1.言志碌.htm 、2.言志後録.htm 、3,言志晩録.htm 、4.言志耋禄.htm
南洲翁遺訓(国立国会図書)
西郷南洲翁遺訓(国立国会図書)
〇西郷南洲翁遺訓及遺文(埼玉県教育会)
『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)
西郷南洲翁遺訓の編纂は、薩摩人の手によってではなく、旧庄内藩の藩士達によって刊行されたものである。庄内藩では明治22年憲法発布に伴い先生の賊名が除かれ、正三位を追贈されると、翌年1月に遺訓集を作成して、4月から6人の藩士達がこの遺訓集を携えて全国を行脚して、広く頒布したと伝えられている。それではなぜ南洲翁遺訓集が庄内(現在、山形県鶴岡)から出版されたのでしょうか。 明治維新の前夜、三田の薩摩屋敷を焼き払い、多くの死傷者を出した。そして最期まで抵抗した庄内藩の降丈処理として、どんなひどい目に合わされるかと、心配する処、西郷の慈愛を持った寛大な処置に感謝した藩主が家老を伴い七十数名が、政府の要職を去って鹿児島に引退していた、西郷を訪れて親しく教えを受け、その後も庄内藩士が引き続いて先生を訪ね、先生が生前語られた言葉や教訓を記録した手記を、持ち帰って遺訓集を作成したと伝えられている。
西郷南洲翁遺訓集
第一ケ条
廟堂に立ちて、大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認める以上は、直に我が職を、譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を、官職を以て賞するは、善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるるに付、然らば尚書仲虺之誥に、「徳懋んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにす」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相対するは、此の義にて候ひしやと請問せしに、翁、欣然として、其通おりぞと申されき。
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申されるので、それでは尚書(中国の最も古い経典、書経)仲虺(殷の湯王 (紀元前1600年前)の大臣)の誥(朝廷が下す辞令書)の中に「徳の高いものには官位を与え、功績の多いものには褒賞を多くする」というのがありますが、この意味でしょうかと尋ねたところ、南洲翁は大変に喜ばれて、まったくその通りだと答えられた。
第二ケ条
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。
第三ケ条
政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其他百般の事務は、皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして、他を先にするは更に無し。
政治の根本は国民の教育を高め充実して、国の自衛の為に軍備を整理強化し、食料の自給率、安定の為、農業を奨励するという三つである。その他の色々の事業は、皆この三つ政策を助ける為の手段である。この三つの物の中で、時の成り行きによってどれを先にし、どれを後にするかの順序はあろうが、この三つの政策を後回しにして、他の政策を先にするというようなことがあっては決してならない。
第四ケ条
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。
国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。
第五ケ条
或る時、『幾歴辛酸志始堅。丈夫玉砕愧甎全、一家遺事人知否。不為児孫買美田。』、との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したりとて、見限られよと申されける。
ある時『何度も何度も辛い事や苦しい事にあった後、志というものは始めて固く定まるものである。志を持った真の男子は玉となって砕けるとも、志をすてて瓦のようになって長生きすることを恥とせよ。自分は我家に残しておくべき訓があるが、人はそれを知っているであろうか。それは子孫の為に良い田を買わない、すなわち財産を残さないという事だ。』という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うような事があったら、西郷は言う事と実行する事とが、反対であると言って見限っても良いと言われた。
第六ケ条
人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は、却て害を引起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り、之を小職に用い、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは、『小人程才芸有りて用便なれば、用いざればならぬもの也。去りとて長官に居え、重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ、決して上には立てられぬものぞ』と也。
人材を採用する時、良く出来る人(君子)と普通(小人)の人との区別を厳しくし過ぎると、かえって問題を引起すものである。その理由は、この世が始まって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よくこのような小人の長所をとり入れ、これをそれぞれの職業に用い、その才能や技芸を十分発揮させる事が重要である。藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)が申されるには、「小人は才能と技芸があって使用するに便利であるから、ぜひ使用して仕事をさせなければならない。だからといって、これを上役にして、重要な職務につかせると、必ず国をひっくり返すような事になりかねないから、決して上役に立ててはならないものである。」と。
第七ケ条
事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用う可からず。人多くは事の指支ふる時に臨み、作略を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へども、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる様なれども、先に行けば成功は早きもの也。
どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、一時の策略を用いてはならない。人は多くの場合、難しい事に出会うと、何か策略を使ってうまく事を運ぼうとするが、策略した為にそのツケが生じて、その事は必ず失敗するものである。正しい道を踏み行う事は、目の前では回り道をしているようであるが、先に行けばかえって成功は早いものである。
第八ケ条
広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、先づ我国の本体を居え、風教を張り、然して後徐かに、彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼に倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して、匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。
広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化を押し進もうと思うならば、まず我が国の本体を良くわきまえ、風俗教化を正しくして、そして後、ゆっくりと諸外国の長所を取り入れるべきである。そうではなく、ただみだりに諸外国の真似をして、これを見習うならば、国体は弱体化して、風俗教化は乱れて、救いがたい状態になり、そしてついには外国に制せられる事になるであろう。
第九ケ条
忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に彌り、易ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。
