・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
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菜根譚(さいこんたん) 前集001~030 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
前集1項 (真理を住居とする)人たるの道を守る
棲守道徳者、寂寞一時。
依阿権勢者、凄凉万古。
達人観物外之物、思身後之身。
寧受一時之寂寞、毋取万古之凄凉。
道徳に棲守(せいしゅ)する者は、寂寞(じゃくばく)たること一時。
権勢に依阿(いあ)する者は、凄凉(せいりょう)たること万古(ばんこ)。
達人は物外の物を観(み)、身後の身を思う。
むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄凉を取ることなかれ。
道徳を守る者は、心寂しい気分となっても、それはその場限りのことで、偉い人にへつらいう者は、永遠に心寂しいものです。
ですから、正しい生き方をしている活人(達人)は、真実を見抜く目で物事を観て、未来の価値を考え、一時の寂しさや悲しさに流されず、一生を深く考えて淡々と生きるべきなのです。
つまり、悔いなく幸せに死にたいなら、日々誠実に生きなさいということ。
言い換えると、活人は真理を知るか、終始一貫した哲学や思想をもたないと、喩え経済的、社会的、身体的に満たされたとしても、生涯に渡り本当の安心感を得て幸せに生き、思い残す事無く幸せに死ぬことは出来ません、ということです。
前集2項 (純朴で、世俗には妥協しない)むしろ遇直であれ
渉世浅、点染亦浅、歴事深、機械亦深。
故君子与其練達、不若朴魯。
与其曲謹、不若疎狂。
世を渉(わたる)ること浅ければ、点染(てんせん)もまた浅く、事を歴(ふ)ること深ければ、機械もまた深し。故に君子はその練達(れんたつ)ならんよりは、朴魯(ぼくろ)なるにしかず。その曲謹(きょっきん)ならんよりは、疎狂(そきょう)なるにしかず。
人生の経験が浅いものは「悪」の染まり方も浅いが、経験豊富になると小細工も上手くなり、悪の染まり方も並大抵ではなくなる。だから、上に立つ者は、世渡り上手になって悪事に手を染める技を身に付けてしまうより、素朴で多少のろまな程度が良いし、現実的な作法技法に忠実であるより、理想や夢を追っている方がよい。
つまり、活人であるためには、頭で考えた小細工やその場限りの考え、小手先で世渡り上手に生きるより、利他を一心に思う心で生きるべきでしょう。
言い換えれば、活人とは、一意専心すれば、誰でも実現できる「心重視」の生き方を終始一貫とする人といえるだろうとおもいます。
前集3項 (心は公明正大に、才能はひけらかさず)才能は秘めておく
君子之心事、天青日白、不可使人不知。
君子之才華、玉韜珠蔵、不可使人易知。
君子の心事は、天青く日白くがごとくすれば、人をして知らざらしむべからず。
君子の才華(さいか)は、玉のごとくを韜(つつみ)、珠(たま)のごとく蔵(かく)さば、人をして知りやすからしむべからず。
上に立つ者の心が、晴天の白日のように公正であれば、人に知られないようにさせることは誰にも出来ない。
だから、上に立つ者は、才能をひけらかして、安易に目立つようなパフォーマンスをしてはならない。
つまり、正に、「秘すれば華、秘さざれば華ならず」なのであり、実るほど頭を垂れる稲穂かな、ということを戒めに生きなさいということです。
言い換えれば、活人を自称する者は、自分の本心(仏心)に恥じない単端として堂々とした生き方をしなさい、ということです。
