NHKテレビ 「100分de名著」 【老子】を 放送 、好評 テキスト (無理はするな、自然体で生きよ) 。.。 松尾芭蕉、湯川秀樹 (ノーベル物理学者) も傾倒した老荘思想 。。    
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老子道徳経 ( 道家思想 《老子・荘子》)
道経 體道1 養身2 安民3 無源4 虚用5 成象6 韜光7 易性8 運夷9 能爲10 無用11 檢欲12 猒恥13 賛玄14 顯徳15 歸根16 猒淳17 俗薄18 還淳19 異俗20 虚心21 益謙22 虚無23 苦恩24 象元25 重徳26 巧用27 反朴28 無爲29 儉武30 偃武31 聖徳32 辯徳33 任成34 仁徳35 微明36 爲政37
徳経 論徳38 法本39 去用40 同異41 道化42 偏用43 立戒44 洪徳45 儉欲46 鑒遠47 忘知48 任徳49 貴生50 養徳51 歸元52 益證53 修觀54 玄符55 玄徳56 淳風57 順化58 守道59 居位60 謙徳61 爲道62 恩始63 守微64 淳徳65 後己66 三寳67 配天68 玄用69 知難70 知病71 愛己72 任爲73 制惑74 貪損75 戒強76 天道77 任信78 任契79 獨立80 顯質81
孔子は儒教。老子は道教。老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり  「論語」「老子」 
松尾芭蕉、湯川秀樹(ノーベル物理学者) も傾倒した老子・荘子の思想 (旅人ヨリ)
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・国立国会図書 (老子上篇) (老子下篇)
・小樽商科大貴重図書 (老子道徳経解)

老子(道経)(徳経)

  
老子ろうし』について
老子の著書と伝えられる道家の経典。二巻、八十一章。戦国時代初期から中期頃成立。現象界を相対化してとらえ、現象の背後にある絶対的本体を道とし、 それから付与される本性を徳とし、無為自然の道とそれに即した処世訓や政治論を説く。 道を宇宙の本体とし、道に則った無為自然・謙遜柔弱の処世哲学。道徳経。老子道徳経。

老子の深遠なる宇宙の法則の中心は三つ 
(一、万物は陰陽で成り立つ), (二、万象は道(タオ)に基づく), (三、道(タオ)の領域は至福の領域)

司馬遷は。孔子が周の都へ行き、老子に面会して「礼」について質問した対話と、孔子の老子に対する賛嘆のことばを記している。 その次の一段にいう。
「老子は道と徳を修めた。その学説は自己をかくし無名でいることを要務とする。周の都に長く住んだが、周の国力の衰えを見て、やがて立ち去り関(函谷関)まで来た。そのとき関所の監督官であった尹喜がいった。 『あなたはこれから隠者になられるのでしょう。むりとは思いますが、私のために書物を書いてください』。そのとき老子ははじめて上下二編の書を著し、『道』と『徳』の意義を述べること五千余言。そして立ち去り、どこで死んだか知るものはない。」と。

老子動画 教え Tao

道経 (上篇)

體道第一 (道の世界と名のある世界)
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
みちみちとすべきは、つねみちにあらず。の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地てんちの始に名づけ、有は万物ばんぶつの母に名づく。ゆえつねに無はもってその妙をしめさんとほっし、つねに有はもってそのきょうしめさんとほっす。この両者は同出にして名をことにす。おなじくこれをげんう。玄のまた玄は、衆妙しゅうみょうの門なり。

「道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。  故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである」。 

(1)絶対者「道(タオ)」の本質
語ることができる「道(タオ)」は,真の道(絶対者としての道(タオ))ではない。 名付けられるものは,真の名前(絶対者の名称)ではない。 その“名付けえぬもの”は,天地(あめつち)の始まりであり, その“名付けられるもの”は,万物の母である。 だからこそ,時に,人は心を空しくして“生の深奥(しんおう)”に近づこうとし, あるいは,“明示された形”を知りたいと,情熱を捧げるのだ。 (深奥といい,明示ともいうべき)これら二つのものは, (その本性において)同一である。 それらが明示される際に,多様な名前が付けられる。 それらは二つながら,“天地(あめつち)の謎”(宇宙の神秘)と呼ばれるべきものだ。謎(神秘)への探求の道は,さらなる深い謎をはらみつつ, “すべての生の謎(本質)”へとたどる入り口(門,出発点)である。

(Embodying the Dao)
The Dao that can be trodden is not the enduring and unchanging Dao. The name that can be named is not the enduring and unchanging name. (Conceived of as) having no name, it is the Originator of heaven and earth; (conceived of as) having a name, it is the Mother of all things. Always without desire we must be found, If its deep mystery we would sound; But if desire always within us be, Its outer fringe is all that we shall see. Under these two aspects, it is really the same; but as development takes place, it receives the different names. Together we call them the Mystery. Where the Mystery is the deepest is the gate of all that is subtle and wonderful.

朗読  Laozi 老子 第一 章朗讀中国話 (第1~17章)Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[1]
  (「老子」と「朗読」のブラウザを併用使用できます。)



養身第二
天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
天下みなの美たるを知る。これあくなり。みなぜんの善たるを知る。これ不善ふぜんなり。ゆえ有無うむあい生じ、難易なんい相成り、長短相けいし、高下こうげ相傾き、音声相和し、前後相したがう。ここをもって聖人は、無為の事にり、不言ふげんおしえを行なう。万物おこりてせず、生じて有せず、なしてたのまず、功成りてらず。それただらず、ここをもって去らず。

「天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。美の裏には醜があるのだ。皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。裏には不善があるのだ。このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない」。

(2)ものごとの価値は相対的
世上の人々が美しいものを美しいと認めるとき,  そこには,醜さ(の認知)が生じてくる。 世上の人々が善なるものを善だと認めるとき,  そこには,悪(の認知)が生じてくる。 このようであるから,  有(存在)と非有(非存在)は,連なって生じ,  難と易は,相互に成り(補ってあり),  長と短は,対比して現れ,  高と低とは,相対する位置としてあり,  音と声は,調和して響き合い,  前と後とは,あい伴う(順序をもつ)。 そこで聖人は,  無為のままに物を扱い,  無声のうちに道を説く。 聖人は,万物の生起ををあるがままに認め, 身を処するのに,名声を求めず(外的な評価とは無縁であり),  ことを成就しても,栄誉の見返りを求めない。 なぜなら,それらはもともと聖人に備わったものとしてあるからだ。

(The nourishment of the person)
All in the world know the beauty of the beautiful, and in doing this they have (the idea of) what ugliness is; they all know the skill of the skilful, and in doing this they have (the idea of) what the want of skill is. So it is that existence and non-existence give birth the one to (the idea of) the other; that difficulty and ease produce the one (the idea of) the other; that length and shortness fashion out the one the figure of the other; that (the ideas of) height and lowness arise from the contrast of the one with the other; that the musical notes and tones become harmonious through the relation of one with another; and that being before and behind give the idea of one following another. Therefore the sage manages affairs without doing anything, and conveys his instructions without the use of speech. All things spring up, and there is not one which declines to show itself; they grow, and there is no claim made for their ownership; they go through their processes, and there is no expectation (of a reward for the results). The work is accomplished, and there is no resting in it (as an achievement). The work is done, but how no one can see; 'Tis this that makes the power not cease to be.

朗読 Laozi 老子 第二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[2]



安民第三 (何もしない政治)
不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使心不亂。是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。
けんたっとばざれば、民をしてあらそわざらしむ。得がたきの貨をたっとばざれば、民をしてとうをなさざらしむ。ほっすべきをしめさざれば、民のこころをしてみだれざらしむ。ここをもって聖人せいじんの治は、そのこころむなしくし、その腹をたし、そのこころざしを弱くし、その骨を強くす。つねに民をして無知無欲ならしめ、かの知者ちしゃをしてあえてなさざらしむ。無為をなせば、すなわちおさまらざるなし。

「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる。財貨を重んじなければ,盗みはなくなる。欲望をかきたてる物をみせなければ、民は心を乱さなくなる。これによって道を体得した聖人の治世は,民の心を単純にし、食料を十分に与え、反逆の意思を弱くし、体を頑強にしてやる。常に民を無知無欲にし、智者には口出しさせない。無為の政策をとれば治まらない事はないのだ」

(3)無為にして成就
いわゆる“賢者(知識ある者)”を重用することがなければ,  民が企みごとをしたり,争ったりすることはない。 稀少な財貨に重きを置かなければ,  民が泥棒をしたりすることはない。 欲しがる物があるところから民を遠ざければ,   民の心は安らかである。 そうだから,聖人が統べる政府のもとでは,  民は心配事を無くし,  その腹をたっぷりと満たし,そうして  彼らに卑しい野心などが起こらないようにして,  彼らの身体を健やかに保たせるのだ。 そうなってこそ,民は知識とか欲望といったこととは,無関係でいられるし, 小賢しい連中(なまじっかの智恵ある者ら)が余計なことをする余地が無くなる,というものだ。  無為にして行い,  世は平穏に治まる。

(Keeping the people at rest)
Not to value and employ men of superior ability is the way to keep the people from rivalry among themselves; not to prize articles which are difficult to procure is the way to keep them from becoming thieves; not to show them what is likely to excite their desires is the way to keep their minds from disorder. Therefore the sage, in the exercise of his government, empties their minds, fills their bellies, weakens their wills, and strengthens their bones. He constantly (tries to) keep them without knowledge and without desire, and where there are those who have knowledge, to keep them from presuming to act (on it). When there is this abstinence from action, good order is universal.

朗読  Laozi 老子 第三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[3]



無源第四 (道は空っぽ)
道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子。象帝之先。
道はちゅうなれどもこれをもちうればあるいはたず。えんとして万物のそうる。そのえいくじき、そのふんき、その光をし、そのちりおなじくす。たんとしてそんするあるにる。われ誰のなるかをらず。ていせんたり。

「道は無であり、見ることは出来ないが、その働きは無限である。淵のように深く、まさに万物の宗主である。鋭い切っ先を表すことなく、世の複雑なもつれを解き、光を和らげて塵の中に混じりこんでいる。湛々とした水のような静かな姿だ。道がどこから生まれたのか知らないが,天帝より前からあったようだ」

(4)「道」の性格 *ここでの「道」は「タオ」と読む。以下も同様。
道(タオ)は空(から)の器であり,  その用は,汲めども尽きない! 底なしである!  万物の“泉の頂”に似て,  その鋭い刃先(へり)は丸められ,  もつれは解きほぐされ,  光は和らげられ,  騒ぎは鎮められる。 深い淵のようにほの暗く,そこにあるようだ。  (私は)それが何者の子かは知らないが,  神の前に存在する“あるもの”のようである。

(The fountainless)
The Dao is (like) the emptiness of a vessel; and in our employment of it we must be on our guard against all fulness. How deep and unfathomable it is, as if it were the Honoured Ancestor of all things! We should blunt our sharp points, and unravel the complications of things; we should attemper our brightness, and bring ourselves into agreement with the obscurity of others. How pure and still the Dao is, as if it would ever so continue! I do not know whose son it is. It might appear to have been before God.

朗読 Laozi 老子 第四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[4]



虚用第五 (天地は無常)
天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。
天地は不仁、万物をもって芻狗すうくとなす。聖人は不仁、百姓ひゃくせいをもって芻狗となす。天地のかんは、それなお槖籥たくやくのごときか。虚にしてくっせず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮す。ちゅうを守るにしかず。

「天地には仁慈というものはない。万物を祭壇に供える飾り犬と同じに見ている。祭礼が済めば捨てられるのを黙って見みているだけだ。聖人にも仁慈はない。民が飾り犬のように死ぬのを見ているだけだ。天地の間は鍛冶屋のふいごのようなものだ。中は空なのに動くと際限なく風を噴き出す」

(5)自 然
自然はけっして親切ではない。  自然は万物を,神に捧げた後に捨てられる“わら作りの犬ころ”のように取り扱う。 成人もまったく自然がそうであるように,   民を“わら作りの犬ころ”同然に扱う。 なんと天地(あめつち)は,風を送る“ふいご”のようであることよ!  空虚であってなお,物の供給は途絶えることが無く,  動けば動くほど,物は生み出される! 万言が費やされて,知は涸れて なお,世界の“芯”(中,核心)は不滅である。

(The use of emptiness)
Heaven and earth do not act from (the impulse of) any wish to be benevolent; they deal with all things as the dogs of grass are dealt with. The sages do not act from (any wish to be) benevolent; they deal with the people as the dogs of grass are dealt with. May not the space between heaven and earth be compared to a bellows? 'Tis emptied, yet it loses not its power; 'Tis moved again, and sends forth air the more. Much speech to swift exhaustion lead we see; Your inner being guard, and keep it free.

朗読  Laozi 老子 第五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[5]



成象第六 (牝(メス)の力)
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
谷神こくしんは死なず。これを玄牝げんぴんと謂う。玄牝の門、これを天地のこんと謂う。綿綿めんめんとして存するごとく、これを用いてきんせず。

「神は不滅で、玄牝(女性)と呼ばれる。玄牝の門は天地の根源と呼ばれ,永遠に存在し続け、これをどれだけ使っても疲れをしらず、尽きる事がない」

(6)谷の気(精神)
“谷の気”は死に絶えることはない。 それは“玄牝(げんぴん)(神秘の母性)”と呼ばれる。  玄牝の門は,  天地(あめつち)の根源である。  絶えず休むことなく動いて, そこに在るようだ。 それ(玄妙な道のはたらき)に身をゆだねる人に, 自在さがおとずれる。

(The completion of material forms)
The valley spirit dies not, aye the same; The female mystery thus do we name. Its gate, from which at first they issued forth, Is called the root from which grew heaven and earth. Long and unbroken does its power remain, Used gently, and without the touch of pain.

朗読  Laozi 老子 第六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[6]



韜光第七 (天地をモデルとした政治)
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生。故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪。故能成其私。
天はながく地はひさし。天地てんちのよくながくかつひさしき所以ゆえんは、そのみずかきざるをもってなり。ゆえによく長生ちょうせいす。ここをもって聖人せいじんは、そののちにして身さきんじ、そのを外にして身そんす。そのわたくしなきをもってにあらずや。ゆえによくそのわたくしす。

「天地は長久であるが,長久であるゆえんは、自己のために生きようとしないからで,それで長生きするのだ。  それゆえ聖人も自分のことを度外視して、かえって身の安全を保つのだ。これはまさに無私無欲のためでなかろうか。そして結局は自分の目的を果たすことになるのだ」

(7)奉仕する生き方
天地(あめつち)は永遠である。 “天地が永遠”であるのは,  まったくの“無私”だからである。 それこそが長い持続の理由なのだ。 そうだから,聖人は自分自身を最後尾に置き,  そして最先端に己を見いだしている。 自分の身は顧慮しないでいて,  しっかりとその身が安全に保たれる。 いったい,己自身のためにいきることをしない,  そのことが,聖人自身をよく生かすす所以ではないだろうか。

(Sheathing the light)
Heaven is long-enduring and earth continues long. The reason why heaven and earth are able to endure and continue thus long is because they do not live of, or for, themselves. This is how they are able to continue and endure. Therefore the sage puts his own person last, and yet it is found in the foremost place; he treats his person as if it were foreign to him, and yet that person is preserved. Is it not because he has no personal and private ends, that therefore such ends are realised?

朗読  Laozi 老子 第七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[7]



易性第八
上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。
上善じょうぜんは水のごとし。水はく万物を利して争わず、衆人しゅうじんにくむ所にる。故に道にちかし。居るは善く地、心は善くえん、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動くは善く時。それただ争わず、故にとがなし。

「最高の善は水のようなものだ。水はよく万物を助けて争わず、みなが嫌がるような低地にとどまる。この点は「道」に近いといえる。住居は低地に設け、心は淵のように深く、人との交流は水のように親しく、言葉は誠実で、政治は筋道を大切に、ものごとの処理は流水のように滑らかに、行動は時にかなう。そして争わず,これだからこそ災難は起きないのだ」

(8)水
最善の人物は“水”のような人である。  水は万物をうるおし,   しかも争わない。 人が見下ろす最も低いところにとどまる。  そして,そこは「道(タオ)」にもっとも近い。 聖人は,住みかとして低い地を善いとし, 心に深い淵(ふち)を抱き, 他人には限りなくやさしく, 語る言葉は誠実さそのものだ。 仕事には能力あることを善しとし, 行動には最適の時を選ぶ。  聖人は争うことがないので,   他から非難されることもないのだ。

(The placid and contented nature)
The highest excellence is like (that of) water. The excellence of water appears in its benefiting all things, and in its occupying, without striving (to the contrary), the low place which all men dislike. Hence (its way) is near to (that of) the Dao. The excellence of a residence is in (the suitability of) the place; that of the mind is in abysmal stillness; that of associations is in their being with the virtuous; that of government is in its securing good order; that of (the conduct of) affairs is in its ability; and that of (the initiation of) any movement is in its timeliness. And when (one with the highest excellence) does not wrangle (about his low position), no one finds fault with him.

朗読  Laozi 老子 第八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[8]



運夷第九 (無理をせず自然に生きる)
持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功成名遂身退、天之道。
してこれをたすは、そのむにしかず。きたえてこれをするどくすれば、長く保つべからず。金玉きんぎょく堂に満つれば、これをよく守ることなし。富貴にしておごれば、おのずからそのとがのこす。こう成り名げて身退しりぞくは、てんの道なり。

「手にもつ器に水を満たし,零すまいと心配するくらいなら,はじめから満杯にすることはないのだ。刃物は刃を鋭くすれば、刃こぼれがして長持ちしない。金や玉が部屋一杯になれば,どうしてそれを守るのだ。富貴で高慢になれば、自ら災難を招く。成功すれば,速やかに身を引く。これこそが天の定めた道なのだ」

(9)成功に浮かれる危うさ
いっぱいに引き絞った弓は,  やがて緩めねばならない。 切れ味鋭く研(と)いだ刀身の切っ先,  その鋭さも長くは保てない。 金銀財宝で蔵をいっぱいに満たしても,  やがては四散するだろう。 富と栄誉に浮かれても,  それは墓穴への道に通じている。 事が成就して退くのは,   天の道である。

(Fulness and complacency contrary to the Dao)
It is better to leave a vessel unfilled, than to attempt to carry it when it is full. If you keep feeling a point that has been sharpened, the point cannot long preserve its sharpness. When gold and jade fill the hall, their possessor cannot keep them safe. When wealth and honours lead to arrogancy, this brings its evil on itself. When the work is done, and one's name is becoming distinguished, to withdraw into obscurity is the way of Heaven.

朗読  Laozi 老子 第九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[9]



能爲第十
載營魄抱一、能無離。專氣致柔、能孾兒。滌除玄覽、能無疵。愛民治國、能無。天門開闔、能雌。明白四達、能無知。生之、畜之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
営魄えいはくいちいだき、よく離るることなからん。気をもっぱらにしじゅうを致し、よく嬰児えいじたらん。玄覧げんらん滌除てきじょし、よくきずなからん。民を愛し国を治め、よく無為むいならん。天門てんもん開闔かいこうして、よくたらん。明白四達して、よく無知ならん。これを生じ、これをやしなう。生じて有せず、なしてたのまず、長じてさいせず。これを玄徳げんとくと謂う。

「心と身体が一体となり、道から離れないようにしたいものだ。気を一杯にして無心な幼児のようになりたいものだ。雑念を払い、過ちなしに済ませるようになりたいものだ。民を愛し、国をおさめるに無為の精神でやりたいものだ。  自然が変化する中で、女のような柔軟さを保ちたいものだ。 四方のすべてを知りながら、何も知らないとするようになりたいものだ。  道は万物を生み、これを繁殖させ、成長してもそれを自分のものとせず、万物を動かしながら、それを頼りにせず、頭になって万物を支配することもしない。これこそ玄徳という」

(10)一(いち)(道(タオ))を抱く
心に一(いち)(道(タオ))をしっかりと抱いていて,  人(聖人)は「道(タオ)」から離れないでいることができるだろうか。 精気(生きる力)を柔軟に保っていて,  人は生まれたての赤ん坊のようにしていられるだろうか。 不思議な心の鏡を曇りなく磨いて,  人は完璧さへと努めることができるだろうか。 民を愛し,王国を治めるのに,  人は平穏に統治し続けられるだろうか。 天の門を開け閉めするときに,  人は“女性的なるもの”のままにいられるだろうか。 あらゆる知識を身につけてなお,  人は心を無に保つことができるだろうか。

(Possibilities through the Dao)
When the intelligent and animal souls are held together in one embrace, they can be kept from separating. When one gives undivided attention to the (vital) breath, and brings it to the utmost degree of pliancy, he can become as a (tender) babe. When he has cleansed away the most mysterious sights (of his imagination), he can become without a flaw. In loving the people and ruling the state, cannot he proceed without any (purpose of) action? In the opening and shutting of his gates of heaven, cannot he do so as a female bird? While his intelligence reaches in every direction, cannot he (appear to) be without knowledge? (The Dao) produces (all things) and nourishes them; it produces them and does not claim them as its own; it does all, and yet does not boast of it; it presides over all, and yet does not control them. This is what is called 'The mysterious Quality' (of the Dao).

朗読  Laozi 老子 第十章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[10]



無用第十一 (無があっての有)
三十輻共一轂。當其無、有車之用。埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。
三十ぷくこくを共にす。その無に当たりて、車の用あり。しょくねてもって器をつくる。その無に当たりて、器の用あり。戸牖こゆううがちてもってしつつくる。その無に当たりて、室の用あり。故に有のもってをなすは、無のもって用をなせばなり。

「車の輪、三十本のスポークが車軸から出て輪を作る。このスポークの間に空間があってこそ、車輪としての働きが出来る。泥土をこねて器を作り、器の中に空間があってこそ器としての働きをする。戸口や窓をうがって部屋を作り、その中の空間こそが部屋としての働きをなす」

(11)空(から)の効用
三十本の輻(や)が,車輪の中心のこしきに集まる。  そこは空(から)で(個々の輻(や)がそこで途切れ),  そこから車の効用が生まれ出る。 土をこねて器(うつわ)を作る。  (器のくぼみが)空(から)であることから,  器の効用が発生する。 家(の壁)に戸や窓をしつらえる。  家の効用は,中が空(から)(空間)であることから生まれる。 このように(車,器,家などのように)物が有用なのは,  空(から)ということであってのことである。

(The use of what has no substantive existence)
The thirty spokes unite in the one nave; but it is on the empty space (for the axle), that the use of the wheel depends. Clay is fashioned into vessels; but it is on their empty hollowness, that their use depends. The door and windows are cut out (from the walls) to form an apartment; but it is on the empty space (within), that its use depends. Therefore, what has a (positive) existence serves for profitable adaptation, and what has not that for (actual) usefulness.

朗読  Laozi 老子 第十一章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[11]



檢欲第十二 (文明の誘惑を退ける)
五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁田獵、令人心發狂。難得之貨、令人行妨。是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此。
五色ごしょくは人の目をもうならしむ。五音ごいんは人の耳をろうせしむ。五味ごみは人の口をたがわしむ。馳騁ちてい田猟でんりょうは、人の心を発狂せしむ。得難きのは、人の行をさまたげしむ。ここをもって聖人は、腹をなして目をなさず。故にかれをりてこれを取る。

「色とりどりの美しい色彩は人の目を盲にする。耳に快い音楽は人の耳を聾にする。豪勢な食事は人の味覚を損なう。馬で狩をすることは、その楽しみが人を熱狂させ、珍しい物は人を盗みに走らせる。  そこで聖人は民の腹を満たすことだけを求め、民の目をくらますようなことをしない」 

五色は人の目を盲(めしい)にする。 音楽の五音は人の耳を聾(ろう)にする。 五つの香味(手が込んだ料理)は人の味覚をそこなう。 競馬や狩と犬追いは,人の心を狂わせる。 得がたい財貨は,夜の安眠を妨げる(夜もおちおち眠れない)。 それだから聖人は,  腹を満たさせ(天性の自己に目覚めさせ)て,目の毒を遠ざけさせる。  そうしないと,(民が)道(タオ)から離れ,つまらぬことにうつつを抜かすことになるからだ。

(The repression of the desires)
Colour's five hues from the eyes their sight will take; Music's five notes the ears as deaf can make; The flavours five deprive the mouth of taste; The chariot course, and the wild hunting waste Make mad the mind; and objects rare and strange, Sought for, men's conduct will to evil change. Therefore the sage seeks to satisfy (the craving of) the belly, and not the (insatiable longing of the) eyes. He puts from him the latter, and prefers to seek the former.

朗読  Laozi 老子 第十二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[12]



猒恥第十三
寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。故貴以身爲天下、若可寄天下。愛以身爲天下、若可託天下。
寵辱ちょうじょくおどろくがごとし。大患たいかんたっとぶこと身のごとし。何をか寵辱驚くがごとしとう。寵を上となし、辱をとなす。これを得ては驚くがごとく、これを失いては驚くがごとし。これを寵辱驚くがごとしとう。何をか大患を貴ぶこと身のごとしとう。われ大患あるゆえんは、わが身あるがためなり。わが身なきに及びては、われ何のうれいかあらん。故に身をもって天下をおさむるより貴ぶものは、すなわち天下をすべし。身をもって天下をおさむるよりずるものは、すなわち天下をたくすべし。

「人が 寵愛と恥辱に心を騒がせるのは驚くほどだ。また病気、災難が身に降りかかるのを死ぬほどに恐れる。  寵愛と恥辱への関心が驚くほどというのは何ゆえか。寵愛は上で、恥辱は下という意識があり、寵愛を与えられると人は歓喜して喜ぶが、失うと驚愕して恐れののく。後に恥辱が待っているからだ。  身に及ぶ災難を死ぬほどに恐れるのは、どういうことか。私に大病など災難があるのは私に身体があるからだ。もし私に身体がなければ、いかなる災難が降りかかろうと構わない。  故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべし。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい」

(13)賞賛と非難(毀誉(きよ)褒貶(ほうへん))
「(世間から)歓迎されたり誹(そし)られたりして,その度にうろたえる。 価値ありとするのも危ぶむことも,身から出た錆(さび)だ。」 これが意味するところは, 「世間の賞賛や非難が人を混乱させる」ところにある。 上からの寵愛を受ければ,  すでにそのとき幻滅はひそみ,  やがて時過ぎて,幻滅は現実となる。 これが意味するところは, 「価値ありとなすことも危ぶむことも,己自身の内にある」。 “恐れ”があるのは生ける生身のゆえなのだ。 己自身にこだわることがなければ, 何を思いわずらうことがあろうか。 だから,わがことのように世を推し量る人にこそ,  世の政治を委ねることができる。 為政者はわがことのように世の民を慈しみ,  かくして民は,その配慮の中で安んじられるのだ。

(Loathing shame)
Favour and disgrace would seem equally to be feared; honour and great calamity, to be regarded as personal conditions (of the same kind). What is meant by speaking thus of favour and disgrace? Disgrace is being in a low position (after the enjoyment of favour). The getting that (favour) leads to the apprehension (of losing it), and the losing it leads to the fear of (still greater calamity) - this is what is meant by saying that favour and disgrace would seem equally to be feared. And what is meant by saying that honour and great calamity are to be (similarly) regarded as personal conditions? What makes me liable to great calamity is my having the body (which I call myself); if I had not the body, what great calamity could come to me? Therefore he who would administer the kingdom, honouring it as he honours his own person, may be employed to govern it, and he who would administer it with the love which he bears to his own person may be entrusted with it.

