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[温故知新]、、 武士道(新渡戸稲造)、 茶の本(岡倉天心)、 代表的日本人(内村鑑三)、 学問のすすめ(福沢諭吉)、 自助論(Smiles)、 自警録 国立図書館 NHKテレビ 「100分de名著」 【武士道】新渡戸稲造 を放送、好評 テキスト (日本的思考の根源を見る) ”忠義”は追従ではない。”名誉”は求める心である。  
  

自警録 (新渡戸稲造)


第1巻[武士道] 第7巻[修養・自警録] 新渡戸稲造全集 全23巻+別巻2  ルビ付 [修養]

  道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。・・・
―これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心がけは平常毎日の言行― 言行といわんよりは心の持ち方、 精神の態度である。平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶(ハンモン)の襲い来る時にあたっても、解決が案外容易にできる。 ここにおいて日々の心得、尋常平成(ジンジョウヘイセイ)の自戒をつずりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。 (【自警録】序より) ー人間道ー

目次、 序

第一章 男一匹
神と獣類の間に立つ人 、 女なる言葉に含まれた道徳的意味 、 男一匹とは何を意味するか 、 尚武(しょうぶ)思想 、 男一匹の活動 、 男伊達(だて)の行為よりもその精神を酌(く)め 、 勇は男一匹たるの要素 、 男一匹になるには推理の力が要(い)る 、 男一匹には判断実力の力が要(い)る 、 男女両性の接近し競争する傾向 、 弱者の保護は男一匹の要素 、 男は強かるべし強がるべからず

第二章 一人前の人と一人前の仕事
一人前とは何を標準とした言葉か 、 一人前と統計学者のいうノルム 、 一人前の人と一人前の業 、 測る標準は内にあるか外にあるか 、 職業上の一人前と全人(オールメン)としての一人前 、 要は人は業(ぎょう)なり

第三章 強き人
「克(か)つ」に含まれた二種の考え 、 独り相撲(ずもう)で強い人 、 文明時代の強き力 、 外に強き人と内に強き人 、 よく耐うる人は強き人 、 いよいよという時に発する強さ 、 戦場における日露兵の比較 、 己(おの)れに克(か)つものが世界に勝つ

第四章 外は柔、内は剛
英雄に現れた内外の差違 、怖ろしがらせるのが偉いか 、曲解されたる教訓 、剛柔(ごうじゅう)、分を守りて人格が円満 、心の持方は剛柔いずれとすべきか 、身を処するには剛柔がおのおの必要 、やわらかく握るところに人生の真味あり 、柔和(にゅうわ)の心は相手の柔和の心を抽(ひ)き出す 、柔和(にゅうわ)なる者はこの世を嗣(つ)ぐ 、世の中には譲って差支(さしつか)えないことが多い 、譲られぬところはあくまで固守せよ 、こういう強みを処世上に持ちたい

第五章 心強くなる工夫
、同病相憐むに出でたる余の気弱(きよわ) 、盲者蛇を怖(おそ)れぬ豪胆(ごうたん) 、身体より来る気弱(きよわ)の原因 、身体局部の故障より来る気弱 、弱点の自覚より起こる気弱 、容貌や秘密の暴露は恥とならぬ 、自分の心得(こころえ)の最善を尽(つく)せば無作法も宥(ゆる)される 、「心に忌(いまわ)しい点あるか」と反問せよ

第六章 怖気(おじけ)の矯正
始めて試みた英語演説 、演説の顫(ふる)いを止めた経験 、怖気(おじけ)に処する二種の考え 、信じてかかれば怖気(おじけ)ない 、怖気(おじけ)の根本的矯正(きょうせい)は自信自重にあり 、暗いところがあると怖気(おじけ)出す 、『失楽園』に現れた悪魔の姿勢 、顧みて疚(やま)しからずば怖気(おじけ)は起こらぬ

第七章 譏謗(きぼう)に対する態度
人に最大不快を与うるは何か 、英雄も聖人も悪口を気にかける 、世評は修養の補助 、悪口は一時的のものが多い 、譏謗(きぼう)の大部分は介意の価なし 、知らぬ人の批評には弁解が要らぬ 、かかる悪口は自然に消える 、言語よりも実行をもって弁解せよ 、+悪口に対する理想的態度

第八章 世に蔓延(はびこ)る者は憎まる
世に蔓延(はびこ)る者は憎まる 、古今の事例はこれを示す 、意志の遂行(すいこう)と社交の遠慮はいかに調和するか 、所信の貫徹(かんてつ)に潜(ひそ)める大苦心 、善事の背後にも敵がある 、読者中にも必ずかかる経験あらん

第九章 心の独立と体の独立
、友人を擲(なぐ)った少年時代の追懐 、心の独立と体の独立とは密着 、動機は立派(りっぱ)でも年とともに堕落(だらく) 、独立とは何を意味するか 、使わるる者必ずしも独立を失わぬ 、身は縛(しば)られても心は独立 、心の独立と誤解しやすき考え 、風俗習慣に逆らうは独立にあらず

、第十章 人生の成敗 、米国南北戦争における名将 、彼は成敗(せいはい)よりも任務の遂行に力(つと)めた 、義務を完(まっと)うするところに成功あり 、ギリシアのソクラテスを見よ 、成敗は世人の眼に見えぬ 、輿論(よろん)を標準として成敗は測られぬ

、第十一章 人生の決勝点 、負けた時の用心 、勝った時には精神上に保険をつけよ 、勝つとは何を意味するか 、人生の勝利者 、一時の勝利と永久の勝利 、勝敗は長年月を経て始めて決定す 、標準高き勝利 、勝敗の決勝点を高きに置け

第十二章 人生表裏の判断
、表と裏とは物の存立(そんりつ)条件 、表裏に善悪の区別を付する誤解 、人生に表裏あるはむしろ当然 、人の性質上の表裏 、悪い意味における表裏 、表裏の善悪を判断する標準

第十三章 広く世を渡る心がけ
、好き嫌(きら)いと善悪とは違う 、好(す)き嫌(きら)いで人を判断する過誤(かご) 、測る物体と測る標準とが違う 、反対説にも耳を傾ける度量(どりょう)を養え 、狭き己(おの)れの好(す)き嫌(きら)いで世に処するは危険

第十四章 報酬以上の務め
、愉快なる台湾旅行中の不快 、余のために轎(かご)を担(かつ)いだ壮丁(そうてい)の好意 、物の真価の誤れる計算法 、報酬以上に務むる教育者 、職業に当たる人の三段の区別 、報瓊(ほうけい)の志 、報酬(ほうしゅう)的思想なき夫婦の関係 、報酬を求むる手段としての務(つとめ) 、報酬以上の務めの真義 、かかる心がけがあって人生の旅は幸福

第十五章 逆上を警(いまし)む
、世界の耳目(じもく)を集中さした共和党の大会 、ボストン公園に見た言論の自由 、前二例より帰納(きのう)する感情の危険 、つまらぬ事に逆上する国民的弱点 、一円の小遣いを一円の財布に投じた経験

第十六章 富貴の精神化
、弁士の富論 、物質的米国人と思想的米国人 、富貴は方法なり目的にあらず 、富者の権利と義務 、経済状態と道徳的態度の変化 、ストライキの動機でも英人と米人とは違う 、黄金は土芥(どかい)か宝珠(ほうじゅ)か

第十七章 実業を精神化せよ
、米国実業家の人生観 、個人的利益と国家社会の利益 、個人の最良なる利益はすなわち社会国家の利益 、国家のためという誤解の危険 、「国家」というよりも健全なる個人思想が大切 、人生を甘からしむる心がけ

第十八章 知らぬ恩人に対する感謝
、英国碩学(せきがく)の観(み)たる神道(しんとう)の要旨 、知恩(ちおん)は日本民族の特長 、恩の観念は固有か輸入か 、日本人ははたして恩知らずか 、思わぬところに恩人が潜(ひそ)んでいる 、人も知らず自身も知らずに受ける恩 、今もなお不明なる僕の受くる恩 、惨憺(さんたん)たる一高の入学試験 、入学試験中、俥(くるま)を待たした不思議の婦人 、見る人毎(ごと)に有難からぬ人はない

第十九章 言葉の心
、名は命名者の心を表わす 、言葉はこれを用いる人の心を表す 、同じ事が弁解にもなり有罪にもなる 、かくの如き曲解も起こる 、不快の感を与うる言語 、邦人間に行わるる嘘の原因 、心から湧(わ)き出たものが真の言葉

第二十章 忠告の取捨
、教訓を責道具(せめどうぐ)に使うなかれ 、教訓を味わう力が足らない 、聖哲の教訓はなにゆえ凡人(ぼんじん)に入り難きか 、余らの学校時代には徳育が無い 、訓戒の値打(ねうち)を知る法 、抽象的の教訓も初めて具体的に会得(えとく)する 、忠告を納むるべき肥沃(ひよく)な畑 、正しき時に正しき言を放つは賢人 、功(こう)を奏(そう)する忠告と奏(そう)せぬ忠告

第二十一章 潔き感情と正しき思想
、偉大なる思想が何ゆえに萎縮(いしゅく)するか 、女々(めめ)しい感情皮相の感情 、大統領改選に現れたる米人の感情と思想 、我が商人は事業と人情とを混同する 、感情濫用(らんよう)の弊(へい)を撓(た)める必要

第二十二章 感情より出た職業選択
、職業とこれに従事する者の不釣合(ふつりあ)い 、難を求むる職業選定の依頼 、感情よりする職業選択にも有利の場合あり 、伊藤公発憤(はっぷん)の動機を見よ 、余の友人にも同じ経験がある 、一時の感情か否かを判断する道 、感情的誤解の根本原因

第二十三章 若返りの工夫
、いつも若い人 、回顧反省 、心機一転 、一年二回の花盛り

第二十四章 全力と余裕
、蛙(かえる)の筋肉の力を測(はか)りし学者の試験 、最善をつくしても余力(よりょく)あるように思う 、潜伏せる余裕(よゆう)を示す幾多の実例 、余裕(よゆう)を存することと全力主義 、人の力は出せば出す程ふえる 、静坐(せいざ)黙想(もくそう)は潜勢力(せんせいりょく)を増加す 、一日に一回でも黙想せよ

第二十五章 理想と実現
、幼少時代の理想の回顧(かいこ) 、米国で僕の深く印象された米人の理想 、最も貴ぶべき青年時代の理想 、今の青年会と昔の若い衆 、幼年の理想は今いかに変(へん)じたか 、主義を抱ける者の世渡りの覚悟 、理想家に対する世論の変遷

第二十六章 理想の実現は何処
、犬車の前に垂れ下げた肉片 、理想はどこまで行っても達せられぬ 、理想は早晩(そうばん)実現せられる 、理想を行為に翻訳(ほんやく)するが人生 、誤って翻訳した実例 、最大侮辱(ぶじょく)を最大敬礼とした誤訳 、理想の翻訳を誤るものが多い 、理想の実行は位地の有無に関係せぬ 、理想は所在に現れる 、ここに焚(た)く火の烟(けむり)なりけり

第二十七章 夢の実用
、夢は迷信として排(しりぞ)くべきか 、夢もまた人生の一部 、夢とはいかなるものか 、睡眠中の時間も向上に用いられる 、夢は一種の潜在識 、宝船(たからぶね)以上の夢見る秘訣(ひけつ) 、夢と実際とは連絡することが多い 、夢は人間の心の鏡 、努力すれば高い境遇に登れる


序


 とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚(こうしょう)遠大(えんだい)にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯(しょうがい)に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話(さわ)の料(かて)か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼(おそれ)がある。もちろん道徳の思想は高尚(こうしょう)、その道理は遠大(えんだい)であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人(ごじん)の意識の中に浸(し)み込(こ)ませるところにあると思う。古(いにしえ)の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰(い)うに、「言(げん)近くして旨(むね)遠きものは善言(ぜんげん)なり。守ること約にして施(ほどこ)すこと博(ひろ)きものは善道なり。君子(くんし)の言(げん)は帯(おび)より下(くだ)らずして道(みち)存(そん)す」と。
 これを思えば道すなわち道徳はその性(せい)高くしてその用(よう)低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人(でんぷやじん)も守り得(う)るものであるらしい。
 わが邦(くに)においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修(おさ)め得(え)ぬ心地す。仁義礼智(じんぎれいち)などとは斯道(しどう)の人にあらざれば解(かい)し能(あた)わぬ倫理(りんり)として、素人(しろうと)のあえて関せざる道理のごとくみなす風(ふう)がある。これもそのはずであって、むかしは堅苦(かたくる)しき文字を借(か)りて、聖人(せいじん)にも凡人(ぼんじん)にも共通なる考えを言い現す癖(くせ)があった。これはただに儒学(じゅがく)のみでなく、仏教においても同然で、今日(こんにち)もなお解(と)き難(がた)き句あれば「珍聞漢(ちんぷんかん)」とか、あるいは「お経(きょう)の様(よう)」なりという。また、かくのごときは独(ひと)り本邦(ほんぽう)ばかりでない、西洋においても一時は解(わか)りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排(はい)してラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効能(こうのう)多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊(へい)に陥(おちい)りやすい。
 なるほど、なにごとにしても、理を究(きわ)めんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容易(ようい)ならざる専門的研究となるが、吾人(ごじん)の平常踏(ふ)むべき道は藪(やぶ)の中にあるでなし、絶壁(ぜっぺき)断巌(だんがん)を沿(そ)うでもない。数千年来、数億の人々が踏(ふ)み固(かた)めてくれた、坦々(たんたん)たる平(たいら)かな道である。吾人(ごじん)が母の胎内(たいない)においてすでに幾分か聞いて来た道である。孟子(もうし)の、「慮(おもんぱか)らざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、慮(おもんぱか)らずして、ほとんど無意識に会得(えとく)してある教訓(きょうくん)に従うを道徳と称するものでなかろうか。
 わが輩(はい)は決して道徳問題は、みなみな無造作(むぞうさ)に解するものと言うのではない。一生の間には一回二回もしくは数回腸(はらわた)を断(た)ち、胸を焦(こが)すような争(あらそい)が心の中に起こることもある。しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の指(ゆび)で数(かぞ)えつくせるくらいなものである。これに反し、われわれの最も意(い)を注(そそ)ぐべき心掛(こころがけ)は平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。平常の鍛錬(たんれん)が成ればたまたま大々的の煩悶(はんもん)の襲(おそ)い来る時にあたっても解決が案外(あんがい)容易(ようい)に出来る。ここにおいてわが輩(はい)は日々の心得(こころえ)、尋常(じんじょう)平生(へいぜい)の自戒(じかい)をつづりて、自己の記憶(きおく)を新たにするとともに同志の人々の考えに供(きょう)したい。

大正五年五月九日
南洋旅行の途上(とじょう)、信濃丸(しなのまる)船中にて
新渡戸稲造(にとべいなぞう)



芭蕉ハ無クシテレ耳聞イテレ雷ヲ開キ
  葵花ハ無クシテレ眼随イテレ日ニ転ズ
  . そめ色の山もなき世におのづから
     柳はみどり花はくれなゐ



神と獣類の間に立つ人

 外国語では人という名詞(めいし)をただちに男(おとこ)に代用するが、わが国(くに)において人というのは西洋のいわゆるペルソン(人格(じんかく))を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なる語(ことば)はあるいは高尚(こうしょう)な意味に用いることもあれば、またすこぶる野卑(やひ)なる意味を含(ふく)ませることもある。たとえば、
「人と生まれてかかる事をするのは恥(はじ)である」
 という場合に用いられた人は、万物の霊長(れいちょう)であり、したがって廉恥心(れんちしん)も自然に備(そな)わっているものなれば、よろしく自(みずか)ら重(おも)んずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊重(そんちょう)すべきを示したものである。しかるにこれに反し、
「どうせ人間(にんげん)だもの、このくらいのことをするのは当然だ」
 という口調(くちょう)を放つときは、神(かみ)ならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪業(ざいごう)をするのは免(まぬか)れぬと、半獣性(はんじゅうせい)の欠点に富めることをいいあらわすに用(もち)いられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は獣類(じゅうるい)のあいだに介在(かいざい)するものであるから、両者の性質を兼備(けんび)し、自分の勝手(かって)で都合(つごう)よきほうに較(くら)べ、ある時はみずから尊者(そんじゃ)の敬称を甘(あま)んじて受け、またある時はみずから野卑(やひ)と称するほど謙遜(へりくだ)る。信玄(しんげん)の歌に、
人(ひと)多(おほ)き人(ひと)の中(うち)にぞ人(ひと)ぞなき、人(ひと)となれ人(ひと)、人(ひと)となせ人(ひと)
 とあるは、ある人の歌に、
人(ひと)はたゞ人(ひと)とならねば人(ひと)ならず、人(ひと)となれ人(ひと)、人(ひと)となせ人(ひと)
 とあると同じく「人(ひと)」なる観念(かんねん)を二つにしていることが明らかである。すなわち「人」なる字が善悪の二様(よう)に用いられている。

女なる言葉に含まれた道徳的意味

 この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「女(おんな)」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗(ひぼう)する意旨(いし)であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷(ふう)することはしばしば見るところである。
 たとえば、
「女子(じょし)と小人(しょうじん)は養(やしな)い難(がた)し」
 という場合、単に女子(じょし)という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人(しょうじん)という語(ことば)と結(むす)びあわせると、女子(じょし)を卑下(ひげ)する心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺(ことわざ)を見ても、
「どうせ女の事だもの」
「家の乱は女から」
「七人の子は生(な)すとも女に心を許すな」
「大蛇(だいじゃ)を見るとも女人(にょにん)を見るべからず」
 などと女に関する悪口(あっこう)がたくさんある。畢竟(ひっきょう)いかに男子が自己の愚(ぐ)より婦人に迷ったかを自白(じはく)するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏(へん)または旁(つくり)に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。
 たとえば女を三字集めた姦(かん)、両男(りょうだん)の間に女を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)(はさ)んだ嬲(なぶる)(もっともこれは女のほうより左右(さゆう)にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑(いやし)めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的(ちょうしょうてき)に用うる人多きを見て、不愉快(ふゆかい)に感ずる。しかし女を卑下(ひげ)する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。
 かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.(女よ心弱きとは爾(なんじ)の名なり)といい、またテニソンの Woman is a lesser man.(女は小さき男なり)といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。もしそれかかる例証(れいしょう)を文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。されば女という言葉だけで、いわゆる外面如菩薩(げめんにょぼさつ)、内心如夜叉(ないしんにょやしゃ)という思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。
 しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。たとえば、
「某(ぼう)はさすがに女だけありて」
 といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば柔和(にゅうわ)で従順で廉潔(れんけつ)なるの意を含ませて使(つか)わるることもある。漢字を見ても好(このむ)、妥(しずか)などは善い意味である。西洋の文学にも女といえばただちに天使(てんし)と同一視する例も少なしとせぬ。かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性を異(こと)にする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう道徳的(どうとくてき)評価(ひょうか)で判断さるるものである。しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、相場(そうば)が一定しない。

男一匹とは何を意味するか

 しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態(きたい)に悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅(ごうき)とか、あるいは大胆不敵(だいたんふてき)、あるいは果断(かだん)勇猛(ゆうもう)、あるいは任侠(にんきょう)というような一種の印象(いんしょう)を惹起(じゃっき)す。
「天川屋儀兵衛(あまがわやぎへえ)は男でござる」
 と一喝(かつ)すれば捕手(とりて)の者も閉息(へいそく)する。
 男一匹(ぴき)なる句は一種爽快(そうかい)なる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優(すぐ)れたる男子に応用するは、一見男子を侮辱(ぶじょく)せるかの疑惑(ぎわく)を促(うなが)すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇猛(ゆうもう)とか任侠(にんきょう)とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微妙(びみょう)なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補(おぎな)い、豺狼虎豹(さいろうこひょう)も遠く及ばぬ力を逞(たくま)しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。
 右のごとく考え来たれば一匹(ぴき)なる言葉には、やはり幾分か侮辱(ぶじょく)の意が含まれているごとく思われる。けだし聖人(せいじん)君子(くんし)高僧(こうそう)等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣(もうじゅう)の勇気に類したもので、孟子(もうし)のいうところの匹夫(ひっぷ)の勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇(ちょゆう)と称し、深(ふか)く尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治(ほうち)の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障(ほしょう)で、武勇なければ生命も財産も危険に瀕(ひん)するばかりである。今でも一朝(ちょう)事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為(しょい)に出る。沙翁(さおう)の言(げん)に、
「ラッパの音(ね)のわが耳に響(ひび)く時は吾人(ごじん)のまさに騎虎(きこ)の行動を倣(なら)うの時なり」
 と。暴虎馮河(ぼうこひょうが)の徒(と)には孔子(こうし)は与(くみ)せずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服(けいふく)する。昔時(せきじ)、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。勇(ゆう)すなわち徳(とく)、徳(とく)すなわち勇(ゆう)と考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫(ひっぷ)の勇(ゆう)以上に昇(のぼ)らずとも、それが尊(とうと)かった。しかして男子として褒(ほ)むべきはこの種の勇(ゆう)を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直(きょくちょく)を判別(はんべつ)する時代にいたっても、依然としてなお匹夫(ひっぷ)の勇(ゆう)が尊(とうと)ばれ、男を褒(ほ)むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。

尚武(しょうぶ)思想

 ヨーロッパでは耶蘇教(やそきょう)が普及して以来、人生観が一変した。したがって人間の評価(ひょうか)もまた変わってきた。柔和(にゅうわ)なる者は幸いなりとは、基督(キリスト)の教訓(きょうくん)であるが、汝(なんじ)に敵する者を愛せよとか、あるいは汝(なんじ)を迫害する者に復仇(ふっきゅう)するなかれとか、汝(なんじ)に一里の道を強(し)うる者あらば二里を歩(あゆ)めとか、右の頬(ほお)を打つ者あらば左をも叩(たた)かせよというがごとき、柔順(じゅうじゅん)温和(おんわ)の道を説き、道徳上の理想としてこれが一般社会に説かれたのである。しかしこれを実行する者はほとんど皆無であった。わずかに有志者があるいは世を去りあるいは山深く庵(いおり)を結び、あるいは市街にありても僧(そう)となりて俗縁を断ったものが、文字どおりにこれを実行したるに過ぎなかった。
 普通一般の人はみずから耶蘇教徒(やそきょうと)なりと称(しょう)しながら、この柔和(にゅうわ)の道を守らなかった。すなわちニーチェが耶蘇教(やそきょう)を奴隷(どれい)の道徳と悪口(あっこう)したのも無理ならぬことで、現時(げんじ)の戦争にも現れているとおり、基督(キリスト)の言葉が決してそのままに行われておらぬ、むしろその反対の勇猛(ゆうもう)なる教旨(きょうし)が、耶蘇教(やそきょう)以前より一貫して欧州(おうしゅう)に盛行(せいこう)している。これこそ実にニーチェのいわゆる治者(ちしゃ)の道徳である。これは前に述べた女らしく柔順なれという基督教(キリストきょう)に対し、男らしかれという教訓である。こんにちの世界はこの両者相俟(あいま)って始めて円満なるを得るものであるが、外(そと)に対して常にわれわれの眼を喜ばせるものは、男々(おお)しき男性的道徳である。

男一匹の活動

 しかしこの柔和なれと訓(おし)うるは独(ひと)り耶蘇教(やそきょう)に限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの回々教(フイフイきょう)を除き、たいてい柔和(にゅうわ)の徳を主として教えざるものはない。孔子(こうし)の教えのごときは、よほど俗界に縁(ゆかり)の近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに遵奉(じゅんぽう)すれば、とかく柔弱(にゅうじゃく)に流れ、かえって開祖の主旨に反する虞(おそれ)もある。現に基督(キリスト)のごときは前にも述べたごとく柔和(にゅうわ)主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに憤(いきどお)り、綱をもって神殿を汚(けが)した商人を放逐(ほうちく)したことがある。
 この事実に徴(ちょう)すれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯々諾々(いいだくだく)、これに盲従(もうじゅう)せよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主旨(しゅし)にも適(かな)わなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛が犢(こうし)を舐(な)むるの類に止(とど)まらぬ。しかしてこれは啻(ただ)に男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。
 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基督教(キリストきょう)の柔弱(にゅうじゃく)に流るるを憤慨(ふんがい)して、いわゆる腕力的基督教(マスキュラークリスチャニーチー)を主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の紳士(しんし)は腕力を縦(ほしいまま)にしたのでなく、基督(キリスト)の仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧嘩(けんか)があると、職務柄(がら)の礼状を発することなく、みずからその渦中(かちゅう)に飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳骨(げんこつ)を知らぬか」と名乗(なの)り、もってしばしば喧嘩(けんか)を仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男伊達(だて)の趣(おもむき)を備えた人である。

男伊達(だて)の行為よりもその精神を酌(く)め

 わが輩(はい)はつねに男伊達(だて)の制度を景慕(けいぼ)する者である。なかでも幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)のごときは、これを談話に聞いても、書籍に読んでも、じつに我が意を得たものとして尊崇(そんすう)せざるを得ぬ。任侠(にんきょう)の標榜(ひょうぼう)するところには、些細(ささい)なる点においてまことに児戯(じぎ)に似たることも少なくない。たとえば手拭(てぬぐい)はどう持つものとか、尺八はどう※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)(さ)すとか、帯はいかに結ぶとか、語尾はいかに発音するかというがごとき、愚(おろか)なことではあるが、その子分として用いた者が多くは無学の熊公(くまこう)八公(はちこう)の類(るい)であったから、かくのごとき紋切形(コンヴェンション)を設(もう)け、これによりて統御(とうぎょ)の便(べん)を計(はか)ったのも、あるいは止むを得なかったことであろう。これらの些細(ささい)の事柄は笑うべきではあったが、まただいたいにおいて彼らのなすところ、物騒(ぶっそう)の傾向なきにあらざりしも、その動機においてはいかにも男性的で、子分の顔を立てるためには自分に不利益なる喧嘩(けんか)を買(か)ったこともあろう。
 自分の命を投げ出したこともあり、強きを挫(くじ)き弱きを扶(たす)くるを主義とし、義(ぎ)を見ればいかなることにも躊躇(ちゅうちょ)しなかった。この任侠(にんきょう)な勇猛な性質は、勘定(かんじょう)高き現今(げんこん)の社会においておおいに珍重(ちんちょう)すべきものと思う。されとてわが輩は、法律もろくろく備わらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治のもとにそのままに実行することは、断(だん)じて非なりと信ずるゆえに、たとえ当年(とうねん)の男伊達(だて)の意気を思慕(しぼ)するとはいえ、こんにちの男一匹は長兵衛そのままを写して可(か)なりとは思わぬ。争議起これば、今日(こんにち)はこれを治(おさ)むるために相応(そうおう)の法定機関がある。これによりて是非曲直(ぜひきょくちょく)を判断すべく、みだりに腕力を用うることを許さぬ。ゆえにわが輩(はい)は外部に表れた男伊達(だて)の行為よりも、むしろこの行為を生み出した任侠(にんきょう)の心持が欲(ほ)しいのである。すなわち、
「男は気で食え」「男前(おとこまえ)よりは気前(きまえ)」
 などいうところの男性的気象が欲(ほ)しいのである。

勇は男一匹たるの要素

人にまけ己(おの)れにかちて我(が)を立てず義理を立つるが男伊達(だて)なり
 の一首まことに深重(しんちょう)の味がある。ことに上(かみ)の句の「人(ひと)にまけ」のごときは前に述べたもろもろの宗教の教うるところで、右の頬(ほお)を打たるれば左の頬(ほお)を出すがごとき意を含んでいる。またそのつぎの「己(おの)れにかちて」などは勇の最も洗練されたるものである。勇気もこの階段に達すればもはや猛勇でなく、匹夫(ひっぷ)の勇でもない。孟子(もうし)のいわゆる大勇なるもので、西洋の学者のいうモーラル・カレッジ(道徳的勇気(どうとくてきゆうき))である。
 男一匹たるの資格は第一に勇を揮(ふる)うて己(おの)れに克(か)つにありと思う。己(おの)れに克(か)つものはほかに勝つこともさほど難事でない。己(おの)れに克(か)つものは世界(せかい)に勝(か)つことを得(う)と古人の言(い)えるのはこのことである。なお古い漢書に曰(いわ)く、
「善く身を処(しょ)する者は、必らず世に処す。善く世に処せざるは、身を賊(ぞく)する者なり。善く世に処する者は、必らず厳(げん)に身を修む。厳(げん)に身を修めざるは世に媚(こ)ぶる者なり」
 と。決して女子は勇気なくともよいというのではないが、女子の強きところは耐忍(たいにん)にありとせば、男子の特長は猛進的(もうしんてき)なる奮闘(ふんとう)の力にある。このことを論ずるには多言(たげん)を要せぬ。動物を見てもすみやかに天意のどこにあるやは察(さっ)しられる。
 孔子(こうし)の弟子(でし)なる子路(しろ)は勇(いさ)ましい男性的の者であって、つねに勇を好んだ。ある日孔子(こうし)にたずねた、
「君子(くんし)は勇を尚(とうと)ぶか」
 と、孔子は答えて、
「君子は義をもって上(じょう)とす。君子(くんし)勇ありて義なければ乱(らん)を為(な)す。小人(しょうじん)勇ありて義なければ盗(とう)をなす」と。
 じつにそのとおりで、古人の語に、
「深沈(しんちん)厚重(こうちょう)は是(こ)れ第一等の資質(ししつ)、磊落(らいらく)雄豪(ゆうごう)は是れ第二等の資質、聡明(そうめい)才弁(さいべん)は是れ第三等の資質なり」と。

男一匹になるには推理の力が要(い)る

 しからば男一匹たるの資格は、勇気の有無(うむ)のみをもって定むるかというにそうは行かぬ。勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。なんのために勇を揮(ふる)うかといえば、義のためにするのである。義を見てなせばこそ勇と称(しょう)すれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれは怯(きょう)たるを免れぬ。ここにおいて男性として欠(か)くべからざる要素は事の本末(ほんまつ)物の軽重(けいちょう)を分別する力である。テニソンが「女は小さき男なり」といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。
 わが輩は脳髄(のうずい)において女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて脳髄(のうずい)の作用が種類を異(こと)にするとは思わぬ。今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典に与(あずか)るの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、腕力(わんりょく)の差違を含めることはいうまでもないが、思慮(しりょ)において男子の女子に優越(ゆうえつ)なることを述べたのである。
「女賢(さかしゅ)うして牛売り損(そこ)なう」「女の鼻(はな)の先(さき)思案」
 などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ侮辱(ぶじょく)の言(げん)に聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。否(いな)、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこの謗(そし)りを免(まぬか)れないものもある。わが輩(はい)のいう思慮(しりょ)とはいわゆる「ロジカル・マインド」で、推理の力の謂(いい)である。かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでも測(はか)りやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠き慮(おもんぱかり)を凝(こ)らす力は、今日では(将来はいざ知らず)なお男子の特長(もちろん男子にも無思慮(むしりょ)の者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく)とも称すべきものであって、男一匹(ぴき)と誇(ほこ)るものはものごとの利害、曲直について篤(とく)と思慮(しりょ)する要素を備えねばならぬ。

男一匹には判断実力の力が要(い)る

 思慮(しりょ)のただ胸中(きょうちゅう)にあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発揮(はっき)したとは言い難(がた)い。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉(ほまれ)とするも、女子の働きは内助(ないじょ)にある。しかしてこの内助(ないじょ)はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。
 ゆえに一家に事あり、これに処(しょ)するは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。
 キングスレーの詩(し)に、
Men must work and women must weep.
(かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身)
 という一句(く)がある。詮(せん)じつめれば男子の力は思慮(しりょ)に止(とど)まらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に劣(おと)るものでない。
 かつてある学者の言(げん)に男子の脳髄(のうずい)は帰納的(きのうてき)なるも、女子は演繹的(えんえきてき)なりとあったが、女子は感情が勝(まさ)っているから冷静に事物に接することが難(かた)い。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇を揮(ふる)うを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思慮(しりょ)と判断の力が優(すぐ)れていたであろう。
 こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔時(せきじ)のごとき蛮勇(ばんゆう)の必要はいちじるしく減少(げんしょう)したけれども、思慮(しりょ)と判断力とにおいて多々(たた)ますます進むにあらざれば、男一匹として女子に優(まさ)るの理由を失うにいたる。

男女両性の接近し競争する傾向

 近来、人類の進歩を考うるに、女子の進歩は男子にくらべて速度が早いと思われる。知識上のことはいうまでもなく、その身体のうえにおいてさえも、近時、男子の体格上に起こる変動よりも、女子の体格に起こる変動が多い。
 ある学者はかくのごとき有様が続いたならば、世は遠からず蒲柳(ほりゅう)の美人がなくなるだろうというている。思慮、学問、決断において女子が男子のごとくなれば、身体までも相(あい)類似してくる。かくなればもはや男一匹などいうことは決して男子の誇りの言葉でなくなる。昔時(せきじ)の得意を夢み、油断していると、男子はその長所を失うて粗雑な荒くれ男のごときものとなり、さらに一歩を進めて道徳上に退化を来たしたならば、いよいよ一匹の匹が動物的男性なることを示すにいたりはせぬか。
 ある人は今後の戦争は女性との対戦ならんといった。もちろんこれは腕力(わんりょく)の戦いでなく、経済的の戦いである。この戦いはすでに開始せられ、工場において、学校において、商店において、事務所において、女性は一部男性に代って仕事しつつある。この競争は今後急に終るまいと思うが、今やまた知識上の競争も始まらんとしている。これを思えば男一匹の将来ははなはだ危ぶまるる。この戦争が将来いかに成りゆき、いずれが勝つか、いずれが負けるか、はたまたいずれも勝負なしに円満なる平和(へいわ)をもって解決さるるか、それは未来の事とし、吾人(ごじん)の目下の務めは、男子は男子だけの性質を忌憚(きたん)なく発揮することにある。
 競争とか勝負とかいえば、両性のあいだに利害を異(こと)にするように聞こゆるし、また現(げん)に経済上の競争においては利害を異にしているが、この利害を異にする関係は永遠に続くものであるか、あるいはまた男女は単に性の相違するのみで、その他の利害はことごとく共通するものではないかという問題も起こってくる。

弱者の保護は男一匹の要素

 従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉快(ゆかい)とした。がこの点についても今後両性が相(あい)類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推測(すいそく)するに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は藤(ふじ)である。
 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳房(ちぶさ)が加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時に鑑(かんが)みても男子は女子を保護するの義務が天然(てんねん)に備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らを弄(もてあそ)び、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫用(らんよう)するのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつ護(まも)るこそ、生物界における永遠不易(ふえき)の法則である。
 むかしの任侠(にんきょう)と称する者を見ても、彼らは外見上放蕩(ほうとう)三昧(まい)に身を持ち崩(くず)すようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里(ゆうり)に踏み込んでも、女子を弄(もてあそ)ぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。

男は強かるべし強がるべからず

 女子の保護者たる役目を全(まっと)うするには猛勇(もうゆう)では叶(かな)わぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男伊達(だて)は決して威張(いば)り一方では用をなさぬ。内心剛(かた)くして外部に柔(やわ)らかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えて曰(いわ)く、
「人(ひと)剛(ごう)を好めば我(われ)柔(じゅう)をもってこれに勝つ」
 と、また曰(いわ)く、
「柔(じゅう)能(よ)く剛(ごう)を制す、赤子(せきし)に遇(あ)うて賁育(ほんいく)その勇(ゆう)を失(うしな)う」と。
 男子は須(すべか)らく強かるべし、しかし強がるべからず。外(そと)弱きがごとくして内(うち)強かるべし。
負(ま)けて退(の)く人を弱しと思ふなよ智恵(ちえ)の力(ちから)の強き故(ゆえ)なり
 とは、真(しん)の男子の態度であろう。男もこの点まで思慮(しりょ)が進むと、先きに述べたる宗教の訓(おし)うる趣旨に叶(かの)うてきて、深沈(しんちん)重厚(じゅうこう)の資(し)と磊落(らいらく)雄豪(ゆうごう)の質(しつ)との撞着(どうちゃく)が消えてくる。かくなると羊(ひつじ)のようにおとなしい性と虎(とら)のごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、「羊質虎皮(ようしつこひ)」というのがあって、外面虎皮(こひ)をかぶりて虚勢(きょせい)を張り、内心(ないしん)卑怯(ひきょう)きわまる偽物(にせもの)を指(さ)す成語としてあり、楊雄(ようゆう)(前五八―後一八)の文に、
「羊質(ようしつ)にして虎皮(こひ)、草(くさ)を見て悦(よろこ)び、豺(さい)を見て戦(おのの)く、其の皮の虎(とら)なるを忘るるなり」
 とあるが、草を見て悦(よろこ)ぶになんの悪きことがない。悪きことは豺(さい)を見て戦(おのの)く臆病心(おくびょうしん)にあるのだから、その温順寡慾(かよく)なる羊質をもちながら、なお虎(とら)の驍悍勁※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)(ぎょうかんけいれい)なる質を修めたら、すなわち廉毅忠果(れんきちゅうか)の性格となりてこれに超(こ)ゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に曰(いわ)く、
The bravest are the tenderest, ――
The loving are the daring.
(勇深(ゆうしん)なる者は温柔(おんじゅう)なる者、愛情(あいじょう)深き者は大胆(だいたん)なる者なり)
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一人前とは何を標準とした言葉か

 永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは老若(ろうにゃく)を問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例に違(たが)わず四十歳前後のころよりしばしば、
「己(おの)れは一人前(にんまえ)の仕事を為(な)したであろうか」
 を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる量(りょう)を指すかということである。
 一人前(にんまえ)、一人分(にんぶん)、一と通(とお)り、人並(ひとなみ)、十人並(にんなみ)、男一匹(ぴき)の任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。反物(たんもの)一反あれば一人前の衣服が出来る。五合(ごう)の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。
 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。
 料理屋で飯(めし)を注文すれば一合(ごう)二、三勺(じゃく)を一人前という。
 牛肉屋に肉を注文すれば二十五匁(もんめ)より三十五匁(もんめ)までをもって一人前とする。
 一人前に対(たい)してかくのごとき標準を設(もう)けたのは何より起こったのであるか。
 四尺(しゃく)に足らぬ小(こ)男にも、六尺(しゃく)ちかい大兵(だいひょう)にも、一反(たん)の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、丈(たけ)の長短を斟酌(しんしゃく)せず一人前は一反(たん)と定めてある。
 また小食の人も健啖家(けんたんか)も、肉(にく)を注文すれば同じ分量を授(さず)けられる。ほとんど個性を無視して男(おとこ)一匹(ぴき)の食物(しょくもつ)は何合(なんごう)、衣類は何尺(なんじゃく)と、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。
 日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚要(い)るかから割り出したものでもない。
 それと同じく人の容貌(ようぼう)を評するにも、よく十人並(なみ)という言葉を使う。これはすなわち美醜(びしゅう)の一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼鼻(めはな)や顔形(かおかたち)の寸法を計(はか)って出来得るものでない。まして芸などについては算盤(そろばん)にかけることは絶対的に不可能のことである。
 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人分(ぶん)と称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ趣(おもむき)を異にしているように思う。

一人前と統計学者のいうノルム

 大槻(おおつき)先生はその著『言海(げんかい)』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の列(つら)なること、尋常(じんじょう)と説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、型(かた)などと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する虞(おそれ)があるから、僕は原語(げんご)のままにノルムという字を用(もち)いたいと思う。ノルムはその語原(ごげん)を調べると大工(だいく)の使用する物指(ものさし)すなわち定規(じょうぎ)である。この定規に適(かな)ったものがノルム的(てき)すなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前の人(ひと)というのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具備(そな)わっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。
 これすなわちその国のノルムに適(かな)うというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に陥(おちい)る。ゆえに同じ国人(こくじん)のうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに適(かな)わぬ。
 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実在的(じつざいてき)現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、誰(た)れいうとなく、十目(もく)が見、十指(し)が指(ゆびさ)して、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると思(おも)う。老子(ろうし)の有名なる語に、
「道(みち)の道(みち)とすべきは常(つね)の道(みち)にあらず」と。
 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一法(ぽう)となし得はせぬか。人が普通に道(みち)というのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出来(でき)ようか。僕はかくのごとき問題で長く頭脳(ずのう)を痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。

一人前の人と一人前の業

 この問題を提出したならば、何人(なんぴと)もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当(あ)つることは出来ぬというであろう。一人前の業(ぎょう)を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺(ことわざ)にあるごとく、
「田舎(いなか)の一升(しょう)は江戸(えど)でも一升(しょう)」
 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公(でっちぼうこう)の職にあるものならば丁稚(でっち)の一人前のことをなしたか、一国の宰相(さいしょう)なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。
 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説(ぐせつ)を述べてみよう。
 一人前の仕事という分量は何人(なんぴと)が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬(たと)えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授(さず)けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了(けつりょう)することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為(な)すべき掃除(そうじ)なり料理なりその他夫(おっと)に対する義務、子供に対する世話をも首尾(しゅび)よく為(な)しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完(まっと)うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、
「世(よ)に在(あ)ること一日ならば、一日の好人(こうじん)と做(な)るを要す」
 との心掛けを連日実行して、一生を貫(つらぬ)けば、その人は実(じつ)に好人である。

測る標準は内にあるか外にあるか

 しかるにこの例について起こる疑問は、定規(じょうぎ)として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を完(まっと)うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規(じょうぎ)なりといったが、この定規は自己以外に、世人(せじん)がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為(な)しつつある分量であって、甲も乙も丙(へい)も丁(てい)もやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間(せけん)の勤めとはこのことをいうらしい。
 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺(おれ)は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。
 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手(かって)にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、俺(おれ)は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁(もんめ)なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁(もんめ)である。己(おの)れは碌(ろく)な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業(ぎょう)をすれば世間は斟酌(しんしゃく)せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否(いな)やはおのずから別問題である。

職業上の一人前と全人(オールメン)としての一人前

 故に人を測(はか)るについて、目方(めかた)をもって某(それがし)は何貫(なんがん)ときめることは出来る。丈(たけ)をもってして某は何尺(じゃく)何寸(ずん)と定むることも出来る。そしてこの人の貫目(かんめ)、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み優(すぐ)れて高いとか低いとか、かく別々に測(はか)ることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸尺貫目(すんしゃくかんめ)を測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは脳髄(のうずい)もよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして肉附(にくづき)もよく大きいという関係があるかも知れぬ。
 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には頭脳(ずのう)の透明鋭利(えいり)な者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が世人(せじん)よりたっとばるるのもこれがためである。
 専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を加(くわ)え優(すぐ)れた者は世に貢献(こうけん)することが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっとも能(よ)く当たることであるが、これはいわば人を幾多(いくた)の片(へん)に切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
 しかるに専門家中には、その専門に熱中(ねっちゅう)し、他の天稟(てんぴん)の力を発達せしめない者がたくさんある。その怠(おこた)りたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も間々(まま)ある。すなわちかかる人は全人(オールメン)として見れば一人前に足らぬ人である。己(おの)れの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし孔子(こうし)は、
「君子(くんし)は器(き)ならず」
 といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし実地家(じっちか)の中にも同じ過(あやま)ちに陥(おちい)るものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭(するど)く、その成功のためにはほとんど人倫を紊(みだ)すも恬(てん)として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかる風(ふう)あるものは人間失格者としか思われぬ。
 おそらく人間として平均の調和を失(うしな)えるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。譬(たと)えていえば、人の腕(うで)は身幹(しんかん)に比して何分(なんぶん)とか、たいてい一定した割合がある。この割合を越(こ)えても不具(ふぐ)であり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などには手(て)の長過ぎる人があるとすれば、学者間(かん)に短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとの譏(そしり)はまぬがれまい。

要は人は業(ぎょう)なり

 かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人(にん)並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に昇(のぼ)らばよろしく室(しつ)にも入るを要する。しかして甲(こう)がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣(ぞうけい)は深さ高さによりて測り、たしかに某(それがし)は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為(な)したとしても、その人はやはり専門については一人前の分(ぶん)をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一人(にん)並みであるや否(いな)やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。
 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして衆(しゅう)に優(すぐ)れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分(だいぶ)の相違があるであろう。今日(こんにち)のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果(こうか)さえ挙(あ)ぐるを得ば人として生まれ来た甲斐(かい)ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧(かえり)みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師(しごとし)は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。
「文は人なり」
 というが、人格を示すもの豈(あ)に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措(お)いては事もなく業(ぎょう)もない。一人前の仕事を為(な)し遂(と)げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難(がた)きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。
 これを譬(たと)えていえば、ここに数多(あまた)の器(うつわ)があるとする。これらの器(うつわ)――仮りに徳利(とくり)とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一石(こく)も容(い)るれば小さきものは一勺(しゃく)も容れ得ぬ。しかしいかに小(しょう)なるも玩具(がんぐ)にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做(な)す。してみれば徳利の徳利たる所以(ゆえん)はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡(たか)には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴(はくち)でなければ、みな一人前と算(かぞ)えらるるであろう。
 しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるや否(いな)やの問題である。四斗樽(とだる)大(だい)を備(そな)えても空(から)なれば四升樽(しょうだる)にも劣る。二合徳利(ごうどくり)でもいっぱいに満(み)つれば一斗(と)入りの空徳利(からどくり)に優(ま)さる。人もどれほど「王佐棟梁(おうさとうりょう)」の才であっても、これを利用もせず懶惰(らんだ)に日を送れば、小技(しょうぎ)小能(しょうのう)なるいわゆる「斗※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)(とそう)の人(ひと)」で正直に努(つと)める者に比して、一人前と称しがたく、ただ大(だい)なる「行尸走肉(こうしそうにく)」たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい天賦(てんぷ)の才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、己(おの)れ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
(自尊(じそん)、自知(じち)、自治(じち)の三路(じ)は、一生(しょう)を導(みちび)いて王者の位に達せしむるなり)
 と。太古ギリシアの神託(しんたく)に、
「己(おの)れを知(し)れ」
 とありしは自己の性質能力を覚(さと)り、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人を知(し)らざるを患(うれ)うる者がある。人の己(おの)れを知らざるを患(うれ)うる者はさらに多いが、己(おの)れを知らざるを患(うれ)うる者ははなはだ少ない。
 冒頭(ぼうとう)にいうがごとく僕は永く自分の身に顧(かえり)みて、我は果たして一人前の仕事を為(な)し終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は遺憾(いかん)ながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは何人(なんびと)といえども、己(おの)が身に顧(かえり)みてこの問題を提出したならば、確固(かっこ)たる答えを為(な)し得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって世人(せじん)に示して欲しい。僕がここに自分の迷(まよ)いの径路(けいろ)を述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考に供(きょう)したいからである。
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「克(か)つ」に含まれた二種の考え

 克(か)つといえば誰(たれ)しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克(か)つことについても、この二種(しゅ)の考えが含まれている。字引(じびき)を見ると、克(かつ)の字はもと家を支(ささ)うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷(にな)って堪(た)える意を含ませてあると聞(き)くが、これはいわゆる勝つ所以(ゆえん)を最もよく表したものと思う。
 克(か)つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃(そう)する人、もしくは破壊(はかい)する人と思われる。また野蛮人(やばんじん)の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞(たくま)しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩(はい)が往年塾(じゅく)にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴(やつ)と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈(ランプ)でも叩(たた)きこわすと、強い奴(やつ)と賞(ほ)め讃(たた)えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克(か)つことをもって偉いこととみなすのである。

