訳文D
重職心得箇条とは..
「重職心得箇条」は、江戸時代の陽明学者である佐藤一斎(1772~1859)が、自藩(美濃岩村藩)の重役たちのために著したものです。藩の重職についての心構えや目の付け所など、実に見事な指摘が十七箇条で構成されています。云うまでもなく聖徳太子の十七条憲法を意識したもので、藩の憲法という意味でもあります。
確かに200年前に書かれたもので、その中の用語は、時代を感じさせる言葉が使われていますが、幾つかの用語を現代風に読み替えれば、その内容は今日でもそのまま通用するものです。
たとえば“重職”という言葉を、そのまま“重役”と読んでもいいでしょうし、もう少し範囲を広げて“マネージャー”と読んでもいいでしょう。
戦後、この種の“古いもの”は、悉く排斥されてきました。“今はそんな時代ではない”と云わんばかりに、この国は日本古来のものを捨て去りました。しかしながらその結果は、今日の行き詰まりです。この行き詰まりの原因は、人としてやってはならないことを見失ったことにあります。言い換えれば重職が重職たる役目を果さなかったところにあります。実際、この17箇条の悉くに反しているマネージャーや重役も居るはずです。そうでなければ、銀行だってここまで行き詰まることはないはずですし、一般の企業も、“ビッグバン”を前にしてここまでオロオロすることはないはずですし、そこにいる人たちがこれ程まで悲観的になる必要はないのです。
不正を隠した結果巨額の損失を出した経営者。援助交際や“たまごっち”で世界の笑い者になった日本の中年ビジネスマン。世界が“グローバル”をキーワードに大きく動いている中で、何をやっていいか分からない人たち。そんな中で、病気の解明もしないまま、ひたすら処方箋と抗生物質を欲しがる人たち。彼らは、何をすればいいのかという前に、何をしてはいけないのかということを本気で考える必要はないだろうか。
「重職心得箇条」が“古い”かどうか、今ベストセラーの『7つの習慣』を読んだ人には分かるはずです。そこで言っていることは同じだということを。
今、激動の時代にあって、マネージャーの有るべき姿が問われています。今一度、この「重職心得箇条」を読んでみて下さい。そこには新鮮な驚きと、取るべき行動が見えてくるはずです。
ただ、「重職心得箇条」は、その時々の立場で何度でも読み返して欲しいものです。今、このホームページで、これを読んでくれている皆さんは、コンピュータを縦横無尽に駆使し、“情報”を素早くキャッチする“術”に長けた人と思います。しかしながら、この「重職心得箇条」の解説は、そのような“情報”とは異質のものです。“このホームページにそのようなものがある”というのは“情報”ですが、その内容は情報ではありません。その違いを認識していただいた上で、このページを読んで頂ければ、私にとっても大いに悦びとするところです。
この解説を試みるにあたって、『佐藤一斎 「重職心得箇条」を読む』(安岡正篤、致知出版社 ISBN4-88474-360-1)を参考にしています。特に時代的背景に関しては、概ねこの本を参考にしました。
また、原文の読み仮名、送り仮名はできるだけ原文に従いましたが、一部、どうしても読みづらいところは現代風に直しました。漢字の読み仮名は特殊なものを除いて付けていません。出来るだけご自分で辞書を引くなりして読んで下さい。その工夫や苦労も、この心得を会得する上で必要なものです。
なお、この解説では、「重職」という言葉を、殆どの場合、そのまま使用しています。私としては、「重職」を重役や役員に限定せずに、もう少し広く、マネージャー(部長や課長に相当?)やリーダーにも広げて適応したいと考えるからです。したがって、読み手である皆さんが、「重職」をご自分の立場や、読まれる目的にあわせて読み替えてくださることを期待します。
その他の参考文献:
「人間学」 伊藤肇 著、 PHP文庫
「宋名臣言行録」 諸橋徹次、原田種成 著、 明徳出版
「幽翁」 西川正治郎 著、 図書出版
「安岡正篤先生随行録」 林繁之 著、 致知出版
「人間の生き方」 安岡正篤 著、 黎明書房
第1条 解説
重職(重役)というのは、国でも企業でも、大事を取り扱うことが仕事です。そうでなければ「重」という字を冠に載せる必要はありません。だから軽々に行動されては宜しくないのは言うまでもありません。親しみを持っての行動と、軽々な行動とは自ずと違うのものです。社員に親しみを感じるのはいいとしても、重職の一つの決定の誤りが、社員全員を路頭に迷わせ、株主や取引先に迷惑をかけるとなると、その言動は自ずと重厚でなければならないし、威厳を伴っていなければなりません。
威厳は威張る為に必要なわけでは有りません。重大な決定をするために必要なのです。これが備わっていなければ、決定の重大さに押しつぶされてしまうからです。威厳は普段、何を考えているかによっても身に付いてきます。それは“立っている処”の差でもあります。重職としての己の役割をわきまえ、日々それに相応しいことを考え行動していれば、威厳は身に付いてくるはずです。こうした備えがなければ、自らの責任で重大な決定はできないでしょうから、どうしても、“会議”で決めたがるはずです。
深沈厚重(しんちんじゅうこう)ナルハ是レ第一等ノ資質
磊落豪雄(らいらくごうゆう)ナルハ是レ第二等ノ資質
聡明才弁(そうめいさいべん)ナルハ是レ第三等ノ資質
これは『呻吟語』(呂新吾)の中に出てくる人間の魅力の段階です。注意して欲しいのは、呂新吾に言わせれば、頭の切れるのは第三等だと言うことです。
ところで「名を正す」とは、その役に相応しい振舞いを明らかにすることです。重職とは何を為すべき役回りなのかを明確にすることです。当然、瑣末な仕事をすることが役目ではありません。
重職が小事にかかわり、瑣末を省けない理由の一つは、「名を正す」ことを怠っていることもその一因です。そのような組織では、「重職」に限らず、マネージャー職全般に「名」が正されていません。そのため、名刺の上にこそ「マネージャー」とか、それなりの役職名が被せられていても、その振舞いは以前の役目と何ら変わらないということになるのです。その結果、役職が変わる(上がる)ことが、単に給料の増加に繋がる条件に過ぎなくなってしまうのです。
大事を見通し、人心をつかみ、物事を鎮定するという本来の役目は何処かへ追いやられ、馴れ親しんだ今までの仕事を持ち込み、瑣末なことに首を突っ込んでしまうのです。これでは「重職」は勤まらないのは言うまでもありません。