朗読  Laozi 老子 第十三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[13]



贊玄第十四
視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰。故混而爲一。其上不皦、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是爲忽恍。迎之不見首、隨之不見其後。執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
これをれども見えず、名づけてという。これを聴けども聞こえず、名づけてという。これをとらえんとすれども得ず、名づけてという。この三者は致詰ちきつすべからず。故にこんじて一となる。その上はあきらかならず、その下くらからず。縄縄じょうじょうとして名づくべからず、無物むぶつに復帰す。これを無状むじょうの状、無物のしょうと謂う。これを忽恍こつこうとなす。これをむかうれどもそのこうべを見ず、これにしたがえどもそのしりえを見ず。古の道をりて、もって今の有をぎょし、もって古始こしを知る。これを道紀どうきと謂う。

「見ようとしても見えない。これを『夷』」と呼ぶ。  聞こうとしても聞こえない、これを『希』と呼ぶ。  触ろうとしても触れない、これを『微』」と呼ぶ。  この三つのものは追求の仕様がない。なぜならそれは全く同じものだからだ。  茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。ただぼんやりとして形容の仕様がなく、形のない状態に戻っている。この姿なき形を『恍惚』という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。  これが昔から続く『道』の姿で、今の『有』を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。これを『道の法則』という」。

(14)有史以前の始まり
見つめて,なお見えないもの──  それは,夷(い)(見えないもの)と名付けられる。 聴こうとして,なお聴き得ないもの──  それは,希(き)(聴き得ないもの)と名付けられる。 捕らえようとして,なお触れ得ないもの──  それは微(び)(触れ得ないもの)と名付けられる。 これら三つのものは,確かめようとしてとらえようがなく,  渾然(こんぜん)として一者をなす(一体である)。     *[原注]イエズス会派の学者は,この三つの語を(古代中国語音の i-hi-vei が,ほとんど 近似している語として)古代ヘブライ語の“Jahve”と(偶然にか)一致するのは興味深い,と考えた。 それは,昇り行くからといって,明るいわけではなく, 沈み行くからといって,暗いわけではない。  絶えることなく,綿々と続いて,  名状しがたく, ふたたび,無の世界へと立ち返っていく。 これこそが,“無形の形”, “無の形象”と称される理由なのだ。 これこそが,“杳(よう)として茫漠(ぼうばく)”といわれる理由であり,  それに面して,その顔貌(かお)を知らず,  それに随(したが)って,その貌(かたち)を知らない。 

(The manifestation of the mystery)
We look at it, and we do not see it, and we name it 'the Equable.' We listen to it, and we do not hear it, and we name it 'the Inaudible.' We try to grasp it, and do not get hold of it, and we name it 'the Subtle.' With these three qualities, it cannot be made the subject of description; and hence we blend them together and obtain The One. Its upper part is not bright, and its lower part is not obscure. Ceaseless in its action, it yet cannot be named, and then it again returns and becomes nothing. This is called the Form of the Formless, and the Semblance of the Invisible; this is called the Fleeting and Indeterminable. We meet it and do not see its Front; we follow it, and do not see its Back. When we can lay hold of the Dao of old to direct the things of the present day, and are able to know it as it was of old in the beginning, this is called (unwinding) the clue of Dao.

朗読  Laozi 老子 第十四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[14]



顯徳第十五>
古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強爲之容。與兮若冬渉川。猶兮若畏四隣。儼兮其若客。渙兮若冰之將釋。敦兮其若。曠兮其若谷。混兮其若濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈、故能蔽不新成。
いにしえく士たる者は、微妙玄通げんつう、深くしてるべからず。それただ識るべからず、故にいてこれがようをなす。として冬川をわたるがごとし。ゆうとして四隣しりんおそるるがごとし。げんとしてそれ客のごとし。かんとしてこおりのまさにけんとするがごとし。とんとしてそれぼくのごとし。こうとしてそれ谷のごとし。こんとしてそれにごれるがごとし。たれかよく濁りてもってこれを静かにしておもむろに清からん。たれかよく安んじてもってこれを動かして徐に生ぜん。この道を保つ者は、つることを欲せず。それただ盈たず、故によくやぶれて新たに成さず。

「古のよき『士』たる人は神妙にして、すべてのものに奥深く通じ、理解しがたいほど慎重だ。それゆえ、ここはどうしてもその姿を描かねばならない。  彼はことをするに先立って、冬に川を渡るように慎重だ。  周囲を囲む隣国の包囲攻撃を防ぐように、防衛に熟慮を重ねる。  身を引き締め、常に客人のように厳粛で、春に氷が溶けるようにこだわりがない。まだ刻まれていない材木のように純朴で、奥深い山の谷のごとく広大だ。  水は濁って不透明だが、この水を徐々に平静に戻すことが誰に出来るのか。  これを久しく安定に保つためには、水を絶えず動かし、徐々に流さなければならないが、誰がそれを行えるのか。  それが出来るのは『道』をわきまえた人だけである。 『道』をわきまえた人は完全を求めない。それを求めないからこそ古きを守りつつ、新しい成功を得るのだ」。

(15)古(いにしえ)の賢者
古の真の知者(賢者)は,  理解し得ない道の深さ玄妙さに思いをはせた。 ここで,その計り知れない玄妙さを強いて描写してみよう。  凍る冬の川を渡るときのように,慎重に,  回りから身に降りかかる危険におびえるように,おずおずと,  客人として人に対するときのように,威厳を正して,  溶け始める氷のように,控えめであり, 加工されない白木(しらき)のように,純無垢であり,  谷間のように,心を広く保ち,  そして,どんよりとよどむ淵のように,底知れない。 濁った世界をそのままに留めて,  なお,清らかに澄んだ世界へとなしえる者は誰か。 永く静寂なままに保ち,  なお,動かして,生命(いのち)を生々と呼び起こしえる者は誰か。 この道(タオ)をわが身に体する人は,   過剰に満ちることをしない。 満ちることを望まないがゆえに,  使い尽くされず,日々新たなのだ。

(The exhibition of the qualities of the Dao)
The skilful masters (of the Dao) in old times, with a subtle and exquisite penetration, comprehended its mysteries, and were deep (also) so as to elude men's knowledge. As they were thus beyond men's knowledge, I will make an effort to describe of what sort they appeared to be. Shrinking looked they like those who wade through a stream in winter; irresolute like those who are afraid of all around them; grave like a guest (in awe of his host); evanescent like ice that is melting away; unpretentious like wood that has not been fashioned into anything; vacant like a valley, and dull like muddy water. Who can (make) the muddy water (clear)? Let it be still, and it will gradually become clear. Who can secure the condition of rest? Let movement go on, and the condition of rest will gradually arise. They who preserve this method of the Dao do not wish to be full (of themselves). It is through their not being full of themselves that they can afford to seem worn and not appear new and complete.

朗読  Laozi 老子 第十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[15]



歸根第十六
致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀其復。夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜。是謂復命。復命曰常。知常曰明。不知常、作凶。知常容。容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。沒身不殆。
きょを致すこと極まり、静を守ることあつし。万物並びおこれども、われはもってふくを観る。それ物芸芸うんうんたれども、おのおのそのこん復帰ふっきす。根に帰るを静という。これを復命と謂う。復命をじょうという。常を知るをめいという。常を知らざれば、みだりして凶なり。常を知ればよう。容なればすなわちこう。公なればすなわち王。王なればすなわち天。天なればすなわち道。道なればすなわち久し。身を没するまであやうからず。

「出来るだけ心を虚にして、静寂を守る。万物は成長しているが、私はその循環を見守っている。万物は成長の過程でさまざまに姿を変えるが、最後にはそれぞれの元の出発点に戻って行く。  出発点に戻るのを『静』といい、また『平常』とも言う。『平常』を認識することを『明晰』と呼ぶ。  『平常』を意識せず、妄動すれば結果は凶と出る。『平常』を意識してこそ、すべてを包容できるのだ。すべてが包容されてこそ公平無私で、公平無私であれば、人は王となり人々は服従する。王は天理にかなう。天理にかなえば、それは『道』にかなったことを意味し、『道』にかなえば永遠で、終生危険に陥らない」。

(16)不朽(ふきゅう)の法を知る
安息の極みに達して,  その静寂の根を守れ。 万物は生まれ出でて,生々と躍動して後,  静寂の中に退く。 草木は青々と繁茂して,  やがては,生まれ出でた大地に帰る。 その根に立ち返ること,すなわち安息。  始源への立ち返り,それが万物の命運である。 また,その定め(万物が始源に立ち返ること)は不朽の法である。  不朽の法を知る,すなわち悟りである。 この不朽の法を知らない者(悟りえない者)は,  自らに惨禍をを引き寄せる。 不朽の法を知る人は,寛容である。 寛容すなわち,公平である。 公平なる人すなわち,王道の人(世界を己とする人)である。 王道の人すなわち,天地との一体者である。 天地との一体者すなわち,「道」を体得した人である。 道(タオ)の体得者は,永遠の道と合し, その生涯は,危害に遭うことがない。

(Returning to the root)
The (state of) vacancy should be brought to the utmost degree, and that of stillness guarded with unwearying vigour. All things alike go through their processes of activity, and (then) we see them return (to their original state). When things (in the vegetable world) have displayed their luxuriant growth, we see each of them return to its root. This returning to their root is what we call the state of stillness; and that stillness may be called a reporting that they have fulfilled their appointed end. The report of that fulfilment is the regular, unchanging rule. To know that unchanging rule is to be intelligent; not to know it leads to wild movements and evil issues. The knowledge of that unchanging rule produces a (grand) capacity and forbearance, and that capacity and forbearance lead to a community (of feeling with all things). From this community of feeling comes a kingliness of character; and he who is king-like goes on to be heaven-like. In that likeness to heaven he possesses the Dao. Possessed of the Dao, he endures long; and to the end of his bodily life, is exempt from all danger of decay.

朗読  Laozi 老子 第十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[16]



淳風第十七 (君主はおるだけ)
太上、下知有之。其次、親之譽之。其次、畏之。其次、侮之。信不足焉。悠兮其貴言。功成事遂、百姓皆謂我自然。
太上たいじょうは、しもこれあるを知るのみ。その次は、これに親しみてこれをむ。その次は、これをおそる。その次は、これをあなどる。しん足らざればなり。ゆうとしてそれ言を貴べ。功成り事げて、百姓ひゃくせいみな「われみずから然り」とう。

「もっとも善い支配者は、民はその存在を知るだけである。  次に善い支配者は、民は彼に親しみ、これを賞賛する。   更に次の支配者は、民はこれを恐れる。  最低の支配者は民は彼を軽蔑する。信任するに値しないからだ。  もっともよい支配者は、ゆったりと、ほとんど命令せず、事がうまく行くと、民たちは『これは誰のおかげでもなく、自然にこうなったのだ』という」。

(17)治 者(君主)
最善の君主の下では,  民衆は,“君主がいる”と知るだけである。 次善の君主の下では,民衆は君主を敬愛する。 その下の位の君主だと,民衆は恐れおののき, さらにその下の君主に対しては,民衆はあしざまにののしる。  民衆の信義を育てない君主は,   民衆からの己への信義をつなぎ止められずに,  事ごとに民衆に宣誓させるという手段に訴える! 一方,最善の君主の場合は,その仕事はなめらかに成就して, 民衆は“おれたちが仕事を成し遂げたんだ”と言うだろう。

(The unadulterated influence)
In the highest antiquity, (the people) did not know that there were (their rulers). In the next age they loved them and praised them. In the next they feared them; in the next they despised them. Thus it was that when faith (in the Dao) was deficient (in the rulers) a want of faith in them ensued (in the people). How irresolute did those (earliest rulers) appear, showing (by their reticence) the importance which they set upon their words! Their work was done and their undertakings were successful, while the people all said, 'We are as we are, of ourselves!'

朗読  Laozi 老子 第十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[17]



俗薄第十八 (大道がなくなると仁義が出てくる)
大道廢、有仁義。智惠出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昬亂、有忠臣。
大道すたれて、仁義あり。智恵ちえ出でて、大偽たいぎあり。六親りくしん和せずして、孝慈こうじあり。国家昏乱こんらんして、忠臣あり。

「大いなる『道』が廃れて『仁義』が生まれた。聡明な知恵者が出てはなはだしい虚偽が生まれた。  肉親が和せず、家庭が乱れてはじめて『孝慈』なるものが生まれた。  国家が混乱して、初めて『忠臣』なるものが生まれた」。

(18)道(タオ)の衰亡
大道(偉大な道(タオ))が衰えると,  博愛と正義(すなわち,仁義)の教義が声高になる。 知識や賢さが言い立てられたときに,   大いなる偽善が目覚めてきた。 親族間が仲よく暮らせないようになって,  “慈愛の親”や“孝行息子”が喧伝されてきた。 国が大いに乱れて,無法が横行する時代に,  “忠義の臣”などというものが,現れたのだ。

(The decay of manners)
When the Great Dao (Way or Method) ceased to be observed, benevolence and righteousness came into vogue. (Then) appeared wisdom and shrewdness, and there ensued great hypocrisy. When harmony no longer prevailed throughout the six kinships, filial sons found their manifestation; when the states and clans fell into disorder, loyal ministers appeared.

朗読  Laozi 老子 第十八章 朗讀中国話 (第18~31章)Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[18]



還淳第十九 (文明をすて、素朴に帰ろう)
絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足。故令有所屬。見素抱、少私寡欲。
聖をつれば、民利みんり百倍す。仁をち義をつれば、民孝慈こうじふくす。巧をち利をつれば、盗賊とうぞくあることなし。この三者さんしゃは、もって文にしてらずとなす。ゆえに属するところあらしむ。素をあらわぼくいだき、わたくしを少なくし欲をすくなくす。

「学者たちが言う小賢しい『聖智』を捨てれば、民の利益は百倍になる。『仁義』を捨てれば、民は『孝慈』を取り戻し、『巧利』を捨てれば盗賊は姿を消す。  この三条では筆足らずだ。そこで人が従うように補筆しよう。それは『表面は単純、中も素朴で,私心をなくして欲望を抑えることが大切だ』ということである」

(19)素朴さの実現
智恵など追っ払い,知識など捨ててしまえ。  そうすると民衆は,百倍もの利益を得るだろう。 慈愛など追っ払い,正義など捨ててしまえ。   そうすると民衆は,親族間の親愛を取り戻すだろう。 狡知など追っ払い,“効用”など捨ててしまえ。  そうすると,泥棒や追いはぎなどいなくなる。 このような三様の言い方では,表面的で,十分ではないので,   民衆がわかる形で記してみようか──  素朴さはそのままがよい。  生地のままで振る舞え。  利己は控えめに,   欲はほどほどがよい。

(Returning to the unadulterated influence)
If we could renounce our sageness and discard our wisdom, it would be better for the people a hundredfold. If we could renounce our benevolence and discard our righteousness, the people would again become filial and kindly. If we could renounce our artful contrivances and discard our (scheming for) gain, there would be no thieves nor robbers. Those three methods (of government) Thought olden ways in elegance did fail And made these names their want of worth to veil; But simple views, and courses plain and true Would selfish ends and many lusts eschew.

朗読 Laozi 老子 第十九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[19]



異俗第二十
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。乘乘兮若無所歸。衆人皆有餘。而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨若昬。俗人察察。我獨悶悶。忽兮若海、漂兮若無所止。衆人皆有以。而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。
がくてば憂いなし。とは、あい去ることいくばくぞ。善と悪とは、相去ることいかん。人のおそるるところは、畏れざるべからず。こうとしてそれいまだきざるかな。衆人煕煕ききとして、太牢たいろうくるがごとく、春台に登るがごとし。われひとりはくとしてそれいまだきざさず、嬰児えいじのいまだわらわざるがごとし。乗乗じょうじょうとしてする所なきがごとし。衆人はみな余りあり。しこうしてわれはひとりわするるがごとし。われは愚人ぐじんの心なるかな。沌沌とんとんたり。俗人は昭昭しょうしょうたり。われはひとりくらきがごとし。。俗人は察察さっさつたり。われはひとり悶悶もんもんたり。こつとして海のごとく、ひょうとして止まるところなきがごとし。衆人はみなもちうるところあり。しこうしてわれはひとりかたくなにしてに似る。われはひとり人に異なりて、母にやしなわるるをたっとぶ。

「学問を捨てれば、憂いはなくなる。返答の『はい』と『おう』ではどれほどの違いがあると言うのだ。『善』と『悪』ではどれほどの違いがあるというのだ。 人の恐れることを恐れないわけには行かないが、この荒れた状況はいまだに終わっていないのだ。  多くの人は憂いもなく、盛大な宴席でご馳走を食べている、また高楼に登って眺めを楽しんでいるのに、私だけはひっそりと何の兆しもなく、まだ笑うことの出来ない幼児のような惨めな顔で,帰る家もないかのようだ。  他の人は有り余るものを持っているのに、私だけは乏しい。 私は全くの愚か者のようだ。のろまで,他の人は明晰なのに、私は悶々としているだけだ。他の人は広々とした海にように、吹きぬける風のような才能を持っているというのに、私はかたくなで,幼くつたない。  だが,私一人がそうである訳は、私は他の人と違って,母である『道』に抱かれているからだ」。

(20)世間と私
学ぶことを止めれば,悩みも消える。  “ああ!”と言い,“おう!”と応える,  その間にさしたる隔たりがあろうか? “善”と言い“悪”と言うも,  何ほどの差があろうか? 人が恐れるところでは,   恐れないと言うわけには行かない。 しかし,まあなんと,目覚めの兆しから離れていることよ! 世間の人々は笑いさんざめいており,  供物を神に捧げるお祝いの席にいるかのように,  春,高楼での楽しみの真っ盛りだ。 私は,独り静かに,世間とは縁なき形で,  まだ笑うことも知らない新生児のように,  独り離れて,世捨て人のようだ。 世間の人々は,豊富に満ち足りているが, 私だけは独り,すべてが失われているかのようだ。  私の心は,白痴のそれのように,  ぼんやりとして,かすみの中にただよう! 俗人たちが,訳知り顔で,明るく立ち回っているのに,  私は独り,ものうく,当惑したままだ。 俗人たちが,賢げに,自信に満ちているのに,  独り私だけが,気落ちしたままだ。 海に浮かぶ受難者のように,  目当てなく,漂い続けている。 世間の人々は,しっかりと目標に向かって進んでいるのに,  私だけは,融通が利かなくて不器用なままである。 私独り,他の人々とは異なり,  自然なる母に養われることの大切さを知る。

(Being different from ordinary men)
When we renounce learning we have no troubles. The (ready) 'yes,' and (flattering) 'yea;' Small is the difference they display. But mark their issues, good and ill; What space the gulf between shall fill? What all men fear is indeed to be feared; but how wide and without end is the range of questions (asking to be discussed)! The multitude of men look satisfied and pleased; as if enjoying a full banquet, as if mounted on a tower in spring. I alone seem listless and still, my desires having as yet given no indication of their presence. I am like an infant which has not yet smiled. I look dejected and forlorn, as if I had no home to go to. The multitude of men all have enough and to spare. I alone seem to have lost everything. My mind is that of a stupid man; I am in a state of chaos. Ordinary men look bright and intelligent, while I alone seem to be benighted. They look full of discrimination, while I alone am dull and confused. I seem to be carried about as on the sea, drifting as if I had nowhere to rest. All men have their spheres of action, while I alone seem dull and incapable, like a rude borderer. (Thus) I alone am different from other men, but I value the nursing-mother (the Dao).

朗読  Laozi 老子 第二十章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[20]



虚心第二十一
孔徳之容、唯道是從。道之爲物、唯怳唯忽。忽兮怳兮、其中有像。怳兮忽兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自古及今、其名不去、以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉。以此。
孔徳こうとくようは、ただ道にこれ従う。道の物たる、ただこうただこつ。忽たり怳たり、そのうちぞうあり。怳たり忽たり、その中に物あり。ようたりめいたり、その中にせいあり。その精はなはだ真、その中に信あり。いにしえより今に及ぶまで、その名去らず、もって衆甫しゅうほぶ。われ何をもって衆甫のしかるをるや。これをもってなり。

「大いなる『徳』の中身は『道』に一致している。『道』というものは目に見えず、漠然としている。だがその漠然とした中に実体がある。暗く深い、その中に微かな精気がある。この精気は具体性があり、真実がある。 古より今に至るまで,その名は消えず、それにより万物の始めを知ることが出来るのだ。  私がどうして万物の始まりの有様を知るのか、その根拠はここにある」。

(21)道(タオ)の姿
大いなるものの徴(しるし)は,  ただ道(タオ)のあり方に従う。 道(タオ)と呼ばれるものは,   茫洋としてとらえどころがない。 とらえようとして,  なお,遙かな中にある。 遙かに茫洋として,  なお,何かがある。 どこまでもほの暗く,  なお,生の力があある。 生の力は,姿を見せないままに,  確かなものとして,そこにある。 古い昔より今に至るまで, その名付けられてあるもの(現れた形,万物)は,止むことなく生起し, われわれは,その現れた形を通して,“万物の母”の存在を知るのだ。 私が万物の母の形をいかにして知る,と問うのか?  それは,このように現れた形(自然の中に人が目にする事物)を通じて知るのだ。

(The empty heart, or the Dao in its operation)
The grandest forms of active force From Dao come, their only source. Who can of Dao the nature tell? Our sight it flies, our touch as well. Eluding sight, eluding touch, The forms of things all in it crouch; Eluding touch, eluding sight, There are their semblances, all right. Profound it is, dark and obscure; Things' essences all there endure. Those essences the truth enfold Of what, when seen, shall then be told. Now it is so; 'twas so of old. Its name - what passes not away; So, in their beautiful array, Things form and never know decay. How know I that it is so with all the beauties of existing things? By this (nature of the Dao).

朗読  Laozi 老子 第二十一章 、 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[21]



益謙第二十二
曲則全。枉則直。窪則盈。敝則新。少則得。多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見、故明。不自是、故彰。不自伐、故有功。不自矜、故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。
曲なればすなわち全。おうなればすなわちちょくなればすなわちえいへいなればすなわち新。少なければすなわち得。多なればすなわちわく。ここをもって聖人はいつを抱き、天下の式となる。自らしめさず、故に明らかなり。自ら是とせず、故にあらわる。自らほこらず、故に功あり。自らほこらず、故に長ず。それただ争わず、故に天下よくこれと争うことなし。いにしえのいわゆる「曲なればすなわち全」とは、あに虚言きょげんならんや。まことに全くしてこれにかえす。

「木は曲がっていると、材木にならないため伐採されずに完全さが保たれる。 身をかがめていると、かえって真っ直ぐと身を起こすことが出来る。  土地が人の嫌がる低い窪地であれば、かえって水が満ち、物は古ぼけていると,作り直され新しくなることが出来るのだ。 物が少ないと逆に得ることが出来、多いとかえって迷ってしまう。  これをもって,聖人は『道』を天下を占う道具の『式』とする。自分の目で見ないため、逆にはっきりと分かり、自分を正しいとしないために,物の是非がはっきりとする。 自ら誇らない、だから成功する。うぬぼれない、だからこそ導くことが出来る。人と争わない、だからこそ天下に争うものがいないのだ。  『木は曲がっていると、かえって完全さが保たれる』という古言はまさに虚言でない。真にこうして証明できるのだ」。

(22)自己宣伝の空しさ(自己宣伝は愚かである)
捨てることが,保全することだ。 曲がっているから,真っ直ぐになる。 くぼんでいるから,満たされる。 ぼろぼろになっているから,新調される。 欠乏の状態であると,物が手にできる。 過剰に物があれば,混乱するばかりだ。 それだから聖人は「一」(すなわち「道(タオ))を抱いて, 世界の人々の模範となる。 聖人は自らを顕わにしない,  それだから(輝く存在として)世に明らかになる。 彼は自分をひけらかさない(おしでがましくしない),  それだから広く世に知られる。 彼は自分を宣伝したりなどしない,  それだから,人々は彼に信頼を寄せる。 彼は自慢することがない,  それだから,人々の上に立つ。 「捨てることは保全の道」という古人のことばは,  正に真実を言い得て妙(みょう)と称すべきではないか。 こうして,聖人は身を保ち,世界は彼の家となる(彼に忠誠を誓う)。

The increase granted to humility)
The partial becomes complete; the crooked, straight; the empty, full; the worn out, new. He whose (desires) are few gets them; he whose (desires) are many goes astray. Therefore the sage holds in his embrace the one thing (of humility), and manifests it to all the world. He is free from self- display, and therefore he shines; from self-assertion, and therefore he is distinguished; from self-boasting, and therefore his merit is acknowledged; from self-complacency, and therefore he acquires superiority. It is because he is thus free from striving that therefore no one in the world is able to strive with him. That saying of the ancients that 'the partial becomes complete' was not vainly spoken: - all real completion is comprehended under it.

