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安岡 正篤(政財官界の指南役)、安岡正篤「人間学講話」、安岡正篤の「名言集」、(名言集)
名言集1、名言集2 、名言集3
安岡正篤の名言集
◎安岡正篤のプロフィール
安岡正篤著書一覧
安岡正篤(やすおか まさひろ/1898年2月13日-1983年12月13日/男性)は、大阪府大阪市出身の陽明学者・思想家・教育者。多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番として知られる人物であり、安岡を師と仰いだ政治家には「吉幕」とも呼ばれた人物であるが、本人は「自分はただの教育者にすぎない」と黒幕と呼ばれるのも嫌がっていたとのこと。また「平成」の元号の考案者と言われており、「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つという意味だ」と語ったとされている。(参考文献:ウィキペディア+楽天ブックス)
著作・書籍
主な著作・書籍に「安岡正篤一日一言 心を養い、生を養う」「安岡正篤活学一日一言 己を修め、人を治める」「「人間」としての生き方 現代語訳『東洋倫理概論』を読む」「活眼活学」「論語に学ぶ」「十八史略 激動に生きる強さの活学」「先哲が説く指導者の条件 『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ」「人物を修める 東洋思想十講」「いかに生くべきか 東洋倫理概論」「安岡正篤活学百言」などがある。
・活力・気迫がなければ、 善も悪も、是も非もない。
・幸福な人生とは、その人が一生の間にどれだけ「幸せだ」という感情を持つ事ができるかによって決まるもの。
・こう考えると、 順風満帆の時もそうでない時も、その時、「どう感じるか」が重要になってくる。
・つまり、いま、この瞬間を どう思うかなのである。
・今を幸せと感じられれば、人生は「いま」の連続体なのだから、一生が幸せなのである。
・最後まであきらめなかった人間が、成功しているのである。
・一つの灯火を掲げて一隅を照らす。
・そうした誠心誠意の歩みを続けると、いつか必ず共鳴する人が現れてくる。
・一灯は二灯となり三灯となり、いつしか万灯となって、国をほのかに照らすようになる。
・太い筆で細かい字を書く。 これが人生を渡る秘訣だ。
・凡と非凡の分かれる所は能力の問題ではない。精神であり感激の問題だ。
・一人の人間の死後に残り、思い出となるのは、 地位でも財産でも名誉でもない。
・その人の心・精神・言動である。
・愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、
・そんな人間の方が、 根が真面目なだけに、 修養努力して大人物になることが多い 。
・人間は学び続けなければならない。 学ぶことをやめたら、 人間でなくなる。
・自己と仕事が分裂していてはダメ。
・仕事に打ち込んでいくと、自分の対象である仕事は、 自己と一つになることによって精神化される。
・そうすると、どんどん物事が解決していく。
・なるべく人の世話役を心がけよ。
・そして、報(むくい)を望むな。 求むるな。
・人物が偉大であるほど立派な環境を作る。
・人間ができていないと環境に支配される。
・言葉は言う人によって、みな意味が違ってくる。
・文字や言葉だけで、それがみな同じだと思ったら大間違いである。
・人間なにが悩みかというと、自分が自分を知らざることである。
・人を論じたり、 世を論じたりすることはやさしいが、 自分を論じ、 自分を知るということは、実はこれが一番大事であるにかかわらず、なかなか難しいことである。
・人間は、先ず自分を責むべきであって、 世の中や時代を責むべきではない。
・世の中が悪い、 時代が悪いというのならば、
・そういう時世に対して、一体自分はどれだけ役に立つのか、それをどう解釈し、それに対してどういう信念・情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい。
・皆が利を求めて行動するようになると、お互いに忌みあい、必ず人間関係、人間の生活、人間の事業というものを壊してしまう。
・人間は自得から出発しなければならない。
・人間はいろんなものを失うが、何が一番失いやすいかといいますと、自己である。
・人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。
・これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。
・人間の自由は物質的満足の得られることにあるのではない。
・窮しても苦しまず、憂えても意哀えざるにある。
・禍福終始を知って惑わぬことにある。
・積み上げて自分の身ほどの書物は、毎年読み続けるくらいの心がけが、人物を磨いていくのである。
・道に志したなら、衣食がたとえ粗末であっても気にすることはない。
・他人が見ても心地よい表情や態度を心がけて、感情の乱れを表に出してはいけない。
・細心の注意を払い、実行する大胆さを持て。
・人々の楽しみの後に自分は楽しめ。
知識・見識・胆識の三識が兼ね備わってはじめて人物の器量となる。
最後まであきらめなかった人間が、成功しているのである。
愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 。