忠孝(よく君、国に仕え、親を大事にする事)仁愛(他人に対して恵み、いつくしむ心)教化(良い方に教え導くこと)は政治の基本であり、未来永遠に、宇宙、全世界になくてはならない大事な道である。道というものは天地自然の物であるから、たとえ西洋であっても同じで、決して区別はないものである。
第十ケ条
人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり。国に尽し家に勤るの道明かならば、百般の事業は、従て進歩す可し。或は耳目を開発せんとて、電信を懸け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動すれども、何故電信鉄道の無くては叶はぬぞ、欠くべからざるものぞと云ふ処に目を注がず、猥に外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一々外国を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、国力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也。
人間の知恵を開発、即ち教育の根本目的は愛国の心、忠孝の心を持つことである。 国の為に尽し、家のため働くという、人としての道理が明らかで有るならば、すべての事業は進歩するであろう。耳で聞いたり、目で見たりする分野を開発しようとして、電信を架け、鉄道を敷き、蒸気仕掛の機械を造って、人の目や耳を驚かすような事をするけれども、どういう訳で電信、鉄道が無くてはならないか、欠くことの出来ない物で有るかということに目を注がないで、みだりに外国の盛大なことをうらやみ、利害、損得を議論しないで、家の造り構えから、子供のオモチャまで一々外国の真似をし、身分不相応に贅沢をして財産を無駄使いするならば、国の力は衰退し、人の心は軽々しく流され、結局日本は破綻するより他ないではないか。
第十一ケ条
文明とは道の普く行はるるを、賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分からぬぞ。予、甞て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍の事を致し、己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其の人口を莟めて、言無かりきとて笑はれける。
文明というのは道義、道徳に基づいて事が広く行われることを称える言葉であって、宮殿が大きく立派であったり、身にまとう着物が綺麗あったり、見かけが華やかであるいうことではない。世の中の人の言うところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮なのか少しも解らない。自分はかってある人と議論した事がある。自分が西洋は野蛮だと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。いや、いや、野蛮だとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでに野蛮だと申されるのかと強く言うので、もし西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、開発途上の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮であると言ったところ、その人もさすがに口をつぼめて返答出来なかったと笑って話された。
第十二ケ条
西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑒戒となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥るを恤ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢゃと感ずる也。
西洋の刑法はもっぱら、罪を再び繰り返さないようにする事を、根本の精神として、むごい扱いを避けて、人を善良に導く事を目的としており、だから獄中の罪人であっても緩やかに取り扱い、教訓となる書籍を与え、場合によっては親族や友人の面会も許すということである。もともと昔の聖人が、刑罰というものを設けられたのも、忠孝、仁愛の心から孤独な人の身上をあわれみ、そういう人が罪に陥るのを深く心配されたが、実際の場で今の西洋のように配慮が行き届いていたかどうかは書物には見あたらない。西洋のこのような点は誠に文明だとつくづく感ずることである。
第十三ケ条
租税を薄くして、民を裕にするは、即ち国力を養成する也。故に国家多端にして、財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦むときは、必ず曲知小慧の俗吏を用ひ、巧みに聚斂して、一時の欠乏に給するを、理材に長ぜる良臣となし、手段を以て、苛酷に民を虐たげるゆえ、人民は苦悩に堪へ兼ね、聚斂を逃れんと、自然譎詐狡猾に趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩離拆に至るにあらずや。
税金を少なくして国民生活を豊かにすることこそ国力を高めることになる。 だから国の事業が多く、財政の不足で苦しむような事があっても決まった制度をしっかり守り、政府や上層の人達が損をしても、下層の人達を、苦しめてはならない。昔からの歴史をよく見るがよい。道理の明らかに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しむときは、必ずこざかしい考えの小役人を用いて、その場しのぎをする人を財政が良く分かる立派な役人と認め、そういう小役人は手段を選ばず、無理やり国民から税金を取り立てるから、人々は苦しみ、堪えかねて税の不当な取りたてから逃れようと、自然に嘘いつわりを言って、お互いに騙し合い、役人と一般国民が敵対して、終には、国が分裂して崩壊するようになっているではないか。
第十四ケ条
会計出納は、制度の由つて立つ所、百般の事業皆是より生じ、経綸中の枢要なれば、慎まずばならぬ也。其の大体を申さば、入るを量りて出づるを制するの外、更に他の術数無し。一歳の入るを以て、百般の制限を定め、会計を総理する者、身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否らずして、時勢に制せられ、制限を慢にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血を絞るの外有る間敷也。然らば仮令事業は、一旦進歩する如く見ゆるとも、国力疲弊して済救す可からず。
会計出納(金の出し入れ)は、すべての制度の基本であって、あらゆる事業はこれによって成り立ち、秩序ある国家を創る上で最重要事であるから、慎重にしなければならない。その方法を申すならば、収入の範囲内で、支出を押えるという以外に手段はない。総ての収入の範囲で事業を制限して、会計の総責任者は一身をかけてこの制度を守り、定められた予算を超えててはならない。そうでなくして時勢にまかせ、制限を緩かにして、支出を優先して考え、それに合わせ収入を計算すれば、結局国民から重税を徴収するほか方法はなくなるであろう。もしそうなれば、たとえ事業は一時的に進むように見えても国力が疲弊して、ついには救い難い事になるであろう。
第十五ケ条
常備の兵数も、亦会計の制限に由る、決して無限の虚勢を張る可からず。兵気を鼓舞して、精兵を仕立てなば、兵数は寡くとも、折衝禦侮共に事欠く間敷也。
常備する軍隊の人数も、また会計予算の中で対処すべきで、決して無限に軍備を増やして、から威張りをしてはならない。兵士の気力を奮い立たせて優れた軍隊を創りあげれば、たとえ兵隊の数は少くても、外国との折衝にあたってあなどりを受けるような事は無いであろう。
第十六ケ条
節義廉恥を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて、利を争ひ義を忘るる時は、下皆之に倣ひ、人心忽ち財利に趨り、卑吝の情日々長じ、節義廉恥の志操を失ひ、父子兄弟の間も銭財を争ひ、相ひ讐視するに至る也。此の如く成り行かば、何を以て国家を維持す可きぞ。徳川氏は将士の猛き心を殺ぎて世を治めしか共、今は昔時戦国の猛士より、猶一層猛き心を、振ひ起さずば、万国対峙は成る間敷也。普仏の戦、仏国三十万の兵三カ月の糧食有りて降伏せしは、余り算盤に精しき故なりとて笑はれき。
