萬葉集 巻第十六
(とをまりむまきにあたるまき)
(伝説の歌、こっけいな歌、物の名を詠みこむ歌、民謡など)
鹿持雅澄『萬葉集古義』
有由縁、また雑歌
昔娘子有りけり。字をば櫻兒と曰ふ。時に二の壮子有りて、共に此の娘を誂ふ。生を捐てて格競ひ、死を貪りて相敵みたりき。ここに娘子、なげきけらく、「古よりこの方、一の女の身、二の門に往適くといふことを聞かず。方今、壮子の意、
和平び難し。妾死りて相害ふこと永に息めなむには如かじ」といひて、すなはち林に尋入
りて、樹に懸がり経き死にき。両の壮子、哀慟血泣に敢へず、各
心緒を陳べてよめる歌二首
3786 春さらば挿頭にせむと吾が思ひし桜の花は散りにけるかも
3787 妹が名に懸かせる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに
或ひとの曰く、昔三の男有りて、同に一の女を娉ひき。娘子
字をば縵兒と曰ふ*
嘆息きけらく、「一の女の身、滅易きこと露の如し。三の雄の志、平び難きこと石の如し」。すなはち池の上に彷徨り、水底に沈没みき。時に壮士等、哀頽之至に勝へず、各所心を陳べてよめる歌三首
3788 耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ
3789 あしひきの山縵の子今日行くと我に告りせば早く来ましを*
3790 あしひきの山縵の子*今日のごといづれの隈を見つつ来にけむ
昔老翁有り、竹取の翁といふ。此の翁、季春之月に、丘に登りて遠望するとき、羮を煮る九箇女子に値へりき。百の嬌儔ひ無く、花の容止無し。時に娘子等、老翁を呼び、嗤ひて「叔父来て此の鍋火を吹け」と曰ふ。ここに翁、「唯々」と曰ひて、漸ゆきて、座の上に著接きたりき。しまらくありて娘子等、皆共に含咲み、相推し譲りけらく、「誰そ此の翁を呼びし」。すなはち竹取の翁のいふ、「非慮の外に神仙に偶逢ひ、迷惑へる心敢へがたし。近く狎れし罪、謌を以て贖ひまをさむ」。即ち作める歌一首、また短歌
3791 緑子の 若子髪には たらちし 母に抱かえ すきかくる* 這ふ子が身には 木綿肩衣 純裏に縫ひ着
頚つきの 童が身には 結ひはたの 袖つけ衣 着し我を 吾に寄る子らが* 同輩には 蜷の腸 か黒し髪を 真櫛持ち 肩にかき垂れ* 取り束ね 上げても纏きみ 解き乱し 童に成しみ 紅の 丹つかふ色に* 馴付かしき 紫の 大綾の衣
住吉の 遠里の小野の 真榛もち にほしし衣に 高麗錦 紐に縫ひつけ ささへ重なへ なみ重ね着
打麻やし 麻続の子ら あり衣の 宝の子らが 打栲 延へて織る布 日さらしの 麻手作りを 重裳なす 重に取り敷き* ほころへる* 稲置娘子が 妻問ふと 吾にそ賜りし 彼方の 二綾下沓 飛ぶ鳥の 飛鳥壮士が 長雨忌み 縫ひし黒沓 さし履きて 庭に立ち 往きもとほれば* 母刀自の* 守らす娘子が ほの聞きて 吾にそ賜りし 水縹の 絹の帯を 引帯なす 韓帯に取らし わたつみの 殿の甍に 飛び翔ける すがるの如き 腰細に 取り飾らひ 真澄鏡 取り並め懸けて おのが顔 還らひ見つつ 春さりて 野辺を廻れば 面白み 吾を思へか さ野つ鳥 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば なつかしと 吾を思へか 天雲も い行き棚引き 還り立ち 路を来れば うち日さす 宮女 刺竹の 舎人壮士も 忍ふらひ 還らひ見つつ 誰が子そとや 思はれてある かくそしこし* 古の ささきし吾や はしきやし 今日やも子らに いさにとや 思はれてある かくそしこし* 古の 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰り来し
反し歌二首
3792 死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひざらめやも
3793 白髪し子らも生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや
娘子ら和ふる歌九首
3794 はしきやし老夫の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ
3795 恥を忍ひ恥を黙りて事もなく物言はぬさきに吾は寄りなむ
3796 否も諾も欲りのまにまに許すべき貌は見えや吾も寄りなむ
3797 死にも生きも同じ心と結びてし友や違はむ吾も寄りなむ
