・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
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菜根譚(さいこんたん) 後集 001~030 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
後集1項 まだとらわれている
譚山林之楽者、未必真得山林之趣。
厭名利之談者、未必尽忘名利之情。
山林(さんりん)の楽(たの)しみを譚(かた)る者(もの)は、未(いま)だ必(かなら)ずしも真(まこと)には山林(さんりん)の趣(おもむき)を得(え)ず。
名利(めいり)の譚(たん)を厭(いと)う者(もの)は、未(いま)だ必(かなら)ずしも尽(ことごと)く名利(めいり)の情(じょう)を忘(わす)れず。
世俗を離れた別荘暮らしや田舎暮らしを殊更に語る者は、まだまだ本当の風流な閑居暮らしの趣を知らない。
名誉や金儲けの話しを聞くことを、殊更に嫌う者は、まだまだ現役の時の欲望を忘れられない。
つまり、閑居や隠居は呼んで字の如く、煩わしい人間関係から自分を取り戻すために人知れず花鳥風月、雪月花を楽しみ、大自然に住すことを重視して穏やかな日々を送っているので、それを口外するようなことはしないが、訪問を促すような生活描写や自慢話をしているようでは、現役時代に燃えつくしたとは言えないだろう。それが証拠に本音の中にある名誉欲や金銭欲を連想するような話しを聞くと今一度というようなイライラが湧き上がるので、故意にその話しから逃げる。
言い換えれば、前出のような人は、素直になって現役復帰に挑戦した方が、気持ちよく生きられますよということ。
翻っていえば、達人よ、人間には皆、異なる旬があるから、誰が何と言おうと、年齢相応なんて生き方は忘れなさいということだろう。
後集2項 有能より無能がまさる
釣水逸事也、尚持生殺之柄。
奕棋清戯也、且動戦争之心。
可見、喜事不如省事之為適、多能不若無能之全真。
水(みず)に釣(つ)るは逸事(いつじ)なるも、尚(な)お生殺(せいさつ)の柄(へい)を持(じ)す。
奕棋(えきき)は清戯(せいぎ)なるも、且(か)つ戦争(せんそう)の心(こころ)を動(うご)かす。
見(み)るべし、事(こと)を喜(よろこ)ぶは事(こと)を省(はぶ)くに適(てき)為(た)るに如(し)かず、多能(たのう)は無能(むのう)の真(しん)を全(まっと)うするに若(し)かざることを。
魚釣りは、浮世離れの趣があるというが、それでも未だ殺生に関わる俗世間の力関係を残している。
囲碁は上品なゲームだが、それでも勝負の結果に心が動く。
このようなことから考えると、何事かを楽しむ事は、何もしない事には及ばないし、有能で多才であることは、何の能力もなく人間本来の生き方を全うする方が良い。
つまり、釣りだ囲碁だと一見すると隠居三昧の生活を楽しんでいるようだが、内心は現役時代の勝ち負けの心が動き続けているのは、多才が故に忙しく心を磨り減らして働き続けていたようなもので、無芸大食を満喫している方が人間本来の生き方なのではないだろうか。
言い換えれば、隠居生活には十分な時間や経済的余裕があれば良いのではなく、何も出来ないことに価値が出てくるのではないだろうか。
翻って言えば、達人は、現役時代に悟りの境地に達していないと退職しても生臭さが消えないのかもしれない。
後集3項 仮の姿、真の姿
鴬花茂而山濃谷艶、総是乾坤之幻境。
水木落而石痩崕枯、纔見天地之真吾。
鴬花(おうか)茂(しげ)くして山(やま)濃(こま)やかに谷(たに)艶(えん)なるは、総(すべ)て是(こ)れ乾坤(けんこん)の幻境(げんきょう)なり。
水木(すいぼく)落(お)ちて石(いし)痩(や)せ崕(がけ)枯(か)れ、纔(わず)かに天地(てんち)の真吾(しんご)を見(み)る。
鶯が鳴き、花が咲き乱れ、山も谷も活き活きとするが、これは大自然の仮の姿である。
谷の水は枯れ、木々は葉を落とし、石の苔は消え、川岸の木々も枯れ果てた状態に大自然の真の姿が見える。
つまり、人間も現役で活き活きと働いているのは仮の姿で、老後こそ人間の本島の姿ではないのかもしれない。
言い換えれば、人生は老後のためにあると言えるのが達人なのではないだろうか。