道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば国家を維持することは決して出来ない。西洋各国でも皆同じである。上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するのである。このようになったら何をもって国を維持することが出来ようか。徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、今は昔の戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と対峙することは出来無いであろう。普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧が在ったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳しかったが為であるといって笑われた。
第十七ケ条
正道を踏み、国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。
正しい道を踏み、国を賭けて、倒れてもやるという精神が無いと外国との交際はこれを全うすることは出来ない。外国の強大なことに萎縮し、ただ円満にことを納める事を主として、自国の真意を曲げてまで、外国の言うままに従う事は、軽蔑を受け、親しい交わりをするつもりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう。
第十八ケ条
談国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当たりては、縦令国を以て斃るとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日、金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也。
話が国の事に及んだとき、大変に嘆いて言われるには、国が外国からはずかしめを受けるような事があったら、たとえ国が倒れようとも、正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の努めである。しかるに、ふだん金銭、穀物、財政のことを議論するのを聞いていると、何という英雄豪傑かと思われるようであるが、実際に血の出ることに臨むと頭を一カ所に集め、ただ目の前のきやすめだけを謀るばかりである。戦の一字を恐れ、政府の任務をおとすような事があったら、商法支配所、と言うようなもので政府ではないというべきである。
第十九ケ条
古より、君臣共に己れを、足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入れるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば、忽ち怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり。
昔から、主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行った世にうまく治まった時代はない。自分はまだ足りない処がある、と考える処から始めて、下々の言うことも聞き入れるものである。自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を正すと、すぐ怒るから、賢人や君子というような立派な人は、おごり高ぶっている者に対しては決して味方はしないものである。
第二十ケ条
何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば、行はれ難し。人有りて、後方法の、行はれるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心懸け肝要なり。
どんなに制度や方法を論議しても、それを行なう人が立派な人でなければ、うまく行われないだろう。立派な人あって始めて色々な方法は行われるものだから、人こそ第一の宝であって、自分がそういう立派な人物になるよう心掛けるのが何より大事な事である。
第二十一ケ条
道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、『毋意、毋必、毋固、毋我』。総じて人は、己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人、其事大抵十に七八迄は、能く成し得れども、残り二つを終る迄、成し得る人の希なるは、始は能く己を慎み、事をも敬する故、功も立ち名も顕はるるなり。功立ち名も顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其の成し得たる事業を屓み、苟も我が事を仕遂んとて、まづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也。
道というものは、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、自分を修には、己れに克つという事を心がけねばならない。己れに克つという事の真の目的は「意なし、必なし、固なし、我なし」我がままをしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない。という事だ。一般的に人は自分に克つ事によって成功し、自分を愛する(自分本位に考える)事によって失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物をみるが良い。事業を始める人が、その事業の七、八割までは大抵良く出来るが、残りの二、三割を終りまで成しとげる人の少いのは、始めはよく自分を謹んで事を慎重にするから成功し有名にもなる。ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れ慎むという精神がゆるんで、おごり高ぶる気分が多くなり、その成し得た仕事を見て何でも出来るという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていない時も、聞いていない時も、自分を慎み戒めることが大事な事だ。
第二十二ケ条
己に克つに、事々物々、時に臨みて克つ様にては、克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也
自分に克つと言う事は、その時、その場の、いわゆる場あたりに克とうとするから、なかなかうまくいかぬものである。かねて精神を奮い起こして自分に克つ修行をしていなくてはいけない。
第二十三ケ条
学に志す者、規模を宏大にせずば、有る可からず。さりとて唯此にのみ偏倚すれば、或は身を修するに、疎に成り行くゆゑ、終始己に克ちて、身を修する也。規模を宏大にして、己に克ち、男子は人を容れ、人に容れられては、済まぬものと思へよと、古語を書いて授けらる。
恢宏其志気者、人之患莫大乎、自私自吝。安於卑俗、而不以古人自期。
古人を期するの、意を請問せしに、尭舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。
学問を志す者はその規模、理想を大きくしなければならない。 しかし、ただその事のみに片寄ってしまうと、身を修める事がおろそかになってゆくから、常に自分にうち克って修養することが大事である。規模、理想を大きくして自分にうち克つことに努めよ。男子は、人を自分の心の中に呑みこむ位の寛容が必要で、人に呑まれてはだめであると思えよと言われて、昔の人の詞を書いて与えられた。
その志を、おし広めようとする者にとって、もっとも憂えるべき事は自己の事をのみ図り。けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本となして自分からそうなろうと修業をしようとしないことだ。
古人を期するというのはどういうことですかと尋ねたところ、尭・舜(共に古代中国の偉大な帝王)を以って手本とし、孔子(中国第一の聖人)を教師として勉強せよと教えられた。
第二十四ケ条
道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も、同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。