前集4項 (世俗に近ずいても染まらない)知りながら使わない
勢利紛華、不近者為潔。近之而不染者為尤潔。智械機巧、不知者為高。知之而不用者為尤高。
勢利紛華(せいりふんか)は、近づかざる者を潔(きよ)しとなし、これに近づきて而(しか)も染まざるものを尤(もっと)も潔しとなす。
智械機巧(ちかいきこう)は、知らざるものを高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。
有名で力があり勢いがあって華麗な人間や俗事に近づかない者は清潔ですが、近づいていても染まらない者はもっと清潔で、悪賢く策を弄する事を知らない者は、もっともっと清潔ですが、彼らを知っていてもそれらを利用しない者こそ最高に清潔すなわち高潔なのです。
つまり、人間は他に依存しない事が大事であり、親の七光りを利用したり、縁故を利用するのは下衆のすることです。力のある者を忌み嫌う必要はありませんが、努々、下衆の下心は持たないようにすべきである。
言い換えると、活人たる者は、独立心と自負心を抱き、近道を行く事無く、自力で道を極めなさいということです。
前集5項 (忠言と甘言を聞き分ける)自分を向上させるには
耳中常聞逆耳之言、心中常有払心之事、纔是進徳修行的砥石。
若言言悦耳、事事快心、便把此生埋在鴆毒中矣。
耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払(もと)るの事ありて、はじめて是れ徳に進みて行いを修むるの砥石(といし)なり。
若(も)し言々耳を悦ばし、事々心に快(こころよ)ければ、便(すなわち)この生を把(と)りて鴆毒(ちんどく)の中に埋めん。
通常は聞きづらい言葉を聞いて、心に添わない事があるからこそ、他人の心の痛みが解かり、徳を修めるための基盤となる心ができるもの。もし、どんな言葉も快く楽しい事ばかりなら、自分の人生を毒の中に沈めてしまうのと同じことになります。
つまり、否な話こそじっくり聞き、思い通りに行かない事も耐えて生きれば、それがそのまま道場のような役割を果すことになるでしょう。
言い換えれば、活人の一日は「避けたい事から挑戦しなさい」、「人が嫌がることを率先して引受なさい」と言えるのです。
前集6項 (天地の間には陽気、人の心には喜神)心に喜びを持て
疾風怒雨、禽鳥戚戚。霽日光風、草木欣欣。
可見天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。
疾風怒雨には、禽鳥(きんちょう)も戚々たり。霽日(せいじつ)光風には、草木も欣々(きんきん)たり。
見るべし、天地に一日も和気なかるべからず、人心に一日も喜神なかるべからず。
嵐の日は鳥までも寂しく悲しげで、晴れた穏やかな日は草や木も楽しげです。
自然にはたとえ一日でも穏やかで和らぐ日がなければならないし、人の心もたとえ一日でも天真爛漫に喜ぶ気持ちがなければならないのです。
つまり、日々是好日。日々の天気は気の持ち様で雨でも晴れ晴れ。
言い換えれば、活人は無事是貴人。無心に生きろということです。
前集7項 (淡々として平凡に生きる)平凡のなかに非凡
醲肥辛甘非真味。
真味只是淡。
神奇卓異非至人。
至人只是常。
醲肥辛甘(じょうひひんかん)は真味にあらず。真味は只だこれ淡なり。神奇卓異は至人(しじん)にあらず。至人はただ是れ常なり。
濃い酒や脂のよくのった肉、辛すぎるもの、甘すぎるものは、本物の美味しさではない。本物の味は淡白なものである。同様に、人並みなずれた天才は道を修める人間ではなく、道を修める人間は平凡な人間である。
つまり、無事是貴人ということ。
言い換えれば、活人は無欲に徹した道を淡々と歩みなさいということ。
前集8項 静中の動、動中の静