朗読  Laozi 老子 第二十二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[22]



虚無第二十三
希言自然。飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、道者同於道。徳者同於徳。失者同於失。同於道者、道亦樂得之。同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂之。信不足焉、有不信焉。
希言きげん自然しぜんなり。飄風ひょうふうちょうえず、驟雨しゅううえず。たれこれものぞ。天地てんちなり。天地てんちすらひさしきことあたわず、しかるをいわんやひとおいてをや。ゆえみち従事じゅうじするものは、みちみちおなじくし、とくとくおなじくし、しつしつおなじくす。みちおなじくするとは、みちこれるをたのしむ。とくおなじくするとは、とくこれるをたのしむ。しつおなじくするとは、しつこれるをたのしむ。まことらざれば、不信ふしんり。

「言を少なくすることは自然なことである。疾風も朝の間にはやみ、にわか雨は一日中、降り続けることはない。誰がそうさせているのか、天と地である。天地の力をもってしても続けられないものをどうして人間に出来ようか。  道を得た人は、他の『道を持つ人』と同じくし、『徳』ある人があれば同じく『徳』を求め、どちらも持たない人があれば、それと同じくする。  『道』を同じくすれば、彼の人も『道の人』を得たいと願う。  『徳』を同じくすれば、彼の人も『徳の人』を求める。  何も持たない人は、同じような仲間を求めようとする。  人と協調して生きるには、自分を空しくしなければならぬ。信頼されなければ、信任されないということはこういうことだ」。

(23)「道(タオ)」を体得する
「道」自然は寡黙である。 たとえば突風が,朝を通して吹き荒れることはない。 驟雨が終日降り続くことはない。 風雨はいずこより来るか。 自然より来る。 自然においてさえ,その現象は永くは続き得ないのに,   人間がなし得ることの,なんとささやかなものであることか! このことから,以下のことが導かれよう:すなわち,  「道(タオ)」を悟った者は,「道(タオ)」そのままに振る舞い, 「道のかたち(現れ方)」を体得した者は,「道のかたち」のままに振る舞う。  「道(タオ)」を放棄した者は,「道の放棄者」として振る舞う。 「道(タオ)」を悟った者は,  「道(タオ)」に迎え入れられる。 「道のかたち」を体得した者は,  「道のかたち」に迎え入れられる。 よく誠実を保ち得ない者は,  他人の信を得ることができない。

(Absolute vacancy)
Abstaining from speech marks him who is obeying the spontaneity of his nature. A violent wind does not last for a whole morning; a sudden rain does not last for the whole day. To whom is it that these (two) things are owing? To Heaven and Earth. If Heaven and Earth cannot make such (spasmodic) actings last long, how much less can man! Therefore when one is making the Dao his business, those who are also pursuing it, agree with him in it, and those who are making the manifestation of its course their object agree with him in that; while even those who are failing in both these things agree with him where they fail. Hence, those with whom he agrees as to the Dao have the happiness of attaining to it; those with whom he agrees as to its manifestation have the happiness of attaining to it; and those with whom he agrees in their failure have also the happiness of attaining (to the Dao). (But) when there is not faith sufficient (on his part), a want of faith (in him) ensues (on the part of the others).

朗読  Laozi 老子 第二十三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[23]



苦恩第二十四 (不自然なおこないは長続きしない)
跂者不立。跨者不行。自見者不明。自是者不彰。自伐者無功。自矜者不長。其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。
つまだものたず。またものかず。みずかあらわものあきらかならず。みずかとするものあきらかならず。みずかほこものこうし。みずかほこものちょうぜず。みちけるや、余食よしょく贅行ぜいこうう。ものつねこれにくむ。ゆえ有道ゆうどうものらず。

「背伸びしてつま立ちすれば,しっかりと立つことが出来ない。  早く行こうと大股で歩けば、かえって早く行けない。  自分の目だけで見ようとすれば、かえってはっきりと見えない。  自分を正しいと固執すれば、かえって是非が分からない。  自ら誇るものは成功しない。  自惚れるものは導くことができない。  これらのことは「道」の原則を知る人には役立たずの余計なものだ。  余計者は嫌われるが、「道」を得た人は原則を知るから、こうしたことになら ない」。

(24)かすのような屑的人間
つま先で立っていようとすると,しっかりと立っていられない。 歩幅を伸ばして大股で歩こうとすると,うまく歩き続けられない。 己を目立たせようとする者は,すこしも認められず, 己を正当化しようと言い立てる者は,世間の評価とはほど遠い。 己を自慢して言いふらす者は,人々の上に立てない。  「道(タオ)」の基準に照らして言えば,  これらの者どもは,人をむかつく気分にさせる    “おり・かすのような屑的人間”とも言うべき奴らである。 だから,「道(タオ)」を究めた人は,これらの者を寄せ付けない。

(Painful graciousness)
He who stands on his tiptoes does not stand firm; he who stretches his legs does not walk (easily). (So), he who displays himself does not shine; he who asserts his own views is not distinguished; he who vaunts himself does not find his merit acknowledged; he who is self- conceited has no superiority allowed to him. Such conditions, viewed from the standpoint of the Dao, are like remnants of food, or a tumour on the body, which all dislike. Hence those who pursue (the course) of the Dao do not adopt and allow them.

朗読  Laozi 老子 第二十四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[24]



象元第二十五 (道は仮の名)
有物混成、先天地生。寂兮寥兮。獨立而不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。故道大。天大。地大。王亦大。域中有四大、而王居其一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。
物あり混成し、天地に先だちて生ず。せきたりりょうたり。独立して改めず、周行してとどまらず。もって天下の母となすべし。われその名を知らず。これにあざなして道という。いてこれが名をなして大という。大をせいという。逝を遠という。遠をはんという。故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王もまた大なり。域中いきちゅうに四大あり、而うして王はその一に居る。人は地にのっとり、地は天に法り、天は道に法り、道は自然にのっとる。

「天地に先立つ前から,混然となったものがあった。  音もなく形もないが,どこまでも独立した,誰にも頼らない存在で,とどまることなくぐるぐる巡る。それは天地万物の母とみなして良い。  私はその名前を知らないが、それを『道』と呼び、しいて名をつけて『大』と呼んだ。『大』は成長すれば去っていき、宇宙のはるか遠くに行って再び元に戻ってくる。 『道は大、天は大、地は大、人も大』という。宇宙に四つの『大』があり、人もそのひとつを占める。  『人』は地の法にのり、『地』は天の法にのり、『天』は道の法にのる。『道』はそれ自身、すなわち『自然』の法にのる」。

(25)四つの永遠の法(あり方)
天と地が存在する前から 渾然としたものがあった。  言を発せず,孤立して,  独りあって変わらず,  よどみなく永遠に回転し続ける,  至聖なる万物の母。 私はその名を知らず,  仮に「道(タオ)」と位置づけてみた。 それをしいて名付けて,「大」と言おうか。 「大」は遙か彼方に及ぶことを含意し,また 遙かなる彼方は,遙かなる空間の果てを含意し, 遙かなる空間の果ては,始源の点に回帰する。 したがって,  「道(タオ)」は「大」であり,  「天」は大であり,  「地」は大であり,  「王」もまた大である。 宇宙に「四大」あり, 王もまたその一員である。 王の法(王のあり方)は,地に帰し, 地の法(地のあり方)は,天に帰し, 天の法(天のあり方)は,「道(タオ)」に帰し, 「道(タオ)」の法(道(タオ)のあり方)は,本来の己に由来する。

(Representations of the mystery)
There was something undefined and complete, coming into existence before Heaven and Earth. How still it was and formless, standing alone, and undergoing no change, reaching everywhere and in no danger (of being exhausted)! It may be regarded as the Mother of all things. I do not know its name, and I give it the designation of the Dao (the Way or Course). Making an effort (further) to give it a name I call it The Great. Great, it passes on (in constant flow). Passing on, it becomes remote. Having become remote, it returns. Therefore the Dao is great; Heaven is great; Earth is great; and the (sage) king is also great. In the universe there are four that are great, and the (sage) king is one of them. Man takes his law from the Earth; the Earth takes its law from Heaven; Heaven takes its law from the Dao. The law of the Dao is its being what it is.

朗読  Laozi 老子 第二十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[25]



重徳第二十六
重爲輕根、靜爲躁君。是以聖人、終日行不離輜重。雖有榮觀、燕處超然。奈何萬乘之主、而以身輕天下。輕則失臣、躁則失君。
重は軽のこんたり、静はそうの君たり。ここをもって聖人は、終日行けども輜重しちょうを離れず。栄観ありといえども、燕処えんしょして超然たり。いかんぞ万乗ばんじょうの主にして、身をもって天下より軽んぜん。軽ければすなわちしんを失い、躁なればすなわち君をうしなう。

「重いものは軽いものの基礎であり,静かなものが騒がしいものを抑える。 聖人は終日行軍しても、部隊の中央にある糧秣を運ぶ輸送部隊を離れることがない。道中に華やかなものが有っても,目を奪われることがなく,悠然としている。 万を越える兵の部隊を動かす君主であるのに、どうして身を天下より軽んじるのか。(身を軽んじてはいけない)身を軽くすれば本元を失い,騒げば落ち着きを失うのだ」。

(26)重厚と軽薄さ
しっかりとした重厚さは,軽いものの根本であり, 静かなる落ち着きは,軽薄なるものを統(す)べる主人である。 それだから聖人は,終日旅を続けて,なお, 輜重(しちょう)の車(荷物車)を置き去りになどしない。 さらに,栄光(栄誉と賞賛)に包まれていても, 聖人は気をのびのびと安んじて,静けさの中にある。 大帝国の治者でありながら,身を軽くして, 大国のをせわしなく巡行するなどのことが,どうしてできようか。 軽々しくあれば,国の中心(重し)は失われ, 性急な動きの中では,(国の)統御の力は台無しとなる。

(The quality of gravity)
Gravity is the root of lightness; stillness, the ruler of movement. Therefore a wise prince, marching the whole day, does not go far from his baggage waggons. Although he may have brilliant prospects to look at, he quietly remains (in his proper place), indifferent to them. How should the lord of a myriad chariots carry himself lightly before the kingdom? If he do act lightly, he has lost his root (of gravity); if he proceed to active movement, he will lose his throne.

朗読  Laozi 老子 第二十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[26]



巧用第二十七
善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人。故無棄人。常善救物。故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資。雖智大迷。是謂要妙。
く行くものは轍迹てっせきなし。善く言うものは瑕讁かたくなし。善く数うるものは籌索ちゅうさくを用いず。善く閉ずるものは関楗かんけんなくして、開くべからず。善く結ぶものは縄約じょうやくなくして、解くべからず。ここをもって聖人は、常に善く人を救う。故に棄人なし。常に善く物を救う。故に棄物なし。これを襲明しゅうめいと謂う。故に善人は、不善人ふぜんにんの師とし、不善人は、善人の資とするも、その師を貴ばず、その資を愛せず。智といえども大いに迷う。これを要妙ようみょうう。

「行進の進め方がうまいと車のわだちを残さない。  言い方がうまい人は,失言もなく欠点を見せない。  計算がうまい人は、計算棒を使わずに計算できる。  門を閉めることのうまい人は、かんぬきを使わず開けることが出来ないように出来る。  結び方のうまい人は,縄を使っていないのに、ほどけなくする。  聖人は何時もうまく人を使うため、初めから無用の人はいない。  聖人は何時もうまくものを使うため、初めから無用なものはない。  これを内なる聡明さという。  善人は悪人の師であり、悪人もまた善人の反省の手本になる。  自分の師を尊ばず、手本を大切にしなければ、自分は智者と思っていても,本当は愚かなのだ。   こういうことを「奥深き原理」という」。

(27)明知のかすめ取り
よい走り手は,足跡を残さない。 よい話し方は,反論の隙(すき)を留めない。 計算の達人は,計算道具を用いない。 戸締まりのよい戸は,かんぬきなどしてなくても,  外から開けることはできない。 よく結ばれた結び目は,縄も使っていないのに,  ほどくことはできない。 そのように聖人は,人を助けるのがうまい,  というのは,“全く無用な人間”といった者はいないからだ。 また聖人は,物を粗末にしない,  というのは,“全く無用な物”といった物は,ないからだ。  ─これは,“明(めい)(明知)のかすめ取り”といわれる。 こうして,善人は“悪人の師”であり, 悪人はまた,“善人の教材”でもある。 このような師を尊ばず, このような教材を慈(いつく)しまない者は,  学んだと称して,なお迷いからさめていない。  ─そういうことこそが,極意(ごくい)(奥義)なのだ。

(Dexterity in using the Dao)
The skilful traveller leaves no traces of his wheels or footsteps; the skilful speaker says nothing that can be found fault with or blamed; the skilful reckoner uses no tallies; the skilful closer needs no bolts or bars, while to open what he has shut will be impossible; the skilful binder uses no strings or knots, while to unloose what he has bound will be impossible. In the same way the sage is always skilful at saving men, and so he does not cast away any man; he is always skilful at saving things, and so he does not cast away anything. This is called 'Hiding the light of his procedure.' Therefore the man of skill is a master (to be looked up to) by him who has not the skill; and he who has not the skill is the helper of (the reputation of) him who has the skill. If the one did not honour his master, and the other did not rejoice in his helper, an (observer), though intelligent, might greatly err about them. This is called 'The utmost degree of mystery.'

朗読  Laozi 老子 第二十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[27]



反朴第二十八
知其雄、守其雌、爲天下谿。爲天下谿、常徳不離、復歸於兒。知其白、守其黒、爲天下式。爲天下式、常徳不忒、復歸於無極。知其榮、守其辱、爲天下谷。爲天下谷、常徳乃足、復歸於散則爲器。聖人用之、則爲官長。故大制不割。
その雄を知りて、その雌を守れば、天下の谿たにとなる。天下の谿となれば、常徳じょうとく離れず、嬰児えいじに復帰す。その白を知りて、その黒を守れば、天下の式となる。天下の式となれば、常徳たがわず、無極に復帰す。その栄を知りて、その辱を守れば、天下のたにとなる。天下の谷となれば、常徳すなわち足りて、ぼくに復帰す。樸さんずればすなわち器となる。聖人これを用うれば、すなわち官長となす。故に大制はかず。

「何が雄々しきか知っていても、柔和な牝の姿勢を守れば、天下の谷(古代の尊敬の対象)として人々の尊敬を得る。  天下の谷となれば、常に「徳」と離れることなく、乳児のような単純さに帰る。  白い輝きを持つことを知っていても、暗い位置に安んじて居れば,天下の『式』(古代の占いの道具)となる。天下の『式』となれば、『常徳』と違うことなく究極の真理に至る。 何が栄誉であるかをわきまえ、甘んじて屈辱の位置に身を置けば、周囲の信望を集める『谷』となる。周囲の信望を集めれば、『常徳』が身について,素朴な材木の状態に帰る。  材木は小さく削られると器になるが、聖人がこの材木を用いると人を統率する官長となる。とかく木を切ったり、削ったりの無理をしないのだ」。

(28)雌性(しせい)を保つこと
雄性(ゆうせい)(男性的な本質)の強さに目覚めていて, 雌性(女性的本質)を保つ人は,天下の谷となる。 天下の谷であるならば,  その人の身に,本性としての性格(徳)は保たれ,  ふたたび赤子の無垢(むく)に,立ち返る。 白(はく)(輝き)を意識し, なお黒(こく)(暗さ)を保つその人は,  天下の範(はん)(基準)となる。 天下の範(はん)であるそに人は,  決して誤ることがない永遠の力をもち,  ふたたび“原初からの無”に立ち返る。 親しく栄光(栄誉と賞賛)に包まれている身にして, なお不分明の中に生きるその人は,  天下の谷となる。 天下の谷であるその人は,  常に満ち満ちてくる永遠なる力を備え,  自然のままの木(加工されない荒木)の清廉さに立ち返る。 加工されないままの木は解体され,  器に加工され, 聖人の手中にあって,  それらは百官,あるいは官の長とされる。  かくして,偉大なる治者は持続されるのだ。

(Returning to simplicity)
Who knows his manhood's strength, Yet still his female feebleness maintains; As to one channel flow the many drains, All come to him, yea, all beneath the sky. Thus he the constant excellence retains; The simple child again, free from all stains.
Who knows how white attracts, Yet always keeps himself within black's shade, The pattern of humility displayed, Displayed in view of all beneath the sky; He in the unchanging excellence arrayed, Endless return to man's first state has made. Who knows how glory shines, Yet loves disgrace, nor ever for it is pale; Behold his presence in a spacious vale, To which men come from all beneath the sky. The unchanging excellence completes its tale; The simple infant man in him we hail.
The unwrought material, when divided and distributed, forms vessels. The sage, when employed, becomes the Head of all the Officers (of government); and in his greatest regulations he employs no violent measures.

朗読  Laozi 老子 第二十八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[28]



無爲第二十九
將欲取天下而爲之、吾見不得已。天下神器。不可爲也。爲者敗之、執者失之。故物或行或隨、或呴或吹。或強或羸、或載或隳。是以聖人、去甚、去奢、去泰。
まさに天下を取らんと欲してこれをなせば、われその得ざるを見るのみ。天下は神器なり。なすべからず。なす者はこれを敗り、る者はこれを失う。故に物あるいは行きあるいはしたがう。あるいはしあるいはく。あるいは強めあるいはよわむ。あるいは載せあるいはおとす。ここをもって聖人は、じんを去り、しゃを去り、たいを去る。

「誰かが天下を手に入れ、治めようと画策しても、私はそれが実現するのを見たことがない。天下は治めることが難しいものだ。何とか治めようとしても逆に壊してしまい、何とか掌握しようとしても逆に失ってしまう。  物事は有るものは先に進み、あるものは後ろに付き添い、あるものはそっと吹き、あるものは強く吹く。あるものは少し傷つき,あるものはすっかり壊れるなど,すべてのものは相対的で,片方だけに荷担することは出来ない。だから聖人は極端なもの、贅沢なもの、度を過ぎたものだけを取り入れず捨て去り、後は何もせず自然に任せるのだ」。

(29)出しゃばり無用
天下を支配し,自分が望む領土としよう, などと野望を抱く者がいるが,  それらの者が成功するはずはない,と私は思う。 というのは,天下は“神の器”であって, 人間どもの出しゃばりくらいで,こしらえられるものではないからだ。  それを為そうとする者は,結局駄目にしてしまう。  また,それを維持しようとして,それを失う。 すなわち,あるものは前に進み,  あるものは後に従う。  あるものは炎を燃え上がらせ,  あるものは炎を吹き消す。  あるものは強大となり,  あるものは弱者となる。  あるものは突進し,  あるものはへたばる。 そうだから,聖人は過剰を慎み,奢侈(しゃし)を遠ざけ,  慢心を絶つのだ。

(Taking no action)
If any one should wish to get the kingdom for himself, and to effect this by what he does, I see that he will not succeed. The kingdom is a spirit-like thing, and cannot be got by active doing. He who would so win it destroys it; he who would hold it in his grasp loses it.
The course and nature of things is such that What was in front is now behind; What warmed anon we freezing find. Strength is of weakness oft the spoil; The store in ruins mocks our toil.
Hence the sage puts away excessive effort, extravagance, and easy indulgence.

朗読  Laozi 老子 第二十九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[29]



儉武第三十 (武力は控え目に)
以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉。大軍之後、必有凶年。善者果而已。不敢以取強。果而勿矜。果而勿伐。果而勿驕。果而不得已。果而勿強。物壯則老、是謂不道、不道早已。
道をもって人主をたすくる者は、兵をもって天下に強たらず。その事は還を好む。師のる所、荊棘けいきょく生じ、大軍の後には、必ず凶年あり。善くする者は果たしてむ。あえてもって強を取らず。果たしてほこることなく、果たしてほこることなく、果たしておごることなし。果たして已むを得ず、果たして強なることなし。物そうなればすなわち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早くむ。

「『道』を用いて君主を援けようとする人は,武力によって天下に覇を唱えようとしない。武力を用いれば必ず報復を招くからだ。 軍隊が駐留した場所は,撤収した後の田畑に茨が茂り,大きな戦いの後には必ず凶作がやってくる。 勝利すればそれだけで良く、その後は武力による強さを見せ付けないことだ。勝利しても,うぬぼれず、誇ることなく、高慢になってはいけない。武力で勝利すれば,やむを得ずこうなったと考えるべきで、強がってはいけないのだ。 ものごとは盛んになれば、必ず衰退に向かう。これは『道』にかなっていないからだ。『道』にかなっていなければ、必ず速やかに滅亡する」。

(30)武力行使への戒め
道(タオ)によって王者を補佐しようとする人は, 武力によって征服することに反対する。 それは,そのようなやり方では,かならず揺れ戻しがあるからだ。 軍隊があるところには,とげや茨(いばら)の草木が生え茂る。*[訳注]農作物が実らないこと。 大軍が起こされた後には, 飢饉(ききん)の年が続く。 だからこそ,すぐれた将軍は目的を達すれば,兵を収め,  あえて軍の強大さには依(よ)ろうとしない。 戦(いくさ)に勝って,あえてそれを栄誉とはせず, 戦に勝って,あえて驕(おご)ることもせず, 戦に勝って,自慢したりもしない。  戦に勝ったのは,やむを得ずそうしたまでのことであって,  戦に勝ったからといって,暴力を賛美するわけではないからだ。 なぜなら,頂点に達したものはかならず衰えるからだ。 暴力は道(タオ)とは相容れないものであり, 道(タオ)にそむくものは,はやく老いる。

(A caveat against war)
He who would assist a lord of men in harmony with the Dao will not assert his mastery in the kingdom by force of arms. Such a course is sure to meet with its proper return. Wherever a host is stationed, briars and thorns spring up. In the sequence of great armies there are sure to be bad years. A skilful (commander) strikes a decisive blow, and stops. He does not dare (by continuing his operations) to assert and complete his mastery. He will strike the blow, but will be on his guard against being vain or boastful or arrogant in consequence of it. He strikes it as a matter of necessity; he strikes it, but not from a wish for mastery. When things have attained their strong maturity they become old. This may be said to be not in accordance with the Dao: and what is not in accordance with it soon comes to an end.

朗読  Laozi 老子 第三十章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[30]



偃武第三十一 (武器は凶器)
夫佳兵者不祥之器、物或惡之。故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器、不得已而用之、恬惔爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏將軍居左、上將軍居右。言以喪禮處之。殺人之衆、以悲哀泣之、戰勝以喪禮處之。
それ佳兵かへいは不祥の器、物これをにくむことあり。ゆえに有道のものらず。君子くんしればすなわちひだりを貴び、兵をもちうればすなわちみぎを貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子くんしの器にあらず。むを得ずしてこれをもちうれば、恬惔てんたんを上となす。勝ちて美とせず。しかるにこれを美とするものは、これひところすをたのしむなり。それひところすをたのしむものは、すなわちもって志を天下てんかに得べからず。吉事きつじには左をたっとび、凶事には右を尚ぶ。へん将軍しょうぐんは左に居り、じょう将軍しょうぐんは右にる。喪礼そうれいをもってこれにるをう。ひところすことのおおければ、悲哀ひあいをもってこれをき、たたかい勝ちて喪礼をもってこれにる。

「『軍隊』、この不吉なものは誰もがその存在を憎む。だから『道』を備えた人は,それに近ずかない。 君子は普段のときは『左側』を尊び、武力を用いるときは『右側』を尊ぶ。 『軍隊』という不吉なものは君子が用いるものでなく、やむを得ずそれを用いても,利欲にかられず、あっさりと使うのが一番だ。 たとえ勝利しても、それを良としない。もし良とするならば、それは殺人を楽しんでいることになる。殺人を楽しみにする人は,天下に志を遂げることは出来ない。 吉事には『左側』を尊び、凶事には『右側』を尊ぶが、軍隊では副将が左に座席し、大将は『右側』に座席する。 つまり戦争は常に葬儀の作法によって行われるのだ。戦争では大勢の人が死ぬため、その哀悼の意味で、軍では戦いに勝利しても常に葬儀の作法がとられるのだ」。

(31)兵は凶器
およそ物事の中で,邪悪な道具である兵(軍隊と武器)は,  人から忌み嫌われる。 そこで,信仰心のある人,すなわち道(タオ)の体得者は,兵を避ける。 有徳の人は,社会生活の上では,左を尊ぶが, いざ軍を起こす際には,右を立てる。 兵は凶器であって,  君主が用いる手段ではない。 しかし,兵の手段が避けられない事態に際して,   最上のやり方は,冷静かつ控えめに事を収めることだ。 勝利したとしても,そこには自慢できるものはない。 そこで勝利に酔う人は,すなわち  虐殺に歓声を挙げる者のことだ。 虐殺に歓喜する者,  その世界制覇の野望は,遂に成就しえない。 〔一般に,よい兆しがある物事(吉事)では左が尊ばれ, 不吉な物事(凶事)では,右が尊ばれる。 副将軍は左方に立ち, 将軍は右側に立つ。 こうしたしきたりはすなわち,葬儀の執行の場合に同じだ。) 多数の者の虐殺は,悲しみの声で満たされよう。 勝ちどきの声は,確かに,葬列の声そのものである。

(Stilling war)
Now arms, however beautiful, are instruments of evil omen, hateful, it may be said, to all creatures. Therefore they who have the Dao do not like to employ them. The superior man ordinarily considers the left hand the most honourable place, but in time of war the right hand. Those sharp weapons are instruments of evil omen, and not the instruments of the superior man; - he uses them only on the compulsion of necessity. Calm and repose are what he prizes; victory (by force of arms) is to him undesirable. To consider this desirable would be to delight in the slaughter of men; and he who delights in the slaughter of men cannot get his will in the kingdom. On occasions of festivity to be on the left hand is the prized position; on occasions of mourning, the right hand. The second in command of the army has his place on the left; the general commanding in chief has his on the right; - his place, that is, is assigned to him as in the rites of mourning. He who has killed multitudes of men should weep for them with the bitterest grief; and the victor in battle has his place (rightly) according to those rites.