道というの天地自然のものであり、人は之にのっとって生きるべきものであるから何よりもまず、天を敬う事を目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛し下さるから、自分を愛する心をもって人を愛する事が大事である。
第二十五ケ条
人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽し、人
を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。天を相手にして自分の誠をつくし、人の非をとがめるような事をせず、自分の真心の足らない事を反省せよ。
第二十六ケ条
己れを愛するは、善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐り驕謾の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也。
自分を愛すること(即ち自分さえよければ良い)というような心はもっとも善くない事である。修業の出来ないのも、事業の成功しないのも、過ちを改める事の出来ないのも、自分の功績を誇り、驕りたかぶるのも、皆自分を愛することから生ずることで、決して自分だけを愛するようなことはしてはならない。
第二十七ケ条
過ちを改めるに、自ら過ったとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をば棄てて顧みず、直に一歩踏出す可し。過を悔しく思い、取繕はんと心配するは、譬へば茶碗を割り、其欠けらを集め、合せ見るも同じにて、詮もなきこと也。
過ちを改めるに、自分から過ったとさえ思いついたら、それで良い。その事をさっぱり捨てて、ただちに一歩前進するべし。過ちを悔しく思って、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、たとえば茶わんを割って、その欠けらを集めて、合わせて見るのも同様で何の役にも立たぬ事である。
第二十八ケ条
道を行うには、尊卑貴賎の差別無し。摘んで言へば、尭・舜は天下に王として、万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯国を始め、何方へも用ヰられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆道を行ひし也。
道を行う事に、身分の尊いとか、卑しいとかの区別は無いものである。要するに昔のことを言えば、古代中国の尭・舜(共に古代中国の偉大な帝王)は国王として国の政治を行っていたが、もともとその職業は教師であった。孔子(中国第一の聖人)は魯の国を始め、どこの国にも政治家として用いられず、何度も困難な苦しいめに遭い、身分の低いままに一生を終えられたが、三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。
第二十九ケ条
道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否、身の死生抔に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人、出来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れども、人は道を行ふものゆえ、道を蹈むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管ら道を行ひ、道を楽み、若し艱難に逢ふて、之を凌がんとならば、弥々道を行ひ、道を楽む可し。予、壮年より、艱難と云ふ艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。
正しい道を進もうとする者は、もともと困難な事に会うものだから、どんな苦しい場面に立っても、その事が成功するか失敗するかという事や、自分が生きるか死ぬかというような事に少しもこだわってはならない。事を行なうには、上手下手があり、物によっては良く出来る人、良く出来ない人もあるので、自然と道を行うことに疑いをもって動揺する人もあろうが、人は道を行わねばならぬものだから、道を踏むという点では上手下手もなく、出来ない人もない。 だから精一杯道を行い、道を楽しみ、もし困難な事にあってこれを乗り切ろうと思うならば、いよいよ道を行い、道を楽しむような、境地にならなければならぬ。 自分は若い時代から、困難という困難にあって来たので、今はどんな事に出会っても心が動揺するような事は無いだろう。それだけは実に幸だ。
第三十ケ条
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。去れども个様の人は、凡俗の眼には、見得られぬぞと申さるるに付、孟子に『天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば、民と之に由り、志を得ざれば、独り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賎も移すこと能はず、威武も屈すること能はず』と云ひしは、今仰せられし如きの、人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは、彼の気象は出ぬ也。
命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬく事が出来ない、と言われるので、それでは孟子(古い中国の聖人)の書に『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものだ。もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。 そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』と言っておるのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。
第三十一ヶ条
道を行ふ者は、天下挙て毀るも、足らざるとせず、天下挙て誉るも、足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。
正しい道を生きてゆく者は、国中の人が寄って、たかって、悪く言われるような事があっても、決して不満を言わず、また、国中の人がこぞって褒めても、決して自分に満足しないのは、自分を深く信じているからである。 そのような人物になる方法は、韓文公(韓退之、唐の文章家)の「伯夷の頌」(伯夷、叔斉兄弟の節を守って餓死したことを褒め称えた文の一章)をよく読んでしっかり身に付けるべきである。
第三十二ヶ条
道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公は、閨中にて語りし言も、人に対して言うべからざる事、無しと申されたり。独を慎むの学推して知る可し。人の意表に出て、一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。
正しく道義を踏みおこなおうとする者は、偉大な事業を尊ばないものである。 司馬温公(中国北宋の学者)は寝室の中で妻と密かに語ったことも他人に対して言えないような事は無いと言われた。独りを慎むと言う事の真意は如何なるものであるかわかるでしょう。人をあっと言わせるような事をして、その一時だけ良い気分になることを好むのは、まだまだ未熟な人のする事で、十分反省すべきである。
第三十三ヶ条
平日道を蹈まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕末も能く出来るなり、平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取仕末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非ざれば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝いて見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
