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『学問のすすめ 』(An Encouragement of Learning)
福沢諭吉(Fukuzawa Yukichi)
十五編 (事物を疑いて取捨を断ずること)

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
"The heaven does not create one man above or under another man"
人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり
"A man cannot have wisdom without learning. A man without wisdom is foolish."
初編(端書はしがき)、 二編(端書・人は同等なること)、 三編(国は同等なること・一身独立して一国独立すること)、 四編(学者の職分を論ず・付録)、 五編(明治七年一月一日の詞)、 六編(国法の貴きを論ず)、 七編(国民の職分を論ず)、 八編(わが心をもって他人の身を制すべからず)、 九編(学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文)、 十編(前編のつづき、中津の旧友に贈る)、 十一編(名分をもって偽君子を生ずるの論)、 十二編(演説の法を勧むるの説・人の品行は高尚ならざるべからざるの論)、 十三編(怨望の人間に害あるを論ず)、 十四編(心事の棚卸し)、 十五編(事物を疑いて取捨を断ずること)、 十六編(手近く独立を守ること・心事と働きと相当すべきの論)、 十七編(人望論) 、、[朗読MP3] 
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事物を疑いて取捨を断ずること      學問ノスヽメ. 十五編 [ピューア] 、 ・《青空文庫全 AI朗読全》
 信の世界に偽詐ざさ多く、疑いの世界に真理多し。試みに見よ、世間の愚民、人の言を信じ、人の書を信じ、小説を信じ、風聞を信じ、神仏を信じ、卜筮ぼくぜいを信じ、父母の大病に按摩あんまの説を信じて草根木皮を用い、娘の縁談に家相見かそうみの指図を信じて良夫を失い、熱病に医師を招かずして念仏を申すは阿弥陀如来あみだにょらいを信ずるがためなり。三七日の断食に落命するは不動明王ふどうみょうおうを信ずるがゆえなり。この人民の仲間に行なわるる真理の多寡を問わば、これに答えて多しと言うべからず。真理少なければ偽詐多からざるを得ず。けだしこの人民は事物を信ずといえども、その信は偽を信ずる者なり。ゆえにいわく、「信の世界に偽詐多し」と。
 文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても、無形の人事にても、その働きの趣を詮索して真実を発明するにあり。西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑いの一点より出でざるものなし。ガリレオが天文の旧説を疑いて地動を発明し、ガルハニががまの脚の※(「てへん+畜」、第3水準1-84-85)ちくじゃくするを疑いて動物のエレキを発明し、ニュートンが林檎りんごの落つるを見て重力の理に疑いを起こし、ワットが鉄瓶の湯気をもてあそんで蒸気の働きに疑いを生じたるがごとく、いずれもみな疑いの路によりて真理の奥に達したるものと言うべし。格物窮理の域を去りて、顧みて人事進歩の有様を見るもまたかくのごとし。売奴法の当否を疑いて天下後世に惨毒の源を絶えたる者は、トーマス・クラレクソンなり。ローマ宗教の妄誕を疑いて教法に一面目を改めたる者はマルチン・ルーザなり。フランスの人民は貴族の跋扈ばっこに疑いを起こして騒乱の端を開き、アメリカの州民は英国の成法に疑いを容れて独立の功を成したり。今日においても、西洋の諸大家が日新の説を唱えて人を文明に導くものを見るに、その目的はただ古人の確定してばくすべからざるの論説を駁し、世上に普通にして疑いを容るべからざるの習慣に疑いを容るるにあるのみ。
