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親鸞(Shinran) English

百科事典
親鸞

承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
1173年5月14日 - 1263年1月9日
1173年5月21日 - 1263年1月16日

上段・旧暦 中段・ユリウス暦 下段・グレゴリオ暦換算[注釈 1]
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幼名 松若磨・松若丸・十八公麿
俗名(配流時) - 藤井善信(よしざね)
法名 〔叡山修行時〕範宴
〔吉水入門後〕綽空⇒善信(ぜんしん)
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房[注釈 2]
諡号 見真大師(1876年追贈)
尊称 親鸞聖人・宗祖聖人・開山聖人
生地 京都法界寺付近
没地 京都・善法院(押小路南 万里小路東)
宗旨 浄土真宗
法然
弟子 (厳密には、親鸞に師事した人物)
善鸞如信、河和田の唯円
二十四輩性信真仏順信
乗然、信楽、成然、西念、證性、善性、
是真、無為信、善念、信願、定信、
入西(道円)、穴沢の入信、念信、
八田の入信、明法(弁円)、慈善、
唯仏、戸森の唯信、畠谷の唯信、
鳥喰の唯円、他
著作 教行信証』、『三帖和讃』、
大谷本廟(本願寺派)
大谷祖廟(大谷派)
御廟拝堂(高田派)
佛光寺本廟(佛光寺派)

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 3])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の浄土真宗の宗祖とされる[注釈 4]

法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

生涯

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多く、研究中であり諸説ある。また本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。それらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

時代背景

永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる(「末法」の到来を参照)

保元元年(1156年)7月9日保元の乱起こる。

平治元年(1159年)12月9日平治の乱起こる。

貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。

誕生

法界寺

承安3年(1173年4月1日[注釈 5][注釈 6]グレゴリオ暦換算 1173年5月21日[注釈 7])に、現在の法界寺日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進[注釈 8] 日野有範(ありのり)の長男として誕生する[注釈 9]。母は、清和源氏八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ))[2]とされる。幼名は、「松若磨[3]」、「松若丸[4]」、「十八公麿[5]」。

治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。

治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)

戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。

得度

青蓮院(宸殿)
お得度の間

治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。

叡山修学

聖光院跡
比叡山延暦寺 西塔
頂法寺(六角堂)
本堂

出家後は叡山比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。

建久3年(1192年)7月12日源頼朝征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。

六角夢告

建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し[注釈 10]、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 11]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

意訳 - 「修行者が前世の因縁によって[注釈 12]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう[6]。」

という偈句(「女犯偈」)に続けて、

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

の告を得る。

この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵[注釈 13]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[注釈 14]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[7]

入門

法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう)[注釈 15] の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる

御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる[8][9]。詳細は「本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤」を参照。

親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ[10]」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ[11]」と記されている。

恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに[注釈 16]」と記されている。

元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である[12]。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる[13]

元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる[14]

元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している[15]。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない[16]

改名について

「善信」実名説
「綽空」から「善信」(ぜんしん)[注釈 17] への改名説。「親鸞」の名告りはそれ以降とする説。
覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。
「善信」房号説
宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』(教文館、1988年)において主張し、真宗学者の本多弘之[注釈 18]らが支持する説[17]
「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説[18]。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。
「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。
「善信房」の房号は、唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に見て取れる。

妻帯

妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。

  • 法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘である「玉日」と京都で結婚したという説。
「玉日」について、歴史学者の松尾剛次[19]、真宗大谷派の佐々木正[20]、浄土宗西山深草派の吉良潤[21]、哲学者の梅原猛[22]は、『親鸞聖人御因縁』[注釈 19]存覚『親鸞聖人正明伝』[23][注釈 20]・五天良空『親鸞聖人正統伝』[24][注釈 21]の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。
対して、日本史学者の平雅行は、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している[25]
  • 法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」と京都で結婚したという説。
「恵信尼」については、大正10年(1921年)に恵信尼の書状(「恵信尼消息」)が西本願寺の宝物庫から発見され、その内容から実在が証明されている。
  • 京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。
    • 玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。
  • 法然の元で学ぶ間に、善鸞の実母[注釈 22]と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く史料として価値が低いとしている[26]

当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子[27]をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説[注釈 23]、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「善鸞#恵信尼との関係」を参照。)

師弟配流

事件の経緯は承元の法難を参照。

元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。

建永2年[注釈 24](1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ[注釈 25][注釈 26]、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[注釈 27] と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)

承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。

建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて[注釈 28]勅免[注釈 29]宣旨順徳天皇より下る。

同月、法然に入洛の許可が下りる。

親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に[注釈 30]豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。

建暦2年(1212年1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。

赦免後の親鸞の動向については二説ある。

1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。

対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けいて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている [28][29][30][31]

東国布教

善光寺
本堂
小島の草庵跡
史跡
稲田の草庵跡
西念寺本堂

建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。

寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵[注釈 31]」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。

そして笠間郡稲田郷[注釈 32]の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵[注釈 33]」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。

親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。

西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとしている。文永9年(1272年)に、この地で没したとしている。

この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。

帰京

62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。

帰京の理由
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。
  • 天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。
弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。
  • 主著『教行信証』を、「経典」・「論釈」との校合のため。
鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。
  • 東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都[注釈 34]の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。
現代と比較して、機械的伝達手段[注釈 35]が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度[注釈 36]が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。
  • 望郷の念によるもの。
35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。
  • 著作活動に専念するため。
当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
妻・恵信尼の動向
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。
  • 東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝)
  • 京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。
当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。
  • 京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。
また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。
承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる

寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。

宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。

建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。

建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。

建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[注釈 37]を撰述する。

建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。

同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。

『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。

康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。

正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。

南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する[注釈 38]

