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都市伝説 【緊急特番】やりすぎ都市 関暁夫がそろそろ消されてもおかしくない大予言をついに地上波で暴露!
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ユダヤ人 | |||||||||||||
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総人口 | |||||||||||||
1,400-1,500 万人(2014年現在)[1] | |||||||||||||
居住地域 | |||||||||||||
イスラエル 6,135,000[1] | |||||||||||||
アメリカ | 5,425,000[1] | ||||||||||||
フランス | 478,000[1] | ||||||||||||
カナダ | 380,000[1] | ||||||||||||
イギリス | 375,000[1] | ||||||||||||
ロシア | 190,000[1] | ||||||||||||
アルゼンチン | 181,500[1] | ||||||||||||
ドイツ | 118,000[1] | ||||||||||||
オーストラリア | 11,2500[1] | ||||||||||||
ブラジル | 95,200[2] | ||||||||||||
南アフリカ | 77,500[1] | ||||||||||||
ウクライナ | 65,000[1] | ||||||||||||
ハンガリー | 48,000[3] | ||||||||||||
メキシコ | 40,000[1] | ||||||||||||
ベラルーシ | 30,000[4] | ||||||||||||
ベルギー | 31,200[5] | ||||||||||||
オランダ | 29,900[5] | ||||||||||||
イタリア | 28,600[5] | ||||||||||||
エチオピア | 26,196[6] | ||||||||||||
イラン | 25,000[7] | ||||||||||||
チリ | 20,700[5] | ||||||||||||
ウルグアイ | 18,000[5] | ||||||||||||
スウェーデン | 18,000[8] | ||||||||||||
トルコ | 17,800[5] | ||||||||||||
カザフスタン | 12,000-30,000[9] | ||||||||||||
スペイン | 12,000[5] | ||||||||||||
オーストリア | 9,000[5] | ||||||||||||
アゼルバイジャン | 6,800[5] | ||||||||||||
デンマーク | 6,400[5] | ||||||||||||
言語 | |||||||||||||
ユダヤ諸語 | |||||||||||||
宗教 | |||||||||||||
ユダヤ教 | |||||||||||||
関連する民族 | |||||||||||||
アラブ人および他のセム人[要曖昧さ回避] |
ユダヤ人およびユダヤ教 |
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ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים[10]、英語: Jews, Jewish people、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן[11])は、ユダヤ教の信者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される民族集団である。ヨーロッパでは19世紀中頃まで主として前者の捉え方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは後者の捉え方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている[12]。2010年現在の調査では、全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。
古代イスラエル人またはユダヤ人はヘブライ人とも称される。日本においては第二次世界大戦中までは「セム人」と称されることが多かったが[要出典]、現在は「ユダヤ人」という呼称がほぼ一貫して使用されている。
ユダヤ人はディアスポラ以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する少数派のエスニック集団として定着した[13]。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有する一つの民族として分類することはできない。言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、一つの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている[14]。
「ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人々である」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近代以降ではユダヤ人の家系でキリスト教に改宗した人々(例えばフェリックス・メンデルスゾーンやグスタフ・マーラー、ベンジャミン・ディズレーリ)も無神論者のユダヤ人(例えばジークムント・フロイト)も「ユダヤ人」とみなされることが多い。なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者は、Israeli(イスラエル人)である。
帰還法は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人と定義している。また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母親がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母親が非ユダヤ人で父親がユダヤ人という場合)もユダヤ人として扱うことが多い。