天地寂然不動、而気機無息少停。日月昼夜奔馳、而貞明万古不易。
故君子、閒時要有喫緊的心思、忙処要有悠閒的趣味。
天地は寂然(せきぜん)として動かずして、而(しか)も気機は息(や)むことなく、停まること少(まれ)なり。
日月(にちげつ)は昼夜に奔馳(ほんち)して、而(しか)も貞明(ていめい)は万古に易(かわ)らず。
故に君子は、閒時(かんじ)に喫緊(きつきん)の心思うるを要し、忙処(ぼうしょ)に悠閒(ゆうかん)の趣味(おもむき)あるを要す。
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天地はひっそりとして動かないように見えるが、働きを止めることはなく、太陽や月の明るさは永遠に変らない。だから人の上に立つ者は、暇な時こそ張詰め、忙しい時こそゆったりとした心構えが必要である。
つまり、小人(しょうにん)は閑居すれば不善を成すが、大人(たいじん)は閑居しても成果を成すということ。
言い換えれば、活人は随所で主なのだ。
前集9項 静思のときを持て
夜深人静、独坐観心、始覚妄窮而真独露。毎於此中、得大機趣。既覚真現而妄難逃、又於此中、得大慚忸。
夜深く人静まるとき、独り坐して心を観(み)れば、始めて妄窮(もうきわ)まりて、真、独(ひとり)り露(あら)わるを覚(さと)る。
毎(つね)にこの中において、大機趣を得(う)。すでに真、現(あら)われて妄(もう)の逃れがたきを覚る。またこの中において、大慚忸(だいぎんじく)を得る。
人の寝静まった夜中に独坐(どくざ)して自分の本心を観じれば、妄念は消えうせ本心が自然と表れてくる経験をする。このように本質と出会うときは一人静かに自分を見つけているときである。また、本心に出会って、さらに妄念を捨てきれないと感じれば、一段と大きい懺悔の心が生じる。
つまり、活人はむやみに物を集め、人と群れることはない。
言い換えれば、活人たる者、「個独」を楽しめということ。
前集10項 得意のときと失意のとき
恩裡由来生害。故快意時、須早回頭。敗後或反成功。故払心処、莫便放手。
恩裡(おんり)に由来して害を生ず。故に快意の時、須(すべか)く早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗れし後、或(ある)いは反して功を成す。故に払心(ふっしん)の処、便(すなわ)ちを放つこと莫(なか)れ。
「恩」という心や「愛」という心から「災い」が生じる。だから楽しい気分の良い時こそ、それまでを反省すべきである。その逆に、失敗したからこそ成功することがあるから、意に添わぬ事でも投げ出してはいけない。
つまり、活人は、好き嫌いは勿論、結果に囚われてプロセスを考えてはいけないということ。
言い換えれば、大志を抱いて、大志に拘らずというのが活人の生き方なのだ。
前集11項 節操を守るためには
藜口筧(草冠に見る)譌腸者、多氷清玉潔。
袞衣玉食者、甘婢膝奴顔。蓋志以澹泊明、而節従肥甘喪也。
藜口けん腸(れいこうけんちょう)は、氷清玉潔(ひょうけいぎょっけつ)多し。袞衣玉食(こんいぎょくしょく)は、婢膝奴顔(ひしつどがん)に甘んず。
蓋(けだ)し、志は澹泊(たんぱく)をもって明らかに、而(しか)して節は肥甘(ひかん)より喪(うしな)う。
素朴な食生活で生きている者は、透明で清潔な者が多いが、美食豊満な生活を送る者は、下衆な根性で生きている。
思うに、「志」は淡白な生活で磨かれ、飽食な生活により失われてしまう。
つまり、贅沢は敵ということ。
言い換えれば、飽食絶って礼節を知るといえるだろう。
前集12項 広い心をもって生きる
面前的田地、要放得寛、使人無不平之歎。
身後的恵沢、要流得久、使人有不匱之思。