この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。

入滅

弘長2年(1262年[注釈 39]11月28日グレゴリオ暦換算 1263年1月16日[注釈 7])、押小路南 万里小路東[注釈 40]にある実弟の尋有が院主である「善法院[注釈 41] 」にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺[注釈 42]に葬したてまつる」と記されている。

頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。

入滅後

報恩講

親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。

浄土真宗各派本山の成立

大師号追贈

明治9年(1876年)11月28日、明治天皇より「見真大師[注釈 43]」の諡号を追贈される。西本願寺東本願寺専修寺の御影堂の宗祖親鸞の木像の前にある額の「見真」はこの諡号に基づく。

浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制[1]」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除する[32]。同年4月15日には、「浄土真宗の教章[33]」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章[2]」が制定される。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。

親鸞非実在論

村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」[34]において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱する。続いて東京帝国大学教授の田中義成國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表する[35]

しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される[36]。その内容と親鸞の動向が合致したため、実在したことが証明されている。

系図

略系図出典

  • 洞院公定撰『尊卑分脈』
  • 佐々木月樵 編『親鸞伝叢書』「本願寺系図」
  • 『真宗の教えと宗門の歩み』真宗大谷派宗務所出版部、第4版
  • 今井雅晴『如信上人』 真宗大谷派東京教務所、改訂版
  • 平雅行『歴史のなかに見る親鸞』
  • 同朋大学仏教文化研究所 編『誰も書かなかった親鸞-伝絵の真実』

依拠聖典

『佛説無量寿経』『佛説阿弥陀経』『佛説阿弥陀経』『十住毘婆沙論』「易行品」「十二礼」『無量寿経優婆提舎願生偈』『無量寿経優婆提舎願生偈註』『讃阿弥陀佛偈』

根本経典

根本経典
親鸞は、「浄土三部経」と総称される『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典とする。
特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。

七高僧論釈章疏

親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書など。

龍樹 - インドインドの仏教
十住毘婆沙論』「易行品」
「十二礼」
天親 - インド
無量寿経優婆提舎願生偈』(『無量寿経優婆提舎』、『浄土論』、『往生論』)
曇鸞 - 中国中国の仏教
無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』、『往生論註』)
『讃阿弥陀佛偈』
道綽 - 中国
安楽集
善導 - 中国
観無量寿経疏』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』)[注釈 44]
『往生礼讃偈』(『往生礼讃』)
『法事讃』[注釈 45]
『般舟讃』[注釈 46]
『観念法門』[注釈 47]
源信 - 日本日本の仏教
往生要集
源空法然) - 日本
選択本願念佛集』(『選択集』)

その他

聖徳太子
「和国の教主[注釈 48]」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した。
十七条憲法

教え

親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐のである『大無量寿経[注釈 49]が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した[46]

親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。

如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する[46][47]。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない[48]

教義に関しては、各派により解釈などが異なるため下記のリンク先を参照の事。

真宗各派における教義に関して
教義・教学の項目について

著書

親鸞筆「三帖和讃」(専修寺蔵)[49]

「正信念仏偈」
 親鸞
漢文
  • 正信念仏偈」は、『教行信証』の「行巻」の末尾にある、七言百二十句からなる偈文。
和文
  • 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。国宝[50]
関連書籍

子孫

  • 善鸞 - 毫摂寺第二代/證誠寺第二世。親鸞の帰洛後の東国では門徒の法義理解の混乱や対立が発生する。それを正すため善鸞とその実子如信を派遣するも収束できなかった。善鸞は異義異端事件を起し義絶される。続柄については諸説あり、親鸞の長男もしくは二男。
  • 覚信尼 - 親鸞の墓所である「大谷廟堂」を建立し、初代留守職となる[51][52]。親鸞の娘。
  • 覚如 - 本願寺第三代。本願寺の実質的な開祖[注釈 50]。親鸞の曽孫
  • 存覚 - 錦織寺四代。佛光寺七代/興正寺七世の了源の師[53][54][55]。親鸞の曽孫
  • 蓮如 - 本願寺第八代。本願寺中興の祖[51][52]。親鸞からみて直系9親等(「雲孫の子」)にあたる。
  • 顕如 - 本願寺第十一代。戦国時代に顕如を法主とする本願寺は織田信長と敵対する。(石山合戦信長包囲網[51][52]。親鸞からみて直系13親等にあたる。
  • 教如 - 東本願寺第十二代。顕如の長男。顕如の示寂にともない本願寺を継承し本願寺第十二代となるも、豊臣秀吉により退隠を命ぜられる。秀吉の歿後、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より京都七条烏丸に寺領が寄進され、本願寺(東本願寺)を分立する[52]。親鸞からみて直系14親等にあたる。
  • 准如 - 西本願寺第十二代。顕如の三男。顕如の示寂後に秀吉の命により本願寺第十二代となる[51][注釈 51]
  • 大谷家 - 明治時代に名字必称となると浄土真宗本願寺派真宗大谷派の法主(門主・門首)、およびその一族がを「大谷」とした。浄土真宗本願寺派第二十五代門主の大谷光勝は親鸞からみて直系25親等にあたる。真宗大谷派第二十五代門首の大谷暢顯は親鸞からみて直系25親等にあたり、2014年4月に門首後継者に選定された大谷暢裕も親鸞からみて直系25親等にあたる。