3798 何すとか違ひは居らむ否も諾も友の並々吾も寄りなむ
3799 あにもあらぬおのが身のから人の子の言も尽くさじ吾も寄りなむ
3800 旗すすき穂には出でじと思ひたる心は知れつ吾も寄りなむ
3801 住吉の岸の野榛に*染へれどにほはぬ吾や媚ひて居らむ
3802 春の野の下草靡き吾も寄りにほひ寄りなむ友のまにまに
昔壮士と美女と有りき
姓名不詳。二親に告せずて、竊ひ交接ひたりき。時に娘子の意に、親に知らせまく欲ひて、歌詠みて、其の夫に送れるその歌
3803 隠りのみ恋ふれば苦し山の端ゆ出で来る月の顕さば如何に
右、或ヒトノ云ク、男答ヘ歌有リトイヘリ。未ダ探リ求ムルコトヲ得ズ。
昔壮士有りけり。新たに婚礼して、幾時もあらぬに、忽ちに駅使と為りて、遠き境に遣はさる。公事限り有り。会ふ期日無し。ここに娘子、感慟悽愴みて、疾病に沈臥れりき。年累て後、壮士還り来て、覆命し了へて、乃ち詣き相視るに、娘子の姿容、疲羸甚異て、言語哽咽びき。時に壮士、哀嘆流涙みて、裁歌口号せる、其の歌一首
3804 かくのみにありけるものを猪名川の奥を深めて吾が思へりける
娘子臥しながら夫の君の歌を聞きて、枕より頭を挙げて声に和ふる歌一首
3805 ぬば玉の黒髪濡れて沫雪の降るにや来ますここだ恋ふれば
今按フニ、此ノ歌、其ノ夫使ハサレテ、既ニ累載ヲ経、還ル時ニ当テ、雪落ル冬ナリキ。斯ニ因テ娘子此ノ沫雪ノ句ヲ作メルカ。
娘子が夫に贈れる歌一首*
3806 事しあらば小泊瀬山の石城にも隠らば共にな思ひ我が背
右伝云けらく、時女子有りけり。父母に知らせずて壮士に竊ひ接ひたりき。壮士その親の呵嘖をかしこみて、稍猶予の意有り。此に因りて娘子斯の歌を裁作みて、其の夫に贈与れりといへり。
前の采女が詠める歌一首*
3807 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思はなくに
右の歌は伝云けらく、葛城王、陸奥の国に遣はさえし時、国司あへしらふこと緩怠なりければ、王の意に悦びず、怒色顕面まして、飲饌を設けしかども宴楽をもしたまはざりき。ここに前の采女風流娘子有りて、左の手に觴を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝に撃ちて、此の歌を詠みき。ここに王の意解脱みて、終日に楽飲びきといへり。
鄙しき人のよめる歌一首*
3808 住吉の小集楽に出でて正目にも*おの妻すらを鏡と見つも
右伝云けらく、昔鄙しき人あり
姓名未詳也
。時に郷里の男女、衆集ひて野の遊びせりき。是の会集の中に、鄙しき人夫婦有り。其の婦容姿端正きこと衆諸に秀れたり。すなはち彼の鄙人の意、妻を愛しむの情弥増さりて、斯の歌をよみて美貌を讃嘆めたりき。
娘子が恨みよみて献れる歌一首*
3809 商返し領らせとの御法あらばこそ吾が下衣返し賜らめ
右伝云けらく、時幸せらえし娘子有り
姓名未詳
。寵薄る後、寄物を還し賜りき
俗ニかたみト云フ
。ここに娘子、怨恨みて聊か斯の歌をよみて献上りき。
娘子が恨みてよめる歌一首*
3810 味飯を水に醸み成し吾が待ちし代はかつて無し直にしあらねば
右伝云けらく、昔娘子有り。其の夫に相別れ、年を経て恋ひわたりき。さる間に夫の君、更に他妻を娶て、正身は来ずて、徒に苞を贈せりき。此に因り娘子、此の恨みの歌を作みて、還し酬れりき。
娘子が*夫の君を恋ふる歌一首、また短歌
3811 さ丹づらふ 君が御言と 玉づさの 使も来ねば 思ひ病む 吾が身ひとつそ ちはやぶる 神にもな負ほせ 卜部座せ 亀もな焼きそ 恋しくに 痛き吾が身そ いちしろく 身に染みとほり むら肝の 心砕けて 死なむ命 にはかになりぬ 今更に 君か吾を呼ぶ たらちねの 母の御言か 百足らず 八十の衢に 夕占にも 卜にもそ問ふ 死ぬべき吾がゆゑ
反し歌
3812 卜部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも
或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、
3813 吾が命は惜しくもあらずさ丹づらふ君によりてそ長く欲りせし
右伝云けらく、時娘子有り姓ハ車持氏ナリ。其の夫年を逕て徃来はず。時に娘子、息の緒に恋ひつつ、痾疾に沈臥れりき。日に異に痩羸れて、忽ち臨泉路りなむとす。ここに使を遣はして、其の夫の君を喚ぶ。来て乃ち歔欷きつつ斯の歌を口号みて、登時逝没りき。
