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(国立国会図書館) 〇 言志録・言志後録・言志晩録・言志耋録. 言志録 佐藤一斎 著 (文魁堂, 1898)
(原文)〇言志録〇言志後録〇言志晩録〇言志耋録
(検索) ◎言志四録 、◎言志四録 全文 、〇佐藤一斎「言志四禄」総目次(引用文献)

   佐藤一斎 (げん)()耋録 (てつろく)(先生80歳に起稿し二年間)






   

【言志四録を読む前に】01而学の説 02佐藤一斎先生の偉さ 03佐藤一斎学について 04語録の学「論語と儒学」 05仏教の語録の学 06語録の学「無門関」 07言志四録起草について 08愛日楼について 09言志四録への思い

日本人の先祖が書いた修養本を読むべく、多くの人が賞賛する言志四録、著者の年齢に応じて4録ある
1)42歳~=言志録
2)57歳~約10年間=言志後録
3)67歳~78歳=言志晩録
4)80歳時起稿~2年間=言志耋録(てつろく)

全編にわたり、それぞれの年齢に応じた内容、本録は80歳時寄稿したもの

(4)言志耋録、80歳になった一息の存する学廃すべきに非ず。単記して編を成す。呼びて耋録と曰う。
〇欲を無くするのが修養の第一
〇幸せを望むな、禍無ければそれが幸せに;栄誉を望むな、恥をかかなければそれが栄誉だ。
〇青年の詩を評して蘇東坡は、100点!と言って、詳しく聞かれて「詩は40点、朗吟が60点、合わせて100点」と。
〇経験を積むことは生きた書物を読んでいるのと同じ。
〇真心から出た言葉が人を動かす。
〇家でも公私の区別をつけて、公のことはしゃべらないこと!
〇我が体は親の体!(だから、大事にしろ!)などなど。
〇臨終の時は外の事を考えてはならぬ。ひたすら、父母の大恩を感謝して目を閉じるだけである。これを終りを全うすと言う。    

目次   言志四録 目次 (川上正光全訳) 

   

目次   言志四録 目次 (久須本文雄全訳)




その30その31その32その33その34その35その36その37その38その39その40その41


 佐藤一斎 「言志耋禄」 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)(げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

言志耋禄 
1.  
学は一、
等に三

学は一なり。
而れども(とう)に三有り。
初には(ぶん)を学び、次には(こう)を学び、終には(しん)を学ぶ。
然るに初の文を学ばんと欲する、既に吾が心に在れば、則ち終の心を学ぶは、(すなわ)ち是れ学の熟せるなり。
三有りて而も三無し。

岫雲斎
学問の道は一つである。然し、これを学ぶ段階は三つある。初めは古人の文章を学び、次ぎは古人の行為を学び己れの行為を反省する。最後は、古人の、深い真の精神を学ぶのだ。然し、よく考えてみると、当初の古人の文を学ぼうと志したのは自分の心に起こったことである。最後の古人の真の精神を学ぶというのは、自分の志した学問が成熟した証拠である。だから、学問に三段階があると言っても、本来、個々に独立したものではなく、終始一貫して、心で心の学問をするということなのである。

2.数に三あり


注 
教化(きょうげ)
 道徳的に感化すること。徳を以て善導することを化導と言う。西洋には無いらしい。


(おしえ)に三等有り。(しん)(きょう)()なり。(きゅう)(きょう)(せき)なり。(げん)(きょう)は則ち言に資す。孔子曰く、「予言う無からんと欲す」と。蓋し心教を以て(しょう)と為すなり。

岫雲斎
教えには三つの段階がある。第一の心教は、師により自然に教化(きょうげ)すること。第二の(きゅう)(きょう)は、師の行為の跡を真似させる教えである。第三の言教は、師が言葉で説き諭し導く教えである。孔子は「自分は言葉で説き諭すことはしないようにしたい」と云われた。思うに、この事は心教を最も貴い教えとしたものと思われる。

3.
経書を読むは我が心を読むなり

経書を読むは、則ち我が心を読むなり。認めて外物(がいぶつ)()すこと勿れ。我が心を読むは即ち天を読むなり。認めて人心と做すこと勿れ。

岫雲斎
聖賢の書を読むと言うことは、実は自分の本心を読むことである。決して本心以外のものと見てはいけない。自分の心を読むことは、天地宇宙の真理を読むことである。決して他人の心の事だなどと思ってはいけない。

4.
漢唐の註と宋賢の註
漢唐の経を註するは、註即ち註なり。
宋賢の経を註するは、註も亦経なり。
読者宜しく精究すべき所なり。
但だ註文に過泥(かでい)すれば、則ち又(けい)()に於て自得無し。
学者知らざる可らず。

岫雲斎
漢や唐の時代の聖賢の書に註を加えたものは、解釈一点張りの文字の註で何らの権威は認められぬ。宋に入り、程子(ていし)や朱子が経書に註釈したものは、註そのものが経書なみの権威があり、それを読む人は註をも詳しく究めねばならない。然し、そうだからと云って、註の文字に拘り過ぎると経書の本旨を取り損ない自得ができない。経書の本旨を見るとは、自らの心でこれを会得する所がなくてはならぬ。この事は経書を学ぶ者はよくよく知らねばならぬ。

5.
宋学の宗
宋学は周子(しゅうし)を以て鼻祖(びそ)と為す。而るに世に宋学と称する者、徒らに四五の集註を講ずるのみ、余(おも)う、「周子の図説、通書は、宋学の宗なり」と。学者宜しく経書と一様に之を精究すべし。

岫雲斎
宋の学問は周濂渓(しゅうれんけい)を元祖とする。然るに世間の宋学者と言われる者は、ただ四、五冊の朱子の集註本を講義するだけですましている。自分は「周子の「太極図説」や「通書」は宋学の大本である」と思う。学問をする者はこれらの書物を経書と同様に詳しく研究すべきである。

6.
周程の書を環読
余、恒に(しゅう)(てい)の遺書を環読(かんどく)す。宋の周程有るは、()(もう)(あい)()ぐ。今の学者は、(いたずら)に朱子の訓註のみを読みて、淵源の()る所にくらし。可ならざらんや。

岫雲斎
自分は常に周程の遺した書物を代わる代わる読んでいる。宋の時代に周子と程子のある事は、子思や孟子に相ついだようなものだ。即ち孔子の学は子思や孟子を経て周子、程子に相ついだということである。今の学者は徒らに朱子の注釈のみ読んで、その拠って来たる大本である周子や程子に暗い。

7.朱子礼讃 その一

朱文公は、()と古今絶類の大家たるに論無し。其の経註に於けるも、漢唐以来絶えて一人の拮抗(きっこう)する者無し。()だ是れのみにあらず。北宋に文章を以て(あらわ)るる者、欧蘇(おうそ)に及ぶ()し。其の集各々一百有余巻にして、(こん)古比類(こひるい)(まれ)なり。朱子は文を以て著称せられずと雖も、而も其の集も亦一百有余巻にして、体製別に自ら一家を成し、能く其の言わんと欲する所を言うて、而も余蘊(ようん)無し。真に是れ古今独歩と為す。詩も亦()(りゅう)(あい)()ぐ。但だ経学を以て(ぶん)()(おお)わる。人其の能文たるを省せざるのみ。

岫雲斎
宋の朱熹(しゅき)は古今に類のない大家である。経書の註釈に於いても漢唐この方拮抗する人間はいない。こればかりではない、北宋では名文家の欧陽修や蘇東坡(そとうば)に及ぶものはいない。その文集は各々一百有余巻あり古今比類稀である。朱子は文章の点ではそれ程著名ではないが文集は一百巻あり作風も自ら一家をなしており余す所はない。真に古今独歩の作風の観がある。また、その詩も唐の韋応物(いおうぶつ)や柳宗元などにつぐものである。ただ朱子は経学が非常に優れている為、その文章や詩の良さが覆い隠されてしまっている。こんな訳で世の人々は朱子が能文であることに目を留めないのである。

8.
朱子礼讃 
その二
朱文公、易に於ては古易に復し、詩に於ては小序を(けず)る。()と巨眼なり。其の最も功有る者は、四書の目を創定せるに在り。()()れ万世不易の称なり。

岫雲斎
朱子は易経については、費氏の古易を復活し、詩経については小序を削除した。これらは実に経を見る上での大見識であった。最も大きな功績は大学、中庸、論語、孟子を四書の要として創めたことである。これは永遠に賞賛される。

9.
四書の編次に妙あり
四書の編次には、自然の妙有り。大学は春の如し。次第に発生す。論語は夏の如し。万物、繁茂す。孟子は秋の如し。実功、(ほか)(あら)わる。中庸は冬の如し。生気、内に蓄えらる。

岫雲斎
四書の編述の順序を見ると天地自然の妙味がある。大学は恰も春のように次第に修身(しゅうしん)斉家(さいか)治国(ちこく)(へい)天下(てんか)と発展してゆく。論語は夏のように様々の弟子に対し色々な問題を教えているから恰も万物が繁茂している状態である。孟子は秋になると実を結ぶように実際の功績を外に表している。中庸は冬のようで儒教の哲理を説き満々たる生気を内臓している。

10.
天道と地道を合せて人をなす
(おもんばか)らずして知る者は、天道なり。学ばずして能くする者は、地道なり。天地を併せて此の人を成す。畢竟(ひっきょう)()れを逃るる能わず。孟子に至りて始めて之れを発す。七篇の(よう)(ここ)に在り。

岫雲斎
孟子に「人に学ばずして能くする者は良能なり。慮らずして知る所のものは良知なり」とある。このように別に思慮なくして知る所のものは孟子の所謂、良知であり天道である。学ばないでも自然に能くする者は良能である。この天道と地道が合体して人間が形成される。だから人間にはどうしても、この天道と地道から逃れられない。孟子に至りこの点が初めて明快にされた。孟子七篇の根本はここにあるのだ。

11.
無能の知と無知の能
無能の知は、是れ瞑想にして、無知の能は是れ妄動なり。学者宜しく仮景(かけい)を認めて、以て真景(しんけい)()すこと(なか)るべし。

岫雲斎
実行なくしてただ知るだけでは妄想、智慧は無いのに行うのは妄動。学問をする者は心眼を開いて仮の有様を見て、これを本物だと思ってはならぬ。

12.知と能 君に(つか)えて忠ならざるは、孝に非ず。戦陣に勇無きは孝に非ず。是れ知なり。()く忠、能く勇なれば、則ち()れ之れを致すなり。(すなわ)ち是れ能なり。

岫雲斎
礼記に「君に仕えて忠ならざるは孝に非ず。戦陣に勇なきは孝に非ず」とあるが、これのみでは単なる知識である。更に進んで、よく忠に、よく勇に、これを実行することこそ、(のう)即ち(ぎょう)であり「知行(ちこう)合一(ごういつ)」である。

13.
古の学者と今の学者
古の学者は、能く人を容る。
人を容るる能わざる者は、識量浅狭なり。是れを小人と為す。今の学者は見解、累を為して、人を容るる能わず。常人には則ち見解無し。(かえ)りて能く人を容る。何ぞ其れ倒置(とうち)すること(しか)るか。

岫雲斎
昔の学者は度量が大きくてよく人を包容した。人を包容することの出来ない人は見識も浅く度量も狭い。これを小人という。今の学者は特定の考え方に囚われてそれが災いとなり人を包容できないでいる。学問をしない普通の人は特定の考え方が無いから却ってよく人を受け入れる。今の学者と普通の人がまるで反対になっている。

14.
学問を始める時の心得
凡そ学を為すの初めは、必ず大人(たいじん)たらんと欲するの志を立てて、然る後に書を読む可きなり、然らざるして、徒らに(ぶん)(けん)を貧るのみならば、則ち或は恐る、(おごり)を長じ非を飾らんことを。()わゆる「(こう)に兵を仮し、(とう)(かて)を資するなり」、(うれ)()し。

岫雲斎
学問を始めるには、必ず立派な人物になろうとする志を立ててから書物を読まなくてはならぬ。
そうでなく、徒らに見聞を広め知識を増やすのみの学問をすると、その結果は傲慢な人間になったり、悪事を誤魔化す為になったりする心配がある。
こういうことであれば、「敵に武器を貸し、盗人に食物を与える」類いであり恐ろしいことだ。

15.
有字の書から無字の書へ

学を為すの初めは、(もと)より当に有字の書を読むべし。学を為すこと之れ熟すれば、則ち宜しく無字の書を読む可し。

岫雲斎
学問の当初は申すまでも無く書を読まねばならぬ。学問に成熟してくれば、文字のない書、則ち天地自然の理法、社会の実態、人情の機微などを直観と洞察で読み取らねばならぬ。

16.
源ある活水と源なき濁沼

源有るの活水は、浮萍(ふひょう)も自ら(ぎよ)く、源無き(だく)(しょう)は、(じゅん)(さい)も亦汚る。

岫雲斎
水源のある生々とした水は浮き草も清らかだ。
水源のない濁った沼ではじゅん菜までも汚れている。

17.
学に志す者の心得

学に志すの士は、当に自ら己を頼むべし。人の熱に()ること勿れ。淮南子(えなんじ)に曰わく、「火を乞うは、(すい)を取るに()かず。(きゅう)を寄するは、(せい)穿(うが)つに()かず」と。己れを頼むを謂うなり。

岫雲斎
学問に志して人格向上をしようと思う者は、頼むのは己自身であると覚悟しなくてはならぬ。
淮南子が言っている「他人の熱を頼りにするのでなく、自分で火打石を打ち火を出すのが宜しい。
他人の汲んだ水を当てにするより自分で井戸を掘るほうが宜しい」と。

18.
田の中の一粒も捨てるな

自家(じか)田中(でんちゅう)(いち)(ぞく)をば棄つること勿れ。隣人畝中(ほちゅう)の一(さい)をも摘むこと勿れ。

岫雲斎
自分の田でできた一粒の粟も無駄にしてはならぬ。
隣人の畑の一本の菜をも取ってはならぬ。

19.
この学は自己の為にす
此の学は己の為にす。(もと)より宜しく自得を尚ぶべし。(ばく)(ざつ)を以て粧飾(しょうしょく)()すこと勿れ。近時の学、殆ど謂わゆる他人の為に()衣裳(いしょう)を做すのみ。

岫雲斎
聖人を目指すこの学問は、自己の徳を成す為にするものであるから、もとより自ら道を体得することを尚ぶべきである。雑多な学問をして外面ょ飾り立てるようなことをしてはならない。近頃、学問をする者は、殆ど真の精神を忘れて他人のために嫁入り衣裳を作るようなことをしている。

20
.(かい)
(げき)()などの一字訓

(かい)の字、激の字、()の字は、好字面(こうじめん)に非ず。

然れども一志(いっし)を以て之れを(ひき)いれば、則ち皆善を為すの機なり。

自省せざる可けんや。

岫雲斎
(かい)(げき)()などの字は何れも好い字ではない。悔は過去の出来事を悔やむこと、激は心の調和を喪失したこと、懼は心が充実しておらず心が恐れ(おのの)くことである。然し、一たび志を樹てると、これを率いれば、みな善をない契機となるものだ。即ち志を立てて、これ等を見ると、悔の時は過去を改めて善への第一歩、激は発奮激励する意であり、懼の字は、これにより身を慎み善を為すきっかけとなるものである。このように活用方法があるのだから自ら反省しなければならぬ。


   佐藤一斎 「言志耋禄」その二 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

21.
悔の字
悔の字は、是れ善悪街頭(がいとう)の文字なり。君子は悔いて以て善に(うつ)り、小人は悔いて以て悪を()う。故に宜しく立志を以て之れを(ひき)いるべし。()因循(いんじゅん)の弊無からんのみ。

岫雲斎
悔という字は善と悪との分岐点にある文字である。
立派な人は悔いて善に移行し、つまらぬ人は悔いて自棄(やけ)になり悪を追うものである。

22.
立志の立の字
立志の立の字は、(じゅ)(りつ)標置(ひょうち)、不動の三義を兼ぬ。

岫雲斎
志を立てるの立の字は、真直ぐに立つの意味の(じゅ)(りつ)、目印を立て高く自らを持する意味の標置、そして確りと動かないの不動の三つの意義を兼ね備えておる。それは、志を真っ直ぐに立て、その志を目標にして不動の心を以て進まなければならぬ事である。

23.
立志の工夫
立志の工夫は、(すべか)らく(しゅう)()念頭(ねんとう)より、(こん)(きゃく)を起すべし。
恥ず可からざるを恥ずること勿れ。
恥ず可きを恥じざること勿れ。孟子謂う、「恥無きを之れ恥ずれば、恥無し」と。
(ここ)に於てか立つ。

岫雲斎
どう志を立てるかの思い巡らすには、自己の不善を恥じ、人の不善を憎むという心持から出発することだ。恥なくて良い事を恥じることはないが、恥なければならぬ事は恥なければならぬ。孟子は「自分の恥ずべき点を恥じないでいる事を恥とすれば恥はなくなる」と言った。このように厚顔無恥を恥として(にく)むことが分れば、これで志は立派に立ったということになる。

24.
私欲の制し難きは志の立たざるによる
私欲の制し難きは、志の立たざるに由る。志立てば真に是れ(こう)()に雪を点ずるなり。故に立志は徹上(てつじょう)徹下(てつげ)の工夫なり。

岫雲斎
自分の欲望を抑えられないのは志が確りとしていないからだ。立志が確立しておれば、欲望などは真っ赤に燃えている上の一片の雪みたいなもので忽ち消えてしまう。だから立志と言う事は、上は道理を究明することから、下は日常茶飯事まで上下総てに徹底するように工夫することだ。

25.
()()
の工夫は甚だ難し
志を持するの工夫は(はなは)(かた)し。吾れ往々にして事の意に(さから)うに()えば、(すなわ)暴怒(ぼうぬ)を免れず。是れ志を()する能わざるの病なり。自ら恥じ自ら(おそ)る、書して以て警と為す。

岫雲斎
志を曲げないで持続する工夫は大変難しい。自分は時折、意にならない場合に出会うと荒々しくなり怒りだしてしまう。これは志を持続できない病である。自らに恥じ恐れるものである。ここにこれを書いて戒めとする。

26.
修養上の四つの要点

立志は高明を要し、著力(ちゃくりょく)は切実を要し、工夫は精密を要し、()(ぼう)は遠大を要す。

岫雲斎
志を立てるには高く明快に、力のつけ所は実際に適切に、事に当たっては抜ける事なく緻密に、期する所は遠大であらねばならぬ。

27.
志は大、工夫は小
学者は志大にして、工夫は則ち皆小ならんことを要す。
小は事に於ては始と為り、物に於ては幾と為る。
易に云う「復は小にして物を(わきま)うけとは、()れなり。

岫雲斎
学問する者は其の志は大でなくてはならぬが、それを成し遂げる工夫は細事をゆるがせにしてはならぬ。小さい事も、兎角大きな物事の始めとなったり、契機になったりするものだ。易経に「(ふく)即ち悔い改めて正しきに(かえ)るとは過失の小さい時に、よく物事の道理を(わきま)え知ることにある」とあるのは上述の事を言ったものである。 

28.
学をなすの効
学を為すの効は、気質を変化するに在り。其の功は立志に外ならず。

岫雲斎
学問をすることによる効験は人間の気質を変えて良くすることに在る。それを実行し元気をなすものは立志に他ならない。

29.
均しくこれ人
均しく是れ人なり。
遊惰(ゆうだ)なれば則ち弱なり。
一旦困苦すれば則ち強と為る。
きょう()となれば則ち柔なり。
一旦激発すれはば則ち剛と為る。
気質の変化す可きこと此くの如し。

岫雲斎
誰でも人間である。然し、遊びなまけていると柔弱になる。人間は、一度困難と苦難を経験すすれば鍛えられて強くなる。心が満ち足りて楽をしていると人間は優柔となる。一旦激しく発奮すれば剛強になる。人間の気質の変化はこのようなものである。

30.
学による気質変化

曾晳(そうせき)の狂、夫子(ふうし)を得て之れを折中(せっちゅう)せざりせば、則ち(もう)(そう)()りけん。()()の勇、夫子を得て之れを折中せざりせば、則ち(はん)(いく)と為りけん。()(こう)の弁、夫子を得て之れを折中せざりせば、則ち蘇、張と為りけん。気質の変化とは、此の類を謂う。即ち学なり。

岫雲斎
曾晳(そうせき)の如く志のみ遠大で行いの伴わないのは、その師の孔子が程よくしてくれなかったら荘子のような風変わりの人物となったであろう。子路のような勇気ある者は孔子が程よくしてくれなかったら、昔の孟(はん)や夏育のような血気の勇者になったであろう。()(こう)の弁説も孔子が程よくしてくれなかったら、あの蘇進張儀のような権謀術数を弄する人物になったであろう。気質の変化はこのような類例を言う。これらは皆学問によるのだ。

31.(こん)(しん)暖飽(だんぼう)

困心衡慮(こんしんこうりょ)は、智慧を発揮し、暖飽(だんぼう)安逸(あんいつ)は思慮を埋没する。猶お之れ()(しゅ)は薬を成し、甘品(かんぴん)は毒を成すがごとし。

岫雲斎
心を苦しめ、思慮分別に悩んで初めて真の智慧が生まれるものだ。反対に、暖かい衣類で安らかに生活しておる時は思慮の力が埋没している。これは丁度、苦いものは薬、甘いものは毒となるようなものだ。

32.
得意と失意 
その一

得意の物件は(おそ)る可くして、喜ぶ可からず。
失意の物件は、慎む可くして、驚く可からず。

岫雲斎
平生に得意の事が多く失意の事が少なければ真剣に物事を考える事が無いから思慮分別の機会が少なくて実に不幸と言うべきである。反対に、得意のことが少なく失意の事ばかりだと、それを払うべく色々と思案し智慧が深まり幸いというべきかもしれない。

33           
得意と失意 
その二
得意の事多く、失意の事少なければ、其の人知慮を減ず。不幸と謂う可し。得意の事少なく、失意の事多ければ、其の人、知慮を長ず。幸と謂う可し。

岫雲斎
平生、得意のことが多く失意の事が少なければ、真剣に考えることが無いから思慮分別が足りなくなり不幸というべきである。反対に、得意の事が少なく失意のことが多ければ、不味いことを跳ね除けようと色々と思いを巡らすから智慧や思慮が増えてゆく。却って幸いといわねばならぬ。

34.
楽にも苦にも真と仮がある

楽の字に(しん)()有り。苦の字にも亦真仮有り。

岫雲斎
楽しみにも、苦しみにも本物とニセモノがある。

35.
我輩の楽処と孔顔の楽処

吾が輩、筆硯(ひっけん)の精良を以て、(たのしみ)と為し、山水の遊適を以て娯と為す。之れを常人の楽む所に比すれば、高きこと一著(いっちゃく)なりと謂う可し。然れども之れを(こう)(がん)楽処(らくしょ)(くら)ぶれば、()だに下ること数等なるのみならず。吾人(ごじん)(なんぞ)ぞ反省せざるや。

岫雲斎
自分は良質の筆や硯を用いる事を楽しみとしている。また、心の赴くままに山水を楽しんでいる。
これは普通の人々に比べたら数等優れていると言えよう。然し、孔子や顔回のそれと比べたら数等下るばかりではない。大いに反省しなくてはならぬ。
 

36.
学問をする二つの方法
学を為すには、自然有り。工夫有り。
自然は是れ順数にして、源よりして流る。
工夫は是れ逆数にして、麓よりして(てん)す。
(いただき)は則ち源の在る所、麓は則ち流の帰する所、難易有りと雖も、其の(きゅう)は一なり。

岫雲斎
精神修養の学問をするには自然的方法と工夫的方法の二つがある。自然的方法は、自然の道理に従うもので、例えば水源から流れ下る方法の如きものである。工夫的方法とは、逆に進む方法で、山の麓から山頂に登山するようなものである。山頂は水源のある所であり、麓は流れの帰する所で、難易の別はあるがその到達する究極の真理は一つである。

