萬葉集 巻第十五 春の雑歌
(とをまりいつまきにあたるまき はるのくさぐさのうた)
(貴新羅使人の歌 中臣宅守・挟野第上娘子の相聞贈答歌)
鹿持雅澄『萬葉集古義』
天平八年丙子夏六月、新羅の国に遣ひ使はさるる時、使人等、各別れを悲しみ贈り答へ、また海路にて情を慟み思ひを陳べてよめる歌、また所につきて誦詠へる古き歌、一百四十五首*
3578 武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
3579 大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを
3580 君が行く海辺の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ
3581 秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ
3582 大船を荒海に出だしいます君障むことなく早帰りませ
3583 ま幸くと*妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも
3584 別れなばうら悲しけむ吾が衣下にを着ませ直に逢ふまてに
3585 我妹子が下にを着よと*贈りたる衣の紐を吾解かめやも
3586 我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ
3587 栲衾新羅へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ
3588 はろばろに思ほゆるかも然れども異しき心を吾が思はなくに
右の十一首は、贈答。
3589 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ吾が来る妹が目を欲り
右の一首は、秦間滿。
3590 妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてそ吾が来る
右の一首は、竊かに私家に還りて思ひを陳ぶ。
3591 妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにそありける
3592 海原に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに
3593 大伴の御津に船乗り榜ぎ出てはいづれの島に廬りせむ我
右の三首は、発たむとする時よめる歌。
3594 潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり
3595 朝開き榜ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも
3596 我妹子が形見に見むを印南都麻白波高みよそにかも見む
3597 わたつみの沖つ白波立ち来らし海人処女ども島隠る見ゆ
3598 ぬば玉の夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
3599 月読の光を清み神島の磯廻の浦ゆ船出す我は
3600 離れ磯に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
3601 しましくも独りあり得るものにあれや島のむろの木離れてあるらむ
右の八首は、船乗りして海つ路に入る時よめる歌。
所につきて誦詠へる古き歌
3602 青丹よし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも
右の一首は、雲を詠める。
3603 青柳の枝伐り下ろし斎種蒔き忌々しく君に恋ひ渡るかも
3604 妹が袖別れて久になりぬれど一日も妹を忘れて思へや
3605 わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ吾が恋やまめ
右の三首は、恋の歌。
3606 玉藻刈る処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす我は
柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、敏馬を過ぎて。又曰ク、船近づきぬ。
3607 白妙の藤江の浦に漁りする海人とや見らむ旅ゆく我を
柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、荒栲の。又曰ク、鱸釣る海人とか見らむ。
3608 天離る夷の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ
柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、やまと島見ゆ。
3609 武庫の海の庭よくあらしいざりする海人の釣船波のうへゆ見ゆ
柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、けひの海の。又曰ク、刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船。
3610 安胡の浦に船乗りすらむ処女らが赤裳の裾に潮満つらむか
柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、あみの浦。又曰ク、玉裳の裾に。
〔七夕歌一首〕*
3611 大船に真楫しじ貫き海原を榜ぎ出て渡る月人壮士
右、柿本朝臣人麿の歌。
備後国水調郡長井の浦に船泊てし夜、よめる歌三首
3612 青丹よし奈良の都に行く人もがも草枕旅ゆく船の泊り告げむに 旋頭歌なり。
右の一首は、大判官。
3613 海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも
3614 帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな
安藝国風速の浦に舶泊てし夜、よめる歌二首
3615 我がゆゑに妹歎くらし風速の浦の沖辺に霧たなびけり
3616 沖つ風いたく吹きせば我妹子が歎きの霧に飽かましものを
長門の島の磯辺に舶泊ててよめる歌五首