 今の人事において男子は外を務め婦人は内を治むるとてその関係ほとんど天然なるがごとくなれども、スチュアルト・ミルは『婦人論』を著わして、万古一定動かすべからざるのこの習慣を破らんことを試みたり。英国の経済家に自由法を悦ぶ者多くして、これを信ずる輩はあたかももって世界普通の定法のごとくに認むれども、アメリカの学者は保護法を唱えて自国一種の経済論を主張する者あり。一議したがって出ずれば一説したがってこれを駁し、異説争論そのきわまるところを知るべからず。これをかのアジヤ諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱ふこ神仏に惑溺し、あるいはいわゆる聖賢者の言を聞きて一時にこれに和するのみならず、万世の後に至りてなおその言の範囲を脱すること能わざるものに比すれば、その品行の優劣、心志の勇怯、もとより年を同じゅうして語るべからざるなり。
 異説争論の際に事物の真理を求むるは、なお逆風に向かいて舟をるがごとし。その舟路を右にし、またこれを左にし、浪に激し風に逆らい、数十百里の海を経過するも、その直達ちょくたつの路を計れば、進むことわずかに三、五里に過ぎず。航海にはしばしば順風の便ありといえども、人事においてはけっしてこれなし。人事の進歩して真理に達するの路は、ただ異説争論の際に間切まぎるの一法あるのみ。しこうしてその説論の生ずる源は疑いの一点にありて存するものなり。「疑いの世界に真理多し」とはけだしこのいいなり。
 然りといえども、事物の軽々信ずべからざることはたしてならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨のめいなかるべからず。けだし学問の要はこの明智を明らかにするにあるものならん。わが日本においても、開国以来とみに人心の趣を変じ、政府を改革し、貴族を倒し、学校を起こし、新聞局を開き、鉄道・電信・兵制・工業等、百般の事物一時に旧套を改めたるは、いずれもみな数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革せんことを試みて功を奏したるものと言うべし。
 然りといえども、わが人民の精神においてこの数千年の習慣に疑いを容れたるその原因を尋ぬれば、はじめて国を開きて西洋諸国に交わり、かの文明の有様を見てその美を信じ、これにならわんとしてわが旧習に疑いを容れたるものなれば、あたかもこれを自発の疑いと言うべからず。ただ旧を信ずるの信をもって新を信じ、昔日は人心の信、東にありしもの、今日はそこを移して西に転じたるのみにして、その信疑の取捨如何いかんに至りては、はたして適当の明あるを保すべからず。余輩いまだ浅学寡聞、この取捨の疑問に至り、いちいち当否を論じてその箇条を枚挙する能わざるは、もとよりみずから懺悔するところなれども、世事転遷の大勢を察すれば、天下の人心この勢いに乗ぜられて、信ずるものは信に過ぎ、疑うものは疑いに過ぎ、信疑ともにその止まるところの適度を失するものあるは明らかに見るべし。左にその次第を述べん。
 東西の人民、風俗を別にし情意を異にし、数千百年の久しき、おのおのその国土に行なわれたる習慣は、たとい利害の明らかなるものといえども、とみにこれを彼に取りてこれに移すべからず、いわんやその利害のいまだつまびらかならざるものにおいてをや。これを採用せんとするには千思万慮歳月を積み、ようやくその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず。しかるに近日世上の有様を見るに、いやしくも中人以上の改革者流、あるいは開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱うれば万人これに和し、およそ智識、道徳の教えより治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆しっかい西洋の風を慕うてこれに倣わんとせざるものなし。あるいはいまだ西洋の事情につきその一斑をも知らざる者にても、ひたすら旧物を廃棄してただ新をこれ求むるもののごとし。なんぞそれ事物を信ずるの軽々にして、またこれを疑うの粗忽そこつなるや。西洋の文明はわが国の右に出ずること必ず数等ならんといえども、けっして文明の十全なるものにあらず。その欠点をかぞうれば枚挙にいとまあらず。彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらず、我の習慣ことごとく醜にして疑うべきにあらず。