威厳を養うと言っても、人間であることを放棄することを求めるものではありません。人間であることの証は、突き詰めれば、喜怒哀楽に尽きます。喜ぶときはみんなと一緒に喜べばいい。怒るときは壁も破れんばかりに怒ればいい。部下の哀しみに一緒に哀しみ、部下の楽しみを一緒に楽しめばいい。これを失っては正しい意味での威厳は成立しません。ただ、違うことは、そのうえに「重職」の役目があるということです。その認識さえあれば、部下より先に楽しむようなことはしないでしょう。
第2条 解説
この項は、重職心得箇条の中でも、最も重要な項の一つです。
重職の重要な役目に「決裁」があります。最近は企業の中でも権限の委譲が進んでいるようですので、重職が決裁しなければならない案件の範囲が絞られているものと思われますが、それでも、重要な案件は重職が決裁することになります。つまり「決める」のです。
そのとき、賛成側、反対側双方の関係者の考えや意見を十分に、かつ公平に聞きだすことが必要になります。特に重職がこの案件に関わっている場合、公平に決裁することが重要なことは言うまでもありません。もし、そこで最初から片方に肩入れする姿勢が見えれば、誰もものを言わなくなります。
もう一つのポイントは、有司の人の考えや案が完全なものでなくても、間違っていないと判断されれば、その人の案を採用するということです。物足りなくても、度が過ぎたものでなければ、一旦それを採用し、不足は後で調整すればいいのです。方向さえ合っていれば、後で追加の対処はできるものです(正し、追加策では間に合わないこともありますが・・・)。大事なことは有司の人たちの「気乗り」です。
残念ながら、現実にはこのような場面で、“我が社には人がいない!”と、人材の不足を嘆く重職をしばしば見受けますが、むしろ、重職の姿勢そのものが「了簡」を出す空気を塞いでいることがあります。そのような組織では、まともな「了簡」でも、重職の考えを越えるものや、目を見張るものでなければコキ下ろされるのオチですから、最初から口を塞いでしまうのです。そしてそのうちに、彼らは本当に役に立たなくなってしまいます。
正しい判断や行動には「幅」があります。いつも95点以上でなければダメという訳ではありません。30点では前に進まないかも知れませんが、60点ぐらいでも、続けて手を打てば何とかなるものです。それを95点に達しないからといって、折角の「了簡」を切り捨てていては、結局何も進まないことになります。ホームランばかり期待されては、そのうち誰もバッターボックスに立とうとしなくなります。
また、このような組織では、一度の失敗が尾を引いてしまうことも考えられます。もちろん、失敗の仕方にも問題はありますが、取り組んだ方向が正しい方向であれば、次に成功する確率は確実に高くなります。だからこそ「失敗は成功の母」というのです。逆に、最初から上手く事が運んだ場合、本当にそのような結果をもたらすべく「力」があったのかと言う問題が残ります。その場合、次に失敗する可能性が残されるのです。
むしろ、重職の役目は、その人が失敗するにしても、再挑戦の芽を摘まないためにも、深い傷を負わないように配慮してあげることです。
今日の我が国では、残念ながら「減点主義」が行き渡っています。何時からか分かりませんが、或る文献では昭和の30年代に、すでに職場に広まっていた状況が説明されています。
でも、一斎は、部下のちょっとした失敗は、次の成功で帳消しにすればいいと言っているのです。200年前に、一斎はまさに「敗者復活」を勧めているのです。そうしなければ人材は居なくなると言っているのです。「敗者復活」はアメリカの専売ではなかったのです。それは洋の東西に関係なく「道理」なのです。
さらに、この項で重要な点は、「嫌いな人を能く用いる」ということです。言い換えれば「取り巻き」を厳しく糾弾しています。組織の中での役割が重くなるほど、自分を持ち上げてくれる人を回りに置きたがります。確かに役が重くなれば失敗に対する不安が多くなります。しっかりした見識を持たなければ、この不安が「応援団」を回りに集めてしまうのです。自分の中に「自分流儀の者」を求める気持ちがあるから、そのような人が回りに集まってしまうのであり、耳障りで不安を掻き立てる人を遠ざけてしまうのです。
「性に合わない」という言葉は、相手を説得する「力」を持たないことの証です。だから自分流義の者を集めてしまう。そうすれば了簡が食い違うこともないし、説得する必要もない。
全て、物ごとには2面、いや多面性を持っています。ある立場からは正しいと思われることも、別の観点から見れば、必ずしも正しいとは言えないものです。もちろん、事を進める場合は、どちらかの立場で進めるしかないのですが、その時、両面を正しく認識したうえで判断(=決裁)しなければなりません。両面を認識したうえで判断する際に、その人の「見識」が問われるのです。そして、相手を説得し決定する際には「胆識」が問われるのです。しかしながら、自分流義の者ばかり集めていては、「見識」も「胆識」も磨かれません。その必要がないからです。
嫌いな人、というのは、多くの場合、自分の考えの盲点を突いてくる人です。全く違った考え方をしたり、自分と違う立場でものを考えるから、痛いところを突いてくるのです。多くの場合、それもまた真実の一面を持っているものです。このような人を説得できなければ、遠ざけるしかなくなります。
その結果、意見が異なるということが、すなわち追放と言う結果になるのです。日本の政党や、企業の役員会などにその事例を探し出すのは容易なことです。そのような組織は変化に弱いことは言うまでもありません。
嫌いな人を遠ざけようとするのは、その背後に、人を従わせようとする姿勢があるからです。嫌いな人を従わせようとするから失敗する。勿論、こちらが嫌えば、相手もこちらを嫌います。そのことは別としても、彼も仕事の目的は同じはずで、違うのはそこに至るプロセスであり、順序なのです。
ありがたいことに、彼はこちらの考えの欠点を鋭く突いてきます。頼まなくてもやってくれます。しかも厳しく。取り巻きの連中には、そこまで期待できません。いや、遠慮が入る以上、最初から期待できません。人は過ちを犯すものであることを考えると、こちらの欠陥を突いてくれる人を遠ざければ、その分、失敗の確率が高くなるのです。
昔の優れた経営者は、傍にうるさく言う「諫臣」を置いたものです。それは「一国、争臣なくんば危うし」ということを知っていたからです。
才能と人格は別のものです。一般の事業において人格者ばかり集める必要はないし、またそれは叶わないことです。人を使うのではなく、その人の能力を使うと心掛けて、嫌いな人との均衡点を見出すことです。これからの時代は、いろんな人種の人たちが一緒になって仕事をする時代です。彼らは仕事において共通点はあっても、そのほかの部分は全く違うこともありえます。これらから重職は、人格と才能を見極め、少なくともその才能を活かすことができなければ勤まらないでしょう。