3617 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
右の一首は、大石蓑麿。
3618 山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも
3619 磯の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて
3620 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも
3621 我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる
長門の浦より舶出せし夜、月光を仰観てよめる歌三首
3622 月読の光を清み夕凪に水手の声呼び浦廻榜ぐかも
3623 山の端に月かたぶけば漁りする海人の燈し火沖になづさふ
3624 我のみや夜船は榜ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり
古き挽歌一首、また短歌
3625 夕されば 葦辺に騒き 明け来れば 沖になづさふ 鴨すらも 妻とたぐひて 我が尾には 霜な降りそと 白妙の 羽さし交へて 打ち掃ひ さ寝とふものを 行く水の 帰らぬごとく 吹く風の 見えぬがごとく 跡も無き 世の人にして 別れにし 妹が着せてし 馴れ衣 袖片敷きて 独りかも寝む
反し歌一首
3626 鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独りさ寝れば
右、丹比大夫が亡れる妻を悽愴める歌。
物に属きて思ひを発ぶる歌一首、また短歌
3627 朝されば 妹が手にまく 鏡なす 御津の浜びに 大船に 真楫しじ貫き 韓国に 渡り行かむと 直向ふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈びき行けば 沖辺には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば 我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隠りぬ さ夜更けて ゆくへを知らに 吾が心 明石の浦に 船泊めて 浮寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば いざりする 海人の処女は 小船乗り つららに浮けり 暁の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴鳴き渡る 朝凪に 船出をせむと 船人も 水手も声呼び にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ 吾が思へる 心なぐやと 早く来て 見むと思ひて 大船を 榜ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ よそのみに 見つつ過ぎ行き 玉の浦に 船を留めて 浜びより 浦磯を見つつ 泣く子なす 音のみし泣かゆ わたつみの 手纏の玉を 家苞に 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 帰し遣る 使なければ 持てれども 験を無みと また置きつるかも
反し歌二首
3628 玉の浦の沖つ白玉ひりへれどまたそ置きつる見る人を無み
3629 秋さらば我が船泊てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波
周防国玖河郡麻里布の浦に行く時、よめる歌八首
3630 真楫貫き船し行かずば見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを
3631 いつしかも見むと思ひし粟島をよそにや恋ひむ行くよしを無み
3632 大船にかし振り立てて浜清き麻里布の浦に宿りかせまし
3633 粟島の逢はじと思ふ妹にあれや安眠も寝ずて吾が恋ひ渡る
3634 筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ
3635 妹が家路近くありせば見れど飽かぬ麻里布の浦を見せましものを
3636 家人は帰り早来と伊波比島斎ひ待つらむ旅ゆく我を
3637 草枕旅ゆく人を伊波比島幾代経るまて斎ひ来にけむ
大島の鳴門を過ぎて再宿経し後、追ひてよめる歌二首
3638 これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人処女ども
右の一首は、田邊秋庭。
3639 波の上に浮き寝せし宵あど思へか心悲しく夢に見えつる
熊毛の浦に船泊てし夜、よめる歌四首
3640 都辺に行かむ船もが刈薦の乱れて思ふこと告げやらむ
右の一首は、羽栗。
3641 暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人処女かも
3642 沖辺より潮満ち来らし韓の浦にあさりする鶴鳴きて騒きぬ
3643 沖辺より船人のぼる呼び寄せていざ告げやらむ旅の宿りを
一ニ云ク、旅の宿りをいざ告げやらな。
佐婆の海にて、忽ち逆風漲浪に遭ひて、漂流宿経て、のち順風を得、豊前国下毛郡分間の浦に到着きぬ。ここに艱難を追ひ怛みて、よめる歌八首
3644 おほきみの命畏み大船の行きのまにまに宿りするかも
右の一首は、雪宅麻呂。
3645 我妹子は早も来ぬかと待つらむを沖にや住まむ家附かずして
3646 浦廻より榜ぎ来し船を風速み沖つ御浦に宿りするかも
3647 我妹子がいかに思へかぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる
3648 海原の沖辺に灯し漁る火は明かして灯せ大和島見む
3649 鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露そ置きにける
3650 久かたの天照る月は見つれども吾が思ふ妹に逢はぬ頃かも
3651 ぬば玉の夜渡る月は早も出でぬかも海原の八十島の上ゆ妹があたり見む 旋頭歌なり。
筑紫の館に至り、本つ郷のかたを遥望け、悽愴みてよめる歌四首