人間は何事によらず新鮮でなければならない。ところがいかにすれば新鮮であり得るかといえば、やはり真理を学んで、真理に従って生活しなければいけない。もっと突っ込んで言えば、人間としての深い道を学ぶ。正しい歴史伝統にしたがった深い哲理、真理を学び、それに根ざさなければ、葉や花と同じことで、四季に従って常に魅力のある、生命のみずみずしさを維持してゆくことはできるものではない。
我々の生活が自堕落になったとき、心から馬鹿と叱ってくれる畏敬する人を持つ者は幸いだ。
「さいわい」にも幸と福と二字ある。学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたに過ぎない幸いを幸という。たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなく上手い巡り合わせにぶつかったとかいう、これは幸。そうではなくて原因を自己の中に有する、すなわち、自分の苦心、自分の努力によって勝ち得たる幸いを「福」という。福の示偏は神さまのことだ。旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。農家でいうならば俵を積み上げるという文字。神の前に蓄積されたるものが「福」である。
徳とは無類の明るさのことである。
人間の脳というものは、いくら使ってもくたびれないばかりでなく、難しいことに使えば使うほど機能が優れてくる。つまらないことに使っておると退化する。
太陽の光に浴さなければ、物が育たないのと同じことで、人間の理想精神というものは心の太陽なのだ。理想に向かって情熱を湧かすということは、日に向かう、太陽を仰ぐということだ。これがないと人間のあらゆる徳が発達せず、したがって才知芸能も発達しない。
一、互いに明朗闊達なるべし 一、盛んに研究討論すべし 一、人に対して謙虚なるべし 一、事に当たって正義を立つべし 一、自ら処するに敏なるべし
英仏の古諺にいわく、「朝こそすべて」と。一日24時間、朝があり昼があり夜があるとするのは死んだ機械の一日にすぎない。活きた時間は朝だけ、換言すれば、本当の朝を持たなければ一日無意義だということだ。朝を活かすことから人生は始まる。
史記に「利は智をして昏(くら)からしむ」と書いている。人間は利益ばかり追求していると、頭が悪くなるというのである。ものごとの理(ことわり)がわからなくなって、思いがけない恨みを招いたりする。論語に「利をもって行えば怨(うら)み多し」と出ているが、経済というものは本来、矛盾衝突を内包するから、利害による恨みが出やすい。
凡と非凡のわかれるところは能力のいかんではない。精神であり感激の問題だ。
子供は言説で教えるよりも、情的に感じ取らせることの方が大事なのです。親父は千言万言を費やして説教するよりも、黙って子供に見せることであります。
名高い言葉に、「いかに善を為(な)すかということよりも、いかに善であるかということの方が大事である」というのがありますが、人間の第一義は、何を為すかということではなくて、何であるかということである。
大抵の人は、お辞儀というのは「相手に敬意を表する」ことと思っているが、それは第二義である。第一義は相手を敬するということではなくて、「自らを敬す」ということである。お辞儀をするということは「自分が相手に敬意を表すと同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する」ことである。
人間なにが悩みかというと、自分が自分を知らざることである。人を論じたり、世を論じたりすることはやさしいが、自分を論じ、自分を知るということは、実はこれが一番大事であるにかかわらず、なかなか難しいことである。人間は、先ず自分を責むべきであって、世の中や時代を責むべきではない。世の中が悪い、時代が悪いというのならば、そういう時世に対して、一体自分はどれだけ役に立つのか、それをどう解釈し、それに対してどういう信念・情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい。
幸福な人生とは、その人が一生の間にどれだけ「幸せだ」という感情を持つ事ができるかによって決まるもの。こう考えると、順風満帆の時もそうでない時も、その時、「どう感じるか」が重要になってくる。つまり、いま、この瞬間をどう思うかなのである。今を幸せと感じられれば、人生は「いま」の連続体なのだから、一生が幸せなのである。
歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ。
大努力を成すには、当然自ら苦しまねばならぬ。苦しんで開拓したものでなければ本物ではない。人並みの努力をしたのでは優れた者にはなれない。
人間は、早成する、早くものになるというほど危ないことはない。人間もなるべく晩成がよい。まあ、死ぬ頃なんとかものになるというくらいの覚悟でぼつぼつやるがよい。
優れた者となるためには、人の数倍の努力と苦労をしなければならない。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の10倍も20倍もやるだけの元気がなければならぬ。
人間は学び続けなければならない。学ぶことをやめたら、人間でなくなる。
太い筆で細かい字を書く。 これが人生を渡る秘訣だ。しかし、それには充分の力量がなければならぬ。
第一流の人物はどこか普通の人の型にはまらぬものがなければならぬ。凡人の測り知れない多面的な変化に富んでいなければならぬ。天に通ずる至誠、世を覆う気概とともに宇宙そのもののような寂寞(せきばく:ものさみしいさま)をその胸懐に秘めていてほしい。