脚注 注釈

  1. グレゴリオ暦換算…本願寺派や高田派では、西暦の生没年をグレゴリオ暦に換算し、承安3年4月1日(1173年5月21日) - 弘長2年11月28日(1263年1月16日)とする。
  2. 〔房号〕 善信房…「善信」は、房号とする説がある。その説では、「善信房綽空」より「善信房親鸞」と吉水在所時に法名を改めたとしている。詳細については「#「善信」房号説」を参照。
  3. 生没年月日の西暦表記については注意を要するため、生年月日については「誕生」の節を、没年月日については「入滅」の節を参照のこと。
  4. 浄土真宗の宗祖(開山とも)と定めたのは、本願寺三世覚如である。
  5. 旧暦(宣明暦)。
  6. 親鸞は、自伝的な記述をした著書がほとんど無い(もしくは、現存しない)ため、「出生日」、「幼名」、「婚姻の時期」、「歿地」など不明確(研究中)な事柄が多く、様々な説がある事に留意されたい。
  7. 本願寺派高田派では、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、入滅日を1月16日に改めた。大谷派佛光寺派興正派などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。
  8. ^ 御伝鈔』・『親鸞聖人正明傳』。『尊卑分脈』『本願寺系圖』では「皇太后宮権大進」とする。
  9. 最近の研究では、出自を日野氏とする事に疑問とする意見もある。
  10. 9歳から29歳までの20年間比叡山で修行した。ちなみに道元はわずか二年、日蓮も十年前後である。
  11. 他説に、比叡山無動寺谷大乗院より毎夜下り、百夜に渡り六角堂に通った説もある。無動寺谷大乗院には、毎夜居なくなる範宴(親鸞)を回りの僧侶達が不審に思い師匠に告げ口をした。その師匠は、夜中に蕎麦を振る舞い、範宴の所在を確かめようとした。その時、範宴自作の木像が蕎麦を食べて、回りの不審を払拭したという伝説が残されている。その時の木像が、今も無動寺谷大乗院に「蕎麦喰ひ木像」とよばれ、本尊・阿弥陀如来と共に祀られている。
  12. 「宿報」の意訳について…一般的に「宿報」とは、「宿世(すくせ)の果報。前世でなした善悪業(ぜんあくごう)のむくい。」(『広辞苑』第五版)の意である。しかし、過去世としての「前世」に否定的な見解の場合は、「前世」ではなく「過去の行い」と解釈している。(本多弘之 監修『知識ゼロからの親鸞』幻冬舎、2009年。P.29「六角堂夢告の内容」 を参照。)
  13. 現在の安養寺付近。
  14. 現在の真宗大谷派岡崎別院付近。
  15. 綽空…「綽」は、中国の道綽禅師より、「空」は源空〈法然〉上人よりつけられたものと推察される。(石田瑞麿『教行信証入門』P.18)
  16. 原文 - やまをいてゝ 六かくたうに百日こもらせ給て ごせをいのらせ給けるに(中略)又六かくたうに百日こもらせ給て候けるやうに 又百か日 ふるにもてるにも いかなるたい事にも まいりてありしに(『浄土真宗聖典』〈原典版〉P.888。)
  17. 善信…「善」は、中国の善導大師より、「信」は源信和尚より。
  18. 当初、本多は夢告に依って「善信」に改名した後に、越後流罪赦免後に「愚禿釋親鸞」(「善信房親鸞」)に改名したと講じている(『新講教行信証:総序の巻』「第一講」〈1999年7月18日〉P.18・P.23)。しかし、真木由美子『親鸞とパウロ』における論証を受け、「善信」は房号であり、吉水在所時代に実名を「綽空」から「親鸞」に改名したとする説に改めている(『新講教行信証:総序の巻』「第二講」〈1999年9月17日〉P.33-37、付「出会いと名のり-「親鸞」の名によせて」P.319-331)。
  19. 『親鸞聖人御因縁』 - 鎌倉時代後期頃に成立したと考えられる荒木門徒系の伝承。荒木門徒は武蔵国荒木(埼玉県行田市)に在した門徒集団で、親鸞の孫弟子である源海を祖とする。真宗佛光寺派や真宗興正派が荒木門徒の系譜に属する。(興正寺史話
  20. 存覚述『親鸞聖人正明伝』- 五天良空(寛文9年〈1669年〉 - 享保18年〈1733年〉)による著作とみられる。五天良空は、専修寺系の寺院「常超院」(三重県四日市市)の住持享保18年(1733年)開板真宗高田派本山 専修寺「高田本山 専修寺の歩み」
  21. 五天良空『親鸞聖人正統伝』 - 五天良空による著作。正徳5年(1715年)1月18日完成。享保2年(1717年)7月開板真宗高田派本山 専修寺「高田本山 専修寺の歩み」
  22. 善鸞の実母…平雅行は、善鸞の実母は「善鸞義絶状」に記述されている「ミフノ女房」と推定し、善鸞の実母が死没していた場合は「ミフノ女房」は実母の姉妹か善鸞の同母妹と推定している。(平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』「第四章 越後での生活」P.109-114「善鸞の母」。)