壮士が娘子の父母に贈れる歌一首*
3814 真珠は緒絶しにきと聞きしゆゑにその緒また貫き吾が玉にせむ
答ふる歌一首
3815 真珠の緒絶はまこと然れどもその緒また貫き人持ち去にけり
右伝云けらく、時娘子有り。夫の君に棄てらえて他氏に改め適きき。時に壮士有りて、改め適くを知らずて、此の歌を贈遣りて、女の父母に請誂ひき。ここに父母の意ひけらく、壮士委曲なる旨を聞らじとおもひて乃ち彼の歌に報送へがてり、改め適きし縁を顕はせりきといへり。
穂積親王の誦はせる歌一首*
3816 家にありし櫃に鍵さし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて
右の歌一首は、穂積親王の宴したまふ時、いつも斯の歌を誦ひて恒賞と為たまへり。
河村王の誦ひたまへる歌二首*
3817 柄臼は田廬のもとに我が背子はにふぶに笑みて立ちませり見ゆ
田廬ハたぶせノ反
3818 朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも
右の歌二首は、河村王の宴せる時、琴弾きて、即ち先づ此の歌を誦みて、常行と為たまひき。
小鯛王の吟ひたまへる歌二首*
3819 夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ
3820 夕づく日さすや川辺に作る屋の形をよろしみうべそ寄り来る
右の歌二首は、小鯛王の宴の日、琴を取る登時必先此の歌を吟詠ひたまひき。小鯛王ハ、更ノ名ハ置始多久美トイフ、斯ノ人ナリ。
兒部女王の嗤けりの歌一首
3821 うましものいづく飽かじを尺度らし角のふくれにしぐひ合ひにけむ
右、時娘子有りき
姓ハ尺度氏ナリ。此の娘子、高姓美人の誂ふを聴かず、下姓醜士の誂ふを許きき。ここに兒部女王、此の歌を裁作みて、彼の愚きを嗤咲けりたまふ。
古歌に曰く
3822 橘の寺の長屋に吾が率寝し童女放髪は髪上げつらむか
右ノ歌、椎野連長年ガ説ニ曰ク、夫レ寺家ノ屋ハ、俗人ノ寝処ニアラズ。亦若冠ノ女ヲ称ヒテ放髪丱ト曰ヘリ。然レバ腰ノ句已ニ放髪丱ト云ヘレバ、尾ノ句重ネテ著冠ノ辞ヲ云フベカラザルカトイヘリ。改メテ曰ク、
3823 橘の照れる長屋に吾が率ねし童女放髪に髪上げつらむか
長忌寸意吉麻呂が歌八首
3824 さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ
右の一首は、伝云けらく、ある時衆集ひて宴飲す。時に夜ふけて狐の声聞こゆ。すなはち衆諸奥麿を誘ひけらく、此の饌具雑器、狐の声、河橋等の物に関けて、歌よめといへり。即ち声に応へて此の歌を作めり。
3825 食薦敷き青菜煮持ち来梁に行騰懸けて休むこの君
右の一首は、行騰、蔓菁、食薦、屋の梁を詠める歌。*
3826 蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし
右の一首は、荷葉を詠める歌。
3827 一二の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六のさえ
右の一首は、双六の頭子を詠める歌。
3828 香焚ける*塔にな寄りそ川隈の屎鮒食める甚き女奴
右の一首は、香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠める歌。
3829 醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ我にな見せそ水葱の羹
右の一首は、酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠める歌。
3830 玉掃刈り来鎌麻呂室の木と棗が本を掻き掃かむため
右の一首は、玉、掃、鎌、天木香、棗を詠める歌。
3831 池神の力士舞かも白鷺の桙啄ひ持ちて飛び渡るらむ
右の一首は、白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠める歌。
忌部首が数種の物を詠める歌一首*
3832 からたちと棘原刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自
境部王の数種の物を詠みたまへる歌一首 穂積親王ノ子ナリ