亡くなった作家の司馬遼太郎に言わせると、“人は40過ぎると、他人さまを平気で嫌いになってしまう”ものらしい。だから注意しないと、不必要に嫌いな人を作ってしまいます。
<第3条 解説
会社の伝統や社風も、その由来を考えれば、成立には其れなりの理由があるものです。それだけに軽々に弄り回すことは控えなければなりませんが、かといって、何でもかんでも守株するというのは正しくありません。
一斎はここで、「家法」と「仕来り・仕癖」に分けて考えています。「家法」というのは憲法みたいなもので、軽々には変えるべきものでは有りません。それでも、時代の変化と共に企業の存在の理念が変わる時には、この「家法」も手直しすることになります。
それに対して、「仕来り・仕癖」というのは、作業の手順や、作業方針、あるいは今風で言えば、“ワークフロー”みたいなもので、これらの多くは時代やその時の事情を背景にして成り立っているものです。
一斎は「時に従て変易」させよというのですが、この文章が200年前に書かれたことを思うと、その見識の深さに驚かされます。200年後の今日の社会を予見した筈はなく、おそらく「易」の考えに基づくものと思われます。易の立場からは、この世界は「無常(常ならず)」と説きます。すなわち、一時も一所に止まることはないと言う考え方です。それでいて、その中心に不変のものがあって、その回りを動いているという考え方です。
動かざるものと動くべきものを見分けることが重要です。しかしながら多くの人は、この「無常」が見えません。昨日の自分と今日の自分の違いが見えません。だが、母親には、街に出て3ヶ月後に実家に帰ってきた息子の「変化」が見えます。その変化は、息子が実家に帰る1日前に起きたわけでは有りません。
ソフトウェアの開発手法にしても、「法」に相当するものと、「仕来り・仕癖」に相当するものが有り、それを正しく識別し、守るべきものと変易させるべきものを区別しなければなりません。「時世に連れて動すべきを動かさざれば」時代の要請と食い違ってしまいます。1年前までその方法で対応できていたが、今では、コストも期間も品質も時代の要請に合わなくなってしまったということになります。「大勢立たぬも」となるのです。
ここで、「守株」という珍しい言葉が使われています。これは的外れなものを必死になって守ることの愚かさを言いますが、それには名高い故事があるようですので、文献からその部分を紹介します。
ある愚かな百姓が、どこからか追われてきた兎が勢い込んで繁みから飛び出してきたとたん、切株にぶつかって死んだ。労せずして兎を一匹拾ったのですが、それから、この百姓はいつも同じところで、また兎が飛び出して切株にぶつかって死ぬのを待っていたと言う故事から、愚かな習慣に囚われることを“株を守る”、すなわち「守株」と言います。
まことに愚かな話しです。でも、実際にこれに似たことをやっている可能性があるのです。“これまで、このようにやってきた”というだけで、「法」と「仕来り・仕癖」の違いに気付かなければ、自分たちの守っているのが「切株」であることに気付きません。前任者から重職を引き継いだとき、今までやってきたことをそのまま引き継げば済むという時代ではなくなっています。規制の撤廃や資本のグローバル化から、新規参入が容易になり、その分、市場の要請の変化が早くなっているのです。
この「守株」は、決して愚かな人が犯すとは限りません。例えば“成功体験が災いする”と言いますが、それこそ「守株」そのものです。残念ながら、人は誰でも、この「守株」に陥る可能性(危険性)を持っているのです。そこにもう一匹“どじょう”がいるのではないかと思う気持ちが、そもそも「守株」の一種なのです。
21世紀を目前にして、時代を読み、大勢を察し、その方向に舵を切らなければ事業は成り立たないでしょう。これまで何十年、事業をやってきたことが、必ずしもそれだけでは明日も事業を続けられる保証にはなりません。その証拠に、今から半年で、この国の金融関係の企業の多くが、事業の継続を断念することになるものと思われます。それは、重職が自ら大勢を見ずに、所轄の役人に身を預けてきた結果でも有ります。
重職が大勢を見誤っては、一体誰が大勢を見るというのでしょうか。
第4条 解説
これは“仕来り”や“習わし”に関する2つ目の項です。それが「法」であろうと「仕来り・仕癖」であろうと、事を処するには、先ずは「自案」すなわち、自分の案を考えることが必要です。
よく“先例がない”という一言で、新しい取り組みが潰されることがあります。少し冷静に考えれば直に分かることですが、“先例がない”という姿勢で物事を処理していけば、100年経っても何も変わらないことになります。しかしながら、そうは言っても“今までの先例”はあるわけで、それは“先例がない”状態にあって、“先例”となったものです。つまり、その時だけ“先例”を破った結果がそこにあるのです。一旦先例が出来た後は、“新しい先例”を作らない、と言うのでは何も発展しないことは小学生でも分かるでしょう。
此の国の特徴かも知れませんが、先人の立てた例格を、後の人が塗り替えることを避ける例をよく見掛けます。特に役所の仕事に多く見られます。当の役人もそれが決して正しくないと分かって(感じて)いても、変える勇気を見せません。それどころか、その点を指摘するとますます拘ってきます。時には、時代背景が変わっていても、あるいは新しい事実が判明していても、“今更”という思いが、正しい行動を押さえ込んでしまいます。
非加熱の血液製剤の回収が遅れたのも、事故に対する動燃の関係者の対応の失態も、“今、どうすべきか”ではなく、“今までそうしてきた”ことが優先して行動して来たことの証です。
一斎は、先例を参考にするのは構わないが、その時は、自案を先に考え、その上で先例を考察すべきであると言っているのです。自案を考える前に、先例を探してはならない、というのです。古い先例でも、本当に問題ないのならそのままでもよいのですが、「時宜」すなわち時代の変化や、先例を成立させていた状況が変わったのなら、先例を守ることに拘泥してはならないと言うのです。
「先例から入る」というのは、或る意味では、考える行為を放棄していることにもなります。重要な案件で、会議などを開いて関係者の考えを集める場合にも、「自案」を内に持って臨まなければ、その場で出される意見に振り回され、それらの意見に潜む欠陥が見えず、間違った判断をしてしまう危険があります。
