision of autumn tints before my eyes. There were hundreds and thousands of pure white blossoms of unohana in full bloom on either side of the road, in addition to the equally white blossoms of brambles, so that the ground, at a glance, seemed to be covered with early snow. According to the accounts of Kiyosuke, the ancients are said to have passed through this gate, dressed up in their best clothes.

Decorating my hair
With white blossoms of unohana,
I walked through the gate,
My only gala dress.

-- written by Sora

 

Station 11 - Sukagawa

Pushing towards the north, I crossed the River Abukuma, and walked between the high mountains of Aizu on the left and the three villages of Iwaki, Soma, and Miharu on the right, which were divided from the villages of Hitachi and Shimotsuke districts by a range of low mountains. I stopped at the Shadow Pond, so called because it was thought to reflect the exact shadow of any object that approached its shore. It was a cloudy day, however, and nothing but the grey sky was reflected in the pond. I called on the Poet Tokyu at the post town of Sukagawa, and spent a few days at his house. He asked me how I had fared at the gate of Shirakawa. I had to tell him that I had not been able to make as many poems as I wanted, partly because I had been absorbed in the wonders of the surrounding countryside and the recollections of ancient poets. It was deplorable, however, to have passed the gate of Shirakawa without a single poem worth recording, so I wrote:

The first poetic venture
I came across --
The rice planting-songs
Of the far north.

Using this poem as a starting piece, we made three books of linked verse.

There was a huge chestnut tree on the outskirts of this post town, and a priest was living in seclusion under its shade. When I stood there in front of the tree, I felt as if I were in the midst of the deep mountains where the poet Saigyo had picked nuts. I took a piece of paper from my bag, and wrote as follows:

"The chestnut is a holy tree, for the Chinese ideograph for chestnut is Tree placed directly below West, the direction of the holy land. The Priest Gyoki is said to have used it for his walking stick and the chief support of his house.

The chestnut by the eaves
In magnificient bloom
Passes unnoticed
By men of the world.

 

Station 12 - Asaka

Passing through the town of Hiwada, which was about five miles from the house of the Poet Tokyu, I came to the famous hills of Asaka. The hills were not very far from the highroad, and scattered with numerous pools. It was the season of a certain species of iris called katsumi. So I went to look for it. I went from pool to pool, asking every soul I met on the way where I could possibly find it, but strangely enough, no one had ever heard of it, and the sun went down before I caught even a glimpse of it. I cut across to the right at Nihonmatsu, saw the ancient cave of Kurozuka in a hurry, and put up for the night in Fukushima.

 

Station 13 - Shinobu

On the following morning I made my way to the village of Shinobu to look at the stone upon whose chequered face they used to dye a certain type of cloth called shinobu-zuri. I found the stone in the middle of a small village, half buried in the ground. According to the child who acted as a self-appointed guide, this stone was once on the top of a mountain, but the travellers who came to see it did so much harm to the cropsthat the farmers thought it a nuisance and thrust it down into the valley, where it rests now with its chequered face downward. I thought the story was not altogether unbelievable.

The busy hands
Of rice-planting girls,
Reminiscent somehow
Of the old dyeing technique.

 

Station 14 - Satoshoji

Crossing the ferry of Moon Halo, I came to the post town of Rapid's Head. The ruined house of the brave warrior Sato was about a mile and a half from this post town towards the foot of the mountains on the left. I pushed my way towards the village of Iizuka, and found a hill called Maruyama in the open field of Sabano. This was the site of the warrior's house. I could not refrain from weeping, when I saw the remains of the front gate at the foot of the hill. There was a lonely temple in the vicinity, and tombs of the Sato family were still standing in the graveyard. I wept bitterly in front of the tombstones of the two young wives, remembering how they had dressed up their frail bodies in armor after the death of their husbands. In fact I felt as if I were in the presence of the Weeping Tombstone of China.

I went into the temple to have a drink of tea. Among the treasures of the temple were the sword of Yoshitsune and the satchel which his faithful retainer, Benkei, had carried on his back.

Proudly exhibit
With flying banners
The sword and the satchel
This May festival day.

 

Station 15 - Iizuka

I stopped overnight at Iizuka. I had a bath in a hot spring before I took shelter at an inn. It was a filthy place with rough straw mats spread out on an earth floor. They had to prepare my bed by the dim light of the fire, for there was not even a lamp in the whole house. A storm came upon us towards midnight, and between the noise of the thunder and leaking rain and the raids of mosquitoes and fleas, I could not get a wink of sleep. Furthermore, an attack of my old complaint made me so ill that I suffered severely from repeated attacks while I rode on horseback bound for the town of Kori. It was indeed a terrible thing to be so ill on the road, when there still remained thousands of miles before me, but thinking that if I were to die on my way to the extreme north it would only be the fulfillment of providence, I trod the earth as firmly as possible and arrived at the barrier-gate of Okido in the province of Date.

 

Station 16 - Kasajima

Passing through the castle towns of Abumizuri and Shiroishi, I arrived at the province of Kasajima, where I asked the way to the mound of Lord Sanekata of the Fujiwara family. I was told that I must turn right in the direction of the villages of Minowa and Kasajima visible at the foot of the mountains in the distance, and that the mound was still there by the side of a shrine, buried in deep grass. I wanted to go that way, of course, but the muddy road after the early rain of the wet season and my own weakness stopped me. The names of the two villages were so befitting to the wet season with their echoes of raincoat and umbrella that I wrote:

How far must I walk
To the village of Kasajima
This endlessly muddy road
Of the early wet season?

I stopped overnight at Iwanuma.

 

Station 17 - Takekuma no Matsu

My heart leaped with joy when I saw the celebrated pine tree of Takekuma, its twin trunks shaped exactly as described by the ancient poets. I was immediately reminded of the priest Noin who had grieved to find upon his second visit this same tree cut down and thrown into the River Natori as bridge-piles by the newly-appointed governor of the province. This tree had been planted, cut, and replanted several times in the past, but just when I came to see it myself, it was in its original shape after a lapse of perhaps a thousand years, the most beautiful shape one could possibly think of for a pine tree. The poet Kyohaku wrote as follows at the time of my departure to express his good wishes for my journey:

Don't forget to show my master
The famous pine of Takekuma,
Late cherry blossoms
Of the far north.

The following poem I wrote was, therefore, a reply:

Three months after we saw
Cherry blossoms together
I came to see the glorious
Twin trunks of the pine.