37.
学問をする心

学を為すには、人の之れを()うるを()たず。必ずや心に感興(かんきょう)する所有って之を為し、()持循(じじゅん)する所有って之れを執り、心に和楽する所有って之を成す。「詩に興り、礼に立ち、(がく)に成る」とは、此れを謂うなり。

岫雲斎
学問は他人から無理強いされてするものではない。自分の心に奮起するものがあって成すものである。
この心を持ち続けて学問を務め行い、楽しむというようになって初めて学業が成就するものだ。

38.
向上心
「予言うなからんと欲す」。欲すの字の内多少の工夫有り。「
士は賢を
ねが、賢は聖をねがい、聖は天をねがう」とは即ち此の一の欲の字なり。

岫雲斎
孔子は「私は今後何も言うまいと思う」と言った。この欲すの字には色々の工夫が必要。則ち、立派な人間は賢人になろうと欲し、賢人は聖人になろうと欲し、さらに聖人は天と一体になろうと欲す、というような具合で、これらはみな一つの「欲」の字即ち向上心のことである。

39.克己の工夫

気象を理会するは、便(すなわ)ち是れ克己の工夫なり。語黙動止(ごもくどうし)()べて(とっ)(こう)なるを要し、和平なるを要し、舒緩(じょかん)なるを要す。粗暴なること勿れ。激烈なること勿れ。急速なること勿れ。

岫雲斎
自分の気性を把握することが、即ち己に克つ工夫となる。語るのも、黙するのも、動くのも、総て丁寧に親切、穏やか、ゆるやかであることが肝要である。荒々しくしてはいけない。烈しいのはよくない。気ぜわしいのもよくないのである。

40.
真の己と仮の己

真の己れを以て仮の己れに克つは、天理なり。
身の我れを以て心の我れを害するは、人欲なり。
 

岫雲斎
自分には、真の自己と仮の自分とがある。真の自分を以て仮の自分に克つのは天の道理である。反対に、物質的に身体の欲望に動かされる自分を以て、精神的に生きようとする心の自分を害してゆくのは人欲である。

41.
人欲の起こる時と消ゆる時

人欲の起る時、身の熱湯に在るが如く、欲念消ゆる時、欲後の(せい)(かい)なるが如し。

岫雲斎
人間の欲望の起きた時は、熱湯の中にあるようで、もがきにもがいて欲しいものを得ようえとする。欲心が去ってしまうと、入浴して出た時のように心が綺麗さっぱりとして心地よいものである。

42.
飲食欲

人欲の(うち)、飲食を以て尤も(はなはだ)しと為す。賎役庶(せんえきしょ)()を観るに、(あい)(こう)に居り、襤褸(らんる)を衣る。唯に飲食に於ては、則ち()べて過分たり。得る所の銭賃(せんちん)は、之れを飲食に付し、(つね)(すなわ)ち衣を(てん)して以て酒食に()うるに至る。(いわん)()(かい)の人は、飲食尤も豊鮮たり。故に聖人は箪食瓢飲(たんしひょういん)を以て顔子(がんし)を称し、飲食を(うす)くするを以て大禹(たいう)を称せり。

岫雲斎
人間の欲望の中で飲食が最も酷いものだ。卑賤な労役をしている人々を観察していると、狭苦しい小路に住み、身にはボロをまといながらも飲食だけは分に過ぎたものを食べている。そして日々働いて得た賃金は飲食に使ってしまう。また、いつも自分の衣類を質屋に入れて酒とか肴の代に当てている。身分の高い人々の飲食はさらに豊富で新鮮なものだ。こんなわけだから、孔子は、非常に粗食に甘んじながら道を楽しんだ弟子の顔回を賞賛し、また自分の飲食を切り詰めて神様に供物を捧げた大禹(たいう)を賞賛したのである。飲食に対する欲望を抑制する事は容易でないのである。

43.
衣食住は欠くべからず

衣食住は欠く可からず。而して人欲も亦(ここ)に在り。又其の甚しき者は食なり。故に飲食を(うす)うするは尤も先務(せんむ)なり。

岫雲斎
衣食住の三つは生活の根本であり不可欠である。だから、人間の欲望の根源もここにある。中でも甚しいのは食である。この飲食を慎むことを一番先にやる必要性があるのだ。

44.
天地の気象

一息(いっそく)の間断無く、一刻の急忙無し。即ち是れ天地の気象なり。

岫雲斎
天地の気象の変化を観察すれば、一瞬も休むことなく、又いつ見ても慌しく動くこともない。(人間も大自然も一呼吸の中に在り。)

45.
理・気の説に関して

主宰より之れを理と謂い、流行より之れを気と謂う。主宰無ければ流行する能わず。流行して然る後其の主宰を見る。
二に非ざるなり。
学者(やや)もすれば分別に過ぎ、支離の病を免れず。

岫雲斎
宋儒の「理と気の説」に従うと、理は本体、そして気は運用である。万物は統べ司っているという前提から言えば理である。万物が成長し流行している現実から見ると気である。処が主宰が無ければ流行する事は出来ぬし、流行があるからこそ主宰を見ることが出来る。水があるから波あり、波があるから水を知る如きものである。この理と気は二つなのではない。だが、学者の中には、ややもすると分かち過ぎて離れ離れにみる癖のある者がいる。

46.
一旦豁然

一旦(いつたん)豁然(かつぜん)の四字、真に是れ海天(かいてん)(しゅ)(じつ)の景象なり。
認めて参禅(さんぜん)頓悟(とんご)(きょう)()すこと(なか)れ。

岫雲斎
一旦豁然の四字は、書物を読んで分らなかった事が、苦心に苦心を重ねて「分かった」と思った時、これが「一旦豁然」である。それは海上に朝日が昇った瞬間の如きである。これは学理上の問題が分かった時のことで、参禅をして、はっと悟るというようなものではない。

47.
心を養うべし

(およ)活物(いきもの)は養わざれば則ち死す。心は則ち我に在るの(いち)大活物(だいかつぶつ)なり。尤も以て養わざる可からず。之れを養うには奈何(いか)にせん。理義の外に別方(べっぽう)無きのみ。

岫雲斎
凡そ生命あるものは之を養わねば死ぬ。心は即ち各自保有の一大活物であるから最もよく養生せねばならぬ。その方法はどうか、それは唯、道理を明らかにして、各自の心をその道理に照らして見る外には別の方法は無い。

48.
喜怒哀楽二則 
その一
喜怒哀楽の四情、常人に在りては喜怒の発する十に六、七、哀楽の発する十に、三、四にして、過失も亦多く喜怒の辺に在り。(いまし)む可し。

岫雲斎
人間には喜怒哀楽の四情がある。通常の人間ならば、喜びや怒りの起こる事が十のうち六か七である。悲しみや楽しみは三か四である。このように喜怒の方が多いので過失や失敗も喜怒の時に多い。警戒しなくてはならぬ。

49.
喜怒哀楽二則 
その二

()()は猶お春のごとし。心の本領なり。怒気(どき)は猶お夏のごとし。心の変動なり。(あい)()は猶お秋のごとし。心の収斂(しゅうれん)なり。(らく)()は猶お冬のごとし。心の自得なり。自得は又喜気の春に復す。

岫雲斎
喜びは春のようなもので心の本来の姿と言える。怒りは夏で心の変動した姿である。哀みは秋で、心の引き締まった姿である。楽しみは冬のようなもので、自らの内なる姿であろう。この自得の姿が再び喜びの春へと復って行くのである。

50.
霊光は真我
端坐して内省し、心の工夫を做すには、宜しく先ず自ら其の主宰を認むべきなり。

省する者は我れか。心は()と我れにして、()も亦我れなるに、此の言を為す者は果して誰か。

()れを之れ自省と謂う。

自省の極は、(すなわ)ち霊光の真の我れたるを見る。

岫雲斎
きちんと座り、内心を省み、心の修養をするには、先ず自ら自己の本体を認識しなくてはならぬ。「内省する者が自己であるか、それとも、内省されるものが自己なのか。心は元々自己であり、肉体もまた自己である。それなのに、この言葉を発する主体は果して誰なのか。」こうやるのが自己反省ということなのである。このような自己反省の窮極は、霊妙な良心の光が真の自己であると知るに至るのである。


 佐藤一斎 「言志耋禄」その三 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

51.
幼い時は本心なり

人は童子たる時、全然たる本心なり。(やや)長ずるに及びて、私心(やや)生ず。既に成立すれば、則ち更に世習を夾帯(ちゅうたい)して、而して本心殆ど亡ぶ。故に此の学を為す者は、当に能く(ざん)(ぜん)として此の世習を?()り以て本心に復すべし。是れを要と為す。 

岫雲斎
人間は幼い時には完全なる真心を持っている。
やや成長すると私心が少しづつ起きてくる。一人前になれば。その上に更に世俗の習慣に慣れ馴染んで真心は殆ど消滅してしまう。
だから聖人の学を為す者は、キッパリとこの世俗の習慣を振り払い真心に復帰すべきである。この事が最も肝要である。
52
.知行(ちこう)合一(ごういつ)
心につきて知と()う、知は即ち(こう)の知なり。身に()きて行と曰う。行は即ち知の行なり。(たと)えば猶お人語(じんご)を聞きて之れを了するがごとし。諾は口に就き、(がん)は身に就けども、等しく是れ(いち)(りょう)()なり。 

岫雲斎
心に就いては知と言う。その知は行わんが為の知である。
身体に関しては行と言う。その行は知る所のものを行うことである。例えば、人の言葉を聞いて了解する事である。この場合、口では「承知した」と言い、身体では「頷いてみせる」が、何れも了解したということである。

53.
身心合一
喜怒哀楽は、(たたち)に面貌に(あら)わる。形影(けいえい)一套(いっとう)、声響は同時、之れを身心合一と謂う。 

岫雲斎
喜・怒・哀・楽の四つの感情は直ちに顔色に現れる。それは形と影が一つのようなものであり、また、声と響きが同時に発せられるようなものだ。これを心と身が合一したものと言うのである。

54.
工夫と本体二則 
その一
()(せい)()れ一」とは、工夫の上に本体を説き、「声無く()無し」とは、本体の上に工夫を説く。 

岫雲斎
「書経」の「大禹謨」に「惟れ精惟れ一、(まこと)()の中を執れ」とある。この精一の工夫は、工夫とそれ自体が本体を明らかにするというものである。心の本体は、どんなものかと言うと「詩経」「大雅、文王」にある通りで「上天の(こと)は声もなく、()もなし」である。それは「声なく臭もなし」である。即ち「声なく臭なし」という本体の有り様は、同時に声をなくし、臭もなくす工夫につながるのである。

55.
工夫と本体二則 
その二
心無きに心有るは、工夫()れなり。

心有るに心無きは是れ本体是れなり。
 

岫雲斎
心の本体は無いように思われるが、否、本体は有るのだと追求し修養につ務めるのが工夫というものだ。反対に、心は有るとして追及して行くと無いという結論に達するのが本体である。有心、無心の二面を悟るのが達人ということ。

56.
道心と人心
知らずして知る者は道心なり。
知って知らざる者は人心なり。
 

岫雲斎
人間智に拠らずして道理を見通すのが道心。知っているようでその実、真相を会得しないのが人心。道心は本来の心で把握する。人心は欲に遮られ表面だけで、真相を把握できない。

57.
青天白日は我にあり
「心静にして(まさ)に能く白日(はくじつ)を知り、(まなこ)(あきらか)にして始めて青天(せいてん)()るを()す」とは、此れ(てい)(はく)氏の句なり。青天白日は、常に我に在り。宜しく之れを()(ゆう)に掲げ以て警戒と為すべし。 

岫雲斎
「心が静かな時に、輝く太陽の有難さを知り、眼が明らかな時に澄み渡った大空の爽快さを知る」とは程明氏の句である。

この句の通り、青天白日とは、常に自分自身にあるのであり自分の外に有るものではない。
これを座右に掲げて戒めの言葉とするがよい。

58.
人の生くるや直し
「人の生くるや(なお)し」。
当に自ら反りみて吾が心を以て(ちゅう)(きゃく)と為すべし。
 

岫雲斎
「人間が生きておられるのは正直であるからだ」。この言葉を存分に噛み締めて自己反省し、心を以て此の言葉の註とすべきである。
(論語「雍也篇」「人の生くるや直し。之をなくして生くるは、幸にして免るるなり」。正直でなくて生きておられるのは僥倖(ぎょうこう)に過ぎない。)

59.
事ある時と事なき時
事有る時、此の心の(ねい)(せい)なるは(かた)きに似て易く、事無き時、此の心の活発なるは、易きに似て(かた)し。 

岫雲斎
何か事件の起きた時は、心を静かに安らかに保つのは困難のようでそうではない。反対にも平穏無事の時の心はだらけてしまっており、これを活発化するのは容易なようで難しいものだ。

60.
気導いて体従う
気導いて体随い、心和して言(したが)わば、挙手(きょしゅ)投足(とうそく)も、礼楽に(あら)ざるは無し。 

岫雲斎
気持ちが先に立ち、体がこれに従い、心も和やかで、言葉もこれに従って温厚となれば総ての一挙手一投足は礼儀にかない音楽の基本に適うのである。

61.
よく身を養うもの
善く身を養う者は、常に病を病無きに治め、善く心を養う者は、常に欲無きに去る。 

岫雲斎
身体をよく養う人は常に病気を病気でない時に治めている。精神修養に心掛けている人は私欲の出る前にこれを払いのけてしまう。

62.
情の発するに緩急あり
情の発するには緩急有りて、忿(ふん)(よく)を尤も急と為す。忿(ふん)は猶お火の如し。(こら)さざれば将に自ら()けんとす。慾は猶お水のごとし。(ふさ)がざれば将に自ら溺れんとす。損の()の工夫、緊要なること此に在り。 

岫雲斎
人間の感情が発生する場合、緩やかなものと急なものとがある。最も急なものは怒りと情欲である。怒りは火のようなもので消さないと自分を焼いてしまう。情慾は洪水のようなものでせき止めないと自分が流されてしまう。易の卦の「損」の象伝には「山下に沢あるは損なり。君子以て忿を懲罰し、欲望を塞げ」とある。これが対策は緊急を要する。 

63.
忍と敏
忿(ふん)(こら)し慾を(ふさ)ぐ」には、一の(にん)()を重んず。「善に(うつ)()を改む」には、一の(びん)()を重んず。 

岫雲斎
易経にいう「忿(いかり)りを懲し、慾を塞ぐ」のに重要なのは、じっと我慢する「忍」の字である。また易経に言う「善に遷り、過を改むる」のに重要な事は素早くやる「敏」の字である。

64.
人には「悪を隠し、善を揚ぐ」
「悪を隠し善を()ぐ」。人に於ては()くの如くせよ。()れを己れに用うること勿れ。「善に(うつ)り過を改む」。己れに於ては此くの如くせよ。必ずしも諸れを人に責めざれ。 

岫雲斎
他人に対しては「その人の悪を隠し善を揚げる」のが一番良い。だが、これを自分に適用してはいけない。自分に対しては「善に移り、過を改む」ことでなくてはならぬが、これを他人に適用することは間違いである。

65.
聖賢の胸中
聖賢は胸中灑落(しゃらく)にして一点の汚穢(おわい)()けず。何の語か尤も能く之れを形容する。曰わく「江漢(こうかん)以て之れを(あら)い、(しゅう)(よう)以て之れを(さら)す。皓皓乎(こうこうこ)として(くわ)う可からざるのみ」と。此の語之れに近し。 

岫雲斎
聖人や賢人の胸中は、さっぱりしていて一点の汚れもない。それを良く表す言葉は「孟子」膝文公上篇にある、曽子が孔子の高潔な人格を賞賛した言葉である。それは「揚子江や漢水の清らかな水で洗い秋の日に晒した布のように、皓皓として潔白なことは何物にも勝ることはない」であるが、これこそ聖賢の胸の内を示す言葉に近い。 

66.
人心の霊

人心の霊なるは太陽の如く然り。但だ克伐怨(こくばつえん)(よく)(うん)()のごとく四塞(しそく)すれば、此の(れい)(いず)くにか在る。故に誠意の工夫は、雲霧を(はら)いて白日(はくじつ)を仰ぐより(せん)なるは()し。凡そ学を為すの要は、此れよりして(もとい)を起す。故に曰わく「誠は物の終始なり」と。 

岫雲斎
人間の心の霊妙な姿は太陽が照り輝いているようなものだ。ただ、人に勝つことをこのむ「克」、自分の功績を誇る「伐」、怨恨、貪欲の四つの悪徳が心の中に塞いでいると雲や霧が発生すると、太陽が見えなくなるように心霊が何処にあるか分らなくなる。だから誠意を以て向上に努めてこの雲霧を一掃し照り輝く太陽、即ち心の霊光を仰ぎみることが先決なのである。学問をする者は、これを基礎にして積み上げるべきである。だから中庸に、「一切は誠に始まり誠に終わる。誠は一切の根源であり、誠が無ければ、そこには何も無い」とある通りだ。

67.
霊光の体に充ちる時
霊光の体に充ちる時、細大の事物、遺落(らく)無く、遅疑(ちぎ)無し。 

岫雲斎
終始誠意を以て修養に務めていると心に霊光を識得して、やがてその霊光が体に満ち満ちて天地間の小さい事も大なる事も遺し落とすことなく、また遅れたり疑う事もなく処理されるようになる。

68.
窮められない道理は無い
窮む可からざるの理は無く、応ず可からざるの変無し。  

岫雲斎
天地間の様々な現象は、それらがどのような道理に起因しているのかを究め尽くせないということは無い。世の中の事は千変万化するが、それがどのように変化するとも応じられないと言う事は無い。

69.
天地間の活道理

能く変ず、故に変ずる無し。常に定まる、故に定る無し。天地間、()べて是れ活道理なり。 

岫雲斎
自然は常に変化してやまない。だから変化しておるとも見えない。常に不変のものは殊更に一定ということもない。天地の間のことは、このようなもの、これが大自然の活きた道理というものである。

70.
工夫と本体は一項に帰す
時として本体ならざる無く、処として工夫ならざる無し。工夫と本体とは、一(こう)に帰す。 

岫雲斎
大自然の本体の現れないものは無く、またその働きでないものもない。つまり工夫と本体とは一つである。

71.
事物の見聞は心でせよ
視るに目を以てすれば則ち暗く、視るに心を以てすれば則ち明なり。聴くに耳を以てすれば則ち惑い、聴くに心を以てすれば則ち聡なり。言動も亦同一理なり。 

岫雲斎
目や耳だけで事物の見聞をすれば事物の真相の正確な認識を欠く。事物、現象の本質を知るためには心を用いなくてはならぬ。言動の洞察に於いても同様な原理が必要。(「大学」伝之七章、「心ここにあらざれば視れども見えず。聴けども聞こえず。食えどもその味を知らず」)

72.
耳の役目、目の役目
耳の職は事を内に()れ、目の職は物を外に照らす。人の常語に聡明と()い、(ぶん)(けん)と曰う。耳の目に先だつこと知る可し。両者或は兼ぬることを得ずば、寧ろ()なりとも(ろう)なること勿れ。 

岫雲斎
耳の役割は外界の事柄を内に入れること、目の役目は事物を身の外において照合すること。聡明とは耳がさとく、目が明らかなことである。聞見とは耳で聞き、目で見ることだが、何れも耳が目より先である。もしも両者を兼ねることが不可能なら寧ろ耳の役目を重視する。

73.
真の聡明
能く疑似(ぎじ)を弁ずるを聡明と為す。事物の疑似は猶お弁ずべし。得失の擬似は弁じ難し。得失の擬似は猶お弁ず()し。心術の擬似は尤も弁じ難し。唯だ能く自ら霊光を(ひっさ)で以て之を反照(はんしょう)すれば、則ち外物(がいぶつ)も亦其の形を逃るる所無く、明明白白、自他一様なり、()れ之れを真の聡明と謂う。 

岫雲斎
疑わしいものをよく弁別するのを聡明と言う。事物の疑わしいものはまあ、弁別できるが、損得の疑わしいものは弁別しにくい。然し、損得の疑わしいものの弁別は何とかできる、だが尤も弁別の疑わしいものは心の働きの疑わしいものである。ただ自らの不思議な心の光を以てこれを照らしだせば、一切の外物も見逃すことなく明白に自他も一様に弁別可能。これを本当の聡明と言う。

74.
人は自分の本当の言行不一致を咎めない

寒暑(かんしょ)節候(せっこう)梢暦本(ややれきほん)差錯(ささく)すれば、人其の不順を訴う。我れの言行、(つね)に差錯する有れども、自ら咎むるを知らず。何ぞ其れ思わざるの甚しき。 

岫雲斎
暑さ寒さの季節と天候が少しでも暦と異なると人々は気候の不順を訴えて不平を言う。然し、自分の言葉と態度に関しては、常に食い違っていようとも、自分を反省し咎めることを知らない。何と甚だしく考えの無いことであろう。

75.
真の楽しみ
人は須らく快楽なるを要すべし。快楽は心に在りて事に在らず。 

岫雲斎
人間は誰でも心に楽しみを持たねばならぬ。楽しみというものは自分の心の持ち方の事であり心以外であってはならぬ。

76.
胸中清快なれば百事阻せず

(きょう)()(せい)(かい)なれば、則ち人事の百艱(ひゃくかん)も亦疎せず。 

岫雲斎
胸中が清明爽快なれば世間に起きるどんな困難も処理してゆける。

77.霊と気
二則 
その一

人心の霊なるは気を主とす。
「気は体の()てるなり」。凡そ事を為すに気を以て先導と為さば、則ち挙体失(きょたいしっ)()無し。技能工芸も亦皆是くの如し。
 

岫雲斎
人間の霊妙な働きは気を主体としている。「気というものは、肉体に充ちている」。事を為すのには、この気を先導すれば万事誤りはない。技能、工芸に関しても同様なことである。

78霊と気
二則 
その二
霊光に、障碍無くば、則ち気(すなわ)ち流動して()えず、四体軽きを覚えん。 

岫雲斎
心の本体である霊光を何ら遮るものが無ければ、気が体全体に流動して不活発になることはない。両手両足が軽くなるのを感じる。

79.
人の為の仕事と自分の為の仕事
事は()と自ら為に(はか)りて、而も(あと)の人の為にせしに似たる者之れ有り。戒めて之れを為すこと勿れ。固と人の為に謀りて、而も或は自ら為にせしかと疑わるる者之れ有り。(けん)を避けて為さざること勿れ。 

岫雲斎
元々は自分の為にした事が、その形跡から他人の為にしたように見えることがある。これはしてはならない。反対に元は他人の為にした事が或は自分の為にしたと疑われるものがある。疑われるからと言って、これをやめてはならない。

80.
天地清英の気

英気は是れ天地清英の気なり。聖人は之を内に(つつ)みて、()えて(これ)を外に(あら)わさず。賢者は則ち時時(じじ)之れを露わし、自余(じよ)の豪傑の士は、全然之れを露わす。若夫(もしそ)れ絶えて此の気無き者をば、鄙夫(ひふ)小人(しょうじん)と為す。(ろく)(ろく)として算うるに足らざる者のみ。 

岫雲斎
勝れた志気は天地間の英気である。
聖人は是れを内に包み隠して敢えて外に露わさない。
賢者はそれを時々露出する。
豪傑の士にいたっては全部この気を出してしまう。
もし、この気の全然無い者は卑しい人間であり数えるに足りない。

81.
歴史観
古今歴代の人気(じんき)、開国の時は、(かつ)(ぜん)として春の如く、(せい)()の時は、(うつ)(ぜん)として夏の如く、衰季は則ち(さつ)(ぜん)として秋の如く、乱離は則ち粛然として冬の如し。 

岫雲斎
古今を通じた歴史を考察する。開国へ向う時は、からりとした春のようであり、盛んなる時代は草木繁茂の夏の如しである。世が衰退して行く時は、秋に風が吹いて落葉を思わせ、国が乱れておる時は、当に冬の如く物寂しいものが窺われる。