過去の人種学ではユダヤ人という人種が存在しているという考え方もあった。ゴビノーはアラブ人とユダヤ人を併せてセム人種と呼び、これを白人の中でも他人種との混血度の高い二級集団と断じた[15]。ナチズムはユダヤ人を人種として扱っているが、帝国市民法第一施行令による分類では、形式的にユダヤ教組織に属した人間も「人種としてのユダヤ人」になるとされた[16]。こうした見方からはユダヤ人特有の外見の特徴が存在するとされ、これに基づいた差別的検査も行われていた。しかし、ユダヤ人を身体的形質によって他と区別しうる集団として捉えることはできず[17]、すでに白人のみならず多数の黒人がともにユダヤ人として認められている。シオニストはユダヤ教とユダヤ民族を切り離して捉えることが多いが、これもナチスの論法と同様の危険をはらんでいる。
現代社会ではユダヤ人はおおむね居住地の他の住民と同化しており、これを血統主義的観点からのみ区分することはできない。そのため、ユダヤ人のハーフ[要曖昧さ回避]とかクオーターとかいう形容は、まず用いられない。ドイツの文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキは、自伝『わがユダヤ、ドイツ、ポーランド』(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方でこのあたりの機微を突いている。
歴史上、ヨーロッパのキリスト教社会で多くの中傷や迫害を受けたが、現在でもユダヤ人は民族として存続している。
ユダヤ教徒は教義上イエス・キリストをメシアと認めなかった。また、イエスはユダヤ人によって十字架にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、ユダヤ人は「神殺し」(イエス殺し)の汚名を着せられていた。こうした宗教的な理由や、ユダヤ人はキリスト教社会で疎まれていた金貸しが多かったという経済的理由が歴史的な反ユダヤ感情の要因としてしばしば挙げられる[18]。18世紀頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、さまざまな商工業分野でユダヤ人が活躍するようになった。近現代には企業の創業者や科学者を多数輩出している[19]。
ユダヤ人はタルムードに従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも学問を重視すると言われる。紀元70年にローマ軍によりイスラエルが一度滅びた時もラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、民族別知能指数では世界で最も高く[20][21]、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。カール・マルクス、ジークムント・フロイト、クロード・レヴィ=ストロースなど、近現代の哲学・思想方面のキーパーソンを輩出しているほか、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られている[22]。
ドイツを中心とした地域に住みつき、中欧・東欧へ拡散したユダヤ人は、アシュケナージ(アシュケナジム)と呼ばれ、ドイツ語の方言であるイディッシュ語を話していた。近代のドイツ語圏では彼らはある程度ドイツ文化に同化してドイツ語を使用するようになった。
中世前期のヨーロッパでは、ユダヤ人は農業、商業、職人などさまざまな職業に従事することができた。カロリング朝ではユダヤ人は聖書の民として保護され、11世紀頃までは国際的な交易の担い手でもあった。イタリア商人に東方貿易のお株を奪われると、ユダヤ人は消費貸借専門の貸金業に活路を見出した。中世後半期には、土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放等により次第にユダヤ人の活動は制限されるようになり、農業や手工業に従事することが困難になったユダヤ人は、質屋、両替商、黄金の管理人、古物商、行商や市場での無店舗販売、芸能などで生計を立てていた。
また、世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。アルトゥル・ショーペンハウアーは「フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだらモスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る」と指摘していた。こうしたことから、現在でもユダヤ人にはメディア関係が多いとされる。またロスチャイルド家は銀行業で成功したユダヤ系財閥として知られる。19世紀末のアメリカのユダヤ系移民もまた、金融やメディア、流通業等の間隙的な業種以外の業界への参入が難しかった。ハリウッドの映画産業にはユダヤ人が創業したものが多い[23]。
スファラディ(セファルディム)系ユダヤ人は、オスマン帝国圏やスペイン・フランス・オランダ・イギリスなどに多く、かつてはラディーノ語を話していた。キリスト教に改宗した人々はマラーノと呼ばれた。
アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、中東地域、アジア地域に移り住んだユダヤ人はミズラヒム(ミズラヒ)と呼ばれていた。
ほかにもイラン、インド(主に3集団)・中央アジア・グルジア・イエメン・モロッコなどを含んだ大きな観念であるミズラヒム、カライ派・カライム人、中国、ジンバブエなどのユダヤ人のほか、インド(ミゾ族)・ウガンダ(アバユダヤ)・アメリカ黒人(ブラック・ジュー)などの新たな改宗者、イスラエル建国はメシア到来まで待つべきだとするサトマール派・ネトゥレイ・カルタ、キリスト教関連のメシアニック・ジュダイズム、ネオ・ジュダイズムなど多くの分派もある。エチオピア・ベルベルのユダヤ人は孤立して発展し、タルムードを持たない。
現在世界に散らばるユダヤ人は、全てがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。写真はユダヤ人の言語(ヘブライ語)から各国語に翻訳された聖書の一部である。
世界に散らばるユダヤ教徒のコミュニティーや宗教的集団には以下がある。
(英語版の記事「Jews by country List of Jews from the Arab World」も参照)
(エジプト、メソポタミア、モロッコ、トルコ、ペルシアなどのコミュニティーに関しては英語版の記事「Islam and Judaism」も参照)
旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。ヘブライ人と呼ばれる彼らは、この付近で遊牧生活を続けた(ヘブライの原義は不明で諸説あるが、一説には「渡り歩く人」の意[24])。
紀元前17世紀頃[25]、ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされた。