面前の田地は、放ちえて寛きを要し、人をして不平の歎なからしむ。
身後の恵沢は、流しえて久しきを要し、人をして不匱の思いあらしむ。
生きている間は、のびのびとして不平不満を嘆く人がいないようにしたい。
そして、自分の死後は、残す者たちに恩恵を長く保たれ、貧しい思いをしないようにしたい。
つまり、活人は自分だけのことを考えず、子々孫々は勿論、全ての人類に貢献できる生き方をしなさいということ。
言い換えると、活人は「妄我を捨て無欲に徹せよ」を理念として生きろと言える。
前集13項 一歩さがって道を譲る
経路窄処、留一歩与人行、滋味濃的、減三分譲人嗜。
此是渉世一極安楽法。
経路窄き処は、一歩を留めて人の行くに与え、滋味濃やかなるものは、三分を減じて人の嗜むに譲る。
これはこれ、世を渉る一の極楽法なり。
狭い小道では、他人に一歩を譲り、美味しい物は腹七分で満足して三分を他人に分け与えるのが、世の中を楽に楽しく生きて行く秘密の方法である。
つまり、これこそが謙譲の美徳と現世利益なのだ。
言い換えれば、活人は、足るを知り、足るを知らしめよ、ということ。
前集14項 一流の人物とは
作人無甚高遠事業、擺脱得俗情、便入名流。
為学無甚増益功夫、減除得物累、便超聖境。
人と作(な)りて甚(なん)の高遠の事業なきも、俗情(ぞくじょう)を擺脱(はいだつ)し得(う)れば、便(すなわ)ち名流に入らん。
学を為(な)して甚(なん)の増益の功夫(くふう)なきも、物累(ぶつるい)を減除し得れば、聖境(せいきょう)を超えん。
立派な人物となるためには大それた事業をしなくても、下衆な根性さえ捨てれば、そこそこのレベルになれる。
学問で身を立てようとするには、周囲の雑音に振り回され、功績を上げ名声を得ようとせず、物欲を減らして淡々として研究に打ち込めば立派な研究者になる。
つまり、地道な活動こそ活人への道ということ。
言い換えれば、活人は派手な生き方をしてはならないということである。
前集15項 三分の狭気、一点の素心
交友、須帯三分侠気。
作人、要在一点素心。
友に交わるには須(すべか)らく三分の侠気を帯びべし。
人と作(な)るには一点の素心を在するを要す。
友人関係を維持するにはある程度相手に合わせる心をもっていなければならず、
立派な人間になろうとする者は、ここ一番の信念を持ち続けていなければならない。
つまり、活人は、友人を取るか、信念を貫くかと言えば、当然に信念を貫くべきである。
言い換えれば、活人の道は独立独歩といえるのである。
前集16項 四つの戒め
寵利毋居人前、徳業毋落人後。
受享毋踰分外、修為毋減分中。
寵利(ちょうり)は人の前に居ることなかれ、徳業は人の後に落つることなかれ。
受享(じゅきょう)は分外に踰(こ)ゆることなかれ、修為(しゅうい)は分中に減ずることなかれ。
利益は、他人に先じて手に入れようとしてはならないし、慈善の行為は他人に遅れてはならない。
そして、楽しみは求めすぎず、日々の修行は怠ってはならない。
つまり、活人の道は強欲には向かわず、公正に向かうべしということ。
言い換えれば、競争より協奏、強調より協調こそが、活人道と言えるだろう。
前集17項 進むためにはまず退く
処世譲一歩為高。
退歩即進歩的張本。
待人寛一分是福。
利人実利己的根基。
世を処するに一歩を譲るを高しとなす。
歩を退くるは即(すなわ)ち歩を進むるの張本なり。
人を待つに一分を寛(ひろく)にするはこれ福(さいわい)なり。
人を利するは実に己を利するの根基(こんき)なり。
人生は一歩譲って生きることが結局、自分が進歩成長することになる。
人には寛大に接することが結局、実益になる。
つまり、活人は目先の利益に囚われず、大欲感から人生の実益を得るべきである。