  23. 7子すべてが恵信尼の子ではないとする説…印信の母については、『尊卑分脈』では「月輪関白女」、『本願寺系圖』(大阪本願寺本)では「後法性寺摂政太国兼実女」と記されている。いずれも「九条兼実の娘」の意である。小黒女房の母については、『本願寺系圖』(大阪本願寺本)は「兵部大輔三善為教女」と記され、三善為教の娘である。
  24. 建永2年…建永2年10月25日に、「承元」と改元する。
  25. 土佐国番田…「番田」は、「幡多」・「幡田」とも。『歎異抄』の写本により異なる。
  26. 法然は土佐国番田へ…法然は、円証(九条兼実)の庇護により、土佐国から讃岐国に配流地が変更になる。
  27. 親鸞…「親」は、インドの天親菩薩より、「鸞」は曇鸞大師より。
  28. 岡崎中納言範光を通じて…勅使は、岡崎中納言範光卿(藤原範光)と伝えられているが、当時すでに入道していて、範光の命を受けた者が勅使として越後に向ったと考えられる。(#参考文献|参考文献 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 P.120より
  29. 勅免…勅命(天皇の命令)による赦免
  30. 建暦元年(1211年)11月…新暦で換算すると12月~1月。
  31. 大山の草庵…別説には、稲田の草庵から大山の草庵に移住したとする説もある。
  32. 笠間郡稲田郷…現在の茨城県笠間市
  33. 「稲田の草庵」を由緒とする寺院はいくつかあり、西念寺の他に、浄興寺(現在は、新潟県上越市に移転)などがある。
  34. 当時の政治の中心地は鎌倉であるが、経済・文化の中心地は京都である。(京都#鎌倉幕府の設置を参照。)
  35. 機械的伝達手段…テレビ・ラジオなど通信装置など
  36. 経済・文化などの伝播の速度…言語の伝播(柳田國男提唱の「蝸牛考」を参照。)と同様に、経済・文化なども中心地を同心円として広がる傾向がある。
  37. 『正像末和讃』(「皇太子聖徳奉讃〈十一首〉」)に収録されている物とは、別の和讃集。
  38. 南北朝時代には〜総称する…伊藤博之 校注『歎異抄 三帖和讃』P.51より
  39. 弘長2年11月28日は、西暦(ユリウス暦・グレゴリオ暦換算ともに)では「1263年」になるが、弘長2年はまだ年を越していないので「1262年」と考える。よって、文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて「1262年」と表記する場合と、新暦に基づいて「1263年」と表記する場合があるので注意が必要である。
  40. 押小路南 万里小路東 - おしこうじみなみ までのこうじひがし
  41. 入滅の地である、押小路南 万里小路東の「善法院」(「善法坊」)には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、京都市立京都御池中学校〈虎石町〉)付近として、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。その他にも、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。
  42. 本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟〈西大谷〉の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとする。大谷派は、延仁寺(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。(現在の延仁寺は、東本願寺第二十一世嚴如が再興したもの。)
  43. 見真大師 - けんしんだいし
  44. 『観無量寿経疏』の各巻題は、『観経玄義分 巻第一』・『観経序分義 巻第二』『観経正宗分定善義 巻第三』・『観経正宗分散善義 巻第四』である。
  45. 『法事讃』…上巻の首題は、『転経行道願往生浄土法事讃』、尾題は『西方浄土法事讃』で、下巻は首題・尾題ともに『安楽行道転経願生浄土法事讃』である。
  46. 『般舟讃』…首題は『依観経等明般舟三昧行道往生讃』、尾題は『般舟三昧行道往生讃』である。
  47. 『観念法門』…首題は『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』、尾題は『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』である。
  48. 和国の教主…「和国」とは日本のこと、「教主」とは釈尊のこと。
  49. 『大無量寿経』など浄土経典は、親鸞在世当時では釈尊自説と考えられていた。現代では浄土経典は、小乗仏教確立後に出現したものと考えられている。(『浄土三部経』(下)、「文献」・「解説」を参照。)
  50. 本願寺の開祖は親鸞とされるが、覚如が本願寺を成立させた後に親鸞を開山と定めた。
  51. 浄土真宗本願寺派では、教如は歴代に入れず、准如を第十二代とする。