その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり[26]、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(出エジプト)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃からイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。紀元前1207年の出来事を記したエジプトのイスラエル石碑に:
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(ヒエログリフ:--:*:---:--*: - YSRYR - イスラエル)と記されているのがイスラエルという部族についての最古の文献である。
紀元前10世紀頃、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、ある統計によれば同時代の世界人口は約5000万人[27]、縄文時代だった日本列島の人口は推定で10数万である[28]。ソロモン王の死後、紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされた(失われた十支族)。南のユダ王国は、紀元前609年にメギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、紀元前606年にカルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアに敗れた。紀元前587年に新バビロニアの侵攻に会い(エルサレム包囲戦 (紀元前587年))、翌年にはユダ王国が滅亡してエフドが置かれ、多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味でユダヤ人と呼ばれるようになった。
紀元前539年のオピスの戦いで、アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人はキュロス2世によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国エフド・メディナタとして復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民(ディアスポラ)の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年代頃、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たイエス・キリスト(ナザレのイエス)が活動したと伝えられる。
紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。132年、バル・コクバの乱が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来するパレスチナという地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した(ユダヤ人離散)。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在のパレスチナ人になったと考えられる。
7世紀 - 10世紀に、カスピ海北部にハザール王国が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。
ディアスポラ後の民族移動時代(2世紀-7世紀)、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。697年にウマイヤ朝がサーサーン朝ペルシアとの抗争で疲弊していた東ローマ帝国のカルタゴ及び北アフリカを征服し、711年のグアダレーテの戦いで西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島に進出した。ジュデズモ語を話すセファルディムもイベリア半島に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。
レコンキスタ・十字軍時代に、ヨーロッパのキリスト教社会では、「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。封建制度に内属していなかった彼らはヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、商工業ギルドに加入することができなかったため、職工の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。1066年、イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺 (1066年)が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人が犠牲となった。11世紀末頃にはすでにユダヤ人は「高利貸し」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人はねたまれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった[29]。セルジューク朝が西方に領土を拡大し、東ローマ帝国領のアナトリア半島を占領すると、アレクシオス1世コムネノスはローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めた。1095年11月にクレルモン公会議が開催され、翌年に民衆十字軍と第1回十字軍が開始され、エルサレム王国が設立された。これ以後、約200年にわたって、十字軍は7回の遠征を行なった。
1150年頃、フランクフルトにユダヤ人が居住した記録が残っている[30]。13世紀になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、職の追放なども行われた。神聖ローマ帝国のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝にユダヤ人税(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。後のオスマン帝国においてもジズヤ(人頭税)の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。
東方植民時代(12世紀-14世紀)にはモンゴルのポーランド侵攻で人口が減少したポーランド王国へ進出し、イディッシュ語を話すアシュケナジムが定住を始めた。1264年のカリシュの法令によって権利および安全をポーランド王およびシュラフタ(ポーランドの貴族共和政を担った階級)の庇護のもとに保障され、1290年にエドワード1世による追放布告でイングランドを追放されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「シュテットル」を形成した。