佐藤一斎 「言志耋禄」その四 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

82.
天運と人事
大にして世運の盛衰、小にして人事の栄辱、古往(こおう)今来(こんらい)、皆旋転(せんてん)して移ること、猶お五星の(めぐ)るに、順有り、逆有り、以て太陽と相会するが如し。天運、人事は、数に同異無し。知らざる可からざるなり。 

岫雲斎
大にしては時勢の盛衰、小にしては人間の名誉不名誉、これらは何れも昔から皆ぐるぐる回っている。それは丁度、五星の運行が順なものや逆なものがあっても、結局は太陽と相会(あいかい)するようなものである。天運も人事も定めに異なることはない。知っておかなくてはならないことだ。

83.
天運、地道、人道
天道は変化無くして而も変化有り。
地道は変化有りて而も変化無し。
我れ両間に立ち、仰いで()、俯して察し、裁成して之れを()(そう)す。
(すなわ)ち是れ人道の変化にして、天地に参ずる所以なり。
 

岫雲斎
天道は変化がないようである。即ち日月星辰は常に変わりなくして昼夜の変化がある。地道は、変化があるようで変化しない。山川草木は常に変化しているようで四季繰り返して同じことをしている。人間はこの二つの間にあって、天を仰ぎ観察し、俯しては地理を観察して両者をうまく切り盛り、調整している。中庸の「天地の化育をたすけ、天地とみつなるべし」とある通りだ。これが人道の変化であり天地に参画する所以である。 

84.
天地間、配合の理あり
天地間の事物は、必ず配合の理有り。
極陽の者出ずる有れば、必ず極陰の者有りて来り配す。
人の物と皆然り。
 

岫雲斎
世の中の事物は、必ず釣合うものである。極端に陽気なものが出ると、必ず極端に陰気なものが現れる。人間についても物についても皆この理が支配している。

85.
風雨霜露は皆師なり
春風以て人を和し、雷霆(らいてい)以て人を警め(いまし)(そう)()を以て人を(しゅく)し、氷雪(ひょうせつ)以て人を(かた)うす。「風雨(ふうう)(そう)()も教に非ざる無し」とは、此の類を謂うなり。 

岫雲斎
そよそよと吹く春風は人の心を和らげる。雷鳴の轟きや、稲妻は人間の心を戒める。(しもや)(つゆ)は人間の心を引き締め、冷たい氷雪は人間の心を堅固にさせる。礼記に「風雪や(しもや)(つゆ)も教えでないものはない」とある通りだ。

86.
不易の易
古人、易の字を釈して不易と為す。
試に思えば悔朔(かいさく)は変ずれども而も昼夜は(かわ)らず。

寒暑は変ずれども而も四時は易らず。

死生は変ずれども而も生生は易らず。

古今は変ずれども、而も人心は易らず。

()()れを不易と謂う。
 

岫雲斎
古人(漢の鄭玄)は易を解釈して不易と言った。その意味は、静かに考えると日付は(つごも)()から(ついた)()へと変るが昼とか夜は変わらない。春夏秋冬は常に変らず繰り返される。死ぬとか生きるとは変るが、後から生まれて来ることは変らない。時間的に昔と現在は変っているが、人間の心は易わらない。蘇東坡「その変ずる側から見れば天地も一瞬なる能わずで、変じない側から見れば、物も我もみな無尽である」という次第で、これを不易の易というのだ。

87.
天地の呼吸と人生の呼吸
寒暑、栄枯は、天地の呼吸なり。
苦楽、栄辱は人生の呼吸なり。
即ち世界の活物たる所以なり。
  

岫雲斎
寒さ、暑さ、草木の繁茂や枯れは天地自然の呼吸である。
苦と楽、名誉、不名誉は人間社会人生の呼吸である。これは世界が活き物であることの証左である。
 

88.
本始に帰すれば災祥・弔賀なし

(さい)(しょう)は、是れ順逆の数、弔賀は是れ相待(そうたい)()、之れを本始(ほんし)に帰すれば、則ち弔賀も無く、叉災祥も無きのみ。 

岫雲斎
災と祥は順と逆の運命、弔と賀は相対の言葉。これらは差別相であるが、平等相に立って根源に帰って考えると、ことさらに(さい)(しょう)も弔賀もなく「万物一如」である。

89.
敬六則 その一
敬は(すべか)らく活敬を要すべし。騎馬馳突(きばちとつ)も亦敬なり。(わん)(きゅう)(かん)(かく)も亦敬なり。必ずしも跼蹐(きょくせき)畏縮(いしゅく)の態を做さず。 

岫雲斎
敬は活き活きと行動して発揮するものだ。馬に乗り突進することも敬である。弓を引き絞り敵の甲冑を射抜くのも敬である。必ずしも、天にに向い、背をかがめ、地に抜き足するように恐れ萎縮しているのを敬としない。

90.
敬六則 
その二
敬する時は、強健なるを覚ゆ。敬(ゆる)めば則ち萎?(いでつ)して(たん)()するを能わず 

岫雲斎
敬は心を緊張することだから、敬する時は、身体が強く健やかなことを覚える。敬の心が弛緩すると身体がしなび萎れてきちんと坐ることさえ出来ない。

91..
敬六則 
その三

(きょ)(けい)の功は、最も(しん)(どく)に在り。人有るを以て之れを敬しなば、則ち人無き時敬せざらん。人無き時、自ら敬すれば、則ち人有る時尤も敬す。故に古人の「屋漏(おくろう)にも()じず、闇室(あんしつ)をも(あざむ)かず」とは、皆慎独を謂うなり。 

岫雲斎
常に謹厳な態度を保つ工夫は独りでいる時でも道に背かない事が肝要。
人が居るからと云って慎むならば人がいない時には慎まないであろう。人が居ない時に自慎むなら人の居る時には尚お一層慎むであろう。
(
居敬は、身心を慎むこと。論語「敬に居て簡を行い、以てその民に臨まば、また可ならざらんや。大学「君子は必ずその独りを慎む。詩経「(なんじ)の室に在るを相るに尚屋漏に愧じず。) 

92..
敬六則 
その四

坦蕩蕩(たんとうとう)(かたち)は、(じょう)(せい)(せい)の敬より来り、常惺惺の敬は、活溌溌(かつぱつぱつ)の誠より出ず。 

岫雲斎
君子の容貌、姿態は坦然と平安であり、寛厚である。これは何によるのか。始終、心聡く落ち着いている敬に依拠している。その聡い敬は死物ではなく活き活きとした誠から出てくるものだ。(論語、述而篇、「君子は坦蕩蕩たり」。心が平らかで(ひろ)いこと。(じょう)(せい)(せい)、いつも心静かに落ち着いているさま。)

93.
敬六則 
その五

(ぼく)(じゅ)も腰を折れば、?(がん)せざるを得ず。(にゅう)(どう)も、手を(こまぬ)けば、亦(たわむ)()からず。君子、(きょう)(けい)を以て甲冑(かっちゅう)と為し、(そん)(じょう)を以て(かん)()と為さば、誰か敢えて非礼を以て之れに加えんや。故に曰く「人自ら侮って而る後に人之れを侮る」と。 

岫雲斎
牧場で働く子供でも、腰を屈めて敬礼されたら、(うなず)いて挨拶してやらねばなにぬ。乳飲み子でも手を(こまね)いて敬意を表せば、これまた、ふざけるわけにはゆかぬ。まして、立派な人が、(うやうや)しく敬する事で自分を守る(よろい)(かぶと)として(へりくだ)った心の楯とすれば、誰だって敢えて無礼、非礼をしないであろう。古人も「人は自ら侮るから後で侮られる」と云っている。

94.
敬六則 
その六

(けい)(やや)(ゆる)めば、則ち経営心起る。経営心起れば、則ち名利心(めいりしん)之れに従う。敬は(ゆる)む可からざるなり。 

岫雲斎
慎むの心が緩んでくると、企みの心が起きてくる。企みの心が起こってくると、名利に走ろうとする心が起きてくる。そうなると、道徳を害う危険があるから敬の心を緩めてはいけない。

95.
労と逸とは相関的

身労(しんろう)すれば則ち心(いっ)し、(しん)(いっ)すれば則ち心労す。 

岫雲斎
身体を働かすと心は安逸となる。身体を安逸にすると心は却って苦労する。労と逸とは相関関係にある。

96.
義二則 
その一
凡そ事を為すには、当に先ず其の義の如何を(はか)るべし。便宜を謀ること勿れ。便宜も亦義の中に在り。 

岫雲斎
総て、事をなすには、その事が道理に適っておるかどうかを考えなくてはならぬ。都合の良さを考えてはならぬ。都合の良さも道理が適うかどうかの中にあるのだ。 

97.
義二則 
その二
義は()なり。道義を以て(もと)と為す。
物に接するの義有り。時に臨むの義有り。(じょう)を守るの義有り。
変に応ずるの義有り。之れを()ぶる者は道義なり。
 

岫雲斎
物事の正しい道理を義という。この義は事の宜しきに適う意味の宜にも通じて、道理の義が本である。物事に対処するのに宜しきを得る義もあれば、また時に臨んで宜しきを得る義もある。平常を守り宜しきを得る義もあれば、変に応じて宜しきを得る義もある。これらの総てを統率するものを道理の義という。

98.
敬は動静を一串す
静坐の(うち)には、接物(せつぶつ)の工夫を忘るること勿れ。即ち是れ敬なり。接物の時は、静坐の意志を失うこと勿れ。亦是れ敬なり。唯だ敬は動静を一串(いっかん)す。 

岫雲斎
静かに坐わっている時でも、人に接し、物に接する工夫を忘れてはならぬ。これが静中の動敬である。また人に接し、物に接している時でも、静かに坐わっている時の思案を忘れてはならぬ。これが動中の静敬である。かかる如く、敬は動静の一つを貫いている。

99.
立誠と居敬

(りっ)(せい)(ちゅう)()に似たり。
是れ(たて)の工夫なり。
(きょ)(けい)棟梁(とうりょう)に似たり。
是れ横の工夫なり。
 

岫雲斎
修養をする場合、誠を立てると言う事は、建築の土台を確りと据えるのと同様であり、根本の確立に相当し建築物の(たて)の工夫である。また、敬に居る、居敬というのは、棟や梁を置くようなものである。これは横の工夫と言える。立誠と居敬により立派な人物という建築物が出来上がるのである。

100.
静坐の効用
静坐する数刻の後、人に接するに、自ら言語の(じょ)有るを覚ゆ。 

岫雲斎
静坐して数時間後に人に接すると、自然と話す言葉に筋道が立っていることを自覚するものだ。

101.
良い考えは夜の明けぬ中に浮ぶ

凡そ道理を思惟(しい)して、其の格好を得る者、往々宵分(しょうぶん)に在り。神気(しんき)(ちょう)(せい)せるを以てなり。静坐の時最も宜しく精神を収斂(しゅうれん)し、(しず)めて肚腔(とこう)に在るべし。即ち事を処するの(もと)()る。認めて参禅の様子と()すこと勿れ。 

岫雲斎
物の道理を考えていて、これは良いと言う思案を得るのは大体にして夜の明けぬ間である。その時は、精神の気が静かで澄んでいるからだ。静坐をするのも、この時が最も宜しい。精神を引き締めて、自分の(はら)の底に置くが良い。これが物を処理して行く根本である。けれども、これを参禅と同一視してはならぬ。

102.夢四則 
その一

()()ぬるの工夫は、只だ(せい)(きょ)なるを要して、()()するを要せず。夢中の象迹(しょうせき)は昨夢を続くる者有り。数日(ぜん)の夢を()ぐ者有り。(けだ)念慮留滞(ねんりょりゅうたい)の致す所なり。胸中(せい)(きょ)なれば、此等の事無し。 

岫雲斎
夜、よく寝る工夫は、ただただ心を静かにして何物も留めぬことである。
夢に見る事は昨日の夢に続くこともある。
また数日前の夢に続きものもある。
思うに、かかる事は、ある思慮が胸中に停滞している為の結果である。
胸中が静かで何物も留めておらねばかかる事は無い。
 

103.
夢四則 
その二
感は是れ心の影子(えいし)にして、夢は是れ心の画図(がず)なり。 

岫雲斎
感覚、感情は心に映ったものの影である。夢は心に写ったものの絵である。

104. 夢四則 
その三

凡そ人、心裏(しんり)に絶えて無き事は、()()(あら)われず。昔人(せきじん)謂う「男は子を生むを夢みず。女は妻を(めと)るを夢みず」と。此の言(まこと)に然り。 

岫雲斎
凡そ、人は心中に無いものは絶対に夢に現れてこない。昔の人の言った言葉「男は子を生む夢は見ない。女は妻を娶ることを夢に見ることはない」、これは当に然りである。

105. 夢四則 
その四
人を知るは、(かた)くして(やす)く、自ら知るは、易くした難し。但だ当に()れを()()に徴して以て自ら知るべし。夢寝は自ら欺く能わず。 

岫雲斎
他人の事を知るのは難しいようで易く、自分のことを知るのは易しいようで難しい。自分のことは夢に照らして考えると知ることが出来る。夢は決して自らを欺くことはないからだ。 

106.
自ら欺かず

自ら欺かず。之れを天に(つか)うと謂う。 

岫雲斎
自分で自分を欺かない。これを天に(つか)えると言うのだ。

107.
似て非なるもの四つ
虚無を認めて徳行と做すこと勿れ。
詭弁を認めて言語と做す勿れ。
功利を認めて政事と做す勿れ。
詞章を認めて文学と做す勿れ。
 

岫雲斎
虚無、即ち胸中に何も考えないことを道徳的行為とみなしてはいけない。詭弁即ち理非を転倒した奇怪な弁説を名論卓説と認めてはいけない。自分の功名や利欲を目指す仕事振りを真の政事と思ってはいけない。美しい言葉や文章を本当の文学と認めてはいけない。

108.
実功、虚心は賢者のみ

心体は虚を(たっと)び、()(こう)は実を尚ぶ。
実行、虚心は、唯だ賢者のみ之れを能くす。
 

岫雲斎
心の本体は、わだかまりを無くし、虚心坦懐を尊ぶ。仕事は実際的なものを尊ぶ。このように、心を虚しくし、実際の功業を求めるという姿勢の可能な人こそ真の賢者である。

109.
世事と心事
胡文定云う「世事(せじ)は当に行雲流水(こううんりゅうすい)の如くなるべし」と。
余は謂う「心事は当に(ろう)(げつ)清風(せいふう)の如くなるべし」と。
 

岫雲斎
宋の大儒・胡文定は「世を渡るには、ただよう雲、流れる水のように、さらりと、こだわりの無いのがよい」と。私は云う「心の持ちようは、からりと晴れた月、清らかな風のように澄んだ気持ちが良い」と。

110.
自分の秘事と人の秘事
己れの陰事(いんじ)は、宜しく人の之れを説くに(まか)すべし。人の陰事は、我れは則ち説く可からず。我れの為す所只だ是れ一誠(いちせい)なれば、則ち実に陰陽の別無きのみ。 

岫雲斎
自分の隠し事は人が言うのにまかせておけばよい。然し他人の隠し事を自分が話題にしてはいけない。何事も誠心誠意を以てすれば、隠したい事だの、隠さない事だのと区別は起きない。

111.是非の心 「是非の心は、人皆之れ有り」但ただ通俗の是非は利害に在り。
聖賢の是非は義理に在り。
是非、義理に在れば、則ち(つい)に亦利有りて害無し。
 

岫雲斎
孟子の告子上篇「物事の是非善悪を判断する心は、人々はみな持っている」としている。然し、普通人の是非善悪は利害を基準としている。聖人賢人は正しい道理を基準としている。是非善悪が正しい道理により判断されるならば、利益は有っても害は無い。 

閑話休題 

孟子「四端(よんたん)の説」

孟子・公孫丑上篇「惻隠の心(思いやり)は仁の端なり。羞悪の情(自己の不善を恥じ、人の悪を憎む心)は義の端なり。

辞譲の心(へりくだり、人に譲る心)は礼の端なり。
是非の心は智の端なり。

佐藤一斎 「言志耋禄」その五 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

112.
処事と執事
事を処するには決断を要す。決断或は軽遽(けいきょ)に失す。
事を執るには謹厳を要す。謹厳或は拘泥に失す。
(すべか)らく自省すべし。

岫雲斎
物事の処理には決断、即ち思い切って事を行うことが肝要である。然し、決断はしばしば軽はずみに陥ることがある。また、事務をとるのに謹厳即ち慎み深く、厳かに行わねばならぬが、謹厳の余り細部に拘泥し過ぎて大本を失うことがある。反省せねばならぬ。
113.
忙中の閑、苦中の楽
人は須らく(ぼう)()(かん)を占め、苦中に楽を存する工夫を著くべし。 

岫雲斎
人は忙しい中にも静かな時のような心を持たねばならぬ。また苦しい中にあっても楽しみを保つ工夫をしなければならぬ。

114.
仕事のやり方二則 
その一
凡そ人事を区処(くしょ)するには、当に先ず其の結局の処を(おもんばか)って、而る後に手を下すべし。(かじ)無きの舟は()るること勿れ。(まと)無きの()(はな)つこと勿れ。 

岫雲斎
世間の諸事を処理するには、着手の前にその事の結末を考えて手順を決めてから始めるべきである。
舵の無い船に乗ってはいけない、的の無い矢は決して放してはならないのだ。

115.
仕事のやり方二則 
その二

寛事(かんじ)を処するには捷做(しょうき)を要す。然らずんば稽緩(けいかん)に失せん。急事を処するには徐做(じょき)を要す。然らずんば躁遽(そうきょ)に失せん。 

岫雲斎
ゆっくりしていい事はさっさとやってしまっておくが良い、さもなくば滞って遅れてしまう。急ぎの事は、ゆっくりやるがいい、さもないと最後は慌てて失敗しよう。

116.
感応の理七則その一
天の将に雨ふらんとするや、穴蟻(けつぎ)之れを知り、野の将に霜ふらんとするや、草虫(そうちゅう)之れを知る。人心(じんしん)感応(かんのう)有るも、亦之れと同一理なり。 

岫雲斎
雨が降ろうとする直前に穴の蟻はこれを予知する。野原に霜がおりる前には草の虫はこれを予知する。人間の心も、私心なく澄み切っておれば感応作用が現れるのは同様の理屈である。

117.
感応の理七則その二
人心の感応は、磁石の鉄を吸うが如きなり。「人の情測り難し」と謂うこと勿れ。我が情は即ち是れ人の情なり」 

岫雲斎
人心の感応作用は磁石が鉄を吸いつけるのと同じである。「人情は測り知る事は難しい」と申してはならぬ。自分の情は他人の情そのものなのである。

118.
感応の理七則
その三
「感応は一理なり」。応(また)感に感じ、感(また)応に応ず。一なる所以なり。 

岫雲斎
近思録の道体篇「感応一理」に「程子曰く、感ずれば則ち必ず応有り。応ずる所また感をなす。感ずる所また応有り。已まざる所以なり」と言った。感は感ずること、応は感じて作用を起こすこと。二つのようであるが結局は一つの道理によるものだ。応あれば感がそこに起る。感あれば応がこれに伴うのである。これが一つである理由だ。

119.
感応の理七則 
その四
我れ自ら感じて、而る後に人之れに感ず。 

岫雲斎
何事も先ず自分が感動しなくては他人を感動などさせることは出来ない。

120.
感応の理七則その五
我が感を慎みて、以て彼れの応を()、彼れの応を観て、以て我が感を慎む。 

岫雲斎
人に対しては先ず自分の感情を抑えて相手の応じる態度を観察、その応じ方を観察して自分の感情を慎むようにする。

121.
感応の理七則 
その六
筆無くして画く者は形影なり。(あし)無くして走る者は感応なり。 

岫雲斎
筆が無い場合に描きだされるのは影だけである。形ある所、影は必ず伴うからである。また、脚が無くとも走るような作用ができるのは感応である。

122.
感応の理七則 
その七
感応の妙は、異類(いるい)にも通ず。(いわん)や人においてをや。 

岫雲斎
感応の不思議さは禽獣にも通ずることだ。まして人間同士の感応が無いはずはない。

123.
処世の道四則その一
君子の世俗に於けるは、宜しく沿いて溺れず、()みて(おちい)らざるべし。()特立(とくりつ)独行(どっこう)して、高く自ら標置(ひょうち)するが(ごと)きは、則ち之れを中行(ちゅうこう)と謂う可からず。  岫雲斎
立派な人間というものは、世俗にあっては、一般社会の風習人情に従いながらも、それに溺れない、世俗の道を歩みながら穴に落ちないようにすると言うことであろう。自分は君子だ、というような顔で、独り世の中から抜きん出た行動をして、高く目だつように自分を置いてはならない、それは決して中庸の道とは言えない。 
124.
処世の道四則その二
世を渉るの道は、得失の二字に在り。()()からざるを得ること勿れ。失う可からざるを失うこと勿れ。()くの如きのみ。 

岫雲斎
世を渡る道は中々難しいものだが、要するに得と失の二字である。それは、得てはならないものは得ないようにする事。また、失ってはならぬものは失わない事。

125.
処世の道四則 
その三
口舌を以て諭す者は、人従うことを(がえん)ぜず。躬行(きゅうこう)を以て(ひき)いる者は、人(なら)うて之れに従う。道徳を以て化する者は、則ち人自然に服従して痕迹(こんせき)を見ず。 

岫雲斎
口先ばかりで人を諭しても人は服従しない。自ら進んで実践すれば人はこれに習うようになる。さらに、道徳を以て人を感化すれば人は自然に従うようらなり迹形もない。

126.
処世の道四則その四

世に処する法は、宜しく体に可なる(おん)(とう)の如く然るべし。濁水、熱湯は不可なり。()(せい)、冷水も亦不可なり。 

岫雲斎
世間を渡るには、入浴しているように身体に適した温湯のようなのが宜しい。濁水や熱湯はいけない。余り清らか過ぎたり冷たすぎるのもよくない。

127
驕と争は身を亡ぼす

利を人に譲りて、害を己れに受くるは、是れ譲なり。美を人に推して、醜を己れに取るは、是れ謙なり。謙の反を(きょう)と為し、譲の反を(そう)と為す。驕争(きょうそう)は是れ身を亡ぼすの始なり。戒めざる可けんや。 

岫雲斎
利益を人に譲り害を自分が受けるのが譲。良い事は人に推し、悪いことは自分が取るのが謙。謙の反対は良い方を自分が取り悪い方を人に押し付けものでこれを驕。譲の反対で利を自分が取り害を人に与えるのが争。この驕と争の二つは身を亡ぼす始めである。自戒しなくてはならぬ。

128.
君子は平常の行為を慎む
「薪を積むこと、(いつ)(ごと)くなるも、火は則ち其の(そう)に就く。地を平らかにすること、(いつ)(ごと)くなるも水は則ち其の湿に就く」。栄辱(えいじょく)の至るは、理勢(りせい)自然なり。故に君子は其の招く所を慎む。 

岫雲斎
荀子の勧学篇「同じように薪を積んでも、火は乾燥している所に燃え盛る。地面を一様に平らにしても、水はその湿った所に行く」とある。
人生に於いても、栄辱と屈辱の来るのは道理の自然の趨勢である。だから君子たるものは栄辱の原因となる平常の言動を慎まなくてはならぬ

129.
予と謙
予は是れ終を始に(もと)め、謙は是れ始を終に全うす。
世を渉るの道、謙と予とに()くは無し。
 

岫雲斎
予、則ち(あらかじ)め準備する事は、その結果を最初に考えることである。謙譲であれば、始に考えた通り有終の美を得られる。世間を生きて行く上にはこの謙と予の二つにしくものはない。(事を成すには、終りまでを最初に予則して計画し、途中に終始謙譲であれば有終の美を得られる)

130.
知足の足と無恥の恥
「足るを知るの足るは常に足る」。仁に(ちか)し。「恥無きの恥は恥無し」。義に(ちか)し。 

岫雲斎
老子46章、「満足を知るという、そういう満足は永遠の満足である」と。これは仁に近い。孟子の尽心上篇「自分の恥ずべき点を恥じないでいる事を恥とすれば、恥は無くなる」とある。これは義に近い。