後集4項 広いものを狭くしている
歳月本長。
而忙者自促。
天地本寛、而鄙者自隘。
風花雪月本閒、而労攘者自冗。
歳月(さいげつ)は、本(もと)より長(なが)し。
而(しか)して忙(いそが)しき者(もの)自(みずか)ら促(せま)れりとす。
天地(てんち)は、本(もと)より寛(ひろ)し。
而(しか)して鄙(いや)しき者(もの)自(みずか)ら隘(せま)しとす。
風花雪月(ふうかせつげつ)は本(もと)より閒(かん)なり、而(しか)して労攘(ろうじょう)の者(もの)自(みずか)ら冗(じょう)なりとす。
歳月は元来、悠久なのだが、せっかちな者は自分勝手に焦りまくる。
大自然は元来、広大なものだが、世間知らずな者は自分勝手に狭くしてしまう。
夏の風、春の花、冬の雪、秋の月は元来、心のゆとりなのだが、ワークホリックを病んだ人間は、自分勝手に煩わしくしている。
つまり、人間は大自然の時間に比べて、自分勝手な時間をつくり、勝手に性急な生き方をしている。退役後は大自然と時間の本来を知って、スローライフを楽しむべきだろう。
言い換えれば、現役時代は幻想で、退役してからが本当に人間らしい生活が送れるだろうということを知っているのが達人かもしれない。
後集5項 風流は身近にある
得趣不在多。
盆池拳石間、煙霞具足。
会景不在遠。
蓬窓竹屋下、風月自?。
趣(おもむき)を得(え)るは多(おお)きに在(あら)ず。
盆池拳石(ぼんちけいせき)の間(あいだ)にも、煙霞(えんか)具足(ぐそく)す。
景(けい)を会(かい)するは遠(とお)きに在(あら)ず。
蓬窓竹屋(ほうそうちきおく)の下(もと)にも、風月(ふうげつ)は自(おの)ずから?(はるか)なり。
風情を知る心となるには、多くの事を見聞き経験する必要はない。
例えば、お盆のような池、拳大の石にも風情がある。
つまり、心に適う景色に出会うには遠くに行く必要はない。
蓬(よもぎ)の葉が茂った窓辺や竹で編んだ屋根の下のも、風情のある風や月は自然にやってくる。
つまり、退役したら、あれこれを見聞きし、あくせくと動き回りより、ドッシリと構えて生活していれば、趣のある風情は、自然とやって来るものです。
言い換えれば、達人は、退役後においても泰然自若、悠々と暮らしてさえいれば、望むものは向こうからやってきますということだろう。
後集6項 夢のなかのまた夢
聴静夜之鐘声、喚醒夢中之夢、観澄潭之月影、窺見身外之身。
静夜(せいや)の鐘声(しょうせい)を聴(き)いては、夢中(むちゅう)の夢(ゆめ)を喚(よ)び醒(さ)まし、澄潭(ちょうたん)の月影(つきかげ)を観(み)ては、身外(しんがい)の身(み)を窺(うかが)い見(み)る。
静かな夜に鐘の音を聴くと、夢(幻)のなかで夢(本質)を見ているような、迷いの気分から脱出した気分が到来して真実に出会うことができ、水面に写る月影(虚像、仮想)のように、この身も実は仮想現実で、本来の身体は別世界にあることを連想できる。
つまり、静寂の中での梵鐘の刺激は脳波を禅僧の三昧の瞬間と同じアルファー波状態にして、幻影に惑わされている凡夫でも、この世に在る全ては実態ではなく現象に過ぎないという本質が観得て来るということ。
言い換えると、現代科学が究明、証明した現象が中国明代、13世紀以前に理解されていたにも関わらず、現代でも非科学的な発想を脱することが出来ない多くの日本人には理解できない「本質」が、身近な出来事で感じられますということ。
翻って言えば、拝金主義にトコトン毒され現役二元論者には、退役しても安心の世界は訪れないだろうということだろうことを達人は心得ておくことだ。。
後集7項 すべての対象から
鳥語虫声、総是伝心之訣。
花英草色、無非見道之文。
学者、要天機清徹、胸次玲瓏、触物皆有会心処。
鳥語虫声(ちょうごちゅうせい)も、総(すべ)て是(こ)れ伝心(でんしん)の訣(けつ)なり。
花英草色(かえいそうしょく)も、見道(けんどう)の文(ぶん)に非(あら)ざるは無(な)し。
学ぶ者は、天機清徹(てんきせいてつ)、胸次玲瓏(きょうじれいろう)にして、物(もの)に触(ふ)れ、皆(みな)、会心(かいしん)の処(ところ)有(あ)らんことを要す。
鳥のさえずりや虫の音は、教外別伝・不立文字・直指人心して見性成仏する真理そのものである。
花びら草葉の色は、真理を伝える文字無き表現以外の何ものでもない。