 

Station 18 - Sendai

Crossing the River Natori, I entered the city of Sendai on May the fourth, the day we customarily throw fresh leaves of iris on the roof and pray for good health. I found an inn, and decided to stay there for several days. There was in this city a painter named Kaemon. I made special efforts to meet him, for he was reputed to be a man with a truly artistic mind. One day he took me to various places of interest which I might have missed but for his assistance. We first went to the plain of Miyagino, where fields of bush-clover were waiting to blossom in autumn. The hills of Tamada, Yokono, and Tsutsuji-ga-oka were covered with white rhododendrons in bloom. Then we went into the dark pine woods called Konoshita where even the beams of the sun could not penetrate. This darkest spot on the earth had often been the subject of poetry because of its dewiness - for example, one poet says that his lord needs an umbrella to protect him from the drops of dew when he enters it.

We also stopped at the shrines of Yakushido and Tenjin on our way home.

When the time came for us to say good-bye, this painter gave me his own drawings of Matsushima and Shiogama and two pairs of straw sandals with laces dyed in the deep blue of the iris. In this last appears most clearly perhaps the true artistic nature of this man.

It looks as if
Iris flowers had bloomed
On my feet --
Sandals laced in blue.

 

Station 19 - Tsubo no Ishibumi

Relying solely on the drawings of Kaemon which served as a guide, pushed along the Narrow Road to the Deep North, and came to the place where tall sedges were growing in clusters. This was the home of the famous sedge mats of Tofu. Even now it is the custom of the people of this area to send carefully woven mats as tribute to the governor each year.

I found the stone monument of Tsubo no Ishibumi on the ancient site of the Taga castle in the village of Ichikawa. The monument was about six feet tall and three feet wide, and the engraved letters were still visible on its surface through thick layers of moss. In addition to the numbers giving the mileage to various provinces, it was possible to read the following words: This castle was built upon the present site in the first year of Jinki (724) by General Ono no Azumabito dispatched to the Northern Provinces by His Majesty, and remodelled in the sixth year of Tempyohoji (762) by His majesty's Councillor and general Emi no Asakari, Governor of the Eastern and Northern Provinces.

According to the date given at the end of the inscription, this monument was erected during the reign of Emperor Shomu (724-49), and had stood here ever since, winning the increasing admiration of poets through the years. In this ever changing world where mountains crumble, rivers change their courses, roads are deserted, rocks are buried, and old trees yield to young shoots, it was nothing short of a miracle that this monument alone had survived the battering of a thousand years to be the living memory of the ancients. I felt as if I were in the presence of the ancients themselves, and, forgetting all the troubles I had suffered on the road, rejoiced in the utter happiness of this joyful moment, not without tears in my eyes.

 

Station 20 - Shiogama

Stopping briefly at the River Noda no Tamagawa and the so-called Rock in the Offing, I came to the pine woods called Sue no Matsuyama, where I found a temple called Masshozan and a great number of tombstones scattered among the trees. It was a depressing sight indeed, for young or old, loved or loving, we must all go to such a place at the end of our lives. I entered the town of Shiogama hearing the ding-dong of the curfew. Above was the darkening sky, unusually empty for May, and beyond was the silhouette of Migaki ga Shima Island* not far from the shore in the moonlight.

The voices of the fishermen* dividing the catch of the day made me even more lonely, for I was immediately reminded of an old poem which pitied them for their precarious lives on the sea. Later in the evening, I had a chance to hear a blind minstrel singing to his lute. His songs were different from either the narrative songs of the Heike or the traditional songs of dancing, and were called Okujoruri (Dramatic Narratives of the Far North). I must confess that the songs were a bit too boisterous, when chanted so near my ears, but I found them not altogether unpleasing, for they still retained the rustic flavor of the past.

The following morning, I rose early and did homage to the great god of the Myojin Shrine of Shiogama. This shrine had been rebuilt by the former governor of the province* with stately columns, painted beams, and an impressive stone approach, and the morning sun shining directly on the vermillion fencing was almost dazzlingly bright. I was deeply impressed by the fact that the divine power of the gods had penetrated even to the extreme north of our country, and I bowed in humble reverence before the altar.

I noticed an old lantern in front of the shrine. According to the inscription on its iron window, it was dedicated by Izumi no Saburo in the third year of Bunji (1187). My thought immediately flew back across the span of five hundred years to the days of this most faithful warrior. His* life is certain evidence that, if one performs one's duty and maintains one's loyalty, fame comes naturally in the wake, for there is hardly anyone now who does not honor him as the flower of chivalry.

It was already close to noon when I left the shrine. I hired a boat and started for the islands of Matsushima. After two miles or so on the sea, I landed on the sandy beach of Ojima Island.

 

Station 21 - Matsushima

Much praise has already been lavished on the wonders of the islands of Matsushima. Yet if further praise is possible, I would like to say that here is the most beautiful spot in the whole country of Japan, and that the beauty of these islands is not in the least inferior to the beauty of Lake Dotei or Lake Seiko in China. The islands are situated in a bay about three miles wide in every direction and open to the sea through a narrow mouth on the south-east side. Just as the River Sekko in China is made full at each swell of the tide, so is this bay filled with the brimming water of the ocean and the innumerable islands are scattered over it from one end to the other. Tall islands point to the sky and level ones prostrate themselves before the surges of water. Islands are piled above islands, and islands are joined to islands, so that they look exactly like parents caressing their children or walking with them arm in arm. The pines are of the freshest green and their branches are curved in exquisite lines, bent by the wind constantly blowing through them. Indeed, the beauty of the entire scene can only be compared to the most divinely endowed of feminine countenances, for who else could have created such beauty but the great god of nature himself? My pen strove in vain to equal this superb creation of divine artifice.

Ojima Island where I landed was in reality a peninsula projecting far out into the sea. This was the place where the priest Ungo had once retired, and the rock on which he used to sit for meditation was still there. I noticed a number of tiny cottages scattered among the pine trees and pale blue threads of smoke rising from them. I wondered what kind of people were living in those isolated houses, and was approaching one of them with a strange sense of yearning, when, as if to interrupt me, the moon rose glittering over the darkened sea, completing the full transformation to a night-time scene. I lodged in an inn overlooking the bay, and went to bed in my upstairs room with all the windows open. As I lay there in the midst of the roaring wind and driving clouds, I felt myself to be in a world totally different from the one I was accustomed to. My companion Sora wrote:

Clear voiced cuckoo,
Even you will need
The silver wings of a crane
To span the islands of Matsushima.

I myself tried to fall asleep, supressing the surge of emotion from within, but my excitement was simply too great. I finally took out my notebook from my bag and read the poems given me by my friends at the time of my departure - Chinese poem by Sodo, a waka by Hara Anteki, haiku by Sampu and Dakushi, all about the islands of Matsushima.

I went to the Zuiganji temple on the eleventh. This temple was founded by Makabe no Heishiro after he had become a priest and returned from China, and was later enlarged by the Priest Ungo into a massive temple with seven stately halls embellished with gold. The priest I met at the temple was the thirty-second in descent from the founder. I also wondered in my mind where the temple of the much admired Priest Kenbutsu could have been situated.