14世紀のペスト大流行(en)の頃から弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、市街地中心から離れた場所に設けられたゲットーと呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。1462年にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットーに居住するようになった。1467年、ポーランド王国とドイツ騎士団の間で司祭戦争が勃発し、1479年にピョートルクフの講和(英語: Treaty of Piotrków)が結ばれると、カジミェシュ4世の治めるピョートルクフに神聖ローマ帝国を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。1488年、イタリアのソンチーノに逃れたユダヤ人によって"Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei)でヘブライ語聖書(タナハ、旧約聖書)が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀にはヴィリニュスにも居住するようになった。
1492年にイベリア半島でレコンキスタが完了し、フェリペ2世の治世に異端審問制度によるスペイン異端審問が始まると、モリスコ追放によってセファルディムの多くが北アフリカに追放され、ポルトガルに逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、新キリスト教徒と呼ばれるユダヤ人が誕生した。セファルディムのフェルナン・デ・ロローニャ(葡: Fernão de Loronha)は、赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジルの専売権を得て、ブラジルの植民地開拓期に活躍した。
1600年にイギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアが発表した戯曲『ヴェニスの商人』では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。
1648年にウクライナで起こったフメリニツキーの乱ではザポロージャ・コサックによるポグロムによって多くの犠牲者を出した。1657年にユダヤ人の追放をオリバー・クロムウェルが解除し、ユダヤ人がイングランドへ367年ぶりに帰還した。
啓蒙時代(17世紀-18世紀)になると、スピノザらによる宗教を超えた汎神論論争をレッシングが肯定すると、メンデルスゾーン(『賢者ナータン』のモデルとして知られる)もこれを擁護してハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から1740年頃、ガリチアでバアル・シェム・トーブがハシディズムを開始した。1786年、ロシアがユダヤ教徒居住区(露: Черта́ осе́длости、イディッシュ語: דער תּחום-המושבֿ)を設置。1795年にポーランド分割(1772年・1793年・1795年)が実施され、ポーランド・リトアニア共和国が消滅して東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。1806年7月、神聖ローマ帝国が解体され、1811年にカール・テオドール・フォン・ダールベルクがナポレオン法典をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。
しかし、ナポレオンが敗退すると、1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再びはく奪された。1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロムが起こった。1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロムが起こった。1848年、ハンガリー革命に参加したハンガリー系ユダヤ人(英: Hungarian Jews)が弾圧された。これをきっかけにアルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェンによってハンガリーも1851年から1860年にかけてドイツ化が進行した。1864年、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、1871年にドイツ帝国が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。
19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム(1881年-1884年)が起こった。ユダヤ人はオーストリア=ハンガリー帝国領ブロディへ大量に脱出したため町が混乱すると、1882年にMay Lawsが発布され、ユダヤ人への締め付けが実施された。
1890年、エリエゼル・ベン・イェフダーがパレスチナに「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ言語アカデミー」の前身)を設立。 1894年にフランスでドレフュス事件が起こり、同年には「イディッシズム」を代表する作家、ショーレム・アレイヘムによる『牛乳屋テヴィエ』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)が発表された。1896年、テオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家」を発表。 1900年には黒百人組が結成され、1903年から1906年にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった(キシナウ・ポグロム)。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引きがねとなり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするナータン・ビルンバウムによるシオニズム運動が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教やイスラムに改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由の一つである。