世の中の法律や制度をいかに変えてみても、イデオロギーをいかに振り回してみても駄目である。人間そのものをなんとかしなければ、絶対に人間は救われない。
一人の人間の死後に残り、思い出となるのは、地位でも財産でも名誉でもない。その人の心・精神・言動である。
人間は自得から出発しなければならない。人間はいろんなものを失うが、何が一番失いやすいかといいますと、自己である。人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。
人に嫌われぬための5か条
一、初対面に無心で接すること。有能な人間ほど、とかく慢心や偏見があり、どうしても有心で接する、これはいけない。
一、批判癖を直し、悪口屋にならぬこと。
一、努めて、人の美点・良所を見ること。
一、世の中に隠れて案外善いことが行われているのに平生注意すること。
一、好悪を問わず、人に誠を尽くすこと。
いかに貴い職業でも、人によって賤(いや)しくなる。たとえ賤しい仕事でも、人によっていくらでも貴くすることができる。
人間の本当の正しさは、ちょっとした日常の挨拶や振る舞いに表れ、何でもない行動に、案外人間内容やその背景を知ることができるものです。これに反して、大層偉そうな大げさなことを言う者は当てになりません。こんな人ほど、家の中や友達との付き合いになると、とんでもない愚劣なことを平気でやるものであります。ついうっかり言った言葉、ちょっとやった行為がその人の人間を決定します。
本当の自分を知り、本当の自分をつくれる人であって、初めて人を知ることができる、人をつくることができる。国を知り、国をつくることもできる。世界を知り、世界をつくることもできる。
◎安岡正篤の名言
安岡正篤のプロフィール
安岡正篤、やすおか・まさひろ。日本の思想家。陽明学者。大阪出身。東京帝国大学法学部政治学科卒。卒業時に出版した『王陽明研究』が反響を呼ぶ。大学卒業後、文部省に入省するも半年で退官し東洋思想研究所を設立。大正デモクラシー期に伝統的日本主義を説いた。その後、日本の多くの指導者に影響を与えた人物
安岡正篤の名言 一覧
何にしびれるかによって、その人は決まる。人間は本物にしびれなければならない。
安岡正篤の名言|何にしびれるかによって、その人は決まる
敗戦の中からこそ、本当の人間ができるものです。人生のいい修行の場を得たのですから。
安岡正篤の名言|敗戦の中からこそ、本当の人間ができるもの
道縁は不思議にして無窮(むきゅう)。
【覚え書き|道縁=人の道を学ぶ師や友同士の縁】
安岡正篤の名言|道縁は不思議にして無窮
大努力を成すには、当然自ら苦しまねばならぬ。苦しんで開拓したものでなければ本物ではない。人並みの努力をしたのでは優れた者にはなれない。
安岡正篤の名言|苦しんで開拓したものでなければ本物ではない
人間の脳というものは、いくら使ってもくたびれないばかりでなく、難しいことに使えば使うほど機能が優れてくる。つまらないことに使っておると退化する。
安岡正篤の名言|脳は使えば使うほど機能が優れてくる
いかに貴い職業でも、人によって賤(いや)しくなる。たとえ賤しい仕事でも、人によっていくらでも貴くすることができる。
安岡正篤の名言|人によってその職業が貴くも賤しくもなる
話し上手より聞き上手ということがある。自分が接するありとあらゆる人から、その専門の知識体験を聞き、我が物にすることができれば活学というべきだ。
安岡正篤の名言|ありとあらゆる人から知識と体験を学ぶことの大切さ
人間は、早成する、早くものになるというほど危ないことはない。人間もなるべく晩成がよい。まあ、死ぬ頃なんとかものになるというくらいの覚悟でぼつぼつやるがよい。
安岡正篤の名言|早成するより、晩成する方がいい
人間はできるだけ早くから、良き師、良き友を持ち、良き書を読み、ひそかに自ら省み、自ら修めることである。人生は心がけと努力次第である。
安岡正篤の名言|人生は心がけと努力次第
我々の生活が自堕落になったとき、心から馬鹿と叱ってくれる畏敬する人を持つ者は幸いだ。
安岡正篤の名言|叱ってくれる人を持つことの大切さ
少数の真剣な求道者のみが時制の運命を徹見(てっけん)し、社会を善導することができる。
安岡正篤の名言|少数の真剣な求道者のみが社会を善導する
他人を変えようと思ったならば、まず自分を変えることである。
安岡正篤の名言|他人を変えるには
人間は考えてしなければ成功しない。考えてはじめて成すことができる。
安岡正篤の名言|考えてから行動することの大切さ
なるべく人の世話役を心がけよ。そして、報を望むな。求むるな。
安岡正篤の名言|なるべく人の世話役を心がけよ。そして、報を望むな。求むるな。
自己の内面に満足なものを持たない者ほど外物に憧れる。
安岡正篤の名言|内面の満足を得ることの大切さ
本当の利益というものは、義理に適うものでなければならぬ。ところが世の中の利害というものは大抵義理に反して打算に走る。これが問題である。
安岡正篤の名言|本当の利益は打算ではなく義理に適うもの
太い筆で細かい字を書く、これが人生を渡る秘訣だ。しかしそれには充分の力量がなければならぬ。
安岡正篤の名言|人生を渡る秘訣
書を読む際は、生きた人生に連想が及ぶことが必要だ。それを頭がひらめくという。学問が身についてきた証拠だ。
安岡正篤の名言|効果的な本の読み方
人を観るときは、前より後ろから観るのがよい。前はつくろえるが後ろは誤魔化せないからだ。後ろ姿の淋しいというのは何よりもよくない。逆だと人間ができたのだ。