 

Station 22 - Ishinomaki

I left for Hiraizumi on the twelfth. I wanted to see the pine tree of Aneha and the bridge of Odae on my way. So I followed a lonely mountain trail trodden only by hunters and woodcutters, but somehow I lost my way and came to the port of Ishinomaki. The port is located in a spacious bay, across which lay the island of Kinkazan, an old goldmine once celebrated as 'blooming with flowers of gold. There were hundreds of ships, large and small, anchored in the harbor, and countless streaks of smoke continually rising from the houses that thronged the shore. I was pleased to see this busy place, though it was mere chance that had brought me here, and began to look for a suitable place to stay. Strangely enough however, no one offered me hospitality. After much inquiring, I found a miserable house, and, spending an uneasy night, I wandered out again on the following morning on a road that was totally unknown to me. Looking across to the ford of Sode, the meadow of Obuchi and the pampas- moor of Mano, I pushed along the road that formed the embankment of a river. Sleeping overnight at Toima, where the long, swampish river came to an end at last, I arrived at Hiraizumi after wandering some twenty miles in two days.

 

Station 23 - Hiraizumi

It was here that the glory of three generations of the Fujiwara family passed away like a snatch of empty dream. The ruins of the main gate greeted my eyes a mile before I came upon Lord Hidehira's mansion, which had been utterly reduced to rice-paddies. Mount Kinkei alone retained its original shape. As I climbed one of the foothills called Takadate, where Lord Yoshitsune met his death, I saw the River Kitakami running through the plains of Nambu in its full force, and its tributary, Koromogawa, winding along the site of the Izumigashiro castle and pouring into the big river directly below my eyes. The ruined house of Lord Yasuhira was located to the north of the barrier-gate of Koromogaseki, thus blocking the entrance from the Nambu area and forming a protection against barbarous intruders from the north. Indeed, many a feat of chivalrous valor was repeated here during the short span of the three generations, but both the actors and the deeds have long been dead and passed into oblivion. When a country is defeated, there remain only mountains and rivers, and on a ruined castle in spring only grasses thrive. I sat down on my hat and wept bitterly till I almost forgot time.

A thicket of summer grass
Is all that remains
Of the dreams and ambitions
Of ancient warriors.

I caught a glimpse
Of the frosty hair of Kanefusa
Wavering among
The white blossoms of unohana
- written by Sora

The interiors of the two sacred buildings of whose wonders I had often heard with astonishment were at last revealed to me. In the library of sutras were placed the statues of the three nobles who governed this area, and enshrined in the so called Gold Chapel were the coffins containing their bodies, and under the all-devouring grass, their treasures scattered, their jewelled doors broken and their gold pillars crushed, but thanks to the outer frame and a covering of tiles added for protection, they had survived to be a monument of at least a thousand years.

Even the long rain of May
Has left it untouched -
This Gold Chapel
Aglow in the sombre shade.

 

Station 24 - Dewagoe

Turning away from the high road leading to the provinces of Nambu, I came to the village of Iwate, where I stopped overnight. The next day I looked at the Cape of Oguro and the tiny island of Mizu, both in a river, and arrived by way of Naruko hot spring at the barrier-gate of Shitomae which blocked the entrance to the province of Dewa. The gate-keepers were extremely suspicious, for very few travellers dared to pass this difficult road under normal circumstances. I was admitted after long waiting, so that darkness overtook me while I was climbing a huge mountain. I put up at a gate-keeper's house which I was very lucky to find in such a lonely place. A storm came upon us and I was held up for three days.

Bitten by fleas and lice,
I slept in a bed,
A horse urinating all the time
Close to my pillow.

According to the gate-keeper there was a huge body of mountains obstructing my way to the province of Dewa, and the road was terribly uncertain. So I decided to hire a guide. The gate-keeper was kind enough to find me a young man of tremendous physique, who walked in front of me with a curved sword strapped to his waist and a stick of oak gripped firmly in his hand. I myself followed him, afraid of what might happen on the way. What the gate-keeper had told me turned out to be true. The mountains were so thickly covered with foliage and the air underneath was so hushed that I felt as if I were groping my way in the dead of night. There was not even the cry of a single bird to be heard, and the wind seemed to breathe out black soot through every rift in the hanging clouds. I pushed my way through thick undergrowth of bamboo, crossing many streams and stumbling over many rocks, till at last I arrived at the village of Mogami after much shedding of cold sweat. My guide congratulated me by saying that I was indeed fortunate to have crossed the mountains in safety, for accidents of some sort had always happened on his past trips. I thanked him sincerely and parted from him. However, fear lingered in my mind some time after that.

 

Station 25 - Obanazawa

I visited Seifu in the town of Obanazawa. He was a rich merchant and yet a man of a truly poetic turn of mind. He had a deep understanding of the hardships of the wandering journey, for he himself had travelled frequently to the capital city. He invited me to stay at his place as long as I wished and tried to make me comfortable in every way he could.

I felt quite at home,
As if it were mine,
Sleeping lazily
In this house of fresh air.

Crawl out bravely
And show me your face,
The solitary voice of a toad
Beneath the silkworm nursery.

With a powder-brush
Before my eyes,
I strolled among
Rouge-plants.

In the silkworm nursery,
Men and women
Are dressed
Like gods in ancient times. -- Written by Sora

 

Station 26 - Ryushakuji

There was a temple called Ryushakuji in the province of Yamagata. Founded by the great priest Jikaku, this temple was known for the absolute tranquility of its holy compound. Since everybody advised me to see it, I changed my course at Obanazawa and went there, though it meant walking an extra seven miles or so. When I reached it, the late afternoon sun was still lingering over the scene. After arranging to stay with the priests at the foot of the mountain, I climbed to the temple situated near the summit. The whole mountain was made of massive rocks thrown together and covered with age-old pines and oaks. The stony ground itself bore the color of eternity, paved with velvety moss. The doors of the shrines built on the rocks were firmly barred and there was no sound to be heard. As I moved on all fours from rock to rock, bowing reverently at each shrine, I felt the purifying power of this holy environment pervading my whole being.

In the utter silence
Of a temple,
A cicada's voice alone
Penetrates the rocks.

 

Station 27 - Oishida

I wanted to sail down the River Mogami, but while I was waiting for fair weather at Oishida, I was told that the old seed of linked verse once strewn here by the scattering wind had taken root, still bearing its own flowers each year and thus softening the minds of rough villagers like the clear note of a reed pipe, but that these rural poets were now merely struggling to find their way in a forest of error, unable to distinguish between the new and the old style, for there was no one to guide them. At their request, therefore, I sat with them to compose a book of linked verse, and left it behind me as a gift. It was indeed a great pleasure for me to be of such help during my wandering journey.