かねて道義を踏み行わない人は、ある事柄に出会うと、あわてふためき、なにをして良いか判らぬものである。たとえば、近所に火事があった場合、かねて心構えの出来ている人は少しも動揺する事なく、これに対処することが出来る。しかし、かねて心構えの出来ていない人は、ただ狼狽して、なにをして良いか判らず的確に対処する事が出来ない。それと同じ事で、かねて道義を踏み行っている人でなければ、ある事柄に出会った時、立派な対策はできない。私が先年戦いに出たある日のこと、兵士に向かって、自分達の防備が十分であるかどうか、ただ味方の目ばかりで見ないで、敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の防備であると説いて聞かせたと言われた。
第三十四ヶ条
作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其迹を見れば、善からざること判然にして、必したり之れ有るなり。唯戦に臨みて、作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆえ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、「是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆえ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈けは見れ」と申せしとぞ。
策略(はかりごと)は普段は用いてはならない方が良い。 策略をもって行なった事は、その結果を見れば良くない事がはっきりしていて、必ず判るものである。ただ戦争の場合だけは、策略が無ければいけない。しかし、かねて策略をやっていると、いざ戦いという事になった時、上手な策略は決して出来るものではない。諸葛孔明(古代中国の宰相)はかねて策略をしなかったから、いざという時、あのように思いもよらない策略を行うことが出来たのだ。自分はかつて東京を引揚げたとき、弟(従道)に向かって『自分はこれまで少しも、謀ごとを、やった事が無いので、ここを引揚げた後も、跡は少しも濁ることはあるまい。それだけはよく見ておけ』と言っておいたという事である。
第三十五ヶ条
人を籠絡して、陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之を見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに、公平至誠を以てせよ。公平ならざれば、英雄の心は決して攬られぬもの也。
人をごまかして、陰でこそこそと策略する者は、たとえその事が上手に出来あがろうとも、物事をよく見抜く人がこれを見れば、醜い事がすぐ分かる。人に対しては常に公平で真心をもって接するのが良い。公平でなければ英雄の心を掴む事は出来ないものだ。
第三十六ヶ条
聖賢に成らんと、欲する志無く、古人の事跡を見迚も、企て及ばぬと、云ふ様なる心ならば、戦に臨みて、逃るより猶卑怯なり。朱子も白刃を見て、逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を、身に体し心に験する修業致さず、唯个様の言、个様の事と、云ふのみを知りたりとも、何の詮無きもの也。予、今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空しく読むのみならば、譬へば人の剱術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時、逃るより外有る間敷也。
聖人賢者になろうとする気持ちがなく、昔の人が行なった史実をみて、自分にはとてもまねる事が出来ないと思うような気持ちであったら、戦いに臨んで逃げるより、なお卑怯なことだ。朱子(昔の中国南宋の学者)は抜いた刀を見て逃げる者はどうしようもないと言われた。誠意をもって聖人賢者の書を読み、その一生をかけて培われた精神を、心身に体験するような修業をしないで、ただこのような言葉を言われ、このような事業をされたという事を知るばかりでは何の役にも立たぬ。私は今、人の言う事を聞くに、何程もっともらしく論じようとも、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけの事であったら少しも感心しない。本当にその行いの出来た人を見れば、実に立派だと感じるのである。聖人賢者の書をただ上辺だけ読むのであったら、ちょうど他人の剣術を傍から見るのと同じで、少しも自分の身に付かない。自分の身に付かなければ、万一『刀を持って立ち会え』と言われた時、逃げるよりほかないであろう。
第三十七ヶ条
天下後世迄も、信仰悦服せらるるものは、只是一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も、知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして、世に誉めらるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。
未来永劫までも信じて心から従う事が出来るのは、ただ一つの真心だけである。昔から父の仇を討った人は数えきれないほど大勢いるが、その中でひとり曽我兄弟だけが、今の世に至るまで女子子供でも知らない人のないくらい有名なのは、多くの人にぬきんでて真心が深いからである。真心がなくて世の中の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。真心が深いと、たとえその当時、知る人がなくても後の世に必ず心の友が出来るものである。
第三十八ヶ条
世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕當てたるを言ふ。真の機会とは、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはずみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。
世の中の人の言うチャンスとは、多くはたまたま得た偶然の幸せの事を指している。しかし、本当のチャンスというのは道理を尽くして行い、時の勢いをよく見きわめて動くという場合のことだ。つね日頃、国や世の中のことを憂える真心がなくて、ただ時のはずみにのって成功した事業は、決して長続きしないものである。
第三十九ヶ条
今の人、才識有れば、事業は心次第に、成さるるものと思へども、才に任せて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。体有りてこそ、用は行はるるなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ様に、なりたるとて嘆息なされ、古語を書きて授けらる。
夫天下非誠不動。非才不治。誠之至者其動也速。
才之周者其治也広。才興誠合然後事可成。
今の人は、才能や知識だけあれば、どんな事業でも思うままに出来ると思っているが、才能に任せてする事は、危なかしくて見てはおられないものだ。しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。肥後の長岡先生(長岡監物、熊本藩家老、勤皇家)のような立派な人物は、今は見る事が出来ないようになったといって嘆かれ、昔の言葉を書いて与えられた。
『世の中のことは真心がない限り動かす事は出来ない。才能と識見がない限り治める事は出来ない。真心に撤するとその動きも速い。才識があまねく行渡っていると、その治めるところも広い。才識と真心と一緒になった時、すべての事は立派に出来あがるであろう』
第四十ヶ条
翁に従て、犬を駆り兎を追い、山谷を跋渉して、終日猟り暮らし、一田家に投宿し、浴終りて、心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は、常に斯の如くにこそ、有らんと思ふなりと。
南洲翁に従って犬を連れて兎を追い、山や谷を歩いて一日中狩り暮らし、田舎の宿で風呂に入って、身も心も、きわめて爽快になったとき、悠々として言われるには『君子の心はいつもこのように爽やかなものであろうと思う』と。
第四十一ヶ条
身を修し、己を正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば数十人客、不意に入り来んに、譬え何程饗応したく思ふとも、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる也。夫れ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書て賜りき。