参照

  • ^ 『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。
  • ^ 参考文献…真宗聖典編纂委員会 編『真宗聖典』真宗大谷派宗務所出版部、1978年、ISBN 4-8341-0070-7
  • ^ 参考文献…高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行、ISBN 978-4-8341-0164-5
  • ^ 参考文献…瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版、ISBN 4-8318-7067-6
  • ^ 参考文献…佐々木月樵編『親鸞伝叢書』P.19『親鸞聖人正明傳』巻一上・『高田開山親鸞聖人正統傳』巻之一P126より。
  • ^ 意訳…瓜生津隆真・細川行信 編『真宗小事典』法藏館、2000年、新装版。P.189「六角夢告」より引用。
  • ^ 出典…「恵信尼消息」。
  • ^ 高松信英、野田晋 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』補注、P107「七、吉水入室の年次」・P108「九、建仁元年」。
  • 平松令三 『親鸞』P.45-97。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 妻木直良編 『真宗全書』第34巻、蔵経書院、1914年、P.299「親鸞聖人正明傳巻一下」。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 妻木直良編 『真宗全書』第34巻、蔵経書院、1914年、P.301「親鸞聖人正明傳巻二上」。
  • 大橋俊雄 校注 『法然 一遍』 岩波書店〈日本思想体系 10〉、P.284。
  • 石田瑞麿『教行信証入門』P.17
  • 石田瑞麿『教行信証入門』P.17
  • 『顯淨土眞實教行證文類』SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)を参照。
  • ^ 石田瑞麿『教行信証入門』P.17。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。
  • ^ 「善信」房号説を支持する学者は、本多弘之の他に寺川俊昭(「親鸞の名をめぐって」『真宗』2010年11月号、真宗大谷派出版部)・豅(ながたに)弘信(「「善信」実名説を問う(上)」、『親鸞教學』第95号、大谷大学真宗学会、2010年、40-54頁。・「「善信」実名説を問う(下)」、『親鸞教學』第96号、大谷大学真宗学会、2011年、50-68頁。)など。
  • 知識ゼロからの親鸞入門』41頁より。
  • 松尾剛次『親鸞再考』
  • 佐々木正『親鸞再考』
  • 西山深草(吉良潤)『親鸞は源頼朝の甥』
  • 中外日報(2014年4月9日)
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 佐々木月樵編 『親鸞伝叢書』解題、P.2-3。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 佐々木月樵編 『親鸞伝叢書』解題、P.6-8。
  • 平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』「第二章 延暦寺からの出奔」P.47、「第四章 越後での生活」P.97
  • 平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』「第四章 越後での生活」P.114-119「恵信尼について」
  • 参考文献…『本願寺系圖』(大阪本願寺本)
  • 興正寺史話【十五】「興正寺の伝承 その一」
  • 興正寺史話【十六】「興正寺の伝承 そのニ」
  • 興正寺史話【十七】「興正寺の伝承 その三」
  • 興正寺史話【十八】「興正寺の伝承 その四」
  • 『中外日報』2008年1月17日付を参照。
  • 浄土真宗の教章 - 浄土真宗本願寺派における規範のひとつで、親鸞聖人の流れをくむものとして心に銘ずべき内容を定めたもの。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 村田勤 『親鸞真伝 : 史的批評』第十二章 系圖上の大疑問、P.116-121。
  • 千葉乗隆『浄土真宗』ナツメ社、P.216「親鸞の存在についての論争」。
  • 鷲尾教導『恵信尼文書の研究』P.3
  • 日野家嫡流…日野有国日野家7代当主 - 藤原資業日8代 - 藤原実綱日9代 - 藤原有信日10代 - 日野実光日11代 - 日野資長日12代 - 日野兼光日13代 - 日野資実日14代 - 日野家光日15代 - 日野資宣日16代 - 日野俊光日17代 - 日野資名日18代・・・
  • 経尹、範綱、有範について、『尊卑分脈』と『本願寺系図』とでは関係が異なる。本図は『本願寺系図』に依拠する。
  • 藤原範綱(日野範綱)…親鸞が得度(入室?)する時の養父。
  • (九条兼実の娘?) - 『日野一流系図』に、宴意(改印信)の母について「後法性寺摂政兼実公女」(九条兼実の娘)と記されている。兼実の日記『玉葉』に、兼実に2人の娘が記され、1人は後鳥羽天皇中宮宜秋門院任子で、もう1人は4歳で亡くなっている(本願寺史料研究所報 第26号、平松令三「西本願寺蔵 古本本願寺系図について」P.8、参照。)。
  • 恵信尼…三善為教の子。諸説あり。
  • 印信 - 『日野一流系図』に、親鸞の長男は宴意(改印信)と記されている。
  • 善鸞の母については異説があり、恵信尼は継母で、実母は「善鸞義絶状」に記されている「みぶの女房」とする説がある。詳細は「恵信尼#恵信尼との関係」参照。
  • 小野宮禅念 - 覺信尼の後夫。
  • 藤原広綱 - 覺信尼の前夫。死別。
  • 『岩波仏教辞典』(第二版)P.541「浄土真宗」
  • 『真宗小事典』P92「浄土真宗」
  • 『浄土真宗聖典』オンライン検索にて検索
  • 「文明本」などでは、「像末五濁ノ世トナリテ 釋迦ノ遺敎カクレシム 彌陀ノ悲願ヒロマリテ 念佛往生サカリナリ」。
  • 三帖和讃 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  • 本願寺(西本願寺)>本願寺について>本願寺の歴史
  • 東本願寺>東本願寺について>真宗大谷派(東本願寺)沿革
  • 真宗佛光寺派 本山佛光寺>佛光寺のご紹介「中興了源(りょうげん)上人」
  • 興正寺史話【六】「興正寺建立以前」
  • 興正寺史話【七】「了源上人と存覚上人」~了源上人はいつ京都に来たのか~

  • 参考文献

    • 浄土真宗教学伝道研究センター 編 『浄土真宗聖典』(原典版)、本願寺出版社、1985年
    • 浄土真宗教学伝道研究センター 編 『浄土真宗聖典』(註釈版)、本願寺出版社、2004年、第2版。
    • 真宗聖典編纂委員会 編 『真宗聖典』 真宗大谷派宗務所出版部、1978年
    • 中村 元、他 『岩波仏教辞典』 岩波書店、2002年、第二版。
    • 河野法雲、雲山龍珠 監修 『真宗辞典』 法藏館、1994年、新装版。
    • 瓜生津隆真、細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年、新装版。
    • 浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 『浄土三部経』現代語版、本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、1996年
    • 浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 『顕浄土真実教行証文類』現代語版、本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、2000年
    • 浄土真宗教学編集所 聖典編纂監修委員会 編纂 『浄土文類聚鈔 入出二門偈頌』現代語版、本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、2009年ISBN 978-4-89416-277-8
    • 親鸞 著、金子大栄 校訂 『教行信証』 岩波書店岩波文庫 青318-1〉、1957年ISBN 4-00-333181-8
    • 名畑應順 校注 『親鸞和讃集』 岩波書店〈岩波文庫 青318-3〉、1976年ISBN 4-00-333183-4
    • 高松信英、野田晋 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行。
    • 今井雅晴 『茨城と親鸞』 茨城新聞社2008年
    • 今井雅晴 『如信上人』 真宗大谷派東京教務所、1995年初版、1998年改訂。ISBN ---。
    • 千葉乗隆 『浄土真宗』 ナツメ社図解雑学〉、2005年
    • 寺史編纂員 『本願寺系圖(大阪本願寺本)』。
    • 本多弘之 監修 『知識ゼロからの親鸞入門』 幻冬舎、2009年
    • 古田和弘 『正信偈の教え』上、真宗大谷派宗務所出版部、2008年
    • 一楽 真 『親鸞聖人に学ぶ‐真宗入門』 真宗大谷派宗務所出版部、2007年ISBN 978-4-8341-0373-1
    • 伊藤博之 校注 『歎異抄 三帖和讃』 新潮社新潮日本古典集成 46〉、1981年
    • 佐々木月樵 編 『親鸞伝叢書』 無我山房、1910年
    • 本多弘之 『新講 教行信証』総序の巻、草光舎、2003年
    • 豅弘信「「善信」実名説を問う(上)」、『親鸞敎學』第95号、文栄堂書店、2010年3月、 40-54頁、
    • 大谷大学真宗総合研究所 『親鸞像の再構築』親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集 下巻、筑摩書房、2011年10月。
    • 石田瑞麿 『教行信証入門』 講談社〈講談社学術文庫 902〉、1989年11月,
    • 平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』 法藏館、2011年4月。
    • 鷲尾教導 『恵信尼文書の研究』 中外出版、1923年
    • 平松令三 『親鸞』 古川弘文館〈歴史文化ライブラリー37〉、1998年4月。
    • 大橋俊雄 校注 『法然 一遍』 岩波書店〈日本思想体系 10〉、1971年1月。