独り相撲(ずもう)で強い人

 つまらぬことではあるが、今もなおわが輩(はい)の記憶に残れることがある。十余年以前であった。あるところに宴会(えんかい)が開かれ、当時議会で羽(は)ぶりのよい有名な某(ぼう)政治家が招待せられ、わが輩もその末席(まっせき)についたことがある。酒数行(すうこう)、主客(しゅかく)ともに興酣(たけなわ)となり、談論に花が咲き、元気とか勝気(かちき)とかいさましい議論の風発せるあいだに、わが輩は退席せんとして玄関に出た。某政治家も爛酔(らんすい)して前後もわきまえず女中の助けをかりて蹣跚(まんさん)として玄関に来たが、自分の強さ加減を証拠だてるため、女中が冠(かぶ)らせた帽子を、戦(おのの)く手より奪いとり、玄関の柱に叩(たた)きつけ、意気揚々として車で帰ったことがある。この時までわが輩はおおいにこの政治家の人物を尊敬したが、このいわゆる強さを見て、
「ハハア、かねて聞き及べる某(ぼう)の硬骨(こうこつ)とはこのへんが程度かな。この人は古シャッポを相手に克(か)つ人だナア」
 と思い、爾来(じらい)大いに尊敬の念を失ったことがある。この前にもその後にも、他人についてこれに類した事実(じじつ)をしばしば目撃したが、こういうことが果たして強い証拠であろうかと思うと、何となく人を動物視したくなって来る。
 またこれに類する話であるが、われわれがしばしば出会わすことは自分の勝った手柄(てがら)自慢話である。俺(おれ)はこういったら先方は一言もなかったとか、向うを大いにへこましたとか、最もしばしば耳にする語はこうこういってやったなどと、語る人の言によれば、いかにも先方は恐れ入ったように聞こゆるけれども、さて先方に質(ただ)してみると、一向(こう)やられたともなんとも歯牙(しが)にかけないでおることがある。これらは独り相撲(ずもう)で力(りき)んでおる人である。

文明時代の強き力

 世には、かくのごとき児戯に類した示威(しい)運動により怖(おそ)れたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり日比谷(ひびや)の近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を威赫(いかく)したり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏固(きょうこ)なることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。
 かつまた人を威(おど)して克(か)つのは、みずから恥(は)ずべき下劣(げれつ)なる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。
 いわゆる強さの形が変化するというは、克(かつ)の字について前の「説文(せつもん)」にいえるがごとく、重荷を荷(にな)うて堪えること、すなわち辛苦艱難(しんくかんなん)に堪える、耐忍(たいにん)の力あることをもってその強さが計られる。他人より侮辱(ぶじょく)をうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より見(み)てにぎやかにおもしろく、見物としては誂(あつら)え向きである。これに反し打たれても蹴(け)られてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑屈(ひくつ)のごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。韓信(かんしん)が市井(しせい)の間(あいだ)に股(また)をくぐったことは、非凡の人でなければ、張飛(ちょうひ)が長板橋(ちょうばんきょう)上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは忍耐(にんたい)にあることを会得(えとく)し得ぬ。

外に強き人と内に強き人

 僕は好んでプルタークの『英雄列伝』を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気凛然(りんぜん)たること、いわゆる強いことに何もかも忘れて震(ふる)い上がるごとく感ずることがある。しかるに『新約聖書』を見ると、その説くところはなはだ柔和(にゅうわ)にして強みがさらになきにかかわらず、読んで行くあいだに犯すべからざる力を感ずる。百万人が襲来しても、毫(ごう)も動かざる心の強みを与うること、『英雄列伝』の遠く及ぶところでない。もっともこれは誰れしもかく感ずるとは断言することを憚(はばか)るし、あるいはわが輩一人の所感であるかも知れぬけれども、同感の人も必ずあろうと思う。わが輩の信ずるところによれば、いわゆる世人の強いと称する匹夫(ひっぷ)的の勇と、霊的に強い沈勇とのあいだには大(だい)なる差違がある。
 絵草紙や講談師の筆記にある木村長門守(きむらながとのかみ)が茶坊主のために辱(はずかしめ)を受けたとき、起(た)ってこれを斬り捨(す)つることは、なんらのめんどう手数もなかったであろうし、また女子供らの喝采(かっさい)を博するためには、たちどころにこれを切り捨てたほうが勇ましくも思われたであろう。しかるに彼の精神を酌(く)み得るものは、彼が眉間(みけん)に傷をうけ、しかもそれを茶坊主輩の手よりうけながら、なお泰然自若(たいぜんじじゃく)としていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。

よく耐うる人は強き人

 ドイツの先帝フリードリヒ陛下が不治の病気に罹(かか)りて数日間病床に呻吟(しんぎん)し、しかもその病気は苦痛の最もはげしいものであったので、かたわらに侍(じ)するもののみならず、国民全体がふかき同情をよせ、一日も早くご平癒(へいゆ)あらんことを祈った。あまりに苦痛のはげしいときは、呻(うな)りでもすれば、幾ぶんか苦痛の気休めにもなり、また世人はよく覚えず呻(うな)りやすきものであるが、帝は決して呻(うな)られたことなく、またかつて苦しい顔色を示されたこともなく、つねに莞爾(かんじ)として左右に接せられた。ほとんど病苦のその身にあることを知られなかったようであった。崩御(ほうぎょ)の数日前、今のカイゼルを枕頭(ちんとう)に召され、
「小言(こごと)を言わずに、堪うることを学べ」(Lernen zu leiden ohne Klagen)
 と訓(おし)えられたが、フリードリヒ帝の強さは相応に解(わか)った人でなければ図(はか)り得ぬことである。ドイツの植民地よりまっ裸(ぱだか)の黒人を連れて来て先帝の病床に侍(じ)せしめ、あるいは子供を左右に侍せしめたならば、彼(かれ)らはおそらく先帝はなんらの苦痛もなく、やわらかい布団(ふとん)に横臥(おうが)しニコニコと喜べるものと思い、しかしてかくまでにうれしそうな顔しておらるるなら、何ゆえに外出して馬にも乗り、観兵式にでも出られぬと疑ったであろう。
 桂(かつら)公爵の人格もしくは政見等については人々の考えは種々に分かれているようであるが、公のただ人(びと)ならざりしことは、何人(なんぴと)も同意であろう。して辛抱(しんぼう)づよい点は公の長所であった。長日月(ちょうじつげつ)病床に臥(ふ)しながら、公の身辺に侍(は)べる者にさえ苦しき顔を見せなかったという。公に知(し)られぬようにこっそり覗(のぞ)いて見るとさも痛そうな顔色をして痛みある局部をみずから摩(さす)っていても、誰か病室に入れば、ただちに面相(めんそう)を変え、痛みなき風(ふう)をよそおったという。
 戦場に死するはことの外たやすい、何故なれば死ぬように万事仕向けてある。すなわち周囲が死を促(うな)がす、ゆえに見事に死(し)ぬ。しかし長らく病疾(びょうしつ)にかかりてなお帰るがごとく斃(たお)るるは容易の業ではない。強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。

いよいよという時に発する強さ

 我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物を窺(うかが)うと心底(しんてい)強いものがたくさんある。
 残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。
知らざりき仏(ほとけ)と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは
 とは光俊朝臣(みつとしあそん)の述懐であるが、歌の「仏(ほとけ)」という代りに武士なり丈夫(ますらお)なりの強(つよ)い人格の文字を用いても同じことになる。しかつめらしく具足をつけ威張(いば)るものは、古来猪(いのしし)武士と呼ばれている。
 これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦(たん)事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら泰然自若(たいぜんじじゃく)として落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、従容(しょうよう)として船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬ業(わざ)である。平生は威張(いば)ったこともなく、おだやかに算盤(そろばん)を弾(はじ)ける実業家でありながら、かくのごとくなるは実(じつ)に見上げた人々である。人の強みもここまで来なければならぬ。

戦場における日露兵の比較

 かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣如何(いかん)を問いしに、その人の言に、
「ロシア人は死するも活(い)くるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。ゆえに卑怯(ひきょう)者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人が居(お)ろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。しかるに日本兵は煽(おだ)てなければ働かない。決死隊と称するものも、何人(なんぴと)か彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった」
 と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。むしろ猛獣的の一見して人が己(おの)れを怖れるとか、あるいはいつでも人に噛(か)みつかんとする気が顕(あら)われねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でも吐(は)くを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっと解(わか)りかねるであろう。

己(おの)れに克(か)つものが世界に勝つ

 昔のスパルタ人の教育法は無やみに武張(ぶば)って、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、
「某県より来る学生は、上京当時はすこぶる硬(かた)い、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつ烈(はげ)しく堕落(だらく)するのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」
 といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克(か)つ者は己(おの)れに克(か)つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。
外(そと)よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗(くり)のいがかな
 栗(くり)のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪(た)える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。
 真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に貯(たくわ)えられ、内より溢(あふ)れて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、己(おの)れに克(か)つものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つこと能(あた)わずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書に曰(いわ)く、
「自責の外に、人に勝つの術(すべ)なく、自強の外に人に上たるの術なし」
 と。太古、禹王(うおう)が、「一に能(よ)く予(よ)に勝(か)つ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。
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英雄に現れた内外の差違

 西郷南洲(さいごうなんしゅう)が始めて橋本左内(さない)に会うたとき、こんな柔しい男が何で国事を談ずるに足るだろうかと、心ひそかに軽蔑(けいべつ)したことを、後にいたって自白している。さもあったろうと思う。聞(き)くところによれば橋本という人は、外見はまことに温和に柔順な好男子であったから、この人の心情を知らぬものは、この柔順らしい皮の下に、いかに燃ゆるがごとき熱血が流れつつあったかを悟(さと)ることが出来なかった。また同じ西郷が藤田東湖(とうこ)に会った後、人に向い、
「追剥(おいは)ぎみたいな人物だ」
 と評したという。これもさもあったであろう。氏は躯幹(くかん)長大にしてたくましく、色が黒かったそうであるから、外観を見ては、その血管にいかに柔和な心があり、しかして母の危急を救うためには自分の生命までも投げ出すことを常人は察し得ぬであろう。また南洲(なんしゅう)自身についていえば、見(み)ようによりては外貌(がいぼう)が怖(おそ)ろしい人のようにも思われ、あるいは子供も馴染(なじ)むような柔和(にゅうわ)な点もあった。ちょっと見ても、その烱々(けいけい)として大きくかがやく眼は怖ろしいが、その奥底にはいうべからざる愛情がこもり、近づくものをみな惹(ひ)きつけねばやまぬ趣(おもむき)があったという。
 こういうことは決して世に稀(まれ)でない。ちょっと会っては虫も殺さぬような柔和な、ほとんど女のごとき人でも、だんだん交際(つきあ)ってみるにしたがい、なかなか硬骨(こうこつ)で、一たび言い出すと決してあとへ退(ひ)かぬ人もあるし、また外部から見るといかにも凛々(りり)しく、衣(ころも)は骭(かん)に至り袖腕(そでわん)に至り、鬼とも組打ちしそうな風采(ふうさい)をなしていても、内心柔和な女のような人を往々見受ける。
 外貌(がいぼう)と内実との相反することは稀(まれ)でない。この柔と剛とは善い意味にも悪い意味にも解される。いま述べた女のごとくというのも、また同じく善悪両様に解される。女々(めめ)しいとか、意気地(いくじ)なしにも解(と)れるが、僕のここに用いた女らしいというは善意に解(と)いたので、温和(おんわ)柔順(じゅうじゅん)の意味である。

怖ろしがらせるのが偉いか

 日本従来の教訓によれば、他人に怖(おそ)ろしく思わせるのを偉いとする風(ふう)があった。威風(いふう)あたりを払うというを豪傑(ごうけつ)の理想とし、人の近づき得ざるところを偉いと做(な)したから、偉がるものは、なるべく人を近づけぬ工夫をなし、あるいは傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にして人を馬鹿にして独りで偉がった。世人もまたかかる人物を褒(ほ)める傾向があったゆえ、もし肩でも怒(いか)らして往来を濶歩(かっぽ)するか、あるいは人の気にさわることでも大声にしゃべり、相手の人が、病犬が吠(ほ)えるかと疑い避(さ)ければ、これは怖(こわ)くて近づかぬのだと解してますますこれを行う。
 文化の進むにつれて近頃はだんだんこの豪傑気取り連(れん)が減って来たようであり、また今後もますます減るであろう。ことに洋服でも着るようになれば、減らざるを得ない。はなはだつまらぬことながら、洋服では衣(ころも)は骭(かん)に至り袖腕(そでわん)に至る筆法は行われない。シャツを着たり、靴を穿(は)いたりすると、行儀も改っておとなしくなる。しかし洋服を脱(ぬ)いで日本の浴衣(ゆかた)にでも換えると、従来の筆法が最もあざやかに現れて来る。汽車や電車に乗ると、胸毛(むなげ)を曝(さ)らし太股(ふともも)を現すをもって英雄の肌を現すものと心得て、かえってそれを得意とするものがある。

曲解されたる教訓

 なおこれと関連して世に誤解された教訓は、「巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すくない)かな仁(じん)」ということである。言語を鄭重(ていちょう)にしたり温和にすれば、すぐに巧言(こうげん)と解し、威儀をもって語れば令色(れいしょく)と曲解し、すぐに鮮(すくない)かな仁(じん)と結論をくだす。この苛酷(かこく)なる判決を避(さ)けるために、言(げん)を巧(たくみ)にし色(いろ)を令(よ)くせんとする者も、つとめて荒(あら)あらしくする風(ふう)がある。心の内と外の風采(ふうさい)と一致せぬことは、西洋よりも日本において最も烈(はげ)しい。
 僕は今このことについて善悪を議論せんとするものでない。事実がかくあると単純に剛柔(ごうじゅう)の区別につき一言したいのである。往事の書生が、なるべく外貌(がいぼう)を粗暴にし、衣はなるべく短くし、髪(かみ)はなるべく梳(くしけず)らず、足はなるべく足袋(たび)を穿(は)かなかったような、粗暴の風采(ふうさい)はなさぬ人が多かろう。ゆえに外貌のことにつきここにかれこれいう必要はなかろうと思う。僕がここに剛柔を説くにも、外貌に現れた剛柔と説かんとしない。ことに実業に従事する者のうちにも、
「商人(あきんど)の、道に賢き笑い様(よう)」
 商業のごとく客を相手にする職業にある人は損得の関係上からも外貌をなるたけ柔和にし、もって人を惹(ひ)きつけるにつとめるから、なおさら外貌のことを述ぶる必要はあるまいと思う。これらの点に関してはむしろ学生に述ぶべきことゆえ、今はここにこれを見合わす。

剛柔(ごうじゅう)、分を守りて人格が円満

 さて心の剛柔(ごうじゅう)とは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。剛が過ぎれば剛情となり、頑固(がんこ)となり、意気地(いきじ)となる。柔に過ぐれば木偶(でく)となり、薄志(はくし)弱行となる。極端に失すればいずれも悪(あ)しくなるが、度(ど)に過ぎぬ以上は、すべからく剛毅(ごうき)でなければならぬ。
 自分の所信を貫徹するためには、一たび固(かた)めた決心を抂(ま)げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を借(か)さずに猛進するくらいの強いところが必要である。さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。剛柔が能(よ)くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。

心の持方は剛柔いずれとすべきか

 僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。その言に曰(いわ)く、
「あの男(おとこ)はまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて不可(いか)ぬ。あれにいっそう骨(ほね)っぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに」と。
 この知人は耶蘇(やそ)教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。一部あたれるというは、この知人は言葉遣(づか)いと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。氏(し)がかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ硬骨漢(こうこつかん)であったが、ひとたび信者となってからは手を覆(くつがえ)したごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。
 かつこの問題は一歩を進めると、彼のいう骨(ほね)っぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、延(ひ)いては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれを措(お)き、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきことと思(おも)う。

身を処するには剛柔がおのおの必要

 先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にも亀(かめ)もあれば海月(くらげ)もあり、植物にも栗(くり)もあれば苺(いちご)もあるがごとくである。すでに先天的に出来ているものを、強(し)いて俺(おれ)はこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、天賦(てんぷ)の性質を矯(た)め、束縛(そくばく)することはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して遂行(すいこう)することも出来ぬ。これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。
 人間の体躯(たいく)も骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば脂肪(しぼう)もある、腹や股(もも)が柔であるから、人体は柔であるといえぬ。爪(つめ)や歯牙(しが)があるから剛だともいわれぬ。ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。

やわらかく握るところに人生の真味あり

 たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡船(わたしぶね)のごときものである。人とともにこの世(よ)を渡るには、おだやかに意気地(いきじ)ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。僕のしばしば引用する『菜根譚(さいこんたん)』には、
「径路(けいろ)窄(せま)きところは、一歩を留めて、人に行かしめ、滋味(じみ)濃(こまや)かなるものは、三分を減じて人に譲(ゆず)りて嗜(たしな)ましむ、これは是(こ)れ、世を渉(わた)る一の極安楽法(ごくあんらくほう)なり」と。
 また、
「世に処するには一歩を譲(ゆず)るを高しとなす、歩(ほ)を退(しりぞ)くるは即ち歩を進むるの張本(ちょうほん)」
 といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰(く)り返(かえ)してあるが、実にその通り。自分の権利を最大限度に要求することははなはだ卑劣に陥(おちい)る所以(ゆえん)と思う。不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。沙翁(さおう)の言にも、
「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」
 と、昔時(せきじ)の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。やわらかく握るほうがかえって多く握れる。これはむろん攫(つか)む工合いにもよりけりであるが、ここに述べたのは粟(あわ)とか米とかの例に用いたものである。鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世(よ)における幸福なるものは粟(あわ)、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に攫(つか)み得るものではあるまいか。権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味(みょうみ)とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度でなるべく人に譲るをもって人生の真味を味わい得るものと思う。
 前にいった宗教家なる知人が、おとなし過ぎて惜しいと批評を受けたのも、もっともなことである。基督(キリスト)教のごとく、柔和(にゅうわ)を旨(むね)とする宗教にては、はでなことがはなはだ少ない、喧嘩(けんか)も少なければ、議論も少ない。ドラマチックのことがはなはだ稀(まれ)なるゆえ、世の見物人より喝采(かっさい)を受けることなくして世を過ごすが、しかしなお華麗に世を渡るよりはこの方がかえって人生の真味を味わわれると思う。

柔和(にゅうわ)の心は相手の柔和の心を抽(ひ)き出す

 かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなれば諺(ことわざ)にも、「世(よ)は情(なさ)け」という通り、人情が敦厚(とんこう)なれば、――もっと砕(くだ)いていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は美(うる)わしきもの、生ける甲斐(かい)あるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔和(にゅうわ)におだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心も触(さわ)りようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、
「ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし」
 と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに此奴(こやつ)がという気が起こりやすい。世を渡るには、
「御免(ごめん)なさい御免(ごめん)なさい」
 と遠慮がちなることは、必ずしも卑怯(ひきょう)とはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を被(かぶ)るとか、猫なで声で人を瞞着(まんちゃく)するとか、西洋でいう羊(ひつじ)の毛を被(かぶ)る狼(おおかみ)のごとく、偽善の最も甚(はなは)だしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善と誣(し)うるならば、それと同じく剛毅(ごうき)もまた偽善に供することが出来る。決して偽(にせ)ものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なれば偽(にせ)が出来るはずはない。善ければ善いほど種々の偽(にせ)も出来る。猫被(ねこかぶ)りが多いというは、取も直さず柔和は何人(なんぴと)でも重んずる証拠である。

柔和(にゅうわ)なる者はこの世を嗣(つ)ぐ

「憎(にく)まれ子(こ)世にはびこる」という俗諺(ぞくげん)があるが、これは原因と結果とを顛倒(てんとう)したことである。世にはびこるものは憎まれる、はびこらずに謙遜(けんそん)に柔順なるこそ真に世に処する妙法である。かつこれが持久の基(もとい)と思う。聖書に、
「柔和なる者はこの世を嗣(つ)ぐべし」
 とある。この世を承(う)けて引き継ぐ者は柔和なる者なりとは、柔順なる人は永久にこの世の継続者である。
 換言すれば柔順は永久の徳なり、剛(こわ)いもの、力をもって世を圧倒するものは、たとえ一時の効はあるとも、永久には継続せぬ。獣(けもの)を見ても分かる、虎(とら)、獅子(しし)、熊(くま)などのごとき猛獣は年々その数が減じつつある。もし統計を取ることが出来れば、彼らの減少率のはなはだ迅速(じんそく)なることを示すであろう。こんにちの状態にて進行すれば、数年ならずしてこれらの猛獣はこの世に跡を絶つであろうと、動物学者はかえって心配し、彼らの保存法を講じている。
 しかるにこれらの猛獣より見れば、卑屈(ひくつ)らしく女々しく思わるる牛馬羊のごときはかえって年々増殖する。すなわち柔和なる動物がこの世を継いで、烈しい猛獣は年々歳々にその跡を絶ちつつある。人間においてもまたそうと思う。野蛮時代には武(ぶ)ばる一方で、永久に続くことは出来ぬ。喧嘩(けんか)して世を渡るものは喧嘩両成敗(せいばい)で共倒れして後がつづかぬ。
武士(ものゝふ)のけんくゎに後家(ごけ)が二人(ふたり)出来(でき)
 相互に殺し合うゆえに永続せぬのである。猛烈をもって勇気なりと思う時代はまだまだ野蛮時代たるを免(まぬか)れぬ。武骨で強そうなるをもって武士道の教訓のごとく思うははなはだ幼稚なる武士道である。理想に富める武士はものの哀れを知り、仁の徳に長(た)け、温和に柔順なものである。
 かつて英国のある子供が、その父に gentlemanly とはなんの意味かと問(と)うたとき、父は通例の書籍に書いてある文句の切り方は違(ちが)う、ふつにはジェントルマンとリーとに切る、と思うであろうが、これは文法上正しいだけで、その内容はジェントルで切り、マンリーを加え、柔和で男らしいという意味であると答えたという。

世の中には譲って差支(さしつか)えないことが多い

 柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志に脆(もろ)く服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。柔和は意志の弱き謂(いい)でない。もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。僕の考えでは世には抂(ま)げてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。
 意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる厄介者(やっかいもの)である。たとえば衣(ころも)を着るにも、縞柄(しまがら)から縫(ぬ)い方から着(き)ようにいたるまで一々明白(はっきり)した意思を表示し、かつこれを貫(つらぬ)かんとすれば、たいていの仕立屋(したてや)または細君(さいくん)は必ず手に余すであろう。三度食う飯(めし)さえも強(こわ)い柔かいがある。この浮世を渡るに飯(めし)の炊(た)きようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。
 僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。物を食うにも鮭(さけ)でも鰌(どじょう)でもよい、沢庵(たくあん)でも菜葉(なっぱ)でもよく、また味噌汁(みそしる)の実にしても芋(いも)でも大根でもよい。ただ特別なる場合、たとえば来客(らいきゃく)とか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂行(すいこう)するも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓着(とんじゃく)しなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと無頓着(むとんじゃく)というは語弊(ごへい)もあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが数多(あまた)ある。ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という所以(ゆえん)である。

譲られぬところはあくまで固守せよ

 譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も抂(ま)げられぬこともある。しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決して抂(ま)ぐべきことでないと思う。僕はどこまでも抂(ま)げよとはいわぬ。出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けば飽(あ)くまでもこれを固守すべきである。
 とかく人は表面に現れたことのみで測(はか)るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝(みぞ)の中に叩(たた)き込まれんとする。溝の縁(ふち)までは譲ろう。しかし溝(みぞ)に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免(ごめん)を蒙(こうむ)って、あべこべに溝(みぞ)に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強(つよ)みが発揮される。

こういう強みを処世上に持ちたい

 これは婦人などによく見ることである。柔和にして他のいうことを聴(き)き容(い)れ、いくら無理をいうてもハイハイと忍ぶ。どこまでもそれに付け込んで彼女の名誉や生命にまで関渉(かんしょう)せんとするときには、どっこい、それは不可(いかん)と毅然としてこれを斥(しりぞ)ける。
 むかし袈裟(けさ)が遠藤盛遠(もりとお)に挑(いど)まれたときには、無理を忍んでハイハイと返事し、もって母の危急を防いだが、いよいよ最後の守らねばならぬ点にいたっては、身を殺してまでも毅然として自己を操持(そうじ)した。この点にいたると婦人は侮(あなど)るべからざる強いところがある。日ごろは一つの柔(やさ)しき飾りに過ぎぬ「簪(かんざし)も逆手(さかて)に持(も)てば恐ろしい」。こういう強味は世に処する上において、どうしてももたなくてはならぬ。
 僕は種々なる人のなすところを見るに、とかく表面には剛毅を装うているものが、何か事に当たると、たちまち脆(もろ)く倒れる、松の木が風に折れると同じである。これに反し風のまにまに動く柳(やなぎ)は動きながらも本性(ほんしょう)を失わず、かつ折れることなくして、その一生を完(まっと)うする。
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同病相憐むに出でたる余の気弱(きよわ)

 前章に僕は外柔内剛(がいじゅうないごう)につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭(つく)さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫(くふう)はあるまいかと尋(たず)ねられることがしばしばある。
 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯(た)めたいと思っているくらいなれば、世人(せじん)に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相憐(あいあわれ)むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来(ねんらい)少しく工夫を凝(こ)らしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正(きょうせい)せんと努(つと)めるものがあるかと思って、新たに工夫を運(めぐ)らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提(ひっさ)げたのである。

盲者蛇を怖(おそ)れぬ豪胆(ごうたん)

 僕の友人に僕と同じように気の弱い、いわば臆病(おくびょう)の人がある。子供のときに、その親が当時有名なりし某(ぼう)将軍につれて行き、
「どうかこの子の胆力を練らせていただきたい。今のように気が弱くては、その将来が案ぜられます」
 といったとき、将軍より、
「いや臆病(おくびょう)なるはさほど心配が要(い)らぬ。怜悧(れいり)なる証拠である」
 といわれ、当人はかえって得意になり帰ったことがある。臆病者は怜悧(れいり)なのか、怜悧(れいり)なものが臆病なのか、いずれが原因で、いずれが結果であるにしても、ともかくこの二者の間には何らかの関係があるように思われる。といって僕もあながち自分が臆病なるゆえ怜悧なりという考えはないが、世にいわゆる盲者蛇で、周囲のことも、前後のことも、いっさい分からぬものはその行動がちょっと豪胆らしく見える。しかしこれは豪胆にあらずして前後左右が見えぬのである。危険あるを知って豪胆に振舞うのでなく、危険あるを知らぬゆえに豪胆(ごうたん)らしく振舞うのである。
 そもそも人生には明らかに顕(あらわ)るる危険もあれば、両側あるいは地下に潜伏(せんぷく)せる危険もまた多い。この危険を幾分なりとも見得るものは、怖(おそ)れざらんとしても怖れざるを得ない。すなわちある意味において臆病にならざるを得(え)ないゆえに想像力の強きものはいよいよ臆(おく)する。したがって臆病すなわち気の弱きを矯正(きょうせい)するには、盲者になったら、あるいはその目的を達するかも知れぬが、むろん我々が気弱(きよわ)を矯正せんとするのは、各自の本体を捨て消極的に改めんとするのでない、見えることならますます能(よ)く見、その危険をも見透してなお臆(おく)しないところにまで到達するが主意である。盲者になって豪胆らしく振舞うはもとよりその主意に反する。

身体より来る気弱(きよわ)の原因

 気の弱いことを矯(た)むるには、その弱い理由を考え、その理由からこれに処する方法を案出せねばならぬ。しかしてその第一の理由は身体にありと思う。しかし身体が大きく強健であるとも、必ずしもその人が強いとは限らぬ。大男にしてすこぶる健全なもので、人の前に出ると、声が顫(ふる)え、碌々(ろくろく)物を言えぬものもある。吹けば飛ぶような華奢(きゃしゃ)な姿したものでも、さらに物に動ぜぬものもある。ゆえにひろく身体といわないで、狭く神経質の人はとかく気弱(きよわ)勝ちであるといわれると思(おも)う。これが前にもいった怜悧(れいり)なことと気弱なこととが結(むす)びつく理由であろう。
 神経過敏にして周囲の事物に感じやすい人は、人の顔色など最も早く見分け、人のいうことの表裏をも察知する。かく神経作用の鋭いものは、すなわち怜悧(れいり)なるものは、目先きがよく利くため、とかく人負(ひとま)けするように思われる。この事も一見矛盾(むじゅん)の感なきにしもあらぬ。すなわちそれほど物の分かるものなれば、何物も怖るるに足らぬではないかというものもあろう。しかし、ここがすなわち智能ばかりでは事足らぬ証拠である。いわゆる鋭敏(えいびん)にして頭脳の明晰(めいせき)なるものは、この事はこうなっているから、こんどはこういうことになろう、さてそうなれば俺(おれ)はここに処するにいかにせばよきかと案じ出す。
 この解決が出来れば物が分かるだけ、それだけ多く臆病気(おくびょうけ)がつく、この解決が出来なければ出来ぬで、またそれだけ多く心配の種子(たね)がふえるわけである。しかるにいかに怜悧(れいり)に物ごとに解決を下しても、未来に属することは、自分の見込み通りに行かぬゆえ、必ず危険の分子が潜(ひそ)んである。すなわち心配の種子(たね)が存在する。かくいえば怜悧(れいり)なるものは必ず気弱でなければならぬという結論に達するらしく思(おも)われるが、決してそう一定せるものとは思われない。意志さえ堅固(けんご)なれば、賢愚(けんぐ)を問わず、百難前に迫(せま)っても、これを冒(おか)して断行する。
かくすればかくなるものと知りながら止(や)むに止まれぬ大和魂(やまとたましひ)
 己(おの)れの行為の結果が容易ならぬものとは知りながら、なお、「やっつけろ」という強いところが欲しい。この強いところがあれば、いかに怜悧(れいり)なるものでも、決して臆病とならぬ。ところが一方の意志が薄弱なるときは、頭脳が明晰(めいせき)なれば、先の先までも見えて心配の苦を増し、はなはだしく人を臆病ならしめる。しかるに人はその身体、ことに神経の構造により、一方の智力がことさらに発達し、その他の力たとえば意志がこの智力と権衡(けんこう)がとれぬときは気弱(きよわ)になる。なお身体の発育上、何歳より何歳ごろまでが智力のことさら伸張する時代であろう。そのころは臆病風(おくびょうかぜ)の最も強く吹く期節(きせつ)となろう。

身体局部の故障より来る気弱

 気弱(きよわ)は生理的原因に由来することがあるゆえ、これを矯正(きょうせい)するには、生理的方法によらねばならぬ。すなわち冷水浴を実行するとか、睡眠(すいみん)が不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するの虞(おそれ)があれば、食物(しょくもつ)を改良するとかせねばならぬ。一般の健康状態はさて措(お)き、ある局部が不良なるために卑屈(ひくつ)となり引込(ひっこみ)勝ちとなり、憂欝(ゆううつ)にに沈む傾向がありはせぬか。これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく帰納(きのう)したく思う。
 たとえば目の不良なる人はつねに欝陶(うっとう)しく感じ、したがってますます不愉快(ふゆかい)を覚え、人の前に出るのを厭(いと)うにいたる。それが一歩を進めると、衆人(しゅうじん)の前に出るのを恐れるようになり、いわゆる気弱(きよわ)となる。また胃弱者(いじゃくしゃ)のごときもまた同じく、気が始終苛々(いらいら)し、つねに人と交際するのを煩(わずら)わしく思う。煩(わずら)わしいのが進むと、怖(おそ)れを生じて気弱となる。要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽を感(かん)じ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか怖気(おじけ)とかが取去られてしまう。
 例により僕は自分の恥曝(はじさら)しの経験を述べて参考に供したい。僕は少年のころ、物に怖気(おじけ)ない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。両親の友人などが来ても、臆面(おくめん)もなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、家(うち)の人々の手にもてあまされた。それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように引込(ひっこみ)勝ちになり、人の前に出るを嫌(きら)い、人に顔見られるのを怖(おそ)れた。いまになってその理由を顧みると、身体の工合(ぐあい)、ことに目に関係したのではないかと思う。かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞き捨(す)つるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か逆戻(ぎゃくもど)りして、怖気(おじけ)がなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の工合(ぐあい)がよくなったためと思う。

弱点の自覚より起こる気弱

 自分の弱点を自覚するために怖気(おじけ)ることがある。これは世間に多く見ることで、笑われはせぬか、憎(にく)まれはせぬか、嘲(あざけ)られはせぬかと、つねに心に憂(うれ)うるゆえに、かかる虞(おそれ)ある場所には成るべく欠席せんとする考えが起こる。そうでなくてさえ、人にはいかなる人にても、秘密はあるものである。もっとも秘密だからといって、決して悪いものとは限らぬ。何(なん)らの秘密なしと称する人こそ怪しむべきである。何人(なんびと)も隠すべきものをもっている。秘密といえば何か悪事するごとく思い疑わんが、決してそうでない。
 処女(しょじょ)の羞(はず)かしがるは何が一番甚(はなは)だしきかというに、自分の体(からだ)にありて、親にも示すべからざるものあるがためである。これは秘密にすべきものではあるが、善悪の標準をもって論ずる限りではない。いな解剖(かいぼう)上よりいえば、婦人が婦人としての身体を有せぬが恥ずべきことである。ゆえに各人が秘密を有すればとて決して怪しむに足らぬ当然なことである。この秘密を発見せられはせぬかという観念が人をして怖気(おじけ)させるのである。
 京都の人(ひと)は、「晴(はれ)がましい」という言葉(ことば)を使う、すなわち東京のいわゆる、「きまりが悪い」の意で、目立つ所に立ち、多数の環視(かんし)のもとに出ることを晴(はれ)がましいといって引込(ひっこ)むが、これは何か秘密とすることを発見されはせぬかというに起こる。しかしてこの秘すべきことに、何らかの弱点があれば、この念がいっそう深くなる。
 前にも僕は子供時代の感情を自白(じはく)して恥を曝(さら)したが、子供のときから顔の醜(みにく)いことをつねに笑われ、顔がお盆(ぼん)のようだとか、鼻が低いとか、色が黒いとか、眼ばかり大きいとか、お出額(でこ)がどうとか何とか、つねに人にいわれたために、人の前に出ても、またなんか言われはせぬかという気になり、怖気(おじけ)たのである。公然開放的の顔のことゆえ何(なん)ぴとも見るのであるが、その見られるのが怖気(おじけ)を促(うなが)す。かく何か弱点があって、自分(じぶん)に控目(ひかえめ)になることの自覚があると怖気(おじけ)る。しかし容貌のごときは腕白小僧(わんぱくこぞう)にはさほどの感じもないから、幼少のころは平気に聞き流して意に介せなかった。しかるにそれが年頃(としごろ)になると、この自覚を感じ、人の前に出ると恥かしくなり、ことに婦人の前に出ると、前に述べたる生理上の関係のみならず、容貌(ようぼう)の醜(しゅう)なるを恥じて気が弱くなる。
 かくのごときは歯牙(しが)にだもかくる値(あたい)のなき、まことに些々(ささ)たることではあるが、世には僕と同じく気の小さなものがあり、あるいは容貌(ようぼう)とかあるいは身体の一部に何かの欠点あることを自覚して、羞(はにか)むものがあるように見受けるから、掲げて参考に供する。

容貌や秘密の暴露は恥とならぬ

 これが矯正(きょうせい)策としては、顔が醜(みにく)いとても美顔(びがん)術をほどこす必要もなかろう。蓼(たで)食(く)う虫もある世の中にはまったく棄(す)てる物はない。いかに顔が醜いとても、またそれ相応の天職もあろう。ことに容貌(ようぼう)は解剖(かいぼう)的のものでなく、心の作用によりては、少なくともその表情を変えることが出来る。そして人の顔色を読むには、骨格(こっかく)肉付きの如何(いかん)よりも、むしろその表情によることが多い。米国の大統領リンカーンは有名な醜男子(しゅうだんし)であった。しかるに親しくこの人に接したものは、彼(か)の青ざめた顔、大きな口、凹(くぼ)んだ眼を忘れてその慈愛に富んだ表情にのみチャームされた。
 顔の改造は出来なくとも、心の改良は出来る。また心を改良すればただちにそれが顔に現るることなくとも、またその見分けのつかぬぐらいの人から親しみを受ける価値もないように思わるるが、何を苦しんでか外部の顔のために進取の気象を奪(うば)われ、いたずらに卑屈(ひくつ)に引込(ひっこみ)勝ちになろう、と思えば心も晴々しくなって来る。
 また外部に現れぬ秘密の事にしても、道徳上恥ずるに足らぬ秘密ならば、すなわち人には明(あか)せられぬが、己(おの)れが心に明(あか)し、あるいは天に明(あか)して恥ずべきことでない秘密ならば、暴露(ばくろ)したところでこれまた一場の笑話となるか、愛嬌談(あいきょうだん)となるにとどまり、これがために心を痛め、胸を苦しめ、人に顔見らるるを怖(おそ)るるにあたらない。
 田舎(いなか)から上京した人は東京風(ふう)を知らぬゆえに、何かにつき無礼を振舞いはせぬかとどきどきする。自分の心に尋(たず)ねて人に無礼を加うる念が毛頭(もうとう)なければ、動作の調(ととの)わぬことなどは、人も宥(ゆる)すであろう、また自分の良心も必ずこれを宥(ゆる)すものである。

自分の心得(こころえ)の最善を尽(つく)せば無作法も宥(ゆる)される

 事の真偽(しんぎ)は知らぬが、明治の初年ごろに西郷(さいごう)はじめ維新の豪傑連(ごうけつれん)がはじめて御陪食(ごばいしょく)を仰付(おおせつ)けられたことがあったという。いずれも田舎侍(いなかざむらい)で、西洋料理などは見たことのない連中のみで、中には作法(さほう)を知らぬゆえ、いかなるご無礼(ぶれい)をせぬとも限らぬと、戦々兢々(せんせんきょうきょう)とし、むしろ御陪食の栄(えい)をご辞退申し上げんとしたものもあった。
 いよいよ当日になり、玉座(ぎょくざ)に近き食卓につくと、ろくろく落着いて手を出すものも、口を開くものもなかった。そこで西郷(さいごう)は起(た)って口を開き厚くご陪食の御礼を申し上げ、かつこれに加えて、
「小臣らはいずれも田舎侍(いなかざむらい)で、九重(ここのえ)の御作法(ごさほう)にははなはだ心得が薄(うす)いもののみでござりまする。ただ一身をもって陛下(へいか)の御(おん)ために捧(ささ)げ奉(たてまつ)ることのみを心得、他には何らの心得なきものであれば、今この席においてもあるいは御作法(ごさほう)に背(そむ)くごときことがあるかも存じませぬ。ただ陛下(へいか)に対(たい)し奉(たてまつ)る至誠に免(めん)じてお許しを願う」
 と挨拶(あいさつ)して席につき、スープを飲むに、両手を皿(さら)にかけて捧(ささ)げグイと飲んだという。
 もしこれが知っておりながら、少しく奇人を衒(てら)い、英雄を真似たとすれば、無礼の誹(そしり)をまぬかれぬが、自分の心得の最善を尽している以上は、行儀作法(ぎょうぎさほう)に多少の欠点ありとするも、人はこれを宥(ゆる)すものである。自分は行儀(ぎょうぎ)を知らず、作法(さほう)が分からぬと、自分の弱点を知ったとても、人の前に出て、決して臆(おく)することはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際する価値(ねうち)なきものと思う。
 後藤(ごとう)男爵が少年のころ、何かの折りに、岩倉公(いわくらこう)の前に召(め)され、菓子を饗(もてな)された。地方からポット出(で)の男は怯(お)めず臆(おく)せず、その席上でムシャムシャと菓子を食った。しかし決して岩倉公に無礼を加(くわ)うる考(かんが)えなく、ただ食(く)えといわれたから食ったまでで、いわば至当のことをなしたに過ぎぬ。しかるに後になって、かかる饗応(きょうおう)の前で妄(みだ)りに食うものでないと言い聞かされ、男(だん)は定(さだ)めし岩倉公の御不興(ごふきょう)を受けたであろうと思いしが、翌日にいたり公(こう)より昨日(さくじつ)来た青年は菓子が嗜(すき)だと見えるというて、かえって一箱の菓子を送られたという。しかし僕は繰り返していう。かくのごときことを聞き、豪傑(ごうけつ)才子(さいし)を気取って、わざと礼儀作法を破るものがあれば、これすなわち自己と他人を欺(あざむ)くものであるが、この欺(あざむ)く心がなければ、たとえ自己の弱点を見られたところで、たいした恥にならぬ。したがって一向怖(おそ)るべきこともない。

「心に忌(いまわ)しい点あるか」と反問せよ

 またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで隠(かく)し得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。「人(ひと)焉(いずくん)ぞ※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)(かく)さんや」で、※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)(かく)さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。また※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)(かく)さんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪先(つまさき)に至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これを※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)(かく)さんとするも、これらの機関はほとんど裏切(うらぎ)りするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると齷齪(あくせく)として、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は暴露(ばくろ)されるものである。
 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、
「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、疣(いぼ)も何も」
 といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために迷惑(めいわく)を受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に戸閉(とじ)まりし、つねに隠(かく)さんとする重荷(おもに)がないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に逢(あ)っても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり怖気(おじけ)が起こったならちょっと退(しりぞ)いて、
「己(おの)れの心に忌(いまわ)しい点があるか」
 と反問するが肝腎(かんじん)である。臆病(おくびょう)なる僕に一大興奮剤となった教訓は沙翁(さおう)の Be just and fear not の一言である。
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始めて試みた英語演説

 怖気(おじけ)は自信力のとぼしい場合に起こることが多い。「自分はとうていこの任(にん)に堪(た)えられぬ」と思えば、手を出すことも怖(こわ)くなる。
 僕がはじめて外国で外国語の演説をしたときは、草稿を携(たずさ)えて行ったが、慣(な)れぬことばで語ることでもあり、かつ聴衆は千有余人もあり、しかも燕尾服(えんびふく)着用で聴講料を払って入場した紳士(しんし)や淑女(しゅくじょ)――一目(もく)しても一片(ぺん)の書生たる僕以上の人と見受けられ、加之(しかのみならず)この時は僕の独り演説であったから、これらの聴衆を見ると、思わず慄然(りつぜん)と震(ふる)えた。
 やがて司会者は起(た)って五、六分間、紹介の辞(ことば)を述べた。この間(かん)は僕にとって、生涯(しょうがい)忘れられぬ苦痛の瞬間(しゅんかん)である。場(じょう)の中央には演壇と椅子(いす)があり、その両側には市の有名なる人々が十人ばかりずつ控(ひか)え、その壮厳なる光景を見ては、なおさら怖気(おじけ)て、手足はブルブルと戦慄(せんりつ)した。幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。とにかくも、戦(おのの)きを抑(おさ)えられぬ。愚かなことをしたものかな、こんな演説を引受けねばよかった、いっそ急病と称して御免(ごめん)を蒙(こうむ)ろうか、何か他の理由をつけて退席せんかと思い煩(わずら)っている時、ふと浮いた考(かんが)えが二つあった。一つは、
「ナニ此奴(こやつ)ら、服装(なり)こそ美(うる)わしけれ、金持ちでこそあれ、高(たか)の知れたもののみである。ことに自分の今演(の)べんとすることは、日本に関することではないか、この点については僕は確かに彼らに優(すぐ)れている。少なくとも日本に関する知識においては、彼らはゼロ同然である、否(い)なゼロよりもかえってマイナスであろう。僕が今述ぶる問題の範囲内においては、彼らは取りも直さずまったく無知同様である。かかる人を相手として演説するに、何の怖(おそ)るることかあらん、この馬鹿者奴(ばかものめ)らがッ」
 としきりに彼らを呑(の)んでかからんとつとめたが、なかなか呑(の)めない。いかに心中では豪傑を衒(てら)わんとするも、真底(しんそこ)よりの豪傑でないから、ますます怖気(おじけ)てガタガタ戦(ふる)える。

演説の顫(ふる)いを止めた経験

 すでにしてまた一つの考えが起こった。
「この席に来た人々は日本に関する知識を求めに来たので、決して雄弁(ゆうべん)や能弁(のうべん)を聴くつもりで来たのでない。日本人が英語を操(あやつ)るのであれば、定(さだ)めしブロークンな英語であろう。演説の良否よりも、内容が半分も解(わか)れば、それで足(た)るくらいに思うであろう。また恐らくは傍聴(ぼうちょう)の半数以上は聴くよりも日本人を見に来たのであろう。僕の演説を充分に解することはその期待せぬところであろう。もし彼らが僕の演説を半(なか)ばなりとも了解し得たならば彼の人は感心によく英語を話したと思ってくれるだろう。発音の訛(なま)りや、文法の誤謬(ごびゅう)などはかえって愛嬌(あいきょう)の種子(たね)になるくらいのものだ。なるほどこの演説は自分にとっては責任が重い。しかし聴衆にして心あらば、任の重きに対して同情してくれるだろう。ゆえに演説中に誤りを笑うものがあるとも、その笑(わら)いは冷笑でない。また出来損(そこ)ねたからとて、あながち国名を汚(けが)すことともなるまい。ブロークンながらも怯(お)めず臆(おく)せず元気よくやるがよい」と。
 かく自分勝手の理屈を考えて、覚悟をしたら、今までの顫(ふる)いがとまった。わずかに五、六分間であったが、その間に頭脳(あたま)の考えは二回変った。しかしていよいよ起(た)った時には平然として何のこともなく、草稿にない戯談(じょうだん)なども臨時に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入(そうにゅう)し、幸いに案外の喝采(かっさい)をうけた。

怖気(おじけ)に処する二種の考え

 その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄(えいゆう)豪傑(ごうけつ)ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)を衒(てら)い、なに彼奴(きゃつ)らがという態度を持(じ)することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚(おろ)かなる方法であると思った。恐らくは他人(ひと)にも、かかる借(か)り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己(おの)れを欺(あざむ)き、人を欺く芸(げい)であるから、なかなか骨が折れよう。
 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優(すぐ)れた力がある。しかし彼らはこの力を濫用(らんよう)せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬(むく)ゆるに相手を軽蔑(けいべつ)しあるいは馬鹿者視(ばかものし)したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気(おじけ)が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。

信じてかかれば怖気(おじけ)ない

 そこで僕が自分の恥を晒(さ)らして物語り、怖気(おじけ)る人の参考に供したき要点は、相手を信(しん)じてかかれということである。渡る世間に鬼(おに)はない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入れば猟夫(りょうふ)もこれを殺さぬ。怖気(おじけ)たり臆病(おくびょう)な人も、他に信じてかかれば怖(おそ)るることがなくなる。僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革を経(へ)たように思う。あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。
 学術上のことはさて措(お)き、日ごろ思っている考え、日ごろ懐(いだ)ける感情を述ぶるに、何の怖(おそ)れることもない。ありのままに口を開け、「腸(はらわた)見せる柘榴(ざくろ)」同然にやる。隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。隠さんとしても隠しきれぬ。急に君子顔を装ったとて、また言葉だけに珠(たま)をつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の嘲弄(ちょうろう)を招くばかりである。またその場に急に英雄豪傑を真似(まね)たとて、その腹の底に胆力(たんりょく)がなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。聴衆は自分よりも具眼(ぐがん)の士であると、彼(かれ)らを信じてかかれば、かえって怖(おそろ)しくなくなる。同じ獅子(しし)の穴(あな)に入るにしても、相手が己(おの)れを食らうなど思えばおそろしくなるが、この獅子(しし)は妄(みだ)りに人を食(く)わぬことが分かれば、恐怖の念が去る。ゆえに僕は怖気(おじけ)る人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、彼(かれ)らもまた君に対し好意を懐くものであると。