その結果、後になって「会議の場で決めた」とか「皆の意見で決めた」という“言い訳”を垂れることになるのです。会議の場に出されたのは「意見」や「考え」であって、決めたのはその重職のはずです。でも、「自案」を持って臨む習慣がなければ、それが思ったような結果に繋がらなかったとき、どうしても、このような言動になってしまい、信頼を失っていくのです。それは、重職の条件である「重厚」かつ「威厳」ある行動に反することは言うまでもありません。
それにしても、「先づ例格より入るは、当今役人の通病なり」と看破されているのですが、「役人」の所を「競争原理の働かない世界の人たち」と読み替えて下さい。競争原理が働かず、終身雇用と年功的昇級が行き渡り、外部からのチェックも機能していなければ、新しいことをやって失敗することを避けようという姿勢が何よりも優先するため、殆ど例外なくこのような行動になるはずです。
もっとも、終身雇用も、「能力」があって、何時までも有用である状況での終身雇用は、むしろ進めるべきものですが、「能力」の裏付けのない終身雇用は、今日では、既にその存続の理由はありません。
言うまでもなく、21世紀のビジネスの世界では、「先づ例格より入る」やり方は命取りになるでしょう。コンピュータの発達と普及がもたらしたものは、情報伝播のスピードと、その入手手段であり、その結果「判断のスピード」が、事業の決め手になってきました。
特に「稟議制度」になれている重職は、21世紀が求める「判断のスピード」に対応できなくなる危険があります。「稟議制度」を「法」と解釈するか「仕来り」と解釈するかで、大きく道を分かつことになるでしょう。
「稟議」という制度があっても構いませんが、それ以上に、重職自らが、常日頃から時代を見据えて、いろんなケースを自ら考え、幾つもの「自案」を持っていなければ通用しないでしょう。
21世紀は、ビジネスの世界で重職に成る方が、政事の世界で大臣に成るよりも難しいかも知れません。安直に年功的発想で、“次は俺の番だ”などという考えで重職の席を欲しがっては、折角のこれまでの人生を蒸発させてしまうことにも成りかねません。
<第5条 解説
「応機」―これもまたたいへん重要な言葉です。「機」はすなわち機会でありタイミングです。また、変化点でもあります。その「機」に応じるということは、機会を逃さないと言う意味です。“好機到来”―まさに“今だ!”というわけです。
「機」は突然顕れるものでは有りません。「後の機は前に見ゆるもの也」とは、後からやってくる「機」が、事前に見えるというのです。則ち「兆候」です。もちろん、誰の目にも事前に見えるわけではありません。普段から「機」を見ようとしていないかぎり見えないかも知れません。
コンビニやファーストフードも、その最初に「機」を掴んだ人がいるわけです。時代の変化、習慣の変化、社会事情の変化を見ていることで、次にどのような変化が起きるか分かるはずです。自動車の普及が郊外の大規模店舗の展開に繋がった。経済が豊になり、物が溢れるようになったことで、選択の世代が生まれた。
これらは、その「機」が過ぎて後になってみれば、誰の目にも分かることですが、「変化点」が来る前にどれだけ予知することが出来るかです。
「人の運の善し悪しは、時代に合わせて行動できるか否かにかかっている」
これはマキアヴェリの言葉ですが、一斎が言うのはこれと全く同じです。「機」に応じ、時代にあわせて行動していかないと、後になって難儀するというのです。
個人的な「運、不運」であればその人だけの問題かも知れませんが、重職という立場で、職務上「機」を逸し、そのために難渋するのでは、単に「運、不運」で済ますことは出来ません。
日頃から「機の動きを察する」こと。それが重職の役目の筈です。
こに関して、一斎は次のような対句を残しています。
赴所不期天一定 [期せざる所に赴(おもむ)いて、天一(いつ)に定まる]
動于无妄物皆然 [无妄(むぼう)に動く、物皆しかり]
これは、世界はこうなるだろうと予想しているところへは必ずしも動いていかない。何かの出来事をきっかけに思わぬ方向に展開し、そこで定まる。何事も偶然の出来事で動く、という意味です。无妄(むもう、むぼう)というのは、易(64卦)の一つで、偽りのないことですが、これは「天」の側から見てのことであって、我々にとっては不慮の災難や出来事を意味します。我々にとっては偶然でも、天の側から見れば必然であり、当然なのです。それを无妄と言います。
第1次世界大戦はセルビアの青年の一発の銃弾から始まったし、沖縄の少女暴行事件は思わぬ方向に展開しました。この種の事件はこれまで何度もあったのに、今回は違った。度重なる動燃のトラブルも、この国のエネルギー政策を根底から揺るがす方向に行くかも知れません。また産業の発展がもたらす大気汚染や地球環境の破壊も、期せざるところに赴いて一に定まる可能性がありますし、クローン生成技術はその本来の目的をそれて无妄に動くでしょう。
「機」は、“この中”にあるのです。だからこそ、ニュースを追跡するのです。
第6条 解説
物事の判断や決定に際し、公平を失うのは、重職自らがその案件に関わっているときに起きやすいものです。しかしながら全く関わっていないような案件は、実は殆どなく、そのために、常に判断・決定が公平であるかどうかが問われることになります。
問題の渦の中に入ってしまえば、何処が問題の中心なのか、何処が端っこなのか見えなくなるので、そのような時は、一旦外に出て、別の目で事態を監察し、全体を見たうえで適切な判断、行動をつることが肝要といっているのです。
必ずしも「中を取る」と言うことにこだわらなくてもよいでしょう。
舞台の上にいる人の行動は、客席から丸見えなのと同じように、重職の行動も丸見えなのです。その時、公平を逸した判断、行動は人々の信頼を失うことになります。威厳を失えば権力に頼ることになり、ますます人心を失うことになります。
そのため、重職は、いつも公平を失わないための工夫を持っていなければなりません。
この箇条は、後継者を選ぶときなどに例を見ることがあります。特に、重職自身がその渦中にある場合など、自分の居る位置を見失い、公平を欠いて失敗する危険があります。
かって住友の総理事であった伊庭貞剛は「人の仕事のうちで一番大切なことは後継者を得ることと、後継者に仕事を引き継がしむる時期を選ぶことである」と言っています。惣体を見る工夫がなければ失敗しそうです。
第7条 解説
最近では「己の欲せざところを人に施すなかれ」という言葉を聞いたこともない人も居るかも知れませんが、やはり人のいやがるところを無理押しすべきではありません。そういことは冷静になってみれば誰でも分かることなのに、「重職」という衣を身に付けると、苛察を威厳と勘違いしてしまう。
