演説の法を勧むるの説
學問ノスヽメ. 十二編 [ピューア] 、
・《青空文庫全 AI朗読全》、
演説とは英語にてスピイチと言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思うところを人に伝うるの法なり。わが国には古よりその法あるを聞かず、寺院の説法などはまずこの類なるべし。西洋諸国にては演説の法もっとも盛んにして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合いより、冠婚葬祭、開業・開店等の細事に至るまでも、わずかに十数名の人を会することあれば、必ずその会につき、あるいは会したる趣意を述べ、あるいは人々平生の持論を吐き、あるいは即席の思い付きを説きて、衆客に披露するの風なり。この法の大切なるはもとより論を俟たず。譬えば今、世間にて議院などの説あれども、たとい院を開くも第一に説を述ぶるの法あらざれば、議院もその用をなさざるべし。
演説をもって事を述ぶれば、その事柄の大切なると否とはしばらく擱き、ただ口上をもって述ぶるの際におのずから味を生ずるものなり。譬えば文章に記せばさまで意味なきことにても、言葉をもって述ぶればこれを了解すること易くして人を感ぜしむるものあり。古今に名高き名詩名歌というものもこの類にて、この詩歌を尋常の文に訳すれば絶えておもしろき味もなきがごとくなれども、詩歌の法に従いてその体裁を備うれば、限りなき風致を生じて衆心を感動せしむべし。ゆえに一人の意を衆人に伝うるの速やかなると否とは、そのこれを伝うる方法に関することはなはだ大なり。
学問はただ読書の一科にあらずとのことは、すでに人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔或る朱子学の書生、多年江戸に修業して、その学流につき諸大家の説を写し取り、日夜怠らずして数年の間にその写本数百巻を成し、もはや学問も成業したるがゆえに故郷へ帰るべしとて、その身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて大回しの船に積み出だせしが、不幸なるかな、遠州洋において難船に及びたり。この災難によりて、かの書生もその身は帰国したれども、学問は悉皆海に流れて心身に付したるものとてはなに一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚はまさしく前日に異なることなかりしという話あり。
今の洋学者にもまたこの懸念なきにあらず。今日都会の学校に入りて読書講論の様子を見れば、これを評して学者と言わざるを得ず。されども今にわかにその原書を取り上げてこれを田舎に放逐することあらば、親戚、朋友に逢うて「わが輩の学問は東京に残し置きたり」と言い訳するなどの奇談もあるべし。
ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり。この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫なかるべからず。オブセルウェーションとは事物を視察することなり。リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。然りしこうしてこの諸術のうちに、あるいは一人の私をもって能くすべきものありといえども、談話と演説とに至りては必ずしも人とともにせざるを得ず。演説会の要用なることもって知るべきなり。
方今わが国民においてもっとも憂うべきはその見識の賤しきことなり。これを導きて高尚の域に進めんとするはもとより今の学者の職分なれば、いやしくもその方便あるを知らば力を尽くしてこれに従事せざるべからず。しかるに学問の道において、談話、演説の大切なるはすでに明白にして、今日これを実に行なう者なきはなんぞや。学者の懶惰と言うべし。人間の事には内外両様の別ありて、両ながらこれを勉めざるべからず。今の学者は内の一方に身を委して、外の務めを知らざる者多し。これを思わざるべからず。私に沈深なるは淵のごとく、人に接して活発なるは飛鳥のごとく、その密なるや内なきがごとく、その豪大なるや外なきがごとくして、はじめて真の学者と称すべきなり。
引用文献
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