 たとえばここに一少年あらん。学者先生に接してこれに心酔し、その風に倣わんとしてにわかに心事を改め、書籍を買い、文房の具を求めて、日夜机にりて勉強するはもとよりとがむべきにあらず。これを美事と言うべし。然りといえどもこの少年が先生の風を擬するのあまりに、先生の夜話にふけりて朝寝するの癖をも学び得て、ついに身体の健康を害することあらば、これを智者と言うべきか。けだしこの少年は先生を見て十全の学者と認め、その行状の得失を察せずして悉皆これに倣わんとし、もってこの不幸に陥りたるものなり。
 支那の諺に、「西施せいしひそみに倣う[#「ひそみに倣う」は底本では「ひそみみに倣う」]」ということあり。美人の顰みはその顰みの間におのずから趣ありしがゆえにこれに倣いしことなればいまだ深く咎むるに足らずといえども、学者の朝寝になんの趣あるや。朝寝はすなわち朝寝にして、懶惰らんだ不養生の悪事なり。人を慕うのあまりにその悪事に倣うとは笑うべきのはなはだしきにあらずや。されども今の世間の開化者流にはこの少年のはいはなはだ少なからず。
 仮りに今、東西の風俗習慣を交易して開化先生の評論に付し、その評論の言葉を想像してこれを記さん。西洋人は日に浴湯して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発をうながしもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と。日本人は寝屋の内に尿瓶しびんを置きてこれに小便をたくわえ、あるいは便所より出でて手を洗うことなく、洋人は夜中といえども起きて便所に行き、なんら事故あるも必ず手を洗うの風ならば、論者評して言わん、「開化の人は清潔を貴ぶの風あれども、不開化の人民は不潔の何ものたるを知らず、けだし小児の智識いまだ発生せずして汚潔を弁ずることあたわざる者に異ならず、この人民といえどもしだいに進んで文明の域に入らば、ついには西洋の美風にならうことあるべし」と。洋人は鼻汁を拭うに毎次紙を用いて直ちにこれを投棄し、日本人は紙に代わるに布を用い、したがって洗濯してしたがってまた用うるの風ならば、論者たちまち頓智をめぐらし、細事を推して経済論の大義に付会して言わん、「資本に乏しき国土においては、人民みずから知らずして節倹の道に従うことあり。日本全国の人民をして鼻紙を用うること西洋人のごとくならしめなば、その国財の幾分を浪費すべきはずなるに、よくその不潔を忍んで布を代用するは、みずから資本の乏しきに迫られて節倹に赴くものと言うべし」と。日本の婦人、その耳に金環を掛け、小腹を束縛して衣裳を飾ることあらば、論者、人身窮理の端を持ち出して顰蹙ひんしゅくして言わん、「はなはだしいかな、不開化の人民、理を弁じて天然に従うことを知らざるのみならず、ことさらに肉体を傷つけて耳に荷物を掛け、婦人の体においてもっとも貴要部たる小腹をつかねて蜂の腰のごとくならしめ、もって妊娠の機を妨げ、分娩の危難を増し、そのわざわいの小なるは一家の不幸を致し、大なるは全国の人口生々の源を害するものなり」と。
 西洋人は家の内外に錠を用うること少なく、旅中に人足を雇うて荷物を持たしめ、その行李こうりたしかなる錠前なきものといえども常に物を盗まるることなく、あるいは大工、左官等のごとき職人に命じて普請を請け負わしむるに、約定書の密なるものを用いずして、後日に至り、その約定につき公事くじ訴訟を起こすことまれなれども、日本人は家内の一室ごとに締りを設けて座右ざゆうの手箱に至るまでも錠を卸し、普請請負いの約定書等には一字一句を争うて紙に記せども、なおかつ物を盗まれ、あるいは違約等の事につき、裁判所に訴うること多き風ならば、論者また歎息していわん。「ありがたきかな耶蘇やその聖教、気の毒なるかなパガン外教の人民、日本の人はあたかも盗賊と雑居するがごとし、これをかの西洋諸国自由正直の風俗に比すれば万々同日の論にあらず、実に聖教の行なわるる国土こそ道に遺を拾わずと言うべけれ」と。日本人が煙草をみ、巻煙草を吹かして、西洋人が煙管きせるを用うることあらば、「日本人は器械の術に乏しくしていまだ煙管の発明もあらず」と言わん。日本人が靴を用いて西洋人が下駄をはくことあらば、「日本人は足の指の用法を知らず」と言わん。味噌も舶来品ならばかくまでに軽蔑を受くることもなからん。豆腐も洋人のテーブルにのぼらばいっそうの声価を増さん。うなぎの蒲焼き、茶碗蒸し等に至りては世界第一美味の飛び切りとて評判をることなるべし。