文非鉛槧也。必有処事之才。武非劔楯也。必有料敵之智。才智之所在一焉而巳。
修行して心を正して、君子の心身を備えても、事にあたってその処理の出来ない人は、ちょうど木で作った人形と同じ事である。たとえば数十人のお客が突然おしかけて来た場合、どんなに接待しようと思っても、食器や道具の準備が出来ていなければ、ただおろおろと心配するだけで、接待のしようもないであろう。いつも道具の準備があれば、たとえ何人であろうとも、数に応じて接待する事が出来るのである。だから、普段の準備が何よりも大事な事であると古語を書いて下さった。
『学問というものはただ文筆の業のことをいうのではない。 必ず事に当ってこれをさばくことのできる才能のある事である。武道というものは剣や楯をうまく使いこなす事を言うのでは無い。必ず敵を知ってこれに処する知恵のある事である。才能と知恵のあるところはただ一つである』
追加一
事に当り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡そ思慮は平生黙坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当り卒爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し。
引用文献
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南洲翁遺訓
百科事典
『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)は西郷隆盛の遺訓集である。遺訓は41条、追加の2条、その他の問答と補遺から成る[1]。「西郷南洲翁遺訓」、「西郷南洲遺訓」、「大西郷遺訓」などとも呼ばれる。
成立
『南洲翁遺訓』は旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものである。
薩摩藩邸焼き討ち事件
1867年(慶応3年)12月9日の王政復古の大号令の後に、西郷は益満休之助や伊牟田尚平を江戸に派遣し、芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて、江戸市中の治安を攪乱させた。庄内藩は、江戸の警備組織新徴組を預かり、江戸市中の警備を担当していた。そのため、薩摩藩邸の浪人と庄内藩士は対立し、浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生した。そして、同年12月25日に庄内藩を中心とする旧幕府側が薩摩藩邸を焼き討ちする事件に発展した[2]。
東北戦争
1868年(慶応4年)5月15日、西郷が率いる薩軍は上野戦争で彰義隊を破ったが、会津藩は抗戦を続け、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んだ。同年8月23日に東北戦争で官軍は鶴ヶ城の攻撃を開始し、9月22日に会津藩は降伏した。一方、庄内藩は官軍を撃退したが、奥羽越列藩同盟の崩壊に伴い戦闘を続けられなくなり、9月26日に降伏した。
庄内藩士は、降伏に伴い、薩摩藩邸焼き討ち事件や東北戦争における戦闘を咎められて厳しい処分が下されると予想していたが、予想外に寛大な処置が施された。この寛大な処置は、西郷の指示によるものであったことが伝わると、西郷の名声は庄内に広まった[3]。
旧庄内藩士の鹿児島訪問
1870年(明治3年)8月、旧庄内藩主の酒井忠篤は犬塚盛巍と長沢惟和を鹿児島に派遣し、旧薩摩藩主の島津忠義と西郷に書簡を送った。同年11月7日、酒井忠篤は旧藩士などから成る78名を従えて、鹿児島に入った。また、出羽松山藩の15人も、忠篤一行とは別に鹿児島に入った。合計93名は4ヶ月滞在して、軍事教練を受けた。
西郷は、1873年(明治6年)の征韓論争に破れ下野し、同年11月10日に鹿児島に帰った。旧庄内藩士の酒井了恒は伊藤孝継や栗田元輔とともに鹿児島を訪れて、西郷から征韓論に関する話を聞いた。また、赤沢経言や三矢藤太郎も鹿児島を訪れて、西郷から話を聞いている。1875年(明治8年)5月には、庄内から菅実秀や石川静正等8人が鹿児島を訪れた。[4]。
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。この機会に、上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、酒井忠篤が発起人の1人となった。菅実秀は赤沢経言や三矢藤太郎に命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった[5]。
三矢本
1890年(明治23年)1月18日に、山形県の三矢藤太郎を編輯兼発行人とし、東京の小林真太郎を印刷人とし、秀英社で印刷された本である。『南洲翁遺訓』と題して、約1000部が発行された[6]。
片淵本
1896年(明治29年)に佐賀の片淵琢が東京で『西郷南洲先生遺訓』と題して発行した本である[7]。
内容
大阪大学名誉教授の猪飼隆明は南洲翁遺訓を次のような六つのグループに分類している[8]。
『南洲翁遺訓』の構成
グループ |
通し番号 |
内容 |
1 |
一条~七条、二〇条 |
為政者の基本的姿勢と人材登用 |
2 |
八条~一二条 |
為政者がすすめる開化政策 |
3 |
一三条~一五条 |
国の財政・会計 |
4 |
一六条~一八条 |
外国交際 |
5 |
二一条~二九条、追加の二条 |
天と人として踏むべき道 |
6 |
三〇条~四一条、追加の一条 |
聖賢・士大夫あるいは君子 |
※ただし、一九条はどこにも分類されていないので、第5グループに入れた。
以下、原著[9]より原文を引用する。先頭の数字は通し番号である。原文の現代語訳および解説は参考文献を参照。
為政者の基本的姿勢と人材登用
- 一
- 廟堂()に立ちて大政()を為すは天道を行ふものなれば、些()とも私を挟()みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操()り、正道を蹈()み、広く賢人を選挙し、能()く其の職に任()ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫()れ故()真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶()はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之れを愛()し置くものぞと申さるるに付、然らば『尚書』仲虺()之誥()に「徳懋()んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対するは此の義にて候ひしやと請問()せしに、翁欣然()として、其の通りぞと申されき。
- 二
- 賢人百官を総()べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ縦令()人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁()にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云ふ様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
- 三
- 政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其の他百般の事務は皆此の三つの物を助()るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し。
- 四
- 万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし驕奢()を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創()の始()に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文()り、美妾()を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷()也。今となりては、戊辰の義戦も偏()へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻()りに涙を催()されける。
- 五
