萬葉集 巻第八 春の雑歌
(やまきにあたるまき はるのくさぐさのうた)
(四季に分類した 雑歌・相聞)
鹿持雅澄『萬葉集古義』
志貴皇子の懽びの御歌一首
1418 石激る垂水の上のさ蕨の萌え出る春になりにけるかも
鏡女王*の歌一首
1419 神奈備の石瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ吾が恋まさる
駿河釆女が歌一首
1420 沫雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも
尾張連が歌二首
1421 春山の崎の撓りに*春菜摘む妹が白紐見らくしよしも
1422 打ち靡く春来たるらし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
中納言阿倍廣庭の卿の歌一首
1423 去年の春いこじて植ゑし我が屋戸の若木の梅は花咲きにけり
山部宿禰赤人が歌四首
1424 春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける
1425 あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも
1426 我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
1427 明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
草香山の歌一首
1428 押し照る 難波を過ぎて 打ち靡く 草香の山を
夕暮に 吾が越え来れば 山も狭に 咲ける馬酔木の
悪しからぬ 君をいつしか 行きて早見む
右の一首は、作者微しきに依りて名字を顕さず。
桜の花の歌一首、また短歌
1429 娘子らが 挿頭のために 遊士の 蘰のためと
敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の 匂ひはもあなに
反し歌
1430 去年の春逢へりし君に恋ひにてき*桜の花は迎へけらしも
右の二首は、若宮年魚麻呂誦へりき。
山部宿禰赤人が歌一首
1431 百済野の萩の古枝に春待つと来居し*鴬鳴きにけむかも
大伴坂上郎女が柳の歌二首
1432 我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも
1433 打ち上ぐる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも
大伴宿禰三依*が梅の歌一首
1434 霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ
厚見王の歌一首
1435 かはづ鳴く神奈備川に影見えて今や咲くらむ山吹の花
大伴宿禰村上が梅の歌二首
1436 含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも
1437 霞立つ春日の里の梅の花あらしの風に*散りこすなゆめ
大伴宿禰駿河麻呂が歌一首
1438 霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと吾が思はなくに
中臣朝臣武良自が歌一首
1439 時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺に霞たなびく
河邊朝臣東人が歌一首
1440 春雨のしくしく降るに高圓の山の桜はいかにかあるらむ
大伴宿禰家持が鴬の歌一首
1441 打ち霧らし雪は降りつつしかすがに吾宅の苑に鴬鳴くも
大蔵少輔丹比屋主真人が歌一首
1442 難波辺に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ
丹比真人乙麻呂が歌一首
1443 霞立つ野の上の方に行きしかば鴬鳴きつ春になるらし
高田女王の歌一首
1444 山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり
大伴坂上郎女が歌一首
1445 風交り雪は降るとも実にならぬ吾宅の梅を花に散らすな
大伴宿禰家持が春雉の歌一首
1446 春の野にあさる雉の妻恋に己があたりを人に知れつつ
大伴坂上郎女が歌一首
1447 世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ
右ノ一首、天平四年三月一日、佐保ノ宅ニテ作メリ。
春の相聞
大伴宿禰家持が坂上の家の大嬢に贈れる歌一首
1448 我が屋戸に蒔きし撫子いつしかも花に咲きなむなそへつつ見む
大伴田村家の大嬢が妹坂上大嬢に与れる歌一首
1449 茅花抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり吾が恋ふらくは
大伴宿禰家持が坂上郎女に贈れる歌一首*
1450 心ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは
笠女郎が大伴家持に贈れる歌一首
1451 水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも
紀女郎が歌一首
1452 闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや
天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村が入唐使に贈れる歌一首、また短歌
1453 玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思ふ君は
うつせみの 世の人なれば 大王の 命畏み
夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
大船に 真楫繁貫き 白波の 高き荒海を
島伝ひ い別れ行かば 留まれる 吾は幣取り*
斎ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ
反し歌
1454 波の上よ見ゆる児島の雲隠りあな息づかし相別れなば
1455 玉きはる命に向ひ恋ひむよは君が御船の楫柄にもが
藤原朝臣廣嗣が桜の花を娘子に贈れる歌一首
1456 この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな
娘子が和ふる歌一首
1457 この花の一節のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや
厚見王の久米女郎に贈れる歌一首
1458 屋戸にある桜の花は今もかも松風疾み土に散るらむ
久米女郎が報へまつれる歌一首
1459 世の中も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも
紀女郎が合歓木花と茅花とを折り攀ぢて、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
1460 戯奴 変リテ云ク、ワケ
がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ
1461 昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花吾のみ見めや*戯奴さへに見よ*
大伴家持が贈和ふる歌二首
1462 吾が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食めどいや痩せに痩す
1463 我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも
大伴家持が坂上大嬢に贈れる歌一首
1464 春霞たなびく山の隔れれば妹に逢はずて月ぞ経にける
右、久邇京ヨリ寧樂ノ宅ニ贈レリ。
夏の雑歌
藤原夫人の歌一首*
1465 霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに
志貴皇子の御歌一首
1466 神奈備の石瀬の杜の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ
弓削皇子の御歌一首
1467 霍公鳥無かる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも
小治田の廣瀬王の霍公鳥の歌一首
1468 霍公鳥声聞く小野の秋風に萩咲きぬれや声の乏しき
沙弥が霍公鳥の歌一首
1469 あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に思ほゆ
刀理宣令が歌一首
1470 もののふの石瀬の杜の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭に
山部宿禰赤人が歌一首
1471 恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり
式部大輔石上堅魚の朝臣が歌一首
1472 霍公鳥来鳴き響もす卯の花の共やなりしと*問はましものを
右、神亀五年戊辰、太宰帥大伴卿ノ妻大伴郎女、病ニ遇ヒテ長逝ス。時ニ勅使式部大輔石上朝臣堅魚ヲ太宰府イ遣シテ、弔喪ト賜物トセシム。其ノ事既ニ畢リテ、駅使ト府ノ諸卿大夫等ト、共ニ記夷城ニ登リテ望遊セシ日、乃チ此ノ歌ヲ作メリ。
太宰帥大伴卿の和へたまへる歌一首
1473 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き
大伴坂上郎女が筑紫の大城山を思ふ歌一首
1474 今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ吾無けれども
大伴坂上郎女が霍公鳥の歌一首
1475 何しかもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ
小治田朝臣廣耳が歌一首
1476 独り居て物思ふ宵に霍公鳥こよ鳴き渡る心しあるらし
大伴家持が霍公鳥の歌一首
1477 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす
大伴家持が橘の歌一首
1478 我が屋戸の花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりなむ
大伴家持が晩蝉の歌一首
1479 籠りのみ居れば鬱せみ慰むと出で立ち聞けば来鳴く日晩
大伴書持が歌二首
1480 我が屋戸に月おし照れり霍公鳥心ある今宵来鳴き響もせ
1481 我が屋戸の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時
大伴清繩が歌一首
1482 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥吾忘れめや
庵君諸立が歌一首
1483 我が背子が屋戸の橘花をよみ鳴く霍公鳥見にぞ吾が来し
大伴坂上郎女が歌一首
1484 霍公鳥いたくな鳴きそ独り居て寝の寝らえぬに聞けば苦しも
大伴家持が唐棣花の歌一首
1485 夏まけて咲きたるはねず久かたの雨うち降らば移ろひなむか
大伴家持が霍公鳥の晩喧を恨む歌二首
1486 我が屋戸の花橘を霍公鳥来鳴かず土に散らしなむとか
1487 霍公鳥思はずありき木晩のかくなるまでに何か来鳴かぬ
大伴家持が霍公鳥を懽ぶ歌一首
1488 いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥我家の里に今日のみぞ鳴く