    関連項目

    • 親鸞賞 (親鸞を記念した文学賞)

    外部リンク


    先代:
    浄土宗・開祖、 浄土真宗・元祖、 (法然
    浄土真宗  宗祖


    次代:
    本願寺、  浄土真宗本願寺派真宗大谷派 浄土真宗東本願寺派、 (錦織寺)、 真宗木辺派如信

    専修寺  真宗高田派佛光寺  真宗佛光寺派  真宗興正派  真仏 

    毫摂寺  真宗出雲路派  證誠寺  真宗山元派  善鸞 

    誠照寺(真照寺)  真宗誠照寺派  道性(益方入道) 

    専照寺   真宗三門徒派 如導

    浄興寺  真宗浄興寺派 善性

    Shinran

    From Wikipedia, the free encyclopedia
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    Shinran (親鸞)
    ShinranShonin.png
    Shinran's "Portrait of Anjo" at Honganji in Kyoto, Japan.
    School Jōdo Shinshū Buddhism
    Personal
    Born (1173-05-21)May 21, 1173
    Heian-kyō, Yamashiro Province (now Kyoto, Japan)
    Died January 16, 1263(1263-01-16) (aged 89)
    Heian-kyō, Yamashiro Province
    Spouse Eshinni
    Children Kakushinnhi, Zenran, others
    Senior posting
    Title Founder of Jōdo Shinshū Buddhism
    Religious career
    Teacher Hōnen

    Shinran (親鸞?, May 21, 1173 – January 16, 1263)[1][2] was a Japanese Buddhist monk, who was born in Hino (now a part of Fushimi, Kyoto) at the turbulent close of the Heian Period and lived during the Kamakura Period. Shinran was a pupil of Hōnen and the founder of what ultimately became the Jōdo Shinshū sect in Japan.

    Biography[edit]

    Shinran was born on May 21, 1173, to Lord and Lady Arinori, a branch of the Fujiwara clan, and was given the name Matsuwakamaro. Early in Shinran's life his parents both died. In 1181 and desperate to know what happens after dying, he entered the Shoren-in temple near present-day Maruyama Park in Kyoto at age 9. He wrote this poem on entering: "Like the cherry blossom, the heart planning on tomorrow is ephemeral indeed --what sudden storm may not arise in the middle of the night". Actually aware of his own impermanence, he was desperate to find a solution. He then practiced at Mt. Hiei for the next 20 years of his life. Letters between his wife and daughter indicate that he was a Tendai dōsō (堂僧?, "hall monk").[3] Because of his devotion to the practices of the Lotus Sutra on Mt. Hiei, he became known as "the prodigy of Mt. Hiei".[citation needed]

    According to his own account to his wife Eshinni (whose letters are preserved at the Hongan-ji), in frustration at his own failures as a monk and at obtaining enlightenment, he took a retreat at the temple of Rokkaku-dō. There, while engaged in intense practice, he experienced a vision in which Avalokitesvara appeared to him as Prince Shōtoku, directing Shinran to another disillusioned Tendai monk named Hōnen.[4] In 1201, Shinran met Hōnen and became his disciple. During his first year under Honen's guidance, at the age of 29, Shinran attained enlightenment, or salvation through Amida's Vow. Though the two only knew each other for a few years, Hōnen entrusted Shinran with a copy of his secret work, the Senchakushū. However his precise status amongst Honen's followers is unclear as in the Seven Article Pledge, signed by Honen's followers in 1204, Shinran's signature appears near the middle among less-intimate disciples.[5] During his time as a disciple of Honen's Shinran caused a great stir among society by publicly getting married and eating meat. Both practices were strictly forbidden for monks, but Shinran took these drastic steps to show that Amida's salvation is for all people and not just for monks and priests.

    In 1207, The Buddhist establishment in Kyoto persuaded the military to impose a nembutsu ban, after an incident where two of Hōnen's most prominent followers were accused of using nembutsu practice as a coverup for sexual liaisons.[6] These two monks were subsequently executed. Hōnen and Shinran were exiled, with Shinran being defrocked and sent to Echigo Province (contemporary Niigata Prefecture).[7] They never met each other again. Hōnen would die later in Kyoto in 1212.[1]

    Although Shinran was critical of the motivations that ultimately led to the exile, and the disruption of Hōnen's practice community, the exile itself proved to be a critical turning point in Shinran's religious life. Having been stripped of his monastic name, he renamed himself Gutoku (愚禿?, "Foolish, bald-headed one"), coming to understand himself as neither monk nor layman. While in exile, Shinran sought to continue the work of Hōnen and spread the doctrine of salvation through Amida Buddha's compassion, as expressed through the nembutsu practice, however in time his teachings diverged from Hōnen enough that later followers would use the term Jōdo Shinshū or "True [Essence of the] Pure Land Sect", as opposed to Jōdo-shū or "Pure Land Sect".

    Shinran married his wife, Eshinni, and had six children with her.