怖気(おじけ)の根本的矯正(きょうせい)は自信自重にあり

 右に述べたのは相手を信用してかかれという意味であるが、これに相伴って必要な一つの覚悟があると思う。それは他人のことに関せぬ自分自身の態度である。いかに他人が自分に対して好意があるだろうと信ぜんとしても、自分の心に暗いところがあれば、みずから信ずる念が乏(とぼ)しくなり、したがってまたみずから重んずる念が欠ける。しかしてみずから重んぜざる人がいかにして他人より重んぜられようか。人爵的(じんしゃくてき)の軽重(けいちょう)ならばいざ知らず、心より発する尊敬などは自ら重んぜざる人に払うものはあるまい。
 ゆえに人を信ずるに先だち、自ら信ずる念がなければならぬ。みずから信ずるというは自分に暗いところがない、よし他人が自分を信ぜなくとも、自分は独立しても世を渡る、またいかに他人が自分を疎(うと)んじても、我はあくまでも自ら重(おも)んじて、所信を貫(つらぬ)くという、みずから潔(いさぎよ)しとするところがなければならぬ。僕がしばしば引用する Be just and fear not(正(せい)を守りて怖(おそ)るることなかれ)というはすなわちここをいったのである。
 自分が正しいと信ずるものは、いかなる事があっても怖(おそ)れない。したがって人の前に立っても怖気(おじけ)ることがない。かの宗教改革を唱(とな)えたルターが始めてその新説を発表し旧教家の反対を受けたときは、その生命(いのち)の安全さえもはなはだ覚束(おぼつか)なかった。そのころルターの友人は彼(かれ)のある会合に出席せんとしたのを止め、
「今日は家にあれ、一歩戸外に出れば生命は危険である」
 と警(いまし)めたが、ルターは昂然(こうぜん)として、
「この町の家屋(かおく)の瓦(かわら)ほどに敵が多くとも、心に疚(やま)しきことなき以上は、何の怖(おそ)るることかあらん」
 と言い出席したという。おそらくは怖気(おじけ)の根本的矯正(きょうせい)法は自身の正しきを自覚するにありと思う。

暗いところがあると怖気(おじけ)出す

 これに反(はん)し自分に最善(ベスト)を尽しておらぬものは、何かの時に退(ひ)けを取りやすい。恥ずかしいが、僕もしばしば自分でこれを経験したことがある。かようなことは相手も知っておるまいと、思って大きな顔している間に、はしなくも話頭(はなし)がみずから犯した罪に、すこしでも触れると、すぐにビクつき、あるいは顔色(かおいろ)が変わり、あるいは声が顫(ふる)え、あるいはその言うことに辻褄(つじつま)が合わなくなり、あるいは極(ごく)上等に出来たとしても、話頭(はなし)を漸々(ぜんぜん)に曲(ま)げて自分の痛いところより遠く離さんとし、然らざれば正反対に自分の弱点を弁護するごとき議論や物語をしたりする。
 これは僕自身にそういう経験があるのみならず、また他人に逢っても、自分みたいなことをやっているわいと感じたことが間々(まま)あった。たとえば前年僕を訪ねて、なかなか元気よく議論したある青年があった。その挙動を見るとすこぶる傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で、室(へや)に入るや否(いな)やいきなり趺座(あぐら)をかき、口角に泡(あわ)を飛ばして盛んに議論する。僕はこれを見てなるほど彼は勇気精力に富むと感心した。彼が独りで暫時(ざんじ)議論したのち、僕にむかい、
「今日(こんにち)の日本の青年に対し最も注意すべきものは何か」
 と質問を発した。僕はあながち彼に対してあてつけ、皮肉をいうつもりはなかったが、あたかもそのころある地方の中学を巡廻し、生徒の不行儀(ふぎょうぎ)なることを、ことに痛切に感じていたから、僕は、
「行儀を正すことが目下の一大急務なり」
 というや、今までの豪傑は急に狼狽(ろうばい)しはじめた。露出した膝頭(ひざがしら)を気にして、衣服(きもの)で掩(おお)わんとしたり、あるいは趺座(あぐら)をかいた足を幾分かむすび直し、正座の姿に移らんとした。僕はこれを見て、ハハア、この人が今までの大言壮語(たいげんそうご)も、その磊落(らいらく)の行儀も、思いつかずになした業(わざ)でなく、一時(じ)の拵(こしら)え気焔(きえん)で人を脅(おど)かすつもりか、あるいは豪傑を衒(てら)っての業(わざ)であったのだな。彼の英邁(えいまい)奇行は道具立ての小細工(こざいく)たるを見て可笑(おか)しくなった。彼はその知れる限りの最美を尽しておらぬ。むしろ彼の最悪の行儀をなしていたのである。自分が為すべからざることと知れることを、ことさらに為していたのである。
 ゆえに一言でも話頭(はなし)が彼の弱点に渉(わた)ると、胸中幾分か狼狽(ろうばい)するの風情(ふぜい)が現れ、今まで頼(たの)もしい剛胆(ごうたん)なる青年と思われたものが、見すぼらしい凡人に立ち返り、勇将が一時に敗兵となった観を呈した。

『失楽園』に現れた悪魔の姿勢

 英文学に異彩を放(はな)つと称せらるるかの有名なるミルトンの『失楽園(パラダイスロスト)』の主人公は、神を相手に謀叛(むほん)の旗(はた)を翻(ひるがえ)した悪魔の雄将サタンである。彼が戦いに敗れ地獄に堕(お)ち、しばらく夢中に卒倒してあった後、たちまち息(いき)ふき返して、わが身辺を見廻わすと、彼の同僚および彼の率(ひき)いたる軍勢は、何万となくいずれもあるいは疲(つか)れあるいは負傷して消ゆることなき地獄の青い火の中に、燃えもせず焼けもせず、苦しみながら横たわれるさまを見て、サタンは再び士気を鼓舞(こぶ)して、天に逆らい再挙を計ることを、詩仙ミルトンが椽大(てんだい)の筆を揮(ふる)って描(えが)いている。
 しかして書中に現れた悪魔の態度の実に凛々(りり)しく、彼の野心の実に偉大なる、彼の度量の広闊(こうかつ)なる、読む者をして知らず知らず神よりも悪魔を尊敬する念を起こさしむる。ゆえに英文学を論ずるものは、『失楽園』を批評するにあたり、ミルトンの神をけなし、ミルトンの悪魔を崇(あが)めぬものはない。またこの悪魔の姿は実に堂々たる風采(ふうさい)で、吾人(ごじん)の崇拝に値(あたい)するように写してある。ことに彼が天帝に反(そむ)かんとする豪胆のこと、また大敗を受けても再び事を挙げんとする勇気のごときは、読者をしていよいよ彼(かれ)に尊敬を払わしめる。
 しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる身躯(からだ)があるいは蛙(かえる)となり、あるいは鳥となり、あるいは蛇(へび)となり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕落(だらく)する順序が現れている。
 僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の堕落(だらく)の階段が秩序的に現れているがごとく感(かん)ずる。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。
 しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと含蓄(がんちく)されているものが、漸々(ぜんぜん)に働くことを称すると同(おな)じく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種子(たね)が含まれているある一種の病原が存し、この種子(たね)が年とともに蔓延(まんえん)するものである。ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの黴菌(ばいきん)が胸中に萠(きざ)したのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに卑劣(ひれつ)な手段も辞せず、だんだんに堕落(だらく)し、ついに虫類(むしけら)同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。

顧みて疚(やま)しからずば怖気(おじけ)は起こらぬ

 話頭(はなし)は岐路(わきみち)に入ったようであるが、自分の胸中に正しからざる種子(たね)が潜伏(せんぷく)する以上は、いかに最初は勇敢なるも、いかに初対面のときに豪傑風を装うとも、いかに人に接して偉大なる感を与うることあるも、年を経(ふ)るにしたがい、その金箔(きんぱく)がだんだんに剥(は)げると同時に、その人はますます小さく、臆病にかつ卑怯(ひきょう)になる。ゆえに僕は何か人に逢ったり、多数の前に立つ時、怖気(おじけ)を覚ゆればすぐに自分を呼び出し、
「これ稲造(いなぞう)、汝(きさま)は近ごろ、何かバクテリアに罹(かか)りはせぬか、どこかで病いの種子(たね)を宿しはせぬか」
 と自問を発し、あるいは、
「汝(なんじ)は人の前に立ち、少しでもよく自分を思われたいと、自分の真価以上に看板(かんばん)をかけたい了簡(りょうけん)なるか、相手の人に褒(ほ)められたいと思っておりはせぬか、あるいは何か求むる所があって、相手の人にお世辞(せじ)を述べるか、あるいは妄(みだ)りに自分を卑下(ひげ)して、なさずともよいお辞儀(じぎ)をなし、みずから五尺(しゃく)四寸(すん)の体躯(からだ)を四尺三尺に縮(ちぢ)め、それでも不足すれば、ミルトンの悪魔同然に鳥なり蛇(へび)なり蛙(かえる)なりの程度まで一身を引下げておりはせぬか」。
 かく発問すると、なるほどもっともだ、自分は予(かね)ての心がけよりも、この点において大いに堕落(だらく)したと思いあたり、心を取(と)り直し、己(おの)れに帰る心地(ここち)する。して己れの心をそのまま存する者は怖(こわ)がりもせぬ。怖気(おじけ)は自己の心を離るるより起こる。漢字で立心扁(りっしんべん)に去る(怯(きょう))布く(怖(ふ))芒ふ(※(ぼう)[#「りっしんべん+くさかんむり/氓のへん」、U+607E、99-7])をつけてこわがるの意を現すも故(ゆえ)ありというべし。
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人に最大不快を与うるは何か

 人間社会で不愉快なる感を与うるものは数多(あまた)あるが、これを一々区別して、何が最も有力なるかを尋(たず)ぬるに、貧困よりも疾病(しっぺい)よりも、失望よりも何よりも、他人から悪く批評されることが最も有力なものであろう。
 ある人が人間の行為として最下等なる職業を営(いとな)む数多(あまた)の醜業婦について、
「お前たちはこの商売していて一番イヤなことは何か」
と訊(ただ)したら、お茶をひいて仲間(なかま)に笑われることだと答えたそうであるが、彼らは日々の飯さえ遠慮して食い、終夜一睡(すい)もせぬことしばしばなるに、身体(からだ)の苦しきよりは、やはり四囲(い)の批評のほうがつらきものと見ゆる。
 こういうと、あるいはそんな些細(ささい)なことがと、言い流す人もあろうが、実際においては自分の悪口を言われても、これを心にかけず平然たるくらいまで進んだ人ははなはだ少ない。中にはそんなことは構(かま)わぬと称する人(ひと)も数多(あまた)あるが、なにかかにか言われると、まったく無頓着(むとんじゃく)に聞き流す人はほとんどない。誰しも必ず心に不愉快を感ずる。ことに少しく神経過敏(かびん)なものになると、なおさら不愉快を深く感ずる。無頓着(むとんじゃく)と称される豪傑肌(ごうけつはだ)の者でさえも、その実(じつ)なかなか心を悩まし、自分に対する悪口に無頓着なることは出来ぬ。またズッと高く進んだ聖人さえも、全然これを無視するを得難いもののように思われる。

英雄も聖人も悪口を気にかける

 かつて故児玉(こだま)大将が生存中、僕は一夕(せき)大将をその邸(やしき)に訪ねたことがある。折から外出より帰った大将は、
「大層(たいそう)お待たせした」
 と挨拶(あいさつ)し、
「イヤハヤ、どうも元老の爺連(じじいれん)がお互いに悪口言い合うを調和するは、一方(ひとかた)ならぬ骨折りだ。今日も一日かかって、そんな骨折りをやって来た」
 と歎ぜられた。僕は、
「悪口って、どんなことを言われるのです」
「どんなことって、まるで裏長屋の婆(ばばあ)が井戸端(ばた)でグズるのと異(こと)なったことはないさ」
「しかし天下を預かる英雄にはそんなこともありますまい」
「英雄は英雄でも、豪傑は豪傑でも、俺(おれ)のことをこんなこと言った、怪(け)しからぬ奴(やつ)だ、あんなことをいったが不都合だと互いに陰口(かげぐち)きいたのを、怨(うら)むようにこそこそと他人の悪口をいうさまは、毫(ごう)も裏長屋の婆(ばばあ)と異(ちが)うことはない」
 と言われたが、磊落(らいらく)にして世評などに無頓着を衒(てら)う豪傑にしても、なおかつかかる人が多い。いわんや普通の凡人においてはなおさらである。
 また僕はかつて次のごときことを読んだことである。ソクラテスは容貌の醜(みにく)い人で、世人(せじん)が彼を誹謗(ひぼう)するときは、必ずこの点を指摘した。しかし彼自身も容貌などは、どうでもよいと思うため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分もその仲間に加わり、一緒に笑い、己(おの)れの眼の飛び出しているは、四方八方をよく見るためであり、鼻の天井を向いているは、他人の嗅(か)げないものを嗅ぐためであると磊落(らいらく)に笑い流していたが、その死せんとするにあたり、ヘムロックの杯(はい)を取りながら、
「いよいよ俺(おれ)が死んだなら、もはや俺の容貌の醜きを笑う人もあるまい」
 と一言(ごん)した。してみると、他人が彼の醜きを譏(そし)るのを気にしていたと思われると説(と)いた人の論を聞いた。この論がはたして当を得たるや否(いな)やは別とし、いわゆる聖人なるものも他人より悪口さるれば、少なくとも不愉快の感を起こすものと思われる。まして凡人においてをや。

世評は修養の補助

 かれこれ相互の批評は人生の大部分を成しているかと思われる。むろんこれが刺激となって人生は進歩するものである。いかなる人でも、その備うる短所を批評せねばいい気になりますます得意となる。いかなる怪(け)しからぬ行為あるものも、これを発(あば)いて反省を促(うなが)さねば、ますますその暴行を逞(たくま)しゅうしやすくなる。
 世間の批評が我々の行為を抑制することは、あたかも羊(ひつじ)の群れを監督するために羊犬(シェファードドッグ)を付けるがごとくである。おろかなる羊(ひつじ)は草を食いながら、少しでも柔軟に、少しでも緑の草があるほうに進み、だいたいの方向も忘れて進み路を迷いやすい。このとき羊犬が迷った羊に吠(ほ)えつき、各個の羊をその群れより離散せぬようにまとめると同じく、世評なるものは、我々が得意になり、あるいは岐路(きろ)に迷わんとするとき、これを抑(おさ)えて軌道(きどう)に惹(ひ)き着ける役目をするものと思えば、修養の一大補助ともみなされる。すなわち毀謗(きぼう)は社会の要求の声ともいうべきものならん。
 それについてはこれを濫用(らんよう)せぬよう心がけることが最も必要である。してその濫用とは、
一にはその悪口をいった人を怨(うら)むこと、
二には自分の悪口されたのを聞き怒(いか)ること、
三は悪口を耳にしてヤケとなること、
四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、
五には悪口のために落胆し萎縮(いしゅく)すること、
 等が、その主要なるものである。これらの弊(へい)に陥(おちい)らぬようにするには、まず悪口に対してはいかなる態度におらねばならぬか、その度胸を定めたい。
 悪口そのものについては他所にも述べたから、ここに再び繰り返す必要はない。僕のここに言わんとすることは、悪口の目的物となり、すなわち悪口を受けるものの態度について一言(ごん)したい。

悪口は一時的のものが多い

 多くの悪口には一時的流言(りゅうげん)に過ぎずして、ほとんど一顧(こ)の値いなきものがある。俗諺(ぞくげん)にいう、「人の噂(うわさ)も七十五日」。その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。すなわち新聞雑誌に掲げられる月旦(げったん)とか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、某(ぼう)はかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉を食(くら)っても※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)(あき)たらぬとか、倶(とも)に天を戴(いただ)くを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる始末(しまつ)を細々(こまごま)と記してある。
 これを読む者が真面目(まじめ)に考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。国のためにかかる人は一刀の下(もと)に刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしく褒(ほ)め立てることがある。いわゆる輿論(よろん)なるものは実に軽薄なものである。また我々の友人中にも甲が乙の噂(うわさ)をして、はなはだ怪(け)しからぬ奴(やつ)だと罵(ののし)る。その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交しても※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)(あき)たらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた罵詈(ばり)の言(げん)は、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。

譏謗(きぼう)の大部分は介意の価なし

 しかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂(うわさ)され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起(た)つ能(あた)わざる窮地に陥(おちい)るごとく歎(なげ)く。かくのごとき時には、少(すこ)しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言(こと)の葉(は)の、一風(ひとかぜ)吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為(ため)に一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者(なんしゃ)はいかなる人かと聞けば、怒(おこ)ったり怨(うら)んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。
 あの男が一ぱい機嫌(きげん)で悪口するはアルコールの蒸発(じょうはつ)が喉(のど)を過(よぎ)って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう言(げん)を弄(ろう)するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠(とおぼ)えぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に障(さわ)っても、あとに残らない。
 しかるにこれを一々真面目(まじめ)に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を吐(は)くほうが多いから、為(ため)に人を怨(うら)み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七分(ぶ)は聞流しにすべきもの、意に介(かい)する価値なきものと僕は信ずる。
折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん

知らぬ人の批評には弁解が要らぬ

 もっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに罠(わな)をかけ、あちらに垣(かき)を結び、もって他を陥(おとしい)れんとする、手配り広き悪口もある。
 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを免(まぬか)れられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知恵(ちえ)を絞り出して吐(は)く悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を運(めぐ)らす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳漿(のうしょう)を絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。
 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗(きぼう)の理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々(ことごと)しく弁解する労を取るだけの価値がない。加之(しかのみならず)時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、彼是(かれこれ)批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。
 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境(きゅうきょう)に陥(おちい)り衣服にも窮している、どうか助力を乞(こ)いたいと訴えたが、彼がその窮境(きゅうきょう)に陥(おちい)ったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の談(はなし)を遮(さえぎ)り、世間が君を誤解しても、君の知己(ちき)が誤解しなければよいではないか。
 世間とは君を知らぬ人の謂(い)いである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に介(かい)するに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛憎(あいぞう)の念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。

かかる悪口は自然に消える

 世間だの世評だのということは、はなはだ漠(ばく)としたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由々(ゆゆ)しき大事といわねばならぬ。
 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非難(ひなん)しても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を吐(は)き、その会社の信用を傷つけ、その店を顛覆(てんぷく)させる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。
 西郷南洲(さいごうなんしゅう)翁が慶応(けいおう)年間、京都に集まった薩摩(さつま)の勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮撫(ちんぶ)に取りかかったとき、日ごろ西郷に快(こころよ)からぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮撫(ちんぶ)に藉(か)るが、実はこれを煽動(せんどう)するものであると、島津久光(しまづひさみつ)公に告口(つげぐち)した。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何人(なにぴと)でも差支(さしつか)えなきゆえ、手討(てうち)にせよとの命令を下した。これを聞いた大久保(おおくぼ)はそもそも西郷を久光(ひさみつ)公に推薦(すいせん)したのは自分である。彼が不埒(ふらち)を働いたとすれば、自分もまたその責任(せきにん)を分かたねばならぬと思い、西郷が来るや否(いな)や、ただちに彼を兵庫(ひょうご)に引連れ、明日君が君公の前に侍(じ)すれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し互(ちが)えて死する積りだといった時、西郷は、
「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。俺(おれ)は罪を得たから死ぬが、汝(きさま)は生き残って俺の代りに君公に仕(つか)え、二人前を働いてくれ」
 といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔走(ほんそう)したが、世には随分念の入った讒言(ざんげん)悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨(うら)むことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。

言語よりも実行をもって弁解せよ

 かくいったならば、あるいは正直の人は、
「人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。汝(なんじ)は軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。
 西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼を憎(にく)む人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史を汚(けが)した。また我が国にても石田三成(いしだみつなり)は徳川(とくがわ)家の御用史家により、成るべく悪(あ)しざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、誤謬(ごびゅう)を改めしむべきが本分である。汝(なんじ)の言のごとくどうでもよい、放任せよというは怪(け)しからぬ」
 という人もある。歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、真偽(しんぎ)の問題である。道徳の問題でなく、歴史上の問題である。
 歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日々(ひび)の心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もし強(し)いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。
 白隠和尚(はくいんおしょう)はその檀家(だんか)の娘が妊娠して和尚(おしょう)の種子(たね)を宿したと白状したとき、世人から生(なま)ぐさ坊主(ぼうず)と非難されても、平然として、
「ああそうかい」
 と言い、生まれた後は、自分でその子を懐(だ)きなどしていたが、後、和尚の種子(たね)でなく、娘は一時のがれに和尚の名を汚(けが)したことが明らかになった時も、また、
「ああそうかい」
 といって世間の毀誉褒貶(きよほうへん)[#「毀誉褒貶」は底本では「毀誉貶褒」]に無頓着(むとんじゃく)であったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。
 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。
「何をもって謗(そしり)を熄(や)むる、曰(いわ)く無弁(むべん)。何をもって怨(うらみ)を止(とど)むる、曰(いわ)く争わず」
 と、また、
「人の我を謗(そし)るやその能(よ)く弁ぜんよりは、能(よ)く容(い)るるに如(し)かず。人の我を侮(あなど)るや、その能(よ)く防がんよりは、能(よ)く化(か)するに如(し)かず」と。
 実に尽せる言である。

悪口に対する理想的態度

 しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。すなわち白隠和尚(はくいんおしょう)の態度のごときは日(ひ)ごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。かく言えば、前に説いたことと矛盾(むじゅん)するらしく思われるがそうでない。日ごろこれらの修養を欠(か)く人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを奨励(しょうれい)するに傾きがちである。白隠(はくいん)なりしゆえ、後日に至り疑いも解(と)け、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば白隠(はくいん)以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引き取(と)り、白隠の言葉を借用して聖人の行為を真似(まね)る虞(おそれ)が多い。
 米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らを罰(ばっ)せんか、惜(おし)むらくは彼らの中には有名の士君子(しくんし)が多く、かつこれらの人は日(ひ)ごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。法に従い罰するに忍(しの)びぬ。ゆえに止むを得ず一時の権宜(けんぎ)として、彼らには軍法を応用せず、兵役も免(めん)じ、納税の義務も免じた。
 これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の日(ひ)ごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、日(ひ)ごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、日(ひ)ごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に都合(つごう)よき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。白隠(はくいん)和尚は日ごろ修養を積み、平生(へいぜい)の言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。
 ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、日(ひ)ごろの修養如何(いかん)によりてその価値が著(いちじる)しく違う。白隠(はくいん)の談(はなし)は美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するを憚(はば)かる。しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、日(ひ)ごろの行状を謹(つつし)み、日常の信用を厚(あつ)うするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。この点に謹慎(きんしん)し、修養していれば、一時いかなる非難非譏(ひき)を受けたとても、何らの弁解を試みずして能(よ)く晴天白日の身となり得ると思う。悪口に対する吾人の理想的態度は無言(むごん)実行の弁解をもってすべきであると思う。いかに人はかれこれいうとも己(おの)れさえ道を蹈むことを怠(おこた)らずば、何の策を弄(ろう)せずとも、いつの間にか黒白(こくびゃく)判然するものである。要は「本来(ほんらい)清浄(せいじょう)」を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。
人(ひと)住まぬ山里(やまざと)なれど春くれば柳(やなぎ)はみどり花(はな)はくれなゐ



世に蔓延(はびこ)る者は憎まる

「憎(にく)まれ児(こ)世にはびこる」という諺(ことわざ)があるが、わが輩はこれを顛倒(てんとう)して、世にはびこる者は憎(にく)まれるということも、また真実(まこと)であると思う。いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『言海(げんかい)』を見ると横行、強梁(きょうりょう)などいう漢字を充用し、這(は)いひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、延(の)びひろがり繁(しげ)る意味である。米麦(こめむぎ)を蒔(ま)いた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪魔(じゃま)になるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆を穫(え)んと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に適(かな)わぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。
 して見ると、はびこるという文字の意味を悪く解(と)るか解(と)らぬかは、これを用うる人の意によりて異(ちが)うので、豆を穫(え)んとする人には、麦が悪(あ)しき意味にはびこるのであり、麦を穫(え)んとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪(あ)しき意味にはびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職を完(まっと)うし、伸(の)びるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否(いな)むしろすこぶる感服することがたくさんある。

古今の事例はこれを示す

 これ我が天職なり、これ我々がまさに履(ふ)むべき道なりとの確信の下(もと)に働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何人(なんぴと)かの進路を妨(さまた)げ、人から邪魔視(じゃまし)される。聖人(せいじん)君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何人(だれ)からか邪魔視(じゃまし)される。
 孔子(こうし)の言(い)えることまたは為せることは、盗跖(とうせき)より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。
 キリストが無遠慮に自分の思想の実行を力(つと)めたから、時の官憲僧侶(そうりょ)から邪魔視(じゃまし)され、耶蘇(やそ)ほどにはびこる、嫌(いや)なものはないと思われたればこそ、十字架(じか)の上にその一生を終わったのである。
 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫蕩(いんとう)浮華(ふか)なる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。
 ゆえに、「憎(にく)まれもの世(よ)にはびこる」というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。何人(だれ)にも可愛(かあい)がられるものは世にないと思う。もしかかる人(ひと)がありとすれば、そは自己の意志なきものである。何人(だれ)にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。
 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣笠(じんがさ)の意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽蔑(けいべつ)の意を含んでいる。これに反(はん)して一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。しかるにいかなる政治家にてもその生ける間(あいだ)は敵より政治屋と罵詈讒謗(ばりざんぼう)せられる。ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。

意志の遂行(すいこう)と社交の遠慮はいかに調和するか

 人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、何人(なんぴと)も嫌(いや)である。嫌だからとて「瓢箪(ひょうたん)の川流(かわなが)れ」のごとく浮世のまにまに流れて行くことは志(こころざし)ある者の快(こころよ)しとせざるところ、むしろ愧(は)ずるところである。ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するに力(つと)めねばならぬ。もちろんかくいったからとて何事につけても無遠慮(ぶえんりょ)に勝手放題に傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に行えというにあらぬ。独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。
 山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も近道(ちかみち)であるが、実際山より山に遷(うつ)るには、一度麓(ふもと)の渓間(たにま)に降りてまたまた嶮(けわ)しき峰をよじ登らねばならぬ。一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば迂廻(うかい)して行くだけの遠慮がなくてはならぬ。しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは卑怯(ひきょう)である。かれこれ言われるからとて遠慮するのも卑怯(ひきょう)である。
 しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。この程度は概括的に定むることは出来ぬ。周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の犠牲(ぎせい)として払うべき意志は我々が衣服(きもの)を買うときの代価のごときものである。いったい衣服(きもの)はなんぼするものかという質問に対しては何人(なんぴと)も一口(ひとくち)に答えかねる。なぜなれば衣服(きもの)にも単衣(ひとえ)あり綿衣(わたいれ)あり、木綿(もめん)物もあれば絹織物もある。和服もあれば洋服もある。具体的に個々の衣服(きもの)について始めて価(あたい)がきまるのである。単に衣服(きもの)というただけでは何とも決することが出来ぬ。それと同じく遠慮と遂行(すいこう)の程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。
 わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点は己(おの)れの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間が容(い)れてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底門外漢(もんがいかん)の解決し得るところでないと。

所信の貫徹(かんてつ)に潜(ひそ)める大苦心

 元来(がんらい)、義務と義務との衝突(しょうとつ)は根底においてあり得べきものでない。義務そのものは絶対的であるとしても、個人がこれに対すれば軽重(けいちょう)、本末(ほんまつ)、主従(しゅじゅう)、大小(だいしょう)、遠近(えんきん)等によりて関係的相違あり、決して絶対的に同等なものでない。したがって思想的根底において衝突せぬものであるが、実行にあたっては衝突する場合がたくさんある。
 孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならずと歎(なげ)くものは、独り平重盛(たいらのしげもり)に限らない。些細(ささい)なることにおいても、少しく考うると必ず衝突の問題の起こらぬことはない。朝自分の家を出て事務所なり学校なりに通わんとするに、右のほうが道がよいか左がよいか、必ず問題として考え得る。右は近いが左のほうが歩きやすいとか、右は平坦(へいたん)だが左道(ひだり)は清潔だとか何とか、たいがいのことには得失問題を起こす理由がある。そしてその判断には少なからず苦しむものである。
 むかしの英傑の伝を見るに、果断だとか、「裁決(さいけつ)流(なが)るるがごとし」とかぞうさもなく出来るように書いてある。彼らが凡人よりも早く事物の要点を見る明晰(めいせき)の頭脳を有することは疑いなきも、また凡人の窺知(きち)し得ざる苦労を経(ふ)るのである。光圀卿(みつくにきょう)の、
見れば只(たゞ)何の苦もなき水鳥(みづとり)の足にひまなき我(わが)思(おも)ひかな
 である。
 シーザーがその留守中にローマに乱(らん)の起これるを聞き、出征先より大軍を率(ひき)いて帰国し、自国に入ろうか入るまいかとルビコン河畔(かはん)に立ったときは、凡人の考え得られぬ苦心があったであろう。外部より見れば、さほどに苦心もなく一蹴(しゅう)してルビコン河を越えたらしく見られるも、今もなお歴史上の分岐点(わかれめ)として謡(うた)われているほど彼の苦心の跡が世界の人心に印(いん)してある。
 また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心魂(しんこん)を痛め、あるいは跪(ひざまず)いて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を往(ゆ)き来(き)したという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に絆(ほだ)されて南軍についた。その決心を固(かた)くするまでの苦心はいかに辛(つら)かったであろう。
 また信長(のぶなが)が寡兵(かへい)を督(とく)して桶狭間(おけはざま)に突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また西郷南洲(さいごうなんしゅう)が廟堂(びょうどう)より薩南(さつなん)に引退した時の決心、また多数に擁(よう)せられ新政厚徳(こうとく)の旗(はた)を揚(あ)ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し能(あた)わぬ。
 また某(ぼう)碩学(せきがく)がかつて那須与一(なすのよいち)の琵琶歌(びわうた)を聞き、さめざめと泣き出したとき、傍(かたわら)の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も舷(ふなばた)をたたいて賞賛したこの勲(いさおし)を聞き、泣くとはその意を得ぬと詰(なじ)ったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源氏(げんじ)軍の名誉をただ一身に荷(にな)って弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も賞歎(しょうたん)したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪(た)えぬと。実に見る人が見れば、何人(だれ)の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信(しょしん)、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。

善事の背後にも敵がある

 ついでに加えて述べたきことは、与一(よいち)の場合にも彼が扇(おうぎ)を覗(ねら)うあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは平家方(へいけがた)のみでなかったであろう。また奥州(おうしゅう)より出て来たあの田舎武士(いなかぶし)が、御大将(おんたいしょう)の眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果報者(かほうもの)だと羨(うらや)んだものもあったろう。また彼の技倆(ぎりょう)を疑える者は、彼が遣(や)り損(そこな)えばよい、自分が代って見事に遣(や)って見ようというものもあったであろう。あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。彼が成功したと同時に、大喝采(だいかっさい)を受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼を怨(うら)み嫉(ねた)んだ者から見れば、彼が人目(ひとめ)を惹(ひ)き世にはびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。
 わが輩は話にまぎれてとかく昔時(むかし)のことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、些細(ささい)なことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と衝突(しょうとつ)しているものがあると覚悟する必要がある。僕は性来臆病(おくびょう)なるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは万遍(まんべん)なく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを数多(あまた)聞かねばならぬと思わぬことはない。またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることを企(くわだ)て、この善事を覆(くつがえ)さんとするものがあろうと、恐れを懐(いだ)かぬことはない。
 こういう考えが善いというのではない。聖人ならこんな考えなく、何の憚(はばか)るところなく善事を行(や)るであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま衷心(ちゅうしん)より世のためだと思うことをすると、一方に臆病(おくびょう)の考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。しかしてまた世上(せじょう)聖人君子が少なき以上、同じ経験を履(ふ)めるものが多いであろう。

読者中にも必ずかかる経験あらん

 仮りに読者中憫(あわれ)な人に逢(あ)いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠(ぎきょう)の心をもってしたとするも、一方にはその事(こと)たるや偽善(ぎぜん)からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙(きょ)に出たのであろうと疑われたものもあろう。
 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴(きゃつ)め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。
 読者中病身の細君(さいくん)を親切に看護(かんご)する者あれば、これを褒(ほ)める者があると同時に、彼奴(きゃつ)め嚊(かかあ)に惚(のろ)いと批評された経験もあろう。
 読者中もし小児(こども)に何か教えることがあれば、褒(ほ)める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。
 また読者中繊弱(せんじゃく)なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴(あいつ)はチト怪しいと疑われたこともあろう。
 公(おおやけ)の事に奔走すれば野心家と疑(うたが)われ、老後他人の厄介(やっかい)になるまいと貯蓄(ちょちく)に志(こころざ)せば吝嗇奴(りんしょくど)と侮(あなど)られ、一挙手(きょしゅ)、一投足(とうそく)、何事にしても、吾人(ごじん)のする事なす事につき非難を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)(さしはさ)むことのなきものはない。これが世の中である。
 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒(ほ)められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒(ひっぽう)なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局(きょく)に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、
笛(ふえ)ふかず太鼓(たいこ)たゝかずしゝまひの後足(あとあし)となる胸(むね)のやすさよ
 で、何事もせねば非難も憎悪(ぞうお)も免(まぬか)れるのである。僕の知人にして、今は故人(こじん)となったが、生前公職につき藩政に与(あずか)って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居(ちっきょ)のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書(しょ)に綴(つづ)りて『桜花物語(おうかものがたり)』と題して子孫に遺(のこ)したが、その人は常に左の古歌を愛吟(あいぎん)した。
咲(さ)かざれば桜(さくら)を人(ひと)の折(を)らまじを桜(さくら)の仇(あだ)はさくらなりけり
 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人(なんぴと)かに怨(うら)みを受けるものである。いわゆる人から邪魔(じゃま)に思われるものである。
 佐藤(さとう)一斎(さい)先生の語に、
「罪(つみ)なくして愆(あやま)ちを得る者は非常の人、身(み)一時(じ)に屈(くっ)して、名(な)後世(こうせい)に伸(の)ぶ。罪ありて愆(あやま)ちを免(まぬか)るる者は奸侫人(かんねいじん)、志(こころざし)一時に得て、名後世に辱(は)ず。古(いにしえ)の天(てん)定まりて人に勝つとは是(こ)れなり」



友人を擲(なぐ)った少年時代の追懐

 この問題は永く僕の心に蟠(わだかま)っているもので、今日(こんにち)もまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚考(ぐこう)を述べて世人の教えを乞(こ)いたい。
 話の順序として自己の恥曝(はじさら)しから始めたい。僕が十三、四のころであった。まだ東京英語学校に、下宿(げしゅく)から通学していたとき、友人某(ぼう)が九州の親許(もと)より来る学資金が後(おく)れたために寄宿料、食料、月謝の支払いに滞(とどこお)りが起こり大いに当惑(とうわく)せるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。かくいうといかにも義侠心(ぎきょうしん)ありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。
 それはある夜同室に枕(まくら)をならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと楠正成(くすのきまさしげ)との比較論が始まり、僕が楠公(なんこう)を愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、楠公(なんこう)は愛国者でなく忠臣だといった。彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の素養(そよう)も、より多くあったので、文字の遣(つか)い方も正しく、また彼の議論も今より顧(かえり)みれば正当であったが、なに思いけん僕は突然床(とこ)よりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄拳(てっけん)を食(くら)わし、
「俺(おれ)の飯(めし)を食ってるくせに、なぜ反対するか」
 と怒鳴(どな)ったことがある。彼は僕より躯幹(くかん)長大にして、活発(かっぱつ)にかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も手向(てむ)かいだもせず、擲(なぐ)られたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の下宿(げしゅく)に移ったことがある。

心の独立と体の独立とは密着

 今ここにかくのごとき愚かな子供談(こどもばなし)をし、しかも自己の恥(はじ)を曝(さら)すのは、この経験が永(なが)く僕の頭に留まり、四十年後の今日もこれを追懐すれば、自分が生来(せいらい)短慮なりしことを明らかにすると同時に、種々の教訓を受くるのである。
 表題(ひょうだい)の心の独立と体の独立ということもその一つである。僕が友人に対して俺(おれ)の飯(めし)を食いながら反対するのはけしからんという一喝(かつ)は、たしかに僕の根性(こんじょう)の曲(きょく)を曝露(ばくろ)する。しかるにこれが十二、三歳の腕白小僧(わんぱくこぞう)の一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが潜(ひそ)めるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜伏(せんぷく)する考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。換言すれば俸禄(ほうろく)をもって他人の身体を抑(おさ)える者は、心そのものをも制し得る考えをもってする者が多くありはせぬか。俸禄(ほうろく)を受ける者は知らず知らずのうちに心まで自分の主人のために奪(うば)われることはありはせぬか。
 さらに具体(ぐたい)的にいえば知人の恩恵によりて位地を得、俸給(ほうきゅう)を受くる者は、その知人あるいはその上官・社長・重役らの説に心ならずも服従し、反対説あるもこれを述ぶることを憚(はばか)り、また彼(かれ)らの行動をいさぎよしとせざることあるもこれを黙認(もくにん)し、あるいはかえって進んでこれを弁護することありはせぬか。
 先般ある会社の重役が検挙せられたときの談(はなし)を聞くに、部下の者は始めて日ごろよりいだいていた重役に対する不満を述べたという。日ごろそれほどその人の人格手腕(しゅわん)に対し疑いを有したならば、何ゆえに予(あらかじ)め警戒しなかったかと思えば、非難する人の人格そのものも疑(うたが)わしくなる。また役所などで上官が代れば部下の者が後任者を迎うるに前任者の棚卸(たなおろ)しをもってするは常にあることで、それほど宜(よ)くなければ交替前に何ゆえに前任者に注意しなかったかと思えば、陰口(かげぐち)をいう者の人格の下劣(げれつ)にして、些(いささか)の俸禄(ほうろく)のために心の独立を失い、口に言わんと欲することを得(え)言わず、はなはだしきは心に思わんと欲することさえも、まったく思わず、機械的に否(いな)奴隷(どれい)的に使われていたと思わざるを得ぬ。体の独立はなくとも、心にさえ独立していればよい、たとえ体は束縛(そくばく)せられていても、精神が自主的観念(じしゅてきかんねん)をいだいていればよいなどというが、心の自由と体の自由とは関係がすこぶる密着して離し得ぬ場合が多い。

動機は立派(りっぱ)でも年とともに堕落(だらく)

 僕は子供心(こどもごころ)に、維新(いしん)のころ世に名高き遊女(ゆうじょ)の談(はなし)を敬服して聞いたことがある。それは品川(しながわ)の遊女某(ぼう)が外人に落籍(らくせき)せられんとしたことで、当時は邦人(ほうじん)にして外人の妾(めかけ)となれるをラシャメンと呼び、すこぶる卑下(ひげ)したものである。某(ぼう)は遊女ながらもひと廉(かど)の気象(きしょう)があったが、如何(いかん)せん、商売がら外人に落籍(らくせき)されたので、
仮令(たとへ)身(み)はふるあめりかに触(ふ)るゝとも心(こゝろ)一つは汚(けが)さゞらまし
 と詠(よ)んだと聞く。心と体とを別に考うることはすでに身を売る時より行(おこな)わるる議論で、良家の子女(しじょ)が泥水(どろみず)に入る時も、たとえ体(からだ)は畜生(ちくしょう)同然になるも、心は親のため、主人のため、夫(おっと)のためあるいは家のためなりと称し犠牲(ぎせい)となった。
 しかるに、身を売る時の動機はいかに正しくとも、一度(ひとたび)身の独立と自由とを失(うしな)った以上は、心もまた堕落(だらく)することが多数の事実である。恐らく我が国の娼妓(しょうぎ)となりし人の動機と理由とを統計上より数えなば、自己の淫奔(いんぽん)よりする者は少なく、大多数は一家のために犠牲(ぎせい)となったのであろう。身を売る時はじつに憐(あわれ)むべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾後(じご)三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲泥(うんでい)の差あるを発見するであろう。
 僕の友人が洋行した時、ハンブルグに行ったことがある。ハンブルグは西洋に例の少ない公娼(こうしょう)制度の行わるる所である。ゆえに友人はその道に通(つう)なる人の案内でその制度を視(み)に行った。その時この通人(つうじん)は数多(あまた)の婦人を呼び出し、友人のためにその経歴を紹介(しょうかい)したが、かくするあいだについ三、四ヵ月前に来た新しき女があったが、あれはどうしたかと、通人は頻(しき)りに新参者(しんざんもの)を求めたりしに、豈(あに)計(はか)らんや新参者は数多(あまた)の列座中にあったので、それが分った時の通人の驚きは一方(ひとかた)ならなかった。わずかに百日も経(た)たぬ間にこれほどに処女(しょじょ)と商売人とは変わるものかと、開(あ)いた口がしばらく閉(と)じなかった。
 僕は多く不浄の談(はなし)をならべるようではあるが、身を縛(しば)られた例は奴隷(どれい)制度の廃止された今日(こんにち)、娼妓(しょうぎ)をもって例(たと)うるのほかなしと思い、ここに引例したのである。がしかしその実泥水(どろみず)に居(お)らなくとも泥水よりいっそう深き穢(けが)れに心の染まれるものが世には多くありはせぬか。身は一見(けん)独立のごとくして、心は娼妓(しょうぎ)よりもなお独立なく他人に依頼し、しかも他人の愛憎(あいぞう)によりその日を送れるものが多々(たた)ありはせぬか。

独立とは何を意味するか

 かつてある青年が僕の友人を訪(と)うて、どうぞ書生として寄寓(きぐう)させてくれと頼んだ。友人はすでに家には書生もおり新たに入れる余地がないと断(ことわ)り、かつまた上京するときの目的がはなはだ明らかならぬゆえ、この青年に帰国を勧告したが、彼は旅費がないから帰国されぬという。友人も、
「君とこうして談(はなし)するのも他生(たしょう)の縁であろう。君が親もとに帰る考えがあるなら失敬ながら旅費は僕が手伝おう」
 というや、青年は毅然(きぜん)として、
「私は独立を重んじます。旅費などは貰(もら)いたくありません」
 と立派にいいきった。これを聞いた友人は奇異(きい)の思いをなし、青年に、
「君は独立をたいそう重んずるようで、まことに結構であるが、果たして独立の意味が分かっているか。一時旅費を立替(たてか)えてもらうのが独立を失(うしな)うと思うはあながち咎(とが)むべきでない。それくらいの考えはむしろ持ってもらいたい。しかるにそれほど独立を重んずる君が、すでに二、三日前より毎日二、三時間を費(ついや)して僕に求むることは、決して独立を重んずる精神とは受取りがたい。君が僕の家に置いてくれと要求する意味は、雨露(あめつゆ)を防ぐの方法を与え、三度の食事を今後一年二年ないし五年十年とも寄食(きしょく)させよというのではないか。仮りに一年としてもこれを金銭に換算したら君に提供した旅費の何倍かに当たる。少額を受取れば独立を害し、多額を受ければ独立自重(じちょう)の心を害さぬ理由は解しがたい」
 と説いたそうである。

使わるる者必ずしも独立を失わぬ

 僕は決して先輩の家庭に寄食するをもって独立を失(うしな)えるものとは言わぬ。僕の家(うち)にも書生はいる。この人をもって独立なきものとは思わぬ。なんとなれば書生が家(うち)にいることは僕の便利であり楽しみであり、否(いな)必要であるゆえ頼んでも家に居(お)らしむる。書生もまた同じく思うゆえ、互いに申合せて同居(どうきょ)するのである。動物学者の symbiosis(シンバイオシス) と称する生活を同じゅうする共棲的(きょうせいてき)現象である。ゆえに置く人も独立を失わず、置かるる人も独立を失う訳はない。そこで役所に使わるる者も会社に働く者も、俸給(ほうきゅう)を受けるからとて、必ずしもそれだけで身の独立を失うものでない。また実際の手続きとしては被傭者(ひようしゃ)は志願し会社に入る。しかして志願すといえば一方よりのみ頼み、会社の恩恵のみを受けているように聞こゆるも、実は会社は世の有為(ゆうい)なる青年に向かって入ってくれと頼むようにも思われる、いわゆる需要(じゅよう)と供給(きょうきゅう)との相互に応じ合ったことである。
 かくのごとき場合には契約(けいやく)の両者が依然として独立の心を失わぬのである。また身は一見縛(しば)られているようであるが、一方の嫌(いや)というのを縛るのでなく、自由の契約である。自分の心に面白くなしとあればその契約を解(と)くことも出来る。役人も国家の命令により身を縛(しば)られるとは論ずるものの、あくまでも心の盲従(もうじゅう)を要求されない。いかに国家の命令とはいえ、役人にして国家の為す所に腑(ふ)に落ちぬことがあれば、その命令を拒(こば)むことは出来なくとも、自分より進んで職を辞(じ)することは出来る。

身は縛(しば)られても心は独立

 凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる虞(おそれ)がある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ擲(なぐ)らるるままに恥(はじ)を忍(しの)んで去った。今にしてこれを顧(かえり)みれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の奴隷(どれい)にならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下宿(げしゅく)を代えたからである。彼に転宿する余裕(よゆう)ありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根性(こんじょう)が卑屈(ひくつ)となる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅固(けんご)なりと思うあいだは随分勝手(かって)な口をきき、いつ辞(や)めても天下を濶歩(かっぽ)する意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを噂(うわさ)するにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。
 かくいったからとて人間の心の中に唯物(ゆいぶつ)的拝金(はいきん)的卑屈(ひくつ)なる根性(こんじょう)があって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五斗米(とまい)のために身を屈(くっ)しても身を枉(ま)げても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の弟子(でし)パウロは新しき宗教を奉じた咎(とが)をもって捕縛(ほばく)せられ笞(むち)うたれ、獄(ごく)に投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷(きず)だらけの体(からだ)を縛(しば)られたまま、
「我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこの繩(なわ)を除いてはまったく我の如(ごと)くあられんことを」
 といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。
 またむかし武田勝頼(たけだかつより)が三河(みかわ)の長篠城(ながしのじょう)を囲み、城中食(しょく)尽(つ)きもはや旬日(じゅんじつ)を支え得なかった時、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が万苦(ばんく)を冒(おか)して重囲を潜(くぐ)り、徳川家康(とくがわいえやす)に見(まみ)えて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に擒(とら)えられ、城に向かい、援軍来(きた)らぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公(しゅこう)の大軍すでに出発したれば来援(らいえん)三日を出(い)でぬであろう、諸君努力せよと叫(さけ)んだ。ために、身は乱刀(らんとう)雨下(うか)に寸断せられたが、心の独立はついに侵(おか)されなかった。一指(し)だも動かされぬほど縛(しば)られながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を塞(ふさ)ぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。