朗読  Laozi 老子 第三十一章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[31]



聖徳第三十二
道常無名。雖小、天下不敢臣。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令而自均。始制有名。名亦既有、亦將知。知所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之與江海。
道は常に無名のぼくなり。小なりといえども、天下あえてしんとせず。侯王もしよくこれを守れば、万物まさにおのずからひんせんとす。天地は相合して、もって甘露かんろくだし、民はこれに令することなくしておのずからひとし。始めて制して名あり。名もまたすでにあれば、それまたまさにいたるところを知らんとす。いたるところを知るはとどまらざるゆえんなり。たとえば道の天下にるは、なお川谷せんこく江海こうかいくみするがごとし。

「『道』は永遠に『無名』である。手が加えられていない素材のようなものだ。 名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。  王侯がそれを持ち、守ることができるなら、万物はひとりでに王侯に従うことになるだろう。 天と地は相合し甘露を降らせるが、誰かが甘露に命じて広くまんべんに降らせているのでなく、ひとりでにまんべんに降っているのだ。  管理が始まると名前が出来る。名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。『限度』である。限度を知るならば、危険を免れることが出来るのだ。  『道』は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。すべての谷川が大河、海に流れ込むのと同じである」。

(32)道(タオ)は海に似ている
道(タオ)は絶対的で,名前がない。 まだ加工されないままの小さな木(つまらない物)だといっても, だれもそれを(器に加工するなどして)用立てることはなしえない。 もし王者や諸侯が,無垢なままに自然(の性質)を保たせておけるならば,  全世界は彼らに,安心してその統治を任せておくことだろう。 天地(あめつち)は手を取り合い,  甘露(かんろ)(恵みの雨)は満ちあふれ, 人為の及ばぬ先に  すべてがやさしく広がる。 そこへ,人の知恵(文明)が起こり来て,物事を選別する(事物に名付ける)。 物事の区別が付けられて初めて,  人は己の分をわきまえることを知る(という仕組みなのだ)。 己の分をわきまえることを知る者は,  降りかかる難を避けられる(という定めだ)。 あまねくゆきわたる道(タオ),そのあり方は, 川という川が大海に注ぎ込んで安んじる,その様子にたとえることができるだろう。

(The Dao with no name)
The Dao, considered as unchanging, has no name. Though in its primordial simplicity it may be small, the whole world dares not deal with (one embodying) it as a minister. If a feudal prince or the king could guard and hold it, all would spontaneously submit themselves to him. Heaven and Earth (under its guidance) unite together and send down the sweet dew, which, without the directions of men, reaches equally everywhere as of its own accord. As soon as it proceeds to action, it has a name. When it once has that name, (men) can know to rest in it. When they know to rest in it, they can be free from all risk of failure and error. The relation of the Dao to all the world is like that of the great rivers and seas to the streams from the valleys.

朗読  Laozi 老子 第三十二章 朗讀中国話 (第32~48章)Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[32]



辯徳第三十三 (自らを知り、足るを知る)
知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。
人を知る者はみずから知る者はめいなり。人に勝つ者は力あり、みずから勝つ者はつよし。足るを知る者は富み、つとめて行なう者は志あり。その所を失わざる者は久し。死して亡びざる者は寿いのちながし。

「他人を理解できるものを『智』といい、自己を知るものを『明』 という。聡明である。  他人に勝つ者を『力』が有るといい、自己を克服できるものを『強』という。真の強者である。満足を知る者は富み、努力する者を『志』が有るという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも『道』の精神を保っている人は滅びず、これを真の長寿者という」。

(33)己自身を知ること
他人をよく理解できる人は,知恵の人である。  己自身を知る人は,さらにすぐれた知恵者である。 他人をうち負かせる人は,もちろん腕っ節が強いからだが,  己自身に打ち勝つ人こそ,強者と言える。 満足している人は,豊かな人だ。  断固として決意を実行できる人は,意志堅固な人だ。 自分の位置を見失わない人は,長続きする。  死んでなおその力を留めている(悟道の)人こそが,真の“長寿者”である。

(Discriminating between attributes)
He who knows other men is discerning; he who knows himself is intelligent. He who overcomes others is strong; he who overcomes himself is mighty. He who is satisfied with his lot is rich; he who goes on acting with energy has a (firm) will. He who does not fail in the requirements of his position, continues long; he who dies and yet does not perish, has longevity.

朗読  Laozi 老子 第三十三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[33]



任成第三十四
大道氾兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成不名有。愛養萬物而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸而不爲主、可名爲大。是以聖人、終不大、故能成其大。
大道ははんとして、それ左右すべし。万物これをたのみて生ずれども辞せず。功成りて名を有せず。万物を愛養あいようすれども主とならず。常に無欲、しょうと名づくべし。万物これに帰すれどもしゅとならず、名づけて大となすべし。ここをもって聖人、ついにみずから大とせず。故によくその大をす。

「『道』は水が氾濫するように、左右に広がり流れる。万物はこれを頼りに生まれて出てくるが、『道』はこれを拒まず、その功を名乗ろうともしない。 『道』は万物を慈しみ育てながら、それを支配しようともしない。  常に無欲なので、とりあえず『小』と名付くが、万物はすべて『道』に帰服して、しかも『道』は主とならないのだから、これは『大』と名付くべきなのだ。  これゆえ聖人は常に謙虚で『大』として振る舞わない。ゆえに人々は聖人に帰服し、『偉大なる存在』として尊敬するのだ」。

(34)偉大な道(タオ)は偏在する
偉大な道(タオ)は,あらゆるところに行きわたる,  それは大洪水が,右に行き左に溢れするかのようである。 万物はそこ(道(タオ))から生まれ出て,   しかし(道(タオ))黙したままである。 その業(わざ)が成就されても,  (道(タオ)は生み出したものを)己の所有とはしない。 それ(道(タオ))は万物を装わせ育てることはしても,  なお己の仕業だと言い出すことがない。 思いや激情を表に示すことがないので,  (道は)ときに,卑小に思われたりするものだ。 (道が)すべてのものの出所(でどころ)であって,それを黙して語らないけれども,  それは偉大なものなのだ。 結局,(道は)自らを偉大なりと宣揚しないからこそ,  その偉大なる業は達成されるのである。 

(The task of achievement)
All-pervading is the Great Dao! It may be found on the left hand and on the right. All things depend on it for their production, which it gives to them, not one refusing obedience to it. When its work is accomplished, it does not claim the name of having done it. It clothes all things as with a garment, and makes no assumption of being their lord; - it may be named in the smallest things. All things return (to their root and disappear), and do not know that it is it which presides over their doing so; - it may be named in the greatest things. Hence the sage is able (in the same way) to accomplish his great achievements. It is through his not making himself great that he can accomplish them.

朗読  Laozi 老子 第三十四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[34]



仁徳第三十五
執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出口、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。
大象だいしょうりて、天下にく。往きて害せず、安平太あんぺいたいなり。がくとは、過客かかく止まる。道の口よりずるは、淡としてそれ味なし。これをれども見るに足らず。これをけども聞くに足らず。これを用うれどもつくすべからず。

「『道』を守って天下を行けば、どこへ行こうと害はなく、平穏無事である。 宴席の音楽と豪華な料理は旅人の足を止めさせるが、『道』の話はそれを説いても味わいがなく、見えず、聞いても聞こえない。だが用いれば、効用は無限で使い切れないのだ」。

(35)平穏なるかな─道(タオ)
大いなる徴(しるし)(道(タオ)のこころ)を保っていれば,  ものみなすべては,つつがなく運行する。  危害に遭うおそれはなく,  健全そして平穏な生きものの世界が広がる。 ご馳走を差し出せば, 旅行く者は立ち止まるだろう。  しかし道(タオ)の味わいはほのかである。  見れども,見えない。  聞けども,聞こえない。  使えば,決して使い切ることはない。

(The attribute of benevolence)
To him who holds in his hands the Great Image (of the invisible Dao), the whole world repairs. Men resort to him, and receive no hurt, but (find) rest, peace, and the feeling of ease. Music and dainties will make the passing guest stop (for a time). But though the Dao as it comes from the mouth, seems insipid and has no flavour, though it seems not worth being looked at or listened to, the use of it is inexhaustible.

朗読  Laozi 老子 第三十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[35]



微明第三十六 (ほんとうの勝利を得るためには)
將欲之、必固張之。將弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
まさにこれをちぢめんと欲すれば、必ずしばらくこれを張る。まさにこれを弱めんと欲すれば、必ず固くこれを強くす。まさにこれをはいせんと欲すれば、必ず固くこれをおこす。まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれに与う。これを微明びめいと謂う。柔弱じゅうじゃくは剛強に勝つ。魚はふちより脱すべからず。国の利器りきは、もって人に示すべからず。

「ものを縮めたければ、逆にしばらく伸ばしてやる。 弱めたければ、しばらくこれを援けて強くしてやる。 廃止しようと思えば、しばらくこれを放置しておく。 こういうやり方は奥深き叡智という。こうして柔軟なものが剛強なものに勝つのである。 魚は深い淵から出て行けないのと同じく、こうした国の戦略は他国に見せてはいけない」。

(36)生活のリズム
力ずくで縮めさせたいとするなら,  まず張らせてやるのがよい。 その力を弱めてやろうと思うなら,  はじめは強くしてやるのがよい。 (相手を)引きずり降ろそうと考えるなら,  はじめは権力を持たせてやることだ。 奪い去ろうと望むなら,  最初に与えるがよい。  ─これが極意である。 やさしさは力に打ち勝つ(柔よく剛を制す)。  魚は深い淵に泳がせるがよい。  国の鋭い武器(国を統治する奥の手)は,  だれにも見えないところに,秘すがよい。

(Minimising the light)
When one is about to take an inspiration, he is sure to make a (previous) expiration; when he is going to weaken another, he will first strengthen him; when he is going to overthrow another, he will first have raised him up; when he is going to despoil another, he will first have made gifts to him: - this is called 'Hiding the light (of his procedure).' The soft overcomes the hard; and the weak the strong. Fishes should not be taken from the deep; instruments for the profit of a state should not be shown to the people.

朗読  Laozi 老子 第三十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[36]



爲政第三十七
道常無爲而無不爲。侯王若能守、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之。無名之、亦將不欲。不欲以靜、天下將自定。
道は常に無為にしてなさざるなし。侯王もしよくこれを守れば、万物まさにおのずから化せんとす。化して而もさんと欲すれば、われまさにこれを鎮むるに無名のぼくをもってせん。無名の樸は、またまさに欲せざらん。欲せずしてもって静かなれば、天下まさにおのずからさだまらんとす。

「『道』はその基本原則の『無為』により何もなさないように見えるが、実はあらゆるものを成し遂げているのである。  王侯がもし『道』による『無為自然』の原則を守っていれば、万物は自から伸び伸びと成長する。  だが成長の途中で、王侯が欲を出し作為的なことをしようとすれば、私は『材木のような素朴な心に帰れ』と諌めるだろう。  王侯が材木のように素朴で、無欲な状態になれば、すべての者が無欲無心になり、そうすれば天下は安定する」。

(37)すべて世は事もなし
道(タオ)は無為なるままに,  世の物事は成し遂げられる。 諸国の王や諸侯が道(タオ)を護(まも)るようになれば,  世の中は調和ある姿に改まるだろう。 世が改まり,事が着手されるときは,それは  単純素朴な「無名者(道(タオ))」によって抑制(してな)されよう。 単純素朴な「無名者」は,   他と争う欲望を(人から)はぎ取ってしまう。 欲望が空しくなると,静穏がゆきわたる。 そして世の中に,調和ある平和が満ち満ちる。

(The exercise of government)
The Dao in its regular course does nothing (for the sake of doing it), and so there is nothing which it does not do. If princes and kings were able to maintain it, all things would of themselves be transformed by them. If this transformation became to me an object of desire, I would express the desire by the nameless simplicity.
Simplicity without a name Is free from all external aim. With no desire, at rest and still, All things go right as of their will.

朗読  Laozi 老子 第三十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[37]



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徳経 (下篇)

論徳第三十八 (真の徳とは)
上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲而無以爲。下徳爲之而有以爲。上仁爲之而無以爲。上義爲之而有以爲。上禮爲之而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫處其厚不居其薄、處其實不居其華。故去彼取此。
上徳じょうとくは徳とせず、ここをもって徳あり。下徳かとくは徳を失わず、ここをもって徳なし。上徳は無為むいにしてもってためにするなく、下徳はこれをなしてもってためにするあり。上仁じょうじんはこれをなしてもってためにするなし。上義じょうぎはこれをなしてもってためにするあり。上礼じょうれいはこれをなしてこれに応ずることなければ、すなわちひじかかげてこれをく。故に道を失いてのち徳、徳を失いてのちじん、仁を失いてのち義、義を失いてのちれい。それ礼は、忠信のはくにして、乱のはじめなり。前識は、道のにして、愚の始なり。ここをもって大丈夫は、その厚にりてその薄に居らず、その実にりてその華にらず。故にかれをりてこれをる。

「最も高い有徳者は『徳』を行っても、それを『徳』として意識しないため、ここに本当の『徳』がある。低い有徳者は『徳』を意識して、それを見せびらかそうとするので『徳』はない。  高い有徳者は作為的でなく、それを施したという意識がない。低い有徳者は作為的で、しかも『徳』を施したと意識している。  本当に『仁』のある人は、それを行動しても『仁』を為したとは意識しない。  『義』を守る人は、それを行動で表わすが、常に『義にもとずいた行動をとった』と意識している。  『礼』を守る人は、それをはっきりと行動に表わし、相手がその『礼』に応じないと、ひざをつついて返礼を要求する。  これゆえ『道』が失われて『徳』が現れ、『徳』が失われて『仁』が現れ、『仁』が失われて『義』が現れる。こうして『義』が失われた最後に『礼』が現れるのだ。  そもそも『礼』というものは忠信が薄れた結果生まれるものなので、争乱の元になるものだ。  また人より前に知るという前識者の『智』は、偉大なる『道』を飾る造花のようなもので愚の始まりだ。  これをもって男丈夫は、このような『仁』『義』『礼』『智』という薄っぺらなモラルに執着せず、華を捨て実を取るのである」。

(38)退 廃
すぐれて徳のある人(上徳の人)は,そのことに無頓着である。  だからこそ徳の人なのだ。 あまり徳がない人は,自分の徳が失われないかと気にかける。   だからかえって,徳に欠ける。 すぐれて徳のある人は,何も為さず,  胸に意図を隠し持つなどといったことをしない。 たいして徳のない人は,動き回り,  いつも何かを心に秘めている。 すぐれてやさしい心の持ち主(上仁の人)は,事を行うに際して,  意図を隠し持って行うのではない。 すぐれて正義感がある人(上義の人)が,実行に移すとき,  それは常にある目的を持って為される。 すぐれて「礼」を尊ぶと自認する人(上礼の人)が,何かを行い,反応がないとなると,  自分の腕をまくし上げて,他人に実行を強制する。 このことから── 道(タオ)が失われて,“人の道(道徳・倫理)”が喧伝され, その道徳が廃れると,“正義”が叫ばれ, 正義が見失われて,「礼」の教義が唱道されてきた。 この「礼」などというものは,忠と信(正直)をうすく引き伸ばしたようなものであって,  混乱の始まりである。 人に先駆けて提唱すること(礼)は,道(タオ)の花飾りにすぎず, 愚かさの源泉である。 だから高徳の人は,実質的な基礎の上に身を置いて,  軽い派生したところには住まないのだ。 (言い換えれば)しっかりした果実の側におり,  あだ花の側には住まない。 こうして(徳高い人は)一方は拒み,他を受け入れるやり方をする。

(About the attributes of the Dao)
(Those who) possessed in highest degree the attributes (of the Dao) did not (seek) to show them, and therefore they possessed them (in fullest measure). (Those who) possessed in a lower degree those attributes (sought how) not to lose them, and therefore they did not possess them (in fullest measure). (Those who) possessed in the highest degree those attributes did nothing (with a purpose), and had no need to do anything. (Those who) possessed them in a lower degree were (always) doing, and had need to be so doing. (Those who) possessed the highest benevolence were (always seeking) to carry it out, and had no need to be doing so. (Those who) possessed the highest righteousness were (always seeking) to carry it out, and had need to be so doing. (Those who) possessed the highest (sense of) propriety were (always seeking) to show it, and when men did not respond to it, they bared the arm and marched up to them. Thus it was that when the Dao was lost, its attributes appeared; when its attributes were lost, benevolence appeared; when benevolence was lost, righteousness appeared; and when righteousness was lost, the proprieties appeared. Now propriety is the attenuated form of leal-heartedness and good faith, and is also the commencement of disorder; swift apprehension is (only) a flower of the Dao, and is the beginning of stupidity. Thus it is that the Great man abides by what is solid, and eschews what is flimsy; dwells with the fruit and not with the flower. It is thus that he puts away the one and makes choice of the other.

朗読  Laozi 老子 第三十八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[38]



法本第三十九
昔之得一者。天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之、一也。天無以清將恐裂。地無以寧將恐廢。神無以靈將恐歇。谷無以盈將恐竭。萬物無以生將恐滅。侯王無以貴髙將恐蹷。故貴以賤爲本、髙必以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂。此非以賤爲本耶。非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、落落如石。
はじめの一を得たるもの。天は一を得てもって清く、地は一を得てもってやすく、神は一を得てもって霊に、谷は一を得てもってち、万物は一を得てもって生じ、侯王こうおうは一を得てもって天下のていたり。そのこれを致すは、一なればなり。天もって清きことなければはた恐らくはけん。地もってやすきことなければはた恐らくはひらかん。神もって霊なることなければはた恐らくはまん。谷もって盈つることなければはた恐らくはきん。万物もって生ずることなければはた恐らくは滅びん。侯王もって貴高きこうなることなければはた恐らくはたおれん。故に貴は賤をもって本となし、高はかならず下をもって基となす。ここをもって侯王は自ら孤・寡・不穀ふこくと謂う。これ賤をもって本となすにあらずや。あらざるか。故にを数うるを致せばほまれなし。琭琭ろくろくとして玉のごとく、落落らくらくとして石のごときを欲せず。

「最初に『道』から生まれた一つの生気のようなものが有った。 『天』はこれを得て清く、『地』はこれを得て安定し、『神』はこれを得て霊妙 になり、『谷』はこれを得て充実し、『万物』はこれを得て生き、『王侯』はこれを得て天下の頭になった。  天が清くなければ、恐らく避けてしまう。  地が安定してなければ、やがて崩れてしまう。  神が霊妙でなければ、恐らく力を失う。  谷が水で満たされなければ、すべてが枯渇してしまう。  万物が生育できなければ、あらゆるものが死滅する。  王侯が最高の地位を保てなければ、国は滅びてしまう。  身分の高い人、地位の高い人、つまり貴族や高官にとって身分の低い、卑しい庶民は彼らの根本であり、高さは低きをもって基礎とする。  これゆえ、王侯は古代から自分の事を『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』  (不幸)と自虐的に賞したが、これは貴さは卑しさをもって根本となすという考えからではなかろうか。  ゆえに多くの栄誉を求めると、かえって栄誉はなくなる。高貴な美玉になろうとは望まない。つまらない普通の石でよいのだ」。

(39)協調を通じての合一
古代には「一」(すなわち道(タオ))を保つもろものものがあった。すなわち: 「一」を保って,天は澄み渡り, 「一」を保って,地は安定する。 「一」を保って,神々は霊能を発現し, 「一」を保って,谷は水をたたえ, 「一」を保って,生あるものが生まれ育ち, 「一」を保って,諸国の王や諸侯はその地位を確かなものとする。  ──このようにして,もろもろのものはその本来の姿を保った。 清明なくして,天は打ち震え, 安定なくして,地は激しく揺らぎ,  霊能失われて,神々はその力を霧散させ, 生長の力が消えて,もの皆すべては破滅に向かい, 地位の源泉が失われて,王や諸侯はうち倒される。 このゆえは,貴族という地位は通常の民衆に支えられてこそ保て, 高位の者は,その基盤を低い地位の者たちにゆだねているということなのだ。 こうした事情こそが,諸国の王や諸侯が  “孤児(みなしご)”“独り者”“ろくでなし”などと自称する理由である。 そのとき彼らは,民衆にその地位の基盤を置いているというのは,  果たして真実だろうか。 実際(王侯の)乗り物はばらばらにはぎ取られ,  うち捨てられる。 輝く玉で飾り立てて華やかに進むのではなく,  石ころ道をゴトゴトと行くのを選ぼう。

(The origin of the law)
The things which from of old have got the One (the Dao) are - Heaven which by it is bright and pure; Earth rendered thereby firm and sure; Spirits with powers by it supplied; Valleys kept full throughout their void All creatures which through it do live Princes and kings who from it get The model which to all they give.
All these are the results of the One (Dao). If heaven were not thus pure, it soon would rend; If earth were not thus sure, 'twould break and bend; Without these powers, the spirits soon would fail; If not so filled, the drought would parch each vale; Without that life, creatures would pass away; Princes and kings, without that moral sway, However grand and high, would all decay.
Thus it is that dignity finds its (firm) root in its (previous) meanness, and what is lofty finds its stability in the lowness (from which it rises). Hence princes and kings call themselves 'Orphans,' 'Men of small virtue,' and as 'Carriages without a nave.' Is not this an acknowledgment that in their considering themselves mean they see the foundation of their dignity? So it is that in the enumeration of the different parts of a carriage we do not come on what makes it answer the ends of a carriage. They do not wish to show themselves elegant-looking as jade, but (prefer) to be coarse-looking as an (ordinary) stone.

朗読  Laozi 老子 第三十九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[39]



去用第四十
反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。
はんは道の動なり。じゃくは道の用なり。天下万物は有より生じ、有は無よりしょうず。

「元に戻そうとするのが道の運動法則なのだ.。 柔弱なのは道の作用である。  天下の万物は有より生じ、有は無より生じる」。

(40)復帰原理
後戻り(根源への復帰)は道(タオ)の運動である。  やさしさ(柔弱)が道(タオ)の働きである。 この世のもろもろは,有(実在)より生まれ出て,  有(実在)は無(非在,すなわち道(タオ))に由来する。

(Dispensing with the use (of means))
The movement of the Dao By contraries proceeds; And weakness marks the course Of Dao's mighty deeds.
All things under heaven sprang from It as existing (and named); that existence sprang from It as non- existent (and not named).

朗読  Laozi 老子 第四十章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[40]



同異第四十一 (大器は晩成)
上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若。上徳若谷、大白若辱、廣徳若不足。建徳若偸、質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且成。
上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。中士は道を聞きては、存するがごとくうしなうがごとし。下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。故に建言けんげんにこれあり。「明道はくらきがごとし。進道は退くがごとし。夷道いどうけわしきがごとし。上徳は谷のごとし。大白は辱のごとし。広徳は足らざるがごとし。建徳はかりそめなるがごとし。質真はかわるがごとし。大方はぐうなし。大器は晩成す。大音は希声なり。大象だいしょうは無形なり」。道は隠れて名なし。それただ道は、善くしかつ成す。

「上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。   中士は道を聞けば、半信半疑と成る。  下士が道を聞けば、話は大きいが中身がないと笑う。  だが、彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。  古の人はこう言っている。  『明るい道は暗く見え、前に進んでいる道は後ろに退いているように見える。平らの道は凸凹と険しく見える。  高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。  大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない。  とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない』と。  道は無名であるが、この道だけが万物を援け、よく育成しているのだ」。

(41)道(タオ)実践者の資質
最高の人物は道(タオ)(真理)を聞いて,  道(タオ)と調和して生きようと一心に励む。 並の人は道(タオ)を聞いて,  一応耳を傾けるふりはするが,あいまいなままである(しっかりわかってはいない)。下等な者が道(タオ)を聞くと,   馬鹿にして吹き出してしまう。  いや,下等な者が馬鹿にするほどでないと,それは真正の道(タオ)とは言えないのだ。 そこで,昔からの格言に言う:  「道(タオ)を体得している者は,一見うすのろのようだ。  道(タオ)によって進むとき,後ずさりしているように見える。  平坦な道(道(タオ))を動くとき,でこぼこ道を動くかのように見えてしまう」 すぐれた人格者は,くぼみ(谷)のような空っぽに見え, 真っ白な物は,汚れているように見え, 混じりっけのない真に価値ある物は,ひどく汚染されているように見える。  広大な空間には角(かど)がない。  偉大なる天分の持ち主は,成熟までにはほど遠く(いつまでも未完成のままで),  すぐれた音楽の音色は,聞き取れないほどにかすかであり,  巨大な形には,輪郭というものがない。  そして道(タオ)は,無名なままに隠れている。 こうしたあり方の中で道(タオ)は,(万物に)その力を貸し与え,  ものごとをありのままに成就させるのだ。

(Sameness and difference)
Scholars of the highest class, when they hear about the Dao, earnestly carry it into practice. Scholars of the middle class, when they have heard about it, seem now to keep it and now to lose it. Scholars of the lowest class, when they have heard about it, laugh greatly at it. If it were not (thus) laughed at, it would not be fit to be the Dao. Therefore the sentence-makers have thus expressed themselves: 'The Dao, when brightest seen, seems light to lack; Who progress in it makes, seems drawing back; Its even way is like a rugged track. Its highest virtue from the vale doth rise; Its greatest beauty seems to offend the eyes; And he has most whose lot the least supplies. Its firmest virtue seems but poor and low; Its solid truth seems change to undergo; Its largest square doth yet no corner show A vessel great, it is the slowest made; Loud is its sound, but never word it said; A semblance great, the shadow of a shade.'
The Dao is hidden, and has no name; but it is the Dao which is skilful at imparting (to all things what they need) and making them complete.

朗読  Laozi 老子 第四十一章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[41]



道化第四十二 (すべてのものは道から生まれる)
道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽。氣以爲和。人之所惡、唯孤寡不轂、而王公以爲稱。故物或損之而益、或益之而損。人之所教、我亦教之。強梁者不得其死。吾將以爲教父。
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気ちゅうきもって和をなす。人のにくむところは、ただ不轂ふこく、而るに王公はもって称となす。故に物あるいはこれを損して益し、あるいはこれを益してそんす。人の教うるところは、われもまたこれを教う。「強梁きょうりょうなる者はその死を得ず」と。われまさにもって教の父となさんとす。

「『道』は統一した『一』を生み出し、これが分裂して『二』が生まれる。対立する『二』は新しい『三』を生み出し、この第三者が万物を生み出す。  万物には『陰』と『陽』の対立する二つの局面があり、『陰』と『陽』はその中に生まれた『気』によって調和されている。  人が嫌う言葉は『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』(不幸)だが、王侯たちはそれを自称として使っている。  物事は常に、損は益に、あるいは益は損にと絶えず変化しているが、これが変化の法則である。私も人々が教えあっていることを教えよう。 『強固なものはろくな死に方をしない』と。これを教えの始まりとする」。

(42)凶暴な人は
道(タオ)から「一」が生じ, 「一」から「二」が生じ, 「二」から「三」が生じ, 「三」から宇宙(世界)が創成された。 創成された宇宙は背後に「陰」を,前面に「陽」を配置する。 そうした陰と陽という原理があまねく行きわたり,調和で満たされる。 “孤児(みなしご)”とか“独り者”“ろくでなし”ということは,人がもっともいやがる。   それなのに諸王や諸侯たちは(へりくだって)それに己をなぞらえる。 そのようにして,人はしばしば,名を捨てることで得をし, 得をしようとして,失敗して(損をして)しまう。 だれかが次の金言(生き方の基準)を教えるなら, 私もまた,そのように教えよう,すなわち, 「凶暴な人は,凶暴な死を招く」と。 これこそが私の心の師として抱く考えである。

(The transformations of the Dao)
The Dao produced One; One produced Two; Two produced Three; Three produced All things. All things leave behind them the Obscurity (out of which they have come), and go forward to embrace the Brightness (into which they have emerged), while they are harmonised by the Breath of Vacancy. What men dislike is to be orphans, to have little virtue, to be as carriages without naves; and yet these are the designations which kings and princes use for themselves. So it is that some things are increased by being diminished, and others are diminished by being increased. What other men (thus) teach, I also teach. The violent and strong do not die their natural death. I will make this the basis of my teaching.