だから学問を志す者は、生れながらにして備わっている純粋無垢な本心を、水晶のように透き通った心中にあることを気付き、現世で見聞きする全ては真理そのものであるということを心得ておかなければならない。
つまり、退役後こそ物事の本質、原理原則を探究しようとする者は、大自然の原理原則は目に見える現実の背後に現象しているし、心の中の邪心の背後に現象していることを、心に留め、宇宙の本質は「無」であることを知りなさいということ。
言い換えれば、達人は、退役後の時間を人間完成に当てる期間と認識しておくのが良い。
後集8項 形にとらわれては
人解読有字書、不解読無字書。
知弾有絃琴、不知弾無絃琴。
以迹用、不以神用、何以得琴書之趣。
人(ひと)は有字(うじ)の書(しょ)を読(よ)み解(かい)するも、無字(むじ)の書(しょ)を読(よ)むを解(かい)せず。
有絃(ゆうげん)の琴(きん)を弾(だん)ずるを知(し)りて、無絃(むげん)の琴(きん)を弾(だん)ずるを知(し)らず。
迹(あと)を以(もつ)て用(もち)い、神(かみ)を以(もつ)て用(もち)いずば、何(なに)を以(もつ)てか琴書(きんしょ)の趣(おもむき)を得(え)ん。
俗人は、文字で書かれた書物を読んで理解するが、文字の無い書物を読んでも理解は出来ない。
また、弦の張られた琴を弾くことは出来ても、弦の無い琴を弾くことは出来ない。
俗人は、具体的な文字や弦というものは信じるが、心という抽象的なものを信じられないなら、どうして琴や書の本当の価値が理解できるだろうか。
つまり、音楽や文章の行間に埋め込まれた、音に出来ない音や文字に出来ない文字を理解して初めて達人、賢人と呼ばれるのだろう。
言い換えれば、現役を越えて、聞こえない音を聴き、見えない文字を読めるように時間を有効に使い、日日精進することが達人の嗜みだということだろう。
後集9項 琴と書物さえあれば
心無物欲、即是秋空霽海。
坐有琴書、便成石室丹丘。
心(こころ)に物欲(ぶつよく)無くば、即(すなわ)ち是(こ)れ秋空霽海(しゅうくうせいかい)なり。
坐(ざ)に琴書(きんしょ)有(あ)らば、便(すなわ)ち石室丹丘(せきしつたんきゅう)を成(な)す。
人間、物欲が無ければ、秋晴れの空や雨上がりの海ようであり、身近に琴や書物があれば、そこがそのまま仙人の書斎と同じだ。
つまり、退役者は「物」から離れて「事」を楽しめるようになってこそ、達人と言われるだろう。
言い換えれば、達人とは無欲な存在だろう。
後集10項 歓楽極まって
賓朋雲集、劇飲淋漓楽矣。
俄而漏尽燭残、香銷茗冷、不覚反成嘔咽、令人索然無味。
天下事率類此、人奈何不早回頭也。
賓朋雲集(ひんぽううんしゅう)し、劇飲淋漓(げきいんりんり)として楽(たの)しめり。
俄(にわ)かにして漏(ろ)尽(つ)き、燭(しょく)残(のこ)らば、香(こう)銷(き)え、茗(めい)冷(ひ)やかにして、覚(おぼ)えず、反(かえ)って嘔咽(おうえつ)を成(な)し、人(ひと)をして索然(さきぜん)として味(あじ)無(な)からしむ。
天下(てんか)の事(こと)も率(おおむ)ね此(こ)れに類(るい)し、人(ひと)奈何(いかん)とも早(はや)く頭(あたま)を回(めぐ)らさん。
賓客や朋友が沢山集まり、とことん酒を飲みのは楽しいものだが、やがて夜が更け、蝋燭も無くなり、お香も消え、お茶も冷たくなり、思わず咽(むせ)び泣きして、客を味気ない状態にしてがっかりさせる
まあ、世の中のことは、得てして、皆このようなものだから、何故、人々はそれに気付き考え直さないのだろうか。
つまり、退役後も人があつまり、酒を酌み交わせば楽しいものだが、世も暮れ、明かりは消えかけ、お香の香りも消え、お茶は冷え切るころになると、無性に寂しくなるのは、まだまだ現役時代に未練がある証拠だが、その場限りの酒宴の空しさは辛いもので、現役時代にそれに気付いて、馬鹿げた酒宴と縁を切っておけば、こんな空しい思いは今更しないものだ。
言い換えれば、退役してからの宴会は、瞬間的には楽しいが、終われば空しさしか残こらないから、一人静かに暮すことが出来る極め尽くせない趣味を持ち、全てを悟って達人の域に達しなさいと言っているのかも知れない。
後集11項 個別から普遍へ
会得個中趣、五湖之煙月、尽入寸裡。
破得眼前機、千古之英雄、尽帰掌握。