安岡正篤の名言|その人の人物を観たいときは、後姿を観る
人間は俗生活をしておればおるほど、その中に俗に動ぜざるもの、俗に汚れざるものがなければならない。それで初めて俗を楽しむこともできる。
安岡正篤の名言|俗に左右されないものを持つことの大切さ
不老長生とはいたずらに年をとることではない。いつまでも生きる限り、ぼけないで、人生に興味を持ち、情熱を抱き続けて勉強することである。
安岡正篤の名言|老いずに長生きするには
ありがたいとか、感謝とよくいうが、自分の生活の中でまず不満や愚痴は未練がましく漏らさない心掛けが肝要だ。
安岡正篤の名言|不満や愚痴を言わないことの大切さ
古い友人を持っておる者ほど本物だが、たえず新しい友人を漁(あさ)って歩く者は、それが順境にある者ほど偽者だ。
安岡正篤の名言|友人でその人の人物がわかる
凡と非凡のわかれるところは能力のいかんではない。精神であり感激の問題だ。
安岡正篤の名言|凡と非凡の分かれる原因
たえず熱中する問題を持つこと、すなわち感激の対象を持つことだ。人生は退屈することが一番いけない。たえず問題を持つ者が、精神的に勝利を占める。
安岡正篤の名言|たえず問題を持つ者が、精神的に勝利を占める
子供は言説で教えるよりも、情的に感じ取らせることの方が大事なのです。親父は千言万言を費やして説教するよりも、黙って子供に見せることであります。
安岡正篤の名言|説教するよりも行動で見せることの大切さ
粗忽(そこつ)、がさつは最も人格の低劣を表す。高邁な人格はいかに剛健・活発にみえても、その人のどこかに必ずしっとりした落ち着きや静けさを湛(たた)えているものだ。
安岡正篤の名言|落ち着きや静けさを持つことの大切さ
世の中の法律や制度をいかに変えてみても、イデオロギーをいかに振り回してみても駄目である。人間そのものをなんとかしなければ、絶対に人間は救われない。
安岡正篤の名言|法律・制度やイデオロギーより人間そのものをなんとかしないといけない
名高い言葉に、「いかに善を為(な)すかということよりも、いかに善であるかということの方が大事である」というのがありますが、人間の第一義は、何を為すかということではなくて、何であるかということである。
安岡正篤の名言|何を為すかより、何であるかが大事
本当の自分を知り、本当の自分をつくれる人であって、初めて人を知ることができる、人をつくることができる。国を知り、国をつくることもできる。世界を知り、世界をつくることもできる。
安岡正篤の名言|まずは自分を知ることが大切
病弱とか、愚鈍であるとか、貧乏であるとか、多忙であるとかいうことは、逆に自分自身を鍛錬する非常な妙薬、否、妙薬以上のものであります。
安岡正篤の名言|逆境は自分自身を鍛錬する妙薬
人に嫌われぬための5か条
一、初対面に無心で接すること。有能な人間ほど、とかく慢心や偏見があり、どうしても有心で接する、これはいけない。
一、批判癖を直し、悪口屋にならぬこと。
一、努めて、人の美点・良所を見ること。
一、世の中に隠れて案外善いことが行われているのに平生注意すること。
一、好悪を問わず、人に誠を尽くすこと。
安岡正篤の名言|人に嫌われぬための5か条
富貴の地位、つまり支配的・指導的地位にいつまでもしがみついているということは芳(かんば)しからぬことである。いい年になったら早く後継者にその地位・財産を譲って、真実の生活に入るべきものである。
安岡正篤の名言|後継者に地位を譲ることの大切さ
優れた者となるためには、人の数倍の努力と苦労をしなければならない。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の10倍も20倍もやるだけの元気がなければならぬ。
安岡正篤の名言|努力の大切さ
ものを評するは己を告白することだ。深い人は何でもないことを深く解釈し、つまらぬ人間は深いことを浅く解釈する。心暗ければ世暗し、心明るければ世明るし、心深ければ世深し、心浅ければ世浅し。
安岡正篤の名言|ものを評するは己を告白すること
人間は憂えなければ人物ができない。何の心配もなく平々凡々幸福に暮らしたのでは、優という文字の真義からくる「優秀」とは言い難い。憂患を体験し、悩み抜いてきて初めて、人物も余裕も出てくる。
安岡正篤の名言|悩み抜くことの重要性
行き詰ってしまって、勢もすぼまり、意気上がらぬ、どうにもこうにもぺしゃんこになってしまった人間は、そこでへこたれず、元気であった初心をたずねるがよろしい。そうすれば、また新しく出かけることができる。
安岡正篤の名言|逆境にあるときは初心に帰ることが重要
西洋でも東洋でもそうだが、有為有能な人に共通しておることは、惰眠をせぬことである。
安岡正篤の名言|惰眠しないことの大切さ
これからの急務は形式的資格や功利の追求ではなく、心がけを練り、信念識見、才能を養うて、仕事のために、国家のために、立派に役立ってゆく人物人材の修練養成にあり、これが真の成功の条件であります。
安岡正篤の名言|真の成功の条件
人生航路において辱めを受けたり、運命に恵まれなかったり、因果に支配されても、すべて天命と受け止めよ。食うもの、衣(きる)もののない貧乏生活であっても、楽しみをその中に見出せ。
安岡正篤の名言|すべてを天命として受け止めることの大切さ
人間が浅はかで無力であると、いわゆる「宿命」になる。人間が本当に磨かれてくると「運命」になる。すなわち、自分で自分の「命」を創造することができるようになる。
安岡正篤の名言|自分で自分の命を創造する