 

Station 28 - Mogamigawa

The River Mogami rises in the high mountains of the far north, and its upper course runs through the province of Yamagata. There are many dangerous spots along this river, such as Speckled Stones and Eagle Rapids, but it finally empties itself into the sea at Sakata, after washing the north edge of Mount Itajiki. As I descended this river in a boat, I felt as if the mountains on both sides were ready to fall down upon me, for the boat was tiny one - the kind that farmers used for carrying sheaves of rice in old times - and the trees were heavily laden with foliage. I saw the Cascade of Silver Threads sparkling through the green leaves and the Temple called Sennindo standing close to the shore. The river was swollen to the brim, and the boat was in constant peril.

Gathering all the rains
Of May,
The River Mogami rushes down
In one violent stream.

 

Station 29 - Hagurosan

I climbed Mount Haguro on the third of June. Through the effort of my friend, Zushi Sakichi, I was granted an audience with the high priest Egaku, then presiding over this whole mountain temple acting as bishop. He received me kindly and gave me a comfortable lodging in one of the annexes in the South Valley.

On the following day, I sat with the priest in the main hall to compose some linked verse. I wrote:

Blessed indeed
Is this South Valley,
Where the gentle wind breathes
The faint aroma of snow.

I visited the Gongen shrine on the fifth. The founder of this shrine is the priest called Nojo, but no one knows exactly when he lived. Court Ceremonies and rites during the Years of Engi, however, mentions that there is a sacred shrine on Mount Sato in the province of Dewa. The scribe must have written Sato where he should have written Kuro in the province of Dewa. According to a local history book, the name of the province itself is derived from the fact that quantities of feathers were sent to the Emperor each year as a tribute from this province. Be that as it may, this shrine on Mount Haguro is counted among the three most sacred shrines of the north, together with the shrines on Mount Gassan and Mount Yudono, and is a sister shrine of the temple on Mount Toei in Edo. Here the doctrine of Absolute Meditation preached in the Tendai sect shines forth like the clear beams of the moon, and the Laws of Spiritual Freedom and Enlightenment illuminate as lamps in utter darkness. There are hundreds of houses where the priests practice religious rites with absolute severity. Indeed the whole mountain is filled with miraculous inspiration and sacred awe. Its glory will never perish as long as man continues to live on the earth.

 

Station 30 - Gassan

I climbed Mount Gassan on the eighth. I tied around my neck a sacred rope made of white paper and covered my head with a hood made of bleached cotton, and set off with my guide on a long march of eight miles to the top of the mountain. I walked through mists and clouds, breathing the thin air of high altitudes and stepping on slippery ice and snow, till at last through a gateway of clouds, as it seemed, to the very paths of the sun and moon, I reached the summit, completely out of breath and nearly frozen to death. Presently the sun went down and the moon rose glistening in the sky. I spread some leaves on the ground and went to sleep, resting my head on pliant bamboo branches. When, on the following morning, the sun rose again and dispersed the clouds, I went down towards Mount Yudono.

As I was still descending, I saw an old smithy built right on a trickling stream. According to my guide, this was where Gassan, a local swordsmith, used to make his swords, tempering them in the crystal-clear water of the stream. He made his swords with such skill and devotion that they became famous throughout the world. He must have chosen this particular spot for his smithy probably because he knew of a certain mysterious power latent in the water, just as indeed a similar power is known to have existed in the water of Ryosen Spring in China. Nor is the story of Kansho and Bakuya out of place here,* for it also teaches us that no matter where your interest lies, you will not be able to accomplish anything unless you bring your deepest devotion to it. As I sat reflecting thus upon a rock, I saw in front of me a cherry tree hardly three feet tall just beginning to blossom - far behind the season of course, but victorious against the heavy weight of snow which it had resisted for more than half a year. I immediatley thought of the famous Chinese poem about 'the plum tree fragrant in the blazing heat of summer' and of an equally pathetic poem by the priest Gyoson, and felt even more attached to the cherry tree in front of me. I saw many other things of interest in this mountain, the details of which, however, I refrain from betraying in accordance with the rules I must obey as a pilgrim. When I returned to my lodging, my host, Egaku, asked me to put down in verse some impressions of my pilgrimage to the three mountains, so I wrote as follows on the narrow strips of writing paper he had given me.

How cool it is,
A pale crescent shining
Above the dark hollow
Of Mount Haguro.

How many columns of clouds
Had risen and crumbled, I wonder
Before the silent moon rose
Over Mount Gassan.

Forbidden to betray
The holy secrets of Mount Yudono,
I drenched my sleeves
In a flood of reticent tears.

Tears rushed to my eyes
As I stepped knowingly
Upon the coins of the sacred road
Of Mount Yudono.
-- Written by Sora

 

Station 31 - Sakata

Leaving Mount Haguro on the following day, I came to the castle town called Tsuru-ga-oka, where I was received warmly by Nagayama Shigeyuki, a warrior, and composed a book of linked verse with him and Zushi Sakichi who had accompanied me all the way from Mount Haguro. Bidding them farewell, I again descended the River Mogami in a boat and arrived at the port of Sakata, where I was entertained by the physician named En'an Fugyoku.

I enjoyed the evening cool
Along the windy beach of Fukuura,
Behind me, Mount Atsumi
Still in the hot sun.

The River Mogami has drowned
Far and deep
Beneath its surging waves
The flaming sun of summer.

 

Station 32 - Kisagata

I had seen since my departure innumerable examples of natural beauty which land and water, mountains and rivers, had produced in one accord, and yet in no way could I suppress the great urge I had in my mind to see the miraculous beauty of Kisagata, a lagoon situated to the northeast of Sakata.* I followed a narrow trail for about ten miles, climbing steep hills, descending to rocky shores, or pushing through sandy beaches, but just about the time the dim sun was nearing the horizon, a strong wind arose from the sea, blowing up fine grains of sand, and rain, too, began to spread a grey film of cloud across the sky, so that even Mount Chokai was made invisible. I walked in this state of semi-blindness, picturing all sorts of views to myself, till at last I put up at a fisherman's hut, convinced that if there was so much beauty in the dark rain, much more was promised by fair weather.