3652 志賀の海人の一日もおちず焼く塩のからき恋をも吾はするかも
3653 志賀の浦に漁りする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚
3654 可之布江に鶴鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも
一ニ云ク、満ちし来ぬらし。
3655 今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ
七夕天漢を仰観け、各思ひを陳べてよめる歌三首
3656 秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
右の一首は、大使。
3657 年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我にまさりて思ふらめやも
3658 夕月夜影立ち寄り合ひ天の川榜ぐ船人を見るが羨しさ
海辺にて月を望てよめる歌九首
3659 秋風は日に異に吹きぬ我妹子はいつかと我を*斎ひ待つらむ
大使の第二男。
3660 神さぶる荒津の崎に寄する波間なくや妹に恋ひ渡りなむ
右の一首は、土師稲足。
3661 風の共寄せ来る波にいざりする海人処女らが裳の裾濡れぬ
一ニ云ク、海人のをとめが裳の裾濡れぬ。
3662 天の原振り放け見れば夜そ更けにけるよしゑやし独り寝る夜は明けば明けぬとも
右ノ一首ハ、旋頭歌ナリ。
3663 わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ
3664 志賀の浦にいざりする海人明け来れば浦廻榜ぐらし楫の音聞こゆ
3665 妹を思ひ眠の寝らえぬに暁の朝霧ごもり雁がねそ鳴く
3666 夕されば秋風寒し我妹子が解き洗ひ衣行きて早着む
3667 我が旅は久しくあらしこの吾が着る妹が衣の垢づく見れば
筑前国志麻郡の韓亭に舶泊てて三日経ぬ。時に夜月の光、皎々流照。奄ち此の華に対りて、旅の情を悽噎み、各心緒を陳べてよめる歌六首
3668 おほきみの遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも
右の一首は、大使。
3669 旅にあれど夜は火灯し居る我を闇にや妹が恋ひつつあるらむ
右の一首は、大判官。
3670 からとまり能古の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし
3671 ぬば玉の夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを
3672 久かたの月は照りたり暇なく海人の漁火は灯し合へり見ゆ
3673 風吹けば沖つ白波かしこみと能古の泊にあまた夜そ寝る
引津の亭に舶泊てし時よめる歌七首*
3674 草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ牡鹿鳴くも
3675 沖つ波高く立つ日に遭へりきと都の人は聞きてけむかも
右の二首は、大判官。
3676 天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ
3677 秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば
3678 妹を思ひ眠の寝らえぬに秋の野にさ牡鹿鳴きつ妻思ひかねて
3679 大船に真楫しじ貫き時待つと我は思へど月そ経にける
3680 夜を長み眠の寝らえぬにあしひきの山彦とよめさ牡鹿鳴くも
肥前国松浦郡狛島の亭に舶泊てし夜、海浪を遥望け、各旅の心を慟みてよめる歌七首
3681 帰り来て見むと思ひし我が屋戸の秋萩すすき散りにけむかも
右の一首は、秦田滿。
3682 天地の神を乞ひつつ吾待たむ早来ませ君待たば苦しも
右の一首は、娘子。
3683 君を思ひ吾が恋ひまくはあら玉の立つ月ごとに避くる日もあらじ
3684 秋の夜を長みにかあらむなそここば眠の寝らえぬも独り寝ればか
3685 たらし姫御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ
3686 旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲しも
3687 あしひきの山飛び越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて来ね
壹岐の島に到りて、雪連宅滿が、忽ち鬼病にて死去れる時よめる歌〔一首、また短歌〕*
3688 すめろきの 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか ただ身かも 過ちしけむ 秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
反し歌二首
3689 石田野に宿りする君家人のいづらと我を問はばいかに言はむ
3690 世の中は常かくのみと別れぬる君にやもとな吾が恋ひゆかむ
右三首は、姓名がよめる挽歌。*
3691 天地と 共にもがもと 思ひつつ ありけむものを 愛しけやし 家を離れて 波のうへゆ なづさひ来にて あら玉の 月日も来経ぬ 雁がねも 継ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手濡れて 幸くしも あるらむごとく 出で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の嘆きは 相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野辺の 初尾花 仮廬に葺きて 雲離れ 遠き国辺の 露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ
反し歌二首
3692 愛しけやし妻も子供も高々に待つらむ君や島隠れぬる
3693 もみち葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも
右の三首は、葛井連子老がよめる挽歌。