平生からおよそ善い物、善い人、真理、善い教え、善い書物、何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、できるだけ縁を結んでおくことです。これを勝縁といい、善縁といいます。
安岡正篤の名言|日ごろから善いものに接することの大切さ
「独」というものは人の世から離れた、さびしい隠者の一人という意味ではなくて、「絶対」という意味だ。「独立」というものはなんら他に依存せず、自分自身が絶対的に立つということだ。
安岡正篤の名言|独立の意味
いかなる所へ行っても、牢獄へ入れられても、島流しにあっても、悠然として普段と変わらないようになるのには、よほど自分をつくらなければならない。そういう意味では、不遇・逆境というものは自己を練る最もいい場所だ。
安岡正篤の名言|不遇・逆境は自己を練る最もいい場所
後ろ姿がしょんぼりしているのは、不徳であることを示しているのだ。怒り肩がいいのかと言うと、これもよろしくない。後光が差すというか、徳のある人は後ろ姿が凛々しく、元気であふれているのである。
安岡正篤の名言|後ろ姿がその人を表わす
微力を諦めてはならぬ。冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、また閑にも耐えて、激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、自強してゆこう。
安岡正篤の名言|諦めないことの大切さ
人物をみる8つの観察方法
1.通ずればその礼するところを観る。(すらすら上手く行き出したときに、どういうものを尊重するかを観る)
2.貴(たか)ければその進むるところを観る。(地位が上がるにつれ、その登用する人間を見て人物がわかる)
3.富めばその養うところを観る。(金ができたときに何を養いだすかを観る)
4.聴けばその行うところを観る。(善いことを聞いたらそれを実行するかどうかを観る)
5.習えばその言うところを観る。(習熟すればその人間の言うところを観る)
6.止(いた)ればその好むところを観る。(「止」は板につくという意味。一人前に仕事ができるようになると、何を好むか観る)
7.窮すればその受けざるところを観る。(貧乏したときに何を受けないかを観る)
8.賤(せん)なればその為さざるところを観る。(落ちぶれたときに何をしないかを観る)
安岡正篤の名言|人物をみる8つの観察方法
健康の三原則
1.心中常に喜神を含むこと。(神とは深く根本的に指して言った心のことで、どんなに苦しいことに逢っても心のどこか奥の方に喜びを持つということ)
2.心中絶えず感謝の念を含むこと。
3.常に陰徳を志すこと。(絶えず人知れず良いことをしていこうと志すこと)
安岡正篤の名言|健康の三原則
年頭にすべき4つのこと
1.年頭まず自ら意気を新たにすべし
2.年頭古き悔恨を棄(す)つべし
3.年頭決然滞事(たいじ)を一掃すべし
4.年頭新たに一佳書を読み始むべし
安岡正篤の名言|年頭にすべき4つのこと
歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ。
安岡正篤の名言|歴史が繰り返す理由
海老は永遠の若さを象徴しているというので、めでたいものとされる。というのは、あれは生ける限りいつまでも殻を脱ぎ、固まらない。ことに万物がぼつぼつ固くなる秋に、彼は殻を脱する。生ける限り、よく殻を脱いで固まらぬ、いつまでも若さを失わない、よく変化していくという意味で、海老はめでたい。
安岡正篤の名言|エビのように死ぬまで殻を脱ぎながら生きる
私はものごとを、とくに難しい問題を考えるときには、いつも3つの原則に依(よ)るように努めている。第一は、目先にとらわれないで、できるだけ長い目で見ること。第二はものごとの一面にとらわれないで、できるだけ多面的に、でき得れば全面的に見ること。第三に何事にもよらず枝葉末節にとらわれず、根本的に考えるということである
安岡正篤の名言|難しい問題を考えるときに役立つ3つの原則
英仏の古諺にいわく、「朝こそすべて」と。一日24時間、朝があり昼があり夜があるとするのは死んだ機械の一日にすぎない。活きた時間は朝だけ、換言すれば、本当の朝を持たなければ一日無意義だということだ。朝を活かすことから人生は始まる。
安岡正篤の名言|朝を活かすことから人生は始まる
人間というものは、栄えようと思ったならば、まず何よりも根に返らなければいけない。草木でも、本当に健やかに繁茂(はんも:生い茂る)させようと思ったならば、いたずらに枝葉を伸ばしては駄目で、幹をたくましくし、根を深く養わなければならない。根に返ることが大事である。
安岡正篤の名言|根をつくることの大切さ
環境が人をつくるということにとらわれてしまえば、人間は単なる物、単なる機械になってしまう。人間は環境をつくるからして、そこに人間の人間たるゆえんがある、自由がある。すなわち主体性、創造性がある。だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境をつくる。人間ができないと環境に支配される。
安岡正篤の名言|環境につくられる人ではなく、環境をつくれる人になれ
乱世になればなるほど我々は余裕というものを持たなければならない。余裕があって初めて本当にものを考えることもできる、本当に行動を起こすこともできるわけです。ことに善人は神経が細いから、なおさら本当の意味の余裕が必要であります。
安岡正篤の名言|余裕を持つことの大切さ