3833 虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣大刀もが
作主しらざる歌一首
3834 梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く
新田部親王に献れる歌一首
3835 勝間田の池は吾知る蓮無ししか言ふ君が鬚なき如し
右或る人つたへけらく、新田部親王、堵に出遊して、勝間田の池を見して、御心の中に感でたまひ、彼の池より還りまして、忍ひかねて、婦人に語りたまはく、今日ゆきて、勝間田池を見しに、水みちたたへて、蓮花灼りかがやけり。その怜さかぎりなし。ここに婦人、此の戯歌を作みて、すなはち吟詠ひきといへり。
侫人を謗れる歌一首
3836 奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の徒
右の歌一首は、博士消奈公行文の大夫がよめる。
荷葉を詠める歌一首*
3837 久かたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む
右の歌一首は、伝云けらく、右の兵衛有り姓名未詳。
歌作みすることに能へたり。時に府の家酒食を備設け、府官人等を饗宴す。ここに饌食を盛るに、皆荷葉を用ふ。諸人酒酣にして、歌ひ舞ひ、駱駅*兵衛を誘ひて、其の荷葉に関けて、歌を作めといへり。すなはち声に応へて斯の歌を作めり。
心の著く所無き歌二首
3838 我妹子が額に生ひたる双六の事負の牛の倉の上の瘡
3839 我が背子が犢鼻褌にせるつぶれ石の吉野の山に氷魚そ下がれる
懸有ハ、反シテ云ク、さがれる
右の歌は、舎人親王、侍座に令ちたまはく、もし由る所無き歌を作む者有らば、銭帛を賜らむとのりたまへり。時に大舎人安倍朝臣子祖父、乃ち斯の歌を作みて献上る。登時募る所の銭二千文給へりき。
池田朝臣が大神朝臣奥守を嗤る歌一首*
3840 寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ
大神朝臣奥守が報へ嗤ける歌一首
3841 仏造る真朱足らずば水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ
或ヒト云ク、
平群朝臣が穂積朝臣を嗤咲ける歌一首
3842 小児ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積の朝臣が腋草を刈れ
穂積朝臣が和ふる歌一首
3843 いづくにそ真朱掘る丘薦畳平群の朝臣が鼻の上を掘れ
土師宿禰水通が、巨勢朝臣豊人が黒色を嗤咲ける歌一首
3844 ぬば玉の斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも
巨勢朝臣豊人が答ふる歌一首
3845 駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を
右の歌は、伝云けらく、大舎人土師宿禰水通といふひと有り。字をば志婢麻呂と曰へり。時に大舎人巨勢朝臣豊人、字をば正月麻呂と曰へり、巨勢斐太朝臣名字ハ忘レタリ。島村大夫ノ男ナリ。両人みな貌黒かりき。ここに土師宿禰水通、斯の歌を作みて嗤咲けりぬ。かくて巨勢朝臣豊人これを聞きて、即ち和への歌を作みて酬い咲けりきといへり。
戯れに僧を嗤ける歌一首
3846 法師らが鬚の剃り杭馬繋ぎいたくな引きそ法師半ら欠む
法師が報ふる歌一首
3847 壇越や然もな言ひそ里長らが課役徴らば汝も半ら欠む
夢の裡によめる歌一首
3848 新墾田の猪鹿田の稲を倉にこめてあなひねひねし吾が恋ふらくは
右の歌一首は、忌部首黒麿が、夢の裡に此の恋の歌を作みて友に贈り、覚めて誦習はしむるに前の如しといふ。
世間の常無きを厭ふ歌三首*
3849 生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも
3850 世の中の醜借廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも*
3852 鯨魚取り海や死にする山や死にする死ねこそ海は潮干て山は枯れすれ*
右の歌三首は、河原寺の仏堂の裡の倭琴の面に在り。
藐姑射の山の歌一首*
3851 心をし無何有の郷に置きてあらば藐姑射の山を見まく近けむ
右の歌一首は、作主未詳。*
痩人を嗤咲ける歌二首
3853 石麻呂に吾物申す夏痩によしといふものそ鰻取り食せ