A clear sky and brilliant sun greeted my eyes on the following morning, and I sailed across the lagoon in an open boat. I first stopped at a tiny island named after the Priest Noin to have a look at his retreat where he had stayed for three years, and then landed on the opposite shore where there was the aged cherry tree which Saigyo honored by writing 'sailing over the waves of blossoms. There was also a mausoleum of the Empress Jingu and the temple named Kanmanjuji. I was a bit surprised to hear of her visit here and left in doubt as to its historical truth, but I sat in a spacious room of the temple to command the entire view of the lagoon. When he hanging screens were rolled up, an extraordinary view unfolded itself before my eyes - Mount Chokai supporting the sky like a pillar in the south with its shadowy reflection in the water, the barrier-gate of Muyamuya just visible in the west, an endless causeway leading as far as Akita in the east, and finally in the north, Shiogoshi, the mouth of the lagoon with waves of the outer ocean breaking against it. Although little more than a mile in width, this lagoon is not the least inferior to Matsushima in charm and grace. There is, however, a remarkable difference between the two. Matsushima is a cheerful, laughing beauty, while the charm of Kisagata is in the beauty of its weeping countenance. It is not only lonely but also penitent, as it were, for some unknown evil. Indeed, it has a striking resemblance to the expression of a troubled mind.

A flowering silk tree
In the sleepy rain of Kisagata
Reminds me of Lady Seishi
In sorrowful lament.

Cranes hop around
On the watery beach of Shiogoshi
Dabbling their long legs
In the cool tide of the sea.

What special delicacy
Is served here, I wonder,
Coming to Kisagata
On a festival day
- Written by Sora

Sitting at full ease
On the doors of their huts,
The fishermen enjoy
A cool evening
- Written by Teiji

A poem for a pair of faithful osprey nesting on a rock:

What divine instinct
Has taught these birds
No waves swell so high
As to swamp their home?
- Written by Sora

 

Station 33 - Echigo

After lingering in Sakata for several days, I left on a long walk of a hundred and thirty miles to the capital of the province of Kaga. As I looked up at the clouds gathering around the mountains of the Hokuriku road, the thought of the great distance awaiting me almost overwhelmed my heart. Driving myself all the time, however, I entered the province of Echigo through the barrier-gate of Nezu, and arrived at the barrier-gate of Ichiburi in the province of Ecchu. During the nine days I needed for this trip, I could not write very much, what with the heat and moisture, and my old complaint that pestered me immeasurably.

The night looks different
Already on July the sixth,
For tomorrow, once a year
The weaver meets her lover.

The great Milky Way
Spans in a single arch
The billow-crested sea,
Falling on Sado beyond.

 

Station 34 - Ichiburi

Exhausted by the labor of crossing many dangerous places by the sea with such horrible names as Children-desert-parents or Parents- desert-children, Dog-denying or Horse-repelling, I went to bed early when I reached the barrier-gate of Ichiburi. The voices of two young women whispering in the next room, however, came creeping into my ears. They were talking to an elderly man, and I gathered from their whispers that they were concubines from Niigata in the province of Echigo, and that the old man, having accompanied them on their way to the Ise Shrine, was going home the next day with their messages to their relatives and friends. I sympathized with them, for as they said themselves among their whispers, their life was such that they had to drift along even as the white froth of waters that beat on the shore, and having been forced to find a new companion each night, they had to renew their pledge of love at every turn, thus proving each time the fatal sinfulness of their nature. I listened to their whispers till fatigue lulled me to sleep. When, on the following morning, I stepped into the road, I met these women again. They approached me and said with some tears in their eyes, 'We are forlorn travellers, complete strangers on this road. Will you be kind enough at least to let us follow you? If you are a priest as your black robe tells us, have mercy on us and help us to learn the great love of our Savior.' 'I am greatly touched by your words,' I said in reply after a moment's thought, 'but we have so many places to stop at on the way that we cannot help you. Go as other travellers go. If you have trust in the Savior, you will never lack His divine protection.' As I stepped away from them, however, my heart was filled with persisting pity.

Under the same roof
We all slept together,
Concubines and I -
Bush-clovers and the moon.

As I recited this poem to Sora, he immediately put it down on his notebook.

Crossing the so-called forty-eight rapids of the Kurobe River and countless other streams, I came to the village of Nago, where I inquired after the famous wisteria vines of Tako, for I wanted to see them in their early autumn colors though their flowering season was spring. The villagers answered me, however, that they were beyond the mountain in the distance about five miles away along the coastline, completely isolated from human abode, so that not a single fisherman's hut was likely to be found to give me a night's lodging. Terrified by these words, I walked straight into the province of Kaga.

I walked into the fumes
Of early-ripening rice,
On the right below me
The waters of the Angry Sea.

 

Station 35 - Kanazawa

Across the mountains of Unohana-yama and the valleys of Kurikara- dani, I entered the city of Kanazawa on July the fifteenth, where I met a merchant from Osaka named Kasho who invited me to stay at his inn.

There was in this city a man named Issho whose unusual love of poetry had gained him a lasting reputation among the verse writers of the day. I was told, however, that he had died unexpectedly in the winter of the past year. I attended the memorial service held for him by his brother.

Move, if you can hear,
Silent mound of my friend,
My wails and the answering
Roar of autumn wind.

A visit to a certain hermitage:

On a cool autumn day,
Let us peel with our hands
Cucumbers and mad-apples
For our simple dinner.

 

Station 36 - Komatsu

A poem composed on the road:

Red, red is the sun,
Heartlessly indifferent to time,
The wind knows, however,
The promise of early chill.

At the place called Dwarf Pine:

Dwarfed pine is indeed
A gentle name, and gently
The wind brushes through
Bush-clovers and pampas.

I went to the Tada Shrine located in the vicinity, where I saw Lord Sanemori's helmet and a piece of brocaded cloth that he had worn under his armor. According to the legends, these were given him by Lord Yoshitomo while he was still in the service of the Minamotos.* The helmet was certainly an extraordinary one, with an arabesque of gold crysanthemums covering the visor and the ear plate, a fiery dragon resting proudly on the crest, and two curved horns pointing to the sky. The chronicle of the shrine gave a vivid account of how, upon the heroic death of Lord Sanemori,* Kiso no Yoshinaka had sent his important retainer Higuchi no Jiro to the shrine to dedicate the helmet with a letter of prayer.

I am awe-struck
To hear a cricket singing
Underneath the dark cavity
Of an old helmet.*

 

Station 37 - Natadera

On my way to Yamanaka hot spring, the white peak of Mount Shirane overlooked me all the time from behind. At last I came to the spot where there was a temple hard by a mountain on the left. According to the legend, this temple was built to enshrine Kannon, the great goddess of mercy, by the Emperor Kazan, when he had finished his round of the so-called Thirty- three Sacred Temples, and its name Nata was compounded of Nachi and Tanigumi, the first and last of these temples respectively. There were beautiful rocks and old pines in the garden, and the goddess was placed in a thatched house built on a rock. Indeed, the entire place was filled with strange sights.

Whiter far
Than the white rocks
Of the Rock Temple
The autumn wind blows.

I enjoyed a bath in the hot spring whose marvelous properties had a reputation of being second to none, except the hot spring of Ariake.