現代人の一般的欠陥は、あまりに雑書を読み、雑学になって、愛読書、座右の書、私淑(ししゅく)する人などを持たない。一様に雑駁(ざっぱく)・横着になっている。自由だ、民主だということを誤解して、己をもって足れりとして、人に心から学ぼうとしない。これは大成するのに、最も禁物であります。
安岡正篤の名言|現代人の一般的欠陥
どんな忙人にでも、寸陰というものはある。ちょっとした時間というものは必ずある。そのちょっとした時間をつかむのです。これに熟練をすれば、案外時間というものはあるものです。寸陰を惜しんでやっていると、その寸陰が、長い時間と同じ、あるいはそれ以上の値打ちを生じてくる。
安岡正篤の名言|ちょっとした時間を有効に使うことの重要性
本当に我々の存在というものは、究明すればするほど種々のお陰によってある。天地のお陰、国家や社会のお陰、親や師友のお陰。この計り知ることのできないお陰をしみじみと感じとり認識する、これがいわゆる恩を知るということであります。そこではじめて理性や感情を持った人間になるのであります。
安岡正篤の名言|「お陰」を意識して生きることの大切さ
理想主義は、よほど本人がしっかりしないと空想になる。どちらかといえば現実主義の方が間違いが少ない。その代わり、これが間違うと固陋(ころう:頑固)になり、進歩がなくなる。少々進歩がなくても確かなほうが安全だ。だから人間は自然には、だいたい現実主義者である。そういう意味から、少し危なっかしくても理想主義者のいる方が刺激的で進歩があるともいえる。なかなか人間は難しい。
安岡正篤の名言|理想主義と現実主義の長所と短所
史記に「利は智をして昏(くら)からしむ」と書いている。人間は利益ばかり追求していると、頭が悪くなるというのである。ものごとの理(ことわり)がわからなくなって、思いがけない恨みを招いたりする。論語に「利をもって行えば怨(うら)み多し」と出ているが、経済というものは本来、矛盾衝突を内包するから、利害による恨みが出やすい。
安岡正篤の名言|利益ばかりを考えることのデメリット
人間の本当の正しさは、ちょっとした日常の挨拶や振る舞いに表れ、何でもない行動に、案外人間内容やその背景を知ることができるものです。これに反して、大層偉そうな大げさなことを言う者は当てになりません。こんな人ほど、家の中や友達との付き合いになると、とんでもない愚劣なことを平気でやるものであります。ついうっかり言った言葉、ちょっとやった行為がその人の人間を決定します。
安岡正篤の名言|日常のちょっとした振る舞いに人間性が表れる
偉くなることは、必ずしも富士山のように仰がれるようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なのは大地である。この大地は万山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せてあえていとわない。常に平々坦々としておる。この大地こそ本当の徳である。我々もこの大地のような徳を持たなければならぬ、大地のような人間にならなければならぬ。
安岡正篤の名言|富士山よりも大地になれ
物知りというものはもちろん結構、場合によっては面白い、ある種の値打もある。けれども、人間の本質的価値に何ものを加えるものでもない。いわんや物知りを自慢にするなどというのは、これくらい他愛のないことはない。
安岡正篤の名言|物知りはすごいことではない
真の教養とは、人類の有する偉大な著作に親しむことによって得るものです。そこで昔から優れた定評のある良い書物を少しずつ読むことであります。人間としての教養の書、人としての哲学の書、修養の書というものを、注意して毎日たとえ3枚でも5枚でも、そういう書物を必ず読むようにする。いわゆる座右の書を持つということであります。
安岡正篤の名言|真の教養を得るには
一人物の死後に残り、思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない。こんな人間だった。こういう嬉しいところのあった人だというその人自身、言い換えればその人の心・精神・言動である。このことが、人間とは何かという問いの真実の答えになる。
安岡正篤の名言|人間とは何かという問いの答え
本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。したがって、それを怠れば自ら面相・言語も卑しくなってくる。それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味もまた、そういうところにあるわけであります。
安岡正篤の名言|本当の学問は人体・人格をつくる
ずるいことをやったり、人を押しのけたりして、地位や財産をつくるのも人間の能力、知能のひとつであります。それを使っていろいろのことができる。できるけれども、そんなことができても、これは人間としては少しも偉いことではない。社会的には偉いかも知れぬが、人間としてはむしろ恥ずべきことであります。何を為すか、何をしたかということと、彼はどういう人間か、いかにあるか、ということとは別である。
安岡正篤の名言|何をしたかということと、どういう人間かということは別
本当の学問や修養というものはこれは禅でも儒でも同様で、人間と人間、精神と精神、人格と人格が火花を散らすようにやる。これを参学道、参ずるという。わかったのか、わからぬのか、ノートをとって、またそれを受け売りするなどというような学問や学校勉強は、これは雑学・俗学というもので、いわゆる学問・求道の中には入らない。
安岡正篤の名言|本当の学問とは