個中(こちゅう)の趣(おもむき)を会(かい)し得(う)れば、五湖(ごこ)の煙月(えんげつ)も、尽(ことごと)く寸裡(すんり)に入(はい)る。
眼前(がんぜん)の機(き)を破(やぶ)り得(う)れば、千古(せんこ)の英雄(えいゆう)も、尽(ことごと)く掌握(しょうあく)に帰(き)す。
会得個中趣、五湖之煙月、尽入寸裡。
破得眼前機、千古之英雄、尽帰掌握。
個中(こちゅう)の趣(おもむき)を会(かい)し得(う)れば、五湖(ごこ)の煙月(えんげつ)も、尽(ことごと)く寸裡(すんり)に入(はい)る。
眼前(がんぜん)の機(き)を破(やぶ)り得(う)れば、千古(せんこ)の英雄(えいゆう)も、尽(ことごと)く掌握(しょうあく)に帰(き)す。
後集12項 ちっぽけな存在
山河大地、已属微塵。
而況塵中之塵。
血肉身?、且帰泡影。
而況影外之影。
非上上智、無了了心。
山河大地(さんがだいち)、已(すで)に微塵(びじん)に属(ぞく)す。
而(しか)るを況(いわん)や塵中(じんちゅう)の塵(じん)をや。
血肉身?(けつにくしんく)、且(か)つ泡影(ほうえい)に帰(き)す。
而(しか)るを況(いわん)や影外(えいがい)の影(えい)をや。
上々(じょうじょう)の智に非(あら)ざれば、了々(りょうりょう)の心(しん)無し。
達人の域に達すれば、山河や大地のような大きい存在でも、すでに細かな類でしかない。ましてや、塵の中の塵である虫などは取るに足りないことである。
また、人間の肉体のように実在するかのように思える存在も、流れに浮かぶ泡や物の影のように、いづれは消え去る。
ましてや、影(肉体)の影のような虚像である名誉や地位の類は、虚しいものであることは言うまでもないが、最上の智慧が無ければ悟った人間にはなれない。
つまり、坐禅によってのみ得られる最高の智慧である摩訶衍の禅定(大乗の智慧)を得て、色則是空・空則是色から「無」の真理を悟ってないようでは退役に値する達人とは言えない。
言い換えれば、達人は原理原則である真理を心得ていて、一を知れば全てを見通す心眼の持ち主ということである。
後集13項 蝸牛角上の争い
石火光中、争長競短。
幾何光陰。
蝸牛角上、較雌論雄。
許大世界。
石火(せっか)の光中(こうちゅう)、長(ちょう)を争(あらそ)い短(たん)を競あ(きそ)う。
幾何(いくばく)の光陰(こういん)ぞ。
蝸牛(かぎゅう)の角上(かくじょう)、雌(し)を較(くら)べ雄(ゆう)を論(ろん)ず。
許大(いきばく)の世界(せかい)ぞ。
人間の一生は、火打石の火花のように一瞬であり、それが多少の長い、短いなどを競い合っているが、それがどの程度の差なのだろう。
この世はカタツムリの角の上のような狭い場所で、勝った、負けた、と騒いでいるが、それがどれ程の世界なのだろう。
つまり、人生は一瞬であり、動ける世界は本当に狭いのに、下らん競走をしているようでは達人とは言いがたい。
言い換えれば、達人とは己以外とは戦わない人間を言うのだろう。
後集14項 過ぎたるは及ばず
寒灯無焔、敝裘無温、総是播弄光景。
身如槁木、心似死灰、不免堕落頑空。
寒灯(かんとう)に焔(ほのお)無(な)く、敝裘(へいきゅう)に温(あたたか)なきは、総(すべ)て是(こ)れ光景(こうえい)を播弄(はろう)す。
身(み)は槁木(こうぼく)の如(ごと)く、心(こころ)は死灰(しはい)に似(に)たるは、頑空(がんくう)に堕落(だらく)するを免(まぬが)れず。
無くなる寸前の蝋燭の炎すら無く、暖かくない皮の服などは、赤貧を弄(もてあそ)んでいるようにしか映らない。
体は枯れ木のようで、心の炎が消えているような状態では、一切皆空、本来無一物の本当の意味を履き違えているので、悟りの対極に行ってしまう。
つまり、達人が目指す「悟り」とは、大安心の境地であり、清貧であっても赤貧ではないのだ。
言い換えれば、空の世界観、「無の心」、即ち、真理を知らずして人生の達人とは言えないのである。
後集15項 思いたったそのときに
人肯当下休、便当下了。
若要尋個歇処、則婚嫁C完、事亦不少。
僧道雖好、心亦不了。
前人云、如今休去便休去、若覓了時無了時。
見之卓矣。
人(ひと)肯(あえ)て当下(とうか)に休(やす)めば、便(すなわ)ち当下(とうか)に了(りょう)ず。