3694 わたつみの 恐き道を 安けくも なく悩み来て 今だにも 凶なく行かむと 壱岐の海人の 秀つ手の占へを 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路に 別れする君
反し歌二首
3695 昔より言ひけることの韓国のからくもここに別れするかも
3696 新羅へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも
右の三首は、六鯖がよめる挽歌。
對馬島の淺茅の浦に舶泊てし時、順風を得ず、停まりて五箇日を経き。ここに物華を瞻望りて、各慟心を陳べてよめる歌三首
3697 百船の泊つる對馬の淺茅山しぐれの雨にもみたひにけり
3698 天ざかる夷にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける
3699 秋されば置く露霜に堪へずして都の山は色づきぬらむ
竹敷の浦に舶泊てし時、各心緒を陳べてよめる歌十八首
3700 あしひきの山下光るもみち葉の散りのまがひは今日にもあるかも
右の一首は、大使。
3701 竹敷の黄葉を見れば我妹子が待たむと言ひし時そ来にける
右の一首は、副使。
3702 竹敷の浦廻の黄葉われ行きて帰り来るまて散りこすなゆめ
右の一首は、大判官。
3703 竹敷の上方山は紅の八しほの色になりにけるかも
右の一首は、小判官。
3704 もみち葉の散らふ山辺ゆ榜ぐ船のにほひに愛でて出でて来にけり
3705 竹敷の玉藻靡かし榜ぎ出なむ君が御舟をいつとか待たむ
右の二首は、對馬娘子、名は玉槻。
3706 玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我行く帰るさに見む
右の一首は、大使。
3707 秋山の黄葉を挿頭し我が居れば浦潮満ち来いまだ飽かなくに
右の一首は、副使。
3708 物思ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月そ経にける
右の一首は、大使。
3709 家づとに貝を拾ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ
3710 潮干なばまたも我来むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち来ぬ
3711 我が袖は手本とほりて濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ
3712 ぬば玉の妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ
3713 もみち葉は今はうつろふ我妹子が待たむと言ひし時の経ゆけば
3714 秋されば恋しみ妹を夢にだに久しく見むを明けにけるかも
3715 独りのみ着寝る衣の紐解かば誰かも結はむ家遠くして
3716 天雲のたゆたひ来れば九月の黄葉の山もうつろひにけり
3717 旅にても凶なく早来と我妹子が結びし紐は褻れにけるかも
筑紫の海つ路に回り来て、京に入らむと播磨国家島に到れる時よめる歌五首
3718 家島は名にこそありけれ海原を吾が恋ひ来つる妹もあらなくに
3719 草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経ぬらく
3720 我妹子を行きて早見む淡路島雲居に見えぬ家附くらしも
3721 ぬば玉の夜明かしも船は榜ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ
3722 大伴の御津の泊に船泊てて龍田の山をいつか越えいかむ
中臣朝臣宅守が蔵部の女に娶ひて、狹野茅上娘子を娉へる時、勅して流す罪に断めて、越前国に配ちたまへり。ここに夫婦別れ易く会ひ難きを嘆き、各慟しみの情を陳べて、贈り答ふる歌、六十三首*
3723 あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
3724 君が行く道の長手を繰り畳み*焼き滅ぼさむ天の火もがも
3725 我が背子しけだし罷らば白妙の袖を振らさね見つつ偲はむ
3726 この頃は恋ひつつもあらむ玉くしげ明けて後よりすべなかるべし
右の四首は、別れむとして娘子が悲しみよめる歌。*
3727 塵泥の数にもあらぬ我ゆゑに思ひ侘ぶらむ妹が悲しさ
3728 青丹よし奈良の大道は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり
3729 愛しと吾が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ
3730 畏みと告らずありしを御越道の峠に立ちて妹が名のりつ
右の四首は、中臣朝臣宅守が上道してよめる歌。
3731 思ふゑに逢ふものならばしましくも妹が目離れて吾居らめやも
3732 あかねさす昼は物思ひぬば玉の夜はすがらに音のみし泣かゆ
3733 我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継がまし
3734 遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしの無きが寂しさ
一ニ云ク、さびしさ
3735 思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに
3736 遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな
3737 人よりは妹そも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ
3738 思ひつつ寝ればかもとなぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる
3739 かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずそあるべくありける
3740 天地の神なきものにあらばこそ吾が思ふ妹に逢はず死にせめ
3741 命をし全くしあらば珠衣のありて後にも逢はざらめやも
一ニ云ク、ありての後も