大伴家持が橘の花を惜しむ歌一首
1489 我が屋戸の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり
大伴家持が霍公鳥の歌一首
1490 霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか
大伴家持が、雨のふる日霍公鳥の喧くを聞きてよめる歌一首
1491 卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこよ鳴き渡る
橘の歌一首 遊行女婦
1492 君が家の花橘は生りにけり花なる時に逢はましものを
大伴村上が橘の歌一首
1493 我が屋戸の花橘を霍公鳥来鳴き響めて土に散らしつ*
大伴家持が霍公鳥の歌二首
1494 夏山の木末の繁に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ
1495 あしひきの木の間立ち潜く霍公鳥かく聞きそめて後恋ひむかも
大伴家持が石竹花の歌一首
1496 我が屋戸の撫子の花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも
筑波山に登らざりしを惜しむ歌一首
1497 筑波嶺に吾が行けりせば霍公鳥山びこ響め鳴かましやそれ
右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。
夏の相聞
大伴坂上郎女が歌一首
1498 暇無み来まさぬ君に霍公鳥吾がかく恋ふと行きて告げこそ
大伴四繩が宴に吟へる歌一首
1499 こと繁み君は来まさず霍公鳥汝だに来鳴け朝戸開かむ
大伴坂上郎女が歌一首
1500 夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを
小治田朝臣廣耳が歌一首
1501 霍公鳥鳴く峯の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
大伴坂上郎女が歌一首
1502 五月山*花橘を君がため玉にこそ貫け散らまく惜しみ
紀朝臣豊河が歌一首
1503 我妹子が家の垣内のさ百合花ゆりと言へれば否ちふに似つ
高安の歌一首
1504 暇無み五月をすらに我妹子が花橘を見ずか過ぎなむ
大神女郎が大伴家持に贈れる歌一首
1505 霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも
大伴田村大嬢が妹坂上大嬢に与れる歌一首
1506 故郷の奈良思の岡の霍公鳥言告げ遣りし如何に告げきや
大伴家持が、橘花を攀ぢて坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌
1507 いつしかと 待つ我が屋戸に* 百枝さし 生ふる橘
玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり
朝に日に 出で見るごとに 息の緒に 吾が思ふ妹に
真澄鏡 清き月夜に ただ一目 見せむまでには
散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 吾が守るものを
うれたきや 醜霍公鳥 暁の うら悲しきに
追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 土に散らせば
すべをなみ 攀ぢて手折りつ 見ませ我妹子
反し歌
1508 望降ち清き月夜に我妹子に見せむと思ひし屋戸の橘
1509 妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を土に散らしつ
大伴家持が紀女郎に贈れる歌一首
1510 撫子は咲きて散りぬと人は言へど吾が標めし野の花にあらめやも
秋の雑歌
崗本天皇のみよみませる御製歌一首
1511 夕されば小倉の山に鳴く鹿の*今夜は鳴かずい寝にけらしも
大津皇子の御歌一首
1512 経も無く緯も定めず未通女らが織れる黄葉に霜な降りそね
穂積皇子の御歌二首
1513 今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみちにけらし吾が心痛し
1514 秋萩は咲きぬべからし我が屋戸の浅茅が花の散りぬる見れば
但馬皇女の御歌一首
一書ニ云ク、子部王ノ作
1515 こと繁き里に住まずば今朝鳴きし雁に副ひて行かましものを
山部王の秋葉を惜しみたまへる歌一首
1516 秋山ににほふ木の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲りせむ
長屋王の歌一首
1517 味酒三輪の祝の山照らす秋の黄葉散らまく惜しも
山上臣憶良が七夕の歌十二首
1518 天の川相向き立ちて吾が恋ひし君来ますなり紐解き設けな
右、養老八年七月七日、令ニ応ヘテ作メリ。
1519 久かたの天の川瀬に船浮けて今夜か君が我許来まさむ
右、神亀元年七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ。
1520 牽牛は 織女と 天地の 別れし時ゆ
いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 青波に 望みは絶えぬ
白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ
かくのみや 恋ひつつあらむ さ丹塗りの 小舟もがも
玉巻きの 真櫂もがも 朝凪に い掻き渡り 夕潮に い榜ぎ渡り 久かたの 天の川原に
天飛ぶや 領巾片敷き 真玉手の 玉手さし交へ
あまたたび いも寝てしかも* 秋にあらずとも
反し歌
1521 風雲は二つの岸に通へども吾が遠妻の言ぞ通はぬ