若(も)し、個(こ)の歇(や)む処(ところ)を尋(たず)ねんこと要(ほっす)れば、則(すなわ)ち婚嫁(こんか)は完(まった)しと?(いえど)も、事(こと)も亦(また)少なからず。
僧(そう)道(みち)好(よ)しと?(いえど)も、心(こころ)また了(りょう)せず。
前人(ぜんじん)云(い)う、「如今(もし)、休(きゅう)し去(さ)らば、便(すなわ)ち休(きゅう)し去(さ)り、若(も)し了時(りょうじ)を覓(もと)むれば、了時(りょうじ)無(な)からん」と。
之(これ)を見るに卓(たく)なり。
人間、即断即決して断念できれば、どんな事でも終わるが、些細な事を気にしてタイミングを計ろうとしていれば、次から次に気になる事が湧いてきて、肝心な事は終わらない。
かといって、出家しても、そんな心では現実は何も変わらない。
古の賢人が言うには、「今すぐ止めようと思えば簡単に終わることでも、タイミングなどを気にしていては問題はいつまでも解決しない」とある。
これは正に、的を射ている。
つまり、人間は、自分を信じ切り、即断即決をし、捨て去る事こそが心の生産性向上であることを発見しない限り、問題は死んでも解決しないのである。
言い換えれば、達人とは、本来の自己の出す答えを素直に実行している人なのである。
後集16項 立場を変えてみる
従冷視熱、然後知熱処之奔馳無益。
従冗入閒、然後覚閒中之滋味最長。
冷(れい)より熱(ねつ)を視(み)て、然(しか)る後(のち)に熱処(ねっしょ)の奔馳(ほんち)に益(えき)無(な)きを知る。
冗(じょう)より閒(かん)に入(い)りて、然(しか)る後(のち)に閒中(かんちゅう)の滋味(じみ)、最(もっと)も長(なが)きを覚(おぼ)ゆ。
冷静になってから、熱狂していたことを振り返って考えると、熱に浮かれて奔走していた事が無益であることが解かる。
忙しい状態があったからこそ、悠々とした時が過ごせるような状態になると、それが格別豊かで最高の時であることが解かる。
つまり、達人は、夢中になって何かをした経験があればこそ、それが心にとっては非生産的な状態であることを知っているし、ゆったりした状態の本当の素晴らしさを解かる。
言い換えれば、両極を知った活人のみが、達人としての中庸の素晴らしさを味わえるのだろう。
後集17項 形式にこだわらない
有浮雲富貴之風。而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖。而常自酔酒耽詩。
富貴(ふうき)を浮雲(ふうん)とするに風(かぜ)有り。
而(しか)れども必(かなら)ずしも岩棲穴処(がんせいけっしょ)せず。
泉石(せんせき)に膏肓(こうこう)するの癖(へき)無し。
而(しか)れども常(つね)に自(みず)から酒(さけ)に酔(よ)い詩(うた)に耽(ふけ)る。
財産や地位は浮雲のようなものだ、と知っているにも関わらず、隠遁生活をしようとはしないし、深山幽谷の泉や石の姿に病的と言える位にとり付かれることも無いが、酒を飲み、酔って詩を楽しむ心は持っている。
後集18項 自由自在の境地
競逐聴人、而不謙尽酔。
括淡適己、而不誇独醒。
此釈氏所謂、不為法纏、不為空纏、身心両自在者
競逐(きょうちく)は人(ひと)に聴(まか)せ、而(しか)も尽(ことごと)く酔(よ)うを嫌(きら)わず。
恬淡(てんたんは)己(おのれ)に適(かな)い、而(しか)も独(ひと)り醒(さ)むを誇(ほこ)らず。
此(こ)れ釈氏(しゃくし)の所謂(いわゆる)、法(ほう)に纏(てん)ぜられず、空(くう)に纏(てん)ぜられず、身(み)と心(こころ)の両(ふた)つながら自在(じざい)なる者なり。
競争してまでも名誉や利益を求めることは他人に任せて自分の手を汚すことはないが、拝金主義や拝物主義を全否定するわけではない。
また、淡々と生きることが自分に合っているものの、自分ひとりが冷静でいる事を鼻にかけたりしない。
このような人こそ、仏教が示すところの、全ては実体が無いという考えにも囚われないし、全ては実体だとも考えず、身心一如を知って自由自在に生きている。
つまり、達人が目指す本物の悟りの境地は、極論や内外といった二項対立にあるのではなく、それらを両忘し、あるがままに観て、あるがままに生きることなのだ。
言い換えれば、出家の心境をもって在野でも活躍する中庸を悟った人間こそ、達人と言えるのではないだろうか。