    Five years after being exiled in Echigo, in 1211, the nembutsu ban was lifted and Shinran was pardoned though he chose not to return to Kyoto at that time. Instead, Shinran left for an area known as Inada, a small area in Kantō just north of Tokyo. In 1224 Shinran authored his most significant text, Kyogyoshinsho, which is a series of selections and commentaries on Buddhist sutras supporting the new Pure Land Buddhist movement, and establishing a doctrinal lineage with Buddhists thinkers in India and China. In 1234 Shinran left the Kantō area and returned to Kyoto, with his daughter Kakushinni. On returning to Kyoto, Shinran discovered that his eldest son, Zenran (善鸞 1217 ? - 1286 ?), who remained in Hitachi and Shimotsuke provinces was telling people he received special teachings from Shinran and was otherwise leading people astray.[4] Shinran wrote stern letters to Zenran (frequently addressed by his Buddhist name Jishin-bō (慈信房?)) instructing him to cease his activities, but when Zenran refused, Shinran disowned him:[8]

    Hence, from now on there shall no longer exist parental relations with you; I cease to consider you my son. I declare this resolutely to the three treasures and the gods. It is a sorrowful thing. It rends my heart to hear that you have devoted yourself to misleading all the people of the nembutsu in Hitachi, saying that [what they have been taught] is not my true teaching. Rumors have reached as far as Kamakura that I have instructed you to denounce the people in Hitachi who say the nembutsu. It is deeply deplorable.

    Shinran died in Kyoto the year 1263 at the age of 90.[1] Kakushinni was instrumental in maintaining the mausoleum, and passing on his teachings, with her descendants ultimately becoming the Monshu, or head of the Honganji Temples built around the Mausoleum.

    Timeline[edit]

    1173 - Shinran is born
    1175 - Hōnen founds the Jōdo-shū sect
    1181 - Shinran becomes a monk
    1201 - Shinran becomes a disciple of Hōnen and leaves Mt. Hie
    1207 - The nembutsu ban and Shinran's exile
    1211 - Shinran is pardoned
    1212 - Hōnen passes away in Kyoto & Shinran goes to Kantō
    1224(?) - Shinran authors Kyogyoshinsho
    1234(?) - Shinran goes back to Kyoto
    1256 - Shinran disowns his son Zenran
    1263 - Shinran dies in Kyoto

    Doctrine[edit]

    Shinran considered himself a lifelong disciple of Honen, in spite of their separation. According to a letter composed by his wife, Eshinni:[9]

    People would say all types of things about where the master [Hōnen] might go. They would even say that he was headed for an evil rebirth (akudō). Whenever people spoke such things, [Shinran] would reply, "I am one who believes that I would even go [with him], since from realm to realm and from rebirth to rebirth I am lost already.

    Honen's disciples were said to have been largely divided by questions arising from the need for a single invocation (nenbutsu) of Amitabha's name versus many-callings, and thereby emphasis on faith versus practice. Shinran, like Honen's disciple Kōsai, leaned more toward faith over practice, however he did not advocate the single-recitation teaching.[10]

    While Shinran's teachings and beliefs were generally consistent with the Pure Land Buddhist movement at the time, he also had idiosyncrasies as well:

    Primacy of faith[edit]

    In any case Shinran, like others in Honen's community, felt that in the age of Dharma Decline, it was no longer possible to achieve enlightenment through traditional monastic practices, and thus one could only rely on the vows of Amitabha Buddha, particular the 18th or "Primal Vow" and seek rebirth in the Pure Land. In a passage from his magnum opus, the Kyōgyōshinshō, he writes of himself:[9]

    Therefore, reverencing the expositions of the treatise masters and relying on the exhortations of the religious teachers, I, the Bald-Headed Fool Shinran, abandoned forever the provisional path of manifold practices and good work, and separated myself once and for all from birth in the forest of the twin śāla trees. I turned to the true path, the basis of virtue and good, and gave rise to the aspiration for birth [in the Pure Land] that is difficult to comprehend. But now I have utterly abandoned the expediency of the true path, and have converted to the ocean-like vow singled out [by Amitabha Buddha]. I have separated myself straightaway from the aspiration for birth that is difficult to comprehend, and I long to attain birth that is difficult to fathom....

    In this passage, Shinran explains that he not only gave up traditional monastic practices to focus on rebirth in the Pure Land, but that in time he eventually gave up on practices related to rebirth in the Pure Land, instead relying solely on faith in the vow of Amitabha Buddha.

    In the Kyōgyōshinshō, third fascicle, Shinran explores the nature of shinjitsu no shinjin (真実の信心 "true faith"?), by describing it as something bestowed by Amitabha Buddha, not arising from the believer.[9] Through this endowment, faith is awakened in a person, and the recitation of the Buddha's name or nembutsu because an expression of praise or gratitude. However, this cannot occur until the believer fully entrusts themselves to Amitabha Buddha, even for a moment. Once this state of faith is bestowed, one is assured of rebirth in the Pure Land, and ultimately enlightenment. Shinran cautions though:[9]

    True faith necessarily entails Amida's name, but Amida's name does not necessarily entail faith, [which is derived] from the power of [Amida's] vow.

    Further, once a follower has awakened to this deep faith, one should live life as an expression of gratitude, follow basic moral conduct and to fulfill one's social obligations.[10]

    Amitabha Buddha and the Pure Land[edit]

    The last three fascicles of the Kyōgyōshinshō delve into the nature of Amitabha Buddha and the Pure Land. The Pure Land is treated as a temporary refuge whereby one can attain enlightenment, and then return to this world to lead and teach others as a bodhisattva. Elsewhere, Shinran is quoted in the Tannishō (歎異抄?, "Lamentation of Divergences") as saying:[11][12]

    浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。

    Jōdo no jihi to iu no wa, nenbutsu shite, isogi hotoke ni narite, daiji-daihi-shin wo mote, omou ga gotoku shujō wo rieki suru wo iu beki nari.