1522 礫にも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき
右、天平元年七月七日ノ夜、憶良、天ノ河ヲ仰ギ観テ作メリ*。一ニ云ク、帥ノ家ノ作。
1523 秋風の吹きにし日よりいつしかと吾が待ち恋ひし君ぞ来ませる
1524 天の川いと川波は立たねども侍従ひ難し近きこの瀬を
1525 袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば
1526 玉蜻のほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは
右、天平二年七月八日ノ夜、帥ノ家ニ集会フ。
1527 牽牛の妻迎へ船榜ぎ出らし天の川原に霧の立てるは
1528 霞立つ天の川原に君待つとい通ふ程に裳の裾濡れぬ
1529 天の川浮津の波音騒くなり吾が待つ君し舟出すらしも
太宰の諸卿大夫、また官人等が、筑前国蘆城の駅家に宴する歌二首
1530 をみなへし秋萩交じる蘆城の野今日を始めて万代に見む
1531 玉くしげ蘆城の川を今日見てば万代までに忘らえめやも
右の二首は、作者未詳。
笠朝臣金村が伊香山にてよめる歌二首
1532 草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも
1533 伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花し思ほゆ
石川朝臣老夫が歌一首
1534 をみなへし秋萩折らな*玉ほこの道行き苞と乞はむ子のため
藤原宇合の卿の歌一首
1535 我が背子をいつぞ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く
縁達帥が歌一首
1536 宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉はや継げ
山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首
1537 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
其一
1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二
天皇のみよみませる御製歌二首
1539 秋の田の穂田を雁が音暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも
1540 今朝の朝明雁が音寒く聞きしなべ野辺の浅茅ぞ色づきにける
太宰帥大伴卿の歌二首
1541 吾が岡にさ牡鹿来鳴く先萩の花妻問ひに来鳴くさ牡鹿
1542 吾が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
三原王の歌一首
1543 秋の露は移しなりけり水鳥の青葉の山の色づく見れば
湯原王の七夕の歌二首
1544 牽牛の思ひますらむ心よも見る吾苦し夜の更けゆけば
1545 織女の袖纏く宵の*暁は川瀬の鶴は鳴かずともよし
市原王の七夕の歌一首
1546 妹がりと吾が行く道の川なれば足結正すと*夜ぞ更けにける
藤原朝臣八束が歌一首
1547 さ牡鹿の萩に貫き置ける露の白玉あふさわに誰の人かも手に巻かむちふ
大伴坂上郎女が晩の萩の歌一首
1548 咲く花もうつろふは厭し*奥手なる長き心になほしかずけり
典鑄正紀朝臣鹿人が、衛門大尉大伴宿禰稲公が跡見の庄に至りてよめる歌一首
1549 射目立てて跡見の岡辺の撫子の花ふさ手折り吾は持ち去なむ奈良人のため
湯原王が鳴鹿の歌一首
1550 秋萩の散りの乱ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ
市原王の歌一首
1551 時待ちてしぐれの雨の降りしくに朝香の山の*黄葉たひぬらむ
湯原王の蟋蟀の歌一首
1552 夕月夜心もしぬに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも
衛門大尉大伴宿禰稲公が歌一首
1553 しぐれの雨間無くし降れば御笠山木末あまねく色づきにけり
大伴家持が和ふる歌一首
1554 大王の御笠の山の黄葉は今日の時雨に散りか過ぎなむ
安貴王の歌一首
1555 秋立ちて幾日もあらねばこの寝ぬる朝明の風は手本寒しも
忌部首黒麻呂が歌一首
1556 秋田刈る借廬もいまだ壊たねば雁が音寒し霜も置きぬがに
故郷の豊浦寺の尼が私房に宴する歌三首
1557 明日香川ゆき廻む岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
右の一首は、丹比真人國人。
1558 鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
1559 秋萩は盛り過ぐるをいたづらに挿頭に挿さず帰りなむとや
右の二首は、沙弥尼等。
大伴坂上郎女が跡見の田庄にてよめる歌二首
1560 妹が目を跡見の崎なる秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ
1561 吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くがともしさ
巫部麻蘇娘子が雁の歌一首
1562 たれ聞きつこよ鳴き渡る雁が音の妻呼ぶ声のともしきまでに*
大伴家持が和ふる歌一首
1563 聞きつやと妹が問はせる雁が音はまことも遠く雲隠るなり
日置長枝娘子が歌一首
1564 秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は思ほゆるかも
大伴家持が和ふる歌一首
1565 我が屋戸の一むら萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