幼児はハシカよりもっと恐れや怒り、憎しみや冷淡に感染しやすい。自分が好かれているか、嫌われているかということに、子供は食物と同様に反応する。一家の感情の中で自分の締めている立場をよく覚(さと)る。親の精神状態は直に子供に反応する。とくに親の怒りは子供に大きな衝撃を与えます。
安岡正篤の名言|親の怒りは子供に大きな衝撃を与える
いままでの自己を一度否定することは、これは非常に難しい。だが過去の非を知り、自分が自分に結論を下すことは、新たにやり直すことであって、50になってやり直し、60になればなったでまた変化する。いくつになってはつらつと維新してゆくことだ。
安岡正篤の名言|自分のやってきたことを否定することの大切さ
大抵の人は、お辞儀というのは「相手に敬意を表する」ことと思っているが、それは第二義である。第一義は相手を敬するということではなくて、「自らを敬す」ということである。お辞儀をするということは「自分が相手に敬意を表すと同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する」ことである。
安岡正篤の名言|お辞儀は自らを敬する行為
枝葉末節のものほど、非常に移り変わりが激しいから影響力が大きく見えるが、それはまことに陰であり響であって空しいものだ。すぐに消えてしまう。本質的なるものの影響は影響ではなくって、それはもう骨髄に入る。ものになる。身になる。身につく。これは影響ではなくって感化という。
安岡正篤の名言|枝葉末節ではなく、本質的なものを求めることの大切さ
若いあいだに、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物を持たない、理想像を持たない、私淑(ししゅく:模範として学ぶ)する人物を持たないのと持つのとでは大きな違いです。なるべく若い時期にこの理想精神の洗礼を受け、心の情熱を燃やしたことは、たとえ途中いかなる悲運に際会しても、いかなる困難に出会っても、必ず偉大な救いの力となる。
安岡正篤の名言|理想とする師を持つことの大切さ
活きた時間というのは朝だけだ。言い換えれば本当の朝を持たなければ一日ダメだ。昔から優れた人で早起きできない人はいない。ただ、人々が寝静まって周囲が静かになった夜でなければ仕事ができないという人は別だが、常態では朝が一番大事だ。これを外したら一日ダラダラと無意味に終わってしまう。
安岡正篤の名言|朝の時間を大切に
人間が成長するということは、児童・少年のころに与えられているところの自然的素質・能力をいかに深くするかということだ。それが教育の使命である。幼少時代によく教育すると、17、8歳で立派に人として大成する。幕末、明治の人物は皆、20歳前後で堂々たるものです。
安岡正篤の名言|自然的素質・能力を磨くことの大切さ
これから先ああしてこうしてといろいろな考えを持つ。これを「理想」という。その理想が、その人間に照らしてあまりに現実性がないという場合に、これは「空想」ということになる。その人間に実力があれば空想にあらずして、理想になる。
安岡正篤の名言|理想と空想の違い
人間は、まず自分を責むべきであって、世の中や時代を責むべきではない。世の中が悪い、時代が悪いというのならば、そういう時世に対して、いったい自分はどれだけ役に立つのか、それをどう解釈し、それに対してどういう信念・情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい。
安岡正篤の名言|世の中や時代を責めるより先に、自分を責める
小才が利くと、それでいい気になって、大才にならぬ。結局は、策士・策に倒るということになってしまう。むしろどちらかというと愚、少々頭も悪く、小才も利かぬような人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い。あいつは少し馬鹿だといわれる人間が、賢いなどといわれる人間の企て及ばぬ人物になる。
安岡正篤の名言|大人物になるのはどちらかというと愚鈍な人
最高の教育を受けた人間も、その後の自己陶冶(とうや)を欠いては、立派な人間にはなり得ない。ごく劣悪な教育も、自己陶冶によっては、なお改善され得るものである。いかにも人間は陶冶次第です。「陶」とは焼き物をつくる、「冶」とは冶金の冶で、金属を精錬することであります。土を練り、焼いて、陶器をつくる。鉄を鍛えて鉄器をつくるようなもので、人間もやはり、焼きを入れ、鍛えるということをやらなければ、ものになりません。いくつになってもそうであります。
安岡正篤の名言|自分を鍛え続けることの大切さ
第一流の人物はどこか普通の人の型にはまらぬものがなければならぬ。凡人の測り知れない多面的な変化に富んでいなければならぬ。天に通ずる至誠、世を覆う気概とともに宇宙そのもののような寂寞(せきばく:ものさみしいさま)をその胸懐に秘めていてほしい。
安岡正篤の名言|普通の人の型にはまらぬものの大切さ
人間の進歩というものは、偉大なる発明発見でも悟りでも、すべてインスピレーションとか感動から始まる。ただし感動するためには、我々の心の中に感受性がなければならない。感受性というものは、自分が充実しなければ出てこない。放心したり、自分が自分を忘れていたら、これはあるわけがない。
安岡正篤の名言|進歩はインスピレーションと感動から
この世の中は複雑なる矛盾から成り立っているということができます。我々があまり矛盾に対する包容力がないというと、すっかり感傷的になってしまって、無限の創造であるところの宇宙に生活ができない。大いに創造的生活を求めんとすれば、矛盾に感ぜられることを包含して、これをおもむろに燮理(しょうり:やわらげおさめる)して行かなければならぬ。