「苛察」とは辞書では厳しく調べることとなっていますが、どちらかというと、余計なところに立ち入ってあれこれ探し回ると言う意味に使われます。これを「威厳」と勘違いしてしまうのは「少量」の病気だというのです。少量というのは「器量」が少ないことを言います。つまり、人間としての器量に欠けることを言います。
また、そういう人は、大局を見て公正な判断で動くのではなく、自分の「好み」で判断しがちなものですが、なぜそう言うことになるかといえば、それは「見識」の問題です。「器量」という言葉は、まだまだ私には重すぎますので、ここは「見識」という言葉に置換えさせてもらいます。
知識が幾らあっても判断は出来ません。判断、決断ができるには、「有るべき姿」が必要です。インターネットの時代にあって、時代の動きや兆候などは、その気になれば幾らでも手に入ります。しかしながらそれらは「知識」にすぎず、それだけでは、判断、決断は出来ません。「知識」が有るべき姿という接着剤で繋がることによって、採るべき行動や判断が見えてきます。それが「見識」です。
時代の大勢を見極め、「機」を事前に察知し、その上で、「有るべき姿」をイメージし、必要な判断を伴って、それに向かって行動を起こすというプロセスには、重職個人の「好き嫌い」の入る余地は有りません。
「威厳」は日々の一つひとつの見識ある言動から作られるものです。丁度「パッチワーク」のように一つづつ縫い込まれていくものです。ところが、重職の地位にあっても、この「見識」を伴わなければ、必然的に威厳を見せるために苛察な行動を採ってしまいます。そして、それは全く逆効果であることに気付くべきなのです。
『宋名臣言行録』に、「人ヲ挙グルニハ、須(すべから)ク退ヲ好ム者ヲ挙グルベシ」というのがあります。重職というのは、この先の時代の変化を考えると、簡単に勤まるものではありません。それなのに人を押しのけてでも、重職の地位を得たいと思う人は、奔競(ほんきょう)の輩の可能性があります。
有名な話しに、かって経団連会長であった石坂泰三氏が、当時自民党の政調会長をしていた中曽根氏に奔競の本心を見透かれ、鋭くしてきされたことがあったという。その所為もあってか、新聞のインタビューで自分の欠点を尋ねられたとき、“ライトを浴びていたいという気持ちが強すぎることでしょうか”と応じたという。
その石坂翁も今はいない。先日の特措法騒ぎの中曽根氏の動きがちょっと気になった。
第8条 解説
一斎は、重職たるもの、仕事が忙しいなどと口にしてはならないというのです。“忙しい”と言うこと自体が恥じだというのです。それは、重職としての本来の役目を果していないことを公言している様なものだからです。
重職の仕事は“忙しい”状態では果せません。「忙」と言う字は、心を亡くすと書きます。つまり心に有余(=余裕)を亡くした状態が“忙しい”という状態です。これでは大勢を見ることも、機を見ることも出来ません。特に「機」は微妙なものであるのと、「変化点」と言う性格から、継続の中で察知されるもので、日常の姿勢や行動が重要になります。“忙しい”状態では、とても叶いません。
大分前に、或る雑誌で、通勤途中の電車の中で自社の「管理職」の行動をチェックしているという社長の話しが載っていたことが有ります。その人は、電車の中で新聞を読んでいる人をチェックしているようでしたが、その理由は、電車の中で新聞を読んでいるようでは、会社に入って席についてからその日の行動を思案することになり、これでは出遅れてしまうというのです。
電車の中で新聞を読む理由の一つは、家で読んでくる時間がないことです。家で新聞を読み、重要なことをメモして電車の中では、その日の行動を思案するというスタイルに持っていくためには、少なくとも30分早く起きなければなりませんが、この社長は、それが出来ないようでは「重職」は勤まらないというのです。実際、それができない人に限って、“忙しい”という言葉を使うものです。
もう一つ“忙しい”理由は、重職自らが「小事」に手を出していることです。
重職に就いている人は、概ね以前の役をそれなりにこなした人でもあります。そのため、重職に就いてからも、どうしても以前の役での仕事が目に付くものです。特に、後任の人のもたついているのを目にしたりすると、つい、じれったくなって手を出してしまいます。これが「小事」の始まりの一つです。
また、そうなると部下に任せると言うことが出来なくなり、部下が自然ともたれ掛かってきてしまい、どんどんと「小事」が膨らむことになります。こうなればもう「大事」など何処かに飛んでいってしまいます。
重職の大きな役目の一つに、人材を育てるとこが含まれますが、それは「任せる」ことと一体です。
第9条 解説
一斎は、刑賞与奪の権限は部下に渡してはならないという。いくら権限の委譲を進めるといっても、委譲するのは業務の遂行に関する判断であり権限に限るべきで、刑罰や報償はもう一段高いところから判断すべきものです。
また、ここでいう刑賞与奪の権限には、いわゆる「人事権」も含まれています。
この権限を委譲されても、部下の方が戸惑うでしょうし、場合によっては、間違って使われる可能性もあります。呉々も注意が必要です。
なお、人事に関して参考までに『西郷南州遺訓』の冒頭に、
「いかに国家に功労があったとしても、その職を任えない人に地位を与えてはならない。地位はそれに相応しい見識を持つ人に与えるべきで、功労には報償で報いるべきである」
と言うのがあります。
この文の“国家”を“企業”に置換えて差し支えないし、21世紀に入ってもそのまま通用するはずです。従って、社長の給料を越える収入があっても、何の不思議もないはずです。
残念ながら、現実問題としては、“業績”が昇進の条件になっており、その結果、新聞ネタを提供する失態を冒してしまうことも少なくないようです。
「かの松下幸之助氏に、松下の人事の原理原則を尋ねたら、南州遺訓の一節(前掲)が返ってきた」と、評論家の伊藤肇氏が書いています。例の、世間をあっと言わせた「山下飛び」は、ここから生まれたものかも知れません。
第10条 解説
政事に限らず、企業に於けるいろいろな施策にも、事の大小や軽重の区別を見失わないようにしなければならないし、緩急の判断や、施策の後先の順序を間違っては、出来ることも出来なくなってしまいます。