言い換えれば、金や物より大安心を得るのが活人の人生の目標であり目的なのである。
前集18項 功績も帳消し
蓋世功労、当不得一個矜字。
弥天罪過、当不得一個悔字。
世を蓋(おお)うの功労も、一個の矜(きょう)の字に当たり得ず。
天に弥(わた)るの罪過も、一個の悔(かい)の字に当たり得ず。
一世を風靡するような功績も、それを誇るようでは台無しとなる。
天下に轟く様な大罪も、悔いて反省すれば消えてしまう。
つまり、活人の人生は打ち上げ花火のような一過性で派手なものではなく、薬草のように野に在って心を癒し、化して良薬となることである。
言い換えれば、活人は下衆な人間とは袂を別して、正しいと信じる吾道を淡々と独り歩けということである。
前集19項 名誉は独り占めしない
完名美節、不宜独任。
分些与人、可以遠害全身。
辱行汚名、不宜全推。
引些帰己、可以韜光養徳。
完名美節は、よろしく独り任ずべからず。些を分ちて人に与え、もって害を遠ざけ身を全うすべし。
辱行汚名は、よろしく全く推すべからず。些を引きて己れに帰し、もって光を韜み徳を養うべし。
名誉や忠節を全て自分で独占してはいけない。他人に分け与えれば、危害を及ぼす者を減らす。
また、恥辱や汚名を全て他人に押し付けてはいけない。自分で引き受ければ、謙虚に人格を磨くことが出来る。
つまり、活人が確実に目標を達成するには味方をつくるより、敵をつくらない事だ。
言い換えれば、活人は、追い込んでは成らず、追い込まれてはならずということ。
前集20項 何ごとも控え目に
事事、留個有余不尽的意思、便造物不能忌我、鬼神不能損我。
若業必求満、巧必求盈者、不生内変、必召外憂。
事々、個の有余不尽(ゆうよふじん)の意思を留むれば、便(すなわ)ち造物も我を忌み嫌うこと能(あた)わず、鬼神も我を損すること能わず。
若(も)し業(ごう)は必ず満(まん)を求め、功は必ず盈(えい)を求むれば、内変を生ぜざれば必ず外憂(がいゆう)を召(まね)かん。
何事にも気持ち余裕があれば、嫌われることはないし、天罰をうけることもない。
もし、仕事上で業績や名声を求めすぎれば、自分自身も他人にも大きな心配事ができてしまうので、そこそこが良い。
つまり、活人の力は、不足無き程度に有り、余る事無いように無いのが一番良い。
言い換えれば、活人道とは、過不足なき人生と見つけたり。
前集21項 和気と語らい
家庭有個真仏、日用有種真道。
人能誠心和気、愉色婉言、使父母兄弟間、形骸両釈、意気交流、勝於調息観心万倍矣。
家庭に個の真仏あり、日用に種の真道あり。
人よく誠心和気、愉色婉言(ゆしょくえんげん)、父母兄弟の間をして、形骸両(ふた)つながら釈(と)け、意気こもごも流れしめば、調息観心に勝ること万倍なり。
家庭には本当の仏様が居るし、日常の生活には本当の達人がいる。
真心から和やかな雰囲気をつくり、にこやかな顔で楽しく語り合い、父母兄弟の間に壁を作らず、気持ちを通わせることが出来たなら、呼吸を調えたり本来の自己を内観することより何万倍も勝る。
つまり、人生の本質が見えていれば坐禅など必要はない。しかし、そうでないから坐禅をして自分の心の中の善心を語れ。
言い換えれば、活人とは、人生の達人への道の仮の名前なのだ。
前集22項 静寂のなかに活力
好動者、 雲雷風灯、嗜寂者、死灰槁木。
須定雲止水中、有鳶飛魚躍気象、纔是有道的心体。
動を好む者は、雲電風灯、寂(じゃく)を嗜(たしな)むは、死灰槁木(しかいこうぼく)なり。
須(すべから)く定雲止水(うんていしすい)の中に、鳶(とび)飛び魚躍(うをおど)るの気象あるべくして、纔(はじ)めて是は有道の心体なり。
動き回ることが好きな者は、雲間に轟く雷鳴や風に揺れるともし火のようだ。