安岡正篤の名言|創造的になるには
人間には頭と胸と腹というものがある。よく昔の人は「あれは腹ができておる」と言った。ところが若い人はよく「胸が熱くなる」とか「胸が痛くなる」と言う。ところが現代に近づくほどあまり腹とか胸とか言わなくなって、頭、あたまと言うようになった。これは時代の変遷をよく表している。頭(知)と、胸・腹(情、情意)のどちらが人間にとって本質的であるか、どちらが根幹でどちらが枝葉であるかといえば、これは言うまでもなく情意である、頭ではない。
安岡正篤の名言|頭ではなく胸と腹を鍛えることが大切
人間が人間たる意義を求めるならば、まず敬するという心を持つことである。人間が現実にとどまらないで、限りなく高いもの、尊いもの、偉大なるものを求めてゆく、そこに生ずるのが敬という心である。この敬の心が発達してくると、必ず相対的に自分の低い現実を顧みてそれを恥ずる心が起こる。人間が進歩向上する一番大切なことは敬する心を発達させることであり、それによってはじめて恥を知ることができる。
安岡正篤の名言|進歩向上するのに一番大切なこと
不健康、早く老いることの原因は、肉体より精神にあります。精神に感激性のなくなることにあります。ものに感じなくなる、身辺の雑事、日常の俗務意外に感じなくなる、向上の大事に感激性を持たなくなる。これが一番いけません。無心無欲はそういう感激の生活から来るもので、低俗な雑駁(ざっぱく)から解脱することに他なりません。
安岡正篤の名言|不健康、早く老いる原因
「さいわい」にも幸と福と二字ある。学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたに過ぎない幸いを幸という。たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなく上手い巡り合わせにぶつかったとかいう、これは幸。そうではなくて原因を自己の中に有する、すなわち、自分の苦心、自分の努力によって勝ち得たる幸いを「福」という。福の示偏は神さまのことだ。旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。農家でいうならば俵を積み上げるという文字。神の前に蓄積されたるものが「福」である
安岡正篤の名言|「幸」と「福」の違い
修養の仕方によっては、人間はいかなる能力があるかわからぬほど貴い。研究すればするほど、人間の美質は発見せられ能力が発揮されるのである。学校の成績は平均点が30点でも40点でも、それで己は駄目だと考えてはいけない。大いに有為有能の人材となる大理想を持ち大努力をせねばならぬ。
安岡正篤の名言|大きな理想を持ち、努力することの大切さ
太陽の光に浴さなければ、物が育たないのと同じことで、人間の理想精神というものは心の太陽なのだ。理想に向かって情熱を湧かすということは、日に向かう、太陽を仰ぐということだ。これがないと人間のあらゆる徳が発達せず、したがって才知芸能も発達しない。
安岡正篤の名言|理想の大切さ
学問というものは現実から遊離したものは駄目であって、どうしても自分の身につけて、足が地を離れぬように、その学問、その思想をもって自分の性格をつくり、これを自分の環境に及ぼしてゆくという実践性がなければ活学ではない。
安岡正篤の名言|実践性がなければ活学ではない
新という字を知らぬ者はいない。しかし新という字の真の意味を理解する人は意外に少ない。元来この字は「辛」と「木」と「斤」との組み合わせである。辛は努力を意味し、斤は木を斬る「まさかり」「大斧」であり、これで木を斬ること、それから「斤斤」といえば明らかに見分ける、また慈しむの意がある。すなわちよく木を愛し育て、それを努力して加工し、新――あらたなものにして活用するということを表すものである。本当に新しくするのには大した用意と努力を要するわけで、新人などざらにあるものではない。
安岡正篤の名言|「新」の真の意味
人間は何事によらず新鮮でなければならない。ところがいかにすれば新鮮であり得るかといえば、やはり真理を学んで、真理に従って生活しなければいけない。もっと突っ込んで言えば、人間としての深い道を学ぶ。正しい歴史伝統にしたがった深い哲理、真理を学び、それに根ざさなければ、葉や花と同じことで、四季に従って常に魅力のある、生命のみずみずしさを維持してゆくことはできるものではない。
安岡正篤の名言|みずみずしく生きるには
人間は自得から出発しなければならない。人間はいろんなものを失うが、何が一番失いやすいかといいますと、自己である。人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の基本問題である。
安岡正篤の名言・格言|人間は自分を最も失いやすい
現実から、一歩も逃げ出さず、がっちり受け止めて勉強してください。
安岡正篤の名言|現実から、一歩も逃げ出さず、がっちり受け止めて勉強してください
安岡正篤の経歴・略歴
安岡正篤、やすおか・まさひろ。日本の思想家。陽明学者。大阪出身。東京帝国大学法学部政治学科卒。卒業時に出版した『王陽明研究』が反響を呼ぶ。大学卒業後、文部省に入省するも半年で退官し東洋思想研究所を設立。大正デモクラシー期に伝統的日本主義を説いた。その後、日本の多くの指導者に影響を与えた人物
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