反シテ云ク、めせ
3854 痩す痩すも生けらば在らむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
右、吉田連老といふひと有り。字をば石麻呂と曰へり。所謂仁教の子なり。其の老、為人身体甚く痩せたり。多く喫飲へども、形飢饉のごとし。此に因りて大伴宿禰家持、聊か斯の歌を作みて戯咲す。
高宮王の数種の物を詠める歌二首
3855 葛英爾*延ひおほとれる屎葛絶ゆることなく宮仕へせむ
3856 婆羅門の作れる小田を食む烏瞼腫れて幡桙に居り
夫の君を恋ふる歌一首
3857 飯食めど 美味くもあらず 歩けども 安くもあらず 茜さす 君が心し 忘れかねつも
右の歌一首は、伝云けらく、佐為王、近習婢有り。時に宿直遑なく、夫の君遇ひ難し。感情いたく結ぼれ、係恋実に深し。ここに宿に当たる夜、夢の裡に相見る。覚寤きて探抱れども手にも触れず。すなはち哽咽歔欷み、高く此の歌を吟詠ひき。因王聞かして、哀慟みたまひ、永へに侍宿することを免しき。
恋の歌二首*
3858 この頃の吾が恋力記し集め功に申さば五位の冠
3859 この頃の吾が恋力賜らずば京職に出でて訴へむ
右の歌二首は、作者未詳。
筑前国志賀の白水郎が歌十首
3860 おほきみの遣はさなくに情進に行きし荒雄ら沖に袖振る
3861 荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず
3862 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ
3863 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しからずや
3864 官こそ差しても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る
3865 荒雄らは妻子の業をば思はずろ年の八年を待てど来まさず
3866 沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良の崎守早く告げこそ
3867 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて榜ぎ来と聞こえ来ぬかも
3868 沖行くや赤ら小船に苞遣らばけだし人見て解き開け見むかも
3869 大船に小船引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
右、神亀の年中、太宰府、筑前国宗像郡の百姓、宗形部津麻呂を差して、對馬の粮を送る舶の柁師に充つ。時に津麻呂、滓屋郡志賀村の白水郎、荒雄が許に詣きて語りけらく、「僕小事あり。もし許さじか」。荒雄答へけらく、「僕郡異れども、船に同ること日久し。志兄弟より篤し。殉死ぬとも、なぞも辞まむ」。津麻呂が曰く、「府官僕を差して對馬の粮を送る舶の柁師に充つ。容歯衰老へ海つ路に堪へず。故来たりて祇候ふ。願はくは相替りてよ」。ここに荒雄、許諾ひて遂に彼の事に従ひ、肥前国松浦県美弥良久の埼より発舶して、直に對馬を射して海を渡る。すなはち天暗冥り、暴風雨に交じり、竟に順風無くして、海中に沈没みき。因斯妻子等、特慕ひかねて此の謌を裁作めり。或ひは、筑前国守山上憶良臣、妻子の傷みを悲感み、志を述べて此の歌を作めりといへり。
無名歌六首*
3870 紫の粉潟の海に潜く鳥玉潜き出ば吾が玉にせむ
右の歌一首。
3872 吾が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君そ来まさぬ
3873 吾が門に千鳥しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫人に知らゆな
右の歌二首。
3871 角島の瀬戸の若布は人の共荒かりしかど吾が共は和海藻
右の歌一首。
3874 射ゆ鹿を認ぐ川辺の和草の身の若かへにさ寝し子らはも
右の歌一首。
3875 琴酒を 押垂小野ゆ 出づる水 ぬるくは出でず 寒水の 心も潔に 思ほゆる 音の少なき 道に逢はぬかも 少なきよ 道に逢はさば 汝着せる 菅笠小笠 吾がうなげる 玉の七つ緒 取り替へも 申さむものを 少なきよ 道に逢はぬかも*
右の歌一首。
豊前国の白水郎が歌一首
3876 豊国の企救の池なる菱の末を摘むとや妹が御袖濡れけむ