Bathed in such comfort
In the balmy spring of Yamanaka,
I can do without plucking
Life-preserving chrysanthemums

The host of the inn was a young man named Kumenosuke. His father was a poet and there was an interesting story about him: one day, when Teishitsu (later a famous poet in Kyoto but a young man then) came to this place, he met this man and suffered a terrible humiliation because of his ignorance of poetry, and so upon his return to Kyoto, he became a student of Teitoku and never abandoned his studies in poetry till he had established himself as an independent poet. It was generally believed that Teishitsu gave instruction in poetry free of charge to anyone from this village throughout his life. It must be admitted, however, that this is already a story of long ago.

My companion, Sora, was seized by an incurable pain in his stomach. So he decided to hurry, all by himself, to his relatives in the village of Nagashima in the province of Ise. As he said good-bye he wrote:

No matter where I fall
On the road
Fall will I to be buried
Among the flowering bush-clovers.

I felt deeply in my heart both the sorrow of one that goes and the grief of one that remains, just as a solitary bird separated from his flock in dark clouds, and wrote in answer:

From this day forth, alas,
The dew-drops shall wash away
The letters on my hat
Saying 'A party of two.'

 

Station 38 - Daishoji

I stopped overnight at the Zenshoji Temple near the castle of Daishoji, still in the province of Kaga. Sora, too, had stayed here the night before and left behind the following poem:

All night long
I listened to the autumn wind
Howling on the hill
At the back of the temple.

Sora and I were separated by the distance of a single night, but it was just the same as being separated by a thousand miles. I, too, went to bed amidst the howling of the autumn wind and woke up early the next morning amid the chanting of the priests, which was soon followed by the noise of the gong calling us to breakfast. As I was anxious to cross over to the province of Echizen in the course of the day, I left the temple without lingering, but when I reached the foot of the long approach to the temple, a young priest came running down the steps with a brush and ink and asked me to leave a poem behind. As I happened to notice some leaves of willow scattered in the garden, I wrote impromptu,

I hope to have gathered
To repay your kindness
The willow leaves
Scattered in the garden.

and left the temple without even taking time to refasten my straw sandals.

Hiring a boat at the port of Yoshizaki on the border of the province of Echizen, I went to see the famous pine of Shiogoshi. The entire beauty of this place, I thought, was best expressed in the following poem by Saigyo.

Inviting the wind to carry
Salt waves of the sea,
The pine tree of Shiogoshi
Trickles all night long
Shiny drops of moonlight.

Should anyone ever dare to write another poem on this pine tree it would be like trying to add a sixth finger to his hand.

 

Station 39 - Maruoka

I went to the Tenryuji Temple in the town of Matsuoka, for the head priest of the temple was an old friend of mine. A poet named Hokushi had accompanied me here from Kanazawa, though he had never dreamed of coming this far when he had taken to the road. Now at last he made up his mind to go home, having composed a number of beautiful poems on the views we had enjoyed together. As I said good-bye to him, I wrote:

Farewell, my old fan.
Having scribbled on it,
What could I do but tear it
At the end of summer?

Making a detour of about a mile and a half from the town of Matsuoka, I went to the Eiheiji Temple. I thought it was nothing short of a miracle that the priest Dogen had chosen such a secluded place for the site of the temple.

 

Station 40 - Fukui

The distance to the city of Fukui was only three miles. Leaving the temple after supper, however, I had to walk along the darkening road with uncertain steps. There was in this city a poet named Tosai whom I had seen in Edo some ten years before. Not knowing whether he was already dead or still keeping his bare skin and bones, I went to see him, directed by a man whom I happened to meet on the road. When I came upon a humble cottage in a back street, separated from other houses by a screen of moon-flowers and creeping gourds and a thicket of cockscomb and goosefoot left to grow in front, I knew it was my friend's house. As I knocked at the door, a sad looking woman peeped out and asked me whether I was a priest and where I had come from. She then told me that the master of the house had gone to a certain place in town, and that I had better see him there if I wanted to talk to him. By the look of this woman, I took her to be my friend's wife, and I felt not a little tickled, remembering a similar house and a similar story in an old book of tales. Finding my friend at last, I spent two nights with him. I left his house, however, on the third day, for I wanted to see the full moon of autumn at the port town of Tsuruga. Tosai decided to accompany me, and walked into the road in high spirits, with the tails of his kimono tucked up in a somewhat strange way.

 

Station 41 - Tsuruga

The white peak of Mount Shirane went out of sight at long last and the imposing figure of Mount Hina came in its stead. I crossed the bridge of Asamuzu and saw the famous reeds of Tamae, already coming into flower.* Through the barrier-gate of Uguisu and the pass of Yuno, I came to the castle of Hiuchi, and hearing the cries of the early geese at the hill named Homecoming, I entered the port of Tsuruga on the night of the fourteenth. The sky was clear and the moon was unusually bright. I said to the host of my inn, 'I hope it will be like this again tomorrow when the full moon rises.' He answered, however, 'The weather of these northern districts is so changeable that, even with my experience, it is impossible to foretell the sky of tomorrow.' After a pleasant conversation with him over a bottle of wine, we went to the Myojin Shrine of Kei, built to honor the soul of the Emperor Chuai.* The air of the shrine was hushed in the silence of the night, and the moon through the dark needles of the pine shone brilliantly upon the white sand in front of the altar, so the ground seemed to have been covered with early frost. The host told me it was the Bishop of Yugyo II who had first cut the grass, brought the sand and stones, and then dried the marshes around the shrine, the ritual being known as the sand-carrying ceremony of Yugyo.

The moon was bright
And divinely pure
Upon the sand brought in
By the Bishop Yugyo.

It rained on the night of the fifteenth, just as the host of my inn had predicted.

The changeable sky
Of the northern districts
Prevented me from seeing
The full moon of autumn.

 

Station 42 - Ironohama

It was fine again on the sixteenth. I went to the Colored Beach to pick up some pink shells. I sailed the distance of seven miles in a boat and arrived at the beach in no time, aided by a favorable wind. A man by the name of Tenya accompanied me, with servants, food, drinks and everything else he could think of that we might need for our excursion. The beach was dotted with a number of fisherman's cottages and a tiny temple. As I sat in the temple drinking warm tea and sake, I was overwhelmed by the lonliness of the evending scene.

Lonlier I thought
Than the Suma beach -
The closing of autumn
On the sea before me.

Mingled with tiny shells
I saw scattered petals
Of bush-clovers
Rolling with the waves.

I asked Tosai to make a summary of the day's happenings and leave it at the temple as a souvenir.