1914年11月にイギリスがオスマン帝国に宣戦布告すると、シオニストの閣僚・ハーバート・サミュエルが「The Future of Palestine」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナはVilayet of Damascus南西部にあったが、1915年10月24日のフサイン・マクマホン協定のこの部分に関する解釈が後に大論争となった。第一次世界大戦が始まると大量のコルダイト火薬が必要になったが、その原料のアセトン供給を握っていたのはロシア帝国の化学者でシオニストのハイム・ヴァイツマンであった。このことでイギリス政府閣僚との知古を得たヴァイツマンはアーサー・バルフォアにバルフォア宣言を働きかけた。1916年5月16日にはサイクス・ピコ協定が締結された。アラブ反乱(1916年6月 - 1918年10月)。1917年に熱心なシオニストの第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドはイギリス政府からバルフォア宣言を取り付け、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約はトルコとのセーヴル条約やイギリス委任統治領パレスチナ(1920年-1948年)に繋がっていった。1919年にはファイサル・ワイツマン合意が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。オスマン帝国から代わった委任統治が、イギリス委任統治領パレスチナ(1920年-1948年)の公用語の一つとしてヘブライ語を宣言した。
イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。1920年7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、1921年の暴動があった。1922年、イギリス委任統治領パレスチナが成立。1925年、1926年の暴動、1929年には嘆きの壁事件がきっかけとなって8月23日にはヘブロン虐殺(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。
1928年、ヨシフ・スターリンの社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区」が設置され、西ウクライナから西ベラルーシにまたがる「ルテニア」と呼ばれた地域、すなわちカルパティア・ルテニア(カルパト・ウクライナ)・ガリツィア(ガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィア・ベッサラビアなどのシュテットルから多数のユダヤ人が移住した。社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざすもので、イディッシュ語の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィア等からの難民がウィーンへも押し寄せ、イディッシュ語のコミュニティーを形成したことが知られている。[31]
1933年に国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなり、様々な扱いで圧迫されるようになった。1936年から1939年のパレスチナのアラブ反乱では、エルサレムでの暴動があった。なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5000人、うちユダヤ人が7万5000人を占めていた[32]。1938年11月9日、ドイツ全土で『帝国水晶の夜』(ドイツ語: Reichskristallnacht)事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。1939年、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域に於けるユダヤ人の隔離を開始した。ソ連はユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入を禁止した。 1940年8月31日、杉原千畝がリトアニアのカウナスを脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。1941年、ソ連はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国を廃止し、ヴォルガ・ドイツ人をシベリアやカザフスタンへ追放し、カザフスタンのドイツ人と呼ばれた。1941年7月10日、イェドヴァブネ事件。1941年9月6日、リトアニアのヴィリニュスにヴィリニュス・ゲットーが設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画(マダガスカル計画)を立てていたが、その後絶滅収容所への収容・絶滅計画に方針を切り替えた。これらはホロコーストと呼ばれる。
ホロコーストの実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するというシオニズムが盛んになり、1945年にアメリカでユダヤ人抵抗運動が組織された。しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。1946年にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織によるキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件やイフード運動の指導者ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(Fawzi Darwish al-Husseini)暗殺が起こった。1947年11月29日に国連で『パレスチナ分割決議(国際連合総会決議181号)』が採択されると、11月30日からパレスチナ内戦が始まり、1948年4月にはエツェルによるデイル・ヤシーン事件などが起こったが、同年5月14日のイスラエル国建国のイスラエル独立宣言が行なわれると、翌日の5月15日の第一次中東戦争に繋がっていった。全パレスチナ政府がガザに設置され、アミーン・フサイニーが大統領となると、Killings and massacres during the 1948 Palestine Warが多発した。1949年7月の休戦協定によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。エジプトはガザ地区を獲得し、ヨルダン(1949年6月にトランスヨルダンから名称変更した)は東エルサレム及びヨルダン川西岸地区を獲得した。一方、寸土も獲得出来なかった全パレスチナ政府が四ヶ月で崩壊すると、1951年にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンのアブドゥッラー1世を暗殺した。