大伴家持が秋の歌四首
1566 久かたの雨間も置かず雲隠り鳴きぞゆくなる早稲田雁が音
1567 雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ
1568 雨ごもり心いふせみ出で見れば春日の山は色づきにけり
1569 雨晴れて清く照りたるこの月夜また更にして雲なたなびき
右ノ四首ハ、天平八年丙子秋九月ニ作メリ。
藤原朝臣八束が歌二首
1570 ここにありて春日やいづく雨障み出でて行かねば恋ひつつぞ居る
1571 春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高圓の山
大伴家持が白露の歌一首
1572 我が屋戸の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが
大伴村上が歌一首*
1573 秋の雨に濡れつつ居れば賤しけど我妹が屋戸し思ほゆるかも
右大臣橘の家にて宴する歌七首
1574 雲の上に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむと廻り来つ
1575 雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ萩の下葉はもみちつるかも
右二首。
1576 この岡に小鹿踏み起し窺狙ひかもかもすらく君故にこそ
右の一首は、長門守巨曽倍朝臣津島。
1577 秋の野の尾花が末を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも
1578 今朝鳴きてゆきし雁が音寒みかもこの野の浅茅色づきにける
右の二首は、阿倍朝臣蟲麻呂。
1579 朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな
1580 さ牡鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを
右の二首は、文忌寸馬養。天平十年戊寅秋八月二十日。*
橘朝臣奈良麻呂が宴するときの歌十一首
1581 手折らずて散らば惜しみと吾が思ひし秋の黄葉を挿頭しつるかも
1582 めづらしき人に見せむともみち葉を手折りそ吾が来し雨の降らくに
右の二首は、橘朝臣奈良麻呂。
1583 もみち葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも
右の一首は、久米女王。
1584 めづらしと吾が思ふ君は秋山の初もみち葉に似てこそありけれ
右の一首は、長忌寸娘。
1585 奈良山の嶺のもみち葉取れば散る時雨の雨し間無く降るらし
右の一首は、内舎人縣犬養宿禰吉男。
1586 もみち葉を散らまく惜しみ手折り来て今宵かざしつ何か思はむ
右の一首は、縣犬養宿禰持男。
1587 あしひきの山のもみち葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に
右の一首は、大伴宿禰書持。
1588 奈良山をにほふもみち葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも
右の一首は、三手代人名。
1589 露霜にあへる黄葉を手折り来て妹と挿頭しつ後は散るとも
右の一首は、秦許遍麻呂。
1590 十月時雨にあへるもみち葉の吹かば散りなむ風のまにまに
右の一首は、大伴宿禰池主。
1591 もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか
右の一首は、内舎人大伴宿禰家持。以前冬十月十七日、右大臣橘卿ノ旧宅ニ集ヒテ宴飲ス。
大伴坂上郎女が竹田の庄にてよめる歌二首
1592 黙あらず*五百代小田を刈り乱り田廬に居れば都し思ほゆ
1593 隠国の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
右、天平十一年己卯秋九月ニ作メリ。
仏の前にて唱ふ歌一首
1594 時雨の雨間無くな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも
右、冬十月、皇后宮の維摩講に、終日大唐高麗等の種種の音楽を供養り、すなはち此の歌詞を唄ふ。琴弾きは市原王、忍坂王後、大原真人赤麻呂ヲ賜姓フ。歌子は田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十数人なり。
大伴宿禰像見が歌一首
1595 秋萩の枝もとををに降る露の消なば消ぬとも色に出でめやも
大伴宿禰家持が娘子の門に到りてよめる歌一首
1596 妹が家の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも
大伴宿禰家持が秋の歌三首
1597 秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり
1598 さ牡鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露
1599 さ牡鹿の胸分けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる
右、天平十五年癸未秋八月、物色ヲ見テ作メリ。
内舎人石川朝臣廣成が歌二首
1600 妻恋に鹿鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく
1601 めづらしき君が家なる幡薄*穂に出る秋の過ぐらく惜しも
大伴宿禰家持が鹿鳴の歌二首
1602 山びこの相響むまで妻恋に鹿鳴く山辺に独りのみして
1603 このごろの朝明に聞けばあしひきの山を響もしさ牡鹿鳴くも