 

Station 43 - Ogaki

As I returned to Tsuruga, Rotsu met me and accompanied me to the province of Mino. When we entered the city of Ogaki on horseback, Sora joined us again, having arrived from the province of Ise; Etsujin, too, came hurrying on horseback, and we all went to the house of Joko, where I enjoyed reunion with Zensen, Keiko, and his sons and many other old friends of mine who came to see me by day or by night. Everybody was overjoyed to see me as if I had returned unexpectedly from the dead. On September the sixth, however, I left for the Ise Shrine, though the fatigue of the long journey was still with me, for I wanted to see a dedication of a new shrine there. As I stepped into the boat, I wrote:

As firmly cemented clam shells
Fall apart in autumn,
So I must take to the road again,
Farewell, my friends.

 

Station 44 - Postscript

In this little book of travel is included everything under the sky - not only that which is hoary and dry but also that which is young and colorful, not only that which is strong and imposing but also that which is feeble and ephemeral. As we turn every corner of the Narrow Road to the Deep North, we sometimes stand up unawares to applaud and we sometimes fall flat to resist the agonizing pains we feel in the depths of our hearts.* There are also times when we feel like taking to the road ourselves, seizing the raincoat lying nearby, or times when we feel like sitting down till our legs take root, enjoying the scene we picture before our eyes. Such is the beauty of this little book that it can be compared to the pearls which are said to be made by the weeping mermaids in the far off sea. What a travel it is indeed that is recorded in this book, and what a man he is who experienced it. The only thing to be regretted is that the author of this book, great man as he is, has in recent years grown old and infirm with hoary frost upon his eyebrows.

Early summer of the seventh year of Genroku (1694), Soryu.

 

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Oku no hosomichi Bibliograpy

http://etext.virginia.edu/japanese/basho/index.html (Japanese text)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%82%a8%82%ad%82%cc%82%d9%82%bb%93%b9 (facsimile Japanese texts)

Matsuo Basho's Narrow Road to the Deep North tr. by Nobuyuki Yuasa (Penguin Books, original edition 1966; reprint 1996)

A Haiku Journey, Basho's The Narrow Road to a Far Province, translated by Dorothy Britton (Kodansha; original edition: 1974, reprinted 2002)
http://darkwing.uoregon.edu/~kohl/basho/1-prologue/trans-britton.html

Back Roads to Far Towns by Cid Corman & Kamaike Susume, Grossman Publishers, 1968.
http://darkwing.uoregon.edu/~kohl/basho/1-prologue/trans-corman.html

The Narrow Road to the Interior trans. by Helen Craig McCullough in: Classical Japanese Prose: An Anthology (Stanford University Press, 1990)
http://darkwing.uoregon.edu/~kohl/basho/1-prologue/trans-mccullough.html

Japanese Poetic Diaries by Earl Miner, University of California, 1976.
http://darkwing.uoregon.edu/~kohl/basho/1-prologue/trans-miner.html

The Narrow Road to the Deep North tr. by Tim Chilcott

The Narrow Road to Oku, Translated by Donald Keene (Kodansha International 1996)

Basho's Narrow Road, translated from the Japanese with annotations by Hiroaki Sato (Stone Bridge Press, 1996

Narrow Road to the Interior and Other Writings, translated by Sam Hamill (Shambala, 2000)

Bashô: Journaux de voyage, tr. René Sieffert (Pof, 1988)

Bashô's Journey, tr. David Landis Barnhill (State University of New York Press, 2005)

Oku no hosomichi - poems tr. by Haider A. Khan & Tadashi Kondo
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/cirje/research/papers/khan/poems/okunohosomichi.pdf

Haider A. Khan is currently a professor of economics at the Graduate School of International Studies, University of Denver and at the Graduate School of Economics, University of Tokyo. Prof. Khan is also an award-winning poet , translator and literary critic. He has written on Octavio Paz, Guillaume Apollinaire, James Joyce and the Japanese Haiku master Basho, among others. His own poetry deals with the complex psychological landscape of the exiled and the displaced, among other themes.
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/cirje/research/papers/khan/khan.html

Translations of Basho's Narrow Road, a comparison

*

Page providing scans of many of Buson's images in his Illustrated Scroll of Oku no hosomichi (Oku no hosomichi ga maki): http://www.bashouan.com/psBashouPt_ezu.htm

Support material for Matsuo Bashô's Narrow Road to the Deep North

Marguerite Yourcenar sur La Sente Etroite du Bout-du-Monde de Bashô Matsuo

http://www.motsuji.or.jp/gikeido/english/basho/index.html

引用文献



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松尾芭蕉

百科事典
松尾芭蕉
Basho by Morikawa Kyoriku (1656-1715).jpg
「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良森川許六作)
誕生 日本の旗 日本 伊賀国
死没 1694年11月28日
職業 俳諧師
ジャンル 俳句
代表作 紀行文『おくのほそ道
古池や蛙飛びこむ水の音
閑さや岩にしみ入る蝉の声
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松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日1694年11月28日[1])は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作[2]。通称は甚七郎、甚四郎[2]。名は忠右衛門宗房[2]俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。

俳諧連句)の芸術的完成者であり[3]蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[4]を確立し、後世では俳聖[5]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ[3]

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北北陸を巡り岐阜大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。

生涯

伊賀国の宗房

芭蕉翁生家(伊賀市)

伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない[2]。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説[2] と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある[6]。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・梅の間に次男として生まれる[2]。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた[2][6]。 松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった[7]。 母の梅は百地氏であり[8]母の父(母方祖父)は伊賀流忍者の祖の百地丹波とされているため、百地丹波の孫として忍者説がささやかれている[誰によって?]

明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去[2]。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662年)に[7]若くして伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい[2]。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り[2]、寛文2年の年末に詠んだ句

春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)

が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという[7]。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した[2]

寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている[2]

しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって[7]菩提を弔い[2]、仕官を退いた[7]。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる[2]。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した[7]

寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった[2]。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた[2]。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった[2]

江戸日本橋の桃青

延宝3年(1675年)初頭(諸説あり[2])に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋小沢卜尺の貸家[9]久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう[9]。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった[9]。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた[9]。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた[9]

延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる[10]。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている[9]。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる[9]。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている[9]

宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた[9]。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない[9]

しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある[11]。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった[12]

江戸深川の芭蕉

深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた

侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥

は、侘びへの共感が詠まれている[11]。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた[12]深川の居を「芭蕉庵」へ変えた[11][13]。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。

芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉

しかし天和2年(1682年)12月、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した[11]。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが[11]、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた[12]

その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる[11]。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる[12]

蕉風の高まりと紀行

貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和吉野山城美濃尾張を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した[14]

紀行の名は、出発の際に詠まれた

野ざらしを心に風のしむ身哉

に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する[14]。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる[14]。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ[14]。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる[14]