1952年にエジプト革命が起こり、1953年にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領ガマール・アブドゥン=ナーセルはアスワン・ハイ・ダム建設の協力をアメリカに求めた。しかし、1956年になってアメリカ合衆国国務長官のジョン・フォスター・ダレスがエジプトへの協力に反対した[33]。そのためナーセルはソ連側に接近し、さらに汎アラブ主義を掲げ、スエズ運河国有化(英: Nationalisation of the Suez Canal)を断行した。当時フランスは、アルジェリア戦争(1954年-1962年)でアルジェリア民族解放戦線をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で第二次中東戦争が勃発した。アメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領は、アラブ冷戦下にソ連が介入する事態を懸念し、平和のための結集決議で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争に繋がった。
米国がベトナム戦争でアラブ冷戦に手が回らなくなると、ソ連のKGBはイスラエルのモサッドの諜報活動を逆手にとった。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡る紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは1967年に逆に先制攻撃を行ない、第三次中東戦争を開始した。
第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「大イスラエル構想[34]」(1967年-1976年)が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。
1964年にアラブ連盟によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍したファタハのヤーセル・アラファートが議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。1970年にガマール・アブドゥン=ナーセルが急死すると、アンワル・アッ=サーダートがエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固める為に1971年9月にシリアとリビアとのアラブ共和国連邦を結成した。1972年4月には、1970年のブラック・セプテンバー事件でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻込まれる形で、1973年10月の第四次中東戦争が勃発した。石油輸出国機構(OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。
和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル路線からの転換を図った。1977年6月にサーダートがイスラエルへメナヘム・ベギン首相を公式訪問し、1978年9月のキャンプ・デービッド合意はサーダートが単独で締結した。しかし、1981年10月にサーダートはエジプトのジハード団によって暗殺された。
1987年に始まる第1次インティファーダは、PLOへの失望感からパレスチナ人が抵抗運動を始めたものである。
ユダヤ人の歴史の要素の一面として、時には迫害・襲撃・追放をも含んだ反ユダヤ主義ということが言われるが、これはあくまで極一面であって、ディアスポラの地で2000年、地域によっては1000年以上の隣人として共存・共発展してきた面もあり、たとえばキリスト教では親ユダヤの宗派も存在する。宗教弾圧を受けた面もあれば、セム的一神教・アブラハムの宗教の本流としての「啓典の民」[35]、「聖なる民 ‘am Qodeš(マルティン・ブーバーは「聖にする民」と訳している。レビ記11章45節を参照。)」としての面もある。イスラム世界においては、貢納を行えば信仰は許されたが、メルラーと呼ばれるゲットーも存在していた。これを編み出したのはハルーン・アル・ラシードであった。また反ユダヤ暴動もしばしば起きていた[36]。
1945年、シオニストによってユダヤ人国家イスラエルが建設される。
ユダヤ人関連の文化遺産として以下がある。
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その他、日本のユダヤ人参照。
ユダヤ人およびユダヤ教 |
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ユダヤ教(ユダヤきょう、ヘブライ語: יהדות[1])は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、現在ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 『タナハ』(キリスト教の『旧約聖書』と同じ書物)が重要な聖典とされる。
『タナハ』 (ヘブライ語ラテン文字転記:tanakh)、『ミクラー』 (miqra') と呼ばれる書を聖典とする。これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物である。ただし、成立状況が異なるので、キリスト教とは書物の配列が異なる。イスラム教でも『モーセ五書』は『コーラン』に次いで重要視される。ユダヤ教では、この他にタルムードをはじめとしたラビ文学も重視する。
しかし、ユダヤ教は信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視し、キリスト教、特にルター主義とは違う[2]。例えば、ユダヤ教の観点からは、信仰を持っていたとしても、アミーダー・アーレーヌー・ムーサーフなどを含んだシャハリート・ミンハー・マアリーブを行わないこと、シェマア・イスラーエールを唱えないこと、ミクラーを読まないこと、食事の前とトイレの後の手洗いと祈りを行わないこと、戸口のメズーザーに手を当てて祈りを行わないこと、カシュルートを実行しないこと、タルムード・トーラー、ベート・ミドラーシュ、イェシーバー、コーレールなどミクラーとラビ文学の研究を行わないこと、シャッバートを行わないこと、パーラーシャーを読まないことなどは、ユダヤ教徒としてあるべき姿とは言えない。「信じるものは救われる」などという講義をするラビはとても考えられない。そのため改宗にも時間がかかり、単なる入信とは大きく異なる[3]。
ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が[4]」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。
“ | וַאֲהַבְתֶּם, אֶת-הַגֵּר: כִּי-גֵרִים הֱיִיתֶם, בְּאֶרֶץ מִצְרָיִם 寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである (ミツワー、典拠は申命記10:19) |
” |
すなわち、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。非ユダヤ人も神の下僕となり、神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされる[5]。ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある[6]。
ユダヤ教を信仰する者をユダヤ人と呼ぶ一方、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤ人キリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによって、もはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。これは民族の定義を血縁によるのか、宗教によるのか、「ユダヤ教」が「民族宗教」なのか、あるいは「ユダヤ人」が「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる。
このように、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在(ヘブライ語ラテン文字転記:maqom)すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない[要出典]。
ユダヤ教徒はタルムードと呼ばれる教典に従って行動すると知られているが、これはラビ的ユダヤ教徒に限られる。タルムードは2世紀頃からユダヤ人の間で幾たびも議論の末に改良を重ねられてきた生活および思想の基礎であり、家族やユダヤ人同士でタルムードの内容について討議する事もある[7]。
ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育でユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆のほとんどが文盲だった紀元前からユダヤ人の共同体では授業料が無料の公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をよい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。
一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。
労働は神の行った行為のひとつであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。
人間は創造主の代わりに労働をする存在として作られたとされる。 労働により得た賃金や物質は一部を創造主に捧げなければならない。
ユダヤ教では性衝動や性行為は自然なもので、必要悪とはみなさない。ただし、妊娠・出産を重視するために、自慰行為を悪とみなす保守派も存在する。 夫婦の性行為はそれを捻じ曲げることがむしろ罪であるとされる。また、快楽を伴わない性交も同様に罪とされる。
他にヒューマニズム・ユダヤ教 Humanistic Judaism、自由主義ユダヤ教 Liberal Judaism、進歩主義ユダヤ教といった教派がある。
紀元前1280年頃、モーセがヘブル人をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。
カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成する。
紀元前1020年頃ヘブライ王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後イスラエル王国とユダ王国に分裂し、南北に分列する。紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。バビロン捕囚中の約50年間は、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本から捉え直され、民族神・神ヤハウェに対する深刻な葛藤・省察の後に、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。この時期の代表的な宗教家は無名であり、旧約聖書学では第2イザヤと呼ばれている預言者である。また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。
その後(紀元前539年)、この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。ここで「ユダヤ」とは、イスラエル十二部族の一つユダ族の居住していた地方の名である。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えであるトーラー・律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。
ヤハウェ信仰に改宗した、もと「異邦人」をゲール・ツェデク (gēr tzedeq、正しい改宗、改宗者)、イスラエル人、あるいはヤハウェ信徒以外でイスラエルの地に住んだ人々をゲール・トーシャーブ (gēr tōšābh) Ger Toshav(正しい異邦人、寄留者)と呼んだ。
ユダヤ教・キリスト教に共通の信条・教義を認める人々(Judeo-Christian, Judeochristianity)。ユダヤ教からの視点では、キリスト教は行動・行為の実践よりも信仰を重視するものが多く、イエスをメシアとする、原罪、贖罪、再臨信仰などの三要素ほか、さまざまな点において、ユダヤ教との違いが指摘される(教祖をメシアとするキリスト教的にも異端とされる物を含む)。
イスラムは、キリスト教と違って正しい信仰より正しい行動を重視し、割礼やイスラム法と司法律法、カシュルートとハラールなどで共通点と持つ。二つの伝統の間に位置する人々もいる(Judeo-Islamic)。
弾圧などによってユダヤ教の信仰を密かに続けてきた人々(Crypto-Judaism)。
江守孝三(Emori Kozo)