131.
禍はあなどりに生ず。
()は登山に倒れずして、而も下坂(げはん)(つまず)ずき、舟は逆浪(げきろう)(くつがえ)らずして、而も順風に(ただよ)う。凡そ患は()(しん)に生ず。慎まざる可からず。 

岫雲斎
馬は山を登る時には倒れないで、下山の時につまづく。
船は逆巻く波浪に転覆せず、却って順風の時に漂流しやすい。一般的に、禍いは侮りの心に発生している。慎む必要がある。

132.順境と逆境二則 
その一
逆境に()う者は、宜しく順を以て之れを処すべし。順境に居る者は、宜しく逆境を忘れざるべし。 

岫雲斎
逆境にある人は、順境にいるように心を安らかもてるように務めるがよい。順境にある人は、逆境の時を忘れず、油断せぬことじゃ。

133.
順境と逆境二則 
その二

()(おも)う、「天下の事()と順逆無く、我が心に順逆有り」と。我が順とする所を以て之れを()れば、逆も皆順なり。我が逆とする所を以て之れを視れば、順も皆逆なり。果して一定有らんや。達者に在りては、一理を以て権衡(けんこう)と為し、以て其の軽重を定むるのみ。 

岫雲斎
「世の中の事そのものは、順逆の二つがある筈はない。その順逆は自分の心、主観に在る」と思う。自分の心が順であれば他人が逆境だと思っても違う。自分の心が逆境の気持ちであれば他人が順境だと見ていても逆境である。果して、順逆は一定しているものなのか、そうは思わない。道理に達した人間であれば、一貫した道理を(はか)る尺度として、物事の軽重を定める事だけである。則ち順逆とかは眼中に無い。

134.
苦楽も一定なし

苦楽も()と亦一定無し。(たと)えば我が書を読みて()(なかば)に至るが如き、人は皆之れを苦と謂う。而れども我れは則ち之れを楽しむ。世俗の好む所の淫哇裡腔(いんあいりこう)、我れは則ち耳を(おお)うて之れを過ぐ。果して知る。苦楽に一定無く、各々其の苦楽とする所を以て苦楽と為すのみなることを。 

岫雲斎
苦と楽もきまった定めがあるわけではない。例えば、書物を読んで夜半になると、人はみな苦痛だろうと言う。だが自分はこれを楽しんでいるのだ。世間の人々の好む淫らな声や、卑猥な歌曲に出会うと自分は耳を押えて通り過ぎる。結局、苦楽には一定の標準があるのではなく、人々が自分が苦である、楽であるとしている所を以て苦楽としているだけだという事である。

135.
楽は心の本体
「楽は()れ心の本体なり」()だ聖人のみ之れを全うす。何を以てか之れを見る。其の色に徴し、四体に動く者、自然に()申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。 

岫雲斎
王陽明の伝習録「楽しみこそ心の本当の姿である」とある。ただ、これを全うしているのは聖人だけである。どうして、これが分るのか、それは聖人の容貌に現れ、また体の動作で分るのだ。即ち、その容子(ようす)がのびのびしており、また顔色が喜びに溢れているのだ。 

136.
君子は自得せざるなし
「君子は入るとして自得せざる無し」。怏怏(おうおう)として楽まずの字、唯だ功利の人之れを()く。 

岫雲斎
中庸・14章「立派な人物は、何処にいても、どんな地位にいても不平を抱かず、夫々の地位に応じて、するだけの事をして決して齷齪(あくせく)しない」とある。怏々(おうおう)として楽しまずという字は、功名利益を貪る人が心中に抱いているのだ。

137.
避世と処世
世を避けて而して世に()るは、(かた)きに似て(やす)く、世に処りて而して世を避くるは、易きに似て難し。 

岫雲斎
浮世を避けて俗塵(ぞくじん)に染まらぬように自己流に世を渉るということは、難しいようで却ってやさしい。反対に俗塵の中にいて浮世を離れた心境でいられるのは、やさしいようで難しい。

138.
易について命をまつ
「君子は()に居て以て命を()つ」。易に居るとは、只だ是れ(ぶん)に安んずるなり。命は則ち当に俟たざるを以て之れを俟つべし。 

岫雲斎
中庸13章には「立派な人物は、安全な常道を踏んで天命を待つ」とある。()に居るとは、ただ分に安んずるということである。(めい)とは意識しないで自然なままで天命を待つということだ。(中庸13章の続き「小人は険を行いて以て幸をもとむ」、小人は危険な策略を行い万一の僥倖を待っている。) 

139.
日の長短は心にあり
怠惰の冬日(とうじつ)は、何ぞ其の長きや。勉強の夏日(かじつ)は、何ぞ其の短きや。長短は我れに在りて、日に在らず。待つ有るの一年は、何ぞ其の久しきや。待たざるの一年は、何ぞ其の速やかなるや。久速(きゅうそく)は心に在りて、年に在らず。 

岫雲斎
怠けて暮す時は、日の短い冬でも何と長いであろう。努め励むと夏の日でも何と短いと思う。つまり、長い短いは自分の主観にあるので日にあるわけではない。同様に、何か待つ事のある一年は何とまあ久しいことか。待つ事の無い一年は何とまあ、速いことか。久しい、速いは、心即ち主観にあるのだ。

140.
少にして学ばざれば、壮にして惑う
朝にして食わざれば、則ち昼にして餓え、少にして学ばざれば、則ち壮にして惑う。餓うる者は猶お忍ぶ可し。惑う者は奈何(いかん)ともす可からず。 

岫雲斎
朝食をとらなければ昼には空腹となる。同様に、少年時代に学問をしておかなければ壮年になり、物事の判断などに惑うようになる。飢えはまだ辛抱できようが知識が無くては事の判断に惑い、どうにもならない。

141.
素行のすすめ

今日の貧賤に、素行する能わずんば、(すなわ)ち他日の富貴に必ず驕泰(きょうたい)せん。今日の富貴に、素行する能わずんば、乃ち他日の患難に必ず狼狽せん。 

岫雲斎
現在、自分が貧賤の境遇にある時、それを自覚し安んじて道を行わないならば、他日、富貴を得た場合には必ず驕りたかぶるであろう。また、今日、富貴である場合、それを自覚し安んじて道を行う事をしないならば、他日、心配や困難が遭遇したら必ず慌てふためくであろう。


佐藤一斎 「言志耋禄」その六 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

142.
志躁は利刃の如し

志躁(しそう)()(じん)の如く、以て物を貫く()し。()えて迎合して人の鼻息(びそく)を窺わず。古人云う、「鉄剣利なれば、則ち(しょう)優拙(ゆうつたな)し」と。蓋し此れを謂うなり。 

岫雲斎
堅固なる意思は鋭利な刃物で何ものも貫くことが可能。だから、世間に調子を合わせたり、人の鼻息を伺うようなことをしない。古人謂う「鉄の剣がよく切れるならば(鉄の意志)、俳優連中がどんなに巧みな技を以て惑わそうとしても決して惑わされぬ」と。これはこの事を言ったものである。 

143.
富貴と貧賤二則 
その一

物に余り有る、之れを富と謂う。富を欲するの心は即ち貧なり。物の足らざる、之れを貧と謂う。貧に安んずるの心は即ち富なり。富貴は心に在りて、物に在らず。 

岫雲斎
物に余分があるのを富と言う。この富を欲しがる心が貧である。物の足らないのを貧という。物不足の貧に安んじている心は富んでいる。このように考えると富と貧は心に在り、物にあるのではないと理解できる。

144.
富貴と貧賤二則
その二

身労(しんろう)して心逸(こころいっ)する者は、貧賤なり。心苦んで身楽む者は、富貴なり。天より之れを視れば、(ふたつ)ながら得失無し。 

岫雲斎
身体が苦労して精神を伸びやかにしている人を貧しい人という。これと反対に、精神的に苦しみ、身体で楽をしている人を富貴人という。これらを高い天から見れば、どちらが得で、どちらが損ということはない。 

145.
人は己れを頼むべし
凡そ人は頼む所有りて、而る後大業(だいぎょう)(はか)()きなり。我れ守る所有りて、而る後外議(がいぎ)起らざるなり。()し其れ妄作(もうさく)()()は罪を招く所以(ゆえん)なり。 

岫雲斎
人は誰でも自分に頼む所があってから大事業を計画すべきである。また自分に確りと守る所があるからこそ、外からの(そし)りも起らない。(みだ)りに小細工したり自分勝手な智慧を振り回す事は禍を招くもととなる。

146.
舟に舵なければ
舟に舵無ければ、則ち(せん)(かい)(わた)()からず。門に()(やく)有れば、則ち盗賊も?(うかが)う能わず。 

岫雲斎
舟に舵と艪がなければ、川や海は渉れない。(智慧がなければ世の荒海は渡れない事)また、門に錠と鍵がなければ盗賊も入れない。(堅固な意思があれば世間の誘惑も入込めぬ事。)

147.
事、予すれば立つ
「凡そ事予すれば則ち立ち、予せざれば則ち廃す」とは正語なり。之れを()(こく)に用う可し。「水到りて(みぞ)成り()熟して(へた)落つ」とは悟語(ごご)なり。之れを一身に用う可し。 

岫雲斎
中庸・二十章「何事も事前に準備すれば必ずその事は成就する。之に反して事前準備なければ必ず失敗する」とある。これは道理に適った言葉。この言葉を家庭や国家にも適用するがよい。「水が流れて自然に溝が出来、果物が熟して(へた)が自然に落ちる」とは道を悟った言葉である。我が身にも適用しなくてはならぬ。

148.
予の意味
(やまい)を病無き時に慎めば則ち病無し。(うれい)を患無き日に(おもんばか)れば則ち患無し。是れを之れ予と謂う。事に先だつの予は、即ち予楽の予にて、一なり。 

岫雲斎
病気にならないように病気になる前から用心すれば病気にかからぬ。同様に心配事も無いように事前に考えておけば起らない。事前に準備しておく事を「予」という。事に先立って用意するの予は、楽しむ意味の予楽と同じである。

149.
満を持す工夫を忘るな
凡そ、物満つれば則ち(くつがえ)るは天道なり。
満を持するの工夫を忘るること勿れ。
満を持すとは、其の分を守るを謂い、分を守るとは、身の出処と己れの才徳とを()すなり。
 

岫雲斎
何事も一杯になると覆るというのは天地自然の掟である。どうすれば、満を持ち堪えられるかと言う工夫を忘れてはならぬ。満を持ち堪える事は、自分自身の本分を守って行くことであり、本分を守ると言う事は、身の振り方と自分の才能・徳性を勘案して(ぶん)を超えないようにする事である。

150.
安と懼に公私あり
(あん)の字に公私有り。
公なれば則ち思慮出で、()なれば則ち怠惰生ず。
()の字にも亦公私有り。
公なれば則ち戦兢(せんきょう)して自ら戒め、私なれば則ち惴慄(ずいりつ)して己れを(うしな)う。
 

岫雲斎
安んじるにも公私がある。安が公につけば公安、公を安んじ、社会を安定させる意味で、その為に色々の思案が出て来る。安が私につくと、自分だけ安んじて行くことでありそこに怠惰が生ずる。恐れるの()の字にも公と私がある。懼が公につくと公の為に恐れるのだから時には戦々恐々として恐れ慎んで気をつける。懼に私がつくと、恐れ慄いて狼狽し己を失う。

151.
欲にも公私あり
「心を養うは寡欲より善きは()し」。君子自ら養う者宜しく()くの如くすべきなり。
人を待つに至りては則ち然らず。
人をして各々其の欲を達せしむるのみ。但だ欲も亦公私有り。弁ずべし。
 

岫雲斎
孟子・尽心下篇「精神修養してゆくには、欲を少なくすることよりよい方法は無い」とある。立派な人物が自ら修養するにはこれが良い。然し、他人に対応するのには、これではいけない。そうでなくて、各々その人をしてその欲望を達せしめてやるようにしなくてはならぬ。この様に、欲にも公と私があり、世のため人の為の公の欲は大きい程良い、自分の欲は小さい程よいのである。これは(わきま)えておくがよい。

152.
禍福栄辱(かふくえいじょく)
三則

その一

(とが)を免るるの道は、(けん)(じょう)とに在り。福を(もと)むるの道は、()()とに在り。 

岫雲斎
過失を免れる方法は、よく謙虚にしてよく譲歩することであろう。(万事、控え目に)幸せを得る方法は、人に恵むこと、施しをする事であろう。 

153
禍福栄辱(かふくえいじょく)三則 
その二

常人(じょうじん)栄辱(えいじょく)有り。達人の栄辱有り。常人の栄辱は、達人未だ()って以て栄辱と為さず。達人の栄辱は、常人其の栄辱たるを知らず。 

岫雲斎
普通の人にも名誉と栄辱がある。道理に通達した人の名誉と栄辱もある。普通の人の栄辱は、道理の通達した人の栄辱とは異なる。達人の栄辱は常人には分らないのである。(外面的、物質的と、内面的、精神的との相違。)

154.
禍福栄辱(かふくえいじょく)三則
その三
必ずしも福を(もと)めず。()無きを以て福と為す。必ずしも(えい)(ねが)わず。(じょく)無きを以て栄と為す。必ずしも寿(し゜ゅ)を祈らず。(よう)せざるを以て寿と為す。必ずしも富を求めず。()えざるを以て富と為す。 

岫雲斎
殊更に幸福を求める必要はない、禍さえ無ければ幸福である。また必ずしも栄誉を(ねが)う必要はない、恥をかかなければそれが栄誉である。長生きを祈らなくてもよい、若死にさえしなければよいのだ。必ずしも金持ちにならなくてよい、餓えさえしなければ富んでいることではないか。 

155.
草木と人事
草木は()と山野の物なり。山野に在れば則ち其の所を得て、人の灌漑(かんがい)(わずらわ)さず。(たまたま)()()()(そう)有りて、其の(かん)に生ずれば、則ち()(しょう)抜き取りて以て盆翫(ぼんがん)し為し、之れを王侯に(すす)む。()だ花匠に於ては(さいわい)たれども、(しか)花卉(かき)は則ち不幸たり。人事も亦或は此れに類す。  

岫雲斎
草木はもとより山野のものである。
山野にあればその所を得て人間から水をかけてもらわなくてよい。
偶々、珍しい花や不思議な草が生えると、植木屋がそれを抜き取って盆栽として身分の高い人に進上する。こうする事は植木屋にとり幸いなことかも知れぬが草花にとっては不幸なことである。
我々、人間の世の中でもこれに類することがある。

156.         
世に惜しむべき者

世に惜しむ可き者有り。()(ぎょく)大宝(たいほう)の、瓦礫(がれき)(こん)ずるは惜む可し。希世(きせい)の名剣の、賎人(せんじん)之れを()ぶるは惜しむ可し。非常の人材の()てて用いられざるは尤も惜しむ可し。 

岫雲斎
世の中に惜しむべきものがある。亀の甲や玉石など貴重な宝が瓦や小石に混じっているのは惜しい。また、世にも稀な名剣を賎しい人が佩用(はいよう)しているのは惜しい。勝れた人物が捨てられて世に用いられていないのは最も惜しい。

157.         
天定って人に勝つ

罪無くして(とが)を得る者は、非常の人なり。身は一時に屈して、名は後世に()ぶ。罪有りて愆を免るる者は、奸佞(かんねい)の人なり。志を一時に得て、名は後世に(はずかし)められる。古に謂う、「天定まりて人に勝つ」と。是れなり。 

岫雲斎
罪がないのに罰せられる者は大人物である。かかる人はある一時期は屈服するが、その名は後世まで褒め称えられる。罪があるのに罰せられない者は、(よこし)まで悪賢い人物である。こんな人間は、小沢一郎の如きで一時の目的を達しても、その名は後世まで辱められる。昔の言葉だが「天理が定って、到底人力の及ぶ所ではない」とはこれを言うのである。

158.         
訓戒五則 
その一

老成人(ろうせいじん)を侮ること勿れ、孤有幼(こゆうよう)を弱しとすること勿れ」とは、真に是れ(ばん)(こう)明戒(めいかい)なり。今の才人往々此の訓を侵す。(いまし)()きなり。 

岫雲斎
「世の中の経験を積んだ老人を馬鹿にしてはならぬ。また孤児や幼児を弱いからとて軽視してはならぬ」とは書経の磐庚篇にあり、磐庚王が殷に遷都する時の言葉であり明快な戒めである。現代の才人は、この訓戒を侵している、警告を発したい。

159
訓戒五則 
その二
少壮の書生と語る時、(しきり)に警戒を加うれば則ち聴く者(いと)う。但だ平常の話中(わちゅう)に就きて、偶々(たまたま)警戒を(ぐう)すれば、則ち彼れに於て益有り。我れも亦煩涜(はんとく)に至らじ。 

岫雲斎
若い学生達と話をする時、頻りに注意や訓戒を加えると聴く者は嫌がる。平常の会話の中に時々警戒らしくなく、かこつけて訓戒を入れると、彼ら聴く者も益するものがあろう。また話している自分も手数がかからなくて煩瑣とならない。

160.
訓戒五則 
その三
人を訓戒する時、簡明なるを要し、(せつ)(とう)なるを要す。疾言(しつげん)すること勿れ。詈辱(りじょく)すること勿れ。 

岫雲斎
人を教え戒める時の言葉は簡単明瞭、適切でなくてはならぬ。早口とか、(ののし)り、(はずかし)めてはいけない。 

161.
訓戒五則 
その四
女子を(おし)うるは、宜しく(じょ)にして厳なるべし。小人を訓うるは、宜しく厳にして恕なるべし。 

岫雲斎
婦女子への訓戒は、まず恕、即ち思いやりの言葉を先にかけるが良い。そして次に厳格な言葉で結ぶのが宜しい。小人への訓戒は、先ず厳格な言葉でピリッとさせ、思いやりの言葉で結ぶが宜しい。

162.
訓戒五則 
その五
小児(しょうじ)(おし)うるには、()(こう)を要せず。只だ(すべか)らく欺く勿れの二字を以てすべし。()れを緊要(きんよう)と為す。 

岫雲斎
子供の訓戒は、苦言を言う必要はない。
ただ、嘘をつくな、正直にせよ、この二つだけで良い。これが最も大切である。

163.
小児の導き方
小児は()びて(けい)()()せば則ち喜び、黠児(きつじ)と做せば則ち(いか)る。其の善を善とし悪を悪とすること、天性に根ざす者然るなり。 

岫雲斎
子供にお前は利巧な子供だと言えば喜ぶ、悪賢いと言えば怒る。子供は天真爛漫(てんしんらんまん)で、あくまで善を善とし、悪を悪とする事は(わきま)えているものだ。この事は子供の天性に根ざしている、この点を捉えて子供を善導するのが良い。

164.
夫婦の道

少年の夫婦は、情、兄弟(けいてい)の如し。老年の夫婦は、(まじわり)、朋友の如し。但だ其の諧和(かいわ)するに至りては、則ち或は過昵(かじつ)に免れず。故に()れを男女の異性に(もと)づきて、以て其の別を言うのみ。 

岫雲斎
年若い夫婦の情は兄弟のようである。また老人夫婦はその交わりは友人のようである。それはそれで良いのだが、その仲のよさが、或は、狎れ過ぎる嫌いを免れない。男女が異性であるという事実に基づいて古人は「夫婦別あり」と言った。これは余り馴れすぎないよう、互いの間に礼儀を(わきま)えなさいという教えである。

165
()れず、溺れず

火は親しむ可くして()る可からず。水は愛す可くして溺る可からず。妻妾を待つには宜しく是くの如き(かん)()くべし。 

岫雲斎
火は親しむのは良いが狎れては禍を起こす。水は愛するのは良いが溺れないようにせよ。妻妾に対応するにはこのような観点を身につけることだ。つまり、親しさに馴れると増長し、愛に溺れると父母・兄弟を忘れてしまう恐れがある、戒めなくてはならぬ事である。 

166.
事理を了解させる方法
事理を説くは、()と人をして了解せしめんと欲すればなり。故に我れは宜しく先ず之れを略説し、()れをして思うて之れを得しむべし。然らずして、我れ之れを詳悉(しょうしつ)するに過ぎなば、則ち()れ思を致さず。(かえ)っ深意を得ざらん。 

岫雲斎
物事の道理を説明するのは、人にその道理を了解させる為である。だから、先ずその大意を説明し、相手が自分で考え巡らし会得させるようにするがよい。さもなくて手前が余り説明をしすぎると相手が十分考えもしないことになり、これでは却ってその深い含蓄を会得できないことになろう。

167.
小人と君子
親しみ易き者は小人(しょうじん)にして、()れ難き者は君子なり。
仕え難き者は小人にして、(つか)え易き者は君子なり。
 

岫雲斎
親しみ易いのは市井の庶民、馴れ馴れしくでき難いのは立派な人物である。然し、主人として仕え難いのは方針の無い市井人であり、きちっとした方針を持ち仕え易いのは立派な人物である。(論語・子路篇「君子は(つか)え易くして(よろこ)ばしめ難し。これを説ばしむるに、道を以てせざれば説ばざればなり。その人を使うに及んでや之を器にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。)

168
事は本末にあり
事には本末あり。()とより(すで)に分明なり。但だ(もと)に似たる末有り。末に似たる(もと)有り。察を致さざる可からず。 

岫雲斎
全ての物事には本と末がある事は明白。然し、本に似た末があったり、末に似た本があったりもする。そこを良く見極める事が肝要。

169
()
(おん)は忘れよ、(じゅ)(けい)は忘るな

我れ恩を人に施しては、忘する()し。我れ恵を人に受けては、忘る可からず。

岫雲斎
自分が施した恩は忘れなさい。だが、自分が受けた恩を忘れてはならぬ。 

170.
人と交わるには厚と信
親戚を親しまざる者は、他人に於ても亦()(はく)なり。往事(おうじ)を追わざる者は、当努(とうむ)に於ても亦(こう)(しよ)なり。凡そ(こう)(どう)(こう)()(しん)の字を忘ること勿れ。 

岫雲斎
身内の者に親しまない者は他人に対してもまた薄情である。
過去の事を思い返さない人間は当面の任務もいい加減にするものだ。
全て、人に交わる道とは、厚と信、即ち情に厚くして誠を尽くす事である。
これを忘れてはならぬ。

171.
昔を忘れるな
人は当に往事を忘れざるべし。是れを(こう)(とく)と為す。 

岫雲斎
人間は決して旧友や他人から受けた恩恵など、過去を忘れてはいけない。これが情に厚い立派な徳行である。

172.
旧恩の人と新知の人
旧恩の人は、疎遠す可からず。新知の人は、過狎(かこう)す可からず。

岫雲斎
現在の自分の地位境遇がどうあろうとも、以前に受けた恩恵を疎んじたり遠ざけたりしてはいけない。また、新しく知り合った人は、余り馴れ馴れしいのはよくない。


      佐藤一斎 「言志耋禄」その七 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

173.
幼にして遜弟ならず、長じて述ぶるなし。云々
「幼にして(そん)(てい)ならず、長じて述ぶる無し」とは、世に其の人多きなり。
(けい)(がい)相遇(あいあ)
いて、我が(ねがい)(かな)う」とは、(まれ)()の人を見る。
 

岫雲斎
「幼少の時、謙遜従順でなく、長じてからも格別これと言って取り立てて言う程の立派な行いがない」と言われる人は世間に多い。「途中で馬車の蓋を傾けてちょっと挨拶した程の交わりであっても意気投合してしまう」というような人物は世間では稀にしか見ない。

174.人を観る法

人を観るには、徒らに(そと)()容止(ようし)に拘わること勿れ。(すべか)らく之れをして言語せしめ、就きて其の心術を(そう)すべくば可なり。先ず其の眸子(ぼうし)を観、又其の言語を聴かば、大抵かくす能わじ。 

岫雲斎
人物観察の方法は、徒に外見上の姿形にとらわれる必要はない。その人物に話をさせて、それに就いて心の動きを観察すれば良い。先ず、その人物の瞳を観察すし言葉を聴けば大抵、その人間の心中は隠せない。