いつもいつものんびりしていてはいけないし、かと言って急いでばかりでも失敗してしまいます。西田幾多郎氏の言葉に「急ぐということは、すでに間違いを含んでいる」というのが有ります。急がなければならなくなったこと自体が間違いだというのです。もっと常日頃から全体を見渡し、情報を収集し、5年10年先のことを想定して、そのうえで「今」何をすべきかを考え、後先を間違えないように実施していけば、“急ぐ”必要はないのかも知れません。
3年5年先の展望をもっていなければ、事態の切迫を感じてから行動するか、同業他社の動きを見ての行動ことになります。当然、準備不足のまま急ぐことになり、失敗の確率が高くなることは言うまでもありません。また同業他社の動きは、表面に出た時点でしか分かりませんので、それまでどのような準備をしてきたものか“先後の序”を知る由は有りません。これでは成功するはずはありません。
それに、実施に際して“手順”はとても重要なのですが、どうもこの国は“手順”を軽く見ている節があります。先に発表された文部省の教育制度改革案も、取り組むべき項目は示されていますが、その順序は全く示されていません。特にこの件は、報道番組で文部省関係者に取り組みの順序について問い質した場面が有り、そのときの答えは、手順は実施の現場に任すと言う返事でした。つまり“手順”について明確な考えを持っていないということです。
これにたいしてSEI(Software Engineering Institute)と言う組織で考えられたソフトウェア開発組織のプロセス・レベルの改善の取り組み集とも言える「CMM(Capabirity Maturity Model)」では、そのプロセスのレベルに応じた取り組みが提案されています。つまり「先後の序」を重視しているわけです。
間近に迫った金融ビッグバン、その前に、来年予定されている外為法の改正、あるいは企業会計則の見直しなど、規制の撤廃やルールの改正が、社会全体に与える影響はどうか、自社に於ける影響はどうか、さらには、一転して、どういうチャンスが生まれるか、といったことを常日頃考えておく必要があります。
思考の3原則に、
・長期的に考える
・多面的に考える
・根本的に考える
というのがあります。
重職は、この姿勢で、進んで成算を立てる必要があります。
5年10年先を“不確定な時代”などという言葉で片付けていては、重職は勤まりません。もし、将来をそのようにしか考えられないとすれば、それは歴史に対する姿勢の問題かもしれません。
戦後、わが国は歴史の教育を一変させてしまいました。さらに受験競争が、歴史を考古学の一つにしてしまいました。その後遺症がこれから、組織の各所で出てきます。特に「文系」「理系」と分けたことで、理系を選んだ人たちに、「歴史」をパスしてきた人が多くいると予想され、その人たちが、技術系の組織のリーダー格に就き始めています。「歴史」を素通りしてきた彼らは果して5年10年先の将来を見ることが出来るかどうか。
「将来に関する予言者の最善なるものは過去である」というのはバイロンの言葉です。
将来も、過去と同じように、それは人間が作るものだから。
第11条 解説
重職たるものは、心を大きく寛大であることが望まれます。普段は時計の時針のようにゆったりと動けばいい。物事の緩急先後を心得ていれば、それほど難しいものでは有りません。所が、職務に自信が持てないときは、秒針のように動いてしまい、些細なことにも、つい大仰に騒ぎ立て、自らの存在を際立たせようという振舞いに出るものです。
本人はそれ程意識はしていないのかも知れませんが、普段から焦りの気持ちがあると、つい無意識に強圧的に反応してしまうものです。たとえ事業に必要な能力は持ち合わせていても、これでは誰も付いてきません。重職ひとりが孤立しては、何も成果をあげることは出来ません。
組織は人の集まりです。人が10人も集まれば、何かと衝突したりするものですが、重職の器量が不足している組織ほど、部下も詰らないことで衝突するものです。ちょっとした行き違いや勘違い、焦りが人の心を尖らせてしまいます。そうして振り上げた矛を収め易くしてあげないと、一度、声を荒げると収まりが付かなくなり、本心ではなかったにも関わらず、その通りに振る舞わざるをえなくなります。所謂、自分で自分を追い込んでしまうということになるのですが、組織は、こういうことの繰り返しで、次第に居心地が悪くなってしまいます。
「人を容る丶気象」とは、許す範囲を持っているということであり、それは「人」が分かっていてはじめて出来ることでも有ります(「気象」とは気性や気質のことであって、天候の気象では有りません。)。また、「物を蓄る器量」とは、色々なケースに対して対応できる知識や知恵を持ちあわせているということです。
「人」が分かっていれば、部下の行動が本心か発作的なものか判断がつきます。そうすれば問題の本質も分かり、矛の収め所が分かるものです。大事なことは明日には、昨日の台風が思い出せないような晴天であることです。
初めから失敗しようと思って仕事をしている人はいないのです。しかしながら、初めから成功するとは思っていないで仕事をしている人は居ます。重職は、これが何に因るものか、知る(気付いている)必要があります。
はっきりしていることは、ここで言うような器量は、技術書を読んでいるだけでは身に付かないということです。人を知るための書を読むこと、しかも「静独」の状態で、現実の世界と行き来しながら思索を深めることです。ただし書物の中に逃げ込んでも意味は有りません。
President という言葉は<pre>と<sedeo>の合成で、<前に><座っている>という意味をもっているということです。つまり社長は社員の前に座って、これから進もうとする方向を見据えているのです。これは社長に限ったことではありません。重職はすべて「リーダー」であり、部下の前に居なければなりません。
<前に座る>ということは、社員と向き合っているのではなく、社員に背中を見せるということです(実際の机の配置は、これと全く逆ですね)。人間、正面を向いているのであれば、顔の表情や手振りを使ったりして取り繕うことが出来ますが、背中は取り繕えません。女優の田中絹代の言葉に「映画の演技の中で、一番難しくて、また味があるのは、カメラに背中を向けての芝居です」というのがあります。
重職たるもの、これくらいの器量と覚悟が欲しいものです。
第12条 解説
この項も、とても重要な内容を含んでいます。
重職ともなれば、事業の方針や考えにそれなりにしっかりした考えを持っているはずです。それを確信するがゆえに、色々な施策や実施案が産み出されるわけですが、それでも事態の変化の早さや、予想を超えた動きも有りえます。思い入れが過ぎて判断を間違えることもあるでしょう。したがって、少しでも成功の可能性を高め、失敗の危険を減らす工夫は怠るわけには行きません。