心の独立と誤解しやすき考え

 ただ注意すべきはこの精神を誤解して扶持(ふち)をくれる人に背(そむ)き、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを発(あば)き、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。
 孔子(こうし)も子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、隠(かく)すことが国家に危害(きがい)を与(あた)うるならいざ知らず、会社の内幕(うちまく)を語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍の下(もと)にありて、法律(ほうりつ)の保護を受け、もって生命財産の安固(あんこ)を保ちながら、その国の不為(ふため)を謀(はか)るごときは、決して国民たる個人の独立行為(どくりつこうい)といわれぬ。こんなことは売国奴(ばいこくど)の所為(しょい)として誰も卑(いやし)む。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、陰(かげ)でかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳述(ちんじゅつ)すべきである。
 周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を伐(う)たんと出征したとき、民みな武王(ぶおう)の意を迎えたが、伯夷叔斉(はくいしゅくせい)のみは独立行動に出(い)でて、武王(ぶおう)の馬を叩(たた)いて諫(いさ)めた。左右の者ども両人を兵(へい)せんとした。すなわち輿論(よろん)は伯夷叔斉(はくいしゅくせい)を罪(つみ)せんとした。このとき太公望(たいこうぼう)は独特の意見を述べて、
「此(これ)義人(ぎじん)なり」
 といって扶(たす)けて去らしめた。伯夷叔斉(はくいしゅくせい)も太公(たいこう)も群衆に逆らった心の独立は好(よ)みすべきであるが、もし二人の兄弟が武王(ぶおう)に反対して、密(ひそ)かに出版物を播(ま)き散らしたり、あるいは隠(いん)に徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を曲(ま)げて武王(ぶおう)や太公(たいこう)の政策やら人身を攻撃(こうげき)したならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子(らんしんぞくし)と呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは輿論(よろん)とは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが判(わ)かる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に叶(かな)わぬ周(しゅう)の粟(あわ)を食わずとて首陽山(しゅようざん)に隠(かく)れ、歌を詠じて餓死(がし)したところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。

風俗習慣に逆らうは独立にあらず

 なお心の独立と思い違いやすきことは風俗習慣に逆らいさえすれば心の独立を現すもののごとく思う一条である。通常の服より違った衣(ころも)を着れば、独特の人才(じんさい)にでもあるかのように思う人も少なくない。髪(かみ)を長くしてみたり、赤い着物で外出したり、一本歯の下駄を履(は)いたりすることは、馬鹿でもやり得ることで、心の独立を崇(あが)める値いはない。人が社会に住んでいるあいだは法律のほかに世俗の制裁を受けねばならぬ。もっとも世の要求することなら何でもこれに従えというではない。みずから反(かえ)りみて縮(なお)からば千万人といえども、吾れ往(い)かんとの独立自重(じちょう)の心は誰人(たれびと)にもなくてはならぬけれども、いわばどちらでも好いことに角立(かどだ)てて世俗に反抗するほどの要なきものが多い。風俗習慣の中には主義として争うに足らぬものがたくさんある。
 佐藤(さとう)一斎(さい)の『言志(げんし)四録(ろく)』に曰(いわ)く、
「寛懐(かんかい)俗情に忤(もと)らざるは和(わ)なり、立脚(りっきゃく)俗情に墜(お)ちざるは介(かい)なり」
 と。この簡単なる一言をもってよく吾人(ごじん)の世に対する関係を尽している。
 心の独立を計るに身を世俗より去る必要はない。むしろ世に入り込んで独立の実を揚(あ)ぐべきこそ吾人も務めであれ。味わうべきは左の歌である。
山深く何かいほりを結ぶべき心の中に身はかくれけり
座禅(ざぜん)せば四条五条の橋の上ゆき来の人を深山木(みやまぎ)と見て



米国南北戦争における名将

 かねて米国に遊学していたころから、見物してみたいと思っておったいわゆる南部(サウス)地方に、四年前しばらく滞在し、かの南北戦争の舞台とも言うべき場所を視察し、また当時、事に当たった人々の子弟に交(まじ)わって旧事を聞き、またなお今日(こんにち)戦争の傷(きず)の癒(い)えない情態を見て、種々なる感想を起こした。経済学者や社会学者・政治家・経世家の眼(まなこ)をもって見たならば、学ぶべき廉(かど)が多々あろうと思う。しかし凡庸(ぼんよう)の眼をもって視察し、平凡の耳をもって歴史を聴く僕のことであるから、やかましい議論はしばらく措(お)いて、いささか個人的の教訓に資すべき事柄を談(はな)したいと思う。
 なかんずく僕の心を最も強く打ったものは、南軍の総司令官でありしリー(R. E. Lee)将軍の人格である。僕はこの人の名と性格とを青年時代より聞いて、彼の伝記を読む前に、すでに彼に対する敬愛の念が深かった。正直(しょうじき)にいうと、僕はこの敗軍の将(しょう)に対する同情と敬愛の念は、彼(かれ)の軍を敗り、彼をして軍門に降(くだ)らしめたグラント将軍より、いっそう強く常に懐しく思っている。
 彼が三十万の兵をもって、百万の兵に当たった古戦場に足を留め、彼の破れて北軍に降(くだ)ったのち、ほとんど名も無き田舎(いなか)中学の校長となって身を終ったその地方を巡回して、いよいよ同氏の人格の高朗なるを知って、いよいよ追慕(ついぼ)の念が深くなった。しかし今ここにリー将軍の伝記を述べる考えはない。僕は彼(かれ)のいわゆる失敗せるに鑑(かんが)みて、そもそも失敗とはいかなるものであるかという事について、少しく感じたことを述べたい。

彼は成敗(せいはい)よりも任務の遂行に力(つと)めた

 歴史は彼をして失敗の人と命名する。みずからも敗軍の将たることを承認している。彼が前記の中学校の校長であったとき、不勉強な生徒を譴責(けんせき)する折があった。その節彼(かれ)はこの青年に向かって、
「君はもっと勉強しないと、やりそこなう(fail)から、大いに奮発(ふんぱつ)せんといかんぞ」
 と言ったときに、この青年が、
「将軍、あなたは、やりそこなった(failure)方(かた)ではありませんか」
 と答えた。これを聞いた将軍は、
「君の言う通りだからわが輩のごとき経験を君にさせたくない」
 と述べたという。この青年ははなはだ無礼な過言(かげん)を述べたように見えるが、その実、将軍に対して同情と敬畏(けいい)の念を顕(あらわ)す考えであったという。すなわちやりそこない、失敗なるものは、恥ずるものじゃありましょうが、あなたのごとき人でも、なお失敗は免(まぬか)れないではありませんかと言う意味であったという。どれほど深い考えをもって、この青年が自分の不勉強なることを言いわけする考えであったか判(わか)らんが、とにかく世のいわゆる失敗なるものは、英雄にも聖人にも君子にも、免(まぬか)れ難きものであるという観念(かんねん)は、彼の言葉の裏に顕(あらわ)れている。リー将軍がこれしきの事が判(わか)らぬではない。
 ちかごろ出版になった有名なる文豪(ぶんごう)ページ(W. H. Page)氏のリーの伝記を見ると、幾度(いくたび)となく戦場から、あるいは南方(みなみがた)のときの連邦大統領あるいは夫人に送った手紙の内に、
「今まではとにかくに敗(はい)も取らずに来たが、次の戦いはどうであるか、数(すう)より推(お)せば、我が軍はとうてい北軍に比し難(がた)い。また兵站(へいたん)を考えれば、二日(ふつか)以後の食糧は、どこに求むべきか当てもつかず、冬が近づくが、兵士に靴(くつ)のなき者が数千人、この秋風を凌(しの)ぐに毛布なき者が数万人である。しかし軍(いくさ)の成敗(せいはい)は天に在(あ)る。かくのごとく我々が苦しむのは、己(おの)れの求めて成(な)す事にあらざる以上は、何事か天意のある事ならん。天父(てんぷ)の慈愛に頼(よ)って、各自の任務に忠実なるより為すべき事はない」
 と言う口調を洩(も)らすことがしばしばであった。彼の考えには成と敗の区別が明らかでなかったように思われる。彼の心には勝負の考えがはなはだ弱かったごとくに思われる。ただ己(おの)れの義務と思うことを為した以上は、勝とうが負けようが、己(おの)れの関するところでないとの考えが充(み)ちていたように思われる。
 我が南洲翁(なんしゅうおう)もややおなじ境遇にあるの時、同じ意志を吐露(とろ)した。翁が田原坂(たばるざか)の戦いのころ、大山県令(おおやまけんれい)に寄せた書翰(しょかん)に曰(いわ)く、
「もはや時勢も此(ここ)に至り候(そうろう)てはさらに言語口舌(こうぜつ)をもって是非曲直(ぜひきょくちょく)を争い難(がた)ければ、腕力のほかこれなかるべし。しかし天下の事は成敗利鈍(りどん)をもって相判(あいはん)じ候(そうろう)訳(わけ)にはこれなく、小生は正をもって起こり、正をもって斃(たお)るること始めよりの目的に候(そうろう)。ワシントン、那波翁(なおう)云々(うんぬん)は中々(なかなか)小生輩(はい)の事にあらず、万(まん)一不幸(ふこう)相破(あいやぶ)れ屍(かばね)を原野に曝(さら)し藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)等(ら)とその品評(ひんぴょう)を同じゅうするも足利尊氏(あしかがたかうじ)と成るを望まざるなり」

義務を完(まっと)うするところに成功あり

 この思想はただ戦(いくさ)のみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を免(まぬか)れるためには、いかなる事をも憚(はばか)らない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利(めいり)である。この成功あるいは具体的に言えば名利を貴(とうと)ぶの結果として、人格を測(はか)るにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、
「あの人は近ごろたいそう成功しました」
 という。
「どう成功しましたか」
 と押し返すと、
「大分(だいぶ)金(かね)が出来ました」
 とか、
「近ごろ大分(だいぶ)名が聞こえて来ました」
 という。
 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を測(はか)る標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這入(はい)れば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、
「うまくやった奴(やつ)が偉(えら)い奴(やつ)」
 ということになり了(おわ)る。僕は決して名利(めいり)が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒(こば)むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀(きず)つけたり、また己(おの)れの本心に背(そむ)いて得るものと、天より降(くだ)る露(つゆ)のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己(おの)れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着(とんじゃく)すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己(おの)れの本心に背(そむ)かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠(おこた)るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解(わか)るものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも富貴(ふうき)名誉(めいよ)を必ずしも避(さ)けない、その代りことさら迎(むか)えもしない。
「富貴(ふうき)名誉(めいよ)、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒徐(じょじょ)繁衍(はんえん)、功業より来たるものは盆※(「木+盍」、第4水準2-15-27)中(ぼんこうちゅう)の花の如く、便(たちま)ち遷徙(せんし)廃興(はいこう)あり。若し権力をもって得たるものは、瓶鉢中(へいはつちゅう)の花の如く、その根(ね)植(う)えず、その萎(しぼ)むこと立って待つべし」

ギリシアのソクラテスを見よ

 むかしギリシアの哲学者ソクラテスのもとに、ある兇漢(きょうかん)が来て、さんざん悪口を言って帰った。かたわらに聞いておった門弟が、哲学者に向かって、
「先生あいつ奴(め)、いかにも憎(にく)い奴(やつ)でございます」
 といったときに、哲学者は泰然(たいぜん)として、
「なぜにくい」といったら、
「あんなに先生を恥ずかしめたのがにくい」
 といった。彼は笑いながら、
「お前は少し考え違いをしている。彼はわが輩を恥ずかしめた考えかも知れないが、俺(おれ)はちっとも恥ずかしめられたとは思わない。自分が恥でも受けたような顔をしとったかね」
 と答えたという。失敗もその通り、世の中で何某(なにがし)が大いに失敗したと四面楚歌(めんそか)の声が聞こえても、本(ほん)の当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある。二千四百年前に、ソクラテスがアテネの裁判所に召喚(しょうかん)せられ、有罪の宣告を受けて、獄屋(ごくや)に投ぜられたときには、アテネの者が皆々嘲(あざけ)り笑って、とうとうあのおしゃべり爺(じじい)も、あの年になって、本性(ほんしょう)露見して畳(たたみ)の上でくたばりそこなったわい、と評判を立てて、もし当時アテネに新聞があったものなら、いかに当時の記者が論説やら雑報(ざっぽう)に忙しく彼(かれ)の罪状を書き立て、彼がその日まで口に唱えた教訓はまったく偽善(ぎぜん)であったとか、彼の純潔なる素行はたくみに人を欺(あざむ)くの方法であって、その実、彼がかくのごとき事もしたであろう、ああいう事もしたと、ありとあらゆる捏造(ねつぞう)説を書き立てたであろう。
 基督(キリスト)がゴルゴタの山上で、かの非命(ひめい)の最期を遂(と)げたごときも、世人(せじん)は、あの男もとうとう尻尾(しっぽ)を現して、あのざまの死に方をしたとか、表向きには君子顔(くんしがお)をしておっても、蔭(かげ)ではだいぶ不仕末(ふしまつ)の事があったそうだ、社会主義も唱えたそうだ、某婦人と仲がよかったそうだ、謀叛(むほん)の目論見(もくろみ)さえしたそうだ、始終(しじゅう)下等な女や悪党の仲間につき合っておったそうだ、折々は魔法みたいな事をして愚民(ぐみん)を驚かしたそうだ、始終猫撫声(ねこなでごえ)をして女子供(おんなこども)を手なずけたそうだなど、その他あらゆる悪口をもって、彼は見事に失敗したなどといったであろう。いずくんぞ知らん敗(ま)けたと思った人が最後の勝利者たることを。
負(ま)けて退(ひ)く人を弱しと思ふなよ智恵(ちゑ)の力の強き故(ゆゑ)なり

成敗は世人の眼に見えぬ

 その他歴史に現れて失敗した人で、その実みずからは失敗せぬと思った人もたくさんあろう。成敗(せいはい)は実に世の眼には見えないものである。如何(いかん)となれば当人の標準とする事と、世の標準とする事とたいそう違う。たとえば僕が朝起きて今日は天気もよいし、気分もいいから、一奮発(ふんぱつ)して十里先へ遠足する、とこう心の内に十里塚(づか)を目的として出発する。夕刻に目的地に達すれば、これすなわち僕が成功したのである。自分の心に期しただけの事を遂(と)げたのである。
 しかるに世間はこれを見て成功と言うか言わぬか。世間ではこれをもって失敗と笑う人もある、また成功と褒(ほ)むる人もある。しかして褒(ほ)める人のうちにもこれを僕と同じような考えをもって、まあまあ思っただけのことをやったと、平易(へいい)にいわばあたり前に考える人は少なかろう。如何(いかん)となれば僕のその日の心持ちを知らんから、その日ことさら気分がよかった、天気が清朗であったなどということは考(かんが)えの内に入れてくれぬから、同じく成功とみなしても、僕が思う程度に成功と思ってくれる人ははなはだ少ない。
 しかるに時には十里歩いたことをもって、非常なる成功と思って、僕は何か世に偉(えら)い奴(やつ)であったごとくに賞賛する人もあろう。かくのごとき人は日(ひ)ごろ僕が歩き不精(ぶしょう)であるから、一里行くのも珍(めず)らしいのに十里歩いたのはエライとほめる。しからざれば自分らが足が弱くてなかなか十里の道を遠しとしている連中ならば、これまたわが輩を誉(ほ)めるであろう。そうでなければ、わが輩が歩いた道のことを詳(くわ)しく知らぬ人が、よその人から聞いて、この道は非常に悪路である、嶮岨(けんそ)だとか、危険の多い道だとか信じている人は、わずか十里ながらもえらいところを行ったと思って、わが輩は非常なる成功をしたごとく思う人がある。しかるに実際は平坦(へいたん)な道を、荷物もなく折々休みながら、鼻唄(はなうた)うたって通ったに過ぎぬ。
 しかるに世人の多くは十里歩いた人の話を聞いて成功とはなかなか言わない。まず第一に十里ぐらいはなんだと嘲(あざけ)りを心に催(もよお)す。この種類の人も僕が出立(しゅったつ)するときに、今日は十里の散歩をしようと、心に定めたことを度外視してわが輩の遠足を測(はか)る。して十里の道ならば子供でもゆける、車引(くるまひき)などは一日に三十里もゆく、普通の人間でもせめて二十里も歩かなければ、健脚を誇る権利はないなどという。わが輩は車引(くるまひき)でもなく、また健脚を誇る考えのないことなどは心のうちにおかない。
 古人の言に、
「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや」
 とて、小人(しょうじん)が英雄の心事を解し得ぬに譬(たと)えたが、この句は独(ひと)り人物の大小の差を示すのみにあらで、小人(しょうじん)と小人の間にも、大人(だいじん)と大人との間にも当たる言である。

輿論(よろん)を標準として成敗は測られぬ

 リー将軍の治績(ちせき)を顧みても、これに変わったことはない。彼に私淑(ししゅく)する者は、彼の寡(か)をもって北方の衆に敵し得たとか、南軍の貧(ひん)をもって北軍の富(とみ)に当たった、某(ぼう)戦場においては某将軍を破った、某月某日(ぼうげつぼうじつ)には某所において漲(みなぎ)る流れを冒(おか)して川越えをなしたとか、その他かくのごとき逸事(いつじ)がある、かくのごとき軍功があると、言を極めて彼の徳と彼の力を称揚(しょうよう)する。これらの賛辞が将軍の耳に入ったときは、十里歩いてほめられる僕の感とさらに変わった事はなかったろう。
 またこれに反しなにゆえに彼が某戦場において、某将軍を某地に向けなかったか、なにゆえに某月某日に、北方軍を某地において衝(つ)かなかったか、なにゆえに彼は某所の包囲(ほうい)の時に、かくかくの作戦をしなかったかと、岡目八目(おかめはちもく)や、あとから出る下司知恵(げすちえ)を振りまわして、彼を非難する声がさかんになった時は、彼(かれ)の心に起こった考えは、恐らく僕が十里以上の遠足をしなかったと非難されると同じことであったろう。
 世を渡るにはまったく輿論(よろん)を無視するわけにはいかぬけれども、世人(せじん)の考えをのみ標準として成敗を測(はか)ることは、はなはだはかなき業(わざ)である。勝つも敗くるも、失敗するも成功するも、その基(もと)は各自の心のうちに置いてこそ、真の成敗の味わいが分かるものである。成敗を慮(おもんぱか)るには立脚の地歩によりてどうとも考え得らるる場合が多い。これはしまったと思うことも静かに見つめ、自己の心に顧みて悪意なきを悟(さと)れば、いわゆる失敗は恥ずかしくもなければ、痛くもないことがしばしばある。自己の心の据(す)えどころこそ成敗を測(はか)る尺度(しゃくど)であって、この尺度が曲(ま)がらぬ以上は、いかなる失敗に遭遇(そうぐう)しても心に憂(うれ)うることがない、これ霊丹(れいたん)一粒(りゅう)、鉄を点(てん)じて金(きん)と成すものか。



負けた時の用心

 昔の、経験ある武士の言葉に、
「勝つ事ばかり知りて負(ま)くる事を知らざれば、害その身にいたる」
 とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背(そむ)く事あるときはかくかくすると予(あらかじ)め覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役(せんえき)にはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。孫子(そんし)も、
「兵に常勢(じょうせい)なきことは、水に常の形(かたち)なきが如(ごと)し」
 と繰(く)り返(かえ)し教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命を短(みじこ)うするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。何人(なんぴと)も生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の奮闘(ふんとう)もまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は予(あらかじ)め負けた時の考(かんが)えを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなお慎(つつし)みて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風情(ふぜい)に陥(おちい)らぬ。

勝った時には精神上に保険をつけよ

 分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン拍子(びょうし)に身代(しんだい)をふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。よいほどに儲(もう)けてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、何人(なんぴと)も知るところである。艱難(かんなん)なしに成功した例はない。艱難とはある意味においては失敗である。もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しき謂(いい)である。ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合を慮(おもんぱか)りてあるいは貯蓄(ちょちく)するなり、あるいは新事業に手を出すことを慎(つつし)むなり、あるいは繁昌に乗(じょう)じて驕奢(きょうしゃ)を極むることを矯(た)めたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき謹慎(きんしん)を加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の履歴(りれき)に徴(ちょう)しても、必ずその例に乏(とぼ)しからざるを感ずる。
 勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、「待てよ」と一歩を控(ひか)えることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。

勝つとは何を意味するか

 勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかと尋(たず)ぬると、おそらく世人(せじん)は奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど明瞭(めいりょう)なものはないと思う人が世に多い。しかし相撲(すもう)を見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる行司(ぎょうじ)さえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。世人(せじん)が決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間々(まま)ある。
 中には為(ため)にするところあって、人為的(じんいてき)形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば相撲(すもう)のごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天然(てんねん)に定まれる一定不易(ふえき)の圏(けん)でなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。「鳳(おおとり)」と「朝潮(あさしお)」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは地(ところ)を換えることもあるであろう。
 むかし淮陰(わいいん)の少年が韓信(かんしん)を侮(あなど)り韓信をして袴下(こか)を匍伏(ほふく)せしめたことがある。市(まち)の人は皆韓信(かんしん)の怯懦(きょうだ)にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々(とくとく)としたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信(かんしん)の名を知らぬ者が果たしてあるか。
負けて勝(か)つ智恵(ちゑ)の力(ちから)の強(つよ)さにはたれも感心するぞ韓信(かんしん)
 わが輩はしばしば思う、頸(くび)引きという遊戯(ゆうぎ)は前に倒れるものが負けと定(き)まっている。しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。ある狂歌師の作に曰(いわ)く、
負けて勝つ心を知れや首引(くびひ)きのかちたる人の仆(たふ)るゝを見よ
 ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に質(ただ)せば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ固(かた)いから、石が紙に勝つというであろう。
 して見れば、勝つという語の定義(ていぎ)を下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に優(まさ)る、相手より超絶(すぐれ)るの意であろう。さらばただただ人(ひと)より偉いと嬉(うれ)しがるために勝つかと問(と)わば、決して偉(えら)がるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとは吾(わ)が意を遂(と)げるなりと定義したい。

人生の勝利者

 こんなもので世の中でいわゆる勝負(しょうぶ)を測(はか)る標準は、人の実力や努力(どりょく)の標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘(ふんとう)のありさまを見れば、定めて可笑(おか)しきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から測(はか)ったならば、最も卑(いやし)むべきものとなりはせぬか。耶蘇(やそ)がその弟子(でし)に説いた言葉に、
「地上(ちじょう)にありて最大たりしものも、天国(てんごく)にありては恐らくは最小なるものならん」
 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗(しょうはい)を定める標準が追々(おいおい)違って来るかと思われる。
 この前にも述べたごとく野蛮(やばん)の社会においては腕力(わんりょく)ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩序(ちつじょ)の下(もと)に治(おさ)められ、腕力のみをもって優劣を定めることを止(や)めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法治国(ほうちこく)においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図(はか)るものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達(とうたつ)したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。
 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉(えら)い勝者である。また同じく敵(てき)と称する者の中にも種類が数多(あまた)ある。強きもあれば弱きもある。赤鬼(あかおに)もいれば青鬼(あおおに)もおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉(えら)い勝者である。時には敵とは称せずとも吾人(ごじん)の勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻子(さいし)、朋友(ほうゆう)のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服(ふく)さぬことがあれば、その不服(ふふく)の範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠正成(くすのきまさしげ)の歌に、
我(われ)にかちみかたに勝(か)ちて敵(てき)にかつこれを武将の三勝(しょう)といふ
 とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。

一時の勝利と永久の勝利

 こういう礼治的(れいちてき)社会は、まだまだ前途遼遠(りょうえん)なる今日の社会においては、勝利を得れば足れりと思う人も、単にいわゆる現代的なるをもって足れりとせば、これ一時の勝利者にして、ながき奮闘には負けるものと言わねばならぬ。なんとなれば世の中の思想は、我々一生涯(しょうがい)中にも次第に変わるものである。ことに我が国のごときは十年を一期(き)とし、おそらくは七、八年中には、思想が一変しつつあるかと思わるるほどに変化が多い。昨日の非(ひ)は今日の是(ぜ)となり、昨年の是(ぜ)は今年の非(ひ)となることは、内閣の更迭(こうてつ)ごとに起こる事実に照らしても分かるくらいである。
 またいわゆる思想に用いらるる用語を調べてみても、五年後には字書(じしょ)に現れなかったことが、こんにち日々の新聞に見ることを考えれば、今後五年にはいかなる新熟字(しんじゅくじ)、新思想が世に行わるるかは想像(そうぞう)出来ぬ。よし新熟語が必ずしも新思想を表さなくとも、旧思想が復活(ふっかつ)することであるとするも、一たび死んだ思想が再び蘇生(そせい)し来たりて人心を動かすのであることは明らかである。

勝敗は長年月を経て始めて決定す

 僕はつねに失望する人を慰(なぐさ)めんとするとき、あるいは自(みずか)ら失望し落胆(らくたん)せんとするとき、みずから励まして、「マア十年待て」といっている。ついこの間もしばらく会(あ)わなかった友人が来訪(らいほう)し、こういうことをいった。
「僕の友人で一時世にもて囃(はや)され、名望(めいぼう)一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕を褒(ほ)める声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。二、三ヵ月経(た)てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には犯罪者(はんざいしゃ)のごとき批評(ひひょう)を受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサイクル(循環期(じゅんかんき))は十年は出ない。七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき傾向(けいこう)が現れんとしつつある」
 と。これは尋常(じんじょう)の人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非常の人物であるならば、彼に対する誤解(ごかい)も五年七年では済(す)むまい。あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。富士山(ふじさん)の測量(そくりょう)はいまだ綿密(めんみつ)に出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも容易(ようい)に凡人(ぼんじん)の見分け得るものでない。
 普通の人についてもその真価は即座(そくざ)に決することは出来ぬ。まずは七、八年はかかる。むかしの人のいったごとく人生は棺(かん)を覆(おお)うて始めて定まるものである。しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。真の力がより以上の真の力のために圧迫(あっぱく)されて始めて負けたということになる。その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の屠者(としゃ)が韓信(かんしん)に勝ったといって得々(とくとく)たると同じである。

標準高き勝利

 かく思うと負けたことを遺憾(いかん)とするははなはだ愚(ぐ)なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的(じんいてき)、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷(きず)つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招(まね)くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。
 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快(こころよ)しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善(よ)かれ悪(あ)しかれ、金さえ儲(もう)ければ勝利者と思う風(ふう)がある。
 今日普通に成功者と称する輩(やから)の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者(はいぼくしゃ)と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬(ねた)んで皮肉(ひにく)を吐(は)く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能(よ)くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損(えそこ)なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避(さ)くるため心ならずも、標準(ひょうじゅん)の決勝点を引下げ、潔(いさぎよ)からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨(かちどき)を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意(ふほんい)とするにいたる。しかし誰人(たれびと)が不正の名利(めいり)を抱(かか)えて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人(せじん)に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧(かえり)みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲(え)た名利すなわち勝利は、己(おの)れの本当の心に背(そむ)いているに違いない。
 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂(と)ぐるの謂(いい)であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。

勝敗の決勝点を高きに置け

 わが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を儲(もう)けるのも儲ける道を純白にし、卑怯(ひきょう)な方法にて儲くれば、これ奮闘(ふんとう)の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台(ふみだい)としたり甚だしきは友人までも売って位地を占(し)めんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北(はいぼく)なりと心得(こころえ)、よし名を挙げるにしても、卑劣(ひれつ)な賤(いや)しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚(どうりょう)友人が潔(いさぎよ)からざる手段(しゅだん)を弄(ろう)して巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声(めいせい)を海外に轟(とどろ)かすとも、さらに恨(うら)むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下(ひげ)して小さくなる必要もない。
 物質的利益に超脱(ちょうだつ)し、名誉、地位、得喪(とくそう)の上に優游(ゆうゆう)するを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯(じぎ)に等(ひと)しきものとなる。真の勝利者は第一己(おの)れなる者を全然破り、己れに克(か)ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗(しょうはい)などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北(はいぼく)のために歎(なげ)かず、心つねに平々坦々(たんたん)として、定めし幸福なることであろう。
 孔子(こうし)のいわゆる、
「君子(くんし)は坦(たいらか)にして蕩々(とうとう)たり、小人(しょうじん)は長(とこしなえ)に戚々(せきせき)たり」
 とはこの心をいうならん。これで基督(キリスト)は磔(はりつけ)になりながら、
「われ世(よ)に勝(か)てり」
 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。



表と裏とは物の存立(そんりつ)条件

 人生の言葉はとかく相対的になる。たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、表(おもて)も裏(うら)も、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。それゆえに口外(こうがい)に放(はな)つ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも間々(まま)ある。私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという印象(いんしょう)を受けるものもあり、はなはだしきは物(もの)いう花と早合点(はやがてん)する人さえある。言葉尻(じり)を捉(とら)えたり揚足(あげあし)を取る人ならば、花を好むというは、「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」の華(か)を去り実(じつ)に就(つ)くというご趣旨に反(そむ)く、違勅(いちょく)の逆臣(ぎゃくしん)なりなどいうこともあろう。世の中には実際この筆法(ひっぽう)をもって人を罪(つみ)せんとするものがたくさんある。
 また普通に甘党(あまとう)といえばいわゆる下戸(げこ)を指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀遣(づか)いする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、上戸下戸(じょうごげこ)を兼ぬる人は決して少なくない。こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。
 およそいかなる物でも物として表裏(ひょうり)なきものはあるまい。いかに薄(うす)き平面にても苟(いやし)くも実物である以上は必ず表と裏とがある。表裏なき表面は、ただ幾何学(きかがく)上に現れた理想的の形たるにとどまる。幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針の尖(さき)でさえも一分(ぶ)一厘(りん)の何分(なんぶん)の一というように必ず量(はか)り得る大きさを有するものである。線にしてもまた長さのみありて巾(はば)なしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。ましてある面積を有する平面を備(そな)うるものは必ず両面がある。雁皮紙(がんぴし)のごとき薄(うす)い紙でも表裏はある。綿衣(わたいれ)、袷(あわせ)はいうまでもなく、単衣(ひとえ)さえも表裏がある。独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。人体においても表と裏とがあって脊(せ)と胸とになっている。ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。

表裏に善悪の区別を付する誤解

 しかるに表裏(ひょうり)という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉(とら)われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非(ぜひ)、曲直(きょくちょく)、善悪(ぜんあく)の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤(あやま)ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢(きたな)い物なり悪き物なりを隠蔽(いんぺい)してあるものとみなす。また陽(よう)といえばよかれ陰(いん)といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽(いんよう)の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。
 実際(じっさい)世間(せけん)の慣(なら)わしとしてはいかにも表門(おもてもん)をりっぱにし裏門(うらもん)を粗末(そまつ)にする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽君子(ぎくんし)なりと判断するは酷(こく)に過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別を設(もう)くるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。
 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。否(いな)区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。日々(ひび)得意先を回る魚屋(さかなや)、八百屋(やおや)、豆腐屋(とうふや)の人々の中に裏門を通用する際、かく粗末(そまつ)なる木戸(きど)をくぐらすは我々を侮辱(ぶじょく)するなりと憤(いきどお)る民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫末(ごうまつ)もない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。板台(はんだい)を担(にな)い笊(ざる)を携(たずさ)えて出入する者が一々門番に誰何(すいか)され、あるいは門を出入するごとに鄭重(ていちょう)に挨拶(あいさつ)されるようになれば、商売は煩(うるさ)くなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば簡便(かんべん)なる裏門を設(もう)け、面倒(めんどう)な礼を省(はぶ)くのが相互の便利とするのではあるまいか。

人生に表裏あるはむしろ当然

 人間の生計あるいは生活あるいは品行(ひんこう)においていわゆる表裏(ひょうり)(ことにいわゆるなる文字を使うことに注意を促(うなが)したい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨励(しょうれい)せんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非難(ひなん)する中には、往々(おうおう)にして非難に値(あたい)せぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩物(しおもの)と香(こう)の物ぐらいで済(す)まされるが、突然の来客でもあれば、急に刺身(さしみ)とか茶碗蒸(ちゃわんむ)しとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。
 また家庭にありて一家団欒(だんらん)している際は、寒ければ綿袍(どてら)を着ても用が足り、主人も気楽(きらく)なれば細君(さいくん)も衣服の節倹(せっけん)なりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋付(もんつき)に取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその態度(たいど)を改むることは、強(し)いて偽君子(ぎくんし)の行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿袍(どてら)を着て行き、夏の日に真裸(まっぱだか)で行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることを弁(わきま)えぬので、かえって世の秩序(ちつじょ)を紊(みだ)すものである。
 世にはとかく、天真爛漫(てんしんらんまん)などと称し、世に行わるる作法(さほう)に反するをもって快(こころよ)しとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振舞(ふるま)って得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に捉(とら)われたるより起こる誤解であって、幽明(ゆうめい)の区別を論ずる者が、幽(ゆう)とか暗(あん)とか称すれば、それだけで悪感をいだき、明(めい)といえばそれだけで善良と信ずるに等(ひと)しい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟子(もうし)のいわゆる「夜気(やき)」は暗黒の賜(たまもの)である。古(いにしえ)の学者の言に、「好悪(こうあく)の良(りょう)は夜気(やき)に萠(きざ)す」と。

人の性質上の表裏

 しからば表(おもて)は礼儀(れいぎ)、裏(うら)は礼を省(はぶ)いた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。聖賢(せいけん)と言わるる人は家にありて、言葉遣いも苟(いやし)くもせず、「男女七歳にして席(せき)を同(おな)じゅうせず」の主義で、七歳以上は自分の娘(むすめ)でも同座せず、しかして早朝より裃(かみしも)をつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不憫(ふびん)なものであり、また父たるその人もゆるりと寛(くつろ)ぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷(おもに)を荷(にな)う人生において、かかる態度は重荷(おもに)の上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無礼(ぶれい)不儀(ふぎ)なりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。
 人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の事柄(ことがら)と異って、一も二もなく卑(いや)しきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽君子(ぎくんし)なりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。
 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば無骨(ぶこつ)一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追分(おいわけ)を唄(うた)う、これも一つの表裏ではあるまいか。また髯(ひげ)もやもやの鹿爪(しかつめ)らしき爺(おやじ)が娘の結婚の席上で舞を舞いて祝(いわ)うことがある。無骨(ぶこつ)一偏の者が測(はか)らぬ時に優(やさ)しき歌を詠(うた)うとか、石部金吉(いしべきんきち)と思われた者に艶聞(えんぶん)があるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して矛盾(むじゅん)でない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨励(しょうれい)したいくらいなものである。

悪い意味における表裏

 我々が各自の友人を一人ずつ挙げて考えたならすぐに両面あることを悟るであろうと思う。表と裏とは思想上においては反対と思われるも、実際においては同一物なりともいえる。反対と思えば表のなすことを裏で取消したり、裏の性質を表で消したり、相互に利益を異(こと)にするように聞こゆれども、そういうように意味を取ると、とかく性質が悪(あし)ざまになりて、表向きでは一滴(てき)の酒を飲まぬと言いながら、裏面ではこっそりとちびちび飲む。外では勉強(べんきょう)に見せて内では怠(なま)ける。表向きではすこぶる謹厳(きんげん)の風(ふう)を装いながら、裏面ではすこぶる放蕩(ほうとう)する。あるいはまた表面節倹(せっけん)で裏面濫費(らんぴ)する。
 こういう意味において表裏の差を生ずるはもちろん望ましからぬことで、いわゆる狼(おおかみ)が羊(ひつじ)の皮を被(かぶ)るがごときもの、俗にいう猫(ねこ)を被(かぶ)るのである。これは前にいった一家に表門と裏門とある例とは事情を異(こと)にしている。つまり身分不相応(ふそうおう)に力を表門に注(そそ)ぎて美麗(びれい)宏壮(こうそう)に築き上げ、人目を驚かし、しかして裏門は柱が曲り、戸が朽(く)ち、満足に開閉することも出来ず、出入りにも危険(きけん)ならしむるがごときものである。これでは裏門においてかえって人に迷惑(めいわく)を与うるものである。表門にのみかく力を用うることは悪い意味における表裏といわねばならぬ。
 近ごろ我が国民全体が激昂(げきこう)したことは、表向きでは愛国を口にし、一身の名利などは毫(ごう)も眼中にない、否(いな)むしろ名利を犠牲(ぎせい)に供して国防の充実を計るという看板をかけた人が、裏面においてはこれによりて窃(ひそか)に私腹を肥(こや)すことがあったからである。かくのごとき事こそ悪い意味における表裏の最もはなはだしいものである。
 またある党派のために一身を捧(ささ)げるようなことを外部に標榜(ひょうぼう)しながら、内部においてはひそかに※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)(かん)を反対の党派に通ずることがあれば、これまた悪い意味における表裏のはなはだしきものである。こういうような実際矛盾(むじゅん)している表裏的の事柄と、個人々々の性格なりあるいは生計なりにおけるいわゆる矛盾とは、よくこれを判別しなければ、人を判断するにおいて正鵠(せいこう)を失し、混乱を免(まぬか)れぬ。

表裏の善悪を判断する標準

 しからば表裏という文字を仮りに用うるとして、善き意味の表裏と、悪き意味――というのが過言であるならば、少なくとも自然的表裏とは、何を標準として区別すべきか。僕はこれは表裏を備(そな)うる人の意志によるものであると思う。僕のここにいう意志とは天性(てんせい)というにあい対して用いたのである。ただ堅(かた)い一方と思えるものが案外弱いところもあるというのは天性(てんせい)両面を備うるのである。もしこの同じ人が自己のやわらかいことを仮りに他人を欺(あざむ)かんがために隠(かく)し、すなわち悪意をもって硬骨(こうこつ)を衒(てら)ったならば、これ悪い意味における表裏の初段である。
 しかしもしこの人が己(おの)れの弱点を制せんとする意志に基づいて、これを隠(かく)しあるいは包むとすれば、さほどに咎(とが)むべきことではないと思う。むしろ場合によりては褒(ほ)むべきで、消極的修養(しょうきょくてきしゅうよう)の努力(どりょく)であると思う。元来(がんらい)普通の人はすべて幾分かの弱点(じゃくてん)を備うるものである。この弱点に打ち克(か)たんか、あるいはこれを包(つつ)まんとするは、むしろ褒(ほ)むべき努力であって、その人が果たして包みきれるか制しきれるかは別問題とし、ともかく己(おの)れの弱点を意識し、ために過失に陥(おちい)らざらんと心づくことは諒(りょう)とすべきことである。こういう目的であれば、表裏があっても、たいして咎(とが)むべき必要なきも、一歩を進めて、裏面あるのに、なきがごとくして相手を欺(あざむ)くの意志あれば、悪い意味における表裏の罪の成立する時である。
 しかしその当人が果たして欺(あざむ)く意志であるかどうかは容易(ようい)に判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案外(あんがい)の驚きに打たれて、その人が故意(こい)に我を欺(あざむ)けりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、欺(あざむ)かんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落度(おちど)で、彼はことさらに隠(かく)しもせねば包んでもいなかったが、吾人(ごじん)がそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。着ている人は裏につぎはぎしていると吹聴(ふいちょう)することもなく、また他人にそう思わせようとも力(つと)めず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に優(まさ)る裏をつけているだろうと推量(すいりょう)し、ことさら尋(たず)ねもせずに独り合点(がてん)している間(ま)に、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を欺(あざむ)いた、表裏のはなはだしい奴(やつ)だと詈(ののし)る者を多く見る。先方が欺(あざむ)いたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに一口(ひとくち)にいえば悪い意味における裏面の有無(うむ)を判断する者は当事者(とうじしゃ)一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。
 近ごろ世間に海軍とやら本願寺(ほんがんじ)とやら何々党(なになにとう)とやらに関して、種々(しゅじゅ)面白(おもしろ)からざる表裏ばなしを聞くが、罪(つみ)は悪(にく)むべきも、その関係者の人については、慈悲(じひ)の心をもって当たりたい。いわんや吾人(ごじん)は平素(へいそ)交(まじ)わる人々について、図(はか)らざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも表(おもて)と裏(うら)と、外(そと)と内(うち)と、皮(かわ)と肉(にく)との別あるを心得ておきたい。



好き嫌(きら)いと善悪とは違う

 子供が事柄(ことがら)について判断を下すを見るに、事の曲直(きょくちょく)、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き嫌(きら)いという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果(いんが)でありますか、これが私の嗜(たしな)みです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠慮(えんりょ)斟酌(しんしゃく)する言葉に過ぎぬのである。
「何(なん)の因果(いんが)で」とか、「前世(ぜんせ)の約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、己(おの)れの嫌(きら)うものこそ善(ぜん)である、またその順序を顛倒(てんとう)して善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主観的作用(しゅかんてきさよう)と事物(じぶつ)の客観(きゃっかん)的価値(かち)と一致しないゆえである。この傾向(けいこう)は決して独(ひと)り婦人子供のみに限らない。大人(おとな)にもあり、しかも学者または識者(しきしゃ)にもあることである。自然といえばそれだけで済(す)むようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また己(おの)れをも傷つける危険がはなはだ多い。
 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来(きた)す憂(うれ)いはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経(へ)たり、あるいは若い者でも少し思慮(しりょ)を深く用うる者であれば、この過(あやま)ちに陥(おちい)ることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも唯々諾々(いいだくだく)と、世の風潮(ふうちょう)によるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷(おしうつ)るのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の安寧(あんねい)はそれで持って行く。
世の中の人に心を合せけん水と魚(うを)とを見るにつけても
 しかるに何事についても消極的に世に処(しょ)すれば、どれほど広き世間もただただ狭苦(せまくる)しくなるのみで、
世の中が四尺(しゃく)五寸(すん)になりにけり五尺のからだ置き所なし
 と嘆(なげ)くにいたるであろう。

好(す)き嫌(きら)いで人を判断する過誤(かご)

 刺身(さしみ)の嫌(きら)いな者は医師よりいかに刺身(さしみ)の消化よきこと、滋養分(じようぶん)の多きことを説かれても、何とかけちをつけて毒でもあるかのごとくけなす。これに反し酒の好きな者は医師がいかにその害を説くも、百薬の長(ちょう)なりと頑張(がんば)って聴かぬものが多い。心の好(す)き嫌(きら)いと物の善悪を混同(こんどう)する者は実際を見る明(めい)を失(うしな)う。
「凝(こ)っては思案に及ばず」というが、なにか一つを好むと、その好きなものの長所のみが映(うつ)って短所は目に入らぬ。この好き嫌いをもって物を判断する標準にすると、とかく曲直(きょくちょく)の分別(ふんべつ)ができなくなり、つまらぬことに争い、大きなことにも争いを起こす。はなはだしきは政治の問題についても有力なる某(ぼう)政治家は嫌いだと思えば、その人の政見がいかに正しくともこれを誤(あやま)れるがごとくに批評し、たまたまこれを攻撃(こうげき)する理論が発見されなければ、説(せつ)そのものは善きも、その説を来(きた)す動機がはなはだ卑(いや)しいとか何とかいって、説そのものをも卑(いやし)むようになる。ある外人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったことがある。

測る物体と測る標準とが違う

 わが輩はつねにこう信ずる。この世の中を渡るに嗜好(しこう)はなるたけ人々により別(べつ)なるが面白(おもしろ)けれども、善悪の標準(ひょうじゅん)は一様でなくてはならぬと。この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。好き嫌いを測るものは道徳的物差(ものさ)しでない。しかるに好きなものは善い、嫌(きら)いなものは悪いというように、愛憎(あいぞう)をもって曲直(きょくちょく)を決することは、ちょうど物の軽重を計るに差金(さしがね)を用うるがごとくである。長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。測る道具と測る品物が往々にして異(ことな)るので、この二者を混同するとつまらぬことに争(あらそ)いが起こり、互(たが)いに不愉快(ふゆかい)の念を生(しょう)ずるにいたる。ことに人に対して愛憎(あいぞう)の念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することを慎(つつし)まねばならぬ。
 僕のごときも今日まで幾度となくこの過(あやま)ちを繰り返し来(きた)ったもので、今にしてこれを顧(かえりみ)ると済(す)まぬことをしたと思うことがたびたびある。ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思い做(な)した。しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部始終(しじゅう)不正のように見ゆる。また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことを悪(あし)ざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、矯(た)むべき人情、怪(け)しからぬ人情である。人は宜(よろ)しくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう超然(ちょうぜん)たる人情に達せねばなるまい。
 甲が乙を評するにいろいろの悪(あ)しき点を述ぶるのを聞くとき、その批評の過(あやま)てることを一々指摘し説明しても甲の偏見(へんけん)はなかなかになおるものでない。なにゆえかといえば、批評が客観的(きゃっかんてき)であるものならば矯正(きょうせい)される望みもあるが、多くは主観的(しゅかんてき)で批評する人が始めより曲解(きょっかい)する精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。
 たとえば某(ぼう)の衣服はよくないという。もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。赤は派手すぎると悪くいう。白くすれば幽霊(ゆうれい)のようだと非難する。黄色にすれば坊主(ぼうず)に似たりとか、紺色(こんいろ)にすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心が矯(た)められぬ間は非難が尽きないものである。

反対説にも耳を傾ける度量(どりょう)を養え

 衣服とか外形上のことならば、単に非難する人の心を不愉快ならしめ、非難される人の心を不愉快にするだけにてすむが、学術あるいは政治上の説が違う場合のごときは、自分の気に入りたる説なれば、大いに怪しい点があってもこれを是(ぜ)とし、自分が承引(しょういん)しかねる場合にはまったくこれを異論なるかのごとく咎(とが)むるは、その害の及ぼすところ広くかつ大きい。
 願わくは説が違ったときは、はてな、己(おの)れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪(せいじゃ)の判断を下す前に一応は取調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。少しく自分の説と異なればただちに曲学阿世(きょくがくあせい)だとか、俗論(ぞくろん)だとか売国的説だとか異端(いたん)だとか議論はそっちのけにして、論者の動機やら人格までをかれこれ言うようなことは、度量(どりょう)の狭きを示すと同時に、進歩する余地なきことを自白するのである。
 前にもいった通り、説は成るたけ違うのが面白い。今日まで学問の進歩は種々の異(こと)なった説から、互いに討議(とうぎ)し批評して得た結果にほかならぬ。昔は異説あると宗教の教えに背(そむ)くとかあるいは国家に危険なりとして圧迫を加えた。その時代は人知の最も進まぬときである。ちょっと聞いて自分の心にはなはだ嫌(いや)に思う説でも、一応は聞くだけの度量を養(やしな)うことを力(つと)めたい。さらに力(つと)めたきことは自分の嫌(きら)いと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。
 昔より私(わたくし)なしという言葉は公平なる態度を現すに用いられるが、無私(むし)というは狭い量見(りょうけん)のない、己(おの)ればかりが正しいのでない、また己(おの)れの利益のためでないという意味である。たとえば孔子(こうし)が『春秋(しゅんじゅう)』を書くに私心(ししん)をはさまなかったとは、『春秋』に出る人物を批評するに好きだから褒(ほ)める、癪(しゃく)にさわるから悪く書くというのでなく、好悪(こうお)は論外として、自分と性質は違うとも、正しい者は正しいと公平な判断を下したからである。