豊後国の白水郎が歌一首
3877 紅に染めてし衣雨降りてにほひはすとも移ろはめやも
能登の国の歌三首
3878 梯立の 熊来のやらに 新羅斧 落し入れわし 懸けて懸けて な泣かしそね 浮き出づるやと 見むわし
右の歌一首は、伝云けらく、或る愚人、斧の海底に堕ちて、鉄沈きて浮かばざることを解らざりしかば、聊か此の歌をよみて喩せりき。
3879 梯立の 熊来酒屋に ま罵らる 奴わし さすひ立て 率て来なましを ま罵らる 奴わし
右一首。
3880 香島嶺の 机の島の 小螺を い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に ここと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母に奉りつや 女つ児の刀自 父に奉りつや み女つ児の刀自
越中国の歌四首
3881 大野道は繁道の森径繁くとも君し通はば道は広けむ
3882 澁谿の二上山に鷲ぞ子産といふ翳にも君が御為に鷲ぞ子産といふ
3883 伊夜彦おのれ神さび青雲の棚引く日すら小雨そほ降る
一ニ云ク、あなに神さび
3884 伊夜彦の神の麓に今日らもか鹿の伏せるらむ皮衣着て角つけながら
乞食者の詠二首
3885 愛子 汝兄の君 居り居りて 物にい行くと* 韓国の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来
その皮を 畳に刺し 八重畳 平群の山に 四月と 五月の間に 薬猟 仕ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟が本に 梓弓 八つ手挟み ひめ鏑 八つ手挟み 獣待つと 吾が居る時に さ牡鹿の 来立ち嘆かく たちまちに 吾は死ぬべし おほきみに 吾は仕へむ 吾が角は 御笠の栄やし 吾が耳は 御墨の坩 吾が目らは 真澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭 吾が毛らは 御筆の栄やし 吾が皮は 御箱の皮に 吾が肉は 御膾栄やし 吾が肝も 御膾栄やし 吾が屎は 御塩の栄やし 老いはてぬ 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申し賞やさね 申し賞やさね
右の歌一首は、鹿の為に痛を述べてよめり。
3886 押し照るや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 葦蟹を おほきみ召すと 何せむに
吾を召すらめや 明らけく 吾は知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと
我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置かねども* 置勿に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参り来て 命受くれば 馬にこそ 絆掛くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の 百楡を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の日に干し さひづるや 柄臼に舂き 庭に立つ 磑子に舂き* 押し照るや 難波の小江の 初垂を 辛く垂り来て 陶人の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗り給ひ もちはやすも もちはやすも
右の歌一首は、蟹の為に痛を述べてよめり。
怕しき物の歌三首
3887 天なるや神楽良の小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも
3888 沖つ国領らす君が染め屋形黄染めの屋形神が門渡る
3889 人魂のさ青なる君が唯独り逢へりし雨夜は久しく思ほゆ*
巻第十六 了
TOP
引用文献
○ManyoshuBest100 、
○万葉集[YouTube] 、
○萬葉集朗詠ライブ 、
○歴史ヒストリア 、
○万葉歌と明石 、、
○100分de名著 万葉集 其の1 、
○ 其の2
、、
万葉集読み上げ 巻1 ( 1 -27) 、
万葉集読み上げ 巻1 (28-49) 、
万葉集読み上げ 巻1 (50-84)
|