右ノ二首、天平十五年癸未八月十六日ニ作メリ。
大原真人今城が寧樂の故郷を傷惜しむ歌一首
1604 秋されば春日の山の黄葉見る奈良の都の荒るらく惜しも
大伴宿禰家持が歌一首
1605 高圓の野辺の秋萩このごろの暁露に咲きにけむかも
秋の相聞
額田王の近江天皇を思ひてよみたまへる歌一首
1606 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く
鏡女王のよみたまへる歌一首
1607 風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
弓削皇子の御歌一首
1608 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
丹比真人が歌一首
1609 宇陀の野の秋萩しぬぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく吾には益さじ
丹生女王の太宰帥大伴卿に贈りたまへる歌一首
1610 高圓の秋野の上の撫子の花うら若み人の挿頭しし撫子の花
笠縫女王の歌一首*
1611 あしひきの山下響み鳴く鹿の声ともしかも*吾が心夫
石川賀係女郎が歌一首
1612 神さぶと否にはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも
賀茂女王の歌一首*
1613 秋の野を朝ゆく鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今宵か
右ノ歌、或ハ云ク椋橋部女王、或ハ云ク笠縫女王ノ作。
遠江守櫻井王の天皇に奉らせる歌一首
1614 九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも
天皇の報和へませる御歌一首
1615 大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのごろ
笠女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌一首
1616 朝ごとに見る我が屋戸の*撫子が花にも君はありこせぬかも
山口女王の大伴宿禰家持に贈りたまへる歌一首
1617 秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙は留みかねつも
湯原王の娘子に贈りたまへる歌一首
1618 玉にぬき消たず賜らむ秋萩の末わわら葉に置ける白露
大伴家持が、姑坂上郎女の竹田の庄に至りてよめる歌一首
1619 玉ほこの道は遠けど愛しきやし妹を相見に出でてぞ吾が来し
大伴坂上郎女が和ふる歌一首
1620 あら玉の月立つまでに来まさねば夢にし見つつ思ひぞ吾がせし
右ノ二首、天平十一年己卯秋八月ニ作メリ。
巫部麻蘇娘子が歌一首
1621 我が屋戸の萩が花咲けり見に来ませいま二日ばかりあらば散りなむ
大伴田村大嬢が妹坂上大嬢に与れる歌二首
1622 我が屋戸の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を
1623 我が屋戸ににほふ楓見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし
坂上大娘が秋稲蘰を大伴宿禰家持に贈れる歌一首
1624 吾が蒔ける早稲田の穂立作りたる蘰そ見つつ偲はせ我が背
大伴宿禰家持が報贈ふる歌一首
1625 我妹子が業と作れる秋の田の早稲穂の蘰見れど飽かぬかも
また著ならせる衣を脱きて家持に贈れるに報ふる歌一首
1626 秋風の寒きこのごろ下に着む妹が形見とかつも偲はむ
右ノ三首、天平十一年己卯秋九月ニ徃来ス。
大伴宿禰家持が、非時の藤の花、また芽子の黄葉の二物を攀りて、坂上大嬢に贈れる歌二首
1627 我が屋戸の時じく藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを
1628 我が屋戸の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞ黄葉てる
右ノ二首、天平十二年庚辰夏六月ニ徃来ス。
大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌
1629 ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし
妹と吾が 手携さはりて 朝には 庭に出で立ち
夕へには 床うち払ひ 白妙の 袖さし交へて
さ寝し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそは
峰向かひに 妻問すといへ うつせみの 人なる我や
何すとか 一日一夜も 離り居て 嘆き恋ふらむ
ここ思へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと
高圓の 山にも野にも うち行きて 遊び歩けど 花のみし にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ
いかにして 忘れむものぞ 恋ちふものを
反し歌
1630 高圓の野辺の容花面影に見えつつ妹は忘れかねつも
大伴宿禰家持が安倍女郎に贈れる歌一首
1631 今造る久迩の都に秋の夜の長きに独り寝るが苦しさ
大伴宿禰家持が久迩の京より寧樂の宅に留まれる坂上大娘に贈れる歌一首
1632 あしひきの山辺に居りて秋風の日に異に吹けば妹をしぞ思ふ
或者、尼に贈れる歌二首
1633 手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ
1634 衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板吾が延へ守れる苦し