狭き己(おの)れの好(す)き嫌(きら)いで世に処するは危険

 僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、
「甲君、君は丙君と仲がよいか」
 と聞く。甲は、
「別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから」
 といえば、乙はやや驚いた顔して、
「何のためだろう、丙はあちこちで君の悪口(わるくち)を言い歩くよ」
 と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意を懐(いだ)かぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは合点(がてん)がゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、二心(ふたごころ)あるもので、僕に向かってはよい顔しながら、蔭(かげ)にまわると悪口する、はなはだ卑(いやし)むべき人であると思って以来、丙を見てもロクに挨拶(あいさつ)しなくなった。ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて翻然(ほんぜん)として悟(さと)るところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかし己(おの)れを嫌(きら)っている。己(おの)れとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。
 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな者でも正しく見えたり、嫌(いや)な者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。
 せまき己(おの)れの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだに憂(う)き世の中がいっそう憂(う)くなって、人を恨(うら)み己(おの)れを恨み、天を怨(うら)み、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一生(しょう)を送るようなものである。



愉快なる台湾旅行中の不快

 しばしば台湾(たいわん)を旅行するに、その進歩の顕著(けんちょ)なるに驚く。昨年は宿屋(やどや)もなく、道路も悪く、旅行に不便(ふべん)であったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるという風(ふう)で、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。俗諺(ぞくげん)にもある、
「可愛(かわい)い子には旅をさせよ」
 というは、旅は辛(つら)い、難儀(なんぎ)である、可愛(かわい)い子にはこの辛苦(しんく)を甞(な)めさせ、鍛錬(たんれん)させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦(しんく)という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日(こんにち)は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出(で)かけ、老人は保養(ほよう)に行き、壮者は新婚旅行する。
 台湾の旅行も愉快であるが、その趣(おもむき)は他の旅行とちがっている。従来、台湾に一種の興味を有し、年々渡台(とだい)するものは、行く度(たび)ごとにその進歩が著(いちじる)しいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。しかし強(し)いて何か不愉快はなきやと尋(たず)ねらるれば、やはり往昔(むかし)、東海道を旅行した人が、雲助(くもすけ)のために迷惑(めいわく)を受けた――程度は違うにしても――と同じように、轎夫(きょうふ)が分からぬことをいって賃銭(ちんせん)を強請(ねだ)ったり、この旦那(だんな)は重いとか、荷(に)が多いとか、轎(かご)の中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御免(ごめん)とか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。言語が通ぜぬから、手真似(てまね)や顔色やにて不快の念を表すが多い。これが一番不愉快(ふゆかい)に感(かん)ずることである。

余のために轎(かご)を担(かつ)いだ壮丁(そうてい)の好意

 中国式の轎(かご)は不潔(ふけつ)ではあるが、読書することもできれば、眠ることもできて、僕には最も都合(つごう)よいが、轎夫(きょうふ)のがやがや騒(さわ)ぐために大いに楽しみの程度を低(ひく)められる。ことに天気が不良の場合に、轎夫(きょうふ)が絶対に働かないで、途中に轎(かご)を置き去りすることがある。これは独り台湾においてのみならず、朝鮮にもあると聞くが、その不快と心細(こころぼそ)さといったらない。
 しかるに数年前、僕は台湾旅行の際(さい)同じ場合に逢(あ)って、行くにも帰るにも動きのつかなかったことがある。警官に依頼し轎夫(きょうふ)の雇入(やといいれ)を命令的に誘導(ゆうどう)的に周旋(しゅうせん)してもらったが、しばしは一人の応ずるものもなく、雨曝(あまざら)しになって進退谷(きわ)まった。この時、村の青年が三、四人、みずから進み出て、
「私どもが担(かつ)ぎましょう。もっとも轎夫(きょうふ)としては御免(ごめん)ですが、壮丁(そうてい)としてなら参りましょう」
 といった。というは、轎夫(きょうふ)として担(かつ)げば、相当の賃銭(ちんせん)を受ける一つの商売である。しかし壮丁として行くのは公利公益のために力を尽すのである。職業として轎(かご)を担(にな)うのでなく、また賃銭(ちんせん)を要求するためでもない。したがって仮りに賃銭を払われてもこれを受くるをいさぎよしとせぬ。ただ官職を帯(お)びて巡廻するものが、轎夫(きょうふ)なきために一歩も進めなくては公務のために憂(うれ)うべきことである。ゆえに公務のために自分らの労力を提供したのである。
 かかることはどこでも稀(まれ)なることである。台湾においてもまた稀(まれ)であるから、ことに強く僕の感激を惹起(ひきお)こさしめた。

物の真価の誤れる計算法

 ローエルの有名なる詩中に、
「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。生(う)まるるときは産婆(さんば)に手数料を払い、死すときは葬儀屋(そうぎや)に桶代(おけだい)を払い、死後遺産(いさん)を譲(ゆず)れば租税(そぜい)を払う、何ものか払わで済(す)まさるべきものかある。ただ自然の美のみは価(あたい)なしに得らるる恩恵(おんけい)である。三春(しゅん)の長閑(のどか)なる、咲く花に囀(さえず)る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者(ふしゃ)も貧者(ひんじゃ)も共に享(う)けて共に喜ぶ権利は異(ことな)らない」
 と説き、さらにまた、
「この世の悪魔(あくま)の店にあるものは何ものもみな相応の価(あたい)があって売買(ばいばい)されるが、価なしに得らるるものは独り神(かみ)のみ」
 と叫(さけ)んでいる。実にその通りである。しかし情(なさけ)ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報(むく)いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄(のうずい)に深く染(し)み込(こ)んでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐(いだ)くようになった。ちょうど我々骨董品(こっとうひん)に何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤(きせん)の程度はさらに分別つかぬが、道具屋(どうぐや)に欺(だま)かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞留(たいりゅう)して、教師を雇(やと)いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件(くだん)の教師に、
「貴方(あなた)はスペイン語が読めるか」
 と質(ただ)したとき、
「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古(けいこ)するに何百フランを費(ついや)した」
 と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一場(じょう)の笑話であるが、活世界(かつせかい)においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤(そろばん)を採(と)るものがたくさんある。折々老人などが悴(せがれ)の教育のために何千円費(ついや)したというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。
 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕(しゅわん)人格を含むような印象を与うる。この事は何人(なんぴと)にもあることであるが、だれもまた快(こころよ)く思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。

報酬以上に務むる教育者

 金銭を標準(ひょうじゅん)として人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、世人(せじん)はややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して差支(さしつか)えないというのでない。他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。我が国の小学教師の俸給(ほうきゅう)は非常に低廉(ていれん)で、平均十五円内外(ないがい)である。
 お互(たが)いの子弟(してい)を依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。いわば霊魂(たましい)の教育をお頼みするのである。かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。つい乳母(うば)や子守を頼むような気になる。しからば教師たるものは何を標準として自己を律(りっ)するか。自分は実に薄給(はっきゅう)でありながらよく働く、俥夫(しゃふ)さえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。低いものである。したがって自分は子守か乳母(うば)の真似をしていればよいと思うか、あるいは自分の預(あずか)れるものは日本国を負(お)うて立つ後日(ごじつ)の国民である。中には貴族の子もあり富豪(ふごう)の愛嬢もあり、また学者の後裔(こうえい)もある。これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向顧(かえり)みないでやるべきか。
 僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を忌憚(きたん)なく吐(は)いた。また教師の中には悪口に値(あたい)するものも数多(あまた)ある。しかしだんだん彼らと交(つき)あってみると、実に村夫子(そんぷうし)の中に高い人格を備(そな)えた人が、到(いた)る所にいるのを見て、心窃(こころひそか)に喜んでいる。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが報酬(ほうしゅう)以上の務(つと)めをなすからである。

職業に当たる人の三段の区別

 元来(がんらい)いかなる職業(しょくぎょう)にありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬(ほうしゅう)だけの仕事をせぬすなわち曠職(こうしょく)の人。次は報酬に値(あたい)するだけの務(つと)めする人、いくら気(き)づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬(ばしゃうま)的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為(な)すものにあらざれば、払った金(かね)も多過ぎるように思う。
 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記(しょき)を雇(やと)ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人(だれ)が定(き)めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定(き)められるかと尋(たず)ねれば、その標準ははなはだ漠(ばく)として当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干(じゃっかん)で某所(ぼうしょ)に務めているから若干(じゃっかん)というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入(い)れぬ。経済学者に言わすれば、これ需要(じゅよう)供給(きょうきゅう)の然らしむるところと、大雑把(おおざっぱ)に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌(は)めると、人の問題は死んだ物件(ぶっけん)の需要供給とは大いに異(ちが)う。
 苟(いやし)くも人格を有するものには、経済学の教(おし)える労銀論(ろうぎんろん)は決して当(とう)を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。
「僕は彼と同じく見られて困(こま)る」
 とか、
「彼らの仲間と同等視(どうとうし)されては迷惑(めいわく)である」
 とかいうことはしばしば聞くところである。
 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴(ふいちょう)したがるものがある。自分の学力は某(ぼう)と同じであるが、自分の字は子供のときより妙(みょう)に褒(ほ)められたといって筆蹟(ひっせき)を誇り、あるいは自分の交際術(こうさいじゅつ)においては、彼らに比べられては困る、硬骨(こうこつ)なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣(おと)らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴(ふいちょう)し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。

報瓊(ほうけい)の志

『詩経(しきょう)』に、
「我(われ)に投ずるに木瓜(もっか)を以(もっ)てせば、之(これ)に報(むく)ゆるに瓊※(「王+居」、第3水準1-88-3)(けいきょ)を以(もっ)てせん」と。
 瓊(けい)も※(「王+居」、第3水準1-88-3)(きょ)も、玉(たま)の名である。人が我に贈(おく)るに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる品(しな)をもってすべしとの意で、かえって出来難(がた)きことながら、この句は世を渡るに常に心得(こころう)べきことである。
 折々(おりおり)新聞に伝えられる某(ぼう)学者は何千円の俸給(ほうきゅう)を取るが、毎日教場(きょうじょう)に臨(のぞ)み授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字引(じびき)を引いてもちょっと分かるまい、俺(おれ)が解(と)いてやってもよいが、しかしそれは俺(おれ)の月給では勿体(もったい)ない問題である。俺(おれ)以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。俺(おれ)の月給が三千円となれば答えるという。
 これは一場(じょう)の戯談(じょうだん)に過ぎぬが、ともかくそういう考えが何人(なんぴと)にもある。もちろん今述べたごとく、露骨(ろこつ)なる形式に現れなくとも、如何(いか)ほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事を為(な)すにも報酬(ほうしゅう)だけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣等(れっとう)なる一部なる欲(よく)が入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、「欲(よく)と二人(ふたり)で※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)(かせ)ぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、二人(ふたり)※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)(かせ)ぐのでなく、いわば欲(よく)のみ※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)(かせ)いで自分は何もせぬようなものである。
 極(ご)く冷淡に事務に従事する人でも、親切に愛嬌(あいきょう)または好意を持つと持たぬので自(おのずか)らその務めの捗(はかど)りも違う。まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの温味(あたたかみ)があって、始めて完美(かんび)するものである。してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の霊魂(たましい)の一部であって、金銭で酬(むく)いるわけに行かぬ。すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬に値(あたい)するものと思う。
 とかく献身(けんしん)とか犠牲(ぎせい)とかいうと、いかにも高尚(こうしょう)に聞こえ、とても我々凡人(ぼんじん)の及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。五十円取る人が七十円の仕事を遂(と)ぐれば、二十円は俸給以上の働きである。これを換言(かんげん)して説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ犠牲(ぎせい)にし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。
 ただ、「己(おの)れを捨(す)つるには、その疑(うたが)いを処するなかれ。その疑いを処すればすなわち捨(しゃ)を用(もち)うるの志(こころざし)多く愧(は)ず。人に施(ほどこ)すにはその報(ほう)を責(せ)むるなかれ。その報(ほう)を責むれば、施すところの心を併(あわ)せて、ともに非(ひ)なり」。

報酬(ほうしゅう)的思想なき夫婦の関係

 人と人との交際(つきあい)に趣味のあるのとないのとは、金銭や物件(ぶっけん)で差引勘定(さしひきかんじょう)の出来ないところにある。いわゆる商売以外のところにある。しばしばいうことだが、世の中は法治国(ほうちこく)である、法律で治まるというものもあるが、世の中は法律だけで治まるものでない。法律以外の関係があればこそ、人間らしい生活が出来る。
 英国の一紳士(しんし)にしてながく日本に滞在し、日本の婦人を妻とせる人がすこぶる日本贔屓(びいき)で、種々の著述(ちょじゅつ)もして日本を世界に紹介(しょうかい)した。さて数年前、有力なる某(ぼう)外人が外国の有力な新聞に一書を寄せて、外国人と日本人との雑婚を論難(ろんなん)し、中にもっぱら夫婦間の法律上の不備ある点を述べて、財産の監理権(かんりけん)あるいは遺産(いさん)に関する条文を説いたに対して、この紳士が答えて長文を寄せた。
 その最後の句において今まで述べたことは某に対する法律論に過ぎぬが、「他の人はいざ知(し)らず、余(よ)が日本の婦人を妻とする理由は男女同権論とか財産権が如何(どう)とか、こういう水臭(みずくさ)い関係より偕老(かいろう)の契(ちぎ)りを結べるにあらず、夫婦間の関係は法律以外に属するものが多い。法律関係をまっとうするために同棲(どうせい)するものは真の夫婦にあらず」と。
 この言を味(あじ)わうと夫婦間の親密とか貞操(ていそう)なるものは、自分ら以外の者のほとんど知るべからざるものである。その間の務めは報酬(ほうしゅう)なしに、あるいは法律観念なしに行われる、すなわち温(あたた)かき愛情より溢(あふ)れ出たもので、朝夕(あさゆう)この間の関係をまっとうせんがために、こうすれば法に触(ふ)れる、ああすれば「民法」何条に差支(さしつか)えないかといっていれば、一家存在の基礎(きそ)がどうなるであろう。またよしかくのごとく冷淡に法律的制裁(せいさい)のみによりて動くほどに堕落(だらく)しなくとも、夫婦間に報酬(ほうしゅう)的思想をもって交(つき)あったとしたら、その間にいかなる社会が出来るであろうか。

報酬を求むる手段としての務(つとめ)

 僕の知れる某(ぼう)貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑(ていしゅく)をもって称(しょう)せられているが、あるとき僕に、
「世間の人は芸妓(げいぎ)をたいそう卑(いや)しみ、悪く言いますが、私は芸妓(げいぎ)よりも卑(いや)しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸妓(げいぎ)はお世辞(せじ)を売品(ばいひん)とし、彼方此方(あなたこなた)に振りまき、柔(やさ)しいことをいうて、その報酬(ほうしゅう)にポチを貰(もら)おうとするが、彼らは明(あから)さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。欺(だま)される人は、招牌(かんばん)見ないで店に飛び込(こ)むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞操(ていそう)を招牌(かんばん)にかけ、むろんポチだの報酬だのを夫(おっと)より受くべきはずはないが、しかし随分それを強請(ねだ)ろうと思い、衣服を買って貰(もら)いたいがために、心にもないことを夫(おっと)に述べて目的を遂(と)げる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺(あざむ)くもので、神仏(しんぶつ)の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣(おと)ったものと思われましょう」
 といわれたが、なになにの報酬(ほうしゅう)を得るがために、事を為(な)すくらい卑(いや)しいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏(かんり)でも、月給を得んがために、礼を貰(もら)わんがために、ボーナスに与(あず)からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖人(せいじん)君子(くんし)の集会でない、否(いな)、十人中九人までは小人(しょうじん)である。与うるに利(り)をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互(たが)いにその積(つも)りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。

報酬以上の務めの真義

 各自の職務には分限(ぶんげん)があって、その範囲(はんい)を脱(だっ)するをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手腕(しゅわん)を揮(ふる)わんとしても職権(しょっけん)以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。
 職務の分量に止(とど)まらずして職務の品性(ひんせい)をよくせよというのである。十貫目(かんめ)の荷物(にもつ)を荷(にな)うものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっとも荷(にな)っても身体に差支(さしつか)えなく、またために全体に悪影響(あくえいきょう)の及ぶ憂(うれ)いがなければ、それも差支(さしつか)えあるまいけれども、なんらかの事由(じゆう)のために各自の重荷(おもに)は十貫目を超(こ)えてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を荷(にな)えとは勧(すす)めぬ。しかし十貫目を荷うに苦(にが)い顔せず、喜んで荷(にな)いたい。荷(にな)うさまを綺麗(グレースフル)にし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目担(かつ)げといえば、なるべく品(ひん)よいものを担(かつ)げというのである。
 かく比喩(ひゆ)をもってしては、あるいは意味が解(わか)らぬか知らぬが、譬(たとえ)を変(か)えていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には苦(にが)い顔せず、また叱(しか)ったり不愉快(ふゆかい)な風(ふう)に教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。出勤簿(しゅっきんぼ)には、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、苦(にが)い顔して教えても嬉(うれ)しい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。
 この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても執務(しつむ)時間に、机(つくえ)の前に腰(こし)かけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を捌(さば)くについても、ぶつぶつ囁(つぶや)きながらすると、快活にやるとは仕事の分量において異(ちが)いはなくとも、その品質(ひんしつ)と、同僚(どうりょう)に及ぼす感情には雲泥(うんでい)の差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。
「施(ほどこ)して必ず報(ほう)ある者は、天地の定理(ていり)なり。仁人(じんじん)之(これ)を述べて以(もっ)て人(ひと)に勧(すす)む。施(ほどこ)して報(ほう)を望(のぞ)まざる者は、聖賢(せいけん)の盛心(せいしん)なり。君子(くんし)之(これ)を存(そん)して以て世(よ)を済(すく)う」。

かかる心がけがあって人生の旅は幸福

 建物(たてもの)を建築するに、出来方(できかた)は同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職工(しょっこう)にいたるまで面白く快(こころよ)く仕事すると、他の一方には軋轢(あつれき)を生(しょう)じ同僚(どうりょう)を擲(なぐ)れとか、某(ぼう)がこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従事(じゅうじ)するのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。「細工(さいく)は流々(りゅうりゅう)、仕上(しあげ)を御覧(ごらん)」というが、物件(ぶっけん)ならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。細工(さいく)する間の心持ちが大切(たいせつ)である。左甚五郎(ひだりじんごろう)は恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細工(さいく)しているあいだも精神を籠(こ)めたればこそ、その霊魂(たましい)が彫刻物(ちょうこくぶつ)にも移ったのであろう。
 人世のことは何事(なにごと)にかかわらず微妙なる精神的作用(さよう)があって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見絞(みくび)り、単に物質的方法のみによって目的が遂(と)げられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意識(いしき)なく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。価値(あたい)なき仕事に目をつけねばならぬ。英語に value(ヴァリュー) という字がある。近ごろの経済学者はこれを価値(かち)と訳し、これに less(レッス) を加(くわ)うれば価(あたい)なきもの、二束(そく)三文(もん)の価(あたい)もない、つまらぬものという意になる。しかるに物の価(あたい)は price(プライス) と称し、学者の価格と訳するものである。これは less(レッス) を加(くわ)えれば前例によれば価(あたい)なきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その実(じつ)意味は正反対でとても金銭(かね)に換算の出来ぬもの、あまり貴(とうと)くして金銭に見積もれぬものとの意である。
 最初に掲げたローエルの神(かみ)のみ価(あたい)なしに得られるというは、神(かみ)は金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった轎夫(きょうふ)の賃銭(ちんせん)は金銭で計算されるが、壮丁(そうてい)の僕に対する好意は金銭をもって換算(かんさん)できぬものである。しかしてこれが一番貴重(きちょう)なる務めである。こういう価(あたい)なしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨曝(あまざら)しの難(なん)を免(まぬか)れる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅路(たびじ)は真の快楽(かいらく)幸福を増すものである。



世界の耳目(じもく)を集中さした共和党の大会

 大正(たいしょう)元年(がんねん)の夏のころ、僕は米国に滞留(たいりゅう)していたが、そのころ日本の新聞通信にも顕(あらわ)れたことで、シカゴ市における共和党(きょうわとう)の大会は近年にない大騒ぎで、独り米国の一大出来事(できごと)たるのみならず、世界の視聴(しちょう)もことごとくシカゴ市に集中した。僕はシカゴまでは行かなかったが、直接または間接に関係ある人の話(はなし)を聞いたり、新聞の報道を読んだりして、いかに人心(じんしん)が荒(あら)やいでほとんど狂(きょう)するごときさまなるかを見て、これが日本であったならば抜刀騒(ばっとうさわ)ぎになるであろう。
 米国においてもせめて、拳骨(げんこつ)ぐらいの喧嘩(けんか)があるであろうと、大会の閉会になるまで、好奇心をもって種々の新聞に眼をくばっておった。さなきだに犯罪(はんざい)や自殺多き夏の季節に、一万四千の腕白者(わんぱくもの)が大都会の一堂に会合したことであり、群集心理の特徴(とくちょう)として逆上(ぎゃくじょう)しやすき時、出席者のうちの大多数は、自称(じしょう)政治家、自(みずか)ら天下に我一人(ひとり)の気前の連中だからなおさらの事、一芝居(ひとしばい)の起こることを期待しておった。しかるになんぞ図(はか)らん、開会の始めにあたり上院にその人ありと聞こえたルート氏が座長(ざちょう)に選(えら)ばれた。この人の手腕(しゅわん)でも出席者の昂奮(こうふん)を撫(なだ)め得ないであろう。なにしろ会場における不満連(ふまんれん)の総大将兼(けん)黒幕(くろまく)としてはルーズヴェルト氏自(みずか)ら采配(さいはい)を取っているという始末(しまつ)であるから、我々の考えでは珍事(ちんじ)なしには終らぬと気遣(きづか)ったのも、今思えば杞憂(きゆう)に過ぎなかった。
 開会中ルート氏が座長(ざちょう)となって人波(ひとなみ)を撫(なだ)めた手腕は凄(すさ)まじいもので、当時の記事を読んで僕がつくづく感服(かんぷく)したのは、かねがね聞いているアングロサクソン人種の秩序(ちつじょ)的なる一点である。同氏の冷静にして、雷(らい)のごとく騒(さわ)ぎ立(た)つ数千の反対者を眼前(がんぜん)に列(なら)べて、平然と構(かま)えて、いかに罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴(あび)せても、どこの空(そら)を風が吹く底(てい)の顔付きで落着き払って議事を進行せしめたその態度と、彼に正反対の論者(ろんしゃ)が発言権を求めたとき、場内において発言を妨害(ぼうがい)せんとした彼(かれ)の同志に向かって、
「我が党の歴史を顧(かえり)みるに、反対者の発言を圧服(あっぷく)して勝利を獲(え)たる例(ため)しなし」
 との一言を放(はな)ち、却(かえ)って反対者の喝采(かっさい)を獲(え)たところなどは、その公平無私かつ度量(どりょう)の寛大なるところは、ほとんどドラマチックであった。しかしルート氏には一度しか面会したことはないけれども、一目(もく)して判(わか)ることはその性格においてドラマチックの節(ふし)のなきことで、この点が同じ米国人でありながら、ルーズヴェルトとは大いに性格を異(こと)にしている。氏の演説であれ、氏の会話であれ、役人が平素執務(しつむ)の際にとる態度で、いわゆるビジネス・ライクである。これがフランス人(じん)の会合であったならば、雄弁(ゆうべん)能弁(のうべん)ジェスチュアその他ドラマチックの動作(どうさ)がさだめしみごとなものであったろうと想像さる。

ボストン公園に見た言論の自由

 同じころボストン市に逗留(とうりゅう)中、日曜日の夕方、かの有名なる歴史的の公園地「コンモンス」にぶらぶら散歩したところが、道傍(みちばた)に二、三十人の労働者あるいは店の手代(てだい)番頭(ばんとう)めかしい者が一群をなしていた。わが輩好奇心に駆(か)られて近づいて見た。喧嘩(けんか)であろうか怪我人(けがにん)でもあろうか、手品師(てじなし)であるか物売りであるか、近づいて見ると年齢五十ぐらいの男が中心となって、地球は円形じゃない平面であるという新説を吐(は)いていた。しかも演説口調(くちょう)をもってあるいは高々に説明するにあらずして、平生の個人と個人との会話のごとき調子で、
「ネー、そうだろう、今まで僕の言ったことは君らも学理的だと認めるじゃろう云々(うんぬん)」
 と言いかけると、傍聴(ぼうちょう)者の一人で職工と思わしい若い男が、
「そりゃ君の説は勘定(かんじょう)が少し違うぜ、地球の曲線(カーブ)の度(ど)は一マイルについて幾(いく)らいくらだぜ。君の先の例に取った何(なん)マイル以上にある船の帆柱(ほばしら)は云々(うんぬん)」
 と、僕は最後まで聞き取れなかったが、数字をもってこれを駁撃(ばくげき)すると、先の男が手帖(てちょう)を出して何か計算する。その間にまた一方から、
「君の説はちょっと面白いが、学理より実験に戻(もと)るじゃないか」
 とやり込(こ)める奴(やつ)があった。僕はしばらく立って見ていたが、もの静かに思想を交換するさまは、昔(むかし)ソクラテスがアテネの市場で道を説(と)いたときは、かくもあったろうかと想像(そうぞう)が浮かんだ。このときも我が同胞(どうほう)であったならば、すぐに野次馬(やじうま)が乗り込んで来て、
「貴様(きさま)の説はコロンブス以前の陳腐論(ちんぷろん)だい。ヤイ黙(だま)れ!」
 とか、
「小学校の二年級をやりなおせ」
 とか、
「ジジイ、おいぼれやがったナ」
 くらいの罵詈(ばり)は必ず聞こえるであろうと、つくづく物思いに沈みながら、この群集を去って旅館に帰ろうとすると、同じ公園のむこう側(がわ)に二、三百人もあろうかと思わるる群集がかたまっておったから、かたわらの青年に、むこうの群集は何をしているかとたずねると、
「あれですか、あれは社会党の人たちです。今日は日曜日なもんですから、大勢集まっているんです」
 とはなはだ尋常茶飯事(じんじょうさはんじ)のごとき口調(くちょう)で答えた。これが日本ならいろいろな嫌疑(けんぎ)も受けるであろうが、自由の天地は違うと思いながら、僕はそのほうに足を運んだ。すると二、三百人の連中は一かたまりになっていないで、二十人ないし五十人ぐらいずつ別々に群(むらが)っている。いずれも先の地理学新説の鼓吹者(こすいしゃ)と同じように、談話的に互(たが)いの説を交換し合っている。
 いずれの群集を見ても少しも激(げき)しているものはない。大言(たいげん)する者もなく、哂(あざけ)り嗤(わら)う者もない。すこぶる真面目(まじめ)でさながら親の大病の診断を医者から聞いているような顔つきであった。僕も三、四十分のあいだ甲群から乙群、丙群から丁(てい)群と彷徨(ほうこう)して、その様子(ようす)を窺(うかが)ったが、かたわらに巡査(じゅんさ)がいるでなし、しかもボストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかつマサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、容易(ようい)に逆上(ぎゃくじょう)せぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も享有(きょうゆう)すべきものと思った。

前二例より帰納(きのう)する感情の危険

 もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒(さわ)ぎもなく、政治上の腐敗(ふはい)もなく、自治の精神が完全無欠(むけつ)に発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、拳骨(げんこつ)の撲(なぐ)り合いが会場の戸口(とぐち)で二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、罵詈讒謗(ばりざんぼう)に終ったかも知れない。あらゆる犯罪(はんざい)の多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不体裁(ふていさい)はあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他山(たざん)の瓦礫(がれき)を捕(とら)え来たって、自国の璞玉(たま)に比してみずから快(かい)とするの愚(ぐ)なることを信ずるから、常に他山の石を藉(か)りて自分の玉を磨(みが)くの用に供したいと思う。
 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞(どうほう)とともに顧(かえり)みたいことは、一時の激昂(げきこう)に駆(か)られて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情を交(まじ)えることは危険である。むろん感情と一口に言っても高尚(こうしょう)な感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客気(かっき)である。とかくこの客気血気(けっき)があれば考えに誤(あやま)りを生じやすい。一口(ひとくち)に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己(おの)れを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象(きしょう)がさかんだとか、あるいは勇敢(ゆうかん)だとか、痛快(つうかい)だなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御(ぎょ)する人があればこそその方向に進んで行くが、御(ぎょ)する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺(さかん)であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑(おさ)える力がないのである。古人の曰(いわ)く、
「この心を敬守(けいしゅ)すれば則(すなわ)ち心定(さだ)まる、その気を斂抑(れんよく)すれば則ち気(き)平(たいら)かなり」と。

つまらぬ事に逆上する国民的弱点

 先を見ずにその場にて一時の快(かい)を貪(むさぼ)る極めて短慮な者には、内容のさらにない雄弁を揮(ふる)ってみたり、あるいは大声(たいせい)一喝(かつ)、相手の人には痛くもない讒謗(ざんぼう)や冷評を浴(あび)せかけて、ドラマチックに喝采(かっさい)を受けて嬉(うれ)しがるは我が国民性の一弱点である。言葉をかえて言うと、物にノボセ上がる、逆上する性質がはなはだ我が同胞の間には広がっていると思う。ゆえに何か大きな響(ひびき)のよい言葉を用いれば、己(おの)れを忘れて飛び上がる連中がはなはだ少なくない。たとえば仁義(じんぎ)のために死するとか、国家の責任を双肩(そうけん)に担(にな)って立つとか、邦家(ほうか)のためには一身を顧(かえり)みず、知遇(ちぐう)のためには命(いのち)を堕(おと)すとか、その他数多くの catchword のためにその用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならず、一身の上についても、実に詰(つ)まらぬことに逆上する傾向が多いことを目撃(もくげき)もし、また恥ずかしながら自分が経験したことがたくさんある。
 たとえば永く浪人しておった人が、仕官の途(と)につき久しぶりに金(かね)を手にすると、金満家(きんまんか)になったような気がして、一月分の月給で友人を招いて一晩に飲んでしまう。来月分も来々月分も飲んでしまって、招待したお客の追従(ついしょう)言葉を聞いてますます得意になって、しばらくたつうちにかえって一身およびその位置に対して不名誉(ふめいよ)を来たしてしまうことは、わが輩知人のうちにも折々見た。あるいは会社員であると社長さんから大いに信頼のお言葉を頂戴(ちょうだい)するか、役人であれば上官から重大な秘密を洩(も)らされでもすると、俺(おれ)より信用厚(あつ)き者はないような気がして、すぐにその態度が変わり昨日(きのう)まで同僚(どうりょう)交際であった者を急に見下したり、にわかに傲慢(ごうまん)尊大(そんだい)になる場合も僕はしばしば見た。あるいは学問をしている者でも、はじめのうちは謙遜(けんそん)に、あれも知らぬ、これも知らぬと思いつつ、研究三昧(さんまい)に暇(いとま)ない時は最も尊敬すべきときであるが、あの学位(がくい)を得たとか、その学位を授(さず)けられたとかいうと、自分がいかにも偉い者にでもなったように、人の前でも何もかにも物知り顔をしておるさまは、傍観(ぼうかん)しても見苦しいものであるし、かつ近づく者にも、学問とはこんな厭(いや)な臭気(しゅうき)のするものかと思わしむる場合もしばしばある。
 あるいは道徳を語る人でも同じことである。あの人は品行方正(ひんこうほうせい)の人だとか、まことに正しい曲(まが)った事のない人だとか言われると、すぐさま君子顔(がお)になって、他人を見るに小人(しょうじん)をもってして、世ことごとく濁(にご)れり我独り澄(す)めり底(てい)の考えに逆上する。かく言う僕も他人より賛辞を受けたことはないが、上に挙げた例の一部にあたっているかも知れないと思えば、この辺が筆を止(と)めるところであろうか。僕にしてかくのごとき弱点はさらにないという自信がさらに鞏(かた)ければ、もっと大胆に論じたいが、自分で顧(かえり)みて折々は逆上(のぼせ)そうになったこともあった。終りに述べる僕の実験談は普通に言う逆上(のぼせ)るのとは違うけれども、その性質においては同じであるし、かつ僕に取っては逆上の訓戒(くんかい)としてしばしば記憶にのぼる経験であるから、恥(はじ)を晒(さら)してここに述べよう。

一円の小遣いを一円の財布に投じた経験

 僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の土産(みやげ)として大枚(だいまい)金一円貰(もら)ったことがある。そのころ僕の小遣銭(こづかいせん)は一週間に二十銭と定(き)まっていたからして、一円紙幣(しへい)を手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この大金(たいきん)を入(い)るべき相当な財布(さいふ)を得ることであった。ただちに袋物屋(ふくろものや)に走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、値段(ねだん)を糺(ただ)すと一円ということであった。すなわち懐中(かいちゅう)に持参の一円紙幣を払って空(から)の紙入れを家に持って帰ったことがある。
 笑うにも及ばぬほどの愚(ぐ)なる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。一身を顧(かえりみ)てもあるいは他人を見ても、月給が入った、金を儲(もう)けたからとて、無駄(むだ)の浪費(ろうひ)をしている人を見ると、彼奴(きゃつ)め一円取って一円の財布(さいふ)を買っているわいと思う。大いに勢力(せいりょく)のある位置を獲(え)たと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、彼奴(きゃつ)一円の勢力を得て一円だけ威張(いば)って、あとは空(から)になっているわいと思う。学問なりその他の名誉(めいよ)を得て傲(ほこ)る者を見ると、彼奴(きゃつ)も近(ちか)ごろ一円貰(もら)ったばっかりだな、ああいう風(ふう)にやっては明日の日の登る前に形無(かたな)しになるであろうと思う。とかく金に限らず、位置でも名誉でも己(おの)れに帰(き)するときは、油断をすれば逆上(ぎゃくじょう)してこれを利用するを忘れてただ濫用(らんよう)に陥(おちい)りやすい。逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみ慎(つつし)むべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なお慎(つつし)むべきものであると、かれこれの事について大いに感じたから件(くだん)の如し。



弁士の富論

 アメリカの習慣(しゅうかん)で羨(うらや)ましく思うものは、かの大学卒業式(そつぎょうしき)を熾(さかん)にすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して大概(たいがい)七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総代(そうだい)の答辞(とうじ)とか、あるいは卒業生の演説(えんぜつ)とかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に掲載(けいさい)され、某(ぼう)が如何なる問題について如何なる説を吐(は)いたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来を卜(ぼく)する者もある。自国(じこく)の名誉を誇(ほこ)る者あれば、自国の短所を剔(あば)く者あり、実に勝手な説を吐(は)いて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。
 またこの式場に臨(のぞ)む人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を偲(しの)ぶために出席し、地方の紳士淑女(しんししゅくじょ)はいうまでもなく、遠方からもわざわざ集(つど)い来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、親(した)しく久しぶりで二、三の卒業式に臨(のぞ)み、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過言(かごん)であるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主賓(しゅひん)になっている以上は、招(まね)かれる弁士はただ能弁(のうべん)だとか悧口(りこう)だとかいうだけの資格では足りない。自(おのずか)らその人と為(な)り、その品性(ひんせい)を斟酌(しんしゃく)して招待するからして、演説に自(おのずか)ら重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に奔(はし)って実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に顕(あらわ)れるのはこの時であろう。

物質的米国人と思想的米国人

 例によって口上(こうじょう)が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米(たいべい)中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。
 誰も言う通り米国は拝金国(はいきんこく)で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物(ゆいぶつ)主義に陥(おちい)りはせぬかとみずから虞(おそ)れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒(けいかい)を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何(いかん)となればとかく何事にしても弊害(へいがい)あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴(ずいはん)する事なれば何事によらず攻撃(こうげき)しやすいものである。「坊主(ぼうず)が憎(にく)けりゃ袈裟(けさ)まで憎(にく)い」というのは、また同時に袈裟(けさ)を憎む者は坊主(ぼうず)自身を憎むという弊(へい)に陥(おちい)りやすい。君子(くんし)はその罪(つみ)を憎(にく)んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子(くんし)にして初めてなし得ることで、我々凡夫(ぼんぷ)小人(しょうじん)は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼(かれ)の親戚(しんせき)友人家屋(かおく)生国(しょうごく)までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌(きら)い、進んでは学問そのものをすら罪(つみ)する傾向がある。
 ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕(あらわ)れる。ゆえに実業を重んずる、否(いな)重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊(たっと)び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富(とみ)を為(な)す者も許多(あまた)ある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏(ひとまと)めに纏めて攻撃の的(まと)となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産(しさん)を破壊(はかい)して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔(こうけつ)なる紳士(しんし)のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって富(とみ)を為(な)す者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯(れんたい)するものではない。不正なる行為(こうい)は富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律義(りちぎ)一色(しょく)で金を拵(こしら)える者もある。
 ゆえに富貴(ふうき)必ずしも不正ならず、子夏が「富貴(ふうき)天(てん)に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪(あく)と言えず、むしろ天(てん)の賜物(たまもの)という意に取れる。袈裟(けさ)と坊主(ぼうず)が必ずしも伴うものじゃない。いわゆる僧(そう)にあらざる僧も世には許多(あまた)ある。またその代りには袈裟(けさ)を着た俗人もまた多い。「貯(た)めるほど穢(きた)ないものは塵(ちり)と金(かね)なり」という諺(ことわざ)があるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥(ちりあくた)とても貯蔵(ちょぞう)法よろしきを得たなら、清くする工夫(くふう)もあろう。黄白(こうはく)に至りては精励(せいれい)克己(こっき)の報(むく)いとして来たるものは決して少なくなかろう。古人(こじん)の言にあるごとく、
「祖宗(そそう)の富貴(ふうき)は詩書(ししょ)の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。
 人の立身や家の興(おこ)るを評するにはよほど注意せねば、とかく羨(うらや)む心に曳(ひ)かされて判断を誤りやすい。

富貴は方法なり目的にあらず

 また本題に還(かえ)って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴(ふうき)の危険を大いに警戒して、巨万の富(とみ)を積んで己(おの)れの霊魂を埋没(まいぼつ)するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮(はっき)するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲(かねもう)けを今日のごとく物質(ぶっしつ)的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。
 実にその通りで、数万の金を蓄(たくわ)えても人の人たることを忘れぬ以上は、金(かね)は邪魔(じゃま)にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁(ふじん)ではない。また不仁(ふじん)のみ富むわけでもない。
 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付(なづ)けて、もちろん自由業は高尚(こうしょう)なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬(そんけい)を払って、あるいは官吏(かんり)あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博(はく)していた。
 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金(かね)にあるゆえに、ことさら名誉(めいよ)をもって彼らを迎えなかった。これは強(あなが)ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可(ふか)とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家(そほうか)はその人物の如何なるを問わず、単に金(かね)があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難(がた)きものになるであろう。

富者の権利と義務

 話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位階(いかい)を授(さず)けらるるとか、あるいは叙勲(じょくん)せらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその実(み)を選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。花も採(と)り実(み)も取る者はついに幹(みき)も根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安寧(あんねい)も危(あやう)くするものであろうと思う。
 今日(こんにち)いずれの国においても財産の安固(あんこ)を保障(ほしょう)しない法律はない。法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額に嵩(かさ)まるとも富(とみ)を蓄積(ちくせき)占有(せんゆう)することを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。この富む者はややもすれば己(おの)れの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかに載(の)っている。かつ偉大なものである。
 しかるに財産の義務なるものは、わずかにその負担(ふたん)する税額ぐらいに止(とど)まって、その額も重い重いと言いながら権利に較(くら)ぶれば、案外に軽いものと思われる。ことに法文の読みようによっては、義務を忌避(きひ)する道も随分(ずいぶん)ある。ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる口実(こうじつ)をもって財産の義務をことごとく負担(ふたん)しないものがある。現に我々が仮りに所得税の負担額を較(くら)べて見ればただちに判(わか)るであろうが、わずか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の何々大臣(だいじん)、あるいは何々爵(しゃく)にして市内市外に許多(あまた)の高甍(こうぼう)宏閣(こうかく)を構(かま)えている人よりも以上の租税(そぜい)を払っている例すらある。そんなら、彼ら大尽(だいじん)は地租(ちそ)の目(もく)の下(もと)に多額の負担ありやと尋(たず)ぬれば、彼らの園邸(えんてい)は宅地にあらずして、山林と登録(とうろく)してあるから、税率もはなはだ少ない。かくのごときは財産の権利を享有(きょうゆう)しながら、その義務を負担しないというものである。富(とみ)が跋扈(ばっこ)するというと、いつも米国を例にとるが、焉(いずく)んぞ知らん日本にもその例に乏(とぼ)しからぬを。
 僕がかくのごとき言を述べたならば、あるいはいたずらに人を責むるように聞こゆるであろうが、わが輩はそれがし何某(なにがし)なる個人を攻撃(こうげき)する考えは毛頭(もうとう)ない。法文の曲解を難ずる意であって、僕は君子(くんし)ではないが、人の罪を憎(にく)んで、その人を憎まないように心がける積りである。ゆえに富める者が不正なことをし、あるいは人を苦しめてなお蓄財(ちくざい)することがあるにしても、その人よりも社会の制度が不完全ならびに輿論(よろん)がまだ未熟(みじゅく)にして、富者といわんよりは富貴(ふうき)の義務を自覚しないことを難じたい。

経済状態と道徳的態度の変化

 昔の経済社会とは違って近代は一国内における経済現象(げんしょう)さえなかなか複雑(ふくざつ)になって来ているに、いわんや国家的経済現象に至ってはなかなか個人の力で如何(いかん)ともできぬことがままある。したがって経済行為に対する道徳的態度は昔のように簡単に行くまい。
 たとえば昔なら物を造る者とこれを用うる者が直接に出会(であ)って、相談のうえに物々交換(ぶつぶつこうかん)を行った。こういう場合には値段(ねだん)を定むるに両者間の承諾(しょうだく)の上に成るから、互いの満足のもとに終わる。こんにちでは値段を定むるに造る者と用うる者は顔など会わすことは少ない。両者の間に仲買(なかが)いあり卸売(おろしうり)あり小売(こうり)あり数人の媒介(ばいかい)を経(へ)て、我々の最も簡単なる需用(じゅよう)も供給せられる。なかでも株式会社のごとき大組織の製造場において産出せらるる物品のごときに至っては、物価を定むる分子はなおさら複雑を極めて来る。
 なお進んでトラスト組織(そしき)の下に製作せらるる物品(ぶっぴん)は買い手の相談などは毫(ごう)も省(かえり)みらるるものではない。この一例をもってみても諸色(しょしき)が上がるの下がるの、米価が騰貴(とうき)したために貧民(ひんみん)が困(くる)しむの、あるいは暴徒が起こるの、あるいは犯罪が増すというごとき道徳的行為も昔の簡単なる組織時代と同筆法(どうひっぽう)で解決が出来ぬから、我々は新時代の経済界の現象(げんしょう)に対する道徳的態度も新たにすることは免(まぬか)れないと思う。

ストライキの動機でも英人と米人とは違う

 世には労働問題とか経済問題とか社会問題などを、とかく道徳と別に考うべきもののごとく思っている人があるけれども、人たる観念(かんねん)を除いて、これらの問題は解決出来まい。しかして人たる観念の内からは道義観念を排除(はいじょ)することが出来ない。
 たとえば近来(第一次大戦以前)英国でしきりにストライキが流行(はや)る。アメリカにおいても近来あらゆる方面にストライキが行われる。しかるにある英国人の話に、英米のストライキの性質において大いに異なるものがある。米国では給料を増すことを主として要求するし、英国においては労働時間を減らすことを主とすると言った。この差の起こる所以(ゆえん)は、アメリカ人はもっと金(かね)を欲しい、自(みずか)ら貯蓄(ちょちく)して後日(ごじつ)安楽に暮らそうというのである。イギリス人はこんにちの制度ではほとんど家族の顔を見ることも出来ない。また人間としての娯楽(ごらく)を求めることも不可能である、金は要(い)らんがもっと人間らしい生活をしたいというところにあるという。両者とも根底にさかのぼれば労働者も人なりという観念(かんねん)から来ているために、いわゆる人の道をはなれて労働その他経済の問題の解決は覚束(おぼつか)ない。
 しからばとていわゆる社会党(わが輩は敢(あえ)ていわゆるという文字を使う)の主張するように、現今の社会を目茶々々(めちゃめちゃ)に破壊(はかい)しようというごとき簡単な案では、労働問題も社会問題も解決できない。今後は富貴(ふうき)の義務、労働の権利をば、法律以上に研究解釈(かいしゃく)して、前に言ったようにこれらのことを精神化するにあらざれば、現世界の安寧(あんねい)もまた真の進歩も望むべからざるものと思う。

黄金は土芥(どかい)か宝珠(ほうじゅ)か

 いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々(まちまち)に行われているが、なお最後の解決よりははるかに隔(へだた)っておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的現象(げんしょう)を人なる立脚点(りっきゃくてん)から見ないからである。
 かく長たらしく書いたことを回顧(かいこ)すると、僕の平生の筆法(ひっぽう)とは大分(だいぶん)調子が異(ちが)っておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を籠(こ)めたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。
 我々も、よし富豪者(ふごうしゃ)にあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅少(きんしょう)であっても、その用法については大いに思慮(しりょ)を要することで、金を路傍(ろぼう)の土芥(どかい)のごとくみなすのはいかにも欲(よく)がなく潔(いさぎ)よく聞こえるが、また丁寧(ていねい)に考えると金は決して己(おの)れの物ではない。社会共有のもので、自分の懐(ふところ)に入っている間とても、なお一時社会から預(あずか)ったようなものである。いわば依託金(いたくきん)のごときものであるからして、これを無意味に浪費(ろうひ)しすなわち土芥(どかい)同然に取り扱うことははなはだ怪(け)しからんこととも言える。あえて言葉咎(とが)めをするの意ではないが、金を土芥視(どかいし)するのも宝珠視(ほうじゅし)するのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物件(ぶっけん)所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧(あんねい)進歩は覚束(おぼつか)ない。昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の御歌(おんうた)に、
持つ人の心によりてかはらとも玉(たま)ともなるはこがねなりけり