朗読  Laozi 老子 第四十二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [42]



徧用第四十三
天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間、吾是以知無爲之有益。不言之教、無爲之益、天下希及之。
天下の至柔しじゅうは、天下の至堅しけん馳騁ちていす。無有は無間に入る。われここをもって無為の益あるを知る。不言のおしえ、無為の益、天下これに及ぶものまれなり。

「世の中で最も柔らかいもの(水)が、最も堅いものを制圧している。形の無い物は(岩盤のような)隙間のないもの所にも入っていけるからだ。  私はこれをもって『無為』の益を知る。『不言』の教え、『無為』の益は、天下でこれに及ぶものはない」

(43)至柔(しじゅう)という本質
世の中の至柔なるものは, 至堅(しけん)なるものを貫き通す。  〔例:水滴岩をもうがつ。〕 「形がないもの」は「割れ目(クレバス")ないもの」を貫通して行く。 このことから,私は“無為なること”の有益なことを知る。 ことばを発しないで教え, 無為であることの利益は,  宇宙に(この世で)比類なく優れたことなのである。

(The universal use (of the action in weakness of the Dao))
The softest thing in the world dashes against and overcomes the hardest; that which has no (substantial) existence enters where there is no crevice. I know hereby what advantage belongs to doing nothing (with a purpose). There are few in the world who attain to the teaching without words, and the advantage arising from non-action.

朗読  Laozi 老子 第四十三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [43]



立戒第四十四 (最も大切なもの)
名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚愛必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。
名と身とはいずれか親しき。身と貨とはいずれか多なる。得と亡とはいずれかへいなる。この故にはなはだ愛すれば必ず大いについえ、多く蔵すれば必ず厚くうしなう。足るを知ればはずかしめられず、とどまるを知ればあやうからず、もって長久なるべし。

「名声と生命とでは、どちらが身近か。 生命と財産では、どちらが重要か。 得ることと、失うことではどちらが有害か。 こうしてみると、自分の体の健康を守ることが最も大切あることが分かる。  名誉や財産への愛着も度が過ぎ、惜しめば逆に多くを費やすことになる。蓄えすぎると帰って大きな損失を受ける。  満足することを知れば、辱めに合わずに済み、適当にとどめる事を知れば、危険に会わずに何時までも安全でいられる」。

(44)足るを知れ
名誉と己自身とどちらが大切と思うか。 己自身と財貨(有用な物品)と,どちらに重きを置くか。 自己を失うのと財貨を得るのとは,どちらが大きな悪であるか。 すなわち,人はもっとも大切に思うものを浪費し尽くし,   多く蔵するものを多く失う。 自ら足りる人はよく面目を保ち, 安逸に走ることを適切に(タイミングよく)自制できる人は, 久しく安泰である。

(Cautions)
Or fame or life, Which do you hold more dear? Or life or wealth, To which would you adhere? Keep life and lose those other things; Keep them and lose your life: - which brings Sorrow and pain more near?
Thus we may see, Who cleaves to fame Rejects what is more great; Who loves large stores Gives up the richer state.
Who is content Needs fear no shame. Who knows to stop Incurs no blame. From danger free Long live shall he.

朗読  Laozi 老子 第四十四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [44]



洪徳第四十五
大成若缺、其用不弊。大盈若、其用不窮。大直若、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。
大成は欠くるがごとくにして、その用やぶれず。大盈たいえいむなしきがごとくにして、その用きわまらず。大直たいちょくくっするがごとく、大功たいこうせつなるがごとく、大弁たいべんとつなるがごとし。そう勝てば寒、静勝てば熱。清静せいせいは天下の正たり。

「真に完成したものは、何か欠けているように見えるが、その働きは損なわれていない。 真に充実しているものは、中が虚ろのように見えるが、その働きはきわまる事がない。  最も真っ直ぐなものはゆがんで見え、最も器用なものは不器用に見える。最も優れた弁舌は、口下手に見える。 激しい運動をすれば冬の寒さに勝て、安静にしておれば夏の暑さに勝てる。無為で静かであれば、天下の模範になる」。

(45)静かに身を処すること
完成されたものの姿は,なにかが欠けたように見えて,  その用(働き)は決して減ることはない。 偉大なる豊穣さは貧相に見えて,  その用(働き)は決して涸(か)れることはない。 真に真っ直ぐなものは,曲がりくねって見え,  完成された名人芸は不器用に見え, 偉大なる雄弁はどもりのように聞こえる。 動は寒にうち勝ち,        〔動けば寒くなくなり〕 (そしてさらに)静は熱にうち勝つ。〔じっとしていれば暑さはしのげる〕 落ち着いて静かに身を処する者こそが,宇宙の(この世の)道案内者となれるのである。

(Great or overflowing virtue)
Who thinks his great achievements poor Shall find his vigour long endure. Of greatest fulness, deemed a void, Exhaustion never shall stem the tide. Do thou what's straight still crooked deem; Thy greatest art still stupid seem, And eloquence a stammering scream.
Constant action overcomes cold; being still overcomes heat. Purity and stillness give the correct law to all under heaven.

朗読  Laozi 老子 第四十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [45]



儉欲第四十六 (満足を知る)
天下有道、走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足。
天下に道あれば、走馬をしりぞけてもってつちかい、天下に道なければ、戎馬じゅうばこうに生ず。罪は可欲かよくより大なるはなく、わざわいは足るを知らざるより大なるはなく、とがは得んと欲するより大なるはなし。故に足るを知るの足るはつねに足るなり。

「天下に『道』が行われれば平和に成り、軍馬は耕作に使われる。 天下に『道』が行われず、戦乱が続けば、身ごもった母馬も狩り出され、国境の戦場で子を産むことになる。 罪は満足を知らない為政者の欲望より大きいものはなく、災は飽く事のない欲望より大きいものはない。 ゆえに、足るを知る事によって永遠に満足するのだ」。

(46)競走馬は
世の中に「道」が行われていれば(道と調和した状態にあれば), 競走馬は(しまい込んで)うち置かれていた荷馬車を引くのに駆り立てられる。 世の中の様子が「道」からはずれていれば, 騎馬隊が地方の山野に蝟集(いしゅう)するようになる。〔戦乱で騒然となる〕 足る(満足すること)を知らないことより大きな厄(わざわ)いはなく, 貪欲に物を欲しがることより大きな罪はない。 そうだから,足ることを知って自足する人は,  常に満ち足りている。

(The moderating of desire or ambition)
When the Dao prevails in the world, they send back their swift horses to (draw) the dung- carts. When the Dao is disregarded in the world, the war-horses breed in the border lands. There is no guilt greater than to sanction ambition; no calamity greater than to be discontented with one's lot; no fault greater than the wish to be getting. Therefore the sufficiency of contentment is an enduring and unchanging sufficiency.

朗読  Laozi 老子 第四十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [46]



鑒遠第四十七 (外に出なくても天下の動きを知る)
不出戸、知天下、不闚牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人不行而知、不見而名、爲而成。
戸をでずして、天下を知り、まどよりうかがわずして、天道を見る。そのずることいよいよとおければ、その知ることいよいよ少なし。ここをもって聖人は行かずして知り、見ずしてあきらかに、なさずしてる。

「聖人は門を出ないで、天下の事を知ることができる。窓の外を見ないで天の動きを知ることができる。 普通には遠くに行けば行くほど、知る事はいいかげんになるものだが、聖人は行かずして知り、見ずして分かり、行わないで成功するのだ」

(47)知識の追求は
一歩も戸外に出ないで,  人は世の中の出来事を知る(ことができる)。 窓外に目をやることなくて,  人は天の「道」を見る(ことができる)。 多くの知識を求める人ほど,  知ることは少ない。 そうだからこそ聖人は,あくせくと動き回らずに,ものの動きを知り,  一々見ることなくて理解し,  為すことなくてものごとを成就させる。

(Surveying what is far-off)
Without going outside his door, one understands (all that takes place) under the sky; without looking out from his window, one sees the Dao of Heaven. The farther that one goes out (from himself), the less he knows. Therefore the sages got their knowledge without travelling; gave their (right) names to things without seeing them; and accomplished their ends without any purpose of doing so.

朗読  Laozi 老子 第四十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [47]



忘知第四十八 (無為にして為さざるなし)
爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。
がくせばし、みちせばそんす。これそんしてまたそんし、もっ無為むいいたる。無為むいにしてさざるし。天下てんかるはつね無事ぶじもってす。有事ゆうじおよびては、もっ天下てんかるにらず。

「学問をすれば、日一日と知識は増える。だが『道』を修めれば、日一日と知識は減っていく。減らしに減らすと『無為』に至る。  『無為』をもって為せないものはない。天下を取るには常に無事が大切で、それを作為的に行えば、とても天下は取れない」。

(48)無為にして世界を支配する
知識を求める学徒は日に日に(知識を増やそうと)学ぶことを求め, 「道」を求める者は日に日に(知識を)失っていく(ことを求める)。  日に日に失っていき,  ついに無のの状態(無為自然の境地)に至る。 世界を支配する者は,しばしば無為にして〔徳による感化によって〕それを成就する。 ある者が無理矢理に〔人に命令し駆り立てて〕世界支配を成し遂げようとと努めるとき, 世界はすでに手の届かぬ彼方にある。

(Forgetting knowledge)
He who devotes himself to learning (seeks) from day to day to increase (his knowledge); he who devotes himself to the Dao (seeks) from day to day to diminish (his doing). He diminishes it and again diminishes it, till he arrives at doing nothing (on purpose). Having arrived at this point of non-action, there is nothing which he does not do. He who gets as his own all under heaven does so by giving himself no trouble (with that end). If one take trouble (with that end), he is not equal to getting as his own all under heaven.

朗読  Laozi 老子 第四十八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경(道德經) [48]



任徳第四十九
聖人無常心。以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人在天下、歙歙爲天下渾其心。百姓皆注其耳目。聖人皆孩之。
聖人は常心なし。百姓ひゃくせいの心をもって心となす。善なるものはわれこれを善とし、不善なるものもわれまたこれを善として、善を。信なるものはわれこれを信とし、不信なるものもわれまたこれを信として、信を。聖人の天下にるや、歙歙きゅうきゅうとして天下のためにその心をにごす。百姓はみなその耳目を注ぐ。聖人はみなこれをがいにす。

「聖人には固執した考えはない。民の意思をもって自分の意思とする。民が善と認めたものを善とするが、不善なるものも善とする。その人の心がけによって何時でも善が得られるからだ。  民が信じる人を信じるが、信じられないものも信じる。その人は心がけによって今後信を得る事ができるからだ。聖人は天下にあって、注目して見守る民の心を混沌とさせ、無知無欲の乳児のようにしてしまうのだ。」

(49)人々の心を心として
聖人は意見や感情を,自分自身の独自のものと考えないで, 世人の意見や感情を己のものとする。 善人は善人として認め, 悪人にもまた善人として接する。  それは本性では善だからである。 正直者にはその正直さを認め,  うそつき者であっても(その人格を)認める。  その本性に信(まこと)があるからである。 聖人は世の中に平和に,よく調和して住む。 世の人々は精神的連帯の中に結び合わされ, 聖人はそれらすべての人々を,自分の子どもとして扱う。

(The quality of indulgence)
The sage has no invariable mind of his own; he makes the mind of the people his mind. To those who are good (to me), I am good; and to those who are not good (to me), I am also good; - and thus (all) get to be good. To those who are sincere (with me), I am sincere; and to those who are not sincere (with me), I am also sincere; - and thus (all) get to be sincere. The sage has in the world an appearance of indecision, and keeps his mind in a state of indifference to all. The people all keep their eyes and ears directed to him, and he deals with them all as his children.

朗読  Laozi 老子 第四十九章 朗讀中国話 (第49~63章)<./a>、 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[49]



貴生第五十
出生、入死。生之徒十有三、死之徒十有三。人之生、動之死地十有三。夫何故。以其生生之厚。蓋聞、善攝生者、陸行不遇兕虎、入軍不甲兵。兕無投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故。以其無死地。
ずれば生、入れば死。生の徒十に三あり、死の徒十に三あり。人の生くるや、動きて死地にくものまた十に三あり。それ何の故ぞ。その生を生とするの厚きをもってなり。けだし聞く、「く生を摂する者は、陸行して兕虎じこに遇わず、軍に入りて甲兵をこうむらず」と。兕もその角を投ずる所なく、虎もその爪をく所なく、兵もその刃をるる所なし。それ何の故ぞ。その死地しちなきをもってなり。

「人は生まれたら必ず死に向かう。長生する人は十分の三あり、早死にする人も十分の三ある。そのままなら生きていたのに、下手に動いて死ぬ人も十分の三ある。これはなぜか、生への執着があまりにも強いからだ。 かつて聞いた。『善く生を全うする人は陸地を歩いても犀や虎に会わず、戦場でも殺される事はない』と。  その人には犀も角を使えず、虎も爪を使えず、敵兵は武器を使えない。これはなぜか、彼が生に執着しないため、死の境地に入る事がないからだ」。

(50)持続される不死の命
生を終えて,死に入る。 命に随伴するもの(器官)は,13ある。〔参考:人のからだには4本の手足と9つの穴がある。〕 死に随伴するもの(器官)もまた,13である。 人の命が死の世界に送り込まれるのもまた,身にそなわった13のものである。  それはどうしてなのか。 それは,その人が多岐にわたる生活のために,あくせくと生きたからである。            〔結局,死ねば身も心も不在となる(消滅してしまう)。〕 質の高い人生を送った人は,   陸行して,虎や野牛(バッファロ)に襲われることはないし,  戦場で,武器で殺傷されることもない,とはよく言われてきたことだ。 猛々しい野牛の角も,このような人には無力である。  どうしてそうなのか。 それは,その人が生死を超えている(不死の命を保つ)からである。 

(The value set on life)
Men come forth and live; they enter (again) and die. Of every ten three are ministers of life (to themselves); and three are ministers of death. There are also three in every ten whose aim is to live, but whose movements tend to the land (or place) of death. And for what reason? Because of their excessive endeavours to perpetuate life. But I have heard that he who is skilful in managing the life entrusted to him for a time travels on the land without having to shun rhinoceros or tiger, and enters a host without having to avoid buff coat or sharp weapon. The rhinoceros finds no place in him into which to thrust its horn, nor the tiger a place in which to fix its claws, nor the weapon a place to admit its point. And for what reason? Because there is in him no place of death.

朗読  Laozi 老子 第五十章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[50]



養徳第五十一
道生之、徳畜之、物形之、勢成之。是以萬物、莫不尊道而貴徳。道之尊、徳之貴、夫莫之命而常自然。故道生之、徳畜之、長之、育之、成之、孰之、養之、覆之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
道これを生じ、徳これをやしない、物これをあらわし、勢これを成す。ここをもって万物、道をたっとび徳をたっとばざるはなし。道の尊き、徳の貴き、それこれに命ずることなくして常におのずからしかり。故に道これを生じ、徳これを蓄い、これを長じ、これを育て、これをし、これをじゅくし、これを養い、これをおおう。生じて有せず、なしてたのまず、長じてさいせず。これを玄徳とう。

「道が万物を生み出し,徳が万物を養育し、万物に形を与える。こうして万物が完成する。それゆえ万物は道を尊び、徳を重視するのだ。  道が尊敬され、徳が重視されるわけは,誰が命令したというより、昔から自然にそうなっているからだ。  こうして道が万物を生み出し、徳が万物を育て、万物を成長させ、万物に実を結ばせて成熟させ、保護するのである。  万物を生み育てながら自分の物とせず、万物を育てながら自分の力のせいだとせず、万物の頭になって彼らを支配したりしない。  これこそがもっとも深遠な『徳』なのである」。

(51)玄妙な徳の力
 「道」がそれらに命を与え,  「徳(道の力)」がそれらを養う。  物質界(質料界)がそれらに形を与える。  もろもろの動因がそれらを作り上げる。 だからこそ,それらすなわち森羅万象ことごとくが「道」を敬い,「徳」を讃えるのだ。  「道」が敬われ「徳」が讃えられるのは,  強制されてのことではなく,自ずからそうなるのである。 そうだから,「道」はそれらに命を与え, 「徳」がそれらを養い, それらを成長させ,発展させ, 住処(すみか),すなわち安住の地を与え, 育ててやり,かくまってやる。  「道」が命を与えても己のものとせず,  行為して(万物を助けて)なお執着せず,  超然たる中に,万物をあるがままに保つ。   ─これらすなわち「玄妙な徳の力」の所以である。

(The operation (of the Dao) in nourishing things)
All things are produced by the Dao, and nourished by its outflowing operation. They receive their forms according to the nature of each, and are completed according to the circumstances of their condition. Therefore all things without exception honour the Dao, and exalt its outflowing operation. This honouring of the Dao and exalting of its operation is not the result of any ordination, but always a spontaneous tribute. Thus it is that the Dao produces (all things), nourishes them, brings them to their full growth, nurses them, completes them, matures them, maintains them, and overspreads them. It produces them and makes no claim to the possession of them; it carries them through their processes and does not vaunt its ability in doing so; it brings them to maturity and exercises no control over them; - this is called its mysterious operation.

朗読  Laozi 老子 第五十一章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[51]



歸元第五十二
天下有始、以爲天下母。既知其母、復知其子、既知其子、復守其母、没身不殆。塞其兌、閇其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。見小曰明、守柔強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是謂習常。
天下てんかはじめり、もっ天下てんかははす。すでははり、またり、すでりて、またははまもれば、ぼっするまであやうからず。たいふさぎ、もんずれば、終身しゅうしんつかれず。あなひらき、ことせば、終身しゅうしんすくわれず。しょうるをめいい、じゅうまもるをきょうう。ひかりもちいて、めい復帰ふっきせば、わざわいのこすことし。これ習常しゅうじょうう。

「天下の全てのものには皆、始まりがある。この始まりを天下の万物の根本とする。  万物の根本である母(道)を認識したからには、その子(万物)も認識できる。  万物を認識したからには、さらに根本をしっかりと守らなくてはならない。そうすれば終生危険は無い。  道を修めるには、知識や欲望の入る耳、目、鼻、口などの穴を塞ぐ。門を閉ざせば終生病は発生しない。穴を開き、知識、欲望の入るに任せれば、もはや救いようが無い。  小さな兆しを観察できる事を『明』と呼び、それに対応し柔軟さを保持する事を『強』という。  蓄えられている『光』を用いて、真の『明』に復帰すれば、身に災いは発生しない。これを『永遠の道を習熟した』という」。

(52)絶対者の中に憩(いこ)う
天地(あめつち)に始めがあり,  名付けて「天地の母」という。 その「母」によって,その子(万物)を知る。  その子を知って,その母につく(母の教えを知る)。  そうすれば,人の生涯は危害から守られるだろう。 (感覚の外への)窓をふさぎ, (出入りの)門を閉じれば, 人の生涯は労苦から解放される。 窓を開き, 世事に奔走しても, 人の生涯は少しも報われることがない。 小さなものをよく見る人は,明視の人である。 控えめに振る舞うものは強い。   光を用い(道の働きを知り),   明視の様(さま)に帰る─ そうすれば,人は後のちの辛苦が避けられる。 ─これが「絶対者(道)」の中に安んじる道である。

(Returning to the source)
(The Dao) which originated all under the sky is to be considered as the mother of them all. When the mother is found, we know what her children should be. When one knows that he is his mother's child, and proceeds to guard (the qualities of) the mother that belong to him, to the end of his life he will be free from all peril. Let him keep his mouth closed, and shut up the portals (of his nostrils), and all his life he will be exempt from laborious exertion. Let him keep his mouth open, and (spend his breath) in the promotion of his affairs, and all his life there will be no safety for him. The perception of what is small is (the secret of clear- sightedness; the guarding of what is soft and tender is (the secret of) strength.
Who uses well his light, Reverting to its (source so) bright, Will from his body ward all blight, And hides the unchanging from men's sight.

朗読  Laozi 老子 第五十二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[52]



益證第五十三
使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚、服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道哉。
われをして介然かいぜんとして知るあり、大道を行なわしむれば、ただななめならんことをこれおそる。大道ははなはたいらなれども、民はこみちを好む。ちょう甚だととのえば、田甚だれ、倉甚だむなし。文綵ぶんさいを服し、利剣りけんを帯び、飲食にき、財貨余りあり。これを盗夸とうかと謂う。非道なるかな。

「もし私に英知があり、『道』にもとずいた政治を行うとしたら、私は煩わしい政策をやたら施行しない。  大きな道は平らであるが(途中に検問所や通行税の徴収所などがあったりして)、人々は(そうしたものの無い)小道を選ぶ。  宮殿は非常に美しく清められているが、田畑は荒れ放題、民の倉庫は空っぽなのに、王侯、貴族たちは美しい着物を着て、鋭い剣を帯びている。  おいしい食べ物にも飽き、有り余る財産を保有する。まさに『非道』な話ではないか」。

(53)略奪する者
われに「純朴な知識(道の体得)」があれば, 大道を歩き(「道」を踏み行い), 小道(脇道)に踏み込むことはない。  大道は歩くに易(やす)いというのに,  人々は小さな脇道に入り込むのを好む。 宮廷はきちんと清められているというのに, 田畑は荒れ果てており, 民衆の穀倉はなはだ貧弱である。 その一方で,きらびやかに縫い取りした豪華な衣服をまとって, 身には剣をたずさえ, 美味美酒で飽食の輩(やから)は, 富と財産のことで争っている。 ─これこそまさに世の中を盗賊の巣へと導くやり方である。  「道」の堕落と言うべきではないのか(道の退廃と言わずして何であろうか)。

(Increase of evidence)
If I were suddenly to become known, and (put into a position to) conduct (a government) according to the Great Dao, what I should be most afraid of would be a boastful display. The great Dao (or way) is very level and easy; but people love the by-ways. Their court(-yards and buildings) shall be well kept, but their fields shall be ill-cultivated, and their granaries very empty. They shall wear elegant and ornamented robes, carry a sharp sword at their girdle, pamper themselves in eating and drinking, and have a superabundance of property and wealth; - such (princes) may be called robbers and boasters. This is contrary to the Dao surely!

朗読  Laozi 老子 第五十三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[53]



修觀第五十四
善建者不抜、善抱者不脱。子孫以祭祀不輟。修之於身、其徳乃眞。修之於家、其徳餘。修之於郷、其徳乃長。修之於國、其徳乃豐。修之於天下、其徳乃普。故以身觀身、以家觀家、以郷觀郷、以國觀國、以天下觀天下。何以知天下然哉。以此。
く建つるものは抜けず、善く抱くものはけず。子孫もって祭祀してまず。これを身におさむれば、その徳すなわち真なり。これを家に修むれば、その徳すなわちあまる。これを郷に修むれば、その徳すなわちながし。これを国に修むれば、その徳すなわちゆたかなり。これを天下に修むれば、その徳すなわちあまねし。故に身をもって身を、家をもって家を観、郷をもって郷を観、国をもって国を観、天下をもって天下を観る。われ何をもって天下のしかるを知るや。これをもってなり。

「うまく建てられたものは,揺り動かされず、うまく抱えられたものは,抜け落ちない。こうして子孫は安定し、何世代に亘って祭祀し絶える事が無い。 この原則を個人の単位で実践すれば、その徳は真になる。 家の単位で実践すれば、その徳はあまるほどになり、繁栄する。 村の単位で実践すれば,村は長く繁栄する。 国の単位で実践すれば、その国は豊かになる。 天下の単位で実践すれば、平和があまねくゆきわたる。 こうして人は個人の単位で自分を認識し、家の単位で家を認識し、村の単位で地域を認識し、国の単位で国を認識し、天下の単位で天下を認識する事が出来る。  どのようにして天下の状況を知るかは,これによって測るのである」。

(54)個人そして国は
しっかりと立てられた者は,揺るぎなくそこに立つ。 固い信念の人は,容易には動かされない。 世代から世代へと,先祖をまつる(いけにえの)儀式は,  よどみなく受け継がれていくだろう。 (この道を)身に修むれば,品性は真正なものとなり, 家においておこなわれれば,家の品格は豊かになり, 村落においておこなわれれば,村落にはやさしさがみなぎり, 一国においておこなわれれば,その国は豊かに富み, 全土にゆきわたれば,道は普遍的なものとなる。 このようであるから,  個人の品性を見て,その個人を判断し,  家の品格を見て,その家を判断し,  村落の雰囲気を見て,村落を判断し,  一国の豊かさを見て,その国を判断し,  全土の有様を見て,全土の現況を把握する。  どうして,こんな考えが正しいと思うのか,  それは,これ(上に述べた見方)によってである。

(The cultivation (of the Dao), and the observation (of its effects))
What (Dao's) skilful planter plants Can never be uptorn; What his skilful arms enfold, From him can never be borne. Sons shall bring in lengthening line, Sacrifices to his shrine.
Dao when nursed within one's self, His vigour will make true; And where the family it rules What riches will accrue! The neighbourhood where it prevails In thriving will abound; And when 'tis seen throughout the state, Good fortune will be found. Employ it the kingdom o'er, And men thrive all around.
In this way the effect will be seen in the person, by the observation of different cases; in the family; in the neighbourhood; in the state; and in the kingdom. How do I know that this effect is sure to hold thus all under the sky? By this (method of observation).