尼が頭句をよみ、また大伴宿禰家持が尼に誂へて末句を続ぎて和ふる歌一首
1635 佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を 尼作ム 刈る早飯は独りなむべし* 家持続グ
冬の雑歌
舎人娘子が雪の歌一首
1636 大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
太上天皇のみよみませる御製歌一首
1637 幡すすき尾花逆葺き黒木もち造れる屋戸は*万代までに
天皇のみよみませる御製歌一首
1638 青丹よし奈良の山なる黒木もち造れる屋戸は座せど飽かぬかも
右聞クナラク、左大臣長屋王ノ佐保ノ宅ニ御在シテ肆宴キコシメシテ、御製セリ。
太宰帥大伴卿の、冬の日雪を見て京を憶ひたまふ歌一首
1639 沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも
太宰帥大伴卿の梅の歌一首
1640 吾が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
角朝臣廣辨が雪のうちの梅の歌一首
1641 沫雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも
安倍朝臣奥道が雪の歌一首
1642 たな霧らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代にそへてだに見む
若桜部朝臣君足が雪の歌一首
1643 天霧し雪も降らぬかいちしろくこのいつ柴に降らまくを見む
三野連石守が梅の歌一首
1644 引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも
巨勢朝臣宿奈麻呂が雪の歌一首
1645 我が屋戸の冬木の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも
小治田朝臣東麻呂が雪の歌一首
1646 ぬば玉の今夜の雪にいざ濡れな明けむ朝に消なば惜しけむ
忌部首黒麻呂が雪の歌一首
1647 梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る
紀少鹿女郎が梅の歌一首
1648 十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含めらずして
大伴宿禰家持が雪のうちの梅の歌一首
1649 今日降りし雪に競ひて我が屋戸の冬木の梅は花咲きにけり
西の池の辺に御在して肆宴きこしめす歌一首
1650 池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む
右の一首は、作者未詳。但シ堅子阿倍朝臣蟲麻呂伝誦セリ。
大伴坂上郎女が歌一首
1651 沫雪のこのごろ継ぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ
池田廣津娘子が梅の歌一首
1652 梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり
縣犬養娘子が、梅に依せて思ひを発ぶる歌一首
1653 今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の土に落ちめやも
大伴坂上郎女が雪の歌一首
1654 松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむ由はかもなき*
冬の相聞
三国真人人足が歌一首
1655 高山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬとか言はも恋の繁けく
大伴坂上郎女が歌一首
1656 酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みて後には散りぬともよし
姓名和ふる歌一首*
1657 官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
右、酒ハ官禁制シテ称ク、京中ノ閭里、集宴スルコトヲ得ズ。但シ親親一二飲楽スルハ聴許スト。此ニ縁リ、和フル人此ノ発句ヲ作メリ。
藤原皇后の天皇に奉れる御歌一首
1658 我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし
池田廣津娘子が歌一首
1659 真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背
大伴宿禰駿河麻呂が歌一首
1660 梅の花散らす冬風の音のみに聞きし我妹を見らくしよしも
紀少鹿女郎が歌一首
1661 久かたの月夜を清み梅の花心に開きて吾が思へる君
大伴田村大娘が妹坂上大娘に与れる歌一首
1662 沫雪の消ぬべきものを今までに永らへ経るは妹に逢はむとぞ
大伴宿禰家持が歌一首
1663 沫雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕まかず独りかも寝む
巻第八了
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引用文献
○ManyoshuBest100 、
○万葉集[YouTube] 、
○萬葉集朗詠ライブ 、
○歴史ヒストリア 、
○万葉歌と明石 、、
○100分de名著 万葉集 其の1 、
○ 其の2
、、
万葉集読み上げ 巻1 ( 1 -27) 、
万葉集読み上げ 巻1 (28-49) 、
万葉集読み上げ 巻1 (50-84)
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