米国実業家の人生観

 かつて米国フィラデルフィアにいたころ、資本額二百万円ばかりの中ぐらいな合資会社の社長をしておる四十五、六歳の男と親しく話をする機会があって、いわゆる拝金国(はいきんこく)の米国の実業家にもかくのごとき考えの者があるか、否(いな)一歩進めてこの国の実業家の中に少しく品(ひん)のよい者は、こういう考えで世を渡る者かと、つくづく感じたことがある。その談話の要領は彼(かれ)の言葉のままに挙げれば、
「二十年以来の知人のことであるから、君もいくらか察しられているだろうが、僕は大学の教育も受けず、幼少の時から会社に入って、今日までで三十ヵ年にもなる。その間、社務にあくせくしているのと、かつ視力の許さぬがために読書もできず、また美術の趣味を涵養(かんよう)することもなく、すこぶる乾燥(かんそう)無味な人間になり果てて、朝から晩まで事業々々とばかり心がけて年を送った。その代りには僕が社長になってからわずか五、六年にしかならんけれども、事業の発展についてはいくらか見るべきところもある。今は四ヵ所に工場も起こし、販売係は諸所に出張さしており、配当(はいとう)もこの国においてはまず相当と思うだけのこともして、有難いことにはこの市内の銀行ならば僕の手紙でいくらでも金を出してくれるだけになっている。
 しかし僕は学問や技芸(ぎげい)に不案内であると同様に、金銭についても正直(しょうじき)お話するとはなはだ無頓着(むとんじゃく)で、毎日金勘定(かねかんじょう)をしながら金持になってなんになるだろうと常に思わないことはない。子供の時から慣(な)れた職業であるから今(いま)さら転職するのも好まぬし、よしまた金が要(い)らぬというてわが輩が辞(じ)したならば、実際のところ社長にあたる人がない。して君の知らるる通り僕には妻もあり子供の二人もあることゆえ、自分は金がつまらないといって、山に引っ込んで妻子の苦労も顧(かえり)みぬというほど、僕はいわゆる神聖な人にはなりかねる。また妻子を苦しめて自分のみ潔(いさぎ)よいということがほんとの神聖とも思わない。天が我に子供を与えた以上は、彼らをして僕以上の者にするだけの義務は僕にある。また自分の妻についても、自分が世を去ったあとで寡婦(かふ)として暮らすばかりも気の毒であるに、衣食に不足のことがあるようでは、なんとも天に対し妻に対し妻の家族に対して申し訳がないと思えばこそ、金の貴(とうと)いこともいくらか知るが、今日のところでは幸い後顧(こうこ)の憂(うれ)いがないだけになったから、なんだこの金はと思う気が常に僕の頭を去らない。
 もっとも君の見らるる通り、僕の家には、装飾品もなければ骨董品(こっとうひん)もないし、また僕の着る着物(きもの)は、家内のも子供のも同然、流行には添(そ)わない。友だちにもたびたび、せめて時計だけは金(きん)のに代えよなどともいわれるけれども、この銀時計は子供のときから持った慕(したわ)しい記念物だから、これを離すわけにはゆかぬ、もっとも二、三ヵ月前に自動車を買ったので、やはり流行にかかわると笑った人もあったが、笑う者に説明する必要はないけれども、僕の真情(しんじょう)を明(あ)かしていうと、僕の息子(むすこ)にだけは時勢に遅れさせたくない。して自動車はもはや贅沢品(ぜいたくひん)ではない。今後ますます発達するものと思えば、将来世に出て働く者はこれしきのことは心得ておらなければならぬし、かつ子供に器械だの物理だのの観念を養成さすには、何か彼が興味をもって当たる物を与えなければ、書物(しょもつ)の学問だけでは実際に迂(うと)くなると思うから、僕が要(い)るような顔をして実は子供に運転と使用とを馴(な)らさせるために買った云々(うんぬん)」
 と長時間、真情を打ち開(あ)けて話した。

個人的利益と国家社会の利益

 僕はこの男とかねてより親しくしている。彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも貨殖(かしょく)に関する態度を初めて聞き知った。僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。
 普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、己(おの)れの身を犠牲(ぎせい)にして、社会に貢献(こうけん)するところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。己(おの)れを捨てて社会の利益を図(はか)るの望ましきことはいうまでもない。事(こと)を為(な)すに国家観念(こっかかんねん)より打算(ださん)するもはなはだ嘉(よみ)すべきことである。
 その宣言(せんげん)を非難するわけではないが、その実際は如何(いかん)と尋(たず)ねられれば、ややもすると国家社会は言うまでもなく、己(おの)れの友人親戚(しんせき)にさえも迷惑をかけて自分のみ得々(とくとく)として金を作ったり、あるいは自分一個の快楽(かいらく)のみに金を費(ついや)している者もすこぶる多きに驚かざるを得ない。ゆえに僕は実業に志(こころざ)す人に、社会国家を忘(わす)れろとは決して言わないけれども、口に出すことだけは遠慮(えんりょ)するほうがよかろうと勧(すす)めたいくらいに思っている。いかなる事業でもおそらく社会に必要なる事業であれば、宣言もせずしても社会に貢献(こうけん)するのである。かつまたこの事業に関係する人も直接犠牲(ぎせい)を払うの必要はない。仮りに何か事業を起こすとする。この事業(じぎょう)にして果たして社会に必要あるものならば、それ相応の需要(じゅよう)が顕(あらわ)れて、この会社も相応に繁昌(はんじょう)し、その結果相応の利益を得る。もし会社にして利益を得ないとすれば、その仕事を社会が要求しない証拠で、要求しないものを押売りしようと思えばこそ、国家事業であるから世間の人に私の品物(しなもの)を買えと叫(さけ)んで押売りするようなことになりはせぬか。
 社会の需要よりはるか進歩した事業でも、あるいは社会の指導者または模範(もはん)ともなるような事業であっても、珠盤(そろばん)となればいかに勘定(かんじょう)しても間に合わぬというごときものならば、かくのごときことは私人(しじん)のなすよりは直接あるいは間接に国家そのものがなすのが至当であろう。もっともこの問題については経済学者、財政学者の起点より見れば、解決をするに許多(あまた)の考慮をせねばならぬことであるから、ここで論ずる範囲(はんい)でないけれども、だいたいにおいて個人なりあるいは私設会社がなすべき経済行動は、国家社会のためといわんよりは、その個人その会社の利益のためだと公言しても恥ずることはないし、また実際に当たっているのである。英米独仏いずれの先進国にしても、経済上発展を遂(と)げたのは個人の利益を主としたからである。

個人の最良なる利益はすなわち社会国家の利益

 かく言ったからとて僕は憎(にく)むべき意味における個人主義を唱えるものではない。西洋にいわゆる個人主義なるものには必ずしも悪い意味が入っておらぬ。すこぶる高尚(こうしょう)なる意味をふくましむることの出来るのは、ちょうど社会主義なる言葉の内にも必ずしもおそるべく憎(にく)むべき破壊的(はかいてき)なる思想をふくますべきものでなく、穏(おだやか)な高尚な建設的なる内容を、含蓄(がんちく)せしむることが出来ると同じである。実業家がその業(ぎょう)につくに、個人の利益を旨(むね)として差支(さしつか)えないと断言するについても、読者の曲解(きょっかい)なきことを切(せつ)に望む。
 国民が各※(二の字点、1-2-22)(おのおの)個人的の最良なる利益を図(はか)ったならば、その結果はおそらく社会と国家との利益になることであろう。僕はことさら最良なる利益なる文字に力をいれて言う。我利々々亡者(がりがりもうじゃ)連(れん)が他の者の事業を妨害(ぼうがい)したり、競争者を中傷(ちゅうしょう)したり、人身攻撃(じんしんこうげき)をしたり、捏造説(ねつぞうせつ)をはいたり、その他卑劣(ひれつ)な方法によりて得る利益は、僕のいう最良の利益とはあい反するものである。
 最良の利益とは正々堂々と人の前でいって恥ずかしくないことをいうのである。この冒頭(ぼうとう)に話した米人の己(おの)れの一家のよろしきを図(はか)るごときは、人に対して何の恥(は)ずるところもない。もしこの男にして一家の驕奢(おごり)を図(はか)り、その妻には流行の先駆者たらしめ、あるいは子女をしてだらしのない娯楽(ごらく)に耽(ふ)けらしむることをもって、己(おの)れの利益とみなしたならば、これはまさしく恥ずべきことである。しかるに己(おの)れよりは一歩進んだ人に育てあげようという目的ならば、これまさしく国家のため善良なる市民を捧(ささ)げるのであるから、国家のためといわないで、確かに国家の利益を図(はか)っておる。かつまた己(おの)れの事業にして繁昌(はんじょう)すれば、営業税も余計に収め、もって国家に対する負担(ふたん)も喜んで増し、また海外に輸出額がふえればこれまた国産に貢献(こうけん)することであるからなおまた国のためになる。

国家のためという誤解の危険

 これに反し、しばしば我々が耳にするもので、しかじかの事業は己(おの)れには不利であるが国家的事業であるから、身を犠牲(ぎせい)にしてこれに当たるなどいうことは、言葉を換えていうと、国家が個人に要求することのあまりに多きことを意味することになる。もちろん一旦(たん)事ある時は個人の利益や個人の財産生命も投げ出さねばならぬが、平生(へいせい)何事についても国民より重い犠牲(ぎせい)を要求するような国家は、国家の一大目的に背(そむ)いているもので、はたしてそういう国家が今日世界にあるならば、永続の覚束(おぼつか)ない国家といわねばなるまい。
 幸いにして我が国では相当に税(ぜい)は重いとはいいながら、まだまだ個人の営業について、しばしば犠牲(ぎせい)を要求するほどに弱いものでないのはお互いに慶(けい)すべきことである。僕の友人が地方に巡回して農民に勧めるときに、お前たちの仕事は実に国家的の事業であって、昔から農は国の本(もと)というたくらいであるから、いかに苦しくも、いかに利益が薄(うす)くとも、国家のために奮励(ふんれい)せよと説いて歩いた。かの意味は、多分農民みずからが奮励(ふんれい)して、農業を利益あるようにせよという意味であったろうけれども、普通農民の耳に入ったときは、やはり昔のごとく強制的に労働をして、ただお上(かみ)に運上(うんじょう)を収める道具になるだけのことであるという観念を与えた。
 晨(あした)に星(ほし)をいただいて出(い)で、夕(ゆうべ)に月を踏んで帰るその辛苦(しんく)も国家のためなりと思って甘(あま)んずればよいが、なかなか普通人情として甘(あま)んじてのみいるものでない。しかして甘んじないときは国家が己(おの)れを苦しめることのはなはだしいものである。こんな国家はないほうがいいという結論にも来たり得るし、また歴史上そういう結論をした国民も折々ある。

「国家」というよりも健全なる個人思想が大切

 僕はくれぐれも言うが、国家のために忠君愛国の観念(かんねん)は貴(とうと)ぶべきものにして、独(ひと)り教育のみならず実業においても涵養(かんよう)すべきものであると思う。この観念の涵養(かんよう)は漫(みだ)りにくりかえすことによりて目的を果たし得るものでない。これを乱用すればかえって正反対の結果を来たすを恐れる。ちょうど欧米(おうべい)において宗教の力の最もさかんな時には、何事についても上帝(じょうてい)やキリストを担(かつ)ぎ出して、その目的を果たそうとしたが、その結果を見るとかえって面白くないことが多かった。たとえば療法(りょうほう)にも信仰(しんこう)だの加持祈祷(かじきとう)だのを混合する。もちろん病気によってはいわゆる気(き)の病(やま)いもあるから、心の持ちようで癒(なお)る病気もあろう。してこの類の病気には信仰が著(いちじる)しく功を奏(そう)したろうけれども、黴菌(ばいきん)から起こる病いのごときに至っては、宗教が入り込(こ)んではかえって療治(りょうじ)の邪魔(じゃま)になることが多い。
 教育においてもそうである。僕自身は宗教なき教育は人の心髄(しんずい)を動かすものでないと信ずるけれども、しからばとて学校の課目に宗教を入れることは、かえって教育の目的を阻害(そがい)するものと思う。と同様に実業にも国家や愛国を入れることは、(僕は非常の時を言うのではない)かえって実業の邪魔(じゃま)にもなり、また国家愛国の観念にも疵(きず)をつける憂(うれ)いがある。
 かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。すなわちその妻子を思うの感情、一口(ひとくち)にいうと自家の感情である。これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。我が国の誉(ほまれ)として我々は親も捨て、はなはだしきは妻子を殺(ころ)すまでして出陣(しゅつじん)した例などを物語ると、今日の西洋人の耳には野蛮(やばん)に聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの嘆賞(たんしょう)を買うものである。ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは絶叫(ぜっきょう)しない。しかし西洋の人は戦いに出る時も炉辺(ろへん)と家庭と for hearth and home を揚言(ようげん)する。ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国が仆(たお)れても自分の炉辺(ろへん)に差支(さしつか)えなければ平気でいるかというとそうでない。
 学者は社会の進歩の秩序(ちつじょ)として、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、欧州(おうしゅう)の進歩は果たしてそういう形跡を現している。日本の歴史にして果たして西洋史と轍(てつ)を同じゅうするものならば、我々も近(ちか)ごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念に堪(た)えないと同時に、健全なる個人的思想に伸(の)びて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。

人生を甘からしむる心がけ

 今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒頭(ぼうとう)に掲げた米人の言うごとく、おのおのが潔(いさぎ)よい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情合(じょうあ)いに基づいて)己(おの)れの日々(ひび)の事務を怠(おこた)らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と己(おの)れの預(あずか)っている職務に忠実(ちゅうじつ)にして、なおかつ思想は高く俗界を超越(ちょうえつ)して、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥料(ひりょう)を施(ほどこ)しても収穫(しゅうかく)以上に目的を置き、教師が教場に出ても志(こころざし)を遠きに着(つ)け、役人が執務するに、俗務のために没却(ぼっきゃく)されない、すなわち一言(ごん)に縮(ちぢ)めると、吾人(ごじん)が人格としてまったく世を隔(はな)れた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂直的(すいちょくてき)関係と平面的関係との調和を始終(しじゅう)図(はか)って行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも顕(あらわ)れて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。
「軒冕(けんべん)(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。林泉(りんせん)(田舎(いなか)の意)の下に処(お)りては、須(すべか)らく廊廟(ろうびょう)(朝廷(ちょうてい))の経綸(けいりん)を懐(いだ)くを要すべし」と。
 吾人(ごじん)は、いかなる低き、いわゆる卑(いや)しき職に従事しても心一つは高く持ちたい。



英国碩学(せきがく)の観(み)たる神道(しんとう)の要旨

 先年交換教授(こうかんきょうじゅ)として渡米するにつき、その準備の一つとして、研究というほどの深い事もないが、少しく調査したいことがあって、神道(しんとう)に関する書物を読んでみた。そのうちに英国の碩学(せきがく)、ことに日本の古代宗教および文学に精通せるアストン先生の書中に、神道(しんとう)は知恩(ちおん)と愛情の宗教なりという一句があった。これが僕の眼に大いにとまった。また同氏の説明を見てますますこの一句の味(あじ)わいが理解せられた。
 その後(ご)ある友人が、日本の神道を研究するには、必ず黒住宗忠(くろずみむねただ)の説を窺(うかが)わねばならぬと注意してくれて、懇(ねんごろ)にもこの偉人に関する出版物を送ってくれた。これを読んでいっそうアストン氏のさきの言の誤らざると、否(いな)、誤らざるどころでない、実によく穿(うが)っていることを感じて、その後ますます恩誼(おんぎ)を知るの感を深めることについて、心のうちに努(つと)めている。

知恩(ちおん)は日本民族の特長

 古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に固有(こゆう)な思想が一つでもありはせぬかと、鵜(う)の目鷹(たか)の目で、本邦(ほんぽう)の制度やら歴史やらを調べると、神道(しんとう)だけは純粋(じゅんすい)なる大和(やまと)民族の思想であることがわかる。
 もっともこれとても、儒教(じゅきょう)が入って以来、その説くところやら、その儀式(ぎしき)がたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその教理(きょうり)さえも変化し、おそらくこんにち神道(しんとう)の名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、神道(しんとう)に固有(こゆう)なものであるまいと疑う理由も確かにある。僕はさきのアストンの言(げん)および黒住(くろずみ)氏の所説を読んで、これを現(げん)に我が周囲に行わるるいわゆる神道(しんとう)に比すると、ちょうど『新約聖書(しんやくせいしょ)』の福音書(ふくいんしょ)を見た目で、天主教(てんしゅきょう)の儀式(ぎしき)を見たときに起こる感(かん)よりもさらに不愉快(ふゆかい)なる思いを起こす。ゆえに僕は神道(しんとう)の純粋なる教えを重んずると同時に、その名を冠(かぶ)っていろいろなる迷信を説(と)いたり、あるいは頑冥(がんめい)な排他的(はいたてき)主張を恣(ほしいまま)にする神道(しんとう)の宗派をいうのではない。アストンにしても、黒住(くろずみ)にしても、その説くところ間違いなきを保(ほ)し難いが、我が固有(こゆう)の教えは知恩(ちおん)の念に満(み)てるものなりとの一条は過(あやま)ちなしと信ずる。
 しかして神道(しんとう)が日本民族固有(こゆう)の観念(かんねん)を代表するものならば、恩誼(おんぎ)を知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。

恩の観念は固有か輸入か

 しかしここに奇態(きたい)に思うことは、古い言葉にはあるいはあって、僕の無学(むがく)のために知らぬのかは測(はか)られぬが、恩(おん)という字に和訓(わくん)のないことである。こういったなら、和学者(わがくしゃ)のお叱(しか)りを受けて、こういう訓(よみ)がある、ああいう訓(よみ)があるという反証(はんしょう)が出るかも知れぬが、それにしても、これほどな大和(やまと)民族の特長が、普通一般に漢音(かんおん)で流通していることは情(なさけ)ない。
 恩(おん)の漢音はすこぶる発音(はつおん)に便利で、耳障(ざわ)りもよいから、ながたらしい大和(やまと)言葉の代りに通用するにいたったかも知れないが、実際我々がこんにち外国の言葉を用うるは簡単(かんたん)であるからとて用いる。単語は何か新しい思想を含んだものであって、普通にある言葉をわざわざ西洋語を借りて言い表わすことは、よしあっても稀(まれ)である。
 マッチという詞(ことば)は今どんな田舎(いなか)でも用いている。しかるに僕の子供のときは早附木(はやつけぎ)といったものだ。今はそんなことをいうものはほとんどない。早附木(はやつけぎ)というよりもマッチというほうが簡単だからでもあろう。さらばとて単に簡単だという理由で、従来用い来たった詞(ことば)なら早附木(はやつけぎ)をマッチと替(か)えることはない。従来は附木(つけぎ)だけはあったが「早(はや)」なる形容詞を冠(かぶ)せて通用させようとしても通用しなかった。「ランプ」を行燈(あんどん)とも手燭(てしょく)とも翻訳(ほんやく)しない。ペンのごときは僕らが始めて洋学(ようがく)を修(おさ)めるころには筆または金(かね)の筆と訳したものだ。しかるに今は日本のすみずみに行ってもペンで通る。金(かね)の筆というよりはペンというほうがむしろ簡便である。さればとてペンなる言葉をかりて、古来あった筆の文字に代用することはない。そこで恩(おん)という言葉も発音の易(やす)きからとて、従来あった思想に代えたものか少しく疑いが起こる。恩なる観念はやはり儒教(じゅきょう)、仏教(ぶっきょう)から入ったものでなかろうかと疑いが起こって来る。
 僕は世の言語学者に望みたきは、いま用うる文字こそ漢音(かんおん)なれ、思想は大和(やまと)民族の特長なりということを、言語のほうからも証拠を明瞭(めいりょう)にする一条である。

日本人ははたして恩知らずか

 単に右のごとくいうたなら、僕がアストンの説に反対の考えでも持ち、あるいは黒住(くろずみ)の教えが黒住(くろずみ)という個人より起こったもので、大和(やまと)民族の代表的思想にあらざるとでも主張するごとくに聞こゆるだろうが、僕はあくまでも恩(おん)を知ることは神道(しんとう)の基礎、大和(やまと)民族の美風なることを信じたいのである。
 西洋人はともすると、東洋人は恩(おん)を知らないという。また我々とても相互(そうご)に、彼奴(きゃつ)は恩を知らぬ奴(やつ)だといって悪口(あっこう)する。恩を知るをもって大和(やまと)民族の特長などと誇(ほこ)っても、しばしば自分に顧(かえり)みないと、人から受けた親切ほど忘れやすいものはない。否(いな)、人のしたことが、はたして親切であるか不親切であるか、その区別すらもなかなかしない。また人が我がためにしてくれたことの程度は、はなはだ鑑別(かんべつ)しにくいものである。このへんの弁(わきま)えを誤ると、とかく他人の眼には、恩(おん)知らずの感を与える。
 ことに西洋人が日本人は恩を知らない国民なりというのは、この辺から起こっているらしい。すなわち日本人は恩を知らないのではなく先方の人がどれほどの親切でしたのかが分からぬために、有難うというべきところを言わなかったりする。すなわち事情が判然せぬために、思想までが大変違うように思わしむる惧(おそれ)がある。そこで外国人の書いた書物のうちに、折々日本人の短所の中についても、恩知らずの譏(そし)りあることは、これは仮りに誤解から起こったとみなしておいて、しばらくこれは預りとしてここには省(はぶ)こう。ここではもっと手近(ぢか)い、お互いの間の交際上、恩誼(おんぎ)の観念(かんねん)について注意すべきことを述べたい。

思わぬところに恩人が潜(ひそ)んでいる

 恩(おん)を説(と)くに当たって、いわば恩の部類について一言したい。四恩(おん)なるものはなにかとか、あるいは中には五恩(おん)六恩(おん)と数える人もある。けれどもこれは我々によきことをしてくれた相手によって分けたことで、たとえば向こうの人が君(きみ)だとか親であるとか、天(てん)であるとか地(ち)であるとか、友(とも)だちであるとか、あるいは従僕(じゅうぼく)であるとか、それぞれ恩(おん)を施(ほどこ)してくれた相手によりて区別したるに過ぎぬ。
 受身(うけみ)の立場からいうたら、目上(めうえ)の人から受けた恩(おん)よりも、目下(めした)の者から受けた恩(おん)のほうが大きいこともある。自分の君公(くんこう)からお古(ふる)の裃(かみしも)を頂戴(ちょうだい)するのは、昔では非常の恩誼(おんぎ)とみなした。しかし自分の従僕(じゅうぼく)が一命を捨て自分の難を救うほうの恩誼(おんぎ)ははるかに重いと僕は思う。
 あるいは君(きみ)なるものは自分に対して常に衣食(いしょく)を給(きゅう)していて日(ひ)ごろ生命の基(もと)である。ゆえにこれに報(むく)ゆるに常に生命(いのち)をもってすべきものを、自分の生命(いのち)を取らずにかえって裃(かみしも)の一組(ひとくみ)でもくれるというは、その物は僅(わずか)であっても、その心は我々の期待するよりはるかに以上であるから、その重きことは日ごろ給料を与えて、自分のために忠勤を擢(ぬきん)ずべき義務をもっている従僕が、たまたま難に遇(あ)って自分を救ったよりは、ものそのものはいかに軽くとも、君公(くんこう)の賜物(たまもの)のほうをはるかに重しとすべき議論も一通り立つから、僕とてもあながち絶対的に君公(くんこう)の拝領物(はいりょうぶつ)は家来(けらい)の命(いのち)より軽いと一般にいう訳ではないけれども、君公だとか従僕だとか、社会的の区別をすればこそ、些細(ささい)のことが大きく思えたり、重いことが軽く見えるが、自分のために宜(よ)きを計り、自分に尽す親切の行為を計れば、思わぬところに僕の恩人(おんじん)が潜(ひそ)んでいて、その人の恩誼(おんぎ)をさらに感知しないで、見当違いの方(かた)に無闇(むやみ)に有難がっていることもあり得ると思う。
 であるから、僕は如何なる人が、如何なるほどに、僕のために心や身を労(ろう)してくれたか、つぶさに考えて、これを常に心に銘(めい)じておきたいと思うのである。

人も知らず自身も知らずに受ける恩

 ただこの事について心に記憶したきことは、明らかに我の耳に達したこと、あるいは我が目に映(うつ)った行為のほかに、人も知らず、我れ自身も知らないでいる恩(おん)がたくさんあることである。かくのごとき恵(めぐ)みが人生の中に数(かず)限りなくあることを常に記憶に存(そん)しておきたい。たまには誰が告(つ)げるとはなしに、ふと心に有難味(ありがたみ)を覚えて、ほとんど相手知らずに帽(ぼう)を脱(だっ)し、跪(ひざまず)いて、有難さに、涙に咽(むせ)ぶこともある。誰しも必ずこの経験があるだろう。もしこの経験のない人あらば、そは不幸な人である。天の恩はいうまでもなく、朋友(ほうゆう)や親などのすることに、とかく秘密にわたって、受ける本人は夢にも知らぬことがしばしばある。なにか面倒(めんどう)な事件があって、これを処理しに出かけると、案外にもすでに半分以上解決されておったなどということがある。
 これは不思議と思って、だんだんその理由を質(ただ)すと、前日友人が来て半(なかば)以上悶着(もんちゃく)を解決しておいてくれたなどということが、数日あるいは時によっては数年経(た)って初めて発見されることを自(みずか)らも経験したし、世には必ず同じことを感じた人が数多(あまた)あろう。

今もなお不明なる僕の受くる恩

 はなはだ事が私事にわたるようで、ことに小なことで、人に語るに価(あたい)もないか知らぬが、かほどな些細(ささい)なことも、好意をもってすれば、かほどに人の心を感動せしむるものであるという証拠に、ここにこれを述べる。
 僕が札幌(さっぽろ)の郊外に一個(こ)の墓(はか)をもっている。札幌(さっぽろ)の天地は僕の青年時代に学問したところで、さなきだに第二の故郷として慕(した)わしいが、この慕わしき念をいっそう深からしむるものは、この小さき墓地(ぼち)である。ゆえに折々かの石碑(せきひ)の周囲に雑草がはびこって、見すぼらしくなりはせぬか、石が倒れて見る甲斐(かい)なきようになっておるまいか、悪戯(いたずら)の子供らが石の上に落書(らくがき)でもして不作法(ぶさほう)になってはおらぬかと、折々心を痛(いた)めることがある。それゆえ友人に頼み、ついでの時に見巡(みまわ)ってもらったが、彼が墓所へ行ったつど、報告してくれるに、いつでもいつでも草はきれいに刈(か)られ、周囲がすこぶる整然していると。ここにおいてあまりの不思議さに、同じ友人に依頼して誰が掃除(そうじ)してくれたるか、もし判(わか)ったならば礼もしたいから、住職なり番人なりに質(ただ)してくれと、いって送るけれども、友人の穿鑿(せんさく)ではなかなかかくも墓地に対して好意を示す人を探し得ない。
 今もなお僕にはその人が知れない。しかるにこの事たる、事態は茶話(さわ)の話題にもならぬくらいなるが、僕にとっては人情のまことに柔かきところと深きところとを窺(うかが)わしめて、感謝と喜びの念を深からしむることが少なくないのである。
 それにこの行為をなす人はおそらく唯(ただ)一人であろう。しかるに誰ということの判(わか)らぬ間に、僕の心には果たして一人であるか二人であるか三人か、加之(しかのみならず)一人であるにしても、あの人であろうか、この人であろうかと推量(すいりょう)を運(めぐ)らすのが大勢(おおぜい)の人に関するから、つまり大勢の人が僕には恩人のごとき感を与えている。渡る世間に鬼(おに)はない。かれこれ僕は大勢の人に非難を受けるけれども、また世には心からしての友があるという自覚を強からしめて、折々不愉快(ふゆかい)なことのあるあいだにも、かくのごとき小な事が、燈明(とうみょう)のごとく輝いて、人生の味(あじ)を甘からしめる。

惨憺(さんたん)たる一高の入学試験

 僕が第一高等学校に在職中ことさらに僕の感じたことがある。それはある夏学校の入学試験の際であったが、今は名も知れているけれども、これを明かすの必要もなし、あかしたならかえって迷惑(めいわく)の種子(たね)ともなろうから、姓名を省(はぶ)いて話そう。あるいは偶然にも話題の主の人の眼にこの書が触(ふ)れたならば、あの時の男は彼であったかと思わるるであろうが、僕はこれを美談と思うから隠(かく)さずに話する。
 七月の初め、一週間ばかり続いた暑(あつ)さの強い日がちょうど全国の高等学校入学の試験の定日(ていじつ)であった。中学を卒業した四月から、以来は三度の食事も省略(しょうりゃく)するほどに時を惜(おし)み、夜も眠らず、眠気(ねむけ)がさせば眼に薄荷(はっか)までさして、試験の準備に余念ない三千ちかくの青年が、第一高等学校の試験場に群(むらが)り来たり、いよいよ教室に入るその刹那(せつな)まで、準備を怠(おこた)らぬくらいであるからして、試験以前の十日間の勉強は実に兵士の戦闘準備どころか、実戦にとりかかっていると同じ感がする。すなわち試験以前の一旬間(じゅんかん)の惨憺(さんたん)たるさまは父兄友人はいうまでもなく、少しく今日の日本の教育並びに試験の制度を知るものは、察するにあまりありというくらいである。ゆえに中には試験の始まる前に、すでに根気がつきたり、病に罹(かか)ったり神経衰弱あるいは脳貧血あるいは不消化不眠症(ふみんしょう)等に罹(かか)るものは、おそらく百をもって数えるであろう。

入学試験中、俥(くるま)を待たした不思議の婦人

 さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。僕が各教場を通って廊下(ろうか)に出て、玄関(げんかん)の側を歩(あゆ)んで来ると、ちらりと眼に映(うつ)ったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている車挽(くるまひき)と、これを隔(へだ)つること一間ばかり傍に、袋(ふくろ)を手にしている四十ちかくの婦人であった。試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の見張(みは)り監督していても、ただ水を打ったように静寂(せいじゃく)を極めて、廊下(ろうか)の板をふむ巡視の靴音(くつおと)さえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごとき様(さま)であるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は小使(こづかい)に代って、この婦人に向い、その用を質(ただ)して、
「もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の寄宿寮(きしゅくりょう)に御用ならば、そちらの玄関でお尋(たず)ねなさい。ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです」
 と心附(こころづ)けたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、妙(みょう)な顔をして、
「ハイ、ここで待っております」
 というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、
「貴女(あなた)のお尋(たず)ねになる方は、ここにいる人ですか」
「ハイ、いま試験しております」
「そんなら、先生ですか、生徒ですか」
「生徒でございます」
「生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。試験は十一時までですから、もう二時間もあります」
「ハイ、それも承知しております」
「そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは非道(ひどい)ですから、あちらに休む所があります。それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったら宜(よ)うございましょう」
 と心附(こころづ)けたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、
「ただこちらで待っております」
 というだけなので、僕はますます奇態(きたい)に思って、かつ側(そば)に俥(くるま)のあることゆえ、何か容易ならぬ仔細(しさい)もあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第を質(ただ)したところが、
「今試験をしておりますが、昨日(きのう)自宅(うち)で眩(めまい)がしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。まさかの時には連(つ)れて帰るつもりで、俥(くるま)を頼んで参(まい)りました。それに今朝(けさ)飲む薬も、いそいでいて忘れましたから」
 といいながらしきりに懐(ふところ)の中に手を入れて、薬を出しそうにするから、
「私がその薬を飲ましてあげましょう」
 というたが、
「これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません」
「それじゃ、名はなんといいますか」
「…………」
「何番ですか」
「番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……」
「ここの試験では、毎年三、四名ぐらい眩(めまい)する者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに始終(しじゅう)気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても大丈夫(だいじょうぶ)でしょう。しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい」
「…………」
「イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと監督(かんとく)の先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい」
 といったので、始めて何部(なにぶ)の何番ということを告(つ)げたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにも件(くだん)の婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが判然(はんぜん)した。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ない態(さま)であった。僕は係員(かかりいん)の先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び玄関(げんかん)に来たときは、母なる人の姿も俥(くるま)の影も跡が見えなかった。

見る人毎(ごと)に有難からぬ人はない

 十一時の鐘(かね)が鳴ると同時に彼も教室を出て、下駄(げた)をはいて友人と笑いながら話をしているのを僕は認(みと)めた。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門を出(い)ずるを見送った。彼は友人と肩(かた)をたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の脳髄(のうずい)はただ試験の答案をもってのみ満(み)たされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。しかるに奚(いずくん)ぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を経(へ)、その翌日もまたその翌日も無難に経(へ)たことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。
 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ間(ま)にとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁護(ようご)する母の情愛があって、始めて無難な試験を経(へ)たものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。
 右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。かくのごとき恩愛(おんあい)は人の眼を忍(しの)んで、世にあまたあると信ずる。いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中に満(み)ちていると思う。ただこの満ちている情愛に触(ふ)れていながら、これに感ずるに鈍(にぶ)きわれわれの心情こそ、遺憾(いかん)至極である。感応の力にして鋭敏(えいびん)であるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。
 黒住(くろずみ)教の開祖宗忠(むねただ)翁の歌に、
有(あ)りがたやかゝるめでたき世(よ)に出(い)でてたのしみ暮(く)らす人(ひと)ぞ一とく
有(あ)りがたやかゝるめでたき世(よ)に出(い)でてたのしみ暮(く)らす身(み)こそ安(やす)けれ
有(あ)りがたや心(こゝろ)の雲(くも)もはれわたりうきよの雲(くも)はとにもかくにも



名は命名者の心を表わす

『荘子(そうじ)』に「名は実(じつ)の賓(ひん)なり」とあるごとく、実(じつ)は主(しゅ)にして名(な)は客(かく)である。言葉も同じく考えの賓(ひん)、思想の客(かく)なりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶(きっきょう)ありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛(さか)んに流行(はや)る。しかし名(な)と実(じつ)とが相伴(あいともな)わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若(し)くはない。
 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子(ろうし)の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の用(よう)は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足(た)る。遊ばせ言葉は暇(ひま)つぶしでかつ煩(わずら)わしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自(おのずか)ら物や思想の実(じつ)を現すだけで用(よう)の足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止(とど)まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古人(こじん)の曰(いわ)く「言者身之文也(げんはみのぶんなり)」と。日本の諺(ことわざ)にも「言葉は立居(たちい)をあらわす」というが、これはただ品(しな)や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。
 僕の知れる老人に滑稽(こっけい)趣味に饒(ゆたか)なものがあった。封建時代には従者(じゅうしゃ)や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を冷(ひやか)しながら、
「貴様(きさま)が笑うときの顔はまるで猿(さる)のようだ。これから姓名を改めてはどうだ」
 といい、真面目(まじめ)になって猿嘉(さるか)という命名書を与えた。爾来(じらい)この若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿嘉(さるか)氏を称している。また老人の親戚(しんせき)中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半耳(はんじ)と命名したという。これらの命名は客観的にその人々の特徴(とくちょう)を言い現したものだといえば、名は体(たい)をあらわすといわれる、いわゆる名詮自性(みょうせんじしょう)とやらである。しかし若者某(ぼう)のごときは、ただ笑うとき猿(さる)に似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な特徴(とくちょう)があったろうと推量する。彼が怒(いか)る時は鰐(わに)のごとく、酔(よ)った時は河童(かっぱ)のごとく、しかして睡(ねむ)った時は仏顔(ほとけがお)であったかも知れぬ。また半耳君(はんじくん)にしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、口(くち)なり鼻(はな)なり業平(なりひら)をしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。
 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指摘(してき)したのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、猿(さる)だとか、耳朶(じだ)が半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉快(ゆかい)なる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。

言葉はこれを用いる人の心を表す

 用語においてはなおさらである。これは何人(なんぴと)でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥(うんでい)の差がある。優(すぐ)れた人を評するにつけても、
「あの男はエライ」という者あり、
「エラそうだ」というもあり、また、
「エラぶる」というもある。
「まるい鶏卵(たまご)も切りようで四角」。
「物も言いようで角(かど)が立つ」。
 俗に「糞(くそ)も味噌(みそ)も一緒(しょ)にする」というが、味噌(みそ)を見て糞(くそ)のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度(たいど)に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。
 たとえばここに笑(え)みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、
「巧言令色(こうげんれいしょく)の人、阿諛※(「言+稻のつくり」、第4水準2-88-72)佞(あゆてんねい)の人」
 と評するし、乙は、
「よいぐあいに世渡りする上手者(じょうずもの)、愛嬌(あいきょう)を振りまく八方美人」
 という。また丙(へい)は、
「真に人に接して城壁(じょうへき)を設(もう)けず一視同仁(いっしどうじん)的の愛情の深い人だ」という。
 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚(しんせき)関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見(み)ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒(てら)うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切(こんせつ)によく説明してくれたと謝(しゃ)する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
 こういう例をあげきたれば、何人(なんぴと)にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯(ぱい)飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗(そし)る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露(ぎょくろ)を出す必要はない、彼は「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式(のぎしき)の人なりと讃(ほ)める人もある。
 また昔時(せきじ)シナの妃(きさき)が庭園を散歩し、桃(もも)の熟(じゅく)したのを食い、味の余りに美(び)なりしに感じ、独りこれを食(くろ)うに忍びず、食(く)い残しの半分を皇帝に捧(ささ)げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛(ちょうあい)いよいよ厚きを加えたが、その後妃(きさき)の寵(ちょう)衰(おとろ)えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件(けん)によりて罰(ばっ)せられたという。寸分(すんぶん)異ならぬ同一事実のものでも、見(み)ようによりては褒(ほ)めることもできれば、誹(そ)しることもできる。賞することも罰(ばっ)することもでき、殺すことも活(い)かすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤(しょうじょう)の差を生ずる。

同じ事が弁解にもなり有罪にもなる

 僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼は日(ひ)ならずして無罪を宣告せられたが、逮捕(たいほ)の理由は彼がある嫌疑者(けんぎしゃ)に数千の金(かね)を与えたというにあって、裁判官が、
「なにゆえに貴様(きさま)はかかる大金を彼に与えたるか」
 の尋問(じんもん)に対し、彼は、
「彼が嫌疑(けんぎ)がましいことをなすにつけ、いついかなる運命に陥(おちい)るかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋獄(けいごく)の身となるも悔(く)ゆることがない、ついては若干(じゃっかん)の金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一片(ぺん)の義侠(ぎきょう)、これを否(いな)むに忍(しの)びず、彼のために出金(しゅっきん)した」
 と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共謀者(きょうぼうしゃ)なりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、憐(あわ)れであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと告(つ)げた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に湧(わ)きいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一滴(てき)にだも値(あたい)せずと絶叫(ぜっきょう)したと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これを叙(じょ)するに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。

かくの如き曲解も起こる

 また僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影(しんえい)に最敬礼して登壇(とうだん)し、今日(こんにち)の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠(おこた)りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が爾(しか)く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾(しか)く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯(たわむ)れてくすぐる時は「叔父(おじ)さんいやだ」といいながらも、止(と)めればまたからかってもらいたい風(ふう)をするごとく、真にいやなのであるか否(いな)かわからぬのと同じである云々(うんぬん)、と述べた。
 すると傍聴者(ぼうちょうしゃ)のなかに、痛(いた)くこの演説が癪(しゃく)に触(さわ)った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚(はばか)らず猥褻(わいせつ)なる語(ことば)を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。
 講演者はいかなる点が猥褻(わいせつ)であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻(わいせつ)の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻(わいせつ)と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是(がんぜ)なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自(みずか)らしばしば唄った甚句(じんく)か端唄(はうた)を思い出したのである。いかなることでも揚足(あげあし)をとり曲解することは容易なる業(わざ)で、口の先は偉い力を有するものである。

不快の感を与うる言語

 我が邦(くに)には西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに「何々しやあがった」というのは一つである。また「何々をしてやった」というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「上(あが)った」というのでむしろ鄭重(ていちょう)な言葉と思うであろう。しかし日本人間(かん)にありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、
「何某(なにがし)は死にやあがった」
「誰は結婚しやあがった」
「勉強しやあがった」
「昇進(しょうしん)しやあがった」
 といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不愉快(ふゆかい)に思い、また人を陥(おとしい)るる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を懐(いだ)く。
 また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し癪(しゃく)に障(さわ)ったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手も凹(へこ)んだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を訪(たず)ねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は曰(いわ)く、
「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明瞭(めいりょう)にその言うところの意味がわからなかった」
 といい、進んで滔々(とうとう)としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張(こちょう)していい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋(ろう)かつ小であって、先方を困(こま)らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。
 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪(らいほう)を受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪(たず)ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに某(ぼう)を重大視(じゅうだいし)し、某は彼に対して無頓着(むとんじゃく)なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終(しじゅう)起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。

邦人間に行わるる嘘の原因

 そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘(うそ)をつくというが、悪意をもって嘘(うそ)を言わなくとも、事実に違ったことを吐(は)く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠(か)くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘(うそ)をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓(りんかく)が円縁(まるぶち)であればただちに円いと言い、屈曲(くっきょく)さえあれば円いというも、その円(まる)というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円(まんまる)と解するゆえに円(まる)ならぬものを円(まる)と嘘(うそ)をいうとする。
 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混(こん)じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味(いやみ)を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇(くも)れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。
 これに反して鄭重(ていちょう)なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。
 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜(きんき)の至り」などあり、西洋でも書簡文(しょかんぶん)には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、
「貴下(きか)の柔順なる忠僕(ちゅうぼく)」
 と直訳すると、邦文(ほうぶん)の「頓首(とんしゅ)」、「再拝(さいはい)」よりひどく聞こゆれども、この句の源(みなもと)はさほど卑屈(ひくつ)の意ではなく、
「貴下(きか)に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」
 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥(おびただ)しいから、人の葬式(そうしき)に悔(くや)みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直(しょうじき)な人は惑(まど)わされる。古人の歎(なげ)ける一首に曰(い)わく、
偽(いつは)りのなき世(よ)なりせばいかばかり人(ひと)の言(こと)の葉(は)はうれしからまし

心から湧(わ)き出たものが真の言葉

 用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語(ぜんげんびご)も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充(み)ち溢(あふ)れて言葉となる」とあるが、心から湧(わ)き出たものがまことの言葉である。
言(こと)の葉(は)の声(こゑ)に心(こゝろ)のあらはれてやさしき人(ひと)の底井(そこゐ)知(し)らるゝ
 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲(えんきょく)巧妙(こうみょう)なる言葉の下(もと)に骨(ほね)を銷(しょう)することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味(いやみ)たっぷりの文句や人を陥(おとしい)れる言い振(ぶ)り、人に無礼(ぶれい)する語を用いることはなはだ慎(つつし)むべきことである。僕自身が田舎(いなか)生まれではなはだ不謹慎(ふきんしん)の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。



教訓を責道具(せめどうぐ)に使うなかれ

 こういう僕もこれより言わんと欲(ほっ)することについて、自(みずか)ら反対の例となるの恐れなきにしも非(あら)ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。
 老人らが懇々(こんこん)と吾人(ごじん)に身の治(おさ)め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前(いしんぜん)の話をしているわいと、馬耳東風(ばじとうふう)に聞き流すことが多い。また吾人(ごじん)の真情や実況を一通り心得ている友人が懇切(こんせつ)に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺(おれ)の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底(むなそこ)で笑いたくなることもある。
 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽(ふきゅう)の金言と称せらるる教訓に触(ふ)れても、甘(うま)いことをいっている、この訓(おしえ)は某(たれそれ)に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地(ここち)することがままある。
 ゆえに、少しく油断すると聖人(せいじん)君子(くんし)の言葉を用いて他人を責(せ)むる道具とする懼(おそれ)がある。さればこそ、他人を偽君子(ぎくんし)と呼び、不忠不義と罵(ののし)り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪(つみ)するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。
 こういうふうに他人が吾人(ごじん)のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢(せんけん)が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯(きょうがい)に達しない、すなわち自己の非(ひ)を悟(さと)らず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾人(ごじん)の境遇(きょうぐう)を充分(じゅうぶん)知らぬゆえである。

教訓を味わう力が足らない

 今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕は自(みずか)ら経験した恥(はじ)もさらさねばならぬ。
 たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不始末(ふしまつ)であった。不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に迷惑(めいわく)かけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。これがために自分が知らないうちに懐(ふところ)が空(から)になったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。このことについては親戚(しんせき)友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに懇切(こんせつ)に、いかに穿(うが)っているかを味わうことができなかった。
「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」
 と諺(ことわざ)にいうごとく、親が存命(ぞんめい)で孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながら怠(おこた)るが、親無きあとで『孝経(こうきょう)』を読みかえすと、初めてその「経書(けいしょ)」の真意が明らかになる。これ故人(こじん)の忠告が不足なるにもあらず、『孝経(こうきょう)』の悪いのでもない。ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受け容(い)れる襟度(きんど)のなかったためである。くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。
 また放蕩(ほうとう)にふけっている者も同じことで、耽溺(たんでき)しているあいだは『論語』をもっても『法華経(ほけきょう)』をもってもなかなか浮かびきれない。説(と)けば説くほど自分に関係ないことのように心得て、「君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ」底(てい)の考えでますます深みに陥(おちい)るのもわれわれはしばしば見る。しかるにこの人にして相手方が彼を欺(あざむ)くか、あるいは自(みずか)ら飽(あ)きてくると初めて目が覚(さ)める。かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、『聖書』の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。

聖哲の教訓はなにゆえ凡人(ぼんじん)に入り難きか

 いったい聖人君子の教えと称するものは、長いかつ広い経験に基づいたことは多いとはいえ、抽象的(ちゅうしょうてき)のものが多くて具体的でない。いわば汎論的(はんろんてき)で、各論的でない。万民に演(の)べた言で個人に述べた言でないからして、とかくわれわれ凡人(ぼんじん)の頭には入っても腹の底に沁(し)みることが薄(うす)い。
 大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる境遇(きょうぐう)の者にも応用できるだけに、これは俺(おれ)のことだと私の意味に取ることは薄くなる。それゆえに先に述べたように、こういう文字は人を責(せ)むる道具に用いるほうがむしろ多いかと思(おも)う。彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、俺(おれ)は不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。またたまたま己(おの)れの非を自覚しても、すぐに俺(おれ)はまだ某々(たれたれ)ほどに堕落(だらく)せぬとか、あるいは俺(おれ)の場合は特別であると自(みずか)ら義(ぎ)(justify)せんとしたがる。
 実際僕が今こうしてこのことを書きながらも、僕自身が人を責めておりはせぬか、この文を草(そう)するよりは、むしろ退(しりぞ)いて己れ、果たして忠なるか、己れ果たして孝なるかを考えるほうが筆取るよりも急務ではないかとまったく思わぬでもない。これを思うと同時にまた若い時につまらぬことながら僕がここに言わんと欲することを言ってくれる人があったなら、いくらか誤りも少なかったろうにと思いかえしてまた筆を取る。

余らの学校時代には徳育が無い

 決して誰彼(たれかれ)を怨(うら)むわけではないが、……もし怨むとすれば時勢を怨むというよりほかにないが、……明治十年前後、僕が学校ざかりの時分には、日本の国は教訓については(道徳とは言わぬ)沙漠(さばく)の時代であった。
 僕の十歳代の時を顧みると年長者なり、先輩(せんぱい)なり、親切に指導する者ははなはだ少なかった。有為(ゆうい)なる人物を育てるようには、心がけた人がたくさんあったが、正しい人間を造ろうということには心のうちには、いずれも思っていたろうけれども、これを形に顕(あらわ)して自(みずか)らこれを個人に及ぼすことのはなはだ少ない時代であった。ゆえに神経質(しんけいしつ)なる僕のごとき者は、(僕と同感の青年が何万とあったろう)すがりよって、教えを求めようと飢(う)え渇(かわ)いていたものである。しかるに親切な人も正しい人も許多(あまた)あったが、時代の要求は少しは悪い奴(やつ)でも役に立つ人才(じんさい)を要する傾向があったから、教育上道徳観念を養(やしな)う者はほとんどなかった。ゆえにこれを求むる者は勢(いきお)い書物に依(よ)ったのである。
 しかるに残念なことには書物にあることは前述のごとく抽象的(ちゅうしょうてき)であるから、未熟の頭脳(あたま)には入りにくい。たまたま入れば自分を省(かえり)みるより他人を責むる道具となる。