    The compassion in the Path of Pure Land is to quickly attain Buddhahood, saying the nembutsu, and with the true heart of compassion and love save all beings completely as we desire.

    On the nature of Amitabha Buddha, Shinran stated that in their true form, both the Buddha and the Pure Land are beyond comprehension, but due to people's ignorance and attachments they can only perceive Amitabha in terms of his physical form described in the sutras, as well as the layout of the Pure Land.[9] If one attains true faith, then upon rebirth in the Pure Land, one can perceive their true form. However, if one's faith is incomplete, or they continue to rely on their own efforts, then they will be reborn in the outer regions of the Pure Land, and will still perceive Amitabha Buddha through physical forms until eventually attaining true faith and proceeding further.

    Shinran's definition of Amitabha Buddha as the absolute, equating the Pure Land with Nirvana itself, therefore differed somewhat from traditional interpretations of the Pure Land in Buddhist scripture.[9]

    Age of Dharma decline[edit]

    Shinran's interpretation of the final age of the Dharma, was consistent with other Buddhist thinkers of the time. In particular, he drew inspiration from a Chinese Buddhist master named Tao-cho who centuries earlier taught that in the latter age of the Dharma the Pure Land teachings were the most suitable for the capacities of the people of the time.[9]

    Shinran felt this decline was inevitable that Japan was already 600 years into age of Dharma Decline, and that people were no longer capable of maintaining Buddhist practice, let alone enlightenment. Thus, the only the vow of Amitabha Buddha to save all beings could be relied upon.

    Other religious practices[edit]

    Shinran acknowledged the religious practices of Japan outside the Buddhist tradition, including Shinto kami, spirits, divination, astrology, etc., he believed that they were irrelevant in comparison to the power of Amitabha Buddha.[9] To this day, omamori, ofuda and other charms are not found in Jodo Shinshu temples.

    Statue[edit]

    Statue of Shinran Shonin on Riverside Drive, New York. A survivor of the bombing at Hiroshima, the statue was brought to New York in 1955

    A statue of Shinran Shonin stands in Upper West Side Manhattan, in New York City. Located on Riverside Drive between 105th and 106th Streets, in front of the New York Buddhist Church, the statue depicts Shinran in a peasant hat and sandals, holding a wooden staff, as he peers down on the sidewalk.

    Although this kind of statue is often found at Jōdo Shinshū temples, the statue is notable because it survived the atomic bombing of Hiroshima, standing a little more than a mile from ground zero. It was brought to New York in 1955. The plaque calls the statue “a testimonial to the atomic bomb devastation and a symbol of lasting hope for world peace.”

    Ashes[edit]

    On March 14, 2008, what are assumed to be some of the ash remains of Shinran were found in a small wooden statue at the Jōrakuji temple in Shimogyō-ku, Kyōto. The temple was created by Zonkaku (1290–1373), the son of Kakunyo (1270–1351), one of Shinran's great grandchildren. Records indicate that Zonkaku inherited the remains of Shinran from Kakunyo. The 24.2 cm wooden statue is identified as being from the middle of the Edo period. The remains were wrapped in paper.[13]

    See also[edit]

    Notes[edit]

    1. ^ Jump up to: a b c Popular Buddhism In Japan: Shin Buddhist Religion & Culture by Esben Andreasen, pp. 13,14,15,17 University of Hawaii Press 1998, ISBN 0-8248-2028-2
    2. Jump up ^ The Life and Works of Shinran Shonin
    3. Jump up ^ Bloom, Alfred (1968). "The Life of Shinran Shonin: The Journey to Self-Acceptance". Numen 15 (1): 6. doi:10.1163/156852768x00011. 
    4. ^ Jump up to: a b Shinran's Biography Nishi Honganji Homepage
    5. Jump up ^ Dobbins, James C. (1989). Jōdo Shinshū: Shin Buddhism in Medieval Japan. Indiana University Press. ISBN 0-253-33186-2. 
    6. Jump up ^ Bowring, Richard. Religious Traditions of Japan: 500-1600. Cambridge: Cambridge University Press, 2005. 247.
    7. Jump up ^ Buswell, Robert Jr; Lopez, Donald S. Jr., eds. (2013). Princeton Dictionary of Buddhism(Shinran ). Princeton, NJ: Princeton University Press. p. 807. ISBN 9780691157863. 
    8. Jump up ^ "Uncollected Letters, Collected Works of Shinran". Retrieved 2016-01-12. 
    9. ^ Jump up to: a b c d e f g h Dobbins, James C. (1989). "Chapter 2: Shinran and His Teachings". Jodo Shinshu: Shin Buddhism in Medieval Japan. Indiana University Press. ISBN 0253331862. 
    10. ^ Jump up to: a b Watts, Jonathan; Tomatsu, Yoshiharu (2005). Traversing the Pure Land Path: A Lifetime of Encounters with Honen Shonin. Jodo Shu Press. pp. 136–137. ISBN 488363342X. 
    11. Jump up ^ "The TANNISHO: Chapters I to X". Retrieved 2015-06-30. 
    12. Jump up ^ "歎異抄の世界" (in Japanese). Retrieved 2015-06-30. 
    13. Jump up ^ "親鸞の遺骨?が木像胎内から 京都・常楽寺". Asahi Shimbun. 14 March 2008. Archived from the original on 2008-03-16. Retrieved 2008-03-15. 

    Literature[edit]

    External links[edit]

    Part of a series on
    Buddhism in Japan
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