- 或る時「幾歴辛酸志始堅。丈夫玉砕愧甎全。一家遺事人知否。不為児孫買美田。」との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したりとて見限られよと申されける。
- 六
- 人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。
- 七
- 事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用う可からず。人多くは事の指支()ふる時に臨み、作略を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へども、作略の煩ひ屹度()生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以て之れを行へば、目前には迂遠なる様なれども、先きに行けば成功は早きもの也。
- 二〇
- 何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行はれ難し。人有りて後ち方法の行はるるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心懸け肝要なり。
為政者がすすめる開化政策
- 八
- 広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を居()ゑ風教を張り、然して後徐()かに彼の長所を斟酌するものぞ。否()らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡()して匡救()す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。
- 九
- 忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥()り易()ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。
- 一〇
- 人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり。国に尽し家に勤むるの道明かならば、百般の事業は従て進歩す可し。或()は耳目を開発せんとて、電信を懸け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動()すれども、何故電信鉄道の無くて叶はぬぞ欠くべからざるものぞと云ふ処に目を注がず、猥りに外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一一外国を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、国力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也。
- 一一
- 文明とは道の普()く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些()とも分らぬぞ。予嘗()て或人()と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否()な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫()れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟()めて言無かりきとて笑はれける。
- 一二
- 西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡()孤独を愍()み、人の罪に陥いるを恤()ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。
国の財政・会計
- 一三
- 租税を薄くして民を裕()にするは、即ち国力を養成する也。故に国家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐()たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧()の俗吏を用ゐ巧みに聚斂()して一時の欠乏に給するを、理材に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦悩に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐狡猾()に趣き、上下互に欺き、官民敵讐()と成り、終に分崩離拆()に至るにあらずや。
- 一四
- 会計出納は制度の由()て立つ所ろ、百般の事業皆是れより生じ、経綸()中の枢要()なれば、慎まずはならぬ也。其の大体を申さば、入るを量りて出るを制するの外更に他の術数無し。一歳の入るを以て百般の制限を定め、会計を総理する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否()らずして時勢に制せられ、制限を慢()にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血()を絞るの外有る間敷()也。然らば仮令()事業は一旦進歩する如く見ゆるとも、国力疲弊して済救す可からず。
- 一五
- 常備の兵数も、亦会計の制限に由る、決して無限の虚勢を張る可からず。兵気を鼓舞して精兵を仕立てなば、兵数は寡()くとも、折衝禦侮()共に事欠く間敷也。
外国交際
- 一六
- 節義廉恥()を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨()みて利を争ひ義を忘るる時は、下皆之れに倣()ひ、人心忽()ち財利に趨()り、卑吝()の情日日長じ、節義廉恥の志操()を失ひ、父子兄弟の間も銭財を争ひ、相ひ讐視()するに至る也。此()の如く成り行かば、何を以て国家を維持す可きぞ。徳川氏は将士の猛き心を殺()ぎて世を治めしかども、今は昔時戦国の猛士()より猶一層猛()き心を振ひ起さずば、万国対峙()は成る間敷也。普仏の戦、仏国三十万の兵三ヶ月の糧食()有て降伏せしは、余り算盤()に精()しき故なりとて笑はれき。
- 一七
- 正道を踏み国を以て斃()るるの精神無くば、外国交際は全()かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却()て破れ、終に彼の制を受るに至らん。
- 一八
- 談国事に及びし時、慨然()として申されけるは、国の陵辱()せらるるに当りては縦令()国を以て斃()るるとも、正道を践()み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀()理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安()を謀()るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜()しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。
天と人として踏むべき道
- 一九
- 古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功()の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下下の言も聴き入るるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽()ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。
- 二一
- 道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己()を以て終始せよ。己れに克()つの極功()は「毋意毋必毋固毋我()」と云へり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能()く古今の人物を見よ。事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希()れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕()はるるなり。功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼()戒慎の意弛()み、驕矜()の気漸()く長じ、其の成し得たる事業を負()み、苟()も我が事を仕遂()んとてまづき仕事に陥いり、終()に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、睹()ず聞かざる所に戒慎するもの也。