野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催したの発句会で有名な

古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』

を詠んだ。和歌連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった[15]

貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。

月はやし梢は雨を持ちながら

同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発した。東海道を下り、鳴海熱田伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂須磨明石を旅して京都に入った[15]

京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は大津岐阜・名古屋・鳴海を経由し、信州更科姨捨山で月を展望し、善光寺へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った[15]

おくのほそ道

西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野陸奥出羽越後加賀越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた[16]

夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町

閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県立石寺
五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町
荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町

この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった[16]。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした[16]

芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し[16]、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした[17]

『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成

『三日月の頃より待し今宵哉』(月岡芳年『月百姿』)松尾芭蕉

元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した[17]。この頃芭蕉は風邪に持病のに悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た[17]

元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた[17]。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)

に由来する[17]。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている[17]。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった[17]

芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡小泉孤屋池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した[18]。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが[19]、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した[18]

死去

松尾芭蕉像(葛飾北斎画)

元禄7年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った[19]

9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた[19]。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの[20]10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた[19]。8日、「病中吟」と称して

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

を詠んだ[19]。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した[20]。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午前4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った[19]

13日、遺骸は陸路で近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという[19]

蕉門

門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角[21]服部嵐雪[21]森川許六[22]向井去来[23]各務支考[22]内藤丈草[22]杉山杉風[21]立花北枝志太野坡[22]越智越人[24]や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良[24]広瀬惟然[22]服部土芳[25]天野桃隣、それ以外の弟子として万乎野沢凡兆[23]蘆野資俊などがいる。

この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した[24]。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは近江蕉門が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。

芭蕉の風

貞門・談林風

宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞見立て頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句

月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)

は、謡曲鞍馬天狗』の一節から題材を得ている[13]。2年後の作品

霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』

では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている[13]。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である[13]。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる[13]

天和期の特徴

天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる[13]

天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる[13]

芭蕉発句

貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、

馬をさへながむる雪の朝哉 (うまをさへ ながむるゆきの あしたかな) 『野ざらし紀行』

が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている[26]。後者では、

菊の香やならには古き仏達 (きくのかや ならにはふるき ほとけたち) 『笈日記』

があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している[26]

さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、

蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』

を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している[26]

かるみの境地

元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句

木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな)

の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている[27]。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている[18]。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと[27]、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこと[28]とも言う。

この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である[29]

俳評

芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった[25]。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた[29]。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる[25]。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる[25]

「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ[30]。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く[30]。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている[30]

風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた[31]。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である[31]。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している[31]

家系

芭蕉の家系は、伊賀の有力国人だった福地氏流松尾氏とされる。福地氏は柘植三方[32]の一氏で、平宗清の子孫を称していた。

天正伊賀の乱の時、福地氏当主・福地伊予守宗隆は織田方に寝返った。この功で宗隆は所領経営の継続を許された。しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。

その他

忌日である10月12日(現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。

松島やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作ではないかと考えられている。

芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が大阪市中央区久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。

隠密説

45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた[33]

また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる[34]。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている[35])。

日本以外での芭蕉像など

  • ウクライナの中学2年生の教科書には、2ページにわたって松尾芭蕉のことが書かれている[36]
  • Sierra社のゲーム、「Swat 2」には、「バショー」と名乗り、英語のおかしな俳句を読むテロ組織の黒幕が登場する。
  • W.C.フラナガン名義の小林信彦の著作『ちはやふる 奥の細道』では上記の芭蕉隠密説に基づいた記述が見られる。ただし、旅の目的が佐渡金山の爆破であったり、それに水戸藩の隠密が絡んでいたりなど、史実とは全く関係のない独創的な記述が主である。
  • ロバート・クレイスの著作『モンキーズ・レインコート ロスの探偵エルヴィス・コール』(The Monkey's Raincoat) のタイトルは芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」や蕉門の発句・連句集『猿蓑』に由来する。
  • 芭蕉の句の1つ、"花の雲 鐘は上野か浅草か"の英訳である"The clouds of flowers, Where is the bell from, Ueno or Asakusa?"を来日経験のない英語圏在住者に読ませると人の死を悼む葬式の情景をうたった句と解されたとする記述がある。[37]

著作

銅像・碑

芭蕉句碑は全国に存在するが芭蕉の生れ故郷 伊賀では句碑ではなく芭蕉塚と呼ぶ。

脚注

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  1. ^ 佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)
  3. ^ a b 東明雅『芭蕉の連句』(岩波新書
  4. ^ 東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(明治書院、2003年)、ISBN 4-625-44300-8-山本健吉文学賞(第4回)受賞
  5. ^ 佐藤編(2011)、p.247、あとがき
  6. ^ a b 北出楯夫. “【俳聖 松尾芭蕉】第1章 若き日の芭蕉”. 伊賀タウン情報YOU. 2016年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月12日閲覧。 “生誕地については、(伊賀町)柘植説もあるが、柘植説は芭蕉の没後84年を経た安永7年(1778年)に、蓑笠庵梨一の『奥の細道菅菰抄』に「祖翁ハ伊賀国柘植郷の産にして...」と書かれたのが始まり。その後いくつかの伝記に引用されることになるが、その根拠は乏しい。”
  7. ^ a b c d e f 饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃
  8. ^ LAP Edc. SOFT 2009, 松尾芭蕉の総合年譜と遺書.
  9. ^ a b c d e f g h i j 佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)
  10. ^ 饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向
  11. ^ a b c d e f 佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)
  12. ^ a b c d 饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道
  13. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調
  14. ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅
  15. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』の旅
  16. ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅
  17. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立
  18. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向
  19. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ
  20. ^ a b 饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉
  21. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々
  22. ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々
  23. ^ a b 佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人
  24. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに
  25. ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論
  26. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果
  27. ^ a b 佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合
  28. ^ 饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論
  29. ^ a b 佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句
  30. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」
  31. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論
  32. ^ 「つげさんぽう」と読む。日置氏、北村氏、福地氏から成る。平宗清の子孫を称したが、仮冒とされる。
  33. ^ 『歴史読本 決定版「忍者」のすべて』新人物往来社平成3年(1991年
  34. ^ 中名生正昭『奥の細道の謎を読む』南雲堂、平成10年(1998年)、ISBN 978-4-523-26326-5
  35. ^ 村松友次『謎の旅人 曽良』大修館書店、平成14年(2002年)、ISBN 978-4-469-22156-5
  36. ^ NHK衛星ハイビジョン2009年1月11日16:00『地球特派員スペシャル』にて岡本行夫ウクライナから持ち帰った中学2年生の教科書を示して
  37. ^ 大修館書店『社会人のための英語百科』(監修 大谷泰照、堀内克明)181頁

参考文献

関連項目

外部リンク


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