静かで落ち着いている事を好む者は、動かない雲や流れない水のようだ。
大事なのは、鳶が飛び、魚が躍るような好機を捉えるまで動かず、好機と解かればガンガン動くのが正しい心のありかただ。
つまり、活人は心眼で気を捕らえ、無心に動く者。
言い換えれば、気を制する者なのだ。
前集23項 人に多くを期待するな
攻人之悪、毋太厳、要思其堪受。
教人以善、毋過高、当使其可従。
人の悪を攻(せ)むるは、太(あまり)にも厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す。
人に教うるにも善を以ってするは、高きに過ぐることなかれ、当(まさ)にそれをして従うべからしむべし。
他人の悪を攻める時は、あまり厳しすぎるてはいけない。相手が受け入れられる程度かどうか考えるべき。人に善行を積ませようとする時は、あまり大きな期待をせず、相手が出来る程度にしてやらなければならない。
つまり、活人は、現役として日々の関係が継続するのだから、指導や指示を出す場合、相手を追い込んでしまうような接し方をしてはならない。
言い換えれば、活人は、怨みを買う事の無い様にということ。
前集24項 汚物のなかからも
糞虫至穢、変為蝉而飲露於秋風。
腐草無光、化為蛍而燿釆於夏月。
固知潔常自汚出、明毎従晦生也。
糞虫(ふんちゅう)は至穢(しわい)なるも、変じて蝉(せみ)となりて露(つゆ)を秋風に飲む。
腐草(ふそう)は光なきも、化して蛍(ほたる)となりて釆(さい)を夏月(かげつ)に耀(かがや)かす。
周(まこと)に知る、潔きは常に汚れより出で、明るきは毎(つね)に晦(みそか)より生ずるを。
堆肥で湧いた「うじ虫」は極めて汚いが、変身すればセミになり、秋風の中で露を飲む。
腐った草に光はないが、変身して「ほたる」になり、夏の月夜に光彩を輝かす。
潔(きよ)いものは、いつでも汚れたものから生まれ、明るいものは、いつでも暗いものから生まれる。
つまり、活人は先の先を見通して人に接するべきで、自他の可能性の芽を摘むことの無い様にということ。言い換えれば、「ご縁は一生の財産」と認識することなのだ。
前集25項 から元気と迷いの心
矜高倨傲、無非客気。降伏得客気下、而後正気伸。
情欲意識、尽属妄心。消殺得妄心尽、而後真心現。
矜高倨傲(きょうこうきょごう)は、客気(かっき)にあらざるはなし。客気を降伏(こうふく)し得下(えくだ)して、而後(しかるのち)に正気(しょうき)は伸(の)ぶ。
情欲(じょうよく)意識は、尽(ことごと)く妄心に属す。妄心を消殺(しょうさつ)し得尽(えつく)くして、而後(しかるのち)に真心(しんしん)は現わる。
おごり高ぶりや傲慢(ごうまん)は、空元気(からげんき)に過ぎず、それを押さえつけてこそ、本当の元気が芽生えだす。
情欲や打算的な知恵は、すべて妄信で、それを完全に消滅できてこそ、本当の真心(まごころ)が表れる。
つまり、活人は激情を抑え、その力を心の力に変換できる力がなくてはならない。言い換えれば、活人の気は、忍の力で濃縮されて心の力となるということだ。
前集26項 事後の悔恨に思いを致す
飽後思味、則濃淡之境都消、色後思婬、則男女之見尽絶。
故人常以事後之悔悟、破臨事之癡迷、則性定而動無不正。
飽後(ほうご)、味を思えば、則(すなわ)ち濃淡の境(きょう)都(すべ)て消え、色後、婬(いん)を思えば、男女の見尽(けん・ことごと)く絶ゆ。
故(ゆえ)に人つねに事後の悔悟(かいご)をもって、臨事の癡迷(ちめい)を破らば、則(すなわ)ち性(せい)定まりて、動くこと正しからざるはなし。
十分に腹を満たした後に、味を考えると、濃い薄いなどなくなり、セックスの後に欲情を考えると、男だ女だという考えは消えてしまう。