朗読  Laozi 老子 第五十四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[54]



玄符第五十五 (赤ん坊の徳)
含德之厚,比於赤子。蜂蠆虺蛇不螫,猛獸不據,攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而峻作,精之至也。終日號而不嗄,和之至也。知和曰常,知常曰明,益生曰祥。心使氣曰強。物壯則老,謂之不道,不道早已。

含徳の厚きは、赤子せきしに比す。毒蟲どくちゅうさず、猛獣もらず、攫鳥かくちょうたず。骨弱く筋柔らかにして握ること固し。いまだ牝牡ひんぼの合を知らずしてすいつ。精の至りなり。終日さけびてれず。和の至りなり。和を知るを常といい、常を知るを明という。生をすを祥といい、心、気を使うを強という。物そうなればすなわち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早くむ。

「『徳』を厚く中に秘めている人は,無知無欲の乳児と同じだ。毒虫も彼を刺さず、猛獣も彼を襲わず、猛禽も彼を攻撃しない。 彼の骨は弱く、筋肉も柔らかいが、手をしっかりと握っている。 彼は男女の交合も知らないのに、彼の性器は何時も立っているが、それは精気があふれているからだ。 彼が一日中、泣き叫んでも、声がかれる事が無いのは、彼が『和』の気を持っているからである。 『和』は平常心をもたらし、平常心を持つ事を『明晰』という。精気が増す事は喜ばしく、元気になることを剛強になると言うが、物事は剛強になると、必ず衰退に向かう。精気を増す事、元気を増す事に執着し,無理に剛強になることは『道』にかなっていない。『道』にかなっていないと必ず速やかに滅亡する」。

(55)幼子(おさなご)のように
内に豊かさを秘めたる人は, 幼子のように見える。  毒のある虫たちもその者を刺さず,  野獣もその者に襲いかかろうとせず,  猛禽も飛びかかって食らいつこうとはしない。  猛禽も飛びかかって食らいつこうとはしない。 骨はまだ固まっていず,筋肉はやわらかいのに,握る力は強い。 男女の交合などいまだ知るよしもないのに,性器がしっかりできているのは,  その精気が健全であるからである。 終日泣き続けて,なお声が嗄(か)れないのは,  その生来の調和が整っているからである。 調和を知ることは永遠と合致していることであり, 永遠を知る,すなわち正覚(明知)の境地である。 いたずらに命を延ばそうと図ることは不吉である。 強いて心を奮い立たせようとすることは,無理強いというものだ。 物事が年輪を重ねてその絶頂に達すれば, (無理強いの果ての)その結果は「道」とは相容れない。 「道」に背く者は若さを失う。

(The mysterious charm)
He who has in himself abundantly the attributes (of the Dao) is like an infant. Poisonous insects will not sting him; fierce beasts will not seize him; birds of prey will not strike him. (The infant's) bones are weak and its sinews soft, but yet its grasp is firm. It knows not yet the union of male and female, and yet its virile member may be excited; - showing the perfection of its physical essence. All day long it will cry without its throat becoming hoarse; - showing the harmony (in its constitution).
To him by whom this harmony is known, (The secret of) the unchanging (Dao) is shown, And in the knowledge wisdom finds its throne. All life-increasing arts to evil turn; Where the mind makes the vital breath to burn, (False) is the strength, (and o'er it we should mourn.)
When things have become strong, they (then) become old, which may be said to be contrary to the Dao. Whatever is contrary to the Dao soon ends.

朗読  Laozi 老子 第五十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[55]



玄徳第五十六 (知るものは言わず)
知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、亦不可得而。不可得而利、亦不可得而害。不可得而貴、亦不可得而賤。故爲天下貴。
知る者は言わず、言う者は知らず。そのたいふさぎ、その門を閉じ、その鋭をくじき、そのふんを解き、その光を和し、その塵に同じくす。これを玄同げんどうと謂う。故に得て親しむべからず、また得てうとんずべからず。得て利すべからず、また得て害すべからず。得て貴ぶべからず、また得ていやしむべからず。故に天下のとなる。

「道を知る人は言わず、言う人は道を分かっていない。 目、耳、鼻、口など(知識の入る)穴を塞ぎ、門を閉ざして鋭い切っ先を表すことなく、いろいろな世間のもつれをといて、その輝きを和らげながら、塵の中に混じっている。こういうものを『玄同』(道)という。 これを持つ人には気易く近ずけないし、遠ざかり疎んじることも出来ない。 利益を得させてもいけないし、損害をかぶらせてもいけない。むやみに彼を尊ぶこともいけないし、彼を卑しめることも出来ない。こういう人だからこそ、天下の人から尊敬されるのだ」。

(56)名誉や不名誉とは
知る者は言わず, 言う者は知らない。  外界との(感覚の)窓はふさぎ,  門は閉じ,  とがった角は丸め,  もつれたものはほどき,  光は和らげ,  混乱は鎮(しず)めよ。  ─これが“玄妙なる合一”である。〔すべては一者・道に帰一する〕 そして,愛も憎しみもその者には触れられない。 利害得失とは無関係である。 名誉や不名誉とも無縁である。 だからこそ,その者は常に天下の貴人である。

(The mysterious excellence)
He who knows (the Dao) does not (care to) speak (about it); he who is (ever ready to) speak about it does not know it. He (who knows it) will keep his mouth shut and close the portals (of his nostrils). He will blunt his sharp points and unravel the complications of things; he will attemper his brightness, and bring himself into agreement with the obscurity (of others). This is called 'the Mysterious Agreement.' (Such an one) cannot be treated familiarly or distantly; he is beyond all consideration of profit or injury; of nobility or meanness: - he is the noblest man under heaven.

朗読  Laozi 老子 第五十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[56]



淳風第五十七 (無為にして民自ずから化す)
以正治國、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉。以此。天下多忌諱、而民彌貧。民多利器、國家滋昬。人多伎巧、奇物滋起。法令滋彰、盗賊多有。故聖人云、我無爲而民自化。我好靜而民自正。我無事而民自富。我無欲而民自
正をもって国を治め、奇をもって兵を用い、無事をもって天下を取る。われ何をもってそのしかるを知るや。これをもってなり。天下に忌諱きき多くして、民いよいよ貧し。民に利器多くして、国家ますますくらし。人に伎巧ぎこう多くして、奇物ますます起こる。法令ますますあきらかにして、盗賊あること多し。故に聖人云う、「われ無為にして民おのずからす。われ静を好みて民おのずから正し。われ無事にして民おのずからむ。われ無欲にして民おのずからぼくなり」。

「正しい方法で国を治め、戦争では奇略を用い、無事に天下を統一する。私にどうしてその事が分かるのか、その根拠はこうである。  天下に禁令が多くなればなるほど民はますます困窮する。  民間に武器が多くなればなるほど、国家は混乱する。  技術が進めば進むほど、怪しげなものが出てくる。  法令が行き亘れば、行き亘るほど、盗賊が増える。  だから聖人は言う。『私が無為であれば、民は自ずと従順になり、私が平静を好めば、民は自ずと正しくなる。私がなにもしないと民は自ずと裕福に成り、私が無欲であれば、民は自ずと純朴になる』と」。

(57)統治の業(わざ)
「正道」によって王国を統治する。 戦場では意表をつく奇策をもって戦う。 無為であることで世界を制覇する。 なぜそのことを知るのか。 それは,次のことでわかるのだ,すなわち  禁止制約事項が多いほど,   民の生活は貧しくなる。  武器が鋭利になるほど,    国内の混乱は大きくなる。  技術が進むほど,   狡知にたけた事件が頻発する。  法令の数が多くなるほど,     盗賊山賊の徒輩がはびこってくる。 だから聖人は言う,  私が無為なままにあれば,民は自ら進んで自己改革を成し遂げ,  私が静謐(せいひつ)なままにあれば,民は自ら進んで襟を正し(正しいことを行い),  私が業務をしないままにあれば,民は進んで自ら富んでいく。  私が無欲のままにあれば,民はおのずから素朴で正直になっていく。

(The genuine influence)
A state may be ruled by (measures of) correction; weapons of war may be used with crafty dexterity; (but) the kingdom is made one's own (only) by freedom from action and purpose. How do I know that it is so? By these facts: - In the kingdom the multiplication of prohibitive enactments increases the poverty of the people; the more implements to add to their profit that the people have, the greater disorder is there in the state and clan; the more acts of crafty dexterity that men possess, the more do strange contrivances appear; the more display there is of legislation, the more thieves and robbers there are. Therefore a sage has said, 'I will do nothing (of purpose), and the people will be transformed of themselves; I will be fond of keeping still, and the people will of themselves become correct. I will take no trouble about it, and the people will of themselves become rich; I will manifest no ambition, and the people will of themselves attain to the primitive simplicity.'

朗読  Laozi 老子 第五十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[57]



順化第五十八
其政悶悶、其民醇醇。其政察察、其民缺缺。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正。正復爲奇、善復爲。人之迷、其日固久。是以聖人方而不割、廉而不劌、直而不肆、光而不
その政悶悶もんもんたれば、その民醇醇じゅんじゅんたり。その政察察たれば、その民欠欠たり。わざわいは福のる所、福は禍のふくす所。たれかその極を知らん。それ正なし。正また奇となり、善またようとなる。人の迷える、その日まことに久し。ここをもって聖人はほうにしてかず、れんにしてらず、直にしてびず、光りて耀かがやかず。

「政治が大まかだと、民は温厚になる。  政治が細かく厳しいと、民は不満を高める。  災禍には幸福が寄り添い、幸福には災禍が潜んでいる。  誰が終局を知っているのだろう。定まるところは無いのだ。  正常は何時でも異常になるし、善は何時でも怪しげなものに変化する。このため人が迷うのは遠い昔からだ。  こうしたわけで聖人は、正しくあっても無理をせず、厳しくあっても人を傷つけず、素直であっても無遠慮でなく、明るく輝いてもきらびやかでない」。

(58)ゆるやかな統治
統治の府がおおらかに無為であれば,  その民は生き生きと暮らす。 統治の府が有能で水際立っていれば,  民衆は不満たらたらとなる。 災禍は幸運への通路であり, そして幸運は災禍の隠れ家である(災禍と幸運はいつも隣り合っている)。  誰がその帰趨(きすう)を知り得ようか。 このように,いつも正常な姿のままというものはない。  正常な姿は,すぐにでも欺瞞の状態へと逆転するし,  良い状態は災いへと転換する。 このようにして,人類は長きにわたってさ迷い続けてきたのだ! だから聖人は,自分で真っ直ぐな形(しっかりした原則)を保持しながらも,  とげたった形を直し(民の行き過ぎた行為をとがめたて)たりはしないし, 己は無欠なままに保っていても,民を(法などで)矯正したりはしないし, 己は身を正しながらも,民には高圧的な態度を見せないし, 自らの輝きで民を眩惑させるということもない。

(Transformation according to circumstances)
The government that seems the most unwise, Oft goodness to the people best supplies; That which is meddling, touching everything, Will work but ill, and disappointment bring.
Misery! - happiness is to be found by its side! Happiness! - misery lurks beneath it! Who knows what either will come to in the end? Shall we then dispense with correction? The (method of) correction shall by a turn become distortion, and the good in it shall by a turn become evil. The delusion of the people (on this point) has indeed subsisted for a long time. Therefore the sage is (like) a square which cuts no one (with its angles); (like) a corner which injures no one (with its sharpness). He is straightforward, but allows himself no license; he is bright, but does not dazzle.

朗読  Laozi 老子 第五十八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[58]



守道第五十九
治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是謂早服。早服謂之重積徳。重積徳、則無不。無不、則莫知其極。莫知其極、可以有國。有國之母、可以長久。是謂深根、固、長生、久視之道。
人を治め天につかうるは、しょくにしくはなし。それただ嗇、これを早服そうふくと謂う。早服これを重積徳ちょうせきとくと謂う。重積徳なれば、すなわちくせざるなし。克くせざるなければ、すなわちそのきょくを知るなし。その極を知るなければ、もって国をたもつべし。国の母を有てば、もって長久なるべし。これを深根、固柢こてい、長生、久視きゅうしの道と謂う。

「人を治め、天に仕えるには『節約』の精神に勝るものは無い。  常に『節約』しているからこそ、どんな事に出会っても、それに早々と対応する準備が出来るのだ。  どんなことに出会っても、落ち着いて早々と準備が出来るのは、それは『節約』という徳が積み重ねられているからだ。 『節約』という徳が積み重ねられていると、いつでも勝利する。いつでも勝利するから、その力は計り知れない。  この計りようのない力があってこそ、国家の政治が管理できるのだ。  国の根本を大切に保てば、統治は永久に維持できるだろう。  それで言う『根を深く、しっかりと堅くすること、それが長寿の道である』と」。

(59)倹約が第一
人の世で物事を処するのには,つつましやか(倹約)に勝るものはない。 つつましやかであることは,物事に先んじることである。 先んじれば準備万端整い,足場は強固になる。 準備整い足場が固まるのは,常勝の道である。 常勝の道とは無限の能力を意味する。 無限の能力を保持する者にこそ,国を治める資格があり, 国を治める原理(母原理)であればこそ長らえられるのだ。  これ(つつましやかであること)こそがしっかり根付くやり方であり,深い力をたたえ,  永世そして不朽の考え方である。

(Guarding the Dao)
For regulating the human (in our constitution) and rendering the (proper) service to the heavenly, there is nothing like moderation. It is only by this moderation that there is effected an early return (to man's normal state). That early return is what I call the repeated accumulation of the attributes (of the Dao). With that repeated accumulation of those attributes, there comes the subjugation (of every obstacle to such return). Of this subjugation we know not what shall be the limit; and when one knows not what the limit shall be, he may be the ruler of a state. He who possesses the mother of the state may continue long. His case is like that (of the plant) of which we say that its roots are deep and its flower stalks firm: - this is the way to secure that its enduring life shall long be seen.

朗読  Laozi 老子 第五十九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[59]



居位第六十
治大國、若烹小鮮。以道天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷。夫兩不相傷。故徳交歸焉。
大国を治むるは、小鮮しょうせんるがごとし。道をもって天下にのぞめば、そのしんならず。その鬼、神ならざるのみならず、その神、人をそこなわず。その神、人を傷わざるのみならず、聖人もまた人を傷わず。それふたつながら相傷わず。故に徳こもごもす。

「大国を治めるには、小魚を煮るように、余り箸でかき混ぜないことだ。(いたずらにいろいろな施策をしない)。 『道』を用いて(無為の精神で)天下を治めれば、精霊の鬼も力を発揮しない。 鬼が力を発揮しないのでなく、その神通力では人を害することが出来ないのだ。 いや、その神通力が人を害せないのでなく、聖人が人を害することがないため、聖人と鬼が互いに害し合うことがないのだ。 こうして聖人と鬼とは互いに『徳』を共有する」。

(60)大国を治めるには
大国は小魚を焼(炒(いた)める)ように治めるのがよい。 「道」に則して世を治める者は,  精霊(鬼神)が(悪さをする)力を出してこないのを知るだろう。 というより,精霊が(悪さをする)力を失ったのではなく,  彼らが人民に危害を加えるのを止めただけなのだ。 精霊が人民に危害を加えるのを止めただけではなく,  聖人自身もまた人民に害を加えないでいるのだ。 精霊(鬼神)と聖人の両者ともに危害を加えようとしない,そのとき  本来の徳は回復されるのだ。

(Occupying the throne)
Governing a great state is like cooking small fish. Let the kingdom be governed according to the Dao, and the manes of the departed will not manifest their spiritual energy. It is not that those manes have not that spiritual energy, but it will not be employed to hurt men. It is not that it could not hurt men, but neither does the ruling sage hurt them. When these two do not injuriously affect each other, their good influences converge in the virtue (of the Dao).

朗読  Laozi 老子 第六十  章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[60]



謙徳第六十一
大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。故大國以下小國、則取小國。小國以下大國、則取大國。故或下以取、或下而取。大國不過欲兼畜人、小國不過欲入事人。夫兩者各得其所欲。大者宜爲下。
大国は下流かりゅうなり。天下のこうなり。天下のひんなり。牝は常に静をもってに勝つ。静をもって下となればなり。故に大国もって小国にくだれば、すなわち小国を取る。小国もって大国にくだれば、すなわち大国に取らる。故にあるいは下りてもって取り、あるいは下りて取らる。大国は人をやしなわんと欲するに過ぎず、小国は入りて人につかえんと欲するに過ぎず。それ両者はおのおのその欲するところを。大なる者はよろしく下となすべし。

「大国はたとえれば河の下流である。天下のすべての物が行き着く所 であり、いわば天下の牝である。  牝が何時も牡に勝つのは、牝が穏やかに下にいるからだ。  大国が小国に身を低くして接すれば、小国の信頼を得る。  小国がへりくだって大国に接すれば、大国の信任を得る。  それゆえ時には大国がへりくだって小国の信頼を得、小国は時には大国にへりくだって大国の信任を得るのがよい。  大国は小国の面倒を見たいと欲しているに過ぎず、小国は大国に仕えたいと思っているだけなのだ。  それで大国も小国もともに望みが満たされるわけだが、大国はとくに上手にへりくだるべきである」。

(61)大国と小国と
大国は川の下流の三角州のようなもので,  そこでは人々が群れをなして行き交い,  そこは世界の「牝(めす)(女性)の地」である。 「牝」はその静(せい)(静かなること)によって「雄(おす)」に打ち勝ち, 静によって低い位置に就く。 そこで,もし大国が小国より低い位置に就けば,  大国は(巧まずして)小国を併合できる。 同様に,小国が自らを大国の下に就けば,  (やがて)小国は大国を従えられる(吸収し,うち勝てる)。 それ故に,ある国は自らを下に置いて他国を吸収し(併合し),  別の国も低きにおることで,他国を従える。   大国が望むことは他国を庇護したいだけであり,   小国が望むこともまた,(連合の)一員となり,庇護されたいだけなのだ。 こうして,両者共々望むところを勘案すれば,  大国こそがその態度を低く抑え置くべきなのだ。

(The attribute of humility)
What makes a great state is its being (like) a low-lying, down- flowing (stream); - it becomes the centre to which tend (all the small states) under heaven. (To illustrate from) the case of all females: - the female always overcomes the male by her stillness. Stillness may be considered (a sort of) abasement. Thus it is that a great state, by condescending to small states, gains them for itself; and that small states, by abasing themselves to a great state, win it over to them. In the one case the abasement leads to gaining adherents, in the other case to procuring favour. The great state only wishes to unite men together and nourish them; a small state only wishes to be received by, and to serve, the other. Each gets what it desires, but the great state must learn to abase itself.

朗読  Laozi 老子 第六十一章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[61]



爲道第六十二
道者萬物之奧。善人之寳、不善人之所保。美言可以市、尊行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰以求得、有罪以免。故爲天下貴。
道は万物の奥なり。善人の宝にして、不善人の保つところなり。美言はもってるべく、尊行はもって人に加うべし。人の不善なる、何の棄つるものかこれあらん。故に天子を立て、三公を置き、へきりてもって駟馬しばさきにするありといえども、してこの道を進むにしかず。いにしえのこの道を貴ぶゆえんは何ぞ。もって求むれば、罪ありてもってまぬがるといわずや。故に天下のたり。

「道は万物の奥にあって、善人の宝物であり、悪人もまた持ちたいとするものである。  悪人がこれを持つと、口先上手に人々の尊敬を得て、にこやかな顔で人の上に立つ事が出来るからだ。しかし、たとえ悪人であっても、それを悪人だからといって捨て去ってよいものではない。  天子が即位し、補佐する大臣が決まると、天子を象徴する宝物を先頭にした四頭立ての馬車が献上される儀式が行われるが、そうしたものより、献上者は天子の前に座して『道』を勧めるだけの方が善いのだ。  昔から『道』を尊ぶゆえんは、求めるものが必ず得られ、罪のあるものも許されるといわれるでないか。だから天下の人々に尊ばれるのだ」。

(62)善人の宝物(たからもの)
「道」は天地の深遠な秘密(玄妙な謎)である。 善人の宝であって, 不善なる者の逃げ場でもある。  美辞麗句は市場で通用し,   気取った立ち振る舞いで,褒美の報いが与えられる。 不善なる者であったとて, なぜ拒絶することがあろうか。 このようだから,皇帝の戴冠の儀において,  三人の大臣(三公;最高位の役人)の就任の場であってさえも,   宝玉の貢ぎ物や四頭立ての馬車を献呈することより,  「道」を進言することが勝るのだ。 古人たちは,どんな点でこの「道」を褒め称えたのだろう。 彼らは“罪人たちを探しだし,その者たちの罪を許せ”と言わなかっただろうか。  このように,「道」は,世界の宝なのである。

(Practising the Dao)
Dao has of all things the most honoured place. No treasures give good men so rich a grace; Bad men it guards, and doth their ill efface.
(Its) admirable words can purchase honour; (its) admirable deeds can raise their performer above others. Even men who are not good are not abandoned by it. Therefore when the sovereign occupies his place as the Son of Heaven, and he has appointed his three ducal ministers, though (a prince) were to send in a round symbol-of-rank large enough to fill both the hands, and that as the precursor of the team of horses (in the court-yard), such an offering would not be equal to (a lesson of) this Dao, which one might present on his knees. Why was it that the ancients prized this Dao so much? Was it not because it could be got by seeking for it, and the guilty could escape (from the stain of their guilt) by it? This is the reason why all under heaven consider it the most valuable thing.

朗読  Laozi 老子 第六十二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[62]



恩始第六十三 (怨みに報いるに徳を以ってす)
爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大。故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之。故終無難。
無為をなし、無事ぶじこととし、無味を味わう。小を大とし少を多とし、うらみに報ゆるに徳をもってす。かたきをそのやすきにはかり、大をその細になす。天下の難事は必ず易きよりおこり、天下の大事は必ず細よりおこる。ここをもって聖人はついに大をなさず。故によくその大を成す。それ軽諾けいだくは必ず信すくなく、易きこと多ければ必ず難きこと多し。ここをもって聖人すらなおこれをかたしとす。故についにかたきことなし。


(63)難行(なんぎょう)と易行(いぎょう)(困難なことと平易なこと)
 無為(為すことなし)を成し遂げる。  無事(事件なし)を為すこととする。  無味を味わう。 大小,多寡に拘わらず, 憎しみに徳で報いる。  難事はそれが容易なうちに取り扱い,  大なるものはそれが小なるうちに扱う。 世間の困難な問題は,  それがまだやさしい(芽のうちに)処置すべきなのだ。 世間の大問題と称するものは,  それがまだ簡単であるうちに,処理すべきなのだ。 こういうことだから,聖人は“大問題を処理する”などといったことをしないで,  偉大なことを成し遂げる。 軽々しく約束をする者(安請け合いする者)は,  しばしば彼の真義を反故にしてしまう。 物事を軽く考える者は,  多くの難事に出合うことになる。 これにより聖人は,物事はもともと難事と考えて処置する,  だから,困難に直面することがないのだ。

(Thinking in the beginning)
(It is the way of the Dao) to act without (thinking of) acting; to conduct affairs without (feeling the) trouble of them; to taste without discerning any flavour; to consider what is small as great, and a few as many; and to recompense injury with kindness. (The master of it) anticipates things that are difficult while they are easy, and does things that would become great while they are small. All difficult things in the world are sure to arise from a previous state in which they were easy, and all great things from one in which they were small. Therefore the sage, while he never does what is great, is able on that account to accomplish the greatest things. He who lightly promises is sure to keep but little faith; he who is continually thinking things easy is sure to find them difficult. Therefore the sage sees difficulty even in what seems easy, and so never has any difficulties.

朗読  Laozi 老子 第六十三章Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[63]



守微第六十四
其安易持、其未兆易謀、其脆易、其微易散。爲之於未有、治之於未亂。合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土。千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲、故無敗。執、故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。是以聖人欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。
その安きは持しやすく、そのいまだきざさざるははかり易く、そのもろきはやぶり易く、そのなるはさんじ易し。これを未有になし、これを未乱に治む。合抱ごうほうの木は、毫末ごうまつより生ず。九層の台は、累土るいどより起こる。千里の行は、足下そっかより始まる。なす者はこれを敗り、る者はこれを失う。ここをもって聖人は、なすことなし、故に敗るることなし。ることなし、故に失うことなし。民のことに従うや、常にほとんど成るにおいてこれを敗る。終りをつつしむこと始めのごとくなれば、すなわちやぶるる事なし。ここをもって聖人は不欲を欲し、得がたきの貨を貴ばず。不学を学び、衆人の過ぐるところに復す。もって万物の自然をたすけて、あえてなさず。


(64)始めのうちにと,終わるころにと
じっとしてそこにある物はすぐに手に取れるし,  兆候が現れる前なら処置しやすい。 氷のように固いがもろい物はすぐに溶かせるし,  ちいさなものは手で簡単にまき散らせる。 それが表に現れないうちに,事を処理し, 混乱は芽のうちにつみ取る(鎮(しず")める)。  両手で抱えられないほどの大木も,始めの小さな芽から成長し,  九層の高台も小さな土の一盛りから始まる。  千里の旅も一歩の歩みから始まる。 人は,物事を為そうとしては,駄目にし, 捕まえようとして,取り逃がす。 聖人はあえて物事を為さないので,ぶちこわさないし, 無理に捕まえようとしないから,取り逃がすこともない。  人々がやることは,よく完成間際というときになって,だめにしてしまうものだ。  始めるときと同じように,終わりになっても用心深くあれば,    失敗は防げるのだ。 このようであるから,聖人は(世人のような)欲望を持とうなどとはしないし,  また得難い財宝などには目もくれない。 (聖人はまた)無学なままであることを学び,   大衆が学んで失った以前の状態に引き戻す。 かくして(聖人は)「自然」の運行を助けて,  それを邪魔だてしようなどとはしないのだ。

(Guarding the minute)
That which is at rest is easily kept hold of; before a thing has given indications of its presence, it is easy to take measures against it; that which is brittle is easily broken; that which is very small is easily dispersed. Action should be taken before a thing has made its appearance; order should be secured before disorder has begun. The tree which fills the arms grew from the tiniest sprout; the tower of nine storeys rose from a (small) heap of earth; the journey of a thousand li commenced with a single step. He who acts (with an ulterior purpose) does harm; he who takes hold of a thing (in the same way) loses his hold. The sage does not act (so), and therefore does no harm; he does not lay hold (so), and therefore does not lose his bold. (But) people in their conduct of affairs are constantly ruining them when they are on the eve of success. If they were careful at the end, as (they should be) at the beginning, they would not so ruin them. Therefore the sage desires what (other men) do not desire, and does not prize things difficult to get; he learns what (other men) do not learn, and turns back to what the multitude of men have passed by. Thus he helps the natural development of all things, and does not dare to act (with an ulterior purpose of his own).