そのためには、心にわだかまりのない状態、すなわち先入観(=先入主)を持たずに人の意見を聞き、もし、間違っていると思ったときは、さっさと方針転換する勇気が必要です。たとえ、自分がその旗を振った場合であっても、沛然と転化できなければこれからの重職は勤まらないでしょう。もちろんそこでは判断ミスに関する責任問題が発生するとしても、それを隠すことによって傷が広がることの方が深刻な事態を招くことになります。そこに躊躇が入るようでは、重職は勤まらないのです。
大和銀行のアメリカ支店で起きた為替取引の大穴を、10年ものあいだ隠したことによる制裁として、大和銀行は米国から追放されました。住友商事の銅取引の不正では、結局3000億円もの巨額な損失を計上することになり、当時の社長は株主から2000億円もの損害賠償訴訟を起こされています。野村証券も、今は総会屋の親族に供与した分として7,000万円の訴訟が出されているだけですが、このあと、取引停止の制裁によって減収額が確定した段階で、旧経営陣に対して相当な額の株主訴訟が起こされるでしょう。
これらの現実は、重職たるもの、これからは間違いに気付いたとき、沛然と転化する勇気と度量が必要であることを物語っています。
沛然と転化した人物の例を一つ紹介します。
大正12年、時の海軍大臣の任にあった八代六郎大将が、『王陽明の研究』という書について、著者の安岡正篤氏と論争しました。八代氏も王陽明に関しては一家言ある人物だったらしく、簡単には後ろに引きません。夕方から始まって深夜を過ぎても決着せず、結局その場は、八代夫人が夫の健康を気づかって仲裁に入り、水入りとなりました。
一週間後、八代氏は羽織袴で正装して安岡氏を訪ね、弟子入りを申し入れたのです。時に八代氏63歳、安岡氏26歳。歳は関係ないといっても、この凄まじさには身震いします。
普通の人なら、負けたと分かっても、相手は26歳の若造です。おそらく無視することでしょう。当座はそれで済むでしょうから。だが、世間は狭いもので、それでは何時も隠れていなければならない。八代大将の優れたところは、自らの主張に誤りがあったと判ったとき、沛然と転化する勇気をもっていたことです。
第13条 解説
この項は、少しばかり時代に合わなくなっている部分が有るかも知れませんが、それでも“抑揚”が必要であることは事業においても言えることです。何時もいつも叱咤激励ばかりやっていては、そのうちに利かなくなります。
弓も、射る瞬間だけ強く引くと言います。ず~っと強く引き続けていては、弦が鈍ってしまい、肝心なときに強く射ることが出来ないのです。組織もそれと同じで、揚げるところと抑えるところを使い分けなければなりません。
もし、ここを怠ると、“働いている”という気持ちよりも、“働かされている”という気持ちの方が強くなり、従業員は重職を信用しなくなります。
逆に、弛めることが出来ないのは、重職が有司をはじめ、従業員を信頼していないからかも知れません。「信頼」は、片方向では成立しません。
第14条 解説
本書は元々政事の世界について書かれていますが、事業でも大筋は同じです。実際、“事業”といえば何かを“する”ことという意識が強く、ついやらなくてもいいことまでもやってしまいます。
氾濫の不安のない川に堰をつくってみたり、減反政策で干拓地の需要もないのに干潟を埋めてしまったり、そんなところに“農道空港”など作っても採算が合わないというのに、税金をつぎ込んで「事業」を行おうとする。大規模ニュータウンも、50年後の展望をいい加減にしたため、30年も経たないうちに廃虚の町に化そうとしている。
重職になったからといって力んでも始まらない。力めば力むほど繕い事をしてしまう。
私たちは皆、生かされています。重職もいろんな人も生かされて、今その職にあるのです。生かされて生きるということは、自分を無にして他のために何かを通じて己を尽くすことです。自分が今、重職の役にあるのなら、その理由を静かに考えることです。その時代に、自分に期待されているものは何かを聞いてみることです。
チンギス・ハンの宰相であった耶律楚材の言葉に「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事を減らすにしかず」という有名な言葉が有ります。何か、新しいことをする前に、不要な事業、不要な組織を無くす方がよいというのです。まさに行政改革の神髄がここにあるのです。
このことは事業でも同じで、売上を伸ばすために根拠のない分野に進出するよりも、時代に合わなくなった事業を切り離し、経営効率を高める方が重要な場合もあります。
GEのジャック・ウェルチがCEOに就任して数年後に、世界が唖然とするようなリストラをやりました。しかも事業ごとのリストラです。ご存知のように、GEという会社はエジソンの発明とともに歩んできた会社です。エジソンの発明を商品にしてきた総合電気メーカーです。そのGEが、照明とエアコンと大型冷蔵庫の事業を除く全ての家電事業を、21世紀に扱うべき事業ではないという理由で工場ごと切り離してしまいました。
これなどは、まさに「一事を生やすは一事を減らすにしかず」を地で行ったようなものです。それにも関わらず、GEの収益は落ちるどころか増えていったのです。
意外に、やらなくてもいい事業をやっているのではないか、という気がします。特に、かってその事業を始めた重職が残っていたりすると、なかなか撤退することが出来ずに、撤収の機会を逃してしまうということも多々あるようです。
老臣の役は、豊かな経験を活かしてチェックすることであり監査です。それが若い重職と一緒になって、虚政に身をやつしてはならないというのですが、意外と多いのではないかと思われます。
第15条 解説
「組織は上から腐るもの」―これは昔から言われていることですが、最近の動燃の度重なる失態に対して新聞などのマスコミにも現れました。学校なども校長が代わっただけで、学校全体が変わってしまいます。残念ながら、最近の公立学校の校長は、大過なく定年を迎えることに気を取られ過ぎているのか、それとも、校長としての「器」の問題なのか、教師職員に対してほとんど影響力を見せないようです。教師職員も「校長」をただの「管理職」の長としか見ていないのかもしれません。
部下を疑い、そこでのやり取りが気になり、色々と手を回してそのやり取りの一部始終を聞き出す。最初から疑っているものだから、それを裏付けるものが見つかるまで止めない。このような組織においては、メンバーが融和していないため、或る人を良く思わない人は必ずいるもので、その人に当たれば、疑いを実証する「事実」は直に手に入ります。ただし、この場合、片側からの「事実」です。