つまり、活人は、事後に起きる「後悔」の本質を知り、無駄な時間の存在を無くすように考慮して生きているものなのです。
言い換えれば、活人の腰は、しっかりと坐っており、軽薄な行動はしないものである。
前集27項 顕要な地位についても
居軒冕之中、不可無山林的気味。
処林泉之下、須要懐廊廟的経綸。
軒冕(けんべん)の中(うち)に居りては、山林的(の)気味なかるべからず。
林泉の下(もと)に処(お)りては、須(すべか)らく廊廟(ろうびょう)的(の)経綸(けいりん)を懐(いだ)くことを要すべし。
高い地位にある現役時代は、日々の職業生活の場面でも、山林で隠居しているような趣がなくてはならないし、隠居暮らしをするようになれば、その暇を無駄にせず、天下国家を収めようとする気持ちで暮すことを忘れてはならない。
つまり、活人は24時間活躍しているので、忙中には閑、閑中には忙を心がけていないと、心身一如の原則から、心が忙しい時には体を休ませ、体が忙しい時には心を休ませていないと健康を害することになるのだ。
言い換えれば、活人の元気はバランス感覚を背景に出てくる考えるべきなのだ。
前集28項 大過なく過ごす
処世不必邀功、無過便是功。
与人不求感徳、無怨便是徳。
世に処(しょ)しては、必(かなら)ずしも功(こう)を邀(もと)めずして、過(あやま)ちなきは便(すなわ)ち是れ功なりとす。
人に与えては徳に感ずることを求めずして、怨(うら)みなきは便(すなわ)ち是れ徳なりとす。
世渡りは、必ずしも功績を求めないで、間違いが無いことそれが功績と考えるべきだ。
人と接する時は、教育しようなどと思わなず、恨まれなかっただけで徳を積んだと考えるべきだ。
つまり、活人は求めず、与えるのみ、を心に生きているものなのだ。
言い換えれば、活人とは菩薩の別名でもあるのだ。
前集29項 淡白すぎるのも考えもの
憂勤是美徳、太苦則無以適性怡情。
澹泊是高風、太枯則無以済人利物。
憂勤(ゆうきん)は是(こ)れ美徳(びとく)なるも、太(あまり)に苦しめば、則(すなわ)ち以(も)って性(さが)に適(かな)い怡(よろこ)ばしむること無し。
澹泊(たんぱく)は是(こ)れ高風(こうふう)なるも、太(あまり)に枯(か)るれば、則(すなわ)ち以(も)て人を済(すく)い物(もの)を利(り)すること無し。
工夫や努力をしながら働くことは素晴らしいことだが、工夫も努力も度を越せば、心に余裕をなくし、働く楽しみが奪われてしまうだろう。
また、拘らず、囚われず暮らすことは無欲に通じて素晴らしいことだが、無欲が度を越せば、無欲の本質すら忘れて社会貢献の意思も失ってしまうだろう。
つまり、活人は、奪わずして与え、与えて奪わずという心境を持っていなければならないのだ。言い換えれば、活人は、大欲を無欲に転換しても与え続けることを忘れてはならないのである。
前集30項 引き際
事窮勢蹙之人、当原其初心。
功成行満之士、要観其末路。
事窮(こときわ)まり勢(いきお)い蹙(ちぢ)まるの人は、当(まさ)にその初心を原(たず)ぬべし。
功成り行(おこない)満(み)つるの士は、その末路を観んことを要す。
仕事が行き詰まり、とことん形勢が悪い人は、その初心が何であったかをもう一度検討しなおすべきで、成功してこの世の春を楽しんでいる者は、その行く末を考えなければならない。
つまり、活人は、「折角」という言葉を使わず、惰性に流されない。
言い換えれば、活人は臨機応変の生き方をすべきなのである。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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