(孟子離婁上篇「其の言を聴き、其の眸子(ぼうし)を観れば、人なんぞ?(かく)さんや。)(中国の人物観察法で著名なものが「呂氏春秋」の六験・八観。「六韜(りくとう)」の竜韜(りゅうとう)篇の(はっ)(ちょう)の法である。)

175.
自と他 
二則 

その一
我れ人を観んと欲しなば、則ち人(かえ)って我れを観る。我れ人をして我れを観しめんと欲しなば、則ち人我れを観る能わずして、而も我卻って人を観る。感応(かんのう)()()くの如し。 

岫雲斎
自分が他人を観察しようとすると、反対に他人が自分を観察してしまう。自分が他人をして自分を観察させようとすると、その人は自分を観察できないので却って自分がその人を観察してしまう。人心の相互に感じあう微妙さはこんなものである。 

176.自と他 
二則 

その二

(じん)()は一なり。自ら知りて人を知らざるは、未だ自ら知らざる者なり。自ら愛して人を愛せざるは、未だ自ら愛せざる者なり。 

岫雲斎
他人と自分とは実は一つのものである。自分が自分を知っていて他人を知らないとは、実は未だ自分を知らないことなのである。自分を愛して他人を愛さないとは、まだ本当に自分を愛していないことなのである。

177.
君子は自ら欺かず
自ら多識に(ほこ)るは(せん)()の人なり。自ら謙遜に過ぐるは、(そっ)(きょう)の人なり。但だ其の自ら欺かざる者は、君子人(くんしじん)なり。之れを誠にする者なり。 

岫雲斎
自分が物知りだと自慢する者は浅薄な人間である。また自に(へりくだ)り過ぎるのは媚び諂(こびへつら)う人間と言える。卑下慢(ひげまん)と言う。ただ、在りのまま自ら欺かない人間が君子と言える立派な人間である。このような人物こそ誠の道の実践者である。

178.
本物と似せ物

執拗は(ぎょう)(てい)に似たり。軽遽(けいきょ)敏捷(びんしょう)に似たり。多言は博識に似たり。浮薄(ふはく)(さい)(けい)に似たり。人の似たる者を視て、以て己れを反省すれば、可なり。 

岫雲斎
「しつこい」のは信念の固いのに似ている。「軽はずみ」はすばしこいに似ている。「口数の多い」のは物知りに似ている。「うわすべりで軽薄」は才智の勝れているのに似ている。このように、他人の似て非なる言動を観て自分を反省するのがよい。

179. 
物に愛憎
物に愛憎有るは、尚お可なり。人に於て愛憎有るは、則ち不可なり。

岫雲斎
物を愛するのは実害が無いからまだ宜しい。然し、人を愛するには公平が大切、公平を欠くと害毒の基となるからである。

180.  
一言一話もよく聞け
人の一話(いちわ)一言(いちげん)は、徒らに聞くこと勿れ。必ず好互(こうたい)有り。弁ず可し。 

岫雲斎
人のちょっとした話でも、ちょっとした言葉でも、いい加減に聞くのは宜しくない。それらには必ず善い事と、悪い事とがあるものだ。よく弁別しなくてはならぬ。

181.
人を視る
余は年来多く人を視るに、人各々気習(きしゅう)有り。或は地位を以てし、或は土俗を以てし、或は芸能、或は家業皆同じからざる有り。余先ず其の気習を観て、即ち其の何種の人たるを(ぼく)するに、大抵(あやま)らざるなり。唯だ非常の人は、則ち(たて)()横に()れども、気習を()けず。?(まれ)()の人を視る。蓋し人に(まさ)る一等のみ。 

岫雲斎
私は年来多数の人間を観ているが、人には夫々気質、習癖がある。それは、その人の地位から来るもの、郷土の風俗から来るもの、或は、その人の芸術、技能、家業からというようにみな同じではない。それで、私は、先ずその人の気質、習癖を観て、その人はどのような人物かを判断して観ると、大抵誤りがない。ただ、大人物は、縦から見ても、横から見ても、特有の気質・習癖をつけていない。このような人物を偶に見るが普通人より一段勝れている。

182.         
有りてなき者は人なり

有りて無き者は人なり。無くして有る者も亦人なり。 

岫雲斎
世の中には沢山人がいるが、いないのは立派な人物だ。然し、いないようで居るのが立派な人物で、どこかに隠れているものだ。

183
人、各々適職あり
人各々長ずる所有りて、格好の職掌有り。(いやし)くも其の才に当らば則ち棄つ可きの人無し。「牛溲(ぎゅうしゅう)馬勃(ばぼつ)(はい)()の皮」、最も妙論なり。 

岫雲斎
人にはそれぞれの長所があり最適の役目があるものだ。その才能に当ったら捨ててしまつてよい人などはいない。「牛の小便、馬の糞、破れ太鼓の皮」なども名医はこれを用いて薬にするなど巧妙な比喩である。

184他山の石 人我れに同じき者有り。(とも)に交る()けれども、而も其の益を受くること(はなは)だ多からず。我れに同じからざる者有り。(また)(とも)に交る可けれども、而も其の益(すくな)きに(あら)ず。「他山の石、以て玉を磨く可し」とは則ち是れなり。 

岫雲斎
世間には性格や趣味の同じ人がいる。こういう人と交際するのは勿論よい。だが、大して益を受けることはないものだ。反対に、自分とは性格趣味の違う人がいる。こういう人々と交際するのは良いことで、自分の為になることが多い。他山の粗石でも我が玉を磨くには役に立つ」とこかかる事を言うのである。

185.
間違いを指摘されて喜べ

生徒、詩文を作り、朋友に示して正を(もと)むるには、只だ改竄(かいざん)の多からざるを(おそ)る。人事に至りては、則ち人の規正を喜ばず。何ぞ、其れ小大の不倫なること(しか)るや。「()()は、告ぐるに()有るを以てすれば則ち喜ぶ」とは、(まこと)に是れ百世の師なり。 

岫雲斎
生徒が詩や文章を作って友人に見せて訂正を求める時は、ただ文章の字句などの改める箇所の多くないことを恐れる。しかし、人間にかかわる事柄になると匡正(きょうせい)してくれることを喜ばない。何とまあ、何れが小で、何れが大であるのか順序の合わないことであろう。孔子の弟子の「子路は他人が過りを告げてくれると喜んだ」というが、子路は誠に百世にわたる師表たるの人である。

186.
人は同を喜び、余は異を好む
凡そ人は同を喜んで異を喜ばざれども、余は則ち異を好んで同を好まず。何ぞや、同異は相背く如しと雖も、而も其の相資(あいし)する者は、必ず(あい)(そむ)く者に在り。仮えば水火の如し。水は物を生じ、火は物を滅す。水、物を生ぜざれば、則ち火も亦之れ滅する能わず。火、物を滅せざれば則ち水も亦之れを生ずる能わず。故に水火相逮(そうたい)して、而る後万物の生々窮り無きなり。此の理知らざる可からず。 

岫雲斎
人間は趣味性格が自分と同じ人を喜び、異なる人を歓迎しないが、自分は異なる人間を好む。なぜか、異なる者は相背くようだが、実は互いに相助け合うものは必ず相背くものに存在している。例えば、水と火のようなものである。水は物を生じ、火は物を消滅させる。もし水が物を生じさせなければ、火も物を消滅させえない。火が物を消滅させなければ、水もまた物を生ぜしめない。だから、水と火は互いに助け合って後に万物が次々と生まれ窮まることが無いのである。この道理を知らねばならぬ。

187.
忠と恕二則
その一
忠の字は宜しく己れに責むべし。()れを人に責むること勿れ。恕の字は宜しく人に施すべし。諸れを己れに施すとこ勿れ。 

岫雲斎
忠の字は誠、真心という意味で、自分自身を責めるのに、この忠、即ち真心であるかどうかを尺度として使うがよい。これを人を責めるものにしてはならぬ。恕は思いやりのことである。これは人に施すべきもので、自分にそれをしてはならぬ。 

188.
忠と恕二則 
その二
妄念起る時、宜しく忠の字を以て之れに克つべし。争心起る時、宜しく恕の字を以て之れに克つべし。 

岫雲斎
みだりな邪念が起きた時は、これは忠の字に照らして克服しなくてはならぬ。人と争うような心が起きた時は、恕の字を思い起こして克服しなくてはならぬ。

189.
実務経験を軽んずるな
人事を経歴するは、即ち是れ活書を読むなり。故に没字の老農も亦或は自得の処有り。「先民言う有り、蒭蕘(すうじょう)?(はか)れ、と」。読書人之れを軽蔑するを()めよ。 

岫雲斎
世間の事柄を経験する事は活きた書物を読むようなものだ。だから、字の読めない老農でも浮世の経験を経てそこに体得しているものがある。「詩経」大雅、板の語に「古の賢人は、草刈人夫や木こりにも意見を聞けと言っている」とある。書物を読む人々は、実務により経験している人々を軽んじる事はやめなさい。

190.
尋常の中に奇あり
(にわか)に看て以て奇と為す者、其の実皆未だ必ずしも奇ならず。看て尋常と為す者、(かえ)って(おおい)に奇なる者有り、察せざる()けんや。 

岫雲斎
慌てて物を見ていかにも奇妙に見えるものが、実は必ずしも奇妙ではない。反対に、平凡な物だとしているものに、却って奇妙なものがある。よくよく観察しなければならぬ。 

191.
言語の道五則 その一
人の言を聴くことは、則ち多きを(いと)わず。(けん)不肖(ふしょう)と無く、皆()(えき)有り。自ら言うことは、則ち多きこと勿れ。多ければ則ち口過(こうか)有り。又或は人を誤る。 

岫雲斎
人の話を聴くことは多くても嫌がらない。言う人が賢者でも愚者でも、みな為になる。然し、自分から言うことは多いのはよくない。多いと失言や誤解を生む。 

192.
言語の道五則 その二
言語の道、必ずしも多寡を問わず。只だ時中(じちゅう)を要す。然る後人其の言を厭わず。 

岫雲斎
言葉は多いとか、少ないの問題ではない。ただ、発言がその場合に適切なことが大切である。もしそうならば、聞く人は言葉の多いのを嫌がりはすまい。
(中庸、「君子にして時に(ちゅう)す。)

193.
言語の道五則 その三
多言の人は浮躁(ふそう)にして、或は人を()ぐ。寡黙の人は測り難く、或は人を探る。故に「其の言を察して、其の色を観る」とは、交際の要なり。 

岫雲斎
言葉数の多い人は軽薄で騒がしく、ややもすると人を傷つける。口数の少ない人は容易に心中が測られず、また人の心を探ろうとしている。だから、孔子の言われた「人の言葉を洞察し顔色を見抜く」のが交際の要諦である。

194.
言語の道五則 その四
「古の学者は己れの為にす」と。故に其の言も亦()と己れの為にし、又其の己れに在る者を以て、之れを人に語るのみ。之れを強うるに非ず。今の立言者は之れに反す。 

岫雲斎
昔の、学問をした人は自己の道徳を向上する為に学んだ。だから、その言う所は、自分の修養の為であり、また自分の考えを人に言うだけであり、決して之を人に強いる事はしなかった。然るに、現在、言っている人は反対で自分の修養の為だけでなく人に語る為にしている者だ。 

195.
言語の道五則 その五
簡黙(かんもく)沈静(ちんせい)は、君子固と宜しく然るべきなり。()だ当に言うべくして言わずば、木偶(もくぐう)となんぞ(えら)ばん。故に君子は時有りては、終日言いて、口過(こうか)無く、言わざると同じ、要は心声(しんせい)の人を感ずるに在るのみ。 

岫雲斎
飾り気が無く口数の少なく静かで落ち着いているのは立派な人物、当に然るべきことである。だが、言わねばならぬ時に言わぬのは木の人形と何処が違うのか。だから、立派な人物は、時に一日中喋っても、失言することがない。失言のない事は言わないのと同じなのである。つまり肝要な事は、心の声、即ち真心から出た言葉が人を感動させるという事なのである。 

196.
剛強の者と柔軟な者
凡そ剛強な者(くみ)みし易く、柔軟な者恐るべし。質素の者は永存し、華飾(かしょく)の者は(はく)(らく)す。人の物皆然り。 

岫雲斎
剛強な人物はくみし易い、柔軟な人間は却って恐るべきものがある。飾り気の無い地味な人は変わりなく続くが、派手な人間は剥げ落ち易い。人間の有するものはみなこの通りである。

197.
有徳者は口数が少ない
徳有る者寡言(かげん)なり。寡言の者未だ必ずしも徳有らず。才有る者多言なり。多言の者未だ必ずしも才有らず。 

岫雲斎
徳の備った人物は口数が少ないものだ。だが、口数が少ない者だからと云って必ずしも徳があるとも言えない。才有る人間は口数の多いものだが、口数が多いからと云って必ずしも才が有るとも言えないのだ。
 

198.
芸能三則 
其の一
人、智略有る者、或は芸能無く、芸能有る者、或は智略無し。智略は心に在りて、芸能は身に在り。之れを兼ぬる者は少し。 

岫雲斎
智慧と策略ある人には芸術や技能がなく、芸能の有る人には智略が無い。智略は心にあるが芸能は体にある。これら両者を兼ねて持っている人は少ない。(大脳生理学によると智恵を働かす場所と芸能を司る場所が異なる由。) 

199.
芸能三則 
其の二
芸能の熟するや、之れを動かすに天を以てす。妙は才不才の外に在り。 

岫雲斎
芸能が磨かれて円熟の境地に達すると、その人を動かすものは天であるようになる。妙技というものは、才とか不才とか言うものの外にあるようだ。

200.
芸能三則 
其の三
芸能有る者は、多く(しょう)(しん)有り。又(きょう)(しん)有り。其の芸能有りて、而も謙にして且つ遜なる者は、芸の最も秀でたる者なり。(しょう)の反は遜と為る。芸能も亦心学(しんがく)に外ならず。 

岫雲斎
芸術技能ある者の多くは勝気であり、人に驕る心があるものだ。芸能があり而も謙虚な人間の多く芸の最も優れた人物である。「勝」の反対は「謙」であり「驕」の反対は「遜」である。かかる次第で芸能も亦心を修める学問に外ならない。


          佐藤一斎 「言志耋禄」その八 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

201          
書と画は一なり
書画は一なり。書は()の如くなるを欲し。画は書の如くなるを欲す。書、画の如くなれば、則ち筆に(さい)有り。画、書の如くなれば、則ち形に(しん)有り。(すべか)らく善く此の理を(かい)すべし。 

岫雲斎
書と画をかく精神は一つである。書は画をかくように、画は書をかくようになれば善い。書が画のようになると筆に光彩生ず。また画が書のようになれば、形に精神が躍動してくる。
書をかく人、画をかく人、共にこの道理を会得するがよい。

202.
雅事と俗事
雅事(がじ)は多く是れ虚なり。之れを雅と謂いて之れに(ふけ)ること勿れ。俗事は(かえ)って是れ実なり。之れを俗と謂いて(ゆるが)せにすること勿れ。 

岫雲斎
風流事は多くは虚である。これをみやびなどと申して没頭してはならぬ。日常の俗事こそ人間の実生活に不可欠なものである。これを俗事と称して侮ってはならぬ。

203.
才ある者への注意

(すこ)しく才有る者は、往々好みて人を軽侮し、人を調(ちょう)(しょう)す。失徳と謂うべし。(あなどり)を受くる者は、(いたずら)()まず、必ず(うら)みて之れを(しん)す。是れ我が自ら(しん)するなり。吾が党の少年、此の(しゅう)に染まる()くして可なり。 

岫雲斎
少しばかり才がある者は、しばしば人を軽侮したり、からかい笑ったりするのを好む。なんと徳義に反することか。侮りを受けた者は、その場限りですまず、必ず怨んでその人を(そし)るであろう。これは侮ったのは自分で自分を誹ったということである。学問をする若い人々はこんな悪習に染まらないことだ。 

204.
古人を批評するは可、今人は非
古人の是非は、之れを品評するも可なり。今人(こんじん)の善悪は、之れを妄議するは不可なり。 

岫雲斎
古人の善悪の品定めはしてよい。だが、現存の人の良し悪しを妄りに論議するのはよくない。人から怨まれる原因の多くは妄りに人を論評する所から起きる。警しむべくことだ。

205.
名利は厭うべくに非ず
名の(もと)めずして(きた)る者は、実なり。利の貪らずして至る者は、義なり。名利は厭う可きに非ず。但だ(もと)むると貪るとを之れ病と為すのみ。 

岫雲斎
自ら求めないで与えられる名誉は実績の結果である。がつがつしないで得られた利益は正しい行為の結果である。かかるようにして得た名誉とか利益は嫌がる必要はない。ただ名誉は自ら求めたり、利を貪るというのは弊害をなすだけである。 

206.
実重くして名軽し

人皆謂う、「実重くして名軽し」と。()とより然り。然れども、名も亦容易ならず。其の実の(ひん)たるを以てなり。(ひん)(けん)なれば、則ち主の賢なること()()し。 

岫雲斎
実の有る者は皆「実質を重視すべきで、名目は軽視してよい」と言う。その通りである。然し、名目とても簡単に得られるものではない。何故ならば、名は実に付いてくる客のようなものだからである。客が賢明な人物ならば、主人もまた賢明な人である事は推して知るべしである。 

207.
実ある名は断らない
実有るの名は、必ずしも謝せず。我の賓なればなり。義無きの利は、(いやし)くも受けず。我れの(あだ)なればなり。 

岫雲斎
実質の有る名誉は、必ずしも断らない。それは、自分の来客だからである。正しい行いによらぬ利益はかりそめにも受けぬ。それし自分の仇敵だからだ。 

208.
名を好む士

名を好むの士は、全く取る可からず。又全く()つ可からず。名を好む、故に外其の美を飾る。我れは宜しく(しばら)く其の名を与えて、以て其の実を責むべし。 

岫雲斎
名誉を好む人は、その全部を良しとすることは出来ない。また、全部がダメだとも言えない。名誉を欲しがるから外面に美を飾ることになる、だから、自分は先ず彼に名誉を与えてからその実が挙げられているか、どうかで責めてみたい。

209.
功名に虚実あり
功名に虚実有り。実功は即ち是れ人事なり。自ら来るの名は、他の来るに任せて可なり。但だ(らん)(こう)虚名(きょめい)を不可と為すのみ。又(ことさ)らに其の実を避けて以て自ら(くら)ますも、亦或は私心ならん。 

岫雲斎
功績や名声を挙げるにも、本物とインチキがある。実のある功績は人間の一つの仕事である。その実のある功績により自然に生ずる名声は、それが来るのを任せて宜しい。ただ、濫りに功をてらったり、虚しい名誉を得ようとする事は良くないというだけだ。然し、反対に自分で挙げた実功を自分に無関係のように振る舞い自分らを愚か者のように装う事もわざとらしい作為的な心である。 

210.
にせものを誤るな

遊惰(ゆうだ)を認めて以て(かん)(ゆう)と為すこと勿れ。厳刻(げんこく)を認めて以て直諒(ちょくりょう)と為すこと勿れ。私欲を認めて以て志願と為すこと勿れ。 

岫雲斎
遊び怠けているのを見て、心が寛く、こせつかないと思うな。厳しく容赦しないのを見て真直ぐで偽りがないと思うな。利己的欲望をみて、志を立て実現を期待し計るものと思うな。

211.
名誉も不名誉も自己修養の資となる

名有る者は、其の名に誇ること勿れ。宜しく自ら名に副う所以を(つと)むべし。(そしり)()くる者は其の毀を避くる勿れ。宜しく自ら毀を来す所以を求むべし。是くの如く功を()けなば、毀誉(きよ)並に我に於て益有り。 

岫雲斎
名誉ある者はその名誉を毀損してはならぬ。自分の日常の行いをその名誉に相応しいものであるように務めなければならぬ。また世間に悪く言われる人は、その非難を避けてはならない。どうして誹られるようになったのかその原因を自ら考えて求めなくてはならぬ。このように工夫を積めば名誉も不名誉も共に自己にとり利益となる。

212.
実名も虚名も自ら来るに任せよ
虚名を(てら)いて以て実と為すこと勿れ。当に実名を謝して以て虚と為すべし。実名を謝して以て虚と為すこと勿れ。当に虚実を(ふた)つながら忘れて以て自ら来るに任すべし。 

岫雲斎
虚名をわざとらしく、みせびらかして、実績ありと世を欺くな。実績のある名声を辞退して本来無かったものとするがよい。いやいや、実績のある名声を辞退して、本来無かったものとしては良くないな。一番良いのは虚名も実名も両方とも忘れて自然に来るのに任せることだね。

213.
毀誉四則 
その一
毀誉(きよ)一套(いつとう)なり。()は是れ()の始め、()は是れ()(おわり)なればなり。人は宜しく求めずして、其の誉を全うし、毀を避けずして其の毀を免るべし。是れを之れ(たっと)しと為す。 

岫雲斎
謗りと誉めは一揃いのものだ。誉められる事は謗りの始めである。謗られる事は誉められる事の終りであるからだ。人は先ず誉められようとしないで、誉められる元になる行いを完全になし、徒らに謗られる事を避けようとしないで、根本的に謗られないように務めるのが良い。これが一番よいやり方である。 

214
毀誉四則 
その二
徒らに我を誉むる者は喜ぶに足らず。徒らに我を毀る者も怒るに足らず。誉めて当る者は、我が友なり。宜しく(つと)めて以て其の実を求むべし。毀りて当る者は、我が師なり。宜しく敬して以て其の(おしえ)に従うべし。 

岫雲斎
無闇に自分を誉めたり謗ったりする者があっても喜んだり怒ったりする事はない。誉められてその通り当たっている者は自分の友である。務めてそれに値いするように実を挙げねばならぬ。謗られて当たっている者は自分の師匠である。敬ってその訓に従うようにしなけらればならぬ。

215.
毀誉四則 
その三
人の人を毀誉するを聞くには、大抵其の(なかば)を聞けば可なり。(りゅう)(こう)謂う「人を誉むるに、其の義を増さざれば、則ち聞く者心に快しとせず、人を毀るに、其の悪を益さざれば、則ち聴く者耳に満たず」と。此の(げん)人情を尽くすと謂う可し。 

岫雲斎
人が人を謗ったり誉めたりするのを聴く時、大抵事実はその半分と思って聴けばよい。劉向という前漢の学者は「人を誉めるのに、その優れた所を大袈裟に言わぬと聴き手は面白く感じない。人を謗るにも、その悪い点をオオバーに話さないと聴き手は満足せぬ」と言った。この言葉は人情の機微を穿ったものだ。 

216毀誉四則 
その四

毀誉(きよ)(とく)(そう)は、真に是れ人生の雲霧なり。人をして昏迷せしむ。此の雲霧を一掃すれば、則ち天青く日白し。 

岫雲斎
不名誉、名誉、成功、失敗はまことに人生の雲や霧のようなものだ。これが人の心を暗くし迷わせている。この心の雲霧である毀誉得喪を、さっぱりと一掃すれば、天は青く、日は白く輝いており人生は誠に明るいものだ。

217
未見の心友、
日見の疎交
世には、未だ見ざるの心友有り。日に見るの疎交有り。物の?合(けいごう)は、感応の厚薄に帰す。 

岫雲斎
世間には一度も会った事が無くとも、心の通い合える親友がいる。また、毎日会っていても表面だけの交際に過ぎない人もいる。物の離合は、みな、心と心との感応の厚いか薄いかに依拠している。

218
翫物喪志か
人、往々文房の諸翫(しょがん)を以て寄贈す。余()(がん)(ぶつ)の癖無し。常用の()(げん)、皆六十年(がい)の旧物に係れり。但だ人の寄贈、其の厚意に出ずれば、則ち之れを(むな)しうするを欲せず。故に(つね)(しばら)く之れを座右(ざゆう)に置く。然るに知らざる者は、()て之れを(そし)り、以て、「翫物(がんぶつ)(そう)()」と為す。余(かっ)て此れを以て諸れを意に介せず。因て()た自ら(いまし)めて謂う、「人の事を(なさ)すは、各意趣(かくいしゅ)有り。(いたずら)に外面のみを視て、(みだり)に之れを毀誉するは不可なり。祇に以て己れの不明を視すに足る。益無きなり」と。 