しかも、上がこの調子なら、下もまた同じように人を疑い蔭事をあばこうとする。だからその種の情報は非常に早く上に伝わる。下にいる人は、上の人が何を期待しているかを知っているからです。それは、子供は、特に言わなくても親の期待するところを知っているのと同じです。どういう行動に喜び、どういう行動に怒るか、ちゃんと知っているのです。だから物分かりのいい子供は、実際は我慢していて非常に疲れていることもあるのですが、意外と親の方は、そのことに気付いていないで、ただ“いい子”としか感じていない。
このような状況にあっては、いわゆる「本音と建前」の問題が発生するわけです。確かにこの種の問題を完全に無くすことは出来ないかも知れませんが、かと言って、それが当たり前のように居直られても困ります。しかもこのような風儀をもつ組織では、話す場や相手によって、本音と建前を使い分けてきます。こうなると何が主で何が従か見分けるのが難しくなり、事業を進めていくにも支障を来すようになります。
動燃の度重なる隠蔽問題も、そうすれば上司が喜ぶことを知っているのです。いや、少なくとも、これまでそれで良かったのです。ところが時代が変わって、それが通用しなくなると、上司は掌を返し、そのことに部下は混乱し、判断の規準を失ったのです。
部下が、本音と建前の両面を使ってくるというのは、重職の判断、行動が公平さを欠いているとこに対する抵抗の姿でもあることを知って、そこから改めなければ、この種の「風」は変わらないでしょう。
第16条 解説
これは今風に言えば「情報公開」です。最近は役所も情報公開に動きだしているとはいえ、それは「食糧費」という全体からみればほんの一部に過ぎません。工事の認可や産廃処理場の認可など、認可行政に関する部分は、殆ど公開されていません。一体誰のための行政なのか分からなくなってしまいます。税金を払って、隠されたのでは割に合いません。
一般の企業も、公開すべきこと、あるいは公開しても構わないことを、株主や従業員などにもっと知らせるべきでしょう。これまで、この国は隠し過ぎましたが、これからは会社の決算書に付ける「特記事項」に“問題なし”と書いて、1年以内に行き詰まるようだと、会計監査人が株主から訴えられるでしょう。もっとも、実際には“投資不適格”とは書けないでしょうから、監査人を降りるという形になるでしょう。それでも結果として決算書が出せないことになり、同じような効果は得られると思われます。
自分の居る会社や組織がどのような状態になっているのか。自分の働きが、組織にどのような結果をもたらしたのか。他に、誰がどのような仕事をしているのか、といったことも知らされると良いでしょう。それによって新しい道を見出すかも知れません。
重職は、従業員に“もっと頑張って欲しい”という前に、これからは、必要な情報、有効な情報を知らせることも重要になってきます。
隠されれば、尚更知りたくなるものです。そのとき、知る方法がなければ悪いほうに想像心を掻き立てられるのです。必要以上に隠すときには、それまでの施策に自信がないことが多いものです。
「市場原理」はこの隠蔽を嫌います。隠されている間、勝手に想像し、“思惑”で市場は動いてしまいます。ジャパン・プレミアムの問題も、問題の銀行の始末の道筋が明確になったことで収まってきました。この「市場性」は、何も株式市場などの市場に限ったことではありません。「市場性」を求める人が増えたから、株式市場が反応し、迅速な行動を促したのです。当然、この「市場性」を求める声は、他の場面にも顔を現わします。
原発問題や、産廃施設問題に関連しての住民投票の要求の動き、あるいは市民オンブズマンや、有司の人たちによる地方自治体の「食糧費」の公開請求の動きなども、「市場性」を求める人々の動きに支えられたもので、これは一つの「大勢」です。
第17条 解説
組織の変更や人事の移動などがおこなわれる目的の一つが「人心を一新」することにあります。もちろん、人心の一新は、必ず人事の移動を伴わなければならない訳ではありません。会社の理念や施策を変えることによっても実現できますが、実際問題として、その場合、昨日までの方針や施策を反省し、新しい方針を打ち出すわけですから、当然、重職はじめ関係者の考え方が変わっていなければなりません。
時には、昨日までと全く違うことを言わなければならないわけですから、重職ともなれば、その立場からメンツが邪魔をしてしまいます。そうなると、今までの方針や施策も間違っていないけれども、などと正当化しようという行動に出てしまい、却って事態を悪くします。
国の組閣の際にも「人心一新を図って・・」という言葉が使われますが、よく聞いてみると、そこで使われている一新したい「人心」とは、自分たちのことであって、国民のことではありません。つまり、“順番を待っている人もいるので”ここらで「顔ぶれを一新して・・」という意味で使われているようです。本来、この「人心」というのは国民であり、企業であれば、社員、従業員の「心」のことです。
人心を一新するために、今までの事を反省し、新しいルールや新しい刑償の基準を明らかにし、そのうえで、自分たちの向かう目標を設定し、しかも、そこに向かうための取り組みも分かりやすく示すのです。従業員の気持ちを一新して、“今度は今までと違うようだ”“さぁ、始めよう!”という気持ちにさせることが、「人心を一新」することです。
特に、「刑償」に関しては明快な基準が公になっていることが重要です。そうでなければ、何事に於いても不公平に見えてしまうものです。自分が報償を受ける場合は気にならなくとも、そうでない場合は、彼我の「差」がどこにあるのか、なかなか見えないものです(というより、差はないと思っているから見えないのですが・・・)。その結果、人心を昂揚させるための報償制度が逆目に出てしまうことがあります。
また、企業の財政が逼迫しているからといって、手当たり次第に“ムダ”と思しきものを剥ぎ落とし、ただただ細かいことばかり言っていたのでは、そこにいる人たちは自分の足元ばかり気にするようになり、誰も顔を上げて「明日」を見る余裕を失ってしまいます。
ムダを省くことばかりに気を取られるのではなく、同時に“発揚歓欣”することを考えなければ、組織をスリム化したつもりが、明日の道筋を細らせてしまうことになります。いわゆる“リストラ”の難しいところで、何を締め、何を弛める(拡げる)か、まさに重職の器量が問われる場面です。ここを間違えれば「人心一新」とは180度逆方向になってしまいます。
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