 これらの箇条を枚挙すれば際限あることなし。今少しく高尚に進みて宗旨のことに及ばん。四百年前西洋に親鸞しんらん上人を生じ、日本にマルチン・ルーザを生じ、上人は西洋に行なわるる仏法を改革して浄土真宗をひろめ、ルーザは日本のローマ宗教に敵してプロテスタントの教えを開きたることあらば、論者必ず評して言わん、「宗教の大趣意は衆生済度しゅじょうさいどにありて人を殺すにあらず。いやしくもこの趣意を誤ればその余は見るに足らざるなり。西洋の親鸞上人はよくこの旨を体し、野にし、石を枕にし、千辛万苦、生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革し、今日に至りては全国人民の大半を教化きょうげしたり。その教化の広大なることかくのごとしといえども、上人の死後、その門徒なる者、宗教の事につき、あえて他宗の人を殺したることなくまた殺されたることもなきは、もっぱら宗徳をもって人を化したるものと言うべし。顧みて日本の有様を見れば、ルーザひとたび世に出でてローマの旧教に敵対したりといえども、ローマの宗徒容易にこれに服するにあらず、旧教は虎のごとく新教は狼のごとく、虎狼相闘い食肉流血、ルーザの死後、宗教のために日本の人民を殺し日本の国財を費やし、いくさを起こし国を滅ぼしたるその禍は、筆もって記すべからず、口もって語るべからず、殺伐なるかな、野蛮の日本人は、衆生済度の教えをもって生霊を塗炭におとしいれ、敵を愛するの宗旨によりて無辜むこの同類をほふり、今日に至りてその成跡如何いかんを問えば、ルーザの新教はいまだ日本人民の半ばを化すること能わずと言えり。東西の宗教その趣を異にすることかくのごとし。余輩ここに疑いをるること日すでに久しといえども、いまだその原因の確かなるものを得ず。ひそかあんずるに日本の耶蘇教も西洋の仏法も、その性質は同一なれども、野蛮の国土に行なわるればおのずから殺伐の気を促し、文明の国に行なわるればおのずから温厚の風を存するによりて然るものか、あるいは東方の耶蘇教と西方の仏法とは、はじめよりその元素を異にするによりて然るものか、あるいは改革の始祖たる日本のルーザと西洋の親鸞上人とその徳義に優劣ありて然るものか、みだりに浅見をもって臆断すべからず。ただ後世博識家の確説を待つのみ」と。
 しからばすなわち今の改革者流が日本の旧習をいとうて西洋の事物を信ずるは、まったく軽信軽疑のそしりを免るべきものと言うべからず。いわゆる旧を信ずるの信をもって新を信じ、西洋の文明を慕うのあまりに兼ねてその顰蹙朝寝の癖をも学ぶものと言うべし。なおはなはだしきはいまだ新の信ずべきものを探り得ずして早くすでに旧物を放却し、一身あたかも空虚なるがごとくにして安心立命の地位を失い、これがためついには発狂する者あるに至れり。憐れむべきにあらずや〔医師の話を聞くに、近来は神経病および発狂の病人多しという〕。
 西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれにならわんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優にかず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈ばっこして良人をくるしめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。
 されば今の日本に行なわるるところの事物は、はたして今のごとくにしてその当を得たるものか、商売会社の法、今のごとくにして可ならんか、政府の体裁、今のごとくにして可ならんか、教育の制、今のごとくにして可ならんか、著書の風、今のごとくにして可ならんか、しかのみならず、現に余輩学問の法も今日の路に従いて可ならんか、これを思えば百疑並び生じてほとんど暗中に物を探るがごとし。この雑沓混乱の最中にいて、よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨そのよろしきを得んとするはまた難きにあらずや。
 然りしこうして今このめに任ずる者は、他なし、ただ一種わが党の学者あるのみ。学者勉めざるべからず。けだしこれを思うはこれを学ぶにかず。幾多の書を読み、幾多の事物に接し、虚心平気、活眼を開き、もって真実のあるところを求めなば、信疑たちまちところを異にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあらん。学者勉めざるべからざるなり。

引用文献


江守孝三(Emori Kozo)