朗読  Laozi 老子 第六十四章 朗讀中国話 (第64~81章)Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[64]



淳徳第六十五
古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。知此兩者、亦式。常知式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣、與物反矣。乃至於大順
いにしえの善く道をなす者は、もって民を明にするにあらず、まさにもってこれをにせんとす。民の治め難きは、その智多きをもってなり。故に智をもって国を治むるは、国のぞくなり。智をもって国を治めざるは、国の福なり。この両者を知れば、また楷式かいしきたり。常に楷式を知る、これを玄徳げんとくと謂う。玄徳は深し、遠し、物とはんす。すなわち大順たいじゅんいたる。

(65)大いなる調和
「道」に順応することをよく知っていた古人は,  民衆を啓発するのではなく,   むしろ無知なままに止めておこうと考えた。 なぜかと言えば,民衆の知識があまりに多くなると,   民衆自身が平穏に暮らしていくことがむずかしくなるからだ。 知識によって国を治めようとする者(治者)は,  民に災いをもたらす者だ。 知識によらないで国を治める者(治者)は,  民に恵みをもたらす人である。 このような二つの原則を心得ている者(治者)は  よく古人が行った基準を知っている。 このような古人の基準を心得ることは,  「玄徳(神秘的な能力)」と呼ばれる。 「玄徳」が明らかになり,辺土にまで及ぶとき,   物事は本来の源泉(あるべきところ)に立ち返る。  そうして,そのときにこそ(この地上に)「大いなる調和」が出現するのだ。

(Pure, unmixed excellence)
The ancients who showed their skill in practising the Dao did so, not to enlighten the people, but rather to make them simple and ignorant. The difficulty in governing the people arises from their having much knowledge. He who (tries to) govern a state by his wisdom is a scourge to it; while he who does not (try to) do so is a blessing. He who knows these two things finds in them also his model and rule. Ability to know this model and rule constitutes what we call the mysterious excellence (of a governor). Deep and far-reaching is such mysterious excellence, showing indeed its possessor as opposite to others, but leading them to a great conformity to him.

朗読  Laozi 老子 第六十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[65]



後己第六十六 (王者への道)
江海所以能爲百谷王者、以其善下之。故能爲百谷王。是以聖人、欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭故、天下莫能與之爭。
江海のよく百谷ひゃっこくの王たるゆえんは、その善くこれに下るをもってなり。故によく百谷ひゃっこくの王たり。ここをもって聖人は、民にうえたらんと欲すれば、必ずげんをもってこれにくだり、民に先んぜんと欲すれば、必ず身をもってこれにおくる。ここをもって聖人は、上にるも民は重しとせず、前にるも民は害とせず。ここをもって天下すことを楽しみていとわず。そのあらそわざるをもっての故に、天下よくこれとあらそうことなし。

「大河や海が多くの川谷の王者になれるのは、これら尊ばれる川谷の下流にあるからで、それで王者になれるのだ。  これゆえ、民を治めようとすれば、まず最初に言葉でその謙虚さを示さなければならない。  民を指導しようとするなら、必ず自分を民の後ろに置かなければ成らない。  それゆえ「聖人」は民の上に立って治めても、民はその重さを感じない。民の前に立って指導しても、民の目の妨げにならない。  こうして天下の民は彼を上に戴きながら、彼を嫌う事は無いのだ。 彼は争わないので、彼と争っても勝てるものはいない」。

(66)百谷の王
大河や大海は,いかにして峡谷・河川の「王」となるのであろうか。  それは己をよく低きに保つからである。 それが「百谷の王」となる理由だ。 このように,人々の長となろうと意図する者は,  よくへりくだった発言をすべきである。 人々の先頭に立とうとする者は,  人々におくれた背後から歩を進めるべきである。 こうして聖人は(おのずと)人も上に立ち,  そのことを民衆は少しも負担に感じないのだ。 聖人が先に立って歩いても,   民衆は聖人を害しようなどとはしない。 そして,国中の人々は後々まで彼を推戴したいと願う。 聖人は人と争うことがない,だから 国中のだれもが彼に反対などできないのである。

(Putting one's self last)
That whereby the rivers and seas are able to receive the homage and tribute of all the valley streams, is their skill in being lower than they; - it is thus that they are the kings of them all. So it is that the sage (ruler), wishing to be above men, puts himself by his words below them, and, wishing to be before them, places his person behind them. In this way though he has his place above them, men do not feel his weight, nor though he has his place before them, do they feel it an injury to them. Therefore all in the world delight to exalt him and do not weary of him. Because he does not strive, no one finds it possible to strive with him.

朗読  Laozi 老子 第六十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[66]



三寳第六十七 (天下の先頭には立たない)
天下皆謂我大似不肖。夫唯大、故似不肖。若肖、久矣、其細夫。我有三寳、持而之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。慈、故能勇。儉、故能廣。不敢爲天下先、故能成器長。今慈且勇、舍儉且廣、舍後且先、死矣。夫慈以戰則勝、以守則固。天將救之、以慈衛之。
天下みな「わが道大なるも不肖ふしょうに似る」と謂う。それただ大なり、故に不肖ふしょうに似る。もし肖なれば、久しいかな、その細なることや。われに三宝さんぼうあり、持してこれを保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰くあえて天下のせんたらず。慈なり、故によく勇なり。倹なり、故によく広し。あえて天下の先たらず、故によく器長きちょうと成る。今慈をててまさに勇ならんとし、倹を舎てて、まさに広からんとし、後をててまさに先んぜんとすれば、死なり。それはもって戦えばすなわち勝ち、もって守ればすなわちかたし。天まさにこれを救わんとすれば、慈をもってこれをまもればなり。

「人々は私に言う。私の説く『道』は広大だが、他に似たものが無、いと。まさにそれが広大なるゆえんで、広大なるがゆえに似たものが無いのだ。  もし似たものがあれば「道」はずっと昔に、はるかに小さな物になっていたはずだ。  私には三つの宝があり、私はそれを大切にして守っている。  その宝は第一が『慈愛』、第二は『慎ましさ』、第三が『人々の先に立たない』ということだ。  慈愛があるから逆に勇敢になれ、慎ましいから逆に広く行え、天下の人と先を争わないからこそ頭になれるのだ。  だが、慈愛を捨てて勇敢のみを求め、慎ましさを捨てて広く行う事に執心し、譲る事を捨てて先を争えば、その結果は滅亡があるだけだ。  『慈愛』それを戦争に用いれば勝てるし、防衛に用いれば堅固になる。  天が人を救おうとする場合、『慈愛』で守るのだ」。

(67)三つの宝
世間の人は誰でも,私の教え(道(タオ))を,いかにも大きいが愚かなもののようだという。  それが大きいからこそ,愚かなふうに見えるのだ。 もし愚かなように見えなかったならば,  とっくの昔に,ちっぽけなものになりさがっていたことだろうよ! もし愚かなように見えなかったならば,  とっくの昔に,ちっぽけなものになりさがっていたことだろうよ! 私には三つの宝がある。  それを大切に保ち続けている,  その第一は慈愛(慈母の愛)だよ。  二番目は倹約(むさぼらない)とでも言おうか。  三つ目が世の中で“第一人者”にはならない,ということだ。 慈愛の中で,人は安心していられるし, むさぼりすぎないことで,人は(力を保って)ゆったりとしていられる,さらに 私が世の中で先頭に立つことをしないので,  世の人たちは自分の才能が伸ばせるし,自分の技が磨けるのだ。 もし人が愛と安心を見限り,  自制を止め,権力を握り,   後塵を拝する(後から付いていく)ことをいやがって,先頭をまっしぐらに突き進んだなら, その者は,破滅するだけだよ。 慈愛があるから,攻撃では勝利するし,  守っては負けることがない。 天は慈愛で身を包み,   それら(いま述べたようなこと)で,破滅を見ることなくさせてくれるのだ。

(Three precious things)
All the world says that, while my Dao is great, it yet appears to be inferior (to other systems of teaching). Now it is just its greatness that makes it seem to be inferior. If it were like any other (system), for long would its smallness have been known! But I have three precious things which I prize and hold fast. The first is gentleness; the second is economy; and the third is shrinking from taking precedence of others. With that gentleness I can be bold; with that economy I can be liberal; shrinking from taking precedence of others, I can become a vessel of the highest honour. Now-a-days they give up gentleness and are all for being bold; economy, and are all for being liberal; the hindmost place, and seek only to be foremost; - (of all which the end is) death. Gentleness is sure to be victorious even in battle, and firmly to maintain its ground. Heaven will save its possessor, by his (very) gentleness protecting him.

朗読  Laozi 老子 第六十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[67]



配天第六十八 (争わざるの徳)
善爲士者不武。善戰者不怒。善勝者不。善用人者爲下。是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天之極
く士たる者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者はあらそわず。善く人をもちうる者はこれが下となる。これを不争の徳と謂い、これを人の力を用うと謂い、これを天の極にはいすと謂う。

「優れた『士』は猛々しくない。よく戦うものは怒らない。よく勝つものはやたらに敵と戦わない。人をうまく用いるものは、人に対して謙虚な態度をとる。 これを『争わない徳』といい、『他人の力を用いる』といい、『天の道』にかなうという。これは昔からの規則なのだ」。 

(68)不争の徳
勇敢な兵は粗暴ではない。 よい戦士は平静さを失わない。 偉大な征服者は(小さなことで)争わない。 人をよく用いる者は,自分を他の者より下に置く。 ─これが不争の徳であるし,  人を使う達人と言われ,  天の高みに達する人と称される,と  このように古くから行われるところだ。

(Matching heaven)
He who in (Dao's) wars has skill Assumes no martial port; He who fights with most good will To rage makes no resort. He who vanquishes yet still Keeps from his foes apart; He whose hests men most fulfil Yet humbly plies his art.
Thus we say, 'He never contends, And therein is his might.' Thus we say, 'Men's wills he bends, That they with him unite.' Thus we say, 'Like Heaven's his ends, No sage of old more bright.'

朗読  Laozi 老子 第六十八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[68]



玄用第六十九
用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、無敵、執無兵。禍莫大於輕敵、輕敵幾喪吾寳。故抗兵相加、者勝矣。
用兵に言あり、「われあえて主とならずして客となり、あえて寸を進まずして尺を退く」と。これを無行を行き、無臂むひふるい、無敵をき、無兵をると謂う。わざわいは敵を軽んずるより大なるはなし。敵を軽んずればほとんどわが宝をうしなう。故に兵をげて相くわうるときは、かなしむ者勝つ。

「兵法の言葉に『戦は先に仕掛けてはいけない。守勢の立場を取り、一寸進むより、一尺退いて守れ』と。これを相手側から見れば『攻めるに敵の陣営がなく、つかんで持ち上げる敵の腕も無く、前に敵がいないから使うべき武器が無い』という。  敵の力を軽んじるより大きな災いはなく、敵の力を見くびると、先の三つの宝は失われてしまうだろう。ゆえに両軍の勢力が等しい場合には、兵の苦労を思い、先に退いた方が勝つのだ」。

(69)カムフラージュ(偽装の術)
勇敢な軍の用兵についての金言がある,  私はあえて最初に進入させる者とはならないで,侵入される側に立つ,  一インチを進めるかわりに,一歩退かせる,と。 それは,陣形を整えないで進撃し,  袖はまくり上げ,  正面攻撃なしに攻撃を仕掛け,   武器なしに武装する,などということ(と同じ逆説的表現)である。 敵軍を過小評価することほど大きな破局を迎えることはない。 敵を見くびることは私の“三宝”を失うことに帰結しよう。  このようだから,兵力が同じような敵に遭遇した場合, 戦いに勝つのは,戦を悲しむ(殺戮を憎み悲しむ将が指揮する)軍の方である。 
 *31章に同趣旨の言があるのを参照。

(The use of the mysterious (Dao))
A master of the art of war has said, 'I do not dare to be the host (to commence the war); I prefer to be the guest (to act on the defensive). I do not dare to advance an inch; I prefer to retire a foot.' This is called marshalling the ranks where there are no ranks; baring the arms (to fight) where there are no arms to bare; grasping the weapon where there is no weapon to grasp; advancing against the enemy where there is no enemy. There is no calamity greater than lightly engaging in war. To do that is near losing (the gentleness) which is so precious. Thus it is that when opposing weapons are (actually) crossed, he who deplores (the situation) conquers.

朗読  Laozi 老子 第六十九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[69]



知難第七十 (身にはボロをまとい、心には宝玉をいだく)
吾言甚易知、甚易行。天下莫能知、莫能行。言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知。知我者希、則我者貴。是以聖人、被褐而懷玉。
わが言ははなはだ知りやすく、甚だ行ない易し。天下よく知ることなく、よく行なうことなし。言にそうあり、事に君あり。それただ知ることなし、ここをもってわれを知らず。われを知る者はまれなれば、われにのっとる者は貴し。ここをもって聖人は、かつぎょくいだく。

「私の言葉は大変わかりやすく、大変実行しやすい。だが理解できる人は無く、実行できる人もいない。議論には主旨が必要で、ものごとを行うには主体者がいなければならない。  人々はそれを理解できないから、私の言う事を理解できない。  私の言う事を理解できる人は少ないから,私に習おうという人はほとんどいないが、それだけに,それらの人は尊いといえる。  それゆえ「聖人」は、外には粗末な着物を着ていながら、中に美玉をしのばせていると言うのだ」。

(70)私を知る者はいない
私の教えはとてもやさしいし,  またすぐに実行できる。 それなのに,誰もが私の言葉を理解できないし,また  それを実行できない。  私が述べる言葉には原則があり,  私が述べる世情のことには筋道がある。 こういうことを知らないからこそ, 私を理解しないのだ。  私を理解する者がほとんどいない,ということは,  私が卓越しているということなのだ。 このように,聖人は表面には粗いぼろの衣服をまとい,胸の内に宝玉を抱いているのだよ。

(The difficulty of being (rightly) known)
My words are very easy to know, and very easy to practise; but there is no one in the world who is able to know and able to practise them. There is an originating and all-comprehending (principle) in my words, and an authoritative law for the things (which I enforce). It is because they do not know these, that men do not know me. They who know me are few, and I am on that account (the more) to be prized. It is thus that the sage wears (a poor garb of) hair cloth, while he carries his (signet of) jade in his bosom.

朗読  Laozi 老子 第七十章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[70]



知病第七十一
知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病。是以不病。
不知を知れば上、知を知らざればへい。それただ病を病とす、ここをもってへいならず。聖人せいじんは病ならず、その病を病とするをもってなり。ここをもってへいならず。

「知らざるを知ることは上等だ。知りながら、知らざるとする事は欠点である。この欠点を欠点だと気付くと、その欠点は解消する。 「聖人」には欠点が無い。彼は自分の欠点を欠点と考えるから欠点が無いのだ」。

(71)心に病める者
自分が知らないと自覚している者は最高だ。 知らないのに知っているふりをしている者は,心が病(や)んでいるのだ。 そして,心が病んでいることを病んでいると自覚する者の心は健全だ。  聖人の心は病んでいない。  というのは,聖人は心が病(や)んでいることを病んでいると自覚しているからこそ,  聖人の心は健全と言えるのである。

(The disease of knowing)
To know and yet (think) we do not know is the highest (attainment); not to know (and yet think) we do know is a disease. It is simply by being pained at (the thought of) having this disease that we are preserved from it. The sage has not the disease. He knows the pain that would be inseparable from it, and therefore he does not have it.

朗読  Laozi 老子 第七十一章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[71]



愛己第七十二
民不畏威、大威至矣。無其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。
民、威をおそれざれば、すなわち大威たいい至らん。その居るところにるることなかれ、その生ずるところをふさぐことなかれ。それただ厭がず、ここをもって厭がれず。ここをもって聖人は、自らを知りて自らをしめさず、自らを愛して自らをたっとばず。故にかれを去りてこれをる。

「民が天の権威を恐れないならば、恐ろしい天罰が下されるだろう。  自分の住むところを狭いとせず、自分の生計の道を嫌がってはならない。  自分で嫌がらないから、人から嫌がられないのだ。  聖人はただ自己を知ることのみ求めて、自分を表に出さず、自己を愛しても、自分を尊いとはしない。  だから私も自分を表わす事を捨てて、自己を知ることを取るのだ」。

(72)罰について(1)
人民がお上の権力を恐れないようになると,  (通常によく行われることなのだが,為政者から)強圧手段が民衆に加えられる。 民衆の住まい(生活の場)をさげすまず, 民衆の生業(なりわい)を卑しめるな。  為政者が民衆を嫌うことがなければ,  為政者は民衆に嫌われることがないのだから。 このようであるから,聖人は己自身を知って,それを表に出さず,  自愛の心を持ちながら,他人に驕(おご)らない。 そして聖人はまた,人に威圧を加えることを避けて,  他人をやさしく受け入れる。

(Loving one's self)
When the people do not fear what they ought to fear, that which is their great dread will come on them. Let them not thoughtlessly indulge themselves in their ordinary life; let them not act as if weary of what that life depends on. It is by avoiding such indulgence that such weariness does not arise. Therefore the sage knows (these things) of himself, but does not parade (his knowledge); loves, but does not (appear to set a) value on, himself. And thus he puts the latter alternative away and makes choice of the former.

朗読  Laozi 老子 第七十二章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[72]



任爲第七十三 (天網恢恢)
勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者或利、或害。天之所惡、孰知其故。是以聖人猶難之。天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。天網恢恢、而不失。
あえてするに勇なればすなわちさつ、あえてせざるに勇なればすなわちかつ。この両者はあるいは利、あるいは害。天のにくむむところ、たれかその故を知らん。ここをもって聖人すらなおこれをかたしとす。天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、召さずしておのずからまねき、繟然せんぜんとして善くはかる。天網てんもう恢恢かいかいにして失わず。

「(悪人がいた場合)あえて勇気を持ってこれを殺すか、勇気を持ってこれを殺さずに置くか、この二つは一つは利になり、一つは害になる。天が憎むのはどちらか分からない。誰も天意がどこにあるのか分からないのだ。聖人にとっても、この判断は難しい。  「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、招くことなくやって来させ、ゆっくりとしながらも,うまく計画する。  天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らす事は無い」。

(73)罰について(2)
あえて人を殺すべしと決断する(断罪の判決をする)人と, 人を殺すべきではないとあえて決断する人と, これら二通りの場合に,  両者にはどちらにもそれぞれいくぶんかの理にかなったところがあろう。  仮の話として,天の神がある人々を嫌ったとしても,  どの者が殺されるべきで,またその理由は何なのか,誰が知り得ようか。 このようだから,聖人においてすら,このことは難しい問題なのだ。   天の道(道(タオ))のやり方は争わずに勝利を手にする。  無言の内に悪徳と美徳とに報い,  予告しないでその結果を明らかにし,  招かなくても(手の内を見せないで)ちゃんと結果をもたらす。 天の網は広大である。  その網の目は粗くても,何ものをも取り逃さない。
 *末尾の二行は,中国の現行のことわざ「徳は必ず報いられ,悪徳は必ず罰される」となった,という。


(Allowing men to take their course)
He whose boldness appears in his daring (to do wrong, in defiance of the laws) is put to death; he whose boldness appears in his not daring (to do so) lives on. Of these two cases the one appears to be advantageous, and the other to be injurious. But
When Heaven's anger smites a man, Who the cause shall truly scan? On this account the sage feels a difficulty (as to what to do in the former case). It is the way of Heaven not to strive, and yet it skilfully overcomes; not to speak, and yet it is skilful in (obtaining a reply; does not call, and yet men come to it of themselves. Its demonstrations are quiet, and yet its plans are skilful and effective. The meshes of the net of Heaven are large; far apart, but letting nothing escape.

朗読  Laozi 老子 第七十三章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[73]



制惑第七十四
民不畏死、柰何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者。夫代司殺者殺、是謂代大匠斲、夫代大匠斲者、希有不傷手矣。
民、死をおそれざれば、いかんぞ死をもってこれをおそれしめん。もし民をして常に死をおそれしめて、而うしてをなす者は、われとらえてこれを殺すを得るも、たれかあえてせん。常に司殺者しさつしゃありて殺す。それ司殺者に代わりて殺す、これを大匠だいしょうに代わりてると謂う。それ大匠だいしょうに代わりてる者は、その手を傷つけざることあるはまれなり。

「民が死を恐れないならば、どうして死刑でもって民を脅かす事が出来るのか。 民が死を恐れるような(平和な)状態で、それでもなお不正を働く者がいるときは,そいつらを捕まえ殺す事が出来れば、誰も不正をしなくなるだろう。  死をつかさどるものは(天の命じた)死刑執行人だが、この死刑執行人に代わって人を処刑するのは、大工を真似て木を削るようなものだ。素人が大工を真似して木を削り、手を負傷しないことはありえないのだ」。

(74)罰について(3)
人民は死を恐れない。 なぜ死をもって人民をおどすのか。  仮に,人民が死を恐れないとするならば,  そして我々が無法者を捕まえて殺せるとしたとしても,   誰があえてそのようなことをするというのか。 死刑執行人が殺されるということはよくあることだ。 そして死刑執行人の代わりをすることは,  名工(練達の大工)に代わって,手斧を扱うようなものだ。 名工に代わって手斧を扱う者は,  滅多には,自分の手を傷つけないですます,ということはない(傷つけてしまう)。

(Restraining delusion)
The people do not fear death; to what purpose is it to (try to) frighten them with death? If the people were always in awe of death, and I could always seize those who do wrong, and put them to death, who would dare to do wrong? There is always One who presides over the infliction death. He who would inflict death in the room of him who so presides over it may be described as hewing wood instead of a great carpenter. Seldom is it that he who undertakes the hewing, instead of the great carpenter, does not cut his own hands!

朗読  Laozi 老子 第七十四章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[74]



貪損第七十五
民之、以其上食税之多。是以飢。民之難治、以其上之有爲。是以難治。民之輕死、以其求生之厚。是以輕死。夫唯無以生爲者、是賢於貴生。
民のうるは、そのかみの税をむことの多きをもってなり。ここをもってう。民の治め難きは、そのかみのなすことあるをもってなり。ここをもって治め難し。民の死をかろんずるは、その上の生を求むることのあつきをもってなり。ここをもって死をかろんず。それただ生をもってなすことなき者は、これ生を貴ぶよりまさる。

「民が飢えるのは、お上が税を取り過ぎるからだ。だから民は飢えに苦しむ。  民を治めるのが難しいのは、すべてお上の行う政治からきている。民が自分の生命も省みず、抵抗するのは,お上が自分の生活を豊かにする事ばかり考えているからだ。だから民は自分の命を捨てても抵抗するのだ。  為政者としては、自分の生活を重んじない人の方が、自分の生活を重んじ過ぎる人よりはるかに賢明だ」。

(75)罰について(4)
人民が飢えているのは, 為政者達が税の穀物を収奪しすぎるからである。  それだから,飢えた人民の無法な行為は,  為政者達が干渉しすぎる結果なのだ。  これが人民の無法の理由なのだ。 人民が死を恐れないというのは, 彼らがその生活を維持するのが苦しいからなのだ。 これが人民が死を恐れない理由なのだ。  人民の生活に干渉しないということこそが,  生活を活気づける賢明なやり方なのである。

(How greediness injures)
The people suffer from famine because of the multitude of taxes consumed by their superiors. It is through this that they suffer famine. The people are difficult to govern because of the (excessive) agency of their superiors (in governing them). It is through this that they are difficult to govern. The people make light of dying because of the greatness of their labours in seeking for the means of living. It is this which makes them think light of dying. Thus it is that to leave the subject of living altogether out of view is better than to set a high value on it.

朗読  Laozi 老子 第七十五章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[75]



戒強第七十六 (柔弱の徳)
人之生也柔弱、其死也堅強。萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則、木強則。強大處下、柔弱處上。
人のくるや柔弱じゅうじゃく、その死するや堅強けんきょう万物ばんぶつ草木の生くるや柔脆じゅうぜい、その死するや枯槁ここう。故に堅強は死のなり、柔弱は生の徒なり。ここをもって兵強ければすなわちほろび、木強ければすなわちらる。強大は下にり、柔弱は上に処る。

「人が生きている時、身体は柔軟だが、死ねば硬直する。  草木の生きている時は枝や幹は柔らかく脆いが、死ぬと枯れて堅くなる。  ゆえに堅固なものは死に、柔軟なものは生きる。  この事から軍隊は強大になれば何時か敗れ、枝も強大になれば折れる。  つまり剛強さが劣勢となり、柔軟さが優勢となるのだ」。

(76)固いと柔らかいと
人が生まれるときは,柔らかくて弱々しい。   死ぬときは,人は固く硬直している。 物や植物が生きているときは,柔らかくしなやかである。 それらが死ぬと,固くもろくてかさかさだ。  このように,固く硬直しているものは死の仲間であり,  柔らかさとやさしさは命の友である。 このように,軍隊が強大であるときは,かえって戦闘で敗北する。 固い丈夫な木は(物を作る材料として)切り倒される。  大きくて固いものは下位に所属し,  やさしく弱いものは頂上に属する。 
 *[訳注]木の太い幹と先端の小枝を比較するとよい。

(A warning against (trusting in) strength)
Man at his birth is supple and weak; at his death, firm and strong. (So it is with) all things. Trees and plants, in their early growth, are soft and brittle; at their death, dry and withered. Thus it is that firmness and strength are the concomitants of death; softness and weakness, the concomitants of life. Hence he who (relies on) the strength of his forces does not conquer; and a tree which is strong will fill the out-stretched arms, (and thereby invites the feller.) Therefore the place of what is firm and strong is below, and that of what is soft and weak is above.