岫雲斎人が時々、書斎用の諸道具を寄贈したくれる。
自は元来、物を(もてあそ)ぶ癖はない。

平常に使用している机や硯もみな60
年来の古い物である。
ただ、人の呉れるものは、その人の好意から出でいるのだから、無にしようとは思わぬ。
だから、何時でも暫くの間その寄贈物を座右に置いている。
然るに、この自分の気持ちを知らぬ人達は、これを見て私を謗り「つまらぬ品物を翫んで大切な志を失っている」としている。
 

219
我を毀誉するは鏡中の影
我れ自ら面貌(めんぼう)好醜(こうしゅう)を知らず。必ず鏡に対して而る後に之れを知る。人の我れを毀誉するは、即ち是れ(きょう)(ちゅう)影子(えいし)なり。我れに於て益有り。但だ老境に至り、毀誉に心無ければ、則ち鏡中にも亦影子を認めざるのみ。 

岫雲斎
私は自分の顔形が良いのか悪いのか知らぬ。鏡に写して初めて知る。他人が私を悪く言ったり、良く言ったりするのは、鏡に映る自分の影法師のようなものであって自分にとり益がある。ただ、現在は老境に至り、どう言われようと気にしないから鏡中に映る私の影も認めない。

220
人間の道は六経に尽きている
天道は、()べて是れ吉凶悔吝(きっきょうかいりん)にして、易なり。人情は、都べてこれ国風雅頌(こくふうがじゅ)にして、詩なり。政事は、都べて是れ訓誥(くんこう)(せい)(めい)にして、書なり。交際は是れ恭敬辞(きょうけいじ)(じょう)にして、礼なり。人心は、都べて是れ感動(かんどう)和楽(わらく)にして、楽なり。賞罰は、都べて是れ抑揚(よくよう)褒貶(ほうへん)にして、春秋(しゅんじゅう)なり。即ち知る、人道は(ろく)(けい)に於て之れを尽くすを。 

岫雲斎

天地自然の道は、総て吉と凶、ならびに悔いと恨みとが交替するもので易経にある通りだ。人情は、中国各地の民謡、朝廷の宴席の歌、宗廟を祀る歌などが書いてある詩経の通り。政事は、国民に教え告げること、誓いを立て戒めとする事など書経の通り。人と人との交際は、恭しく敬したり、人に譲ることで礼記の通り。人心は感動したり、楽しんだりするのが中心でもこれは楽記にある。賞罰は、抑えたり揚げたり、誉めたり貶したりする事で、春秋に書いてある。以上の通り、人道は、これら六経に全て言い尽くされているのを知るのである。

221
史学にも通暁せよ
史学も亦通暁(つうぎょう)せざる可からず。経の史に於けるは、猶お律に案断(あんだん)有るがごとし。推して之れを言えば、事を記すものは、皆之れを史と謂う可し。易は天道を記し、書は政事を記し、詩は性情を記し、礼は交際を記す。春秋は則ち言うを待たざるのみ。 

岫雲斎
歴史の学問にもまた通じ諳んじねばならぬ。経書と歴史の関係は、法律と判例のようなものである。推し広めて言えば、事跡を書くものはみな歴史と言える。易経は、天地自然の道理を記し、書経は政事を記し、詩経は人間の性質や感情を記し、礼記は人の交わりを述べたものである。何れも一種の史と見てよい。春秋に至っては、その歴史であることは言うまでもない。

222.
文章に熟達する法
文章は必ずしも他に求めず。経書を反復し、其の語意を得れば、則ち文章の熟するも、亦其の中に在り。 

岫雲斎
文章を上手に書こうとするには、何も他書を求めることはない。経書を繰り返し熟読してその意味が分かってくると文章は自然に上達するものである。
(経書=五経=易経、書経、詩経、礼記、春秋。)

223.
政事偶感
政に(かん)(もう)有り。又寛中の猛有り。猛中の寛有り。唯だ覇者は、能く時に従い処に随いて、互に其の宜しきを得ることを為す。是れは則ち管晏(かんあん)の得手にして、人に(まさ)る一等の処なり。(そもそも)其の道徳の()に及ばざるも亦(ここ)に在り。 

岫雲斎
政事に寛大なのと厳正なのとがある。また、寛大の中に厳正なのがあり、厳正の中に寛大なのがある。ただ覇者即ち武を以て天下をとつた者は、よく時に従い、所に従って、寛と猛とを宜しく使ってゆくものだ。この事は、斎の宰相だつた管中と晏嬰(あんえい)が得意な所で、常人を抜きん出ていること一等であった。

224          
古書は必ずしも信ず可からず
古書は()とより宜しく信ずべし。而れども未だ必ずしも悉くは信ず可からざる者有り。余()って謂う、「在昔(ざいせき)通用の器物は、当時其の形状を筆記する者無かりき。年を歴るの久しきに至って、其の器も亦乏しくして、人或は其の後に及びて真を失わんことを慮り、()って之れを記録し、之れを図画し、以て()れを後に(のこ)せり。然るに其の時に至れば、則ち記録図画も、亦既に頗る謬伝(びゅうでん)有るなり。書籍に至りては、儀礼周官の如きも、亦此れと相類す。蓋し周季の人、古礼の将に(ほろ)びんとするを(うれ)い、其の聞ける所を記録し、以て()れを後に(のこ)せり。其の間全く信ず可からざる者有り。古器物形状の紕謬(ひびゅう)有ると同一理なり。之れを周公の(あら)わす所なりと謂うに至りては、則ち固とより妄誕(もうたん)なること()きのみ」と。 

岫雲斎

古い書物はもとより信じなくてはならぬが、そうかと言って、どれもこれも全て信じる事はできない。私は過去にこういったことがある。「昔、通常に用いられた道具類も当時に形状を写して記録したものはなかった。年月を経て、このままでは後に全くその真実の形状が分らなくなってしまうと心配してこれを記録して形を図面にして後世に残した。然し、これも年月を経ると様々に伝写されてその記録や形状に間違いが発生するに至るものである。

書物に於ても、儀礼や周官などもこの類いである。思うに、周末の人が古い礼式の滅びるのを憂い、伝聞を書き残したものである。その中には、全く信じる事の出来ないものもある。古器物の形状の誤謬も同様の理由である。これを周公が著わす所であるなどと言うのは出鱈目であるのは言うを待たない」と。

225.
下品な雑書は読むべからず
稗官(はいかん)野史(やし)裡説(りせつ)、劇本は、吾人宜しく淫声(いんせい)()(しょく)の如く之れを遠ざくべし。余、年少の時、好みて之等の書を読みき。今に到りて追悔すること少からず。 

岫雲斎
小説、軍事本、伝説、芝居の脚本などは、淫らな音楽や女色のように遠ざけねばならぬ。私は若い時、これらの本を好んで読んだが、今は大いに後悔している。

226.
読書は本文に熟して後、註を見よ
学生の経を治むるには、宜しく先ず経に熟して、而る後()れを註に求むべし。今は皆註に熟して、経に熟せず。()れを以て深意を得ず。関尹子(かんいんし)曰く「弓を善くする者は、弓を師として、?(げい)を師とせず。舟を善くする者は、舟を師として、ごうを師とせず」と。 

岫雲斎
学生が経書をマスターするには、まず経書の本文に十熟してから意味の不明な箇所を註釈に求めるのが良い。最近の学生は、みな註釈にはなれるが本文に習熟しようとしない。関尹子(かんいんし)に「弓の上手な者は弓そのものを師匠として、弓の名人である?(げい)(弓の名人の名)を師としない。舟の操縦の巧みな者は、舟そのものを師匠として舟こぎの名人・ごう(舟こぎ名人の名)を師としない」とある。其の通りである。

227.
百工は各々工夫あり
百工(ひゃくこう)は各々工夫を()けて、以て其の事を成す。故に其の為す所、往々前人に超越する者有り。独り我が儒は、則ち今人(こんじん)多く古人に及ばず。(そもそも)、何ぞや。蓋し徒らに旧式に(なず)みて、自得する能わざるを以てのみ。能く百工に()じざらんや。 

岫雲斎
色々な職に従事している人々はみな工夫をして仕事をしている。だから、その成す所は往々にして先輩の仕事を凌駕する。ただ、我が儒学では、今の者は古人に及ばない。なぜかと思うに、徒らに旧来の形式に拘泥して聖賢の道を自ら会得できないからである。儒者の諸君よ、百工に対して恥ずかしいと思わぬか。

228.
志は不朽にあるべし
人は百歳なる能わず。只だ当に志、不朽に在るべし。志、不朽に在れば、則ち(ぎょう)も不朽なり。業、不朽に在れば、則ち名も不朽なり。名、不朽に在れば、則ち世々(よよ)子孫も亦不朽なり。 

岫雲斎
人間は百歳までの寿命を保つことは困難である。ただ志は永久に朽ちないものでありたい。志が永遠に朽ちないものであれば事業も朽ちることはない。事業が朽ちないものであれば、その名も永遠に朽ちない。名が朽ちなければ子孫も不朽である。

229.
書を著して後世に残す
凡そ古器物、古書画、古兵器、皆な伝えて今に存す。人は則ち世に百歳の人なし。撰著(せんちょ)以て()れを後に遺すに()くは()し。此れ則ち死して死せざるなり。 

岫雲斎
古い器物、古い書画、古兵器などは全て今日まで伝えられて残っている。然し、人は百歳まで生きてはおられない。だからも書物を著わして後世に自分の考えを残すのが良い。さすれば、肉体は消滅しても自分の精神は永久に生きていることとなる。

230.
著述上の注意
眞を写して後に遺すは、我が外貌を伝うるなり。或は似ざることあり。儘、醜に、儘、美なりとも、亦(いず)くんぞ害あらん。書を著わして後に(のこ)すは、我が中心を伝うるなり。或は当らざること有れば、自ら誤り人を誤る。慎まざる()けんや。 

岫雲斎
肖像画を後日に残すのは、自分の外貌を伝えるものである。それが自分に似ていないこともある。然し、醜くても、綺麗でも、害は無い。然し、書を著わして後世に残すのは、自分の本当に思っている事を伝えるものである。もし書の中の主張に不当なことがあれば、自分を誤り、読者をも誤らせることとなる。著述に当たっては慎まなくてはならぬ。

231.
賢者は著述して楽しむ

古の賢者、志を当時に得ざれば、書を(あらわ)して自ら楽しみ、且つ之れを後に遺しき。一世に於ては則ち不幸たり。而れども其の人は則ち幸不幸無し。古今此の類少からず。  

岫雲斎
昔の賢者は、その時代に己の志を得ず失意の時は著述して自ら楽しみ後世に遺した。生きていた時代は不幸であったかもしれないが、後から考えれば、その人は別に幸でも不幸でもない。古今にこのような類いは少なくない。(孔子も孟子も然り)

    佐藤一斎 「言志耋禄」その九 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

232.
数ある数と数なき数
数有るの数は(せき)なり。数無き数は理なり。邵子(しょうし)は則ち数有るの数を以て、数無きの数を説く。(こう)(きょく)経世(けいせい)、恐らくは未だ拘泥(こうでい)を免れざらん。 

岫雲斎
形状があって見聞し得るものは(せき)である。形が無くて見聞し得ないものは理である。宋代初めの大儒・邵康節は、その(せき)を以てその理を説いたから、彼の「(こう)(きょく)経世(けいせい)書」は幾らか事象に拘泥した点が見られる。

233.
天は測るべし、人は測る可からず
天は測る()からずして、而も或は測る()し。人は測る()くして、而も或は測る()からず。 

岫雲斎
天地自然のなす所のものは推し測る事は出来ないようであるが時には予測できる事もある。(天には必然の理あり)。だが、人間のなすことは大抵予測できるようであるが、時に予測不能なことがある。
   (人間の自由意志)

234.
形而下の数理と形而上の道理
西洋の窮理は、形而下(けいじか)の数理なり。周易の窮理は、形而上(けいじじょう)の道理なり。道理は、(たと)えば則ち根株(こんしゅ)なり。数理は、譬えば則ち枝葉(しよう)なり。枝葉は根株より生ず。能く其の根株を得れば、則ち枝葉之れに従う。窮理者は宜しく(えき)()よりして入るべきなり。 

岫雲斎
西洋の窮理、即ち自然科学は、有形現象の法則を研究するものである。
易経の窮理は、無形の、思推(しすい)の道理の学問である。
易の道理は、根や株の如きものである。西洋の科学は枝葉のようなものである。枝葉は根株より生ずる。
従って、根株を会得すれば枝葉はこれに従って会得できる。だから、理を窮めんとする者は「易」の理法より入るがよい。

235.
騎兵戦 三則 
その一

吾が国、古代に於て()(せん)有り。後に及んで甲越並に兵に(くわ)し。(ここ)に於て軍伍(ぐんご)各々成法有り。戦に臨み卸騎(しゃき)歩戦(ほせん)す。但だ乱軍、敵を追うに騎を用うるのみ。然れども変に応じて戦闘し、一定無ければ、則ち騎戦も亦講ぜざる容からず。 

岫雲斎

現代的に意味なく省略。

236騎兵戦三則 
その二

騎戦はもつぱら馬足の蹂躙に在り。故に宜しく数十騎を連ねて縦横馳突(ちとつ)すべし。則ち唯だ其の時の宜しきのみ。 

岫雲斎

現代的に意味なく省略。

237
騎兵戦 三則 
その三
「騎戦の時、槍を(ふる)い刀を(めぐ)らすには、宜しく力、後足(あとあし)に在るべし。槍は突かんと欲し、刀は撃たんと欲して、力、前足に在らば、則ち必ず顛墜(てんつい)を致さん。(いまし)()し」と。 

岫雲斎

現代的に意味なく省略。

238.
武術者は儒にも求めよ
世の武技を為す者、妙処必ず之れを禅裡(ぜんり)に帰して、而も之れを吾が儒に求めることを知らず。(こころみ)に思え、郷党の一篇、聖人の俯仰(ふぎょう)進退、一動一(せい)、節に(あた)らざる()きを。即ち是れ天来絶妙の(ところ)文武(ぶんぶ)真に()()無し。 

岫雲斎
世の武芸者は、武道の妙処を禅の悟りに帰着せしめていて、それを我が儒教に求めることを知らない。
試しに考えてみるがよい、論語の郷党の一篇、聖人孔子の立ち居振る舞い、一挙一動は何れも皆、「かた」にはまらないものはない。
これは天から受けた絶妙の点であって、文の道即ち儒学と武の道とは異なったものではないのである。

239           本物は

(しん)(ゆう)(きょ)の如く、真智は愚の如く、真才は鈍の如く、(しん)(こう)(せつ)の如し。 

岫雲斎
真の勇気ある者は慎み深いから臆病者のようだし、本当に智慧のある者は、よく考えるから愚者のようだ。真の才人は、容易にその才を示さないから鈍物のようだし、本当に巧みな人は素人にはその巧みさが分らないから恰も下手なように見える。

240.
儒者は英気を養うべし
今の儒者は、徒らに書蠧(しょと)となりて、気力振わず。宜しく時に武技を試みて、以て英気を養うべし。文学に於ても亦益有り。余は齢(すで)(てつ)なり。今は則ち()みぬ。但だ人をして之れを肄習(いしゅう)せしめんのみ。 

岫雲斎
現代の儒者は書物の「しみ」で書庫にかじついておるばかりでさっぱり元気がない。時には武術を練習し大いに英気を養うべきである。そうする事は文学上にも益がある。私は加齢してもう80歳になったから今はもうやらない。ただ他人をして習わせようとしているだけである。

241.
文士武事を忘れるな
歴代の帝王、唐、()を除く外、真の禅譲無し。商、周以下、漢より今に至るまで、凡そ二十二史、皆武を以て国を開き、文を以て之れを治む。()って知る、武は猶お質の如く、文は則ち其の毛採(もうさい)にして、()(ひょう)(けん)(よう)に分るる所以なることを。今の文士、其れ武事を忘る可けんや。 

岫雲斎
中国歴代の帝王で、(ぎょう)帝と(しゅん)帝以外は真に在位中に位を譲った者はいない。商や周から秦・漢を経て今日まで、凡そ22の王朝はみな武力を以て国を開き、文を以てこれを治めている。かかる事実から、武士は身体のようなもので、文はその毛の色どりであり、この二つから虎とか豹とかが分かれるようなわけである事を知る。今の文学を勉める者は武事をも忘れてはならぬ。

242.
易理と人事三則その一

白賁(はくひ)は、是れ礼文(れいぶん)極処(きょくしょ)にして、噬?(ぜいごう)は、是れ刑政の要処なり。(まつりごと)に従う者、宜しく其の辞を(もてあそ)び以て其の()を得べし。可なり。 

岫雲斎
易経の教えによると、白賁(はくひ)とは白色の飾りの義で「質素を尚ぶは飾りなきにあらざるなり。華をして実を失わしめざるなり」とある。質実にして文飾を失わざる(かたち)で、これは礼儀文飾の最善である。また噬?(ぜいごう)とは物を噛み砕くの義で「噬?(ぜいごう)(とお)る。獄を用うるに利す」とあり刑事断獄の肝要な所である。政治を行う者は、この二つの言葉を熟読玩味してその本旨を会得するべきである。

243.
易理と人事三則その二

凡そ物に軽重有り。虚実有り。以て変化を成す。皆、()未済(びせい)(しょう)なり。聖人既に此の象を立てて以て人に示して、而も人未だ其の?(みょう)()らず。(すべか)らく善く翫索(がんさく)して之れを得べし。 

岫雲斎
全て物には軽重があり、虚実があり色々に変化する。これはみな易経の「()即ち(ことごと)く成ると「未済(びせい)」即ち事未だ成らずという卦の現象である。聖人が既にこの変化の現象を示したが人々はその変化の妙を知らずにいる。これも又よくよく玩味して会得しなくてはならぬ。

244.
易理と人事三則その三
天、地に資して、万物(ゆたか)に、(みず)、火に資して(てん)功済(こうな)る。人倫五(きょう)、皆此の理を具して、()(こく)治まる。(すべか)らく善く省察(せいさつ)して自得すべし。 

岫雲斎
易の理による考察であるが、天が地と助け合って万物が安らかに生まれる。水と火が助け合い天の作用が成就する。人間の道である五倫の教えは、みなこの理を具えているのだから、この理により始めて家庭も国家も治ってゆくのである。我々はよくよく反省してこの道理を会得しておくがよい。 

245.
水火の訓三則 その一
水火は霊物なり。(たみ)、水火に非ざれば、則ち生活せず。水火又能く人を焚溺(ふんでき)す。天地生殺の権、全く水火に在り。 

岫雲斎
水と火は霊妙不思議なものだ。もし水と火が無ければ人々は生活不能だ。また水と火は人を溺死させたり焼き殺したりもする。天地間の生殺与奪の権力は全く水と火にある。

246.
水火の訓三則 その二
天地の用は、水火より大なるは()し。天地は体なり。満世界は皆水火なり。故に敬す()き者、水火に()くは()く、(おそ)る可き者も、亦水火に()くは()し。 

岫雲斎
天地の作用の中で、水と火より大きいものはない。天地は本体である。現象世界の全ては水と火の働きによっている。だから敬すべきものも、恐るべきものも水と火に及ぶものはない。

247.
水火の訓三則 その三
水火は、是れ天地の大用(たいよう)なり。物に()りて形を成し、定体(ていたい)有ること無し。近ごろ西洋(いだ)す所の()(こう)小大(しょうだい)の器物を観るに、蓋し皆水火の理を尽くし、以て之れを製せり。大砲汽船の如きも、亦水火の理に外ならざるなり。 

岫雲斎
水と火は天地間で大きな作用をするものである。水も火も物により形をなすもので定まった形というものはない。近年も西洋の作りだす大小の奇妙且つ巧みな器械類を観ると、みなこの水と火の道理を駆使して製造したものである。大砲、汽船、みな水と火の道理を利用したものである。

248
舶来品に対する感想
凡そ物は、()(こう)賞す可き者有り。雅素(がそ)賞す可き者有り。奇巧にして賞す可きは、一時の賞なり。雅素にして賞す可き者は則ち無限の賞なり。真に之れを珍品と謂う()し。蘭人(らんじん)(もたら)(きた)る物件は、(おおむ)ね奇巧なり。吾れ其の雅致(がち)無きを知る。但だ其の精巧は、則ち(おそ)る可きの一端なり。 

岫雲斎
品物にはすべて奇巧、即ち奇妙かつ精巧で賞めるべきものと、雅素即ち高尚で飾り気がないので誉めるべきものとがある。前者は一時的なものであり後者は何時までも誉めるべきものだ。これが本当に珍品と言える。オランダ人の持って来る品物は概ね奇妙精巧であるが、雅致に欠ける。ただ、その精巧さつ実に恐るべきものの一端である。

249
敬すべきは天、恐るべきは人

雷霆(らいてい)地震は、人皆驚けども、而も未だ大に驚くに至らず。但だ大熕(たいほう)一たび響いて、不意に()でなば、則ち喫驚(きっきょう)するを免れじ。其の人為(じんい)に出ずるを以てなり。(ここ)に知る、敬す可きは天にして、(おそ)る可きは人なることを。 

岫雲斎
激しい雷や地震に人はみな驚くが、大いに驚くという程のものではない。ただ、大砲が一発ドンと不意に響くと驚嘆する。それは人間の仕業によるからだ。だから敬すべきは天であり恐るべきは人であると知るのだ。

250.
東方の人は義勇、西方の人は智慧

「帝は(しん)に出ず」とは、日出(ひいずる)の方なり。故に東方の人は義勇有りて、震発(しんぱつ)の気多きに居る。(すなわ)ち頼む可きなり。「()(よろこ)び言う」とは、日没の方なり。故に西方の人智慧有りて、()(えつ)の気多きに居る。(かえ)って(おそ)()きなり。(えき)()()くの如し、宜しく察を致すべし。 

岫雲斎
易理によると次ぎの如しである。「易経に、帝、即ち造化の主宰者は、震に出ず」とある。震は東方の日の出る方角である。だから東方の人、日本人は義勇の精神に富み、震い立つ気概があるから頼みに足る事が出来る。また易経に「()(よろこ)び言う」とあるが、兌は西方角であり日没の方角であり、西方の人はみな智慧があり喜びの気が多く恐るべきである。易の理はこの通りである、よくよく考えなくてはならぬ。

251.          
唐虞の治は情

(とう)()()は、()だ是れ(じょう)の一字のみ。極めて之れを言えば、万物一体も、(じょう)(すい)に外ならず。 

岫雲斎
尭帝と舜帝の政治は理想的であった。要するにそれは情の一字に帰着する。これを極言して言えば、宇宙万物はみな一体であり、万物を一体ならしめるものは何かと言えば「情」を推し広げたものにほかならないのだ。

252.          
人君五則 
その一

人君たる者は、宜しく下情(かじょう)に通ずべきは、(もと)よりなり。人臣たる者も、亦宜しく上情(じょうじょう)に通ずべし。(しか)らざれば諫諍(かんそう)(てき)ならず。 

岫雲斎
君主たる者は、下々(しもじも)の事情に通じなくてはならぬ事は申すまでもなし。また、人の臣たる者も、上の事情に通じなくてはならぬ。さもなくば、幾ら人君を諫めても的外(まとはず)れとなろう。
253.          
人君五則 
その二

(じん)(しゅ)は宜しく大体を()ぶべく、宰臣は宜しく国法を()るべし。文臣は教化(きょうか)を敷き、武臣は士職を励まし、其の()小大(しょうだい)有司(ゆうし)、各々其の職を守り、合して以て一体と()らば、則ち国(おさ)むるに(たた)らじ。 

岫雲斎
元首は大局を掴む、大臣は国家の法律を執行する。文官は主として教化即ち国民を教え感化し、武官は武士の職務を督励する。そして、その他の役人が各々その職分を守る。このように全体が一体とならば国家は自然と治まる。 