訓戒の値打(ねうち)を知る法

 そこで僕は始終(しじゅう)思うに、個人の訓戒を実際に施(ほどこ)すには、その抽象的(ちゅうしょうてき)教訓を具体的に翻訳(ほんやく)しなければならぬ。この翻訳をするには、一つには伝記を読んで、何某(だれだれ)がどういう誤りをして、どういう結果に陥(おちい)った。そしていかなる法によって、取り返しをしたかを知るが一つ。また一つには年輩(ねんぱい)も境遇(きょうぐう)も同じような親友とたがいに真情をうちあけて、俺(おれ)はこういうことをした、あるいはこういう悪い考えが浮かんで困ると語り合い、また友人の実験を聞いて、実際の人生にいかなる誘惑(ゆうわく)のあるものか、自(みずか)ら知らぬ経験(けいけん)を具体的に他人から聞きただすも一つの法であろうし、また自(みずか)ら退(しりぞ)いて想像して、己(おの)れがかくのごとき場合に陥(おちい)ったならば、いかに身を処(しょ)するかを、考えるもまた一法であると思う。
 僕がいま最後に述べたことは、子供らしい方法で、世間の物笑(ものわら)いになるか知らぬが、少なくとも僕のごとき平凡なる青年にはすこぶる役に立った方法である。たとえば今に記憶に残っていることも少なくないが、十五、六のころ一人で想像して、もし俺(おれ)がかくかくの困難に陥(おちい)ったときは、自分はどうしよう、もし俺(おれ)がかくかくの誘惑にさそわれたときには、こうしようと夢みるごとくに描いた仮定が、その後しばしば役に立った。今後も役に立つであろうと信ずる。事に当たって惑(まど)うときも苦しむときもちょっと一歩退(しりぞ)いて、
「ハハアこれはいつぞや夢に見たこういう場合に当てはまる。そのときにはこうしようと思ったが、今日その通りできぬはずがない」
 と、こう思うと大概のことには、かねての準備(じゅんび)があるがごとき自信を抱いてくる。ゆえにこの想像がなかったならば狼狽(ろうばい)すべかりし場合にも、うんこれは例の夢が実現せられているんだと、思いきりがつく。もっとも聖人君子ならざる身であれば、事に当たって一時惑(まど)うは遺憾(いかん)ながらあっても、そのことをかねて期待しておったとおらぬとはたいへん違う。彼の有名な業平(なりひら)の辞世を見ても、
遂(つひ)に行く道とは兼(かね)て聞きしかど昨日(きのふ)けふとは思はざりしを
 とある。業平(なりひら)という人は文芸に優秀なることは言うまでもないが、その人となりについてどれほど根底のたしかな人か知らんが、その臨終(りんじゅう)になって、「昨日(きのふ)けふとは思はざりしを」とのこの句はちょっと不意打(ふいう)ちをせられて、あわてたようにも聞こゆるけれども、もし彼にして「遂(つひ)に行く道」を兼(かね)て聞いておらなかったならば、彼の狼狽(ろうばい)は定めし見苦しかったものであろう。

抽象的の教訓も初めて具体的に会得(えとく)する

 僕がさきに述べた、艱難(かんなん)誘惑(ゆうわく)を仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、豪傑(ごうけつ)らは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の同僚(どうりょう)たる凡人(ぼんじん)に対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々は諒(りょう)としてもらいたい。
 この仮想によって、抽象的(ちゅうしょうてき)の教えを具体的に翻訳して初めて意味が明瞭(めいりょう)にかつ実際的になり得る。明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんの値(あたい)もない。そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる卑見(ひけん)も黄金(おうごん)の値(あたい)を有するにいたる。それであればこそ路傍(ろぼう)で耳朶(じだ)に触れた一言が、自分の一生の分岐点(ぶんきてん)となったり、片言(かたこと)でいう小児(しょうに)の言葉が、胸中の琴線(きんせん)に触れて、涙(なみだ)の源泉を突くことがある。老嫗(ろうおう)の一口噺(ひとくちばなし)が一生涯の基(もとい)を固(かた)めたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。
 釈迦(しゃか)が東西南北の門を出(い)で、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいは貧(まず)しき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。

忠告を納むるべき肥沃(ひよく)な畑

 かの英国の誇りとするシャフツベリー卿(きょう)は、身は名流であり、一家は巨万の富を積み、娯楽(ごらく)に世を渡る資格をそなえておりながら、中学校時代乞食(こじき)の葬式の途中棺(かん)から死骸(しがい)のおちるのを見て、十五分間に自分の生涯の方針を定めたと称している。
 しかるにわれわれもよし乞食(こじき)の葬式にあらずとも、これに類したることはしばしば見ている。世の憂(う)き事、人生のつらいことが毎日われわれの眼に映(うつ)り耳に響(ひび)きながら、われわれの胸にはなんらの影をも落とさず、なんらの共鳴をも引き起こさない。しかるに世にいくらか仕事をなした人について質(ただ)したならば、十に八、九までは、私の立志(りっし)はかくかくの時に発したと、なにか具体的な、しかも他人の耳にはつまらなく聞こゆる些細(ささい)な出来事を指摘するであろう。これ蓋(けだ)し、すでに腹の畑は肥(こや)しができ、掘り起こされて土壤(どじょう)が柔かになり、下種(かしゅ)の時晩(おそ)しと待っているところに、空飛ぶ鳥が偶然(ぐうぜん)一粒(りゅう)墜(おと)したり、眼に見えない風が山の彼方(かなた)より種を抱いて吹き来たったりして、春に萠(きざ)し、夏に花咲き、秋に実るのである。
 人の心も先に言った想像なり、あるいはそれよりはるか以上の方法をもって、準備を整(ととの)えていさえすればいかに卑近(ひきん)な教えでも、いかに些末(さまつ)な忠告でも、必ずこれを受け取って発芽(はつが)して、花咲かせて実るものと思う。
 他人の諫言(かんげん)忠告をいつでも容(い)れる心の態度を有する者は真の大人(たいじん)、君子、英傑である。シナ太古の聖人が世を治(おさ)むる時代には朝廷(ちょうてい)に諫鼓(かんこ)という太鼓のような物を備(そな)えおいて、誰人(たれびと)にても当局に忠告せんとする者はこれを打つと、役人が出て諫言(かんげん)を聴いたと伝えるが、今日は諫鼓(かんこ)のかわりに新聞があるけれども、耳を傾ける度量は昔にくらべてどうであろう。

正しき時に正しき言を放つは賢人

 なお他人に忠告するについては、一言(いちごん)したいことがある。たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ凡人(ぼんじん)に訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが釈迦(しゃか)、孔子(こうし)、耶蘇(やそ)の訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功を奏(そう)することはおぼつかなく思う。
 友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。
 しかし忠告する値(あたい)があることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。友人の心の畑(はたけ)が耕(たがや)されているや否や、英国の諺(ことわざ)に賢人とは正しき時に、正しき言を放(はな)つ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば愚人(ぐじん)の言にも劣(おと)る。おそらく多くの人はみな経験があるだろう。
 まじめになって、友人を諫(いさ)めたためにあるいは友誼(ゆうぎ)を破り、あるいは他人の心に反抗心を惹(ひ)き起こさせて、いっそう彼を堕落(だらく)せしむるの機縁(きえん)となることがある。時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、葬式(そうしき)に祝詞(しゅくじ)を呈し、めでたき折に泣き言(ごと)を述ぶるに等(ひと)しきことは常識に任(まか)せて謹(つつし)みたい。
 僕のたびたび引用する『菜根譚(さいこんたん)』に、
「人の悪を攻(せ)むるは太(はなは)だ厳(げん)なるなかれ、その受くるに堪(た)うるを思(おも)うを要す。人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし」
 とある。

功(こう)を奏(そう)する忠告と奏(そう)せぬ忠告

 人を批評するにも、人を判断するにも、また人に忠告を与えるにも、先方の事情を深くかつ同情的に汲(く)むにあらざれば、われわれの批評がけっしてその当を得ない。かえってわれわれの判断が誤りやすい、すなわちわれわれの忠告は功(こう)を奏(そう)しない。
 管仲(かんちゅう)が戦場で遁(に)げたからとてただちにこれを卑怯(ひきょう)と批評し臆病者(おくびょうもの)と判断し、しかして勇敢(ゆうかん)なれと忠告した者があったならば、おそらく彼は腹の底で笑うのみであったろう。彼を知る鮑叔(ほうしゅく)が彼を目(もく)して臆病者とも卑怯者とも言わなかったのは、彼の人となりと、彼の事情を知っているからである。
 僕はずいぶん異なった境遇に遭遇(そうぐう)したあまたの人に接して考える。教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情の薄(うす)きによると思う。約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠意誠心が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先だちて深く心に念ずるこそ順序であろう。また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外に出(い)でたるものと思えば、これ実に天の声である。
 貝原益軒(かいばらえきけん)がものせる『大和俗訓(やまとぞっくん)』の中に、忠告に関するまことに穿(うが)った教訓があるから、左に抜萃(ばっすい)する。
「およそ人を諫(いさ)むるには、人の気質によりて直諫(ちょっかん)、諷諫(ふうかん)の二つの法あり。知らずんばあるべからず。その心和順(わじゅん)にて義理明らかなる人ならば直諫(ちょっかん)すべし。直諫とは過(あやま)ちをいいあらわし、理(り)をすぐにのべて、是非(ぜひ)をまげず、つよく諫(いさ)むるなり。かくのごとくなれば聞く人おそれて従う。孔子(こうし)の法語の言(げん)とのたまう是(これ)なり。また気質和順(わじゅん)ならず義理くらき人ならば、諷諫(ふうかん)すべし。諷諫(ふうかん)とはただちにその人の過悪(かあく)をさしあらわしていわず、まずその人のよきところをあげて誉(ほ)め、その人を喜ばしめ、その人の心に従いてさからわず、ただその事の損(そん)なると益(えき)なるとを説きて得心(とくしん)せしむべし。あるいは他事によそえて善悪得失(とくしつ)を述ぶべし。かくのごとくすれば聞く人、はらたたずしてよろこびて諫(いさ)めを聞きしたがう。孔子(こうし)の巽与(そんよ)の言(げん)とのたまえる是(これ)なり。人をいさむる法はこの二つなり。その人の気質によりていさめの法かわるべし。直諫するこそ本意なれども、正直に強く諫(いさ)めても聞く人の耳にさからいて受け用いざれば益なし。名君(めいくん)賢者(けんじゃ)ならでは直諫(ちょっかん)によろしき人は稀(まれ)なり。よのつねの人ならば諷諫(ふうかん)すべし、諷諫をよくして人のよく聞き入れたるためし多し。是いさめのよき手だてなり。いさめの道を知らで辞(ことば)をあらくして人にさからい、みだりにいえば人怒りて必ず聞きいれず。人に益なくしてわが身のわざわいとなる。ことにわが親に直諫して腹立たしめ、親よろこばざれば親子の中(なか)うとくなる。大なる不幸なり。親をいさむるには法あり。
 易(えき)に曰(いわく)『納レ約自レ※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)(ムスブヲイルルニマドヨリス)』、まどは明らかなるところなり。たとえば家の内にある人に外より物を言い入るるに、壁越(かべごし)にいえば聞こえず、※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)(まど)よりいえば聞こゆ。諫(いさ)めを言うも亦(また)かくの如し。いかなる愚(おろか)なる人も、必ずいずくにぞ片(かた)はしに道理開けて明らかなる所あり、或いは好む所の欲(よく)あり。その所をよく見つけて言い入るれば聞き入れやすし。この諫(いさ)めようのよきこと古(いにしえ)もさるためし多し。ふさがりたる処を知らずして、いかに忠(ちゅう)をつくして諫(いさ)むとも、聞き用いざれば益なし」。



偉大なる思想が何ゆえに萎縮(いしゅく)するか

 いかなる文字でも、善き意味にも悪き意味にも用いらるるが、感情(かんじょう)なる言葉ほど、ときには善く、ときには悪く用いらるる言葉は少なかろう。人を讃(ほ)めて言うときに、あの人は感情家であるから、言うことが活気があるとか、あるいは精神がこもっているなどという。これに反し、あの人は感情家だから、議論が学理の軌道(きどう)をはずれ、とかく横道に走るともいう。
 いったい感情は読んで字のごとく、われわれの感覚(かんかく)といわゆる人情(にんじょう)との二つを含むものであるから、善くもとれるし、悪くもとれると同じく、正しきにも走り、正しからざるにも走りやすい。感情はいわば一種の力であって、感情あればこそ思想も力を添(そ)え、感情の力なければ、人の考えはとかく冷淡にして働きに現れることは少ない。よし現れても、その運動量(モーメンタム)が弱い。
 感情は意志や思想に力をつけるものであるゆえ、誤った思想に感情が混じると、その誤りがいっそう恐ろしくなる。ここにおいて、僕はしばしば感情の教育ということを口にするが、人の感情をして私を去って潔(いさぎよ)からしめたならば、自(おのずか)ら正しき思想に結(むす)びついて、偉大なる力を惹(ひ)き起こすものであるが、もし感情にして卑(いや)しい女々(めめ)しいものであれば、することなすこと小さくなって、偉大なる思想さえも、小感情のために、大きなところを失って縮(ちぢ)まってしまう。おたがいも折々見ることで、知り合いの人のなすことを傍観(ぼうかん)しても、思慮(しりょ)はたいそうよく、すなわち思想においては間違いはなくとも、これを実行せんとするにあたり小さな感情から割り出すがために、とかく卑劣(ひれつ)な穢(きたな)い挙動に終ることがままある。あるいは人の思想をまたは行動を判断するについても、小さな感情をまじえてするがために、せっかくの大きなことも善きことも充分認識(にんしき)せられないでしまうことが多い。
 イギリスの諺(ことわざ)に「いかなる英傑も彼(かれ)の側(そば)に侍(はべ)る小姓(こしょう)の眼(め)には偉大と映じない」とある。これ英傑が偉大ならざるにあらずして、小姓(こしょう)が偉大ならざるがためである。それと同じく、小さなる感情を挾(さしはさ)む人には、いかに善きことも、いかに大(だい)なることも、けっして真の性質を会得(えとく)しえない。僕自(みずか)ら古今の英雄や豪傑(ごうけつ)を批評するにつけて、小さなる感情よりすることをたびたび恥ずかしく思う。

女々(めめ)しい感情皮相の感情

 僕が数年前、米国に留学していたころ僕の下宿屋の主婦とリンカーンの人物評(じんぶつひょう)を試みたことがある。この主婦は、もとはその家柄は卑(いや)しからぬ者で、南北戦争のさいには南軍方(がた)であって、最もリンカーンの政策に反対した者であったためか、リンカーンの人物を評するにも、その時の感情を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)(さし)はさんで、彼に関することならば、なにごとも曲解する傾きがあった。してこの曲解に対して、わが輩が一々弁護(べんご)したところが、最後の反対論として、
「だってもリンカーンという人は非常な醜男子(しゅうだんし)でしたもの」
 とあたかも彼の容貌(ようぼう)の醜(しゅう)なりしことが、最大の罪悪でありしがごとく述べた。
 これほど明らかに口に出さなくとも、これに負(ま)けないほどの不合理な理由から、人の批評をしたり、歴史の事実を判断するものは許多(あまた)ある。なかんずく無学な者か、あるいは少しばかりの学問があってもことさら婦人の仲間に多いと思う。婦人が往々にして身を誤(あやま)つなどは、これと同じ筆法(ひっぽう)より、人を判断するからである。あるいは一席(せき)の歌を聴(き)いて、その声が善ければその音声のために感情を動かされて、他のことにはなにも眼をくれない、ついに蓄音器(ちくおんき)の代用たるべき者のために身を誤ったりする。一口(ひとくち)にいういわゆる「様子(ようす)がいい」人、すなわち木偶(でく)同然の者のために身を誤るのはすなわちこれである。
 また相応なる位置にある立派な人でも、かたわらにいる者のために、おべんちゃらをもって、あるいは御追従(おついしょう)をもって、その感情をやわらげられて、判断力を失うことは歴史にたくさんある。一身を誤る理由の多くあるうちにも感情ほど大(だい)なる力はおそらく少なかろう。
 学者の説によれば人類の進歩は思想において発達するとともに、感情はいよいよ鈍(にぶ)くなるという。ことごとくこの議論には敬服(けいふく)はせられぬけれども、議論にあらずして実際において、劣等人種(れっとうじんしゅ)もしくは修養(しゅうよう)なき者は感情ことに小さな女々(めめ)しい感情に左右せらるること多きを思って、僕みずから感情家たるゆえか、これこそいちばん改革すべきところであると思う。

大統領改選に現れたる米人の感情と思想

 米国においては四年ごとに大統領(だいとうりょう)の改選が行われる。一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。したがって候補者の数も増すために、世人(せじん)の議論がなかなかやかましくなる。一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。
 しかるに彼らの論ずるところを傍(はた)で聞くと、地質学者(ちしつがくしゃ)が化石(かせき)を科学的に攻究(こうきゅう)するごとき調子がある。甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこう勝(まさ)るとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が極端(きょくたん)に走って、容易(ようい)ならぬ結果に陥(おちい)るかと思えば、政治論はそれだけで、他の点において親(した)しく談話をする様子(ようす)は、わが国においてはなかなか見えないことで、このことは独(ひと)り政治にのみ関してしかるわけではない。日々(ひび)の事業について、実業家がその職業を営(いとな)むにつけても同じこと、おのれが損(そん)したからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に感謝(かんしゃ)する感情もないように見受ける。

我が商人は事業と人情とを混同する

 西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品性(ひんせい)すなわち商業道徳なるものを難(なん)じている。われわれとてもいかに讃(ほ)めたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに優(まさ)るとはいいかねる。否(いな)大いに劣(おと)ると言わざるをえない。その理由は許多(あまた)あるが、僕がここで言いたいことは唯(ただ)一点である。
 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)(さし)はさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高尚(こうしょう)らしくも聞こえるけれども、それは慈善(じぜん)をなすときか、友人を祝うときか、霊前(れいぜん)に供(そな)うるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器械(きかい)である。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。失敗(しっぱい)すると、失敗の本(もと)たりし理由を人格視(パーソニファイ)して、あの金(かね)のために祟(たた)られたとか、あの機械のために一身を亡(ほろ)ぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの怨(うらみ)を被(き)せ、何(なん)の某(なにがし)はあれほど老練(ろうれん)であるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の倒(たお)るるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように勧(すす)めたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。
 また事業と感情とを混同する事についていうべきことは、外国ではたとえば注文(ちゅうもん)の日限(にちげん)に品物ができなければ、むろん契約破棄(けいやくはき)となる。日本とても法律上はそうであるけれども、東西の違うところは、西洋ならばおたがい知人のあいだでも Business is business で、私(わたくし)の交際と取引上のこととは別として考える。日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことが縺(もつ)れてくる。ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情に訴(うった)えて申し訳をすることを計る。自分が病気であったとか、あるいは親戚(しんせき)に不幸があったとか、子供が怪我(けが)をしたとか、出産したとか、取引にまったく関係なき一家のことをもって、申し訳に供しようとする。
 借財(しゃくざい)の返済(へんさい)も同じことである。もっとも借財が、一家の生計のために借りた金であれば、一家の都合(つごう)によって返済の能(のう)不能(ふのう)も定まることであるから、感情的の理由も通る場合もあまたあろうが、借財が事業のために負(お)ったものならば、一身上あるいは一家上の都合(つごう)は言うべきものではないと思う。かく入るるべからざるところに、感情を入れるから、人の交際が面白くなくなってしまう。せっかくの親しい友達のあいだが破れることなどもよく目撃することである。

感情濫用(らんよう)の弊(へい)を撓(た)める必要

 普通にいう癪(しゃく)に触(さわ)るとか、虫が好かないとか、はなはだ漠(ばく)とした言葉をもって、われわれの感情的の作用(さよう)をいいあらわしているが、この癪(しゃく)、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、統計(とうけい)に積もると大したものであろう。
 なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ愉快(ゆかい)に過ごしうるだろう。合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気に触(さわ)ったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生世(よ)を面白くなく渡るのは、とかく詰(つ)まらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれは勉(つと)めてこの害を矯(た)めるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのまま傚(なら)って彼(か)の風(ふう)に化(か)せよとはかつても言ったこともない。また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。
 善悪正邪(せいじゃ)はとにかく、損徳(そんとく)の点から打算(ださん)しても、なんの必要もなきところに、感情を費(ついや)すことはおろかな業(わざ)である。僕はかつて精力の貯蓄(ちょちく)なる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じような説(せつ)をときたい。
 ただ読者に誤解(ごかい)なきよう願いたいことは、高尚(こうしょう)または有益なる感情をも殺せという意は僕に更(さら)にない。すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきを含(ふく)ましてある積りだが、ただ感情の入って邪魔(じゃま)になるところに、感情を入(い)るるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取引(とりひき)あるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者も道心(どうしん)と人心(じんしん)と区別して説いたそうである。道心は人心(じんしん)のその正を得たる心と王陽明(おうようめい)は説いたが、正(せい)を得るとは、人欲(じんよく)のまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。
 すなわち客観的(きゃっかんてき)に冷静にものの理を求むる心である。これに反し、人心とは道心のその正(せい)を失(うしな)ったところで、我田引水(がでんいんすい)的に勝手しだいの理屈(りくつ)を案ずる心理動作(どうさ)で、自己の感情によりて万事を判断する心である。自己の希望がものの理(り)と符合(ふごう)すればよいが、なかなかそう甘(うま)くゆくことが少(すく)ないから、結局感情に駆(か)られて為(な)すことは、理(り)に背(そむ)くこととなりやすい。
 さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、人身攻撃(じんしんこうげき)のごとき、あるいは卑怯(ひきょう)なる言葉に陥(おちい)って、自己が弁護せんとする議題をもかえって損(そこな)われ、加うるにおのれの人品(じんぴん)まで下劣にすることは往々(おうおう)にして見ることである。理屈において負(ま)けたならば、一本参(まい)ったと綺麗(きれい)に敗(ま)ければ男らしくもあり、かえって自分の主張に泥(どろ)をつけないものとなるに、おのれの議論が弱いときには、その弁護に感情を含(ふく)まして、みすぼらしい論法など振りまわす。よし皮肉(ひにく)をもって一時勝利を得るにしても、その実は敵に敗(ま)けたものである。
 ことを論ずるにあたり、悪口雑言(あっこうぞうごん)をはさむのは、理(り)は尽(つ)きて、自己の主張の論拠のなきを自白すると同然である、つまり負けた証拠にほかならぬ。思想と議論はあくまでも冷静たるを要す。また実行と性情(せいじょう)はあくまでも熱烈たるべし。ことにあたるに果断(かだん)なくてはならぬが、その果断も一時的感情より来たるものは誤(あやま)りやすいから、思慮(しりょ)の上にも思慮をめぐらして、定めねばならぬ。「果断義(ぎ)より来たる者あり、智(ち)より来たる者あり、勇より来たる者あり。義と智を併(あわ)せて而(しか)して来たる者あるは上なり。徒(いたず)らに勇のみなる者殆(な)し」



職業とこれに従事する者の不釣合(ふつりあ)い

 世の中を見渡すと、職業とこれを営む者とのあいだの釣合いが当を得たものと得ないものとがあることは、何人(なんぴと)も意外としないものはあるまい。両者の関係はちょうど夫婦のようなもので、世には、似(に)た者(もの)夫婦もあれば、いかにしても釣合いの説明できぬような場合も少なくない。昔の人も円きものが三角の穴に入らんとし、四角のものが円きところに箝(はま)らんとするといったが、実にそのとおりで、おそらくなんの職業にしても、これに従事せる人につきいちいちに調べたならば、もとよりその職業につく目的をもって進みきたり、かつ現在の職業に甘(あま)んずる人は百人に一人あるや否や我らは大いに疑わざるを得(え)ない。
 自分の知れる人について考うるも、現在の地位に甘んじ、かつ得意でいる者ははなはだ少ない。たまたまそういう人がありとするも、そは年来の予定の行動の一部をなしたのでなく、むしろ計らずその地位に箝(はま)ったという場合が多い。
 たとえば法学士にして某職にある者に質(ただ)せば、中学時代よりその目的としたる位地に達したと答うる者は百人に一人もあろうか疑わしい。まして秩序的(ちつじょてき)教育を受けぬ人は、おのれが望むがままに今日の地位に進める人はほとんどあるまいとまで疑われる。

難を求むる職業選定の依頼

 少し年老った者は年若い者いわゆる後進者より職業選択(せんたく)について相談を受けぬ者はほとんどあるまい。あるいはすでに一定の職業にある者よりしてなお他に活路(かつろ)を求めたき希望を訴(うった)えられぬ人はなかろう。
 わが輩もかくのごとき相談を、平均したら三日に一度ぐらいの割合に受けている。はなはだしきは簡単なる手紙をもって、自分の姓名(せいめい)と生年月日とを認(したた)め、これに現在の職業を書き加えて、他に発展の途(みち)を講じたいが、何をなしたらよかろうかと、あたかも卜者(ぼくしゃ)に尋(たず)ねるがごとき信書がくる。わが輩も返事に窮(きゅう)し躊躇(ちゅうちょ)していると、三銭切手(きって)を封入せる以上返事をうながす権利があると催促(さいそく)されたことも一、二度でない。
 いったい自己の職業選定に、毫(ごう)も知らぬ他人に相談することがすでに大なる誤(あやま)りである。前述のごとき場合には、僕はつねに親はもちろん、その他親類、親友なりもしくは土地の先輩(せんぱい)にしてよく当人の性質をわきまえる人に相談せよと返事する。いかに詳(くわ)しく認(したた)めても、一片(ぺん)の手紙におのれの性質をいい現すことは、とうていできることではない。よし筆はいかに達者でも、書くべき材料、すなわち自己の性質を客観的に記叙(きじょ)することはおそらく不可能であろう。したがって一面識(めんしき)だもなき人に自分の生涯(しょうがい)を左右する職業の選定を相談しても、けっして満足な返事は得られぬと思う。
 ある具体的の問題あり、かくすればかくなり、こうすればこうなると、理詰(りづめ)で判断はできるが、自分はだいたいの見地(けんち)よりこの問題を見る力なく、取捨(しゅしゃ)去就(きょしゅう)に迷うゆえ、いわゆる先輩の判断を乞(こ)うというならば、知らぬ人に対しても相当の考えを立て判断を下すこともできようが、その性質および周囲の事情に深き関係を有する職業選定は、日ごろ交際ある人にあらざればなかなか判断のできるものでない。
 おそらく職業の選択(せんたく)は細君(さいくん)の選択よりもいっそう困難であろう。細君の選択には往々(おうおう)にして媒介者(ばいかいしゃ)の言に一任し、しかして結婚の式を挙げたのち、始めて両者の気象(きしょう)の合わぬことを発見し、離婚する場合がはなはだ多い。世界の文明国中で離婚数の多きこと日本のごときはなしというも、要するに選択に注意せぬためであろう。ましてさらに困難な職業を選ぶに、見ずしらずの他人を頼み、あるいは一時の感情にかられて決定することは危険のはなはだしきものである。

感情よりする職業選択にも有利の場合あり

 わが輩はいま感情にかられるといった。わが輩はあえて感情そのものが悪いというのでない。ことにあたるには熱するくらいになるがいい。熱するというのはすなわち感情の昂奮(こうふん)する謂(いい)である。しかしことにあたるか否かを判断するときは、須(すべから)く感情を避(さ)け冷静に是非曲直(ぜひきょくちょく)の判断を下すを要する。
 折々青年にして時々の新聞を見て大いに憤慨(ふんがい)し、その日の感情により自分の将来の職業を定めんとする者がある。軍国の際のごときことに然(しか)り、将軍の凱旋(がいせん)を見て、おのれも軍人にならんと思い、某代議士が演説に大喝采(だいかっさい)を得たるを聞いては、おのれもただちに代議士たらんことを思い、あるいは実業家が拝謁(はいえつ)を賜わりたりと聞き、おのれも実業家たらんと思うように、一時の現象に眩惑(げんわく)されて終身(しゅうしん)の方針を定むることは、必ず悪い結果をもたらすとは断言されぬが、危険(きけん)が多いとはいいうる。
 いったい「三つ子(ご)の魂(たましい)百までも」というがごとく、何人(なんぴと)にも幼少の折、漠然とした職業選定の傾(かたむ)きが心に備われるものである。いわゆる学者向きであれば研究的にできており、あるいは才子的のものもあれば、あるいは事務的のものもある。人はおのおのその心の構造(こうぞう)を異にしている。ただ自分も判然とそれを自覚しなければ、世間の人は無論、親さえも明らかに観察(かんさつ)することはできない。しかるに、この混沌(こんとん)たる有様(ありさま)のなかにも、おのずから輪廓(りんかく)だけはぼんやりと現れている。
 鶏卵(けいらん)にたとえていえばちょうど黄身(きみ)も白身(しろみ)もまだ判然と分かれておらぬ程度である。それが月日(つきひ)を経(ふ)るに従い、黄身は黄身、白身は白身と分かれ、さらに進んでは頭もでき、手も足もそなわり、一つの雛(ひな)に化(か)するように、きわめて幼少の折から自然的に各分業的の萠(きざし)あるものである。しかるにこの観念(かんねん)ははなはだ漠(ばく)としているゆえ、前述のごとく自己の認識にのぼらぬのである。
 しかるにある外部の刺激(しげき)によってこの自覚が急に鮮明となることがしばしばある。天性(てんせい)軍人になるべき資格を孕(はら)める者が一日(じつ)新聞を見て始めて自己の天職(てんしょく)のいずれに存するかを発見するがごときはそれで、かくのごとき場合においては一時的の感情と見ゆるものがけっしていわゆる一時的感情にあらずして、先天的感情の発揮(はっき)である。ゆえに職業を選ぶにつき一見一時的感情とみゆる動機によりて定むることも必ずしも誤りなりとは言えぬ。

伊藤公発憤(はっぷん)の動機を見よ

 一日(じつ)、横山健堂(よこやまけんどう)氏より故(こ)伊藤公に関する趣味(しゅみ)多き談(はなし)を聞いた。公(こう)がかつて吉田松陰(よしだしょういん)先生の塾(じゅく)にいたとき、一夜、他の塾生(じゅくせい)とともに炉(ろ)を囲んで談話しているあいだに、公は時の長州藩(ちょうしゅうはん)の家老が人を得ないことを憤慨(ふんがい)した。これを聞いていた松陰(しょういん)先生は、平生は女子のごとく柔(やさ)しくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声を励(はげ)まして、
「貴様(きさま)の言うごとく自(みずか)ら天下を料理する考えを真面目(まじめ)に有するなら、長州家老(ちょうしゅうかろう)の適否(てきひ)のごとき歯牙(しが)にかくるに値(あた)いなきものである。しかるにいま貴様(きさま)の言を聴けば、それはやはり家老どもの力を藉(か)らねば、天下が治まらぬというごとき卑怯(ひきょう)の意志あることを自白するにほかならぬ。そんなことで天下の大勢(たいせい)がわかるものか」
 と叱咤(しった)した。つねになき激語を発したので弟子(でし)どもも一時はあっけにとられたという。伊藤公は多数塾生(じゅくせい)の面前でかく叱(しか)られ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後帰省(きせい)されたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。
 伊藤公が先生に叱(しか)られたその瞬間(しゅんかん)に起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかと質(ただ)せば、その時始めて「寝耳(ねみみ)に水」のごとくこの教訓が公の耳朶(じだ)を打ったとは思われぬ。また松陰(しょういん)先生にしても誰にでもこの筆法をもって鞭撻(べんたつ)されたとも思われぬ。日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一針(しん)を加えたにすぎぬ。また伊藤公にとりてはこの一言を含味(がんみ)しうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに蘊蓄(うんちく)された熟慮(じゅくりょ)を引き出させたのである。

余の友人にも同じ経験がある

 しかしこれは独(ひと)り伊藤公のみでない。ときどき凡人の間においてもまた同様である。僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。
 彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。そののち世の中の腐敗(ふはい)を聞き宗教家にならんとまで考(かんが)え込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。
 しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一軒(けん)立ての藁家(わらや)の前を通過せんとした。ふと隙漏(すきまも)る光に屋内を覗(うかが)うと、炉(ろ)を囲める親子四、五人、一言だも交(かわ)さずぼんやりとして安(あん)を貪(むさぼ)っていた。そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この有様(ありさま)を見、この考えが急に一転した。というのは親子夫婦共働(きょうどう)し、雪を踏(ふ)んで家に帰れば身体すでに疲憊(ひはい)し、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気も失(う)せ、わずかに拾った薪(たきぎ)に身を暖(あたた)め、安(あん)を貪(むさぼ)るがごとき輩(はい)が、どうして教育や宗教などを考うる余地(よち)があろう。彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食足(た)るの道を講ぜしめねばならぬ。
 さりとて衣食の充足(じゅうそく)のみに進ましむればただ奢侈(しゃし)に流るるのみである。衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その翌日(よくじつ)より倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたという談(はなし)を聞いた。これだけの談(はなし)を聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、また詳(くわ)しくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。

一時の感情か否かを判断する道

 以上例示(れいじ)したるごとく生涯(しょうがい)を一貫する職業選定の決心は、能力の多少、位地の上下を論ぜず、一時の些細(ささい)なることのために定められる場合は決して少なくないから、前述の一時の感情に迷わさるるなというに対し、この感情は果たして一時的なりや否やという問題を、自(みずか)ら提供しておのれに省(かえり)み、しかも冷静に自己の真意を分析するを要する。
 すなわち約言すれば熱情を冷静に考えよということになる。なにゆえにおのれはこのことにつき、かく熱するかを篤(とく)と攻究したいのである。凝(こ)っては思案に能(あた)わずと、古人(こじん)も教えている。凝(こ)るとは熱するの謂(いい)である。ものを思い込むと他を顧みる余地も余裕もない、ゆえにとかく過(あやま)ちを生じやすいのである。もっとも実際にことにあたるときは他を顧みず猛進せねばならぬが、ことにあたるか否かを考うるあいだは凝(こ)ることは禁物(きんもつ)である。しかるに青年の一大特長はものに熱するにある。二十代前後は感情のもっとも旺盛(おうせい)なとき、三十代前後は手腕(しゅわん)のもっとも発達するとき、四十前後は知識のもっとも発達するとき、しかして五十前後は思慮のもっとも深いときである。
 青年は知識にも思慮にもまた手腕(しゅわん)においても、まだまだ不足あるかわりに、ある命令のもとに仕事するときはもっとも熱してあたる。これが彼らの特長なると同時に、方向を誤ることもまたこれより起こる。彼らは思慮も熟せず判断力も固(かた)くないから、見るもの聞くものその他すべて五感に触るるものによりて心の底までも動揺(どうよう)されやすい。かく動揺されるときは、さなきだに思慮分別(ふんべつ)の熟(じゅく)せぬ青年はいよいよ心の衡平(こうへい)を失い、些事(さじ)をも棒大(ぼうだい)に思い、あるいは反対に大事を針小(しんしょう)に誤る傾向がある。これも無理ならぬことで、実際のことにあたり責任の地位を踏めることなき者は、なかなかに自己の言行のおよぼす範囲を適当に計量(けいりょう)することはできぬ。青年にこの弱点あることは青年自身も承知(しょうち)している。承知しているゆえ、いわゆる先輩(せんぱい)の意見を叩(たた)き、職業を選定せんとするのである。
 しかし先輩がいかに思慮あるとも、いかに判断力を備(そな)うるとも、青年がある事に熱するゆえんを容易(ようい)に判断しうるものでない。たとえば政治家たらんと熱する者ありとせよ、なにゆえに政治家たらんと熱するかと聞かば、必ずや天下人心の腐敗(ふはい)とか、政党宜(よろ)しきを得ぬとか、ひととおり何人(なんぴと)も首肯(しゅこう)するような理由を述ぶるであろう。しかるにこういう漠然(ばくぜん)としたことでは、なかなか熱心ということは起こりがたい。ゆえにさらに深く立ち入りてその理由を質(ただ)せば彼の熱心せる理由は必ずしも政治に関係するものでないようなことが出てくる。
 某(ぼう)が自分の村に政談演説したとき熱烈なる拍手喝采(はくしゅかっさい)を得た。それが彼の心を動かしたという場合には、彼の熱心は政治のためにあらずして拍手喝采のためである。拍手は政治にあらず。また実業家を志望する人に聞けば日本は貧乏(びんぼう)であるときまりきった議論を述ぶる。しからば今日急にそのことを思いつき、その方面に猛進(もうしん)せんとする志(こころざし)はなにより起こりしかと質(ただ)せば、これまた実業になんの関係もなきことが導火線(どうかせん)となれることがある。
 たとえば某(ぼう)令嬢を慕(した)いたるも実業家ならねば嫁(か)せしめぬというを聞き、実業を志望したというがごとき滑稽(こっけい)的動機すらも現にわが輩の耳にしたところである。かくのごときはおそらくは自分も知らずに行えるので、滑稽(こっけい)な動機に動けることに気づかずにいるのであろう。

感情的誤解の根本原因

 かくのごとき誤解(ごかい)を生(しょう)ずるのは、要するに自分の一個に関する具体的の事実をば、抽象的(ちゅうしょうてき)文字をもって説明するから、その説明がかえって真情を離れ、世間に対する聞こえはよいが、実際にはあてはまらなくなるのである。抽象的の文字を使えば意味の範囲がひろくなり、高尚(こうしょう)に聞こゆるかわりに、また他の意味をも含んでき、したがって自己の場合にまったくあてはまらなくなることがある。たとえば飲みたい食いたい、それについては金を儲(もう)けたい、金を儲けるために何品(なにしな)を幾円で買い、これを幾円で売れば幾円を儲(もう)けるという具体的問題ありとする。この動機は飲食の欲(よく)である。これを満足する方法として商売し、商売の目的は何千百円を儲(もう)くるにある。ことを始むるときは爾(しか)く具体的に細密にもくろみするが、しかしこれを人に語るときは私は実業に従事するという。
 実業といえば抽象的文字である。したがって意味が広い。そのなかには商売のみならず、工業農業も入る。保険、運輸の事業も入る。これに従事するとなると丁稚小僧(でっちこぞう)となり自転車で走ることも、炎天(えんてん)のもと、裸足(はだし)で畑に草取りするのも、自動車で会社に出勤することも含まれ、範囲が非常にひろくなる。なにを商売して何円儲(もう)けるという具体的希望が、実業従事という抽象的(ちゅうしょうてき)言葉にいい現されると、実際から遠いものとなる。
 物理学にいう固形体(こけいたい)のものを流動体(りゅうどうたい)に変じ、ガス体(たい)に変ずるがごとく、嵩(かさ)は大きくなるけれども、つかみどころがなくなりがちである。ゆえに職業を選ぶにはそもそも自分がある職業を志願し志(こころざし)を立てたときの具体的境遇(きょうぐう)、情実(じょうじつ)をしずかに考うると、その志望がいかに根底あることか、また一時の軽々しい動機に起こりしかわかるであろう。
 すなわち抽象的(ちゅうしょうてき)のひろい意味の言葉を用うるにいたった本(もと)にさかのぼって、しずかに考えると思い半ばに過ぐるものがありはせぬか。大きなひろい意味の言葉を用うるときはしばしば自(みずか)ら欺(あざむ)くことがある。わが輩はとくに職業を選定せんとする青年に自己の動機を回顧(かいこ)せんことを勧(すす)む。先人の言に曰(いわ)く、
「凡(およ)そ人事を区処(くしょ)する、当(まさ)に先(ま)ずその結局を慮(おもんぱか)り、而(しか)して後に手を下すべし、楫(かじ)無(な)きの舟を行(や)る勿(なか)れ、的(まと)無(な)きの箭(や)を発する勿(なか)れ」と。
 して楫(かじ)を執(と)るとき、箭(や)を放つときは心静かに落ちつけて、よくよくおのれの力先きの方向に留意するを要する。



いつも若い人

 目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気象(きしょう)がなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも尊(とうと)ぶべき、高朗(こうろう)なる性情が消えるのである。「大人(おとな)にしてなお赤児(あかご)のごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気概(きがい)を失(うしな)わずにあるを要する。「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち生木(なまき)のようなる弾力(だんりょく)があって、世の変遷(へんせん)とともに進む能力を保留している。「老木(ろうぼく)は曲(まが)らぬ」とは邪道(じゃどう)に迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。
 およそ何事においても行きづまれるは見悪(みにく)きものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯木(かれき)に弾力なきに等(ひと)しく実にみすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると小成(しょうせい)に安(やす)んじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し自(みずか)ら安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ当(とう)を得ないことではなかろうか。欲心(よくしん)と理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。
事(こと)たれば足(た)るにまかせて事(こと)たらず足(た)らで事(こと)たる身(み)こそ安(やす)けれ
 という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「事(こと)たる身(み)こそ安(やす)けれ」というような、安心の時代はとうてい到来(とうらい)せぬであろう。
 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形而下(けいじか)のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大(だい)なる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当(とう)を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。
 なんとならば月給とかその他の物質的形而下(けいじか)の事柄(ことがら)については不足を甘(あま)んずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸給(ほうきゅう)が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服(かんぷく)できぬ。上がらなくとも喜んでいたい。否(いな)下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「吾(われ)は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の井戸(いど)が水枯(みずが)れした」のである、遼遠(りょうえん)なるべき前途を放棄(ほうき)したのである。
 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若死(わかじに)をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命(ちょうめい)と呼ぶ、なんの不可(ふか)か是(こ)れあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等(ひと)しく遼遠(りょうえん)なりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大(ほうだい)なる理想をいだくべきである。

回顧反省

 世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡人(ぼんじん)、あるいは凡人以下の者は、姑息(こそく)かは知らんが、前途をして遼遠(りょうえん)ならしむることを努(つと)め、われはたしてかかる大理想ありや否(いな)やを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子の眼(まなこ)よりせばあるいは児戯(じぎ)に等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を印(いん)してこれを現今の実際と照合し、もって理想の規矩(きく)にあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日(めいにち)、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退(しりぞ)いて予(よ)ははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆戻(ぎゃくもど)りせぬかと深く省(かえりみ)るのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。
 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の勧(すす)めとか、時勢の変遷(へんせん)とか、娯楽(ごらく)の必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌剌(はつらつ)たる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に省(かえりみ)るに如(し)くはない。省(かえりみ)て退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮励(ふんれい)努力(どりょく)一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの工夫(くふう)である。要するに脳髄(のうずい)のうちに折々大掃除(おおそうじ)を行って、煤(すす)、埃(ごみ)、芥(あくた)、枯(か)れ枝(えだ)等をみな払うことをしたい。

心機一転

 われわれの年寄るというは精力の枯れるの謂(いい)である。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老耄(おいぼれ)たくない。よし老耄(おいぼれ)ても、愚痴(ぐち)だけはいいたくない。
 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老行(おいゆ)くとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色香(いろか)を増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を刷新(さっしん)すれば、甦生(こうせい)するの勢(いきお)いを顕(あらわ)す。死灰再燃(しかいさいねん)、人も同様、身体が弱れば食物(しょくもつ)を変えたり、転地療治(りょうじ)をしたり、温泉に浴(ゆあ)みしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。
山深く何(なに)か庵(いほり)を結(むす)ぶべき心のうちに身はかくれけり
 一身を物的境遇より退(しりぞ)かせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒麟(きりん)老ゆるも駑馬(どば)に劣るに至らざる工夫(くふう)。木は根あればすなわち栄え、根壊(やぶ)るればすなわち枯る。魚は水あればすなわち活(い)き、水涸(か)るればすなわち死す。燈(ともしび)は膏(あぶら)あればすなわち明(めい)、膏(あぶら)尽くればすなわち滅(めっ)す。人は真精(しんせい)なり、これを保(たも)てばすなわち寿(じゅ)、これを※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)(そこな)えばすなわち夭(よう)す。

一年二回の花盛り

 かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の津々(しんしん)たる興味に感嘆する。意訳すれば、
「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」
 嗚呼(ああ)実に然り。人生の起これる所以(ゆえん)のものは終りを完(まっと)うするにあらざるか、事(こと)に始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の発芽(はつが)するは花咲き、実(み)を結ぶため、人の生まるるは熟(じゅく)して死するためなれば、幼少青年時代は準備(じゅんび)の時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を憧憬(しょうけい)するは蝶(ちょう)を花を楽しむに異ならない。なるほど若年のころは花(はな)やかなるはいうまでもないが、頭の白きも、額(ひたい)の波も、華化(かか)することはできぬであろうか。
 俗の諺(ことわざ)にいう「老木(おいき)に花(はな)を咲(さ)かす」とは不可能なるか。僕は『古今(こきん)和歌集』のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老の香(か)を放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。
色変はる秋の菊(きく)をば一年(ひととせ)にふたゝび匂(にほ)ふ花(はな)とこそ見(み)れ



蛙(かえる)の筋肉の力を測(はか)りし学者の試験

 かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろく轟(とどろ)いているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の講釈(こうしゃく)を一度聞きにいったことがあった。医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に印象(いんしょう)し、今日もなお忘れない。
 試験は蛙(かえる)の筋肉(きんにく)を取ってこまやかな糸のごとき一部分を秤(はかり)にかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質を支(ささ)えうるか。すなわち筋肉(きんにく)の力を証明する主意と心得た。この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍(何百倍?)の重さをみごとに支(ささ)えたので、学生が大いに拍手喝采(はくしゅかっさい)して、なおいっそう僕の印象を深めた。
 たぶんこの簡単なる、また素人(しろうと)にも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、門外漢(もんがいかん)の僕には人体(試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと想像(そうぞう)する)の内に恐しき力の潜伏(せんぷく)していることを思った。この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を発揮(はっき)しえたなら、おそらく今日十五、六貫目(かんめ)の我々の五体をもって、米の四、五俵(ひょう)は朝飯前(あさめしまえ)に二、三里の道を運搬(うんぱん)することができよう。
 僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは胃弱(いじゃく)だのと、その他種々の故障(こしょう)のために、天賦(てんぷ)の力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に潜伏(せんぷく)せる力について深く考えたい。

最善をつくしても余力(よりょく)あるように思う

 たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺(おれ)は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。
 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨(うら)まぬことはない。
 文章を書いても同じことである。
 ある問題について討議(とうぎ)しても同じことである。俺(おれ)はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心(じふしん)であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。
 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮(はっき)するが、第三段の深さに潜伏(せんぷく)する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、
「お前はまだ俺(おれ)の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」
 と物事につけて叱(しか)るような心地がする。

潜伏せる余裕(よゆう)を示す幾多の実例

 たぶんこの知覚(ちかく)についてはわが輩と経験を同じくする人が許多(あまた)あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯(たくわ)えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。
 おたがい、世を見渡しても、一見優雅(ゆうが)なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉(ふきつ)であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止(と)めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉(きんにく)に力の潜(ひそ)んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛(ひな)を養(やしな)っている雌鶏(めんどり)の傍(かたわら)に、犬猫(いぬねこ)がゆくと、その時の見幕(けんまく)、全身の筋肉に籠(こ)める力はほとんど羽衣(はごろも)を徹(てっ)して現れる。
 あるいは今に忘(わす)れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩(ほうばい)三、四人と山遊(やまあそ)びしたとき、森の内で火を焚(た)いた廉(かど)をもって、近所の百姓(ひゃくしょう)に追われて命(いのち)からがら落ちのびたことがある。その後(ご)その場におもむき実地踏査(とうさ)を遂(と)げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳(おど)りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜(ひそ)んでいる力を出したかと思われる。