朗読  Laozi 老子 第七十六章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[76]



天道第七十七
天之道其猶張弓乎。髙者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。
天の道はそれなお弓を張るがごときか。高きものはこれを抑え、ひくきものはこれをぐ。余りあるものはこれをへらし、足らざるものはこれを補う。天の道は余りあるをへらして足らざるを補う。人の道はすなわちしからず、足らざるを損してもって余りあるにほうず。たれかよく余りあるをもって天下に奉ぜん。ただ有道の者のみ。ここをもって聖人は、なしてたのまず、功成りてらず、それ賢をしめすことをほっせず。

「天の道は弓を引いて的を射るのに似ている。的の矢が高過ぎれば、低く撃ち、低過ぎれば緩め、引き足りなければ、強く引く。  天の道は、余分を減らして不足を補う。人の場合はそうではない。足りずに苦しんでいる方から取って、余りある方に与えている。  有り余っている方を減らして、足りない方に与えることができるのは,一体誰だろうか。それは道を得た人だけだ。  聖人は万物を動かして自分の所為とせず、業が成功してもその成果に無関心で、自分の賢さをひらけかそうともしない」。

(77)弓を張る
天の「道(タオ)」は, 弓をたわめるのに似ていないだろうか。  弓の上端は押し下げ,下端を引き上げ,  ゆるんだ弦は短くし,弦が短ければつなぎ足す。 天のやり方は,物が多くありすぎるところから取り去って,  物が不足しているところへ補うように施してやる。 これは人間のやり方ではない。  人は持たない者(貧者)の所から取り上げて,  豊かに富んでいる者(富者)への捧げ物としている。 じゅうぶんに物が有り余る富者で,それを世界中の者に分け与えてやる人がいるだろうか。 それができるのは「道」を体得した人だけである。 このように,聖人は(「道」にかなうように)行為して,所有しない。  それは聖人が物事を成し遂げても,見返りの名声を要求しないし,  そもそも自分が優れているように見られることを望まないからである。 

(The way of heaven)
May not the Way (or Dao) of Heaven be compared to the (method of) bending a bow? The (part of the bow) which was high is brought low, and what was low is raised up. (So Heaven) diminishes where there is superabundance, and supplements where there is deficiency. It is the Way of Heaven to diminish superabundance, and to supplement deficiency. It is not so with the way of man. He takes away from those who have not enough to add to his own superabundance. Who can take his own superabundance and therewith serve all under heaven? Only he who is in possession of the Dao! Therefore the (ruling) sage acts without claiming the results as his; he achieves his merit and does not rest (arrogantly) in it: - he does not wish to display his superiority.

朗読  Laozi 老子 第七十七章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[77]



任信第七十八 (水を手本に)
天下莫柔弱於水。而攻堅強者莫能勝。其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。聖人云、受國之垢、是謂社稷主、受國不祥、是天下王。正言若反。
天下に水よりは柔弱じゅうじゃくなるはなし。而も堅強けんきょうを攻むることこれによく勝るものなし。そのもってこれをうるなければなり。弱の強に勝ち、じゅうごうに勝つは、天下知らざるものなきも、よく行なうものなし。故に聖人云う、「国のはじを受くる、これを社稷しゃしょくの主と謂い、国の不祥を受くる、これを天下の王となす」と。正言ははんのごとし。

「天下には水より柔軟なものは無いが、堅強なものを攻撃する力で水に勝るものが無いのは、これに変わるものが無いからだ。  弱きが強きに勝ち、柔らかさが堅さに勝つ事は、天下の誰もが知っているが、実行できるものはいない。   ゆえに『聖人』は言う。『身を低くし,国中の屈辱を引きうけてこそ天下の王者といえる』と。  どうも正しい言葉は常識に反しているように見えるようだ」。 

(78)水より弱いものはない
水より弱々しいものはない。 しかし,どんな固いものにも打ち勝つ水より,優れているものはない。 というのは,水の代わりをするものはないからだ。  柔弱は強健に打ち勝ち,   やさしさは剛直に打ち勝つ。  誰もが(水のようにやる)やり方を知らないし,できもしない。 だからこそ聖人は言う,  「世の中の汚名を我が身に引き受ける人は,  国の守護者(王者)である。  世の中の罪業をその身に受け止める人は,  世界の王である。」 このように,真理の言葉は曲がった(反対の表現の)ように聞こえるものだ。

(Things to be believed)
There is nothing in the world more soft and weak than water, and yet for attacking things that are firm and strong there is nothing that can take precedence of it; - for there is nothing (so effectual) for which it can be changed. Every one in the world knows that the soft overcomes the hard, and the weak the strong, but no one is able to carry it out in practice.
Therefore a sage has said, 'He who accepts his state's reproach, Is hailed therefore its altars' lord; To him who bears men's direful woes They all the name of King accord.'
Words that are strictly true seem to be paradoxical.

朗読  Laozi 老子 第七十八章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[78]



任契第七十九
和大怨必有餘怨。安可以爲善。是以聖人執左契而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常與善人。
大怨たいえんを和すれば必ず余怨よえんあり。いずくんぞもって善となすべけんや。ここをもって聖人は左契さけいりて人に責めず。有徳は契をつかさどり、無徳は徹を司る。天道はしんなし、常に善人にくみす。

「大きな怨みは、どれだけ和らげても、必ず恨みが残る。これではとても『善』とは言えない。  これゆえ『聖人』は借金の証文を取っても、決して返済を厳しく要求しない。  徳のある人は、借用証書を握っているかのように落ち着き、徳なき者は税吏が税を取りたてるように,せっかちに責めたてる。『天の道』は決してえこひいきしないが、常に善人を助ける」。

(79)平和な解決
大きな恨みを和解させても,後に必ずいくらかの恨みが残るものだ。 とても満足すべきこととは考えられない。 そうだから,聖人は割り符の(請求権がある)左半分を保持していながら, 相手方(右半分を持つ債務者)を罪に落とさない(債務の完済を追求しない)。 (割り符をしかと保持するのは)有徳な人にとっては調停のためであり, 悪徳の者にとっては相手を罪に追い込むためである。 しかし(古諺にも言う),「天の道はあまねく公平であって, いつも善人の側に立っている」と。

Adherence to bond or covenant)
When a reconciliation is effected (between two parties) after a great animosity, there is sure to be a grudge remaining (in the mind of the one who was wrong). And how can this be beneficial (to the other)? Therefore (to guard against this), the sage keeps the left-hand portion of the record of the engagement, and does not insist on the (speedy) fulfilment of it by the other party. (So), he who has the attributes (of the Dao) regards (only) the conditions of the engagement, while he who has not those attributes regards only the conditions favourable to himself. In the Way of Heaven, there is no partiality of love; it is always on the side of the good man.

朗読  Laozi 老子 第七十九章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[79]



獨立第八十 (小国寡民の理想卿)
小國寡民、使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟轝、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗。鄰國相望、雞之聲相聞、民至老不相往來。
小国しょうこく寡民かみん什伯じゅうはくあるも用いざらしむ。民をして死を重んじて遠くうつらざらしむ。舟轝しゅうよありといえども、これに乗るところなく、甲兵こうへいありといえども、これをつらぬるところなし。人をしてまた縄を結びてこれを用い、その食をあましとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましむ。隣国りんごく相望み、雞犬けいけんの声相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往来おうらいせず。

「国を小さくし、民を少なくする。  さまざまな道具はあるが、使用する事はない。 民の生命を重んじて,遠くに移り住まわせない。船や車はあるが、これに乗っていく所はない。  鎧,刀など武器はあるが、これを集めて軍隊にする事はない。   民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。  食べ物はおいしく、着るものはきれいだ。住まいも気持ちよく、皆,風俗になじんでいる。  隣国とは互いに望見する事は出来るし、鶏や犬の声も聞こえてくるが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない」。

(80)小さな理想郷
少ない人口の小さな国(であらしめよ)。 そこには品物が,人々が日常用いる品数の十倍も百倍もある。 人々は日常の生活を大切にして遠くへは出かけないようにする。  そこには舟や車はあるけれども,    それに乗る者はいない。   よろいかぶとや武器はあるけれども,   それらを表に取り出す機会がない。 人々に(昔のやり方だった)縄の結び目を数えて意志を伝え会うようにする。  人々に日々の食事を楽しまさせ,  着古しの物をきれいだと思うようにさせ,  日常に住む家に満足させ,  習俗を歓迎させる。 隣り合う集落の(地域の)人々とはお互いに見えているし, 隣人達の犬の鳴き声や雄鶏のときの声も聞こえてくる。 そして生涯の終わりまで人々は,  決して自分の国の外に出ようとはしない。

(Standing alone)
In a little state with a small population, I would so order it, that, though there were individuals with the abilities of ten or a hundred men, there should be no employment of them; I would make the people, while looking on death as a grievous thing, yet not remove elsewhere (to avoid it). Though they had boats and carriages, they should have no occasion to ride in them; though they had buff coats and sharp weapons, they should have no occasion to don or use them. I would make the people return to the use of knotted cords (instead of the written characters). They should think their (coarse) food sweet; their (plain) clothes beautiful; their (poor) dwellings places of rest; and their common (simple) ways sources of enjoyment. There should be a neighbouring state within sight, and the voices of the fowls and dogs should be heard all the way from it to us, but I would make the people to old age, even to death, not have any intercourse with it.

朗読  Laozi 老子 第八十  章 Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[80]



顯質第八十一 (信号は美ならず)
信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積、既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道、利而不害。聖人之道、爲而不爭。
信言しんげんは美ならず、美言びげんは信ならず。善なる者はべんぜず、弁ずる者は善ならず。知る者はひろからず、博き者は知らず。聖人はまず、ことごとくもって人のためにしておのれいよいよ有し、ことごとくもって人に与えておのれいよいよ多し。天の道は、利して害せず。聖人の道は、なしてあらそわず。

「真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実でない。  善き人はうまく話せず、うまく話す人は善き人でない。  本当を知る人はひらけかさず、ひらけかす人は知っていない。  『聖人』は何も蓄えず、全ての力を人のために出し、かえって豊かになる。  『天の道』は万物に利益を与えて、害を与えることはない。   『聖人の道』は何をするにも人と争う事がない」。

(81)天の道
真実の言葉は耳に快く響かない。  耳に快い言葉は真実ではない。 優れた人はしゃべりたてることはしない。  言葉で言いつのる者は優れた人ではない。 賢人は物知りではない。  物知りを自慢顔の人は賢い人ではない。 聖人は自分のために蓄財などしない。  彼は他人のために生きて,  自らはますます豊かに富む。  彼は他の人々に与え続けて,   自らはますます豊かな物であふれていく。 天の「道(タオ)」は,  (万物を)祝福し,害しない。 聖人の道(聖人が踏み行う生き方)は,  成し遂げられても,他人と争うことをしない。

(The manifestation of simplicity)
Sincere words are not fine; fine words are not sincere. Those who are skilled (in the Dao) do not dispute (about it); the disputatious are not skilled in it. Those who know (the Dao) are not extensively learned; the extensively learned do not know it. The sage does not accumulate (for himself). The more that he expends for others, the more does he possess of his own; the more that he gives to others, the more does he have himself. With all the sharpness of the Way of Heaven, it injures not; with all the doing in the way of the sage he does not strive.

朗読  Laozi 老子 第八十一章[完] Tao Te Ching / 영어로 읽는 도덕경[81]



(終)

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江守孝三 emori kozo

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老子説明

老子(ろうし)は、古代中国哲学者であり、道教創案の中心人物。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[2]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en)として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。

中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある[3]

老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[4]。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている[5][6]

老子の履歴

史記の記述

老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家司馬遷紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝[7][8]」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。

1.老子者,楚苦縣厲鄉曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也
2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)
3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。

史記 卷六十三 老子韓非列傳[7][8]

これによると老子は、は「李」、は「耳」,は「耼」(または「伯陽」[注 1])。の国の苦県(現在の河南省[2]鹿邑県[10])、厲郷の曲仁という場所の出身で、国の守藏室之史(書庫の記録官[2])を勤めていた。孔子紀元前551年 - 紀元前479年)がの教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた[2]。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所函谷関とも散関とも呼ばれる[2])に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい[11][12][13][14]、その後の事は誰も知らない[2]

「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[15][16][17][18]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える[15][19][注 2][注 3]

出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(江蘇省西北[10])に老子を訪ねている[20]。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる[10]。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であったの相というところが出身と書かれていたとも言う[10][21]

『史記』には続けて、

4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時雲。

史記 卷六十三 老子韓非列傳[7][8]

とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える[13][14][22]。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると[22])または「ある人曰く」(ある人物によると[2])で始められている通り、前説とは別な話として書かれている[23]

さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。

5.蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其脩道而養壽也。
6.自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。

史記 卷六十三 老子韓非列傳[7][7][8]

ここでは、老子は周の「太史儋(太史捶[22])」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている[13][14]。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ[2]、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(捶)」と老子の字「耼」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う[22]

これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている[12]。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため[2]これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である[23]。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す[24]

『史記』は老子の子孫についても言及する。

6.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家于齊焉

史記 卷六十三 老子韓非列傳[8]

老子の子は「宗」と言い、将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、孫は「宮」、そのひ孫(老子から8代目の子孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。

この膠西王卬とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している[25]

諸子百家の著述

荘子紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老冉という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」[26]や外雑篇[27])、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる[27]荀子紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」[28](老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている[27]。さらに呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編でも「老耽貴柔」[29](老耽は柔を貴ぶ)と老子に触れている[27]

このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい[27]。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは代の郭象252年? - 312年[30])が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない[31]。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない[32]

定まらない評価

このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く[33]、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩381年 - 450年)だった。韓愈768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の代には陳師道葉適黄震らが老子の伝記を検証し、代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した[2]

20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」[34]とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老髟的生命和時代考』)、郭沫若(『老髟・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した[2]。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し[2]、1957年に刊行された[35]杜国庠の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている[36]

伝承

生涯にまつわる伝説

一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている[38][39]

神仙伝など[40]民間の伝承では、周の定王3年[41](紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」[42])が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき[43])に老子を懐妊したが62年間(80年間? [41]、81年間? [42][43]、72年間または3700年間[2- 1]などの説も[40])も胎内におり、彼女がの木にもたれかかった時に左の脇から出産した[42]という。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという[44][45][43]。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる[15][46][47]。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)[15][46][48]もある[38][49]

中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた[50][51][52][46]。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる[53]

字・伯陽

現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「耼」をに変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である[54]

老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す[54]

尹喜

伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った[10]。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。

この尹喜は、『荘子』「天下篇」[55]などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している[56]。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある[56][57]

郭沫若は、この関尹とは稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる[56]

『老子道徳経』から推測される老子

議論

老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる[2]。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた[2][58][59]。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる[12]

『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢武帝代に淮南劉安紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である[12]。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある[12]

「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自に[注 4]ほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した[2][2- 2]

  • 老子の8代目子孫と孔子の13代目子孫が同じ時代に生きていたと言われ、5代分の開きがある。
  • 墨子や孟子の著作には、老子について触れた部分が全く無い。
  • 礼を守ったと伝わる老子と、その著作『老子道徳経』の内容には、大きな隔たりがある。
  • (老子について述べた箇所がある)『荘子』にある多くの説話のほとんどは寓話であり、事実とはみなされない。
  • 老子の言動(『老子道徳経』の内容)は、春秋時代の雰囲気からすると異質すぎる。
  • 『老子道徳経』には、戦国時代に使われた用語(例えば「王侯」「万乗之君」「仁義」など)が含まれる。

馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた[2]

一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める[2]

また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した[60]顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた[2]

このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたもとという考えが主流となり[32]、「擬古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった[60]

馬王堆・郭店の発掘書

このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年[注 5]に造営された[33]馬王堆3号」墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店[33]で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった[2]

1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される[12]

さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり[61]、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の1/3にしか相当しない[12]

浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した[12]

当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある[12]

思想から見る老子

政治思想の源流

政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた[62][63]。このような考えは大国を志向した儒家墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める[62]

しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う[64]。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある[64]。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した[62]。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる[65]

老子の社会階級

老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。

小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來

道德經80[66]

老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。

中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない[67]

道教における老子

伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格(en)玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている[68][69]

王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い[47]

理想の師弟

西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な弟子の関係を表したものと受け止められた[70]

7世紀の書『三洞珠囊』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない[71]

『三洞珠囊』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い(青い羊?[72])を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる[73]

老子八十一化説

太上老君は、歴史の中で多くの「化身」[74]または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという[47]

これは、の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士李志常が指示し令狐璋史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された[75]

しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した[76]。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける[77]道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた[76]。仏教界の反発は強く[78]、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた[77]。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された[75][77]

参考文献

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引用文献

江守孝三 emori kozo

老子道徳経

老子道徳経(ろうしどうとくきょう)は、中国春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』(繁体字: 道德經; 簡体字: 道德经; ピン音: Dàodéjīng)とも表記される。また、老子五千言・五千言とも。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。道經と徳經とを合わせて九九の八十一篇ある。

成立・伝来

伝説上の老子道徳経

老子はの人。隠君子として図書館司書をつとめていた。孔子洛陽に出向いて彼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを感じ、の背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜(いんき)の求めに応じて上下二巻の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。その後老子は関を出で、その終わりを知るものはいない。

文献学上の老子道徳経

しかし、現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。

まず、老子が孔子の先輩だったという証拠はない。伝説では老子の年は数百歳だったというが、あくまで伝説である。前述の、孔子が老子に教えを受けたという話は『荘子』に記されている。しかし『荘子』の記述は寓話が多く、これもそのうちの一つである可能性が非常に高い。

『荘子』にたびたび登場している点から見て、老子の名は、当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。『道徳経』の文体や用語は比較的新しいとの指摘がある。たとえば有名な「大道廃れて仁義あり」の一文があるが、「仁義」の語が使われるのは孟子以降である。

一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には、『道徳経』からの引用がある(ただしその部分については偽作説もある)。

現在有力な説では、『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく、『道徳経』はのちの道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。

伝来

  • テキストとしては、郭店一号楚墓から出土したもの(郭店楚簡)が最古である。それに次ぐものとして馬王堆漢墓からの出土(『老子帛書』)がある。王弼と河上公とは本文に違いがあり、唐代初めの傅奕(ふえき)による編集とされる老子古文も言及されることが多い。
  • 注釈書としては、王弼(おうひつ)による『老子注』と、漢の河上公(かじょうこう)によるものとされる(実際にはおそらく六朝時代のもの)『老子河上公注』が代表的なもの。また、唐の玄宗皇帝による『開元御注道徳経』というのもある。部分的に残存しているものとしては漢代の厳遵によるとされる『老子指帰』がある。その他にも中国で歴史上多数の注釈書が作られ、近代以前に作られて名前だけでも伝わっている典籍が数百ある。近代、世界的に古典と認識されてからは更に多く作られている。

内容

形式

『老子道徳経』は5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下最初の字をとったもの。

上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。それぞれの章は比較的短い。章分けはのちの注釈者によるもの。68章に分けた注釈もある。一方で、81章より多く分けた方が文意が取りやすいとの意見もある。

『道徳経』には、固有名詞は一つも使われていないことが指摘されている。短文でなっていること、固有名詞がないことから、道家の俚諺(ことわざ)を集めたものではないかという説がある。

老子思想

老子の根幹の思想である無為自然とは、自然との融合を目指すという意味は持たず、「あるがままに暮らすべきだ」との思想。一部の偏った解釈ではこれは政治思想であり、以下に述べるように、「人民は無知のまま生かしておくのが最も幸せである」とする思想との解釈もある。

 不尚賢 使民不爭 (賢者を尊びさえしなければ、民を争いあわせることもない。)
 不貴難得之貨 使民不爲盜 (得がたい財貨に価値を与えなければ、民に盗みをさせることもない。)
 不見可欲 使心不亂 (欲しくなるかもしれない物も、見なければ心は乱れない。)
 是以聖人之治 (だから聖人の政治の下では、)
 虚其心 實其腹 (民は、空虚な意識しかなくとも腹は満腹で、)
 弱其志 強其骨 (心は弱くとも骨肉は頑強である。)
 常使民無知無欲 (常に民には何も知らせず、そして何も欲させるな。)
 使夫知者不敢爲也 (知識人は、政治に活用するのではなく、何もさせるな。)
 爲無爲 則無不治 (『何もしないこと』をすれば、必ず天は治まる。)(道徳経3章)

また、老子に於いては儒教的価値の批判ないし相対的視点の提示をこころみている。たとえば、以下にあげるように、仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さは、現実にはそれらがあまりに少ないからもてはやされるのであって、大道の存在する理想的な世界おいては必要のない概念であると述べる。

  大道廢 有仁義 (偉大な「道」が廃れてはじめて仁義が現れる。)
  智慧出 有大僞 (智慧がとりたざされるときには大いなる欺瞞がある。)
  六親不和 有孝慈 (父、母、叔父、伯父、叔母、伯母の六親の仲が悪いときに限って孝行や慈悲がもてはやされる。)
  國家昏亂 有貞臣 (国家が混乱し(皇帝の意見に雷同する臣下がはびこっ)ているときに限って、率直に皇帝を諫める貞臣が認識されるようになる。)(道徳経18章)

「飢饉というものは年のめぐり合わせによる異常気象で発生する自然の現象である。しかし民衆の生活を破壊する飢饉は、君主が自分の消費のために税収の目減りを我慢できず、飢饉でみんなが困っている時に、税をさらに重くして、なお余計に奪い取ろうとする《食税》から発生するのである。これが民の飢饉の惨害の本当の原因なのだ(人之饑也 以其取食税之多 是以饑)」(帛書『老子・乙本』第七十七章)

の振る舞いに於いては、何か不足すれば、余っているところから補われて全体のバランスが保たれる。ところが人間の制度はそうではない。欠乏している人民から高い税を取り上げて、すでにあり余って満ち足りている君主に差し上げる。どこかの君主がそのあり余る財力で、天下万民のために何かをしてくれるとしたら、それこそ有道の君主と評価できるのにねえ(天之道 損有餘而益不足 人之道則不然 損不足以奉有餘 孰能有餘以取奉於天者 唯有道者乎)」(第七十九章)

「強大な覇権国家の君主は自分の言いなりに搾取できる家畜のような人間の数を増やしたいから、他国を侵略するのだ。弱小国家の君主は、せめて我が身、我が国を尊重してくれるならばと、超大国に屈従して、身売りの算段をしているだけだ。結局、戦争とか平和というものは君主たちの意地の張り合いだけで、民衆のことなんか何も思ってやしないんだから、まあ勝手にしたらよかろう(大國者不過欲并畜人 小國者不過欲人事人 夫皆得其欲)」(第六十一章) 

「道義によって君主を補佐するならば、軍事力の強大さによって天下の人々を従わせようとはしないことだ。そうすれば天下の人々はきっと道義をもって応じてくれよう。軍事的な圧力をかけると周囲に茨が生えたように反抗する勢力も起きてくるようになり、戦争は結局、進めば進むほど自分も傷ついていく、茨の道だということがわかるようになる(以道佐人主 不以兵強於天下 其事好還 師之所處 荊棘生之)」(第三十章)

「戦争がうまい将軍は感情に左右されない。兵法がうまくて、いつも最善の勝利を確実にできる将軍は、戦争そのものをしない。人を使うことに巧みな人は、何ごとも謙遜してへりくだった姿勢をとる。これが何事も争わない《不争之徳》というものであり、人々の力を用いるコツであり、天道に配慮した方策で、聖人君子の政治理念である(善戰者不怒 善勝敵者弗與 善用人者爲之下 是謂不爭之徳 是謂用人 是謂配天 古之極也)」(第七十章)

「聖人はいつも私心を持つことがなく、民全体の心を自らの心と(して、政治の決断を)する。(聖人恒無心 以百姓之心為心)」(第四十九章)

「災禍の原因は、仮想敵国となるライバルがなくなって、油断しきってしまうことが最も大きい。強力なライバルがいなくなったら、本来活用すべき人材、提案、発明、万物を生かす知恵など、君主が宝とすべきものが時代にそぐわない無用の長物として排斥されて、回復できなくなってしまう(禍莫大於無敵 無敵斤亡吾寳矣)」(第七十一章)

「知らないことを知ることは進歩であり、その積み重ねは立派なことだ。反対に、何も知らないくせに知ったかぶりしているというのは虚栄であり、精神の病理に由来する(知不知 尚矣 不知知 病矣)」(第七十三章)

「魚介類をたくさん水揚げしたからといって、集めておいても長く保存できるものではない。すぐ腐ってしまう。宮殿の部屋いっぱいに金器・玉器の宝物が並んでいても、それが代々にわたって受け継がれたという例はない。他の諸侯や盗賊が宝物を目当てに奪い取りに来るからだ。すでに地位も高く、十分に財産もできたというのに、驕りたかぶって、さらに欲望のかたまりになる、そんなことでは自分から墓穴を掘って、晩節を汚すことになろう。世の中で十分にやりたい仕事をしたと思ったら、その後は引退して世の人々の邪魔にならないように、恩返しのために生きるのが、天の定めた人生の道というものだ。(湍而群之 不可長保也 金玉盈室 莫能守也 貴富而驕 自遺咎也 功遂身退 天之道也)」(荊門郭店楚簡『老子・甲書』)

「世の中の肩書きと人生はどっちが大切か。自分の生命を犠牲にするほどのお金や品物があるものか。物欲を満たすこと、人生に挫折すること、どちらが大問題なのか。人や物事を非常に愛すると、必ず無理をして、たくさんの費用をかけることになる。多くの富を集めすぎると、必ずその富を奪い取られた人々の怨恨と憎悪も集中する。したがって物事は、ある程度で満足して、変な欲を出さないでおけば、めったに恥辱をうけることはないし、ある程度で見切りをつけて、あえて危険に踏み込まなければ、何も心配することはない。だから長く安定を維持できるのである(名與身孰親、身與貨孰多 得與亡孰病 甚愛必大費 多藏必厚亡 故知足不辱 知止不殆 可以長久)」(荊門郭店竹簡『老子・甲書』・帛書『老子・乙本』第四十四章)

影響

『道徳経』が荘子に影響を与えたかどうかは疑わしい。しかし、後の荘子学派(『荘子』外篇・雑篇)や、道家(『淮南子』など)には影響を与え、荘子と老子の思想は「老荘思想」として統合されることになった。

智の否定思想は韓非子などの法家の愚民政策に引用された。

無為による治世の思想は、漢代の張良陳平曹参などに実践された。

老荘思想は文化面で大きな影響を中国や日本に及ぼした。俳諧の分野では荘子に想を得る表現が多用された。

19世紀以来『道徳経』はヨーロッパ各国語に相次いで訳された。

寺田寅彦のエッセイにドイツ語で『老子』を読んでの親しみやすさについて記載がある[1]ので、確かに戦前からインテリ層の間で欧文訳が認知されていた。

戦後特に英語圏の著作を通してタオブームが日本へも伝わり、中国古典への新たな視点として広く受け入れられた。加島祥造の多数の著述活動が著名である。

2001年慶應義塾大学出版会で、井筒俊彦英訳『老子 Lao-Tzu The way and its virtue』が刊行された。

参考文献

外部リンク

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引用文献

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