後集19項 気持ちの持ち方
延促由於一念、寛窄係之寸心。
故機閒者、一日遥於千古、意広者、斗室寛若両閒。
延促(えんそく)は一念(いちねん)に由(よ)り、寛窄(かんさく)は之(これ)を寸心(すんしん)に係(か)く。
故(ゆえ)に機(き)の閒(かん)なる者(もの)は、一日(いちにち)も千古(せんこ)より遥(はる)かに、意(い)の広(ひろ)き者(もの)は、斗室(としつ)寛(ひろ)きこと両閒(りょうかん)の若(ごと)し。
年月や時間の長さや短さは、人の価値観に依存して異なり、世間の広さや狭さというものは人の個性に依存する。だから、心がゆったりとした人は一日を千年以上に感じることが出来るし、心が広い人は狭い部屋でも大宇宙のような広がりを感じることが出来る。
つまり、達人たる者は、自己を拡張し、気分に余裕を持ちゆったりとした広い心を獲得できれば、本質に習った悠々とした人生が実現できるということ。
言い換えれば、達人の心とは、広く、深く、厚く、高く、大きいということだ。
後集20項 「無」の境地に遊ぶ
損之又損、栽花種竹、儘交還烏有先生。
忘無可忘、焚香煮茗、総不問白衣童子。
之(これ)を損(そん)して又(また)損(そん)し、花(はな)を栽(う)え竹(たけ)を植(う)えて、儘(ことごとく)烏有(うゆう)先生(せんせい)に交還(こうかん)す。
忘(わす)るべき無(な)きを忘れ、香(こう)を焚(た)き茗(めい)を煮(に)て、総(すべ)て白衣(びゃくい)の童子(どうじ)に問(と)わず。
無意味な思慮分別心(頭の働き)を捨てに捨て、花や竹を植えて「無」を体現する。
さらには、忘れるべきことも無いということも忘れ、香を焚き、茶を淹(い)れて、白衣の使者など全く気にかねない。
つまり、達人は小細工のために必要な小利口な智慧などさっぱりと捨て去り、頭で生きるのではなく、心で生きるという「無」を体現し淡々とあるがままに生きなさいということだろう。
言い換えれば、達人としては、頭の限界を知り、無限な智慧である本来の心で生きることを会得しなさいと諭されているようでもある。
後集21項 足るを知る
都来眼前事、知足者仙境、不知足者凡境。総出世上因、善用者生機、不善用者殺機。
都(すべ)て眼前(がんぜん)に来(き)たる事(じ)は、足(た)るを知(し)る者(もの)には仙境(せんきょう)にして、足(た)るを知(し)らざる者(もの)には凡境(ぼんきょう)なり。
総(すべ)て世上(せじょう)に出(い)ずる因(いん)は、善(よ)く用(もち)うる者(もの)には生機(せいき)にして、善(よ)く用(もち)いざる者(もの)には殺機(さっき)なり。
目の前で起こっている現象は、「足るを知る者」にとっての此世は、理想郷であるが、満足することの無い欲望の大きい人間にとっては、所謂ところの俗世間なのだ。
また、この世に起きることの全ての因縁は、善として用いれば全てを生かす働きをするが、善として使えなければ殺す働きをするものだ。
つまり、無欲に徹して淡々と働き、その結果を無条件に受け入れることがこの世は理想郷であるが、足るを知らずに不満を述べていれば、この世は地獄のようなものだ。
言い換えれば、達人たる者は、目の前にある、為すべき事を成し、結果に対しては、無条件に受け入れられる「足るを知る」人物でなければならない。
後集22項 無欲な暮らし
趨炎附勢之禍、甚惨亦甚速。
棲恬守逸之味、最淡亦最長。
炎(えん)に趨(はしり)り、勢(いきお)いに附(つ)くの禍(わざわ)いは、甚(はなは)だ惨(さん)にして、亦(また)甚(はなは)だ速(すみ)やかなり。
恬(てん)に棲(す)み、逸(いつ)を守(まも)るの味(あじわい)は、最(もっと)も淡(たん)にして、亦(また)最(もっとも)も長(なが)し。
権力者に随い、権勢の大きい者に諂うも者の災難は、極めて悲惨で、極めて急激である。
安らかに暮らし、気楽さ生き続ける趣は、極めて淡白で長続きする。
つまり、達人の暮らしは、権力と無縁であり、悲惨な出来事とも出会わず、淡々としてノンビリとしたものが良い。
言い換えれば、ゆったりと暮す中で、忙しさに感けて、それまで出るに出られなかった人間の本心が表れるのだろう。
後集23項 風月を友として
松澗辺、携杖独行、立処雲生破衲。
竹窓下、枕書高臥、覚時月侵寒氈。