余裕(よゆう)を存することと全力主義

 わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞(ほ)める。すなわち余裕(よゆう)しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控(ひか)えているぞという態度である。
 この態度は独りわが国ばかりではない。何国人(なにこくじん)といえども尊敬するところである。リンカーンの年を経(ふ)るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味(うまみ)を感ずる。
 これに反し、張りきっておって、二十貫目(かんめ)の力を二十貫目始終(しじゅう)手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人(ごじん)の深い尊敬に値(あたい)しない。
 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注(そそ)ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物(きんもつ)だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。
 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に背(そむ)く。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。種(たね)までもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕(よゆう)を貯(たくわ)えておいてこれを種(たね)として進みたいと思うのである。もっともこれは喩(たとえ)の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。

人の力は出せば出す程ふえる

 右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾(むじゅん)しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁(もんめ)も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直(しょうじき)な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見(み)なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺(おれ)は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝(まさ)る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分(ぶん)の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大(だい)を知る。
 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾(むじゅん)しないことも察せられるだろう。

静坐(せいざ)黙想(もくそう)は潜勢力(せんせいりょく)を増加す

 昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤(わら)わんがために一夜墓地に散歩して石碑(せきひ)を叩(たた)いて幽霊(ゆうれい)があるものなら顕(あらわ)れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼(ああ)博士よ、君にして幽霊(ゆうれい)を見るの望みあるならば、なんぞ墓場(はかば)に行くを要せん。おのれに顧(かえり)みれば霊魂のおのれに潜(ひそ)んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人(ごじん)も少しく心静かにおのれを省(かえりみ)ると、銘々の内に潜(ひそ)んである力の偉大なることを感ずる。
 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省(かえりみ)るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭(ぼっとう)する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗(しょうもう)するおそれあるをみる。努力奮闘を標榜(ひょうぼう)する者も静坐(せいざ)黙想(もくそう)をすることは潜勢力(せんせいりょく)を増加するのもっとも得たる策(さく)だと思う。

一日に一回でも黙想せよ

 いかに繁劇(はんげき)な生涯(しょうがい)を送る人でも、折々いわば人生より退(しりぞ)いて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。
 僕の祖父はかつて禅僧(ぜんそう)について、いったい禅学(ぜんがく)というのはどんなものですと藪(やぶ)から棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊主(ぼうず)であれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵を斫(き)ろう、前に進もうという考えで齷齪(あくせく)するあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退(しりぞ)く余裕があれば、その突嗟(とっさ)に敵の隙(すき)がわかる。そこで勝てる。この一歩退(しりぞ)くところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかく譬(たとえ)は不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分別(ふんべつ)ある読者は僕の真意を味わわれるであろう。
 僕のいわゆる折々退け、折々冥想(めいそう)せよということは、単に不精(ぶしょう)に寝転(ねころ)んでおれ、不精に構(かま)えろというのとは大いに違う。また折々という文字が漠(ばく)としたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに忙(いそが)しい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また希(こいねが)わくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境涯(きょうがい)に入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠遁(いんとん)せよということではない。
 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁世(とんせい)のごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる境遇(きょうぐう)にあっても平旦(へいたん)の気を養う機会のなきはない。松平楽翁(まつだいららくおう)公の書室銘(めい)に曰(いわ)く、「寧静(ねいせい)是(こ)れ心を養(やしな)う第一法」と。



幼少時代の理想の回顧(かいこ)

 毎春(まいはる)年の改まったについて、年ごとに起こる感じが再び湧(わ)き出(い)で、俺(おれ)はもう幾歳(いくつ)になったなアと、年を数え二十年前、三十年前に比べて、どれほど進んだか思い較(くら)べると、ただ恥ずかしきことばかり多い。青年のとき描いた理想が、いわゆる世の中の実際に擦(す)れて摩滅(まめつ)したこともあまたある。しかし年に較べれば、自分ながらまだ理想を割合い余計に抱(いだ)いておるがごとくに信ずる廉(かど)もないではない。
 僕が三十六のころ、ドイツ見物に数週間ベルリンに費(つい)やしたことがあったが、その際ある文士に会って、四方山(よもやま)の文談を聞いたときに、話がゲーテとシラーに移って、両氏の性格および文才と、後世に及ぼせる偉業を論じた。そのとき僕はその文士に尋(たず)ねた。
 カーライルが、かつてゲーテを賞(ほ)めたなかに、青年はとかくシラーに憧憬(あこが)れて、ゲーテを疎(うと)んずるの傾向があるが、三十歳に至れば、思慮(しりょ)もやや熟(じゅく)し、人生のなにものたるかもいくぶんか判明し、ここにおいてかゲーテの偉大なることを認めてシラーの若気(わかげ)を捨てるにいたると説いてあるが、僕は今日(こんにち)三十よりむしろ四十に近い年になるが、ゲーテとシラーのいずれを好んで読むかといえば、まだシラーを選ぶの心地(ここち)する。おそらく僕の精神発達のいまだ幼稚なるを証するのではあるまいかと、自(みずか)ら疑うことが多いと告白したところが、かの文士は、それは君は心配するにおよばない、ドイツ人のうちにも、今日なおシラーを推(お)して、思想においてははるかにゲーテに優(まさ)るものなりと称嘆(しょうたん)する者はけっして少なくない。むしろシラーを好んで読む者は、精神未熟といわんより理想高き性格の高潔なるを証(しょう)するものだ、といって僕を慰(なぐさ)めてくれたことがあったが、かくいえば、あるいは新渡戸(にとべ)の奴(やつ)めが自分の不足なるところを、態(てい)よき言葉を用いて隠蔽(いんぺい)し、暗(あん)に自慢(じまん)するごとくに聞こゆるでもあろうが、正直に自白すれば、近来になって僕もゲーテを尊崇(そんすう)するの念が、十年前にくらべて増してきた。
 しかしてゲーテ崇拝(すうはい)の念の増すのは、さきの某文士の言(げん)によれば、あるいは自(みずか)ら俗化(ぞっか)して理想の光明(こうみょう)が追々(おいおい)に薄(うす)らぐの譏(そし)りを受けるかも知れぬ。僕がここに話をすることは譏(そし)りを受ける受けないが問題ではない。自(みずか)ら君子ぶるのを厭(いと)うがため、横道ながら注解的に右のことを述べて、再び本題に立ち返って話をすれば、年を追うに従って俗化する危険(きけん)あるを思うがゆえに、努(つと)めて幼少の時に描(えが)いた理想を養(やしな)うことは年々歳々(ねんねんさいさい)枯(か)れゆく心の色香(いろか)を新たむるの道であろうと信ずる。

米国で僕の深く印象された米人の理想

 過般(かはん)渡米の日、数多(あまた)の著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物に触(ふ)れ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。
 いわゆる黄金崇拝(おうごんすうはい)物質的の米国などと綽名(あだな)されてあるこの国民が奢侈(しゃし)贅沢(ぜいたく)の弊害(へいがい)に陥(おちい)る傾向が割合いに少ない。換言(かんげん)すれば一方には巨万の富(とみ)を積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気前(きまえ)と精力は、この国民の大いに買ってやるべき気象(きしょう)である。
 わが同胞(どうほう)はだいたいにおいて貧乏(びんぼう)であるから、富貴(ふうき)の誘惑(ゆうわく)なるものを知らない。貧乏人(びんぼうにん)が金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその誘惑(ゆうわく)もよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に較(くら)ぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。

最も貴ぶべき青年時代の理想

 世界を動かすものは思想である。暴力で一時国を建(た)てることもできるし、国を亡(ほろ)ぼすこともできる。産業で国を建(た)てることもできるし、産業で国が廃頽(はいたい)することもある。学芸によって国の勃興(ぼっこう)することもある、学芸によって国が惰弱(だじゃく)に流れることもある。あるいは思想においても方向を誤(あやま)ると、いかなる極端に落ちることがないともかぎらぬが、武力でも学力でも、芸術の力でも、健全なる思想が真先(まっさ)きに立って指導するにあらざれば、国家も社会も個人も、なんのために存在しておるかを解しないでしまう。
 して思想と一口にいうものの、世の中の欲もすなわち名誉も富貴(ふうき)も知らない清浄無垢(むく)の青年時代に起こる思想が実に貴(とうと)い。ゆえに年とともに若い思想を強めたいと思う。あるイギリスの文豪もかつて言った、
「偉大なる人物とは成熟せる脳髄(のうずい)をいただいて、なお幼少の心を抱(いだ)くものなり」と。
 すなわち大人にして赤子(あかご)の心を失わない者の謂(いい)に外ならぬ。

今の青年会と昔の若い衆

 とかくに若い者といえば、むしろ青年の弱点を指す意味合いがある。近ごろこそ各地方で青年会がさかんに行われて、その目的は実に嘉(よみ)すべきであるが、同じく青年の会合でも、三、四十年前に行われたるものは、若い衆の寄合いと称して、若い衆といえば碌(ろく)でもないことをする者、思想も理想もなく、ただ放埒(ほうらつ)に時を移す者のごとく見なして、老人もこれを許し、また青年自身もこれを許して、その言行の正しからざることがあっても、自(みずか)らも世人も咎(とが)めなかった。
 普通教育のいまだ一般にいき渡らないときは、かくのごときことも無理でない。教えてくれる設備もない時代と場所に生まれ育った者は、ただこの世に出てきたというのみで、もの言うからこそ人間に違いないが、その他の点においてはむしろ動物に近い。ゆえに動物的の行動をとっても無理ならぬことであった。
 人の動物と違うところは思想あるがためで、この思想なるものを養わない以上は、禽獣(きんじゅう)に髣髴(ほうふつ)たるものである。そこで人を測(はか)るに、いずれの定規(じょうぎ)をもってするか、動物的の標準をもってするか、向上的すなわち思想の上下をもって測(はか)るか、用いる量(はかり)によって人に対する観念がちがってくる。すなわち動物的の定規をもってすれば、若い衆の飲酒にふけったり夜遊びするのは、普通一般のことで賞(ほ)めるほどのことでなくとも、咎(とが)めることではない。しかるに思想の標準をもって図(はか)るときは、なにか一種の思慮(しりょ)を持たぬ者は、人間のごとくにみなさない。近ごろの青年会と昔の若い衆と違うのは、高いほうの標準を使うからである。

幼年の理想は今いかに変(へん)じたか

 ただ思想の発展にはとかくに障害物(しょうがいぶつ)があって、挫(くじ)けやすいもので、譬(たと)えて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年経(ふ)る間には風も吹けば霜(しも)も降り、雨もあたれば旱(ひでり)もある。そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分も来(こ)ぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。すなわち種無しになってしまう。
 僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心に省(かえり)みることは、幼少時代の思想と今日と、どれほど隔(へだ)ったかという廉(かど)である。これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。
一、幼少の折(おり)、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘却(ぼうきゃく)せずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。
一、子供のときに飲んだくれの醜態(しゅうたい)を見て、俺(おれ)は酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。して年経(ふ)るごとに、今日俺(おれ)のなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。
一、幼少の折、学校で学問の大事なことを聴(き)いて、よし学者にならなくとも、勉学読書は暇(いとま)あるごとに怠(おこた)るまいと思った。年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。
一、幼少の折、かつて、あるところで話を聞いたことによって、人を怨(うら)み悪(にく)み嫉(ねた)むことは、下品なものということを大いに感じたことがあったが、年経(ふ)るごとに今日ははたして俺(おれ)が人を怨(うら)まないか悪(にく)まないか嫉(ねた)まないかと昔にくらべてみる。
一、幼少のときにある放蕩息子(ほうとうむすこ)が身をあやまって、自分のみならず大勢の人に迷惑(めいわく)やら心配をかけたのをみて、婦人関係は深く慎(つつ)しむべしと決心した。年経(へ)たる今日において、はたしてこの思想どおり身を処(しょ)しておるか。
一、賭博(とばく)のよろしくないことはつくづく親の話によって承知し、いかなる誘惑(ゆうわく)があるとも、賭博(とばく)などには手を出すまいぞという思想を抱(いだ)いた。年経(へ)た今日において、はたして幼少の思想にかなう行いをするか云々(うんぬん)。
 というように、問題を掲(かか)げていちいち実際と、思想というか理想(りそう)というか、かつておのれの心の、向上したときに抱いた考えと引きくらべてみると、年経(ふ)るにしたがって、むしろ堕落(だらく)したことを発見する者が多くなかろうか。読者のなかには、僕のいうことがはなはだ子供らしい、迂遠(うえん)なことだ、世渡りの道を知らぬとなじる人もあろう。僕も甘んじていわゆる世渡(よわた)りの道に疎(うと)きことを自信する。僕の世渡りの道と考えることは、低い標準の上に立って行くよりも、高い程度の所にぶら下がってゆくことにしたいと日ごろ念じている。

主義を抱ける者の世渡りの覚悟

 一種の思想をもって世渡りを企(くわだ)てる者は、同じ思想を抱(いだ)いている人のうちにはもっともよく受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あるいはなんの思想をも抱(いだ)かずに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ印象(いんしょう)を与えるがために、とかく彼此(ひし)の批評を受けたり、あるいは、ときにはそれがために迫害(はくがい)も凌(しの)がねばならぬことは承知せねばならない。
 普通にいう世渡りの上手だというのは、ただ無主義で無定見(むていけん)で無思想で、流るるままに浮かんでゆくを称するのであるが、いやしくもいずれかの主義を抱いた者は、一時調子よいことがあっても、浮き沈みのあることは覚悟せねばならない。またこの反対の勢力の風波(ふうは)に会わなければ、思想も練ることはできない。
 僕がもっとも崇拝(すうはい)する人物はキリストのほかにソクラテスとリンカーンであるが、二人とも生きているあいだに名声さかんで、一時流行児(はやりっこ)となって大いにもてはやされたが、ついにその最後は世人の皆知っているとおりである。

理想家に対する世論の変遷

 ルーズベルトに対する世評の動くこと、実に驚くべきものである。かつては同氏を攻撃し、ほとんど蹴(け)たおすばかりの語調が新聞や雑誌に表れ、また僕が直接話をした個人の言葉にもしばしば顕(あらわ)れたけれども、そののち誰いうともなく、同氏の名望が再び回復されつつある。僕はまだ同氏に面会するの機会を得ないが、氏の人格と、ことに氏が思想の人であることは彼のいうことなす事々(ことごと)によって明らかである。彼を嫌(きら)う人も、彼を賞(ほ)むる人も、彼の人格より彼の思想について判断することを思えば、昔も今も思想家はその思想を天下に刻印するには、血をもってするの覚悟がなくてはならない。といって誤解のなきことを欲するが、われに思想あり、この思想を世に伝えんがために早くわれを殺せといわんばかりに、めざましきを好む演劇的な挙動を恣(ほしいまま)にして、態(わざ)と反動を招いて、かえってはなばなしく斃(たお)れることを望むのが宜いと言うのではない。できるだけ穏便(おんびん)に平凡に、自分の思想を実行することにつとめることが肝心なので、これがわれわれ日々の務めである。
 偉大なる凡人(ぼんじん)となるは平凡なる豪傑(ごうけつ)となるよりも、はるかに上乗(じょうじょう)であると思う。米国に行きてことに感ずることは、この国には偉大なる凡人の多きことは、ほとんど日本において平凡なる豪傑の多きがごとくである。凡人をして偉大ならしむるのはそれ思想乎(か)。思想ほど恐しき力はない。人の動くのはみな思想の力によるのである。すなわち世の細事大業(たいぎょう)も機械に譬(たと)うれば思想なる原動力の発現にほかならない。これを草木に譬(たと)うれば、緑(みどり)の柳(やなぎ)、紅(くれない)の花と現れる世の変化も思想なる根より起こるものであるから、なにはさておき根の培養(ばいよう)は怠(おこた)れない。根さえ確かなれば、幹(みき)なり枝なり葉なり花なり自然の結果として栄える。
 誰人(たれびと)も経験あることならんが、だんだん年とるについても、若きとき思い込んだ思想が、なにごとについてもヒョコヒョコと胸底に浮かび出(い)で、あるいは邪魔(じゃま)し、あるいは手伝いし、われわれの今日の仕事に関係を絶たない。
「三つ子(ご)の心は百までも」「老馬路(みち)を忘れず」という。青年時代に植えた種子(たね)は、よかれ、悪(あ)しかれ、いつまでも身辺に纒(まと)いつく。
 古き書にもあるとおり、「汝(なんじ)一度(ひとたび)水田に種子(たね)を播(ま)け、数日を経(へ)て収穫すべし」と。われわれひとたび播(ま)ける種子(たね)の酬(むく)いは、われわれ自身が刈らねばならぬ。若い時に植える種子(たね)は、後年植えるものよりいっそう深く根を張る。
植ゑし植ゑば秋(あき)なき時(とき)や咲(さ)かざらんはなこそ散(ち)らめ根(ね)さへ枯(か)れめや
 とあるごとく、単に植えさえしておけば、秋のない年はいざ知らんが、いったい一年間に秋のなきはずはないから、必ず秋がくるに相違ない。その秋がくれば、草木の性質として花を咲かす機会到来は必定(ひつじょう)。けだし去年の花は縦(よ)しまったく散り了(おわ)っても、根さえ枯れずに健全なれば。



犬車の前に垂れ下げた肉片

 僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺(やまとへん)あるいは東京でもときどき見る犬車(けんしゃ)というものがある。すなわち犬に曳(ひ)かせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩骨(けんこつ)の構造から考えても、車を曳(ひ)くようにできておらぬが、とにかく方々(ほうぼう)で行われている。
 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳(ひ)かせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。擲(なぐ)っても叩(たた)いても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪戯(いたずら)の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを食(く)おうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。
 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。

理想はどこまで行っても達せられぬ

 カーライルはかつて、「いかなる卑(いや)しい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない」といった。なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実された暁(あかつき)において始めて達せられるのである。
 しかるにその理想はけっして満足されるということはない。またないはずである。人間は一を得ると第二が欲しくなる。第二段にのぼると第三段が欲しくなる。どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。いまのカーライルの言にあるとおり、いかなる賤(いや)しい、路傍(ろぼう)の乞食(こじき)でも、腹が空(す)いているときに握飯(にぎりめし)を与えると、「三日も食わずにいたが、これは結構」といってありがたく頂戴(ちょうだい)する。も一つ与(や)ろうとすると今度はそうありがたく思わない。
「塩加減が悪いから塩をまいていただきたい」「香(こう)の物をつけていただきたい」
 という注文が出る。
 三つめには、「握飯(にぎりめし)ばかりではなんですから塩引(しおびき)でも」という。
 四つめには「塩物ばかりでは喉(のど)が乾(かわ)く、刺身(さしみ)を」といいだす。乞食(こじき)のごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。
「八百膳(やおぜん)」の料理を奢(おご)られても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。帝国ホテルの御馳走(ごちそう)でも、たび重(かさ)なればいやになる。食物だけのことを望めば、人間はいかなる酒池肉林(しゅちにくりん)に入(い)れても永く満足はせぬものである。
 人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。また得られぬはずのものである。この乞食(こじき)が三日も飯(めし)を食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは胃(い)の腑(ふ)である。握飯(にぎりめし)でも食いたいというのが彼の理想である。彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実胃(い)の腑(ふ)の理想である。腹がいっぱいになり刺身(さしみ)が食いたいというのは、腹の理想でなく、舌(した)の理想である。あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人に褒(ほ)められたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、虚栄心(きょえいしん)を充(み)たす理想である。同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれを充(み)たす物体も変ってくる。自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉に憧(あこが)れて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。

理想は早晩(そうばん)実現せられる

 あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。
 理想という以上は、合理的にして、分度(ぶんど)ある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾人(ごじん)の在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で測(はか)るものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔梗(ききょう)でも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、桔梗(ききょう)の花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。
 僕はつねに思う、一枝(し)の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から天女(てんにょ)を見ると、羽衣(はごろも)を着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち羽根(はね)が交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意匠(いしょう)には羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。
 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神(かみ)や仏(ほとけ)に祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早晩(そうばん)達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から小判(こばん)の降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、欲想(よくそう)である。実現せられぬのは理想でなく空想である。

理想を行為に翻訳(ほんやく)するが人生

 理想は何人(なんぴと)でも、活(い)きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶蘇教(やそきょう)で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。
 人はなんで活(い)きているかというに、理想で活きている。ただ呼吸(いき)するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯(にぎりめし)でも麦飯(むぎめし)でもよいけれども、この世に生きている甲斐(かい)には、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活(い)きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。
 理想という原語(げんご)を行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。

誤って翻訳した実例

 この翻訳はなかなか難(かた)い。原文を精確に会得(えとく)しなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳に拙(まず)い生活を送っている。
 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西丸(にしのまる)近所を通って登城(とじょう)するさい、外国人が乗馬でその行列の鼻(はな)を乗切(のっき)った。殿様はもとよりその従者も一方(ひとかた)ならず憤慨(ふんがい)し、殿(との)はただちに通訳を召(め)し、
「汝(なんじ)は言語もわかることであるから、あの人の無礼を糺(ただ)してその場で切り捨ててこい」
 と命じた。通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、
「私の主人なんの守(かみ)という大名が登城(とじょう)の途中に、貴方(あなた)の馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の鞍(くら)が面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗人(のりて)も見事に乗っている、あの外人にお頼みして鞍(くら)を見せてもらうことはできまいかと申します。途中でお止(と)め申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が駕籠(かご)をおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕籠(かご)の前に来て見せてくださらぬか」
 という。外人は得意になって、駕籠(かご)のそばに来たり鞍(くら)を見せんと下馬し脱帽して挨拶(あいさつ)した。そのとき通訳官は、
「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも命(いのち)だけはお許(ゆる)しを願(ねが)いたい」
 と申し上げる。殿様も外人が下馬(げば)して脱帽(だつぼう)しわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、
「見事なお鞍(くら)を拝見してありがたい。駕籠(かご)のなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」
 という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは始(はじ)めてで、名誉(めいよ)なことであると喜び、再三脱帽(だつぼう)したあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、
「苦しゅうない、苦しゅうない」

最大侮辱(ぶじょく)を最大敬礼とした誤訳

 翻訳というものはこうもできるものだ。しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。幕府(ばくふ)時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。
 髪(かみ)をチョン髷(まげ)に結(ゆ)い、裃(かみしも)を着(つ)け、二本さし、オランダへ行った。これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけ生(は)え、その毛がつっ立っているそうだ。これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから宮廷(きゅうてい)に拝謁(はいえつ)に出かけた。何万という人々は沿道に立って異様な装(なり)した日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。なかには吹き出すもあれば、あらゆる侮辱(ぶじょく)を使節に加うるもあった。おそらく日本の侮辱法(ぶじょくほう)の最大なるものは「尻(しり)をまくって叩(たた)く」ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。そのかわりに双手を開いて鼻(はな)の前にならべて人を遇(ぐう)する侮辱法がある。日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法と見(み)なし、無礼の極とし、日本人が尻(しり)をまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。
 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らが鼻(はな)の前へ手を当てワイワイいっている。使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、
「あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである」
 といった。そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮廷(きゅうてい)に達し拝謁(はいえつ)するとき、使節は玉座(ぎょくざ)の前でみな手を鼻に当てた。陛下(へいか)は大いに驚き、自分に侮辱(ぶじょく)を加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままには棄(す)ておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。陛下もなるほどそうか、それでは朕(ちん)も遠来の大使を遇(ぐう)するに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。
 通訳というものはこういうこともできる。僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。笑うとともに思いあたることがある。すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一寸(すん)一分(ぶ)も違わぬことがありはせぬか。

理想の翻訳を誤るものが多い

 たとえば男女の心中(しんじゅう)のごとき、二人が夫婦になるのを理想とするが、不義(ふぎ)の交際は親も許さず世間も認めぬ。この世で晴れて一緒になれぬなら、むしろあの世で蓮華(れんげ)の上にということになる。
 かくのごとくその理想なるものを実行するさいにその翻訳の任にあたる自分の考え一つで、勝手(かって)次第に意味をとる。ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方によってははなはだもっともでない実行に現れることが間々(まま)ある。たとい商売人でも役人でも、書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。はなはだしきは人身攻撃(じんしんこうげき)をする者もある。して彼らの理由を訊(ただ)せば、人間が世の中にいる以上は、優勝劣敗(ゆうしょうれっぱい)の原則にしたがい競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をする。敵を殪(たお)すにはいかなる手段方法をも用いる、嘘(うそ)をついてもかまわぬというは、優勝劣敗あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。
 僕はたびたび耳にすることであるが、学校で試験のとき、狡猾(ずる)をやる学生がある。それを呼び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。試験に不正を行ったのは一つの理想より出たことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこうこうだとあわれげな話をする。してみると君が試験に狡猾(ずる)をしたのは、親孝行のためにしたというのか、「そうでござります」という。こういうことは間々(まま)ある。
 愛国忠君などということを口癖(くちぐせ)にいう人にはこれが実行の翻訳を誤(あやま)る人が多い。愛国だといってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人がある。
 明治二十年ごろ、国粋主義(こくすいしゅぎ)のさかんなとき、途中で外国人の婦人に唾(つば)を吐(は)きかけた学生があった。なぜそんなことをなしたかと訊問(じんもん)されたとき、国体を発揮(はっき)するためだと答えた。愛国ということはよく聞こえるが、これを実行に翻訳するときは、オランダの通訳官と同じく勝手にする。
 むかし英国の学者ジョンソンは愛国心ほど怪(あや)しげな心はない。いかなる悪党も愛国なる言葉を用うれば、犯罪をなすことができるといった。
 明治十年(ねん)ごろまでは強盗(ごうとう)したり乱暴狼藉(ろうぜき)した者に、なぜそんなことをしたかと聞くと、国を憂(うれ)いて大いに旗上(はたあ)げするつもりであるといった。また地租(ちそ)改正のとき、あっちこっちで騒(さわ)いだ。このとき重税を課しては国のために憂(うれ)うべき事であると、佐倉宗吾(さくらそうご)を気取ったまではいいが、佐倉宗吾のように命を捨てたかといえば、なかなか捨てるどころか、かえって強盗(ごうとう)強姦(ごうかん)したものもある。これが愛国だということはちょっとわからぬ。とかく愛国とかあるいは何々の主義だといって議論して歩くあいだはよく聞こえるけれども、これを実地に行うときは、翻訳が間違いやすいゆえにわれわれがいやしくも理想をいだくという以上、その理想なるものを実現するにあたって、理想の品位を下げぬように行為に現すにあらざれば理想でなく、妄想(もうそう)であることを一言したい。

理想の実行は位地の有無に関係せぬ

 近時理想ということが一つの流行語になり、成功(せいこう)はいうにおよばず失敗をも理想に帰(き)する傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退(しりぞ)いて、これは自分の理想を実行するのか否(いな)かと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を描(えが)くならば、戦争のとき、馬背(ばはい)にまたがって功名(こうみょう)手柄(てがら)をするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂(と)げるみちはある。
 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉(よみ)すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。
 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺(ただ)してみると、真に教育のためにつくしたい志(こころざし)よりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云々(うんぬん)というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈(たいか)に住(すま)いすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬丁(ばてい)になるのがこの人の理想にかなっている。
 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎(せん)じつめると、実業家は美服を着(つ)け茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間(ほうかん)でも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高尚(こうしょう)らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。
 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官(しがくかん)になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか叩(たた)くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒(てんとう)し、下に肉月(にくづき)がついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨(うま)いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下女(げじょ)下男(げなん)の教育もできる。また自分の女房(にょうぼう)子女を教育することもできる。
 むかしの立派なる教育家貝原益軒(かいばらえきけん)、中江藤樹(なかえとうじゅ)、熊沢蕃山(くまざわばんざん)等はみな塾(じゅく)を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。藤樹(とうじゅ)のごときは村を散歩することが教育であった。人(ひと)そのものが教育である。
 人が真に教育家なら笑っても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手(きょしゅ)、一投足(とうそく)、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充(み)ち満(み)ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。位地を選んで大臣、局長、課長にならねばならぬということはない。文教の職にあたった政治家は、たくさんあるけれども、なんらの功績を残さぬ者が多い。明治以来文部大臣となりし人のなかで、今日まであの人の時にこういうことをしたと記憶される人はきわめて少ない。僕は文部省を攻撃するのでなく、ただ説明の便宜に引例したのである。して僕のいうことは教育のみに限らない。他の官衙(かんが)においても同然である。
 また西洋でも同じである。各国の教育史を見てもペスタロッチ、フレーベルなどは自身で鼻汁(はなじる)をたらした子供を集めて教えたということは残っているが、役人になったかどうか、世人(せじん)は問わない。われわれの理想を翻訳するに、どの位地、どの椅子(いす)に坐(すわ)らなければできぬというものでない。位地を得ればなお良いかも知らぬが、位地ばかりが理想を達するゆえんでない。否々(いないな)位地を得たため、かえって理想を失する輩(やから)が多い。理想は椅子(いす)にあるものでないから、椅子を得たによってまっとうするとはいわれぬ。もし椅子によりてなしうるなら、人でなく椅子が働き、人は椅子の道具に化するようなものである。

理想は所在に現れる

 しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒(ほ)められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤(いやし)むべき野卑(やひ)なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢(おわい)を掩(おお)うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹(とうてつ)するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。
 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕(よゆう)がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地(ここち)のよいことがある。西郷隆盛(さいごうたかもり)のそばにいると心地(ここち)よく翁(おう)の身体(からだ)から後光(ごこう)でも出ているように人は感じ、翁(おう)は近づくと襟(えり)を正さねばならぬほど威厳(いげん)があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎(な)れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁(おう)の心のそとに顕(あらわ)れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
 理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅子(いす)に坐(すわ)らなければ理想が行われぬというは、下手(へた)な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥棒(どろぼう)するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盗(ぬす)む気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。
 聖書に「人を憎(にく)むは人を殺すなり」という意味が書いてある。人を憎(にく)むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴(きゃつ)は嫌(いや)な奴(やつ)だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾(ひろ)うということは遠くとも従兄弟(いとこ)同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。
 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を脱(だっ)したということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑近(ひきん)な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。

ここに焚(た)く火の烟(けむり)なりけり

 昔のある皇后の御歌に、
もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚(た)く火の烟(けむり)なりけり
 われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐土(もろこし)の山のかなたに立つ烟(けむり)のごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧憬(あこが)れているという青年男女などは、日々学課をそっち退(の)けとし、月や星を眺(なが)め、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。
「ここに焚(た)く火の烟(けむり)なりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵界(じんかい)を去らねばならぬものでない。われわれは山へ引(ひ)っ込(こ)むもよい、塵界(じんかい)を去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の作用(さよう)である、実際は身体の作用である。心と身体(からだ)とは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。
 実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信



夢は迷信として排(しりぞ)くべきか

 年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜(ぼく)するためか、あるいはまた過ぎた年の厄払(やくばら)いのためか、正月の二日に、宝船(たからぶね)を枕(まくら)の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風(ふう)を行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。
ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世(よ)にかさめんとすらん
 とは古き人の歎(なげ)きであるが、いまも同感なる者は少なくない。
 よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も名僧(めいそう)知識(ちしき)も、いまだ容易に断定を下しえない。
夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦(しゃか)よりはまし
 と猩々庵原松(しょうじょうあんげんしょう)の狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁(あかつき)が人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚(はばか)るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。
 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと謡(うた)ったのも、もっとも至極の観察である。

夢もまた人生の一部

 しかし夢もまた人生の一部である。ほとんど夢なきの人生はない。かりに「聖人夢なし」という句が本当なりとするも、世人(せじん)ことごとく聖人ならざる以上は、やはり夢は人生に添えるものである。もし実際ならざることを夢と称するならば、未来も理想もすべて夢であるといわねばならぬ。しかし折々はかえって夢のほうが、普通にいう実際よりも、なお実際なることがある。明らかに夢見ているときでも
「これは本当であろうか」
「夢ではあるまいか」
 と疑うことは、普通に人のいうところである。しかるに実際の場合にもことさらにその実際なることを感ぜしむるときは、「夢ではないか」と思う。
 かりに日常普通に起こらぬ、人生のうわっつらでない事実が起こったとする。たとえば不幸の上に不幸が重なり、火災に罹(かか)った上に親を喪(うしな)うとか、子を失(うしな)うとか、あるいは自分が急病にかかるとか、すなわち人生のあらゆる苦しみが、一時に襲(おそ)い来たるときはこれぞ人生の実際の実際たるゆえんであって、すなわち人生の蓋(ふた)を除(の)けて底に達したようなときである。人はかかる場合に会うと、これは夢ではないかと思い、夢であれかしと祈(いの)る。

夢とはいかなるものか

 普通にいう夢とは、自己の意識(いしき)の行われぬときに心に触(ふ)るる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡眠(すいみん)中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。
 人間普通八時間睡眠(すいみん)し、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作用(ファンクション)あるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。
 農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作物(さくもつ)を生育する力を増殖(ぞうしょく)するために休むのである。人間の睡眠(すいみん)時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢は徒(いたず)らに疲労(ひろう)せる身体の幻(まぼろし)すなわち諺(ことわざ)にいう五臓(ぞう)の煩(わずら)いでなく、精神的営養物となるものと思う。

睡眠中の時間も向上に用いられる

 かくのごとく意識の行わるるときのみが人生でない。また知覚の存するときのみが人生のすべてでない。空々寂々(くうくうじゃくじゃく)に過したり、または睡眠(すいみん)する時もまた人生にとっては重大な時である。
 長短よりいえば、前にも述べたごとく、人生の三分の一を成しているが、この時間だけは人間の力でいかんともなしえぬとか、あるいは睡眠中は死んだも同然なりなどとは、普通に聞くところである。通常、睡眠(すいみん)と死とは、同一物のように思われている。さればこそ沙翁(さおう)の悲劇『ハムレット』にも、「死ぬるは眠(ねむ)るなり、眠るはことやすけれど、眠る間に夢という恐ろしきものあるなれば云々(うんぬん)」と死と眠りとをほとんど同一視してある。ただ時間の差異のみとみなされている。
 ゆえに人の一生を生と死との二者に分けて論ずれば、睡眠はむしろ死の部に含まれているがごとくに称(とな)えられるが、僕は繰り返していいたい、睡眠の時間も、その間に結ばるる夢も、人生の一部をなすものであると。この間に直接の意識知覚が行われぬとしても、人生には重大なときであって、心がけによっては、この時間をも向上のために資することができると思う。古人の言に夢の魂(たましい)などと称するものがある。
君(きみ)こふる夢のたましひ行(ゆき)かへり、夢路(ゆめぢ)をだにもわれに教へよ
 といい、また、
つらさのみまさり行(ゆ)く幾(いく)おもひやる夢(ゆめ)のたましひいかゞ行(ゆ)くらん
 などという歌があるが、これは睡眠中の心理的動作を指(さ)すもので、今日の学者といえども捨(す)てがたい面白い詞章(ししょう)であると思う。

夢は一種の潜在識

 近ごろ心理学者が潜在識(せんざいしき)ということを説く。僕は潜在識とは学問上、いかなるものなるやを知らぬが、僕の平凡見解でわかりやすく俗語で説けば、心の奥底に潜(ひそ)み隠(かく)れ、自分がいっこう気づかぬとき、不意々々(ふいふい)と現るる感想をいうように思わるる。たとえばわれわれが子供のとき、母の乳房(ちぶさ)につけるころに見たり聞いたり、または感じたりしたことは、われわれの心の、いわば片隅(かたすみ)に隠(かく)れ、忘(わす)れられているらしく思われるが、必ずしも消滅し去るものでない。
 元来、人が事物を記憶するのは、たいがい四歳以上になって見聞したことにかぎる。しかして三歳、または二歳のころ、まったく無意識的に見たり聞いたりしたことは、根底より消え失せるかと問わば、けっしてそうでない。どこかに潜(ひそ)んでいて、いつかことに触(ふ)れ機に接して、何人(なんぴと)にも聞いたこともないことを想い浮かべるのは、よく各人の実験し、また他人についても見聞することである。われわれがなにかするときに、こういうことはかつて前にもあった、いつであったか、その時を忘れたが、確かにあったと思い出すことがある。またあるいはまったく新しい所、――たとえば外国に行って、その風景などもなんとなしにかつてどこかで見たように感ずることもある。しかるに実際はいかに考えても、見たはずがないというがごとき類は一種の潜在識の作用であろう。この潜在識はわれわれ個人として経験したことばかりのものにかぎらない。われわれの祖先が経験したことまでも材料となる。
 たとえば誰(たれ)でも一度か二度は経験しない人はあるまいが、寝ておって、高い所から落ちる夢を見て、冷汗(ひやあせ)をかいて目(め)ざめることがある。かくのごとき夢はどこの国の人でも見る夢であって、おそらく人類共通の経験に基づいたことであろう。
 さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ猿(さる)であったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、諺(ことわざ)に違(たが)わず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほど怖(こわ)いことはない。悪く落ちれば絶命は必定(ひつじょう)であるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心に沁(し)みこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜在識(せんざいしき)に化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷汗(ひやあせ)をかかせる理由となる。
 これについて奇態(きたい)なことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するという風(ふう)である。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。
 一斎翁(いっさいおう)の言に曰(いわ)く、
「およそ人心(じんしん)の裏(うち)絶(た)えて無(な)きのこと、夢寐(むび)に形(あらわ)れず、昔人(せきじん)謂(い)う、男(おとこ)、子(こ)を生(う)むを夢(ゆめ)みず、女(おんな)、妻(さい)を娶(めと)るを夢(ゆめ)みず、この言(げん)良(まこと)に然(しか)り」と。
 眠る時にもこの潜在識(せんざいしき)はひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無垢(むく)であるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。
「夢(ゆめ)は逆夢(さかゆめ)」とか、
「あたらぬものは夢(ゆめ)とちょぼいち」
 などいう諺(ことわざ)は、夢をもって未来を卜(ぼく)する方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆夢(さかゆめ)ということもなくなって、「思(おも)うこと寝言(ねごと)」なう諺(ことわざ)こそ事実に適(かな)うなれ。
 杜甫(とほ)の「夢李白(りはくをゆめむ)」の詩に「故人入二我夢一(こじんわがゆめにいる)、明二我長相憶一(わがながくあいおもうをあきらかにす)」と詠じたのも、後二条院(ごにじょういん)の、
こひしさのねてや忘(わす)ると思(おも)へどもまたなごりそふ夢(ゆめ)のおもかげ
 と歌われたのも、詩仙(しせん)にかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡人(ぼんじん)も折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。

宝船(たからぶね)以上の夢見る秘訣(ひけつ)

 僕の素人(しろうと)的の考えでは、潜在識(せんざいしき)は知識を、心という土蔵の奥にある葛籠(つづら)の中に入れて、しまいこんだように思われる。ゆえに日ごろよき考えと、しからざる考えとを蔵(おさ)め入るるによって、潜在識の性質に異同を生(しょう)ずることはいうまでもない。潜在識はその本(もと)を質(ただ)せば、意志にさかのぼって、自分の力のおよばざる方面より来たる知識もあるが、その大部分は自分の希望どおりのものを選んで入れることができる。
 人に交わっても、その短所のみを見、ここが心に叶(かな)わぬとか、あの風(ふう)が気にくわぬとかいう、弱点のみを心の奥にある葛籠(つづら)に詰め込むか、あるいは善良なる観察(かんさつ)と思想を入るるかは、精神の持ちよういかんによってできるものと信ずる。しかしてこの貯蔵した意識が、眠るときに、葛籠(つづら)より現れ出(い)で、不愉快なものは不愉快な夢となって祟(たた)り、善事は善く出て、愉快(ゆかい)なる夢となって、おのれの心を喜ばしかつ心を養うものである。伽話(おとぎばなし)にある「舌切雀(したきりすずめ)」の葛籠(つづら)にいかなるものが潜在してあるかは、もらう人の与(あず)かるところでないようなものの、その根本を質(ただ)せばもらう人が入れ込むのである。欲張(よくば)り婆(ばあ)さんは、みずから化物(ばけもの)を葛籠(つづら)の中に潜在させたから、蓋(ふた)を開くとともに醜怪(しゅうかい)なものが顕(あらわ)れだし、正直(しょうじき)爺(じい)さんは宝物(ほうもつ)を潜在(せんざい)させたから、なかからあらわれ出たのがすべて財宝であった。
 それと同じく宝船(たからぶね)を枕(まくら)の下に敷いて眠っても、ただ欲張(よくば)り考えで眠れば、よし宝船を夢みても遠い沖を帆走(ほばし)る光景を見たり、あるいはかえって宝船の難破を見たりするであろう。これに反し、得たる宝(たから)を慈善的(じぜんてき)公共的その他の正当な使用に充(あ)つることを日(ひ)ごろ念じながら夢をむすべば、おそらく宝船以上の宝(たから)の夢を得るであろう。しかしてかかる夢は普通にいう邯鄲(かんたん)の夢でなくして、理想とも称すべきものであり、また人生の実際の一部となるものである。僕が夢を一概に迷信として排斥(はいせき)すべからずといったのもこれがためである。

夢と実際とは連絡することが多い

 子供が眠るときに、怖(おそ)ろしい顔して叱(しか)ると、子供はかつ泣き、かつふるえつつ眠ってしまう。かくのごとき夜にむすぶ夢のなかには、あるいは鬼(おに)に襲(おそ)われたり、あるいは化物(ばけもの)に逢(あ)ったり、あるいは魘(うな)されたりして可愛(かわ)ゆかるべき顔にも苦痛または恐怖の念がありありと顕(あらわ)れる。これに反し愛らしき物語を聞かせ、あたたかき愛情をもって、寝かしつけたときは、子供も天使に迎えられたり、あるいは極楽に連れられて楽しく遊んだりする夢を見、すやすやと眠る顔には笑(えみ)をふくみ、いわゆる「子供の寝顔」となる。かく怖(おそ)ろしき夢をむすぶも、吉夢(きつむ)を見るのも、ともに子供にとっては(大人にしても、同じであるが)、一つの精神的経験を構成する分子となる。目がさめるとともにあるいはこれを忘れてしまうかも知れぬが、しかもどこかに、子供の意識となって残り、すなわちいわゆる潜在識(せんざいしき)となって、なにかにつけて記憶にのぼってくるものである。
 僕もかつて病いにかかり、体温の四十度を越したとき、夢に怖(おそ)ろしき化物(ばけもの)を見たことがある。眼がさめたのちも、化物は眼前にちらついて残っていた。けしからぬことであると、自分ながら自分を責(せ)め、これはまったく熱が高いためであると思い、試みに検温器をかけるとはたして高熱であった。かく精神は落ち着き、自覚したのちでも化物(ばけもの)の形(かたち)がハッキリと目に映(えい)じていた。このとき僕は独り病室におったので、かたわらにあったランプをつけ、目をみひらき、ばかなものを見たものと思いつつ、空中をにらんだが、なおその姿が髣髴(ほうふつ)として眼前に残っていた。むろん、これは病的であることを、僕はよく知っていた。しかしいかに病的とはいえ、みずから明瞭(めいりょう)に自覚しておるにかかわらず、夢に見たことが、さめたるのちまでも、その現象(げんしょう)の消え去らず、連続しておった。あるいは心理学者の一笑を招くかも知れぬが、いわゆる夢なるものといわゆる実際なるものとが連続しておることを考(かんが)え、怪物の夢そのものよりかえっていわゆる実際のほうがおのずから怖(おそ)ろしくなったことがある。

夢は人間の心の鏡

 右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目覚(ざ)めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下品(げひん)な、紊(みだ)れたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養を怠(おこた)ると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。孔子(こうし)は、
「甚(はなは)だしいかな、吾(わ)が衰(おとろ)えたるや。久(ひさ)しく吾(わ)れ復(ま)た夢(ゆめ)にだも周公(しゅうこう)を見(み)ず」
 といっている。孔子(こうし)が油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周公(しゅうこう)のことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち白居易(はくきょい)の詩に、
「平生所レ厚者(へいぜいあつうするところのもの) 昨夜夢見レ之(さくやゆめにこれをみる)」
 とあるように、日ごろめざめているときに高尚(こうしょう)な善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、睡眠(すいみん)中のいわゆる夢魂(むこん)によっていわゆる醒覚(せいかく)中の真意が何処(いずこ)にありしかを窺(うかが)うこともできる。昼中(ひるなか)働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。佐藤(さとう)一斎(さい)の『言志耋録(げんしてつろく)』に、
「感(かん)は是(こ)れ心(こころ)の影子(えいし)なり、夢(ゆめ)は是(こ)れ心(こころ)の画図(がと)なり」と、また、
「人(ひと)を知(し)るは難(かた)くして易(やす)く、自(みずか)ら知(し)るは易(やす)くして難(かた)し、但(ただ)し当(まさ)にこれを夢寐(むび)に徴(ちょう)し以(もっ)て自(みずか)ら知(し)るべし、夢寐(むび)自(みずか)ら欺(あざむ)く能(あた)わず」と。
 実にそのとおりで、良木(りょうぼく)は良果(りょうか)を結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた吾人(ごじん)の平素識(し)らず識らずに思う心の鏡(かがみ)と称してもよかろう。かく考えると、睡眠(すいみん)を利用して修養の用に供することができそうである。

努力すれば高い境遇に登れる

 わが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶然(ぐうぜん)なる現象にあらず、まったく空(くう)のものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の浅薄(せんぱく)なるに驚(おどろ)く人もあろう。
 一般人士の踏(ふ)む境界を脱(だっ)していっそう高き境界(きょうかい)に達したならば、夢相も夢物もみな同一の虚妄(きょもう)にして、すべてあるところなしと悟(さと)らるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き境遇(きょうぐう)にありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、荘子(そうじ)は高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ胡蝶(こちょう)となって花の上に戯(たわむ)れてのち驚き覚(さ)めたるごとく言った。形而下(けいじか)の世にあると、形而上(けいじじょう)の世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。わが輩は凡人の情(なさけ)なさに、形而下(けいじか)の話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、形而上(けいじじょう)の思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する工夫(くふう)をし、まじめにかつ永く努(つと)めたなら、必ず一段も二段も高き境遇(きょうぐう)に進入することを得るであろう。古人の歌に、
世(よ)の中(なか)は夢(ゆめ)か現(うつゝ)か現(うつゝ)とも夢(ゆめ)とも知らずありてなければ
 などいう一首の意味も、吾人(ごじん)の立場の高低によってどうとも取れる。なおさら修養が積んだならもう一段昇(のぼ)りて王陽明(おうようめい)とともにかく吟(ぎん)ずるの日も来たらん。
人間白日醒猶睡  人間は白日に醒(さ)むるも猶(なお)睡(ねむ)るがごとく
老子山中睡却醒  老子(ろうし)は山中に睡るも却(かえ)って醒めたり
醒睡両非還両是  醒睡(せいすい)両(ふた)つながら非 還(また)両つながら是(ぜ)
溪雲漠漠水冷冷  溪雲(けいうん)漠漠(ばくばく)たり 水冷冷(れいれい)たり


 自警録終

引用文献



江守孝三(Emori Kozo)