3742 逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まて吾恋ひ居らむ
3743 旅といへば言にそ易き少なくも妹に恋ひつつすべ無けなくに
3744 我妹子に恋ふるに吾は玉きはる短き命も惜しけくもなし
右の十四首は、配所に至りて中臣朝臣宅守がよめる歌。*
3745 命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはたな思ひそ命だに経ば
3746 人の植うる田は植ゑまさず今更に国別れして吾はいかにせむ
3747 我が屋戸の松の葉見つつ吾待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに
3748 他国は住み悪しとそ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに
3749 他国に君をいませていつまてか吾が恋ひをらむ時の知らなく
3750 天地の極の裡に吾がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ
3751 白妙の吾が下衣失はず持てれ我が背子ただに逢ふまてに
3752 春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつ顕しけめやも
3753 逢はむ日の形見にせよと手弱女の思ひ乱れて縫へる衣そ
右の九首は、娘子が京に留まり、悲傷みてよめる歌。*
3754 過所なしに関飛び越ゆる霍公鳥我が身にもがも*止まず通はむ
3755 愛しと吾が思ふ妹を山川を中にへなりて安けくもなし
3756 向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまて
3757 吾が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを
3758 刺竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ
一ニ云ク、今さへや
3759 たちかへり泣けども吾は験なみ思ひ侘ぶれて寝る夜しそ多き
3760 さ寝る夜は多くあれども物思はず安く寝る夜はさねなきものを
3761 世の中の常のことわりかく様に成り来にけらし据ゑし種から
3762 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
3763 旅と言へば言にそ易きすべも無く苦しき旅も娘らにまさめやも
3764 山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹
3765 真澄鏡懸けて偲へと奉り出す形見のものを人に示すな
3766 うるはしと思ひし思はば下紐に結ひ付け持ちてやまず偲はせ
右の十三首は、配所より中臣朝臣宅守が贈れる歌。*
3767 魂は朝夕に霊振れど吾が胸痛し恋の繁きに
3768 この頃は君を思ふとすべも無き恋のみしつつ音のみしそ泣く
3769 ぬば玉の夜見し君を明くる朝逢はずまにして今そ悔しき
3770 味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ
3771 家人の*安眠も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも
3772 帰りける人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
3773 君が共行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし
3774 我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
右の八首は、娘子が和贈ふる歌。*
3775 あら玉の年の緒長く逢はざれど異しき心を吾が思はなくに
3776 今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩の外に立てらまし
右の二首は、中臣朝臣宅守がまた贈れる歌。*
3777 昨日けふ君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしそ泣く
3778 白妙の吾が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまてに
右の二首は、娘子が和贈ふる歌。*
3779 我が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
3780 恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる
3781 旅にして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ吾が恋まさる
3782 雨ごもり物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす
3783 旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
3784 心なき鳥にそありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
3785 霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば吾が思ふ心いたもすべなし
右の七首は、中臣朝臣宅守が花鳥に寄せて思ひを陳べてよめる歌。
巻第十五 了
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引用文献
○ManyoshuBest100 、
○万葉集[YouTube] 、
○萬葉集朗詠ライブ 、
○歴史ヒストリア 、
○万葉歌と明石 、、
○100分de名著 万葉集 其の1 、
○ 其の2
、、
万葉集読み上げ 巻1 ( 1 -27) 、
万葉集読み上げ 巻1 (28-49) 、
万葉集読み上げ 巻1 (50-84)
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