松澗(しょうかん)の辺(ほとり)、杖(つえ)を携(たずさ)えて独(ひと)り行(ゆ)けば、立(た)つ処(ところ)、雲(くも)は破衲(はの)に生(しょう)ず。
竹窓(ちくそう)の下(もと)、書(しょ)を枕(まくら)にして高(たか)く臥(ねむ)れば、覚(めざ)むる時(とき)、月(つき)は寒氈(かんせん)を侵(ひた)す。
松林の間を流れる谷川のほとりを、杖を頼りに一人で散歩をして立ち止まると、ボロ衣に雲が纏(まつ)わる。
竹が覆い茂る窓辺で、本を枕にして安心しきって眠り、ふと目覚めると、破れた茣蓙を名月が照らす。
つまり、達人の暮らしぶりは、質素で極めて穏やかが宜しいということ。
言い換えれば、都会の喧騒を離れ、一人静かに自然を相手に本来の己と同行二人という生き方が達人らしいのかも知れない。
後集24項 病気と死を忘れない
色慾火熾、而一念及病時、便興似寒灰。
名利飴甘、而一想到死地、便味如嚼蝋。
故人常憂死慮病、亦可消幻業而長道心。
色慾(しきよく)は火(ひ)のごとく熾(さか)んなるも、而(しか)も一念(いちねん)病時(びょうじ)に及(およ)べば、便(すなわ)ち興(きょう)は寒灰(かんかい)に似(に)たり。
名利(めいり)は飴(あめ)のごとく甘(あま)けば、而(しか)も一想(いっそう)死地(しち)に到(いた)れば、便(すなわ)ち味(あじわ)いは嚼蝋(しゃくろう)の如(ごと)し。
故(ゆえ)に、人(ひと)、常(つね)に死(し)を憂(うれ)え、病(やまい)を慮(おもんぱか)らば、亦(また)幻業(げんぎょう)を消(け)して、道心(どうしん)を長(ちょう)ずべし。
色情は火のように燃え上がるものだが、病気になった時のことを想起すると、色情は一気に冷めて灰のようになる。
名誉や金銭は飴のように甘いものだが、死んだ時のことを想起すると、物欲は一気に冷めてロウソウを噛むような気分になる。
だから、人間は常に死を思い、病気を気に掛けていれば、幻のような瞬間的な欲望を消せることが出来るので、達人の道を歩みなさいということ。
つまり、達人は一瞬の欲望を完成された心で昇華し淡々と生きましょう、ということ。言い換えれば、誰にでも起こる欲望を管理できないようでは達人とはとても言えませんね、ということだろう。
後集25項 一歩譲る
争先的径路窄、退後一歩自寛平一歩。
濃艶的滋味短、清淡一分自悠長一分。
先(さき)を争(あらそ)うの径路(けいろ)は窄(せま)く、退(しりぞ)きて後(おく)ること一歩(いっぽ)なれば、自(おのず)から一歩(いっぽ)を寛平(かんぺい)にす。
濃艶(のうえん)の滋味(じみ)は短(みじ)かく、清淡(せいたん)なること一分(いちぶん)なれば、自(おのず)から一分(いちぶん)を悠長(ゆうちょう)にす。
先を争って進む道は狭く、ほんの一歩下がって後から行けば、一歩下がった分だけ道は広くなる。
濃厚な味はその場限りの美味しさで、ほんのチョットだけ薄味にすれば、その分だけ旨味が長続きする。
つまり、勝ち負けに拘るような競争とは決別し、他人を見るより、自分の内面を見つめて磨き、人を先に行かせれば、余裕のある歩き方が出来るし、濃厚な味覚に酔いしれる一瞬のために神経を使うより、淡白を良しとすれば長い間楽しめるということ。
言い換えれば、達人の人生は、何事もあっさりとしていれば、楽しみは長続きするということ。翻って言えば、急いで生きた人生を取り戻しましょうということだろう。
後集26項 ふだんの修養
忙処不乱性、須閒処心神養得清。
死時不動心、須生時事物看得破。
忙処(ぼうしょ)に性(しょう)を乱(にだ)さざらんとせば、須(すべか)らく閒処(かんしょ)の心神(しんしん)を養(やしな)い得(え)て清(きよ)かるべし。
死時(じじ)に心(こころ)を動(うご)かさざらんとせば、須(すべか)らく生時(せいじ)に事物(じぶつ)を看(み)得(え)て破(やぶ)るべし。
忙しい時に本性を乱さないようにするには、ゆったりと余裕のある間に心身を鍛えておくことだ。
また、死に際に本性を乱さないためには、常日頃から物事の本質を見極めておく必要がある。
つまり、達人は如何なる時も、“平常心是道”を実践できなければならない。
言い換えれば、“日常是道場”といして日々本質を極められるように坐禅などで心を完成させておくのが達人ということなのだ。
後集27項 人の恩惑
隠逸林中無栄辱、道義路上無炎涼。