254.          
人君五則 
その三
人主は最も明威(めいい)を要す。(とく)()()れ威なれば則ち威なれども(もう)ならす゜。(とく)(めい)()れ明なれば、則ち明なれども察ならず。 

岫雲斎
元首は徳明と徳惟が大切。徳威は徳の備わった威厳であるから、威はあるが猛からずである。徳明も徳の備わった明哲である。これは又明察であり苛察ではない。つまり大局が正しければよい。細かいことは見て見ない振りをするようでなくてはならぬ。

255.          
人君五則 
その四

(じん)(くん)たる者は、臣無きを(うれ)うるこの()く、宜しく(きみ)無きを患うべし。即ち(くん)(とく)なり。人臣(じんしん)たる者は、君無きを患うること(なか)れ。宜しく臣無きを患うべし。即ち臣道なり。 

岫雲斎
元首たる者は、部下に賢臣のいない事を心配しないで、明君のいない事を心配するがよい。つまり、自分が名君であらねばならぬのだ。これがトップの徳である。臣たる者は、明君のいない事でなく自分が果して賢臣であるかを問うべきである。これが臣下たる者の道である。 

256.          
人君五則 
その五
人或は謂う「人主は宜しく喜怒哀憎を(あらわ)さざるべし」と。余は則ち謂う「然らず、喜怒(きど)(せつ)に当り、愛憎実を得れば、則ち一頻一(いちびんいち)(しょう)も、亦仁政の在る所、徒らに外面を飾るは不可なり」と。 

岫雲斎
人は或は「人の上に立つ者は、喜・怒・愛・憎を顔色に出さぬがよい」と言う。然し、私は「そうではないと云う。喜びも怒りも、事実によく的中しており、愛も憎しみも事実と違わなければ良いと考える。換言して言えば、そのようであれば、上に立つ人間が顔をしかめるのも、笑うのも、また仁慈の政治を現すものであり徒らに外形を飾るのは宜しくない」と申しているのだ。

 

257.          
幕政謳歌論
漢土三代以後、封建変じて群県と為る。(これ)以て其の()(おおむ)ね久しきこと能わず。(たまたま)晋史(しんし)を読む。()(しん)()う、「国の藩屏(はんぺい)有るは、猶お川をわたるに舟楫(しゅうしゅう)有るがごとし、安危(あんき)成敗(せいばい)()(じつ)(あい)()す。藩屏()って固くば、乱何を以て階を成さん」と。其の言是くの如し。而も(いきおい)変ずる能わざるを、独り西土(せいど)のみならず、万国皆然り。邦人何ぞ其の(たい)(こう)を忘るるや。 

岫雲斎
中国に於いても、夏・殷・周の三代以後、即ち秦の始皇帝の時代から封建制度が変り郡県制度となった。こうなってからは、その政治を久しく保つ事が不可能となった。たまたま「晋書」を読むと、史官の言うには「国に諸侯があるのは川を渡るのに舟があるようなもので、安危も成敗(せいはい)も諸侯が相助けてゆくわけで、諸侯の守りが堅ければ乱の起こることはない」とある。誠にその通りだ。然し、時の勢いで変化出来ないのは独り中国ばかりではなく世界各国はみな同然である。処がわが国は現在も幕藩封建制度である。この大きい幸いを国民は忘れているようだが、忘れてはならぬ。 

258.          
大臣の心得
凡そ宰臣たる者、徒らに成法に拘泥して、変通を知らざれば、則ち宰臣の用無し。時に古今有り。事に軽重有り。其の要は守る所有りて能く通じ、通ずる所有りて能く守るに在り。()(これ)れを得たりと為す。 

岫雲斎
凡そ一国の大臣たる者は、徒らに成文の法律の文面に拘らずに臨機応変に事件処理に当らねばならぬ事を知らねば大臣たる資格はない。時間的には昔と今は異なるし事柄にも軽重がある。肝心な事は、既成法律の範囲を脱しないことである。このような事をすることを、その道を得た者と言うのである。

259.          
上官は好みあるは不可
上官たる者は、事物に於て宜しく嗜好無かるべし。一たび嗜好を示さば、人必ず此れを以て?(いん)(えん)す。但だ義を(たしな)み善を好むは、則ち人の?(いん)(えん)も亦(いと)わざるのみ。 

岫雲斎
上役たる者は、物事について好みがあってはならぬ。一たび、好みを示すと部下は、それを手づるに栄進を求めて迫ってくる。ただ、正しい道、良い事を好むならば人が幾ら「つて」を求めて来ても構わない。

260.          
政事に従う者の心得
人事には、外変ぜずして内変ずる者之れ有り。名変ぜずして、実変ずる者之れ有り。政に従う者は、宜しく名に()りて以て其の実を責め、外に()きて以て()れを内に求むべし。可なり。 

岫雲斎
人間のなす事には、外見は少しも変わらぬが、内容は変わっているものがある。また、名は変化ないが、実質が変わっているのがある。政事に従う者は、宜しく、名目を頼りに内実がどうなっているかを探求しなくてはならぬ。外見に関しても、その実体がどうなっているのか探究しなくてはならぬ。 

261.          
英主と暗君

(ぐん)小人(しょうじん)(えき)して以て大業を興す者は、英主なり。(しゅ)君子(くんし)()てて而して一身を亡す者は、(あん)(くん)なり。 

岫雲斎

多くの小人を使って大事を興す人は英邁な君主である。多くの君子を捨て用いないで我が身を亡ぼす者は愚昧に君主である。


 佐藤一斎 「言志耋禄」その十 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

262.          
非常の士は用うべし
(ここ)に非常の士有らば、宜しく()くとりて之れを用うべし。我れ之れをとれば、則ち彼れ吾が用と()る。大用する能わずと雖も、而も亦世の観望たり。若し()れをして親昵(しんじつ)を得ざらしめば、則ち必ず他人の(ゆう)と為らん。(ただ)に吾が用を為さざるのみならず、(かえ)って害有り。 

岫雲斎
人並みでない優れた人物がおれば、自分の手元において使うがよい。手元におけば、彼は自分の用をする。彼を存分に用いなくても世間へのみせびらかしになる。彼を自分が手なづけ得なかったら他人に用いられる。そうなると彼はただ自分の用をなさないだけでなく自分の害の存在となる。

263.          
功と利
功利の二字、()不好(ふこう)の字面に非ず。民の利する所に()って之れを利すれば、則ち虞廷(ぐてい)も亦功を以て禹禹を称せり。()だ謀と計とを以て病と為すのみ。学者之れを(つまびらか)にせよ。 

岫雲斎
功と利の二字は決して好ましなくい字ではない。世の為、人の為になる事に就いて利すれば、舜帝の朝廷でも禹をして治水の功をなさしめて賞賛した。ただ自己の功利を得る為に色々と企むことが弊害となるだけである。学問する者はよくよくこの点を心得ておかねばならぬ。

264.          
官吏の心得二則 
その一
官署(かんしょ)に在りては、(げん)の家事に及ぶを戒む。家に在りては、則ち一に官事(かんじ)を洩すこと(なか)れ。公私の(べん)は仕うる者の大戒(だいかい)なり。 

岫雲斎
役所では自分の家の事を喋ってはいけない。また自分の家で役所の事を少しでも洩らしてはならぬ。公と私の区別を明快にする事は官吏の最も大きな戒律である。

265官吏の心得二則 
その二
凡そ()()に在る者は、多く競躁(きょうそう)の念有り。蓋し此の念有る時は、必ず(すす)む能わじ。此の念を忘るるに至れば、則ち忽然(こつぜん)として一転す。事物の理皆然り。 

岫雲斎
凡そ官吏として仕えている者の多くは、競う心があるものだ。この心がある時は、却って出世も昇進もないものだ。この競争心を忘れて職務にただ専念するようになると忽ちにして昇進するようになるものだ。物事の道理は全てこんなものだ。 

266
遠方に行くもの正路を歩め

遠方に歩を試みる者、往々正路を()てて捷径(しょうけい)(おもむ)き、或はあやまりて(りん)もうに入る。(わら)う可きなり。人事多く此れに類す。特に之れを記す。 

岫雲斎
遠方に歩いて行く者は、折々正しい路を行かず近道を行こうとして過って林や草叢に入ることがある。笑うべきことだ。人生の事柄もこれに類する事が多いので特にこれを記しておく。

267
智仁勇は実事に試むべき

智仁勇は、人皆謂う「大徳にして企て難し」と、然れども凡そ(ゆうら)(さい)たる者は、()(しん)(みん)の職たり。其の(かん)(とく)を察し、()()(あわれ)み、強梗(きょうこう)(くじ)く。即ち是れ三徳の実事(じつじ)なり。宜しく能く実迹(じっせき)に就きて以て之れを(こころ)むれば、可なり。 

岫雲斎
智仁勇に就いて、多くの人々は「大きな徳だから企て望むのは難しい」という。然し、一村を主宰する者は、民に親しむのが本来の職務であるから、隠れた悪事を調べ正す智や、孤児や寡婦を憐れむ仁、奸悪な者を挫く勇気、これらが即ち三徳の実際事である。このように実際の事柄について試み実行してゆけば、それで良いのである。

268
訴を聴く道五則その一
訴を聴くの道は、仁以て体と為し、荘以て之れに(のぞ)み、智以て之れを察す。先ず其の言を聞いて(じょう)()(かんが)え、次に顔色(がんしょく)()真贋(しんがん)を弁じ、或は寛、或は厳、以て之れを抑揚(よくよう)し、然る後義以て之れを断じ、勇以て之れを行う。大抵是くの如きのみ。 

岫雲斎
訴訟を裁く方法は、仁慈を基本として、厳かにこれに臨み、智慧をしぼって調べなくてはならぬ。それには先ず被告の言葉つきから真情と虚偽を見抜き、次に顔色を観て本当か嘘かを更に洞察、或は寛大に、或は厳格に、そして抑えたり誉めてみたりして正しい道理に従い其の罪を断罪、勇気を振るって情実に流されないで罪状通りに決行しなくてはならぬ。このようにすれば大概、誤まりはない。

269
訴を聴く道五則その二
(しょう)を聴くには明白を要し、又不明白を要す。明白を要するは難きに似て(かえ)って易く、不明白を要するは、易きに似て(かえ)って難し。之れを()ぶるに仁智兼ね至るを以て、(さい)緊要(きんよう)()す。 

岫雲斎
訴訟を聴くには先ず、はっきりしている事が必要。また曖昧にしておく事も必要である。はっきりさせる事は難しいようで易しい。曖昧にしておく事は易しいようで難しい。何れにしても仁と智を兼備してする事が最重要ということになる。

270.
訴を聴く道五則 
その三
心事(しんじ)は、必ず面相(めんそう)と言語とに(あら)わる。人の邪正を知らんと欲せば、当に先ず瞑目して其の言語を聴き、然る開目(かいもく)して其の面相を()(ふたつ)ながら(あい)比照(ひしょう)し、以て其の心事を察すべし。()くの(ごと)くんば、則ち愛憎の(へん)無きに(ちか)からん。 

岫雲斎
人間の心にある事は必ず顔付きと言葉に表れるものだ。だから、或る人が正しいか(よこしま)を知ろうと思えば、目を(つむ)り其の人の言葉を聴きとり、それから目を開いて顔付きを観る、この二つを比較対照してその人の心に思っている事を洞察したらよい。こうして裁定した結果は愛憎とか好き嫌いの(かたよ)りのないものに近いであろう。

 

271.
訴を聴く道五則その四
「刑罰は世にして軽く世にして重くす」とは、此は是れ(りょ)(こう)経歴(けいれき)の名言なり。時代古今、之れを世と謂う。(すべか)らく善く活眼を開き以て之れを(けん)()すべし。必ずしも成法に(なず)まざれ。

岫雲斎
「刑罰は世、即ち時代によって軽くすべき事もあり、重くすべき時もある」とは呂公の経験から出た名言である。世とは時代とか古今のことである。刑罰を管掌する者は、善く事理を見分ける活きた眼を開き、刑の軽重を決めなくてはならぬ。それは必ずしも杓子定規的に成文の法律に拘泥しない事が肝要だということだ。

272.                  
訴を聴く道五則その五
訴訟には、既に其の(げん)(しょく)に就きて以て其の心を視聴すれば、則ち我れ当に先ず(へい)()(こう)(しん)を以て之れを待つべし。急心なるは不可なり。(けん)(しん)なるは不可なり。愛憎の心は(もっと)不可なり。 

岫雲斎
訴え事を聴くとは、その言葉や顔色を見ながらその心は如何と観察して裁くという事。それには自分の気持ちを平静に保ち、公平な心で対処しなければならない。焦った心で対応するのは最も悪い。いやいやの気持ちで対処するのは更に善くない。好き嫌いの心で臨むのは一番によくない。

273.                  
地方官の心得四則 
その一
凡そ郡官県令たる者は、民に父母たるの職なり。宜しく憫恤(びんじゅつ)を以て先と為し公平を以て要と為すべし委曲(いきょく)詳細(しょうさい)に至りては、則ち之れを俗吏に付して可なり。故に又俗吏を精選するを以て先務(せんむ)と為す。 

岫雲斎
全ての郡や県の長官たる者は、郡民や県民の父母として親切を尽くすべき職である。従って、憐れみ(いつく)しむの心を真っ先として、公平無私である事が肝要である。細々した事務は下役に任せて宜しい。だから下役を慎重に択ぶことが第一の努むべきこととなる。

274.                  
地方官の心得四則 
その二
郡官たる者は、百姓(ひゃくせい)を視ること児孫(じそん)の如く、()(ろう)を視ること兄弟(けいていい)の如く、(かん)()を看ること家人の如く、傍隣(ぼうりん)の群県を看ること族属婚(ぞくしょくこん)(ゆう)の如く、己れは則ち勤倹を以て之れを(ひき)い、専ら()()を以て(むね)と為さば可なり。 

岫雲斎
郡の長たる者は、郡民を子や孫のように可愛いがり、年寄りを兄弟のように助け合い、独身の男女を家族同様に取り扱い、隣り近所の郡や県とは同族や親族か友人のように打ち溶けて交わり、自分は勤勉節倹を以て人民を統率し専ら政治を簡素化することを第一の方針とすれば宜しい。

275.                  
地方官の心得四則 
その三
(しん)(みん)の職、尤も宜しく(つね)有る者を択ぶべし。()し才有って徳無くんば、必ず醇俗(じゅんぞく)を敗らん。後に善者有りと雖も、而も之を反すこと能わじ。 

岫雲斎
国民を治める職は大切で恒心ある者を択ばなくてはならぬ。もし、この職に在る者が才能は有るが人徳が無ければ、良い風俗が破綻するであろう。こうなってしまっては、後に善良な長官がやってきても醇風美俗の元に復元はできないであろう。

276.                  
地方官の心得四則 
その四

凡そ大都(だいと)を治める者は、宜しく其の土俗人気を知るを以て先と為すべし。之れが民たる者は、必ず新尹(しんいん)の好悪を覗う。人をして覗わざらしめんと欲すれば、則ち(ますます)之れを覗う。故に当に人をして早く其の好悪(こうお)を知らしむべし。(かえ)って()し。何の好悪(こうお)か之れ可と為す。()()(あわれ)、忠良を愛し、奢侈を禁じ、強硬を(くじ)く、是れを可と為す。 

岫雲斎
大都会の長たる者は、その土地の風俗や住民の気質を真っ先に知らねばならぬ。
都会の住民は必ず新長官の良否を知ろうとするものだ。
長官が住民に知られまいとすれば住民は益々知りたがる。
だから長官たる者は住民に早く自分を知らせるのがよい。
こうする事が却ってよいのである。

277.                  
教育の基本
教えて()れを()するは、()及び難きなり。()して之れを教うるは、(おしえ)入り易きなり。 

岫雲斎
教える事から始めて感化しようとしても容易に感化はできない。感化しておいてから教えると身につくものだ。(やる気を起こさせることが肝要)

278          
治国の眼目

治国(ちこく)(ちゃく)(がん)の処は、好悪(こうお)を達するに在り。 

岫雲斎
国を治める上での眼の()け所は、民の好む所、憎む所を遂げさせることにある。(大学十章「民の好む所は之を好み、憎む所は之れを悪む、之れを之れ民の父母という。)

279
愛憎忽ち変ず

美酒(びしゅ)(こう)(りょう)は、誠に口腹(こうふく)一時の適に過ぎず。既に腸内に入れば、即ち(すみやか)()して糞溺(ふんにょう)()るを以て(かい)()し、唯だ留滞(りゅうたい)して病を成すを(おそ)るるのみ。何ぞ其の愛憎忽ち変ずること然るか。(じん)(しゅ)の士女の愛憎に於けるも、亦此れに類す。 

岫雲斎
美酒美食は、口から腹までの一時の心地よさに過ぎない。腸内に入れば速やかに消化され大便・小便となり排泄されるのは快適であるが、何時までも腸内に停滞していて病気となるのは心配である。
愛憎の変化は何と甚だしいものか、君主が腰元に抱く愛憎もこれに類している。

280.
大名達への苦言
国の本は民に在り、人主之れを知る。家の本は身に在り、人主或は知らず。国の本の民に在るを知りて、之れを民に刻責(こくせき)し、家の本の身に在るを知らずして、自ら奢侈を極む。故に益々之れを民に責む。国の本既に(たお)れなば、其れ之れを如何せん。察すること無かる可けんや。 

岫雲斎
国家の本は民にあることを大名たちは知っている。家の本は自分の身にあることを大名達は知らない。国の本が民にあることを知っていて、容赦なく民を責め立て、家の本が身にあることを知らないで自ら贅沢を極める。奢侈により経済不如意となり益々民から租税を取り立てる。国の本である民が倒れてしまってはどうにもならなくなる。大名達はよくよく考えねばならぬ。

281.
時々古書画を展覧し心を養うべし

古書画は、皆古人精神の寓する所にして、(しょ)(もっと)(しん)()たり。此れに対すれば人をして敬を起して追慕(ついぼ)せしむ。宜しく時々之れを展覧すべし。亦心を養うの一たり。 

岫雲斎
古人の書や画はみな古人の精神が宿っているものである。中でも特に書は心の画とも言われその人の精神を現している。であるからこれに向うと自然に尊敬の念を起こしてその人を追慕してしまう。人々はこれらの古人の書画を時々展覧するがよい。これ亦、心を養う一つの方法である。

282.
清き物わが心を洗う

色の清き者は()()し。声の清き者は聴く可し。水の清き者は(そそ)ぐ可し。風の清き者は当る可し。味の清き者は(たしな)む可し。()の清き者は()ぐ可し。凡そ清き者は皆以て吾が心を洗うに足る。 

岫雲斎
色の清きものは観るのによい。声の清らかなものは聴くにのよい。水の清いものは口をそそぐのによい。風の清いものは吹かれるによい。味の清いものは嗜むがよい。香りの清いものはかぐべし。全て清らかなものは我々の心を洗うのによい。

283
道理に老少なし
身には老少有れども、而も心には老少無し。気には老少有れども老少無し。(すべか)らく能く老少無きの心を執りて、以て老少無きの理を体すべし。 

岫雲斎
人間の体には年寄りと少年の差はあっても、心には老少は無い。体の働きには老少があるが物の道理には老少はない。是非とも、年寄りはダメだとか、若者はダメだとかということのない心で以て、万古に不変の老少の無い道理を体得しなくてはならぬ。

284.
自己の身の程を知るべし
人は皆、往年の既に去るを忘れて、次年の未だ(きた)らざるを(はか)り、前日の(すで)に過ぐるを()てて、後日の将に至らんとするを(おもんばか)る。(これ)を以て百事荀(ひゃくじこう)(しょ)にして、終日齷齪(あくさく)し以て老死に至る。嘆ず()きなり。故に人は宜しく少壮の時困苦有り、艱難有るを回顧して、以て今の安逸たるを知るべし。()()れを自ら本分を知ると謂う。   

岫雲斎
人々は大抵過ぎた事は忘れてしまい、また来ない来年の事を考えたり、また前日過ぎ去った事を忘れ捨て、これから来るべきものを心配する。こんな次第で何事もいい加減となり一日中あくせくして遂に年を取り死ぬのである。これは誠に嘆かわしい。それでは、どうするかと言う事だが、若い時の色々な困苦とか艱難を回想しつつ現在安らかに暮らせている事の有難さを思うが良い。これが自分の身の程知るということである。

285.
天道も人事もゆっくりやってくる
天道、人事は、皆(ぜん)を以て至る。(たのしみ)を未だ楽しからざるの日に楽み、(うれい)未だ患えざるの前に患うれば則ち患免(うれいまぬか)()く、(たのしみ)(まっと)うす()し。(せい)せざる()けんや。 

岫雲斎
天道即ち、天地自然の変化とか、人の営みはゆっくりしたものである。だから、楽しみのこない中から楽しみ、心配事の来ない時から心配事が起きはしないかと準備しておけば、心配事は免れることができ、楽しみは全うすることができる。考えなくてはならぬ事である。

286.
敬は終身の孝である
人道は敬に在り、敬は()と終身の孝たり。我が()は親の()たるを以てなり。一息(いっそく)(なお)お存せば、自ら敬することを忘る()けんや。 

岫雲斎
人間の履み行うべき道は敬に在る。敬は申すまでもなく一生涯の親孝行の事である。自分の体は父母が自分に遺されたものだからだ。一息でもある限り自ら敬する事を忘れてはなにない。(敬は他人に対しては敬うこと。己に対しては慎しみである。)

287.
養生の秘訣は敬に帰す

道理は往くとして然らざるは無し。敬の一字は、()と終身の工夫なり。養生の(けつ)も、亦一()の敬に帰す。 

岫雲斎
物事の筋道というものは、どちらに往っても変わるものではない。(つつし)むの一字は、もと身を修める工夫であるが、暴飲暴食を慎むこどであっても生を養う要諦もまた敬の一字に帰着するのである。

288.
若死も長寿も天命

人命は数有り。之れを短長(たんちょう)する能わず、然れども、我が意、養生を欲する者は、(すなわ)ち天之れを(いざな)うなり。必ず(しゅう)(れい)を得る者も、亦天之れを(たま)うなり。之れを究するに(よう)寿(じゅ)の数は、人の(あずか)る所に非ず。 

岫雲斎
人間の寿命には一定の理法があり、人間がこれを長くしたり短くしたりは出来ない。然し、自分の意欲で養生をしようと望む者は、その人自身の発意によるのではなく、天が誘ってそうさせるのだ。また、必ず思い通りに長寿を得る者も天がそれを授けているのだ。究極の処、若死にか長寿かは人間の関与するものではない。

289
素分を守り食色を慎むべし
人情、(やすき)を好んで(あやうき)(にく)まざるは()し。宜しく素分を守るべし。寿(じゅ)を好んで(よう)(にく)まざるは()し。宜しく(しょく)(しき)を慎むべし。人皆知っても(しか)も知らず。 

岫雲斎
人情としては安逸を好み、危険を憎まない者はいない。ならば宜しく自己の本分を守るがよい。また人間として長生きを喜び、若死にを嫌がらない者はいない。ならば宜しく食欲と性欲を慎むがよい。人間はみなこの道理を知っているのだが、これを実行しない所を勘案すると本当は知ってはいないのであろう。

290.
老境の風光
余は老境(ろうきょう)懶惰(らんだ)にして、(こう)(けん)()べて()す。但だ言語飲食の慎み、()れを少壮(しょうそう)に比するに可なるに(ちか)し。又(ひるがえ)って思う。「此れ即ち是れ老衰して(しか)るのみ」と。 

岫雲斎
自分は年を取ってから無気力となり為す事が全て乱雑となった。ただ言葉と飲食の慎みだけは、若い時に比べると合格に近いようだ。一方で考えると「これは取りも直さず体が老化した結果」ということだ。 