- 二二
- 己に克つに、事事物物時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼()て気象()を以て克ち居れよと也。
- 二三
- 学に志す者、規模を宏大にせずばある可からず。去りとて唯ここにのみ偏倚()すれば、或は身を修するに疎()に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。
恢宏其志気者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。
- 古人を期するの意を請問()せしに、尭舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。
- 二四
- 道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。
- 二五
- 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。
- 二六
- 己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐()り驕謾()の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也。
- 二七
- 過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。
- 二八
- 道を行ふには尊卑貴賤の差別無し。摘んで言へば、尭舜は天下に王として万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯国を始め、何方へも用ゐられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆な道を行ひし也。
- 二九
- 道を行ふ者は、固より困厄()に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔()に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管()ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥()道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。
- 追加二
- 漢学を成せる者は、弥漢籍に就て道を学ぶべし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。当時の形勢と略ぼ大差なかるべし。
聖賢・士大夫あるいは君子
- 三〇
- 命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様()の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。
- 三一
- 道を行ふ者は、天下挙て毀()るも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。
- 三二
- 道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公は閨中()にて語りし言も、人に対して言ふべからざる事無しと申されたり。独を慎むの学推()て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。
- 三三
- 平日道を蹈まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕抺も能く出来るなり。平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取仕抺どころには之れ無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
- 三四
- 作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其の跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈()けは見れと申せしとぞ。
- 三五
- 人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之れを見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬られぬもの也。
- 三六
- 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚()も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修業致さず、唯个様()の言个様の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。
- 三七
- 天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗()ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。
- 三八
- 世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。
- 三九
- 今の人、才識有れば事業は心次第に成さるるものと思へども、才に任せて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。体有りてこそ用は行はるるなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ様になりたりとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。
夫天下非誠不動。非才不治。誠之至者。其動也速。才之周者。其治也広。才与誠合。然後事可成。
- 四〇
- 翁に従て犬を駆り兎を追ひ、山谷を跋渉して終日猟り暮し、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。
- 四一
- 身を修し己れを正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば数十人の客不意に入り来んに、仮令何程饗応したく思ふとも、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる也。夫れ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書て賜りき。
文非鉛槧也。必有処事之才。武非剣楯也。必有料敵之智。才智之所在一焉而巳。
- 追加一
- 事に当り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡そ思慮は平生黙坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当り卒爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐()の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し。
書誌情報
初版本
山形県致道博物館が三谷本の初版本を所蔵している[10]。三谷本の初版本には、巻頭に副島種臣が記した序文[11]と、赤沢経言が起草し菅実秀が検討して作成した序文と跋文が掲載されている[12]。
- 西郷隆盛 述 『南洲翁遺訓』 三矢藤太郎 編輯兼発行人、副島種臣 序文、秀英社、1890年1月18日。
近代デジタルライブラリー所蔵書籍
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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