隠逸(いんいつの)林中(りんちゅう)に栄辱(えいじょく)無く、道義(どうぎ)の路上(ろじょう)に炎涼(えんりょう)無し。
俗世間を離れた生活は、栄光や屈辱と関係無く、道理や正義に則った生活は、燃えたり冷めたりという感情の起伏と関係ない。
つまり、活人は感情が一喜一憂するようなことから離れ、大安心の心で暮らしなさいと言っているのだろう。
言い換えれば、達人の人生は、淡々と暮らすことが最高の暮らし方ということだろう。
後集28項 心の問題
熱不必除、而除此熱悩、身常在清凉台上。
窮不可遣、而遣此窮愁、心常居安楽窩中。
熱(ねつ)は必(かなら)ずしも除(のぞ)かず、而(しか)も此(こ)の熱悩(ねつのう)を除(のぞ)かば、身(み)は常(つね)に清凉台(せいりょうだい)の上(うえ)に在(あ)らん。
窮(きゅう)は遣(や)るべからず、而(しか)も此(こ)の窮愁(きゅうしゅう)を遣(や)らば、心(こころ)は常(つね)に安楽窩(あんらくか)の中(なか)に居(お)らん。
自然な暑さは無くす必要はなく、暑いと思い悩む心を無くせば、いつでも縁台で涼しさを楽しんでいられる。
現実の貧しさを無くす必要はなく、貧困を思い悩む心を無くせば、いつでも安心感のある家で暮らしていられる。
つまり、達人とは、現実を先ずは、否定的ではなく、肯定的に見られる心を獲得し、次には否定も肯定もしない、“あるがまま”を楽しめる心を獲得している者と言えるだろう。
言い換えれば、全ての事象は達人にとって“あるがまま”であり感情が動く対象では無いのだ。
翻った云えば、達人は悟っているのだ。
後集29項 退くことも考える
進歩処、便思退歩、庶免触藩之渦。
着手時、先図放手、纔脱騎虎之危。
歩(ほ)を進(すす)むる処(ところ)、便(すなわ)ち歩(ほ)を退(しりぞ)くるを思(おも)わば、庶(ほと)んど藩(まがき)に触るるの禍(わざわい)を免(まぬが)れん。
手(て)を着(つ)くる時(とき)、先(まず)は手(て)を放(なは)つことを図(はか)らば、纔(わず)かに虎(とら)に騎(の)るの危(あやう)きを脱(まぬが)れん。
一歩出る時に、一歩引くことを考えておけば、ほとんどの災いから逃れることが出来る。
事を起こそうとする時に、引き際を考えておけば、“虎に乗ったら降りられない”という危険を免れることが出来る。
つまり、達人の心得は、始める前に、終わる姿をデザインしておきなさいということ。
言い換えれば、達人は「有終の美」を考えて行動しないと、虎に乗って途中で降りれば喰われるので、乗る時には死ぬ覚悟で乗れということ。
蛇足だが、著者が台湾の李登輝前総統に、「お前は虎だから、乗るなら覚悟する」と言われ、彼は乗らず、身代りを乗せて来た事を思い出す。(原文は随書36巻)
後集30項 欲望にはきりがない
貪得者、分金恨不得玉、封公怨不受侯、権豪自甘乞丐。
知足者、藜羮旨於膏梁、布袍煖於狐貉、編民不譲王公。
得(う)ることを貪(むさぼ)る者(もの)は、金(きん)を分(わか)たるるも玉(ぎょく)を得(え)ざるを恨(うら)み、公(こう)に封(ふう)ぜらるる侯(こう)を受(う)けざることを怨(うら)み、権豪(けんごう)なるも自(みず)から乞丐(きっかい)に甘(あま)んず。
足(た)ることを知(し)る者(もの)は、藜羮(れいこう)も膏梁(こうりょう)より旨(うま)しとし、布袍(ふほう)も狐貉(こかく)より煖(あたた)かなりとし、編民(へんみん)も王公(おうこうに譲(ゆず)らず。
物欲の強い者は、金を分けても、玉が得られなかったと恨み、貴族(華族)に取り立てられても、領主にしてくれないと恨み、権力者となっても乞食根性が抜けない。
身の程を知った者は、粗末な食事でも美味美食より美味しいと思い、ボロ布の服でも毛皮の服より暖かいと感じ、庶民であっても王侯にも劣らないと感じることが出来る。
つまり、欲が深い者は、どんなに恵まれた状態でも不幸しか感じないし、物欲を超越した者は、どんなに劣悪な状態でも幸せを感じるることが出来る。
言い換えれば、達人とは「足るを知って、幸せを味わっている」者なのだ。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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