291.
老人の養生法五則 
その一
視聴言動は、各々其の度有り。度を過ぐれば則ち病を致す。養生も亦吾が道に外ならず。 

岫雲斎
見たり、聞いたり、言ったり、動いたりする事は人それぞれに適度がある。適度を過ぎると病気になる。同様に養生の道も自分流がある。

292.
老人の養生法五則 
その二

食物には、口好みて腸胃好まざるもの有り。腸胃好むものは皆養物なり。宜しく択ぶ所を知るべし。 

岫雲斎
食べ物には、口は好むが胃腸の好まないものがある。反対に胃腸は好むが口の好まないものがある。胃腸の好むものは皆体を養う物である。だから、よく択ばねばならない。


  佐藤一斎 「言志耋禄」その十一 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

293.
老人の養生法五則 
その三

児孫(じそん)団集(だんしゅう)すれば養を成し、老友(ろうゆう)聚話(しゅわ)すれば養を為す。凡そ(きっ)慶事(けいじ)を聞けば、亦皆養を成す。 

岫雲斎
子や孫が団欒し集る事は老人の長生きの活力源となる。同年輩の老人が集り団話することも養生となる。全て目出度い事、喜び事を聞くことも養生になる。

294.
老人の養生法五則 
その四

遠歩(えんぽ)は養に非ず。過食は養に非ず。久坐(きゅうざ)は養に非ず。思慮を労するは尤も養に非ず。 

岫雲斎
老人の養生に悪い事は、遠くまで歩く、食べ過ぎ、長い間坐っている、一番悪いのは色々考える心労である。 

295.
老人の養生法五則 
その五

(しん)()を養うは、養の(さい)なり。体躯を養うは養の(ちゅう)なり。口腹(こうふく)を養うは養の()なり。 

岫雲斎
精神修養が養生の最上策、体を養うのは中策、口や腹を満たすのは養生の最下策。

296
老人に事を謀る時刻

老人に就きて事を謀らんと欲せば、宜しく午中(ごちゅう)前後に在るべし。(こん)()に至れば、則ち思慮(あやま)(やす)し。 

岫雲斎
老人に物事の相談をしようとするには正午前後が一番よい。夕方になれば考えが誤り易くなる。

297.
極老の人

(きょく)(ろう)の人は思慮昏かい(こんかい)す。(たと)えば猶お(すい)(えい)物倒(ものさかさま)となり、舟行(しゆうこう)、岸動くがごとし。彼此(ひし)を弁ぜず、唯だ有徳の老人のみ此の(こん)?(かい)無し。養の(もと)有るを以てなり。 

岫雲斎
ごく高齢の人は考えがぼんやりしており、とりとめがなくなる。それは水に写った影が逆さまとなり舟に乗っていると岸が動いて行くように見える様なもので、あれこれどれが本物か区別がつかない。ただ、修養を積んだ徳のある老人のみ、そのような事はない。その根底には日常の修練、心構えの基礎が確立しているからである。

298
老人の修養六則 
その一
老人は強壮を弱視(じゃくし)すること勿れ。(よう)(ちゅう)を軽侮すること勿れ。或は過慮少断(かりょしょうだん)にして事期(じき)(あや)()ること勿れ。書して以て自ら(いまし)む。 

岫雲斎
老人は強壮な若者を軽視してはならぬ。幼稚な者を侮ってはいけない。或は考え過ぎて決めそこない、決断の時期を誤ってはいけない。書して自らの戒めとする。

299.
老人の修養六則 
その二
老人は数年前の事に於て、往々錯記(さっき)誤認(ごにん)有り。今(みだ)りに人に語らば、少差を免れず。或は障害を()さん。慎まざる()からず。 

岫雲斎
老人は、数年前の事を、時々記憶違いや思い違いをする事がある。今それをそのまま人に話すと、聊かの間違いがあって差し支えを生むかもしれない。慎まねぱならぬ。

300
老人の修養六則 
その三
老人は気急にして、事、速成を好み、自重する能わず。含蓄する能わず。又(みだり)(じん)(げん)を信じて、其の虚実を察する能わず。(いまし)めざる()けんや。 

岫雲斎
老人は気ぜわしく何事でも早く片付けることを好み、じっくり考えることが出来ず、腹の中に蓄えておくことができない。また容易に人の言葉を信用してそれが嘘か本当か見極める事ができない。老人はよくよく自戒しなくてはならぬ。

301          
老人の修養六則 
その四

老人の事を処するは、(こく)に失わずして、()に失い、寛に失わずして、急に失う。(いまし)()し。 

岫雲斎
老人が物事を処理する場合、むごい事で失敗することはないが、仁慈をかけすぎて失敗しやすい。寛大で失敗はないが急ぐ事で失敗しやすい。気をつけねばならぬ。

302          
老人の修養六則 
その五
老人は(もっと)(そん)(じょう)を要す。 

岫雲斎
老人は若い人に譲って行くことが肝要である。

303          
老人の修養六則 
その六

任の重き者は身なり。途の遠き者は年なり。重任を任じて、而も遠途(えんと)(いた)す。老学尤も宜しく老力を励ますべし。 

岫雲斎
責任の重いのは我が身である。その重任を背負って行く道の遠いのは歳月である。換言すれば、人は重責を背負い、遠い道を運んで大目的を果たさなくてはならない。自分のような老学は宜しく老力を督励して死ぬまで学問に励まなくてはならない。 

304.
養老の法二十五則 
その一

常人(じょうじん)の認めて以て養と為す所のもの、其の実或は()って(せい)をそこなう。之れを薬に()りて病を発すと謂う。択ばざる可からず。 

岫雲斎
普通の人が薬と認めているものが実際にはそれを用いて生命を害するものがある。これを薬により病気を起こすという。口に入れるものはよくよく択ばねばならぬ。

305.
養老の法二十五則 
その二
老人の食物に於けるは、宜しく視て薬餌(やくじ)と為すべし。分量有り、加減有り、又生熟(せいじゅく)の度有り。 

岫雲斎
老人が食べる時には、これが体の薬だと心得ること。全て、口に入れるものには適量、味加減、熟成の度合いというものがある。

306.
養老の法二十五則 
その三
養老の法は、(あたか)()れ神道なり。心は静なるを欲し、事は簡なるを欲し、()は厚きを欲し、食は(やわらか)きを欲し、室は西南の暖きを欲す。 

岫雲斎
老人の養老法は、ちょうど神道、即ち地の道である。即ち天地が万物を育てるような心がけが必要、心は静か、万事に簡素、衣服は厚く、食べ物は柔らかく、部屋は暖かな西南の部屋が望ましい。(易経の地の道とは(こん)の道。坤の在り方は、()(せい)()(じゅう)()(こう)で西南に良いとある。) 

307.
養老の法二十五則 
その四
老人は速成を好む。戒むべし。荀便(こうべん)を好む。戒む可し。憫恤(びんじゅつ)に過ぐ。戒む可し。此の(ほか)(なお)執拗(しつよう)拘泥(こうでい)畏縮(いしゅく)過慮(かりょ)の数件有り、()べて是れ衰頽(すいたい)念頭(ねんとう)なり。(すべか)らく()く奮然として気を(おこ)し、此の念を破卻(はきゃく)すべし。 

岫雲斎
老人はせっかちで物事の早く出来上がるのを好むが戒めるべし。一時しのぎの便利な事を好むがこれも戒めるべし。また、人を憐れみ過ぎるのもよくない。その他、しつこい、一事にこだわり過ぎる、ものを畏縮する、心配し過ぎるなどの数件もある。これらは全て衰え弱った心の状態を示すものだ、是非共奮然として元気を起してこの観念を破り退けなくてはならぬ。

308.
養老の法二十五則 
その五
老人自ら養うに四件有り。曰く、和易(わい)。曰く自然、曰く逍遥(しょうよう)、曰く流動、()れなり。(もろもろ)激烈の(こと)皆害有り。 

岫雲斎
老人が自ら養生しなくてはならぬ事が四件ある。
一、心がやわらいでいる事。二、何事も自然の成り行きにまかせて焦らない事。三、境遇に安んじて、ゆったり楽しく暮す事。
四、一つの事に凝り固まらぬようにする事。なお、色々な肉体的と言わず精神的と言わず激しい事は、みな養生の害である。

309.
養老の法二十五則 
その六
老人はもつぱら養生に(こだわ)りて、或は(かえ)って之れを害す。但だ己甚(いじん)を為すこと勿れ。即ち是れ養生なり。 

岫雲斎
老人は専ら養生にこだわり過ぎて却って身体を害することもある。とかく何事も過度にならないことだ。 

310.
養老の法二十五則 
その七
養老の侍人(じじん)は、宜しく老婦練熟の者を用うべし。少年女子、多くは事を解せず。 

岫雲斎
老人の付き添いは年老いた婦人で物事によく習熟した者が宜しい。年若い女子は物事を知らぬから役に立たない。

311.
養老の法二十五則 
その八
老を養うに酒を用うるは、(れい)(しゅ)()しくは濁醪(だくろう)を以て()と為す。(じゅん)(しゅ)は烈に過ぎて、老躯の宜しきに非ず。

岫雲斎
老人の体の為には、甘酒かどぶろくがよかろう。上酒は強すぎて老体には適さない。((れい)(しゅ)=甘味の酒、濁醪(だくろう)=にごり酒、(じゅん)(しゅ)=濃厚な酒、上酒のこと。)

312.
養老の法二十五則 
その九
養老の(ほう)夜燭(やしょく)(あきらか)なるを要し、侍人(じじん)は多きを要す。児孫(そば)()()するも妨けず。宜しく人の気を以て養と為すべし。必ずしも薬餌(やくじ)を頼まず。 

岫雲斎
老人の日々には、夜は灯火が明るいのがよく、側には人の多いほどよい。子供や孫が側で喜んでいても差し支えない。要するに人のいる雰囲気が老人の為にはよい。必ずしも薬ばかりに依存しては宜しくない。

313.
養老の法二十五則 
その十
「その志を持して、其の気を養うこと無かれ」と。この(おしえ)は養生に於ても亦益有り。 

岫雲斎
心を一定方向にのみ向け感情を暴発させない、これは養生の益になる。

314.
養老の法二十五則 
その十一

花木(かもく)を観て以て目を養い、(てい)(ちょう)を聴いて以て耳を養い、香草(こうそう)()いで以て鼻を養い、甘滑(かんかつ)を食いて以て口を養い、時に大小字を揮灑(きしゃ)して以て()(わん)を養い、園中(えんちょう)??(しょうよう)して以て()(きゃく)を養う。凡そ物其の節度を得れば皆以て養と為すに足るのみ。 

岫雲斎
花の咲いた木を鑑賞して目を養い、啼く鳥の声を聞いて耳を養う、芳香のある草の香りをかいで鼻を養い、甘い口あたりのよう物を食べて口を養い、時には大小の字を揮毫して(ひじや)(うで)を養い、庭園を逍遥して股や脚を養う。これらの事、全て程好い度合であればみな自分の身の幸せとなる。

315.
養老の法二十五則 
その十二
心身は一なり。心を養うは(たん)(ぱく)に在り。身を養うも亦然り。心を養うは寡欲(かよく)に在り。身を養うも亦然り。 

岫雲斎
心と体は一つのものである。心を養うには淡白、即ち、「さっぱりとして物事に執着しない」ようにするのが良い。体を養うのも同じである。また、心を養うには欲望を少なくかるのがよい、体を養うのも同様である。 

316.
養老の法二十五則 
その十三

()今年(こんねん)辛亥(しんがい)(てつ)(れい)にして、衰老の(きょく)()()夙痾(しゅくあ)も亦同じく衰えぬ。()って思う。「今に於て宜しく外感(がいかん)(うれ)うべし」と。(すなわ)ち日に薬を服して預防(よぼう)し、又益々飲食を節し、起居(ききょ)を慎む。(ねがわ)くは以て一日を延べん。即ち亦身を守るの(こう)(しか)() 

岫雲斎
自分は今年80歳となり老い衰えの極みに達し同時にお腹の持病も衰えてきた。
それで「今からは外から犯される病気に(かか)らないようにしなければならぬ」と思う。
そこで毎日薬を飲んで予防し、また飲食を節し、寝たり起きたりに気をつけている。
願うことは、一日でも生き延びたいことだ。
この事が父母から受けたこの身を守る孝行ではなかろうか。

317
養老の法二十五則 
その十四
養生、(わたくし)()ずれば、則ち(よう)(ひるがえ)って害を招き、(おおやけ)に出ずれば、則ち養実に養を成す。公私の差は(ごう)(はつ)に在り。

岫雲斎
養生は我が身可愛さという私心から出ると、却って害を招く。国の為、夜の為に我が身を大切らするという公の心から出たものであれば、養生は本物となる。この公と私の違いは、ごく僅かなな所にあるので、よくよく注意が必要である。 

318.
養老の法二十五則 
その十五
凡そ事は度を過す()からず。人道()とより然り。則ち此れも亦養生なり。 

岫雲斎
何事でも度を越すことはよくない。人間の踏み行うべき道に就いても同じこと。「正しい道でも過ぎれば悪くなる」。養生に就いても同様である。

319.
養老の法二十五則 
その十六
老人の、養生を忘れざるは()とより可なり。然れども已甚(はなはだ)しきに至れば、則ち人欲を免れず。労す可きには則ち労し、苦しむ可きには則ち苦しみ一息尚お存しなば、人道を(あやま)ること勿れ。(すなわ)()れ人の天に(つか)うるの道にして、天の人を助くるの理なり。養生の正路は、(けだ)(ここ)に在り。 

岫雲斎
老人が養生を忘れないということは結構なことだ。然し、それが余り酷くなると私欲である。苦労する時は苦労し、一息でも息のある時は人間の道を踏み過ってはならぬ。これは人間が天に対し仕える道であり天が助けるの道理である。養生の正しい路は将にここに在るのだ。  

320.
養老の法二十五則 
その十七
老人は養生に托して以て放肆(ほうし)なること(なか)れ。養生に托して以て奢侈(しゃし)なること(なか)れ。養生に托して以て貪冒(とんぼう)なること(なか)れ。書して以て自ら(いまし)む。 

岫雲斎老人は養生にかこつけて勝手気ままにしたり奢りに耽ったり、無闇に欲張ったりしてはならぬ。自戒の為に書いておく。

321.
養老の法二十五則 
その十八
老を養うは一の(あん)の字を(たも)つを要す。心安く、身安く、事安し。何の養か之れに()かん。 

岫雲斎
老人の養生には「安」の一字を保つことがポイントである。即ち、心が安らかな事、身も安らかなこと、そして事をなすにも安らかである事。これ以上のものはない。

322.
養老の法二十五則 
その十九

清忙(せいぼう)は養を成す。()(かん)は養に非ず。 

岫雲斎
心に清々(すがすが)しさのある多忙は養生になる。余りにもひま過ぎるのは養生にならない。 


  佐藤一斎 「言志耋録」その十二 最終章

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

323.
養老の法二十五則 
その二十
暁には早起を要し、夜には熟睡を要す。並に是れ養生なり。 

岫雲斎
朝早く起き、夜はぐっすり眠る。この二つは養生である。

324.
養老の法二十五則 
その二十一

親没するの後、吾が()即ち親なり。我れの養生は、即ち親の()を養うなり。認めて自私と()()からず。 

岫雲斎
親が亡くなってからの自分の体は親の体と同じである。自分の養生とは即ち親の遺体を養うことである。決して私事と思うてはならぬ。

325.
養老の法二十五則 
その二十二

老人は()(ちょう)無きを(うれ)えずも、決断無きを(うれ)う。 

岫雲斎
老人は物事を慎重にしないということの心配は無い。だが思い切って決行しないことが懸念である。

326.
養老の法二十五則 
その二十三
老人は平居(へいきょ)索然(さくぜん)として楽しまず。宜しく(つね)()()を存し以て自に養うべし。 

岫雲斎
老人は普段は寂しく楽しくないものである。務めてにこにこと喜ばしい気分を出して自ら養生するがいいる

327
養老の法二十五則 
その二十四

老人は宜しく流水に臨み、遠山(えんざん)を仰ぎ、以て恢豁(かいかつつ)の観を為すべし。真に是れ養生なり。?()し或は(ふう)(かん)(おそ)れ、常に()を擁し室に在るは、則ち養に似て養に非ず。 

岫雲斎
老人は是非とも、流れる水を見たり、遠い山々を眺めたりし広大な観望をするがよい。これが本当の養生である。もし、風や寒さを恐れて夜着や布団を被って部屋に居るのは養生に似て養生ではない。

328一生の計 人生は二十より三十に至る、(まさ)に出ずるの日の如し。四十より六十に至る、日中の日の如く、盛徳(せいとく)大業(だいぎょう)、此の時候に在り、七十八十は、則ち衰退(すいたい)して、将に落ちんとする日の如く、能く為す無きのみ。少壮者は宜しく時に及びて勉強し以て大業を成すべし。()()(たん)或ること()くば可なり。 

岫雲斎
人間の一生は20から30迄は丁度、日の出の太陽のようなものだ。40から60迄は日中の太陽のようだ。偉大な徳を立てて、大業を成就するのはこの時代である。70から80の間は、体が衰え仕事が思うように進まない、恰も西に落ちようとする太陽のようで、何事もすることができない。若い人々は若い時代に一心に務め(いそ)しんで大きな仕事をするがよい。年老いてからは、日暮れて道遠し、と嘆くようなことが無ければよい。

329
養老の法二十五則 
その二十五
養老の一念、孝敬より出ずるは、()と天に(つか)うるの道たり。常人の養生は、或は是れ自私なり。宜しく択ぶ所を知るべきのみ。 

岫雲斎
養生の一念が親を敬い、身を慎むという観念から出たものであり天に仕える道である。常人の養生は我が身の為の私欲に拘ったものだ。養生は孝敬に基づくものであり択ぶ所を知らねばならない。
 

330.老人の決断

老人の決を()くは、神気(じんき)乏しきを以てなり。唯だ事理(じり)精明なれば、則ち理以て気を(ひき)い、此の弊無きのみ。 

岫雲斎
老人が決断力が鈍るのは精神の活力が乏しいからである。ただ事柄の筋道が明快でさえあれば、理屈が気力を引っ張って行くから弊害は起らない。

331.死して天地に帰す 老人の天数(てんすう)()うる者は、(ぜん)を以て移る。老いて漸く善く忘る。忘ること甚しければ則ち(もう)す。(もう)(きょく)(すなわ)(ぼう)す。亡すれば即ち?()して、原数(げんすう)に帰す 

岫雲斎
老人が天寿を全うするのは次第に移ってゆくもので急変するものではない。年とると物忘れする。
これが酷くなると耄碌(もうろく)である。耄碌の果ては死ぬこととなる。死ねば形骸を失い運命の原点に帰るのである。

332.老を頼むこと勿れ

少者(しょうしゃ)(わかき)()るること勿れ。壮者は壮に任ずること勿れ。老者は老を頼むこと勿れ。 

岫雲斎
若者は若いことをいいことにしてはならぬ。壮年の者は血気盛んにまかせてやり過ぎてはならぬ。老人は老齢をいいことにしてはならぬ。

333
孫は子よりも可愛い

親の道は慈に在り。人(おおむ)ね子に厳にして、孫に慈す。何ぞや。蓋し其の子に厳なるは(せき)(ぜん)の切なるを以て然り。(すなわ)ち慈なり。其の孫に慈するは、其の我れに代リ以て善を責むる者有るを以て、故に只だ其の慈を見るのみ。祖先の子孫に於けるも、其の情(けだ)し亦(あい)(ちが)いに(しか)らんか。 

岫雲斎
親の子に対する道は慈愛である。然るに、人は大抵、子には厳しく、孫に慈悲深いのは何故であろうか。それは、子に厳しいのは善行を勧める心が痛切な為である。このことは、やはり子に対する慈愛なのである。その孫に慈愛深いのは自分に代わって善を責める者がいるからで、ただ慈愛だけを見せることになる。祖先の子孫に対する情も、こういう具合に互いに、子には厳、孫には慈と、互い違いに伝わってきたのではなかろうか。 

334.老人の死

人道は只だ是れ(せい)(けい)のみ。生きて既に生を全うし、死して(すなわ)ち死に安んずるは、敬よりして誠なるなり。生死は天来、順にして之れを受くるは、誠よりして敬なるなり。()の短長を較べ苦楽を説くに至りては、則ち(つい)に是れ男女親族の私情にして、死者に於ては此の()(ねん)無きのみ。 

岫雲斎
人の踏むべき道は、ただ誠と敬の二つだけである。生きてその誠を全うし、死んでその死に安んずるのが敬の修養を積んで誠の道を得た結果である。生死は天の仕事で人力のなすすべの無いものであり従順に天命を受けるのは誠の修養から敬の道を得たものである。誰が短命で誰が長命だとか、苦しんで死んだとか楽に死ねたとか言うのは子供や親族の私情であり亡くなった者に於ては、そのような考えは遺しておらない。 

335.長生久視は言うに足らず

人身の気脈は、(うしお)と進退し、月と盈縮(えいしゅく)すれば、則ち死生は()と定数有り。但だ養生して以て()くる所の数を全うするを(ここ)に得たりと為す。長生(ちょうせい)(きゅう)()()うに足らざるのみ。 

岫雲斎
人間の気脈は潮の干満と共に進退し、月と共に満ちたり縮んだりする。これに視る如く、人間の死生はもとより天の定めがあると分る。ただ養生をして天から授かった寿命を全うするのが天命を得たということである。世に永らえて生きて老いず、所謂、不老長生などは問題にならない事である。

336極老の死は眠るが如し

凡そ、生気有る者は死を畏る。生気全く尽くれば、此の念亦尽く。故に(きょく)(ろう)の人は一死(いっし)(ねむ)るが如し。 

岫雲斎
生気あるものは全て死を恐れる。生気が全く尽きると死を恐れる気持ちも消滅する。であるから極く年取った人の死ぬのは恰も眠るようである。

337.死生観

(しゃく)は死生を以て一大事と為す。我は則ち(おも)う「昼夜は()れ一日の死生にして、呼吸は是れ一時の死生なり。()だ是れ尋常の事のみ」と。然るに我れの我れたる所以(ゆえん)の者は、(けだ)し死生の外に在り。(すべか)らく善く自ら探し求めて之れを自得すべし。 

岫雲斎
仏教では死生を第一義の重大事としている。自分はこう思う「昼と夜は一日の生と死である。人間の吸う息と、吐く息はひとときの生と死である。ただ、これは日常普通のことである」と。然し、我の我たる拠り所は死生の外にある。是非共、よくこの道理を自ら探し求めて体得しなければならない。 

338.臨終の工夫

臨没(りんぼつ)の工夫は、宜しく一念に未生(みしょう)の我れをもとむべし。「(はじめ)(たず)(おわり)に返り、死生の説を知る」とは、()れなり。 

岫雲斎
死に臨むに就いての工夫は、まだ生まれない前の自分を求める事が肝要である。易経の繋辞上伝の「生まれない前の自分を求めれば、死後の自分はまたそこに帰る事が分り心は安らぐ。このようにして儒教の死生観を会得する」とあるが、これは正にこの事を言うておるのじゃ。

339.臨終の誠意

誠意は()れ終身の工夫なり。一息(いっそく)()お存すれば一息の意有り。臨没には()(たん)(ぜん)として(るい)無きを要す。即ち是れ臨没の誠意なり。 

岫雲斎
心を誠にする事は生涯を通じて工夫しなければならぬことである。一息でもある間には、そこに一息の心があるのだからその心を誠にしてなくてはならぬ。臨終に際しては、ただ、さっぱりと心に何らの煩いの無い事が肝要で、これが臨終の誠ということである。 

340.
君父の大恩を謝して瞑せん
吾が()は、父母(まっと)うして之れを生む。当に全うして之れを帰すべし。臨没の時は、他念有ること(なか)れ。唯だ君父の大恩を謝して(めい)せんのみ。()()れを(おわり)(まっ)うすと()う。
凡て三百四十条 男 校字
 

岫雲斎
自分の身体は父母が完全な形で生んでくれたものである。従って当然なこととして完全な形でこれを返さねばならぬ。臨終の時は、外の事を考えてはならぬ。ひたすら、父母の大恩を感謝して目を閉じるだけである。これを終りを全うすと言う。

 三男 
 